「不信仰から信仰へ」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:24~29/メッセージ題目;「不信仰から信仰へ」 うちの教会は長年、創造論という主義のもと、教会形成がなされてきました。私もそれに共感して、この教会に導かれてきたわけですが、創造のみわざを事実という前提で福音提示する創造論は、疑い深い部類の人に対しては、かなりのインパクトを及ぼすものだと思います。 しかしそれはあくまで、どこかで信じる心の準備ができている人の場合です。私は高校2年生のとき、創造論について書かれた本に夢中になり、修学旅行で、部屋で一緒になった友人たちに、その本から教えられたことを説いて聞かせたものaでした。すると、どうなったでしょうか。彼らに鼻で笑われました。「鰯の頭も信心だねえ」などと言ってのける友人までいました。そのとき私が悟ったことは、初めから疑いを捨てようとしない人には何を言っても無駄だ、ということです。 今日の箇所に登場するトマスの場合はどうでしょうか? ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』という小説の中で、このトマスの疑いを巡って、登場人物に、「トマスは信じたかったのだ」という意味のセリフを語らせ、トマスの疑いを語るこのみことばに対する深い含蓄を示していますが、それでも、トマスがイエスさまの復活を疑っていたという事実に変わりはありません。 しかしトマスは、それで終わりではありませんでした。イエスさまはそんな疑り深いトマスに顔と顔を合わせて会ってくださり、正しい信仰に導いてくださいました。私たちは、トマスを正しい信仰に導いてくださったイエスさまの愛とみこころから、何を学ぶことができるでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 第一に、復活のイエスさまに出会わないなら、人は疑いから抜けられません。 24節、25節をお読みしましょう。……トマスは何を言いたかったのでしょうか? あなたたちはイエスさまを見たと言っている、しかし私は、実際に触れてみるまでは信じない、と言っているわけです。 このトマスのことばからは、いろいろなことが見えてきます。まず見えてくるのは、トマスが信仰を働かせるよりも現実を優先させるタイプの人だった、ということです。よく、疑いを抱きたがる人をトマスになぞらえることが多いのも、まさにこのみことばが根拠になっています。 しかし、私たちならばどうでしょうか? 私たちは果たして、トマスのことを不信仰だなどと言えるでしょうか? 科学の発達は世の中を便利にした一方で、実証されないものは真実ではないと決めつけ、私たちの聖書信仰をきわめて空疎なものにしてしまいました。その風潮に多くのクリスチャンが毒されてしまっています。天地創造ばかりか、イエスさまのことさえもリアルにとらえられなくなっています。あの数々の奇蹟は事実ではないとか何とか。私たちがトマスを見るとき、それは私たちクリスチャン自身の姿を見ていることなのです。 また、先週学びましたとおり、復活のイエスさまは、教会という信徒の群れ、主の弟子の群れのただ中に現れてくださいます。トマスが復活のイエスさまに会えなかったのは、その弟子たちの群れの中に一緒にいなかったことも理由として挙げられます。 私たちが礼拝をおささげする日曜日のことを、主の日、主日(しゅじつ)とも申します。その日に礼拝をおささげするのは、なんといっても、イエスさまの復活された日であり、イエスさまのご復活を覚えるという意味があるからです。実に日曜日の礼拝は、復活のイエスさまに出会い、礼拝する日です。 トマスは、その最初の日曜日に復活のイエスさまに出会うことができませんでした。それもこれも、弟子たちの群れに一緒にとどまらなかったからです。私たちにとって日曜日の礼拝にしっかり出席することがなぜ大事かというと、そのことでともに復活のイエスさまにお会いし、イエスさまを礼拝できるからです。したがって日曜日に礼拝に集わないならば、イエスさまに出会う機会がそれだけ失われることになってしまうわけで、これは重大です。 とは言いましても、いま世の中はコロナ下で、礼拝堂のような同じ建物にともに集うことが物理的に無理な人のとても多い状況です。うちの教会の場合はメール配信という形で、ご家庭で礼拝できるように工夫しているわけですが、もし礼拝堂に来られなくてメールで礼拝、という形になった場合でも、忘れないでいただきたいことは、私たちは主の子どもどうし、たとえ場所は離れていても、ともに礼拝に集っている、ということです。日曜日にメールに向き合うことは、水戸第一聖書バプテスト教会の信徒たちとともに復活のイエスさまに出会っていることだと考えていただきたいのです。 ほかにも、トマスのことばからわかること……トマスはなんと言っているかというと、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れなければ……」と言っています。 言うまでもなくその釘の跡、槍の跡は、イエスさまが十字架にかかられたゆえにできたものです。ここからトマスは、イエスさまが十字架にかかって死なれたという事実に、非常に固執していることが見て取れます。 先生とも主ともお慕いしてきたイエスさまが十字架に手足が釘づけられ、脇腹に槍でとどめが刺されたなど、弟子たちとしては耐え難い事実でした。しかし彼ら弟子たちは、いつまでもイエスさまの十字架にこだわっていてはなりませんでした。なぜならば、イエスさまは復活されたからでした。 イエスさまの復活が心になかったならば、私たちはいつまでも、イエスさまの十字架の残酷さから目を離すことができません。イエスさまの十字架を心に留めることは大事なことにはちがいありません。イエスさまの十字架がなければ、私たちは罪を赦されることも、神さまの子どもになることもなかったからです。私たちを愛してくださるゆえに、イエスさまがどれほど十字架の上で傷つかれ、血潮を流されたか……それを心に留めるのは大事なことです。 しかし、それにとどまっているだけなら、私たちに何の希望があるでしょうか。イエスさまは復活されたのです。イエスさまが復活されたからこそ、イエスさまの十字架には意味があったとさえ言えます。私たちは十字架を信じるだけではありません、復活も信じ受け入れているゆえに、罪が死に、永遠のいのちに生かされているのです。 世の中は、イエスさまの十字架を知っています。十字架のアクセサリーをする人は多くいますが、十字架とはイエスさまがおかかりになったものだということは、みんな知っています。 しかし、イエスさまの復活となるとどうでしょうか? イエスさまが復活されたという最も大事なことを、単なる信仰上の問題と片づける記述に、私はしょっちゅう出会ってきました。『キリスト』なんていう子ども向きの伝記の本があるので気になって読んでみたら、十字架のことは書いていても、復活に関しては、弟子たちの間で復活の信仰が生まれたことがキリスト教のはじまりとなった、とか何とか、復活がまるで事実ではないように書いています。しかし、そんな信仰など意味があるのでしょうか? トマスは、疑り深い人であり、弟子たちの群れとともにいなかったために復活を目撃できなかった人であり、なおも十字架にこだわっていた人でした。そのいずれも、イエスさまの復活を見させなくする理由としては充分であり、その3つの要素がすべてそろったトマスは、もはやイエスさまの復活を信じるなど、とても不可能でした。 私たちもまた、不信仰に走らせるもの、復活を見させなくするものに生活が取り囲まれています。疑り深くあるようにというこの世の風潮に毒されること、復活をともに祝う教会の群れに距離を置いてしまうこと、聖書を読んでもイエスさまの十字架ばかりに目を向けて復活は二の次となってしまうこと……しかし、そもそも復活というものを目撃したことのない私たちは、いとも簡単にそのような不信仰に陥ってしまうものです。このような私たちを主が救ってくださるとしたら、それはどのようにしてでしょうか? 第二のポイントです。復活のイエスさまに出会えば、人は無条件に信じ受け入れます。 26節から28節をお読みしましょう。……イエスさまの復活を信じるということは、それこそ無条件になのです。 トマスは、鍵を閉めて閉じこもっていたはずのその家にイエスさまが現れてくださったという、その事実に圧倒されました。それだけではありません。イエスさまはトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」とお語りになりました。 イエスさまはなんと、あらかじめトマスと会ってお話しされたわけでもないのに、トマスがいちばんこだわっていたことに触れられ、言い当てられました。イエスさまにはすべてお見通しでした。そしてイエスさまはおっしゃいました。 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 なぜ、イエスさまの復活を信じない者ではなく、信じる者になりなさいとイエスさまはおっしゃったのでしょうか? それは、イエスさまの復活を信じない人は不幸だからです。喜びも楽しみも、うれしさもありません。そんな人になりたいとだれが思うでしょうか? しかしイエスさまは、ご自身についてくる弟子たちに、この世の何をもってしても奪い去ることのできない喜び、この世の何ものも与えることのできない喜びを与えてくださいます。どのようにしてでしょうか? ご自身の復活によってです。 復活を受け入れていないクリスチャンは、この世の中で最も哀れな存在です。この世で苦しむだけ苦しんで、イエスさまの復活にあずかることもわからないなんて、こんな不幸なことはありません。 あえてこの世の人たちが避けるような苦しい道をクリスチャンたちがあえて歩もうとするのは、その苦しみなど比較にならないほどの喜びを、イエスさまの復活にあずかることによって手に入れているからです。イエスさまの復活にあずかるならかぎりなく喜ぶだけではありません。この世において神の栄光を現すために、積極的に用いられていこう、一粒の種となろう、と、大いなる人生に踏み出す力が与えられます。 そうです。イエスさまに用いられるためには、イエスさまの復活を信じる信仰というものがどうしてもなくてはなりません。しかし、そのように用いられたいと願う原動力は、信仰を持っていることそのものという「事実」にあるというよりも、その信仰から出た「喜び」から来るものと言えます。 トマスはイエスさまを前にして、もはやイエスさまの傷跡に触れる必要を感じなくなっていました。十字架へのこだわりは、復活という事実の前に消し飛びました。気がつくとトマスは、「私の主、私の神よ」と告白していました。 さて、お気づきでしょうか。このときトマスは、単独でイエスさまに出会ったのではありませんでした。弟子たちの群れの中、交わりの中で、イエスさまに出会ったのでした。ここでも、イエスさまに出会うことは、神の子どもたちの群れ、弟子たちの群れ、教会の交わりの中で起こることだということがわかります。 私たちはときに、仕事ですとか病気ですとか、のっぴきならない事情で教会の礼拝を休むことがあります。そんなとき私たちは、心のどこかに責められるような思いをすることはないでしょうか? しかし、安心していただきたいのです。私たちはまた次の機会に、信徒の交わりの中に出ていって、復活のイエスさまに出会う体験をすることが許されています。それはまさに、復活の日にイエスさまにお会いできなかったトマスに、今度こそイエスさまにお会いできる機会を、イエスさまご自身がくださったようにです。 この箇所を読むと、イエスさまはまさに、トマスの不信仰を取り扱われるためということが最大の目的のようにして、弟子たちのただなかに現れてくださったように読み取れます。トマスのため。しかしこのトマスの信仰告白は、今なお怖れに震えて扉に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち全体を喜ばせ、励ますことにもなったのでした。 ひとりの人がふさわしい復活信仰に導かれ、生きた人となることをみんなで目撃する、このことは弟子たちの群れに、計り知れない喜びを与えたのではないでしょうか? イエスさまが弟子たちの群れのただなかでこの立ち帰りの御業を行われたのは、トマスひとりのためではありません。トマスを説得できかねて困っていた弟子たち、だんだんとイエスさまの復活の事実が薄らいでまたもや怖れにとりつかれかかっていた弟子たちのことも、同時に励ましてくださるためでした。 礼拝という時間は、自分ひとりだけが復活のイエスさまに出会って喜んでそれで終わり、の時間ではありません。ほかの兄弟姉妹が復活のイエスさまに出会って喜ぶその姿を見て、自分もまた喜ぶ時間です。そういうわけで日曜日の礼拝は、ひとりでささげてそれで終わりなのではありません。ともに復活にあずかり、ともに喜ぶ時間です。ともに喜んではじめて、私たちにとっての復活の喜びはわがものになります。 とにかく、イエスさまが復活されたという事実を前にして、人にはどんな理屈も必要なくなります。信じない人に対しては、ことばで説得しようとしてもむなしいです。その人が実際に復活のイエスさまに出会って、「私の主、私の神よ」と信仰告白できるように、祈る必要があります。教会の集まりとは、そのまことの復活信仰の告白へと人を導く場です。ぜひ、復活のイエスさまを知ってほしい人のことを、教会に連れてきていただきたいのです。 もちろん、コロナ下という現実を考えると、それはかなりハードルが高いことのように思えるでしょう。しかし、このような中でも、救いを求める人は起こされるものです。コロナ下という逆風のような状況の中でも救いを求めて教会に行こうという人が周りから起こされるように、祈ってみてはいかがでしょうか? お勧めします。 第三のポイントにまいります。復活のイエスさまに出会うことは、だれにでも門戸の開かれた幸いなことです。 イエスさまはおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人は幸いです。」 もし、イエスさまを実際に見なければ救われもせず、ましてや働き人の資格もないのだとするならば、イエスさまの十二弟子以外、だれがふさわしいというのでしょうか。しかし初代教会以降2000年にわたり、キリスト教会を形づくってきたのは、イエスさまに出会ったことのない人たちでした。みことばをお読みして、みことばに啓示されたイエスさまに出会ってイエスさまにお従いしたのであって、決して、イエスさまを肉眼で見たわけではありませんでした。 イエスさまはようやく信仰を持ち直したトマスに向かい「見ずに信じる人たちは幸いです」とおっしゃいました。このみことばがヨハネの福音書に記録された意味を考えましょう。ヨハネの福音書が教会で読まれるようになった時代、イエスさまはすでに昇天されて久しく、イエスさまのみことばや御業が正しく伝えられることが必要になっていました。 その中でイエスさまがおっしゃったみことば「見ずに信じる人たちは幸いです」というみことばを信徒たちが読む必要があったのはなぜでしょうか? それは、実際にイエスさまにあったことがないことで、ヨハネのような使徒たちに対して劣等感をいだくことがないようにという、主のご配慮があったからではないでしょうか? 考えてみましょう。私たち凡人は使徒というと、何やらすごい人のように思えるかもしれませんが、彼らは復活のイエスさまを肉眼で目撃することがなければ、イエスさまの復活を信じることなどできなかった人たちでした。しかし私たちは、肉眼で目にしなくてもイエスさまの復活を信じています。 復活が事実であると受け入れ、復活が生きる原動力となっています。まさに、見ずに信じる者は幸いなのです。そしてそれはどれほど幸いかと言えば、使徒を上回る幸いとすら言えます。使徒ですらできなかった「見ずに信じる」ことを、私たちはさせていただいているからです。 私たちをこのように復活信仰の中で選んでくださり、力づけてくださるイエスさまに、心から感謝しましょう。復活は、大いなる力を及ぼします。 このときイエスさまから大いなるお取り扱いを受けたトマスは、のちに遠くインドにまで宣教し、殉教したと伝えられます。 しかし、そのような素晴らしい働きをしたトマスにも、できなかったことがあります。それは、21世紀の日本の、茨城県の人たちに宣教することです。これは私たちにこそできることです。 イエスさまは私たちにこの貴い使命、やりがいに満ちた使命を与えるために、私たちをこの地に生まれさせ、育ててくださり、イエスさまの十字架のみならず復活を信じる信仰を与えてくださいました。使徒にさえできなかった働きを、私たちはイエスさまの十二使徒に始まる世々の聖徒の働きを受け継ぎつつ、今ここにともに展開しているのです。 私たちも本来は疑いに満ちた人でした。しかし復活のイエスさまは、そんな私たちに出会ってくださり、教会の交わりの中で、信仰の人、復活のイエスさまを証しする人へとつくり変えてくださいました。 私たちはイエスさまの復活の証人です。死ぬべきいのちから、絶望から救い出してくださった復活のイエスさまを、一人でも多くの人に宣べ伝えるのです。イエスさまは私たちのことを愛してくださっているので、その貴い使命を私たちにくださいました。今日もイエスさまの復活に感謝し、主に拠り頼みつつ、用いていただけるように身をささげてまいりましょう。