聖書箇所;ヨハネの福音書20:1~18/メッセージ題目;「マグダラのマリアに学ぶ愛の行い」
聖書の記述の中には、並行して同じできごとを別々の角度から描いているものが時折出てまいりますが、その中でも最も頭を悩ますのは、「イエスさまの復活、からっぽの墓」の記事ではないかと思います。四つの福音書を読み比べてみると、あちこちが合わないように見えることに気づきます。
私は今回のメッセージの原稿を書くに先立って、あらためて、4つの福音書を読み合わせ、どう解釈するといちばん無理がないだろうかと考えぬきました。難しい作業でしたが、推理小説を読んで結論を導き出そうとする作業に似ていると考えると、やりがいも生まれてまいりました。しかし、結果はと言いますと……神さまは簡単には、この謎を解かせてくださいませんでした。
しかし、講談社現代新書から『聖書の名句・名言』という本を出していらっしゃる、千代崎秀雄先生という牧師先生は、このからっぽの墓の記述が一致しないことについて、こんなことを語っていらっしゃいます。もし証言がぴたりと一致していたら、そのほうが口裏を合わせたみたいで、かえって信頼できないではないか……一致していないからこそかえって信頼できるとも言える……それを思い出し、私は、千代崎先生にしてそうおっしゃるなら、安心していいのか、と思ったものでした。
それでも、ひとつだけ発見したことをお話ししたいと思います。それは……このからっぽのお墓を聖書が語るにあたって、どの福音書も、そこにマグダラのマリアという女性が訪ねて行った、ということをはっきり語っています。事件の鍵を握るヒロインならぬ、からっぽの墓の記述の鍵を握るヒロイン、それはマグダラのマリアです。
マグダラのマリアがイエスさまの復活の朝、日曜日の朝に、イエスさまのお墓に行ったということは、すべての福音書に書かれています。それほど、マグダラのマリアは聖書において、大事な存在だということです。
このヨハネの福音書に描かれたマグダラのマリアの姿からわかることは、彼女がイエスさまを求めて、ひたすら行動したということです。
ほかの福音書によれば、マリアは十二弟子とともにイエスさまについて行っていた人でした。そして、イエスさまが十字架にかけられ、死んでいかれたのをじっと見つめていました。それからも、アリマタヤのヨセフがご遺体を引き取ってお墓に運んだとき、マリアは、アリマタヤのヨセフについて行き、お墓にご遺体が納められたのをじっと見届けました。安息日が明けた日曜日の早朝、マリアは香料と香油を持ってお墓に来ました。
ほかの福音書を読めばわかりますが、マリアはひとりで来たわけではなく、ほかにもヤコブの母マリアやサロメのような女性たちもいっしょでしたが、ともかくマリアは来ました。このヨハネの福音書を読んでも、「私たちには」という言い方をしていて、マリアがひとりで行ったわけではないことがほのめかされています。しかし、ヨハネの福音書はあくまで、マグダラのマリアの名前だけを挙げています。それだけ、ヨハネの福音書は、マリアという人物にスポットが当てているわけです。
イエスさまが葬られた横穴式のお墓の入口には、巨大な石が転がしかけてあります。しかもその石には、ピラトの封印が施されています。勝手に開けるなら重罰を免れません。いえ、それ以前に、その墓の前には屈強な番兵たちが、だれも墓を開けることができないように番をしていました。イエスさまのご遺体に対面するなど、とんでもないことでした。
それでもマリアは、行かなくちゃ、何が何でも行かなくちゃ、と、明るくなるころを見計らってただちに行動に移しました。マリアは、あきらめなかったのでした。それはそれほど、イエスさまを愛していたからでした。ご遺体であっても、イエスさまと対面したくてたまらなかったのでした。マリアのこの態度は、ともにおられるイエスさま、インマヌエルの主を求める態度です。主がともにいてくださることに飢え渇く姿です。
果たして、お墓の石は転がしてあり、中はからっぽでした。マリアは、墓がからっぽであることを見て動揺し、弟子たちに知らせに行きました。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」しかしこの態度は、ヨハネの福音書を読むかぎり、マリアにはまだこの時点で、復活信仰がしっかり根づいていなかったことを明らかにしています。それでも、マリアは信仰が不完全ななりに行動しました。このことは賞賛されるべきことではないでしょうか?
正統の信仰告白は私たちにとって宝物より大事なもの、いのちにも等しいもので、聖書的な信仰告白をしていることは私たちを正統な教会に所属させる点でとても大事です。しかし、その信仰を持っていることに安心して、何も行動しないというのでいいのでしょうか?
私たちは、正統の信仰を持っているでしょう。常識的な判断も下せるでしょう。しかしそんな私たちは、復活に関するイエスさまのみことばも思い出さず、ひたすら行動したマリアがおっちょこちょいだとか、愚かだとか笑えるでしょうか? お墓に行っても無駄だから行くべきではない、とマリアが思ったならば、弟子たちに至るまで復活のイエスさまに出会う道は閉ざされたままでした。十字架から三日目によみがえられるという預言は、成就したかどうかわからなくなりさえしたかもしれません。
ともかく、マリアに充分な復活信仰がなかったことが、かえってペテロやヨハネといった弟子たちをお墓へと動員するきっかけをつくったわけです。しかし、むしろこう言うべきかもしれません。主がすべてを働かせて益としてくださるにあたり、マリアのこの愛の行動力を用いてくださった、と。マリアがほめられるべきなのは、からっぽのお墓という事実、すなわち、イエスさまの復活という事実を告げ知らせるのに主がお用いになるほどの、純粋にイエスさまを愛する思い、イエスさまを慕う思いがあったからです。
マリアは、イエスさまを愛していました。これほどまでにイエスさまを愛するのは、イエスさまに愛されたからです。鍵となるのはマルコの福音書とルカの福音書におけるマリアの紹介の記述、「イエスさまに七つの悪霊を追い出してもらった」という事実です。十二弟子と一緒にイエスさまにお従いしたのは、まさに、イエスさまに七つの悪霊を追い出していただいたことと深い関係があったことが、ルカの福音書の記述にほのめかされています。
「七つの悪霊」といえば、イエスさまはかつて、「七つの悪霊」という存在について語られたことがありました。けがれた霊が人から出ていったときに、その人の心が掃除してきちんと片づいていたようになっていると、自分より悪い七つの霊を引き連れて住みつき、その人の状態はさらに悪くなる……。このみことばから察するに、マグダラのマリアはただでさえ悪霊に取りつかれていたのが、さらに悪い悪霊どもが取りつき、もはや人間には手の施しようもないほど悪くなっていた、ということだったことが窺い知れます。
人間にたくさんの悪霊が取りつくとどうなるでしょうか。福音書には墓場に住む男の話が出てきますが、裸で、つないだ鎖を引きちぎるほどの怪力を発する凶暴さで、もはやその姿は人間ではありません。あるいは、泡を吹いて転げまわり、水の中だろうと火の中だろうとあたりかまわず飛び込みます。あるいは、倫理的にひどい状態になります。深酒に陥ったり、性的に底知れず乱れたりするのは、明らかに悪霊の影響です。
しかし、人は、そんな悪霊の支配を受けている自分は間違っている、そこから救われたい、という思いを、心のどこかで持っているものです。そんな人がイエスさまに出会い、いやしをいただいたならば、イエスさまを愛さずにはいられなくなるのではないでしょうか。
マグダラのマリアはイエスさまに出会って真人間になりました。もう、以前のような、それこそ悪魔に魅入られたような行動を人前で取ることはなくなりました。それでも人は相変わらず、彼女のことを札付き扱いしたかもしれません。暗い過去を引きずる人を、人は簡単には許さず、受け入れないでしょう。
しかしイエスさまはちがいました。マリアのことを愛してくださいました。人が忌み嫌うような、特に、ユダヤの宗教社会ではことさらに忌み嫌われるような、悪霊にたっぷり取りつかれてすっかりおかしくなったこの女に触れてくださり、悪霊を追い出して真人間にしてくださいました。
イエスさまはおっしゃいました。多く赦された者が多く愛するのだと。私たちはもちろんのこと、イエスさまを愛したい思いを持っていると思います。しかし多くの場合、私たちのイエスさまに向けた愛は貧弱です。それはなぜでしょうか。それは、イエスさまがかぎりなく愛してくださっているその愛を、私たちは充分に受け止めていないからです。つまり、その愛に感謝していないからです。
みなさまもご存じだと思いますが、「ありがとう」の反対のことばは「あたりまえ」です。私たちがこうして生きているのはあたりまえ。ご飯を食べて空気を吸って生きているのはあたりまえ。仕事をしてお金を稼ぎ、生活をするのはあたりまえ。
万事につけ「あたりまえ」と思うならば、どこに感謝する心が生まれるでしょうか。そんな人にとっての感謝なんて、所詮人前で自分をよく見せるためのポーズでしかありません。しかし、私たちがもし自分の罪を悟り、その罪ゆえに本来滅びなければならなかった者が、イエスさまの十字架を信じる信仰を与えられ、永遠のいのちを与えられたと知ったならば私たちにとっての「あたりまえ」は「ありがとう」に変わります。最大の「ありがとう」は、私を罪から救ってくださったイエスさまが、こんな罪深い私といつも一緒にいてくださることです。
私たちにとって悔い改めが必須なのは、自分自身がなんて罪深いのかと絶望に浸って自分をいじめる「マゾヒズム」のゆえではありません。その罪を完全に赦してくださったイエスさまと、さらに深い交わりを持ち、さらにイエスさまを愛するためです。もし、悔い改めがマゾヒズムのような自分いじめにとどまっているならば、イエスさまは見えているようで絶対に見えてきません。その罪をすべて赦してくださったイエスさまに完全に視点が移るとき、イエスさまを愛する思いが生まれ、それがイエスさまを愛するゆえの行いを生みます。
ヤコブの手紙を読んでみますと、自分には信仰があると口だけでいうことがどんなにむなしいか、行いで信仰を示しなさい、と語られています。これを表面的に読むならば、行いで認められようとするのはパウロが聖書で語ったメッセージである信仰義認と矛盾する、という結論になってしまいますが、その解釈は正しくありません。そうではなくて、イエスさまに愛されているからイエスさまを愛する行いをする、ただそれだけのことです。
信仰が深いということは、聖書の知識の量や教会生活の長さ、献金の額などで測られるものではありません。どれだけイエスさまに愛されているその愛を受けて、イエスさまを愛しているか、そこにかかっています。
イエスさまを愛するならば、イエスさまのご命令を守ります。そのご命令は、神を愛し、人を愛しなさいというご命令です。イエスさまがどれほど御父を愛しておられるか、そして、イエスさまはどれほど私たちを愛しておられるか、それを私たちは、日々みことばをお読みして、お祈りして、教えていただき、悟らせていただき、しみじみ感動させていただくのです。
そして、そんなマリアに、イエスさまは真っ先に出会ってくださいました。弟子たちにではなかったのです。弟子たちはイエスさまの墓の中に入っても、このみことばにあったように、マリアのことばを信じることまではしても、イエスさまの復活を理解しないままその場を去りました。マリアはそこを離れられず、さめざめと泣きました。イエスさまはそんなマリアに、泣かなくてよい、と現れてくださり、わたしの復活を告げ知らせなさい、と、新しい使命を与えてくださいました。
イエスさまに愛される分、私たちはイエスさまを愛します。そんな私たちに、イエスさまは復活のいのちをもって現れてくださり、私たちを生活の現場に遣わし、わたしの復活という福音を宣べ伝えなさいと、使命を与えてくださいます。この栄光に満ちた主の働きができるのも、私たちが日々、マリアのように、イエスさまに出会って涙をぬぐっていただくゆえです。
いくつか、思い巡らしましょう。私たちは愛が行動に結びつくほど、イエスさまを愛していますでしょうか? 十分な愛になっていないなら、何が問題でしょうか? 私たちはまた、イエスさまを見失って悲しんではいないでしょうか? イエスさまはそんな私たちに出会ってくださり、悲しみをぬぐい去ってくださると、信じてまいりましょう。8