聖書;ヨハネの福音書20:19~23/メッセージ題目;「主の復活が人を変える」
本日のメッセージを始めるにあたって、人であるならだれでも感じる、こわがる、という感情について、まずお話ししておきたいと思います。
みなさま、「こわい」ですとか「おそろしい」という感情には、大きく分けて2種類あることにお気づきでしょうか。この「こわい」「おそろしい」という感情を、漢字の熟語では「恐怖」といいますが、「恐怖」の「恐」と「怖」は、同じ「こわい」でも、実態は異なるものです。
たとえば、大むかしに存在した巨大な爬虫類を「恐竜」とはいいますが、「怖竜」とはいいません。そうです、「恐」というのは、相手の実態が見えて、それがこわいという意味の「こわい」です。目の前に恐竜が現れたら、その姿がおそろしいわけです。昔からよく言うこわいもの、「地震、雷、火事、親父」というのも、この「恐」のほうの「こわい」でしょう。
これに対する「怖」のほうは、実態がわからなくて「おそろしい」ことです。主に目上の人に接するときに使う「畏怖」ということばは、えらい人なので近づきがたくてどんな人だか見えてこないから「こわがる」というニュアンスでしょう。おばけがこわい、とかいうのも、この「怖」のほうでしょう。
うちの母はゴキブリのことを「こわい」と言います。「嫌い」というよりは「こわい」なのでしょう。ゴキブリがきらいな人がいらっしゃったら、こんなたとえを言うのは気が引けますが、ゴキブリが目の前に現れて「きゃあっ!」となったら、それは「恐」のほうです。これに対して、物陰からなにか「ガサッ」と音がした場合、「ゴキブリかも!」と震え上がるわけですが、こちらは実物が見えていない分、「怖」のほうです。
そういうわけで、こわい、という感情には、対象が見えて感じる「恐」と、対象が見えなくて感じる「怖」があるわけですが……今日の箇所に登場するイエスさまの弟子たちはというと、「恐」と「怖」を合わせた、「恐怖」にとりつかれていました。
今日の箇所は、そんな恐怖に取りつかれた弟子たちに、イエスさまが愛のお取り扱いの御手を伸ばされる、読んでいて実に恵まれるみことばです。そんなみことばにメッセージを付け加えるのも野暮というものかもしれませんが、お聴きいただければ感謝です。3つのポイントからお話しします。
第一に、復活のイエスさまに出会わなければ、私たちは恐れから抜け出せません。
みことばを読みますと、イエスさまの弟子たちはユダヤ人を恐れて鍵をかけ、戸を閉めていたとあります。
しかしその日には、何が起こっていたでしょうか。その日の朝、弟子たちのうち、ペテロとヨハネはからっぽのお墓に行っていました。それを見て彼らは、マグダラのマリアが言ったとおり、墓はからっぽだったということを知りました。
しかし彼らは、復活されたイエスさまにお会いすることができたわけではありませんでした。その後、ペテロとヨハネはイエスさまにお会いすることもないままに、帰っていきました。先週もお話ししましたとおり、彼らが行ってしまってもマグダラのマリアはお墓の前にいつづけ、そしてついにそんな彼女にイエスさまが出会ってくださったわけですが、彼女はイエスさまに遣わされて、弟子たちに、イエスさまはほんとうに復活されたと知らせに行きました。
それなのに、弟子たちはまだ恐れの中にいました。ほんらいならば彼らは、からっぽのお墓という状況証拠を見て、そして、マグダラのマリアの証言を聞いて、かつてイエスさまがおっしゃった復活の予言を思い出し、喜んでしかるべきでした。しかし彼らは喜ぶどころか、恐れに震えていました。
彼らは、なぜかお墓の石が取り除けてあり、中がからっぽだったという状況しか見えていませんでした。するとどういうことになるかというと、自分たちがイエスさまを盗んでいき、そのためにあらぬ疑惑をかけられ、お尋ね者になるかもしれないということを恐れるようになります。実際、ピラトの番兵たちがお墓を守っていたのは、万が一にもそういうことが起こり、ユダヤ人たちにパニックが起こることのないようにするためでした。
それが今や、イエスさまのみからだはないのです。弟子たちは、大胆不敵にも墓からイエスさまのみからだを盗んだなどという疑惑の目を向けられて、今度は自分たちのほうこそ逮捕されるかもしれないなどと、あらぬことを考えたわけです。イエスさまのみからだがないという事実を、マグダラのマリアの証言というものが示されていたというのに、イエスさまの復活に結びつけて喜ぶということをしなかったのです。
彼らがそうなってしまったのは、かつてイエスさまが語っておられた復活を予言するみことばを信じなかったことにあります。いえ、イエスさまから直接聞いていたときは、なるほど、くらいのことは思ったでしょうし、もしかすると、この方は死なれても復活するのか、と、感じ入ったかもしれません。
それなのに、弟子たちはこの大事なときに、ちゃんと信じていなかったのです。信じないで、恐れたのです。
多くのみことばを語り、多くのみわざを行われたイエスさま、死んだ人すらよみがえらされたイエスさまの御姿がはっきり示されたというのに、それをも上回るリアリティ、イエスさまの十字架の死を目撃した今となっては、もはや彼らには絶望しかありませんでした。
もちろん、イエスさまをしっかり信じる信仰に導かれている私たちなら、絶望する理由はないと思うでしょう。なんで信じられなかったのだろう、と思うでしょう。しかし、イスラエルの王として大歓迎されたはずのお方が、十字架につくほどの極悪人として呪い殺された、そのことは弟子たちにとっていやしがたいショックなできごとでした。
その心の傷をいやす手段があるとすれば、それは、復活を予言されたイエスさまのみことばを思い出し、心に留める以外に方法はありませんでした。それを弟子たちは思い出すことができなかったのでした。まさしく、不信仰です。
このメッセージを始めるにあたって、恐怖という感情について少し触れましたが、不信仰と恐怖は、密接な関係を持っています。不信仰は恐怖を生みます。逆に、恐怖は不信仰を生みます。
ヨハネの黙示録21章8節はすごいことを言っています。臆病な者は天国、天のエルサレムに入れないと断言します。いやー、なんて厳しいのか! と思いませんか? でも、聖書ははっきりそう語ります。
もっともこの場合は、「臆病」ということをどう定義するかにもよります。単なるこわがりがみんな天国に行けないとしたら、救われる人はとても少なくなるでしょう。この場合の「臆病」ということは何にもまして、人前でイエスさまが主であると認めないでむしろこの世を恐れる、ということでしょう。
このときの弟子たちはどうでしょうか? 不信仰のあまり恐怖に取りつかれ、イエスさまのことがすっかり見えなくなっていました。イエスさまを人前で認めるなど、とんでもないことでした。それもこれも、彼らが不信仰になっていたからでした。そういう意味では、天の御国に入る確信があるかどうか疑わしいレベルの「臆病」にすらなっていたかもしれません。
弟子たちにしてこうだったのだとするならば、いわんや私たちはどうだろうか、と思いませんでしょうか? いちど不信仰になったならば、その人は恐れに取りつかれるばかりで、天国に入れなくなってしまうのでしょうか?
いいえ、そうではありません。そこで第二のポイントです。第二のポイント、復活のイエスさまに出会って、私たちは平安と喜びに満たされます。
信じていただきたいのです。イエスさまは私たちをお見捨てになることはありません。復活のみからだをもって、私たちのところに現れてくださり、私たちとともにいてくださいます。
イエスさまは、手の釘の跡と、脇腹の槍の跡を弟子たちに示されました。弟子たちはこれを見て、ああ、幽霊じゃないんだ、幻じゃないんだ、とわかりました。そして、このお方は十字架に釘づけられて死なれたお方、わき腹から心臓目がけて槍で突き刺され、血と水がほとばしり出たことからも、まちがいなく死なれたお方だったのに、今こうして生きておられるとは!
もう、安心していいんだ! 俺たちもユダヤ人からどんな目にあわされようと、イエスさまがともにいらっしゃるからには、復活する! ああ、なんて気分が楽になるんだろう! うれしくてたまらない!
イエスさまが十字架に死なれてそれで終わりだったら、私たちには何の希望もありません。しかし、イエスさまは復活されたのでした。イエスさまが復活されたという事実は、それから2000年にわたって、この世界を劇的に変え、明るく照らしました。私たちもまた、絶望の中を歩むしかなかった人生から、大いなる光の中に入れられました。なぜならば、私たちも世々の聖徒とともに罪赦され、神の子どもとされ、たとえ死んでも復活するからです。
この講壇を飾る十字架をご覧ください。われわれ宗教改革の系譜に連なる教会は、ローマ・カトリックとちがって、イエスさまのかかった十字架を飾ることはしません。それは、イエスさまの姿はあくまで「像」であり、偶像崇拝にならないためということもありますが、この十字架にはもはやイエスさまはかかっていない、復活された、ということを語るためであると、むかし教会の礼拝で牧師先生から聞いたことがあります。
私たちにとって、十字架はもちろん大事です。私たちの罪を赦し、御父なる神さまの御前に進み出させる道は、イエスさまの十字架しかないからです。しかし、それと同じくらい大事なのは、イエスさまの復活です。
イエスさまは十字架で、私たちを含めすべての人の罪を背負われましたが、イエスさまは復活されたことにより、罪と死に勝利されました。私たちもイエスさまの十字架とともに復活を信じることで、罪と死に永遠に勝利するのです。
さて、弟子たちが恐れから解放され、喜びと平安を得られたのは、以上見てきたように、イエスさまが復活されたお姿で現れてくださったからでしたが、忘れてはならないのは、弟子たちがともに集まっていた、ということでした。
弟子たちはユダヤ人たちをこわがって、極度の恐れの中にいました。それでも、一緒にいたら危ないから彼らを見捨てて去っていこう、と決め込んだ十二弟子は、ひとりもいなかったのでした。むしろそうではなく、こわいから、肩を寄せ合って固まろう、そのような仲間意識、共同体意識が保たれていたのでした。
そのような仲間たちのただ中に復活のイエスさまが現れてくださったことに、私たちは注目すべきではないでしょうか? このことから何がわかるかと言いますと、復活のイエスさまは、兄弟姉妹の共同体のただ中に現れてくださるということ、つまり、教会というつどいの中に現れてくださる、ということです。
私たちは復活のイエスさまがともに歩んでおられると思えないなら、不安になります。恐れます。それはつまり、不信仰に陥っているということです。でも、この不信仰ゆえの恐れ、不安を治す薬があります。それは「教会に行く」ということです。
私たちが単独で復活のイエスさまと交わるということは、実はとても難しいことです。私たちは教会という共同体に連なることではじめて、交わりのただ中におられるイエスさまというお方を体験します。なぜならば、教会とはこの地上でただひとつの「キリストのからだ」だからで、キリストのからだの一部にならないで、どうしてキリストに連なっていると言えるでしょうか。
いま、コロナ下ということで私がとても心配していることは、信徒たちがばらばらになり、孤立してしまうことです。交わりを持たずに孤立してしまうと、復活のイエスさまに連なることもできなくなり、不安と怖れに陥らないか、そのことは不信仰を生まないか……。
もちろん、ご家庭や職場の事情で、人混みに出られないから、人の集まる場所である教会に行けない、という方のお立場はお察しします。それでもかまわず教会に来てください、などという乱暴なことは申しません。ただ、そういう方もこの教会というキリストのからだのひと枝として連なれるために何ができるか、お互いに考えた方がいいと思います。
私はときどき手紙などの形で、遠方の方やしばらく休んでおられる方に連絡を取っていますが、それは牧師にとって大事な働きであるという前提で申しますが、できればみなさまも、復活のイエスさまにとどまるために助け合っていただきたいのです。
お電話やお手紙、LINE、連絡の手段はいろいろあります。それは顔と顔を合わせた形にならないかもしれませんが、まったく何もしないよりよほど意味があります。ぜひ、交わりを保つために努力していただきたいのです。
とにかく、復活のイエスさまに出会って平安と喜びを自分のものにするためには、教会を離れてはいけません。教会という交わりにあずかることに、お互い真剣になってまいりたいものです。
第三のポイントです。復活のイエスさまは、私たちに聖霊をもってこの世界に遣わしてくださいます。
弟子たちはイエスさまを見て、恐れが吹き飛びました。そんな弟子たちのことをイエスさまは、よしよし、この世界は敵だらけだ、今すぐわたしがあなたを天国に入れてあげよう、と、天国に引き上げてくださったのでしょうか? いいえ、そうではありません。この世界に出ていきなさい、と促したのです。
私たちもそうです。私たちもこの地上を生きていると、何でこんなに苦しいのか、はやく天国に入れてほしい、と思えてならない瞬間があるのではないでしょうか? しかし、神さまは簡単にいのちを取り去られることはありません。もっとこの地上で生きていきなさい、きびしいですが、それが神さまのみこころです。
しかし、イエスさまは私たちをこの厳しい世界に放り出しておいて、知らん顔をされるお方ではありません。いわんや、私たちが神の栄光をあらわす生き方に失敗したからと、そのことで私たちのことをお責めになるお方ではありません。私たちを導き、私たちを教え、私たちを守ってくださるお方を、イエスさまは私たちとともに送り出してくださいました。そのお方こそ、聖霊なる神さまです。
聖霊なる神さまは目に見えるお方ではありません。耳に聞こえる声を発せられるお方ではありません。しかし、私たちはときに、聖霊なる神さまが語っておられるという感覚をおぼえるのではないでしょうか。言う必要のないことを言ってしまった。みこころにかなわないことをしようとしていないか。逆に、主のために何かしようとするときに、どこからか勇気と行動力が与えられた。
しかし何よりも、聖霊なる神さまは、私たちの祈りを導いてくださるお方です。それはつまり、三位一体なる神さまとの交わりを可能にしてくださるお方であるということです。子どもの讃美に、「小川のほとりでも 人混みの中でも 広い世界のどこにいても」というフレーズが登場しますが、この世に聖霊なる神さまのおられないところはなく、いつでも私たちのことを、お祈りへと促してくださいます。
そのお祈りがふさわしいものとなるように、聖霊なる神さまは私たちにとって神さまの御前に出られなくさせている要素、すなわち罪を具体的に示してくださり、悔い改めに導いてくださいます。そして聖霊さまは、悔い改める私たちの罪をきよめてくださり、主の器としてふさわしく整えてくださいます。
では、イエスさまはどんなことに遣わされるために、私たちに聖霊をくださるのでしょうか? それは、23節にあるとおりです。……これはいったいどういうことでしょうか? それは、罪の赦しを宣言するということです。簡単に言えば、伝道と宣教です。
弟子たちはこのようにして遣わされて、罪の赦しの福音を宣べ伝えました。ただし、だれかれかまわず無条件に人を赦しに導いたわけではありません。イエスさまを受け入れない人に対しては、足のちりを払い落としてその人のもとから去って行きました。これが、罪を赦さずに残す、ということです。救いにふさわしくない人は、イエスさまだけが与えてくださる罪の赦しを受け入れません。だから、主の働き人が福音を宣べ伝えてもだめならば、もうどうしようもないのです。
私たちが遣わされているのも、主の救いを宣べ伝えるという、まさにそのことのためです。私たちは主にお従いする生き方をもって、私たちの救い主を宣べ伝えるのです。行いが証しになっていない人の言うことなど、だれが聞くでしょうか。第一に私たちは、主にお従いする証しの生き方を日々目指す必要があります。
しかし私たちはどこかで、だれかに救い主イエスさまを伝える機会が与えられるように祈る必要があります。愛する家族に、職場の同僚に、お客さんに、友達に、近所の人に……。
そうは言いましても、イエスさまを救い主と受け入れるか否かは、相手次第です。いや、もっと正確に言えば、神さまのご主権次第です。何度も言っていることですが、伝道における成功とは何でしょうか? ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神にお委ねすることです。イエスさまを信じさせることが伝道の成功ではないことにご注意ください。私たちは、たましいの救いまで責任を負う必要はありません。
ただし、救われるための道を相手に示すことは、救われている者の責任として、少なくともしておく必要はあります。要は、伝えることです。
復活のイエスさまは私たちに、ご自身の十字架と復活を宣べ伝える生き方、神の栄光をあらわす生き方をさせるために、聖霊なる神さまを伴わせてくださっています。
私たちはもはや、恐れに引きこもることはありません。用いられる人生に大胆に踏み出させてくださるイエスさまの愛をいっぱいに受けて、聖霊さまとともにこの世界に大胆に出てまいりたいものです。
私たちは、復活のイエスさまを体験できる場所である教会に、いま集っています。恐ろしい世から集められ、復活のイエスさまによって力づけられ、怖ろしい世に打ち勝つ力を聖霊さまによって与えられている……イエスさまはそのように私たちを愛してくださっています。何と感謝なことでしょうか。今週もこの神さまの愛を受けて、主のご栄光をあらわす生き方に用いられる私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。