慰められる者も、叱られる者も、愛されている

聖書箇所;ヨハネの黙示録3:7~22/メッセージ題目;慰められる者も、叱られる者も、愛されている  3月11日が近づいてきました。そうです、あの東日本大震災から10年です。つい先日、またもや大きな地震が福島県と宮城県を襲い、その影響は私たちの町にまで及びました。私たちが今なお地震というものを意識し、コロナに備えて防疫を意識するのと同様、防災を意識する必要がある、気が抜けない、ということを思わされています。  現在私たちは、エペソの7つの地域にある教会から学んでいます。実はこの地域小アジアは、西暦17年に大地震に見舞われ、町が壊滅しました。そのことの持つ意味はのちほどあらためて語りますが、地震という現実の中、いやでも終末ということを意識させられていた彼ら小アジアのクリスチャンたちにとって、ヨハネの黙示録は終末のまことの希望を説くみことばとして、どれほど慰めを与えることばとなったことかと思います。  今日は7つの教会のうち最後の2つの教会を、まとめて扱います。読み比べると、きわめて対照的なおことばがかけられています。フィラデルフィア教会には慰めのことば、ラオディキア教会には叱責のことばです。 しかしそれなら、フィラデルフィアはみこころにかなって合格で、ラオディキア教会は失格なのでしょうか? そうと断言することはできません。大事なのは、どちらの教会にも愛なる神さまがお語りになり、あなたがたを愛している、と、親しく語りかけてくださっていることです。   愛しているということを伝える表現は、時と場合によって違います。ある人にはやさしいことばをかけつづける必要があるでしょうし、またある人には、厳しいことばをかけることで、その人を愛していることを示す必要があるでしょう。要は、どんな態度、どんな心で、その人に接しているかです。   神は愛です。だから、神さまが愛している存在、私たちクリスチャンに対しての神さまのお取り扱いは、いつ、どんなときにも、愛です。厳しくされているようでも愛です。冷たくされているようでも愛です。 神さまはこの2つの教会に、それぞれ、どのように愛を施してくださったのでしょうか? そして私たちはそこから、何を学ぶことができるでしょうか? 私たちがどうすることが、神さまのその愛にお応えすることでしょうか? ともに学んでまいりたいと思います。   まずは、フィラデルフィア教会にイエスさまがどのような愛をお示しになったか、見てみましょう。7節、8節をお読みします。   イエスさまはここで、ダビデの鍵を持っておられるとあります。そのダビデの鍵を持つお方が、イエスさまの名を否まなかったあなたの前に、だれにも閉じることのできない門を開いておいたとお語りになりました。   門とは、天国の門、新しいエルサレムの門です。フィラデルフィアもそうでしたし、この時代の都市は、周囲に壁がめぐらされている「城塞都市」でした。よそ者はおいそれと入れないようになっていました。入るには門を通らなければなりません。   フィラデルフィアは大きくて有力な都市でしたが、そのような町もさきほど申しました地震という自然災害の前には無力でした。たびたび起こる余震のたびに、人々は建物が崩壊する危険のある都市部を避けて、門から出て、治まって危険がないようならまた門から入るを繰り返しました。 そんなとき、門が閉まっていたら大変です。門が開いているかどうかは、まさしく、彼らの生活に直結した問題でした。そんな彼らにとって、門というものはとても近しいものでした。門と聞くと、天国、新しいエルサレムに入るためのまことの羊の門、イエスさまをすぐに連想したはずです。   天のエルサレムの門はしかし、そこにふさわしくない者には開かれません。ふさわしくない者が天国に入ったら、もうそこを天国と呼ぶことはできなくなります。そこでサタンは、人が天国にふさわしくない者になり、サタンと永遠の滅びをともにするように、あらゆる誘惑を仕掛け、自分の欲望にひかれて罪を犯し、もはや神の前に出ていかせないようにします。要するに、天国の門を閉じさせようとしたり、天国の門がどこにあるかわからないようにくらましたりするのです。  しかし、イエスさまは、その御名を否まないだけの信仰を、ご自身のみこころにかなう人に残してくださいます。フィラデルフィアの聖徒たちにもその信仰を残してくださったのでした。そういう人の前には、さあ入りなさい、あなたのすることは入ることだけです、と、天国の門を開いてくださいます。 この門はイエスさまが開いてくださった以上、人にも、サタンにも、閉じることはできません。入りなさい、とおっしゃっている以上、私たちは入るのみです。  ただ、イエスさまは、ご自身の名を否まなかったという行いそのものを評価して、人を御国に招いてくださるのでしょうか? たしかに、人前でイエスさまのことを知らないという人のことを、さばきの日にはイエスさまも知らないとおっしゃいました。そのおことばが私たちを従順に駆り立てるという要素も、たしかにあるだろうと思います。 しかし、ここでイエスさまがおっしゃっている「少しばかりの力」とは、ほんとうに文字どおり、「少しばかり」の力なのです。目に見えないほど小さな力です。さて、目に見えないほど小さい、といえば、何か思い出さないでしょうか? そうです、イエスさまがおっしゃった、からし種ほどの信仰です。 ほこりの粒のように小さいその種が蒔かれると、空の鳥が巣をかけるほどの木へと生長するように、イエスさまが大きくしてくださるものは信仰です。信仰とは、行いを生むものです。イエスさまを信じた、その信仰は最初小さくても、やがてその信仰は、いのちを懸けてイエスさまにお従いするほどにまで大きく、たくましくしていただけます。そういう信仰を持つ者として、イエスさまは天国に迎え入れてくださるのです。この信仰を大きく成長させてくださるのは、神さまです。 このみことばは、イエスさまの名を否ませる勢力が世に存在することを暗示しています。9節をご覧ください、にせユダヤ人、すなわち、サタンの会衆に属している者が、神の教会、キリストのからだなる教会を攻撃してくるというわけです。しかし、たとえからし種ほどのように小さく、また人には見えなくても、確実に信仰を与えられている者に、神さまは勝利を与えてくださいます。 にせユダヤ人とありますが、これは平たく言えば、「神さまを信じていると主張しても、神のひとり子キリストを信じない」人たちのことです。より正確に言えば、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、復活され、天に昇られ、のちにこの世をさばくために来られ、ご自身を信じる人たちを天国に入れてくださるお方であることを、信じない人たちです。 イエス・キリストを信じて初めて、人は神さまを信じたことになるのであって、神さまを信じているというだけでは、ほんとうの意味で信じていることにはなりません。このような世界は、イエスさまを憎み、イエスさまにつく私たちのことを憎みます。 しかしイエスさまは、9節にあるとおり、このような私たちのことを愛してくださいます。私たちはこの地上では人々から憎まれ、苦しめられますが、終わりの日にはイエスさまを信じる信仰のゆえに、永遠のいのち、天国という名の勝利を与えていただきます。 10節をご覧ください。全世界とはどこでしょうか? このみことばが語られた時代、地上に存在するどのキリスト教会においても、患難が存在していました。そういう意味では、全世界の教会は患難のもとにあったのでした。そうだとするとこのみことばははるか遠い未来のことを指していたわけではなく、まさにさらなる患難の中に投げ込まれようとしていたフィラデルフィア教会に語られたことばであることが分かります。 しかし、患難はこれで終わったわけではありません。それ以来2000年間、すべてのキリスト教会は患難の中にありました。キリスト教会の存在してきたこの世界が新しいエルサレムの中にあるのではなく、依然として罪の支配する世界、キリストに敵対する世界に生きている以上、患難は続いているのです。 それは、いわゆるキリスト教国と呼ばれた欧米にある教会とて例外ではありません。ほんとうの意味でキリストに従う人はいつも少数であり、そのような人や教会は苦しい思いをさせられてきました。いわんやこの日本においては、私たちクリスチャンはどれほど苦しみの中にあることでしょうか。 11節、「わたしはすぐに来る」。これが、2000年間語られてきたイエスさまのメッセージです。クリスチャンは、罪人の支配するこの世界で苦しむゆえに、イエスさまが来られて、私たちを天国に導き入れてくださることを待ち望むのです。そんな私たちにとって、イエスさまのこのみことばは慰めでありつづけています。 イエスさまはまだまだ来ない、もう来ない、などと思って、好き勝手なふるまいをするクリスチャンには、希望がありません。ただ、神さまではなく、人にどう見られるかを気にして、形ばかりの信仰生活を送っているだけです。 イエスさまは私たちを永遠の王として天国に迎え入れてくださるにあたり、王の冠を備えてくださいました。この、世の終わりの最高の栄光を見つめ、その日その日に主の栄光をあらわしつつ生きることなしには、私たちの人生に意味はありません。 サタンは神さまに嫉妬して、神さまに愛されている私たちに壮絶な誘惑を仕掛けます。私たちの罪がきよめられることを日々願い、悔い改めの生活を続けていないならば、私たちはいとも簡単に罪を犯し、救いにふさわしくない生き方に陥ってしまいます。 そうなると、私たちに用意された冠を見失ってしまいます。それが果たして、神の子どもとしてふさわしい生き方でしょうか? 地上の生涯とは、終わりの日にイエスさまから冠をいただき、イエスさまとともに永遠に統べ治める者とならせていただく備えをする時間です。忘れないでまいりたいものです。 そして私たちは、終わりの日に勝利を得て、神殿の柱とされるとあります。私たちは、いやだ、なりたくない、と思いますか? しかし、そうではありません。この地上で私たちの知っている、神殿と呼ばれる壮麗な建物が、むしろ、天国で永遠の礼拝をささげる私たちにかたどって造られているのです。 地上の神殿はどこまでも人間の手による建物であり、また、壊れます。しかし、天の神殿は、永遠に神さまのみそばで神さまを礼拝する私たちの麗しい姿です。私たちは永遠に神さまのみそばを離れません。何と感謝なことでしょうか! このように、神さまはフィラデルフィア教会の兄弟姉妹を愛されるゆえ、この天国のビジョンを示してくださり、この上もなく慰めてくださっています。 さて、それでは、ラオディキア教会のほうにまいります。ラオディキアは豊かな都市でした。純金が取引される金融の町、衣類の生産される町、また、目薬の生産で名高い町でした。これらの町の特徴が、イエスさまの語られた警告のみことばと深い関連がありますが、それはのちほど見てまいります。 西暦17年の地震のことをさきほど申しましたが、ラオディキアはその大震災で町が壊滅した後、ローマ政府による援助を拒否し、自力で再建しました。それほど経済的に豊かであり、都市として活力がありました。また、大都市としてのプライドがあったわけです。 そういうことを前提に17節のみことばを読んでみると、「あなたがたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っている」というイエスさまの見立ては、むべなるかな、といったところですが、イエスさまはそれにつづき、「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」と、きわめて辛辣な評価を下していらっしゃいます。 どういう点で彼らは叱責される教会だったのでしょうか? 15節、16節です。……ラオディキアは水資源が不足していて、北に9キロ離れたヒエラポリスとコロサイから水道を引いていたといいます。 ヒエラポリスは温泉で名高く、熱いお湯を引き、冷たい水で定評のあったコロサイからは飲み水を引きました。しかし、それだけの距離を流すと、お湯は冷め、水はぬるくなります。硬度の高い硬水はミネラル分が多すぎて、おいしくありません。 教会の応接室には、本田弘慈先生が揮毫された「霊に燃え、主に仕えよ」の色紙が額に入れて飾ってあります。牧師を引き継ぐにあたって宇佐神先生にプレゼントしていただいたものですが、いかにも、戦後の日本のキリスト教会で大いに用いられた本田先生らしいおことばで、これはローマ人への手紙12章11節のみことばです。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」熱く燃えることは素晴らしいことであり、必要なことです。 しかし、冷たいことも必要です。「人の気持ちがわからないなんて、冷たいヤツ」という意味ではありません。箴言25章13節には「忠実な使者は、これを遣わす者にとって、刈り入れ時の冷たい雪のよう」とありますし、同じく25節には「遠い国からの良い消息は、疲れたたましいへの冷たい水」とあります。 イエスさまは、ご自分の弟子だからと一杯の水を飲ませる者は報いから漏れない、ということをおっしゃいましたが、まさにのどがからからに渇いたときの冷たい水です。その水を差し出すことは、キリストの弟子を愛することを実践することであり、それがすなわちキリストを愛することです。こうして見ると、熱いことは神さまに対して、冷たいことは人に対して、それぞれ愛を実践することの象徴と言えそうです。 ラオディキア教会は、神さまに対して熱心でもなく、人に対して親切でもなかったようです。そういうものはぬるくてご自身のからだの中に取り込めたものではない、吐き出すぞ、というわけです。イエスさまが吐き出す、ということは、キリストのからだの中から吐き出す、ということであり、それはつまり、キリストのからだなる教会の中から吐き出すぞ、という警告です。 あなたがたはみじめだ、哀れだ、貧しい、盲目だ、裸だ……、それなのにうぬぼれているとは何事か……。しかし、イエスさまは、そんな彼らのみっともない状況を目の当たりにされたからと、彼らをそのみっともなさにしたがっておさばきになることはしませんでした。 18節です。ここで、ラオディキアを特徴づける3つのものが登場します。神さまがほんとうに願っていらっしゃることを、反面教師的な皮肉を込めて語られたわけです。 火で精錬された金。精錬といえば何でしょうか? 箴言30章5節を見ると、「神のことばは、すべて精錬されている」とあります。そうです。ラオディキアの金融社会は純度の高い金に価値を見いだしていましたが、ラオディキアの教会は、金よりも貴いみことばを、混じり気のない乳のようにしっかり摂って成長する必要があったのでした。そうすれば、貧しくなくなります。 白い衣。これはこれまでも出てまいりました。天の御国に入るにふさわしい人が着せていただくものです。裸とは、アダムとエバ以来、恥として刈り取ることになった人間の罪の結果であり、これをほんとうの意味で覆うには、神さまに覆っていただかなくてはなりません。 目薬。盲目ではなくなるためです。イエスさまは盲人の目に泥を塗り、それを「遣わされた者」を意味するシロアムの池で洗うことで目が見えるようになる、というみわざを行われました。御父によってこの地に遣わされたイエスさまが、そして御父とイエスさまに遣わされた聖霊なる神さまが、私たちの閉ざされた目を開き、見えるようにしてくださるのです。そのためにはまず、自分は見えていないことを認める必要があります。…