「献身する聖徒の祝福」
聖書箇所;テモテへの手紙第一3:8~13/メッセージ題目;「献身する聖徒の祝福」 今日は、コロナ下の教会総会の開催される日ということもあり、特別ヴァージョンのメッセージをいたします。長くいたしません! 本日の箇所、テモテへの手紙第一3章8節から13節は、それまでの7節の監督の条件、すなわち、教会を監督として治める立場にある人の条件に続いて、執事の条件を語っています。監督の条件については、去年くわしく学びました。ほんらい監督とは、教会を指導する教職者に当たるもので、私たちもみな、教会において仕えるリーダーシップを発揮する立場として、監督という立場を自分たちに当てはめて学んだわけでした。 しかし執事となりますと、これは明らかに、教会員として教会に仕える一般信徒の立場にある人です。しかし、つまり、このみことばは、そのような人はどうあるべきかaを説いているみことばであるわけです。 執事についてですが、基本的に、私たちバプテスト教会においては、役員クラスの信徒を執事という肩書を与えるケースが多くあります。当教会は執事という制度を今のところ敷いていませんが、バプテストの教会には執事を制度化している教会がわりとあるわけです。 ただ、私が長年身を置いた韓国の長老派の教会は、バプテスト教会とは執事に対する考えが少し異なっています。一般的に長老派の教会は、主任牧師と、選挙で選ばれた信徒代表役員の長老たちによる合議によって教会に関するほとんどのことが決められます。 このような長老教会の中で、特に韓国の長老教会にも「執事」という制度があります。これは、「長老」とは別個に存在する職制で、バプテスト教会における執事のような、教会役員クラスの重責を負う立場にはありません。だいたい、満30歳以上の既婚者、あるいは社会的立場のある信徒は、「執事」という肩書が与えられます。 もちろん、執事は、単なる名誉職のような肩書のように思ってはなりません。執事というからには、教会のお世話、信徒のお世話をしてしかるべきです。私がその例の韓国教会にいたとき、伝道師として日曜学校を担当していたのですが、その日曜学校の生徒の小学生の男の子に、執事って何ですか? という質問を受けたことがありました。 私は言いました。「教会や信徒のお世話をする人のことだよ。」すると彼は目を丸くして言いました。「えー! うちの父ちゃん、そうなの!?」 やれやれ、おうちではいったいどんなお父さんなんだろう、と思ったものでしたが、教会で見せる姿とおうちや職場で見せる姿に裏表があったら困ります。 この8節以下のみことばは、教会役員クラスの信徒に語っているとも言えますが、一方で韓国教会の成人の信徒のような、ある程度の年齢になった社会人の信徒はすべからく守るべきみことばとも言えるわけです。このみことばが「執事」を対象に語られていると考えると、教会に仕える人はどうかこのようであってください、と語っているわけですが、信徒はやはり、教会とほかの信徒に仕えてこその存在であり、そういう者として、普段の生活から備えることが求められています。 今日、ここにいらしている信徒の方々は、ほとんどの方が、ここが韓国の長老教会と仮定すると、「執事さん」と呼ばれるべき方々で、中には「長老さん」と呼ばれるべき方もいらっしゃいます。こちらのお姉さんも、いずれ大きくなったら「執事さん」と呼ばれるにふさわしい成長を遂げてほしいと切に願います。 さて、執事になるべき人はこうあっていただきたい、と、いろいろな条件が並んでいます。みな、ごもっとも、とお思いだと思うので、今日はくわしくひとつひとつを扱うことはいたしません。 ただ、ひとつだけ。執事にするにはまず審査をうけさせなさいと書かれています。どういう審査でしょうか? 教会役員としての狭い意味での執事の場合でしたら、たとえば教会総会などの場で、信徒の選挙というような形で審査を受け、ふさわしければ当選します。 しかし、私たちひとりひとりを執事と考えた場合、すなわち、韓国教会の制度のような広い意味での「執事」と解釈した場合、「審査」とは何でしょうか? あの教会学校の男の子が言ったことばのように、ちゃんと見ている人、間近で見ている人に何か言われたら、ひとたまりもないのが私たちではないでしょうか? そんな私たちにとっての「審査」とは何でしょうか? 聖書の知識を増し加えたとか、毎日聖書を読んでお祈りすることが習慣となったとか、そういうチェックをするのでしょうか? ちがいます。そういったことも、それはそれで大事なことには違いありませんが、それは広い意味での「執事」であるうえで、重要な「審査」の基準ではありません。 ほんとうに大事なのは、自分の歩みがつねに神と人の前に審査されているという緊張感をもって、キリストの似姿にふさわしい、愛の実、愛のわざを生活の中に結んでいるかどうかです。 韓国教会が成人信徒に「執事」という肩書をつけ、教会生活により一層の責任を持ってもらおうと導くことは、一種の知恵ではないかと思います。実際、若者だった信徒たちは「執事」と呼ばれることにより、それ相応の責任感が育てられています。いいことです。 ただ、それは韓国のような、一般的にも、名前プラス肩書という呼び方が敬称として用いられる国だから可能なことで、日本のような、肩書で呼ぶとよそよそしくなるような国だと、それは少し難しいと思います。どう呼んでもらえるかというよりも、自分はこの聖書箇所で語られている「執事」と呼ばれるにふさわしくあろう、という自覚が、つねに必要です。 責任の伴う生き方は、それなりにしんどいものではあります。しかし、このみことばは「執事」として生きる人に対し、豊かな祝福を説いています。13節です。 良い地歩を占める。この社会においても、キリスト者としてふさわしい証しを、良い行いを通して残し、その生活があらゆる点で祝福される、というわけです。ただし、その祝福は、世の中の人々が祝福と思っていることと、同じことも多いかもしれませんが、必ずしも百パーセント、同じとはかぎりません。特に、偶像礼拝やお酒の席、この世的な不正に対して、難しい判断を迫られて苦労する、ということも、主にお従いする生活を続けていくうちにどんどん起きてくるかもしれません。 それでも、私たちがぶれずに主にお従いする生き方をするならば、主は私たちに大きな祝福を与えてくださいます。その祝福は特に、イエスさまを信じる信仰について強い確信を持つという形で現れます。私たちはもちろん、信仰を増し加えていただきたいから、その祝福をいただきたいから、コロナをものともせずにこうして日曜日に教会に集まっているわけでしょう。私たちの信仰は増し加えていただけるのです。私たちは祝福されるのです。信じていただきたいのです。 本日は短い時間ですが、教会総会のひと時を持ちます。みなが教会と聖徒にお仕えする当事者として、今日このときにともに、一丸となって取り組みます。教会は牧師ですとか役員ですとか、一部の人だけがその責任を担うのではありません。全員が責任を持つものです。総会にしっかり取り組みましょう。 そして、おうちにお帰りになったら、今日の箇所を改めてお読みください。私たちはこのように生きる責任が与えられていること、そして、大いなる祝福が与えられていることを心に留め、この2021年度、ますます主と教会に献身するものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。