「十字架を巡る反面教師」
聖書箇所;ヨハネの福音書18:28~40/メッセージ題目;「十字架を巡る反面教師」 東京の永田町には、国立国会図書館という施設があります。日本で唯一の国立図書館で、国会と名乗りますが、一般人も未成年でなければ利用できます。私も何度となく利用してきました。これまで日本で出版されて一般に出回った本ならたいてい閲覧できて、とても便利です。難しい本から、マンガも雑誌もなんでも読めます。コロナが収まったら、何かの機会にぜひ行ってみられることをお勧めします。 その貸出・返却カウンターの上のコンクリートの壁に、聖書のみことばがギリシャ語で刻まれているのをご存じでしょうか? その左側には日本語も書いてあります。「真理がわれらを自由にする」、はい、そうです、イエスさまがおっしゃったみことばで、ヨハネの福音書8章32節、「真理はあなたがたを自由にします」、このみことばの一節です。 この「真理がわれらを自由にする」ということばは、1948年に起案された国立国会図書館法という法律の前文に明記されています。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として、ここに設立される。」このように書かれたのは、当時の参議院図書館運営委員長であった歴史家の羽仁五郎が、留学先のドイツのフライブルク大学図書館で目にしたこの銘文を盛り込んだからだそうです。 イエスさまはおっしゃいました。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。人はイエスさまという真理によって自由を与えられるから意味があります。 図書館は知の結晶ともいうべき場所で、それはそれで素晴らしいにはちがいありませんが、本の数だけある真理など、果たして真理と呼ぶにふさわしいでしょうか。そのようなあいまいな真理が人を自由になどしてくれるでしょうか。だから「何が真理か」「だれが真理か」ということが、とても大事な問題になってくるわけです。 きょうの箇所でも、イエスさまを尋問するポンテオ・ピラトが、イエスさまに向かって「真理とは何なのか」という場面が出てきます。真理とは何かを問う。それは、意識ある人間ならだれでも取り組むべきことでしょう。だからこそ、ほんとうの真理に出会う必要があります。 本日のみことばにおいて、ポンテオ・ピラトの前で真実な告白をなさったイエスさまは、ご自身が宣べ伝えてこられた神の国について語りつつ、真理を明かされました。私たちはこのみことばから、何を学ぶことができるでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 この箇所には、真理なるイエスさまを巡って、三者三様の立場が登場します。イエスさまをローマの権威に引き渡した宗教指導者、それをあおってイエスさまを極刑に付そうとしたユダヤ人の群衆、そして、イエスさまをさばく立場にあったピラトです。それぞれの言動はイエスさまの御前に、その実態があぶり出されました。この三者三様の姿は、私たちにとって反面教師となります。以下、見てまいります。 まずは、宗教指導者たちです。彼ら宗教指導者たちは、イエスさまを死刑にする判決を、自分たちの最高議会、サンヘドリンで下しました。 彼らは、イエスさまを死刑にしようと躍起になっていました。彼らはこれまでも、イエスさまに石を投げつけて処刑しようとしてきましたが、果たせずにいました。しかし彼らはここで、もっと残忍な方法でイエスさまをなき者にしようと企み、ついにその企ては実行に移されたのでした。それが、十字架でした。 十字架という処刑の方法が、イスラエル、ユダヤという神の民の間で執り行われるとしたら、それはよほどのことでした。律法書を見ると人を木にかけて死刑にするという記述は申命記21章22節、23節に出てきて、木にかけられる者はのろわれた者であるとわざわざ語られていますが、実際にイスラエル、ユダヤの社会において、人を木にかけて処刑したという記録は、旧約の中にもいくつか見られます。 ヨシュア記を見てみますと、主がアイを聖絶せよと命じられたとき、イスラエルはアイの王を木にかけて処刑しました。聖絶の手段としての処刑です。 時代は下り、サウル王朝が終焉を迎えようとしていた頃のことですが、イシュ・ボシェテ王が殺されました。レカブとバアナによることです。レカブとバアナは手柄を認めよとダビデ王のもとにまいりましたが、主に油注がれた無実の人を殺すなど、よくもこんな大それた罪を犯したものだとダビデになじられ、木にかけて処刑されました。 さらに時代は下り、エステル記の時代となりましたが、ペルシャのスサにおいてユダヤ人は皆殺しにされようとしました。ところが事態は逆転し、この皆殺しをたくらんだハマンは、息子たちともども、木の柱にかけられて処刑されました。いずれも、木にかけられて殺されるとは、ただの処刑とはわけが異なり、よほどのケースです。 宗教指導者たちは、明らかにこの聖書的な背景をわかっていました。わかった上で、イエスさまをのろわれた者にしようという演出をしたわけです。彼らにとって幸いというべきか、ローマの残酷な処刑の方法である十字架刑は、ここユダヤでも実行されており、これまた彼らにとって具合のよいことに、この日の午前9時より実行されることになっていました。この十字架刑によってイエスも処刑してしまえ……のろわれた者としてしまえ……彼らのどす黒い野望が見えてくるようです。 しかし、このようなことをたくらむ彼ら宗教指導者たちは、この期に及んで宗教的であろうとしました。過越の時、宗教的なけがれを受けまいと、異邦人であるピラトの官邸に入らず、彼を外に出させました。何のことはない、宗教指導者たちは、自分たちにとってけがれていると見なす存在を実は有り難がり、彼らに手を下させてイエスさまを葬り去ろうとしたのでした。それも、のろわれた者に仕立て上げてです。どこまでも彼らは卑怯でした。 そんな彼らの宗教的な一貫性とは、いったい何でしょうか。神の前に誠実であることでしょうか? もしそうならば、彼らはイエスさまを信じたはずです。イエスさまを王としなかったことに、深い悔い改めを表明したはずです。しかし彼らのしたことは、高い地位の保障されているわが身を守ることでしかありませんでした。 みなさまにわかっていただきたいことですが、牧師のような献身者になると、自動的に神さまとの交わりを持つようになり、したがって普通の人よりも何倍もきよくなるわけではありません。むしろ神さまは、そのような者たちに対し何倍も重い責任を負わせられます。ヤコブの手紙3章1節に書かれているとおりです。 考えてみてください。イエスさまは宗教指導者たちを指して、人々に、「彼らの言うことは聞きなさい。しかし、彼らの行いをまねてはなりません」とおっしゃいました。いったい、言うことが正しくても行いが正しくない人など、果たして神の御前に正しい人と言えるでしょうか? イエスさまは、そのように「モーセの座を占め、天国の鍵を持っていながら」、人々を間違った方向に導く者たちのことを、それでも愛しておられました。 彼らが神の国に不必要ならば、イエスさまはたちどころに彼らをさばかれ、地獄に落とされたことでしょう。しかし彼らはイエスさまを前にして、いのちを長らえました。イエスさまを十字架につける大それたことをしても、なお生きていました。それは、生かされたということです。 しかし、このような立場にある人は、私のような教職者にかぎりません。イエスさまの愛をもって人々に関わっている人ならば、私たちだれしも、この宗教指導者たちと同じ立場にあると言えます。私たちはみな、さばきの前に立っています。 しかし、私たちがみなこのように、神さまのさばきの前に立っているということは、何を意味するのでしょうか。それは、神さまが私たちのことを嫌っておられ、いつでもさばきの前にさらしておられるということではありません。 わたしの愛する羊たちを、責任をもって飼いなさい、わたしはペテロを愛したように、あなたのことを愛しているよ、と、イエスさまに言っていただいているということです。私も愛されている者として、イエスさまの愛でみなさまを愛します。みなさまもその愛で、互いに愛し合う人となっていただきたいのです。宗教指導者たちのように、イエスさまなど関係ない、形だけの宗教人になっていただきたくないのです。それはとても不幸な生き方です。ともにイエスさまの愛の中にとどまれるように、私たちにとっての教会形成がふさわしい方向に行きつづけるように、お祈りいただければ感謝でございます。 二番目に、ユダヤの民衆を見てみましょう。彼らはつい何日も前ではなく、イエスさまを歓喜に満ちてエルサレムにお迎えした人々でした。彼らはイエスさまに何を期待したのでしょうか? イエスさまこそ、ローマの支配からわれら神の民を解放してくれる王さまだと期待して、イエスさまを迎えたのでした。しかし、イエスさまのなさったことといえば、エルサレム神殿に巣食う商売人たちを追い出したり、姿をくらましたり、人々の前に王として堂々と君臨する姿とは、かなり異なっていました。 その間に宗教指導者たちは、イエスさまは王ではない、大胆不敵にも自分を神とする不逞の輩だと、民を抱き込みました。民は宗教指導者たちに扇動され、ピラトの総督官邸に押し寄せました。イエスを十字架につけろと迫りました。 ユダヤの民衆は、もちろん、自分たちが創造主なる神さまの民であるという自覚を持っていました。そんな彼らはどれほど、自分たちに圧力を加えてくるローマを憎悪したことでしょうか。しかしここでは、イエスさまを葬り去るためなら、ローマの国家権力におもねることさえしたのでした。 そんな彼らは、イエスさまを決して許そうとしませんでした。暴動のかどで処刑されることになっていたバラバを釈放せよとさえ迫りました。 バラバのしたことは、それこそ十字架につけられるにふさわしい重罪です。それを釈放したら、自分たちの安全はどうなるというのでしょうか。自分たちの安全や社会の秩序と引き換えにしても、イエスさまのことを十字架につけようというのでしょうか。 怖ろしいのは群集心理です。イエスさまが自分たちにとっていちばん大事なお方、王さまだったのは、ついこのあいだのことだったというのに、同じ民が同じお方を極悪人に仕立て上げました。信仰を捨てるだけではありません。自分からイエスさまを積極的に十字架につける迫害者になるわけです。宗教指導者たちに扇動されたとか、自分たちの勝手な期待が裏切られたように感じたとか、理由はいろいろあるでしょうが、いかなる理由であれ、彼らがイエスさまを見捨て、裏切ったという事実に変わりはありません。 しかし、そんな彼らも、のちにはペテロの説教で悔い改めに導かれ、イエスさまを受け入れました。彼らのひどい罪は赦されたのでした。 かつて日本のキリスト教会は、国家権力による宗教政策に懐柔され、イエスさま以上に天皇を神として優先させる生き方をしました。信徒たちは、それが当たり前のことと教えられながら生きました。あたかもイエスさまの時代のユダヤ人が、イエスさまを十字架につけることこそ神に奉仕することだと思わされていたようにです。 日本の教会がその歴史を背負っていることを、私たちは今に至る同じ歴史を共有する者として、決して忘れてはなりません。私たちは日本に大いなる信仰の復興が起こることを願っていると思いますが、そのためには、自分もまた先祖たちと同じようにイエスさまを裏切り、十字架につけた罪人であるという自覚を持ち、悔い改める必要があります。 彼らのことを安全な場所から見下ろしてさばいてみても何も始まりません。私たちがすることは、彼らをさばくことではなく、彼らの罪を自分の罪として悔い改めることです。 私たち教会もいわば「集団」ですが、私たちひとりひとりの悔い改めが充分ではないならば、教会というその「集団」を支配する論理は、罪人の論理、すなわち、イエスさまを十字架につけるほどの罪の論理となってしまいます。少なくとも主のからだなる教会においては、そのようなことがあってはなりません。ともに自分たちの罪を認め、徹底した悔い改めを行いつづける私たちとなりますようにお祈りいたします。 第三の立場、それはピラトです。ピラトは、イエスさまを十字架につける権威も、釈放する権威もありました。ということは、ピラトは畏れ多くも、神の子をさばくということをしていたのでした。 ただしピラトは、神の民に属する者ではありませんでした。神の民に属さない者が、神の子をさばく構図です。言ってみれば、クリスチャンではない人がイエス・キリストというお方をうんぬんするのに似ています。 イエスさまは本来、このような立場の者にご自身をお委ねになる筋合いはないはずです。しかしイエスさまはこのようにして、この世の法廷に引き出され、ご自身を委ねられました。この世のさばき主としてイエスさまの前に立つピラトは、イエスさまに問います。「あなたはユダヤ人の王なのか。」これに対してイエスさまは問われます。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」 イエスさまが問われたこの問いはきわめて重要です。それはピラトにとっての「ユダヤ」が、単に自分がローマの権威によって治めている一地方か、それとも神の国かという、天と地ほどのちがいをもたらすからです。 私たちは新聞やニュース番組などで「イスラエル」ですとか「ユダヤ」などといった固有名詞を見聞きしますが、それそのものが聖書の語る「イスラエル」や「ユダヤ」を指しているわけではありません。つまりそれそのものが「神の国」を意味しているわけではありません。でも私たちは聖書を読むときに「イスラエル」ですとか「ユダヤ」という固有名詞が出てくるなら、それを「神の国」という意味に読み替えます。もちろん、すべてがすべて読み替えられるわけではなく、文脈にしたがって読み替えるわけです。 私たちはこのように、この固有名詞の持つ二重性を理解して用いていますが、一般的にはそうではありません。ピラトもユダヤの宗教共同体に属していない以上、この世の一般人です。イエスさまのご質問は、あなたはわたしのことを神の国の王と認めているのですか、それとも、あなたの治める地域の指導者たちが言うからあなたはそう言っているだけですか、と、ピラトの心の中を探るおことばでした。 しかしピラトは、私はユダヤ人なのか、そうではない、と答えます。ユダヤ人としてあなたのことが王かどうか知りたいわけではない、ということです。ピラトはユダヤの総督でしたが、ユダヤの、わけても信仰共同体とは、はっきり一線を引きました。 これにつづいてピラトは、あなたの同胞と祭司長たちがあなたを私に引き渡した、と答えました。あなたがほんとうにユダヤ人の王ならば同胞や宗教指導者たちがあなたを私に引き渡すなど、おかしいじゃないか、というわけです。 しかし、イエスさまは、わたしの国はこの世のものではありません、もしこの世のものであったならば、わたしのことをユダヤ人たちに引き渡さないようにわたしのしもべたちが戦ったはずだ、とお答えになりました。 イエスさまのこのおことばからは、2つのことが見えてきます。第一に、イエスさまはこの宗教国家としてのユダヤの王ではない、ということです。ユダヤ人たちや宗教指導者たちがイエスさまを自分に委ねるとはどういうことだ、と、ピラトが首をひねりましたが、イエスさまの国がイエスさまを迫害するユダヤと同じではないという前提に立てば、それで納得できます。 しかしそれ以上に大事なのは、イエスさまの国はこの世の国ではない、ということです。この世の国は安寧秩序を保つために、軍隊という暴力装置を備えるものです。しかし、平和の王であるイエスさまが治める神の国は、そのような暴力は存在させないことが大前提です。だからペテロが剣を取って兵士に襲いかかったとき、イエスさまがそれを戒められ、ペテロの暴力で兵士が負った傷をその場でいやされたのでした。 このお答えに、ピラトはもう一度尋ねます。「それでは、あなたは王なのか。」ピラトはどのような思いでそう訊ねたのでしょうか。興味本位ででしょうか。怖れに駆られてでしょうか。自分もこのお方を王と認めようという思いが生まれたからでしょうか。それとも、王を名乗るこのお方を傲然と見下ろす態度ででしょうか。それは、聖書が語っていない以上、わかりません。 わかっているのは、ピラトが「あなたは王なのか」と問うたことだけです。しかし、これに対し、イエスさまのお答えになったおことばははっきりしています。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 このおことばからわかることは、イエスさまは真理を証しする王さまであること、イエスさまを王としてお従いするとは、イエスさまのみことばに聴き従うことであり、その人が真理に属する人である、ということです。 ここで、イエスさまが弟子たちにおっしゃった、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです、というみことばが真実であることがはっきりしました。イエスさまはこのように、畏れ多くも神の子をさばく異邦人の総督ピラトに、真理に属せよといういのちの道をお示しになりました。 ピラトはそれに対してひとこと言いました。「真理とは何なのか。」これまた聖書は、ピラトがどのような感情を込めてこう言ったのかについて沈黙しています。イエスさまのおことばに心を刺され、動揺してそう言ったのでしょうか。あまりにも自分には理解を絶することをおっしゃるイエスさまに対して、そんなことわかるものかと、吐き捨てるように言ったのでしょうか。わかりません。 しかし、はっきりしていることがあります。ピラトはこのおことばを聞いてすぐ、イエスさまを死刑にしない、過越の祭りの恩赦で釈放してやろう、と心を決め、群衆の前に出ていったということです。 しかし、ピラトのこの決心は水泡に帰しました。群衆は、イエスを十字架につけるためならあの札付きのバラバを釈放してくれていい、とすら言い放ったのでした。ローマ総督という権威を帯びた人間、かつてはガリラヤ人を虐殺したような暴力的な政治家としての実績、そんなことも吹き飛んでしまうほど、いまピラトはとても弱い立場にいました。 ピラトは、真理とは何かを知るべきでした。真理とは何なのか、その問いを口から出したならば、まことの真理であるイエスさまに食い下がり、いのちを得るべきでした。真理とは何か。国立国会図書館のカウンターの文字を見た人は、その膨大な蔵書を秘めた図書館に来ている安心感から、いかにも真理がそこにあるかのように思うかもしれませんが、真理は十人十色の人間の中になどありません。…