聖書箇所;ヨハネの黙示録4:1~11/メッセージ題目;「ここに上れ」
高校生の時参加した、松原湖バイブルキャンプの話です。キャンプでは三度三度のお食事の時間、特定の仲良しさんだけが固まらないように工夫して、その食事ごとにいろいろテーマを決めて高校生たちを席に着かせていました。「なになにが好きな人」はこちらのテーブルに! ですとか。
ある日のお昼ごはんだったと記憶していますが、「どこの国に行きたいですか?」という質問のとおりに、みんな席に着きました。アメリカですとか、フランスですとか。8人掛けぐらいのそれぞれのテーブルに、国の名前を書いた札が置いてあります。私は「ドイツ」にしました。特にドイツが好きだったからではありません。なんのことはない、ちょっと可愛いな、と思った女の子がそこにいたからでした。
で、私の座ったその席から隣のテーブルを見たら、国の名前が書いてある札が見えました。何と書いてあったか。「天国」。私は、しまった! と思いました。気が付くともうそのテーブルは、人でいっぱいでした。私は後ろめたいと思いと、さりとてその女の子に話しかける勇気も出なかったのとで、おいしいはずのごはんの味も忘れてしまいました。
天国、すべてのクリスチャンの憧れです。みなさん、天国に行きたいですか? でも、今すぐに行きたいですか? そう聞かれると躊躇してしまいますか?
でも、この世界には天国に心からあこがれている人たちがいます。私たちが礼拝で用いている「聖歌」には、むかしのアメリカでつくられた「黒人霊歌」が多数収録されていますが、ミシシッピ川をヨルダン川に見立てて生きてきた黒人クリスチャンたちにとって、天国はとても近しいものだったにちがいありません。共産圏やイスラム圏のようなたいへんな環境でイエスさまを信じている人たちにとっても、きっと天国は近いだろうと思います。私たちにとってもそのようでありたいものです。
私たちはその時代の黒人クリスチャンたちほどには苦しくないかもしれませんが、それでも天国に希望をいだくことで、この地上の歩みに力を得られることに変わりはないはずです。本日からヨハネの黙示録の学びを再開しますが、ヨハネの黙示録はおっかない書物ではなく、天にまします神さまに希望を置く私たちにとっては、天国の望みあふれた、慰めの書物です。ともに学び、日々の歩みに力を得てまいりたいと思います。それでは今日の本文、4章です。
4章は3つのパートに分かれます。まずは1節、そして2節と3節、最後に4節から11節です。
1節から見てみましょう。1節をまとめると、「ヨハネは、イエスさまによって天国に招かれた」となります。
ここまでヨハネは、小アジアの7つの教会に対してイエスさまが語られるみことばを聴いてきました。そのみことばは、迫害の中にある彼らに対する励ましであり、また、愛が冷えたり世と妥協したりする彼らに対する叱責でした。いずれも、地上の教会に対するみことばであり、彼ら教会は地上にある以上不完全であったり、迫害を受けたりします。私たちと同じです。
イエスさまはしかし、ヨハネの視点を、地上の教会から天上に導かれます。「ここに上れ。この後(のち)必ず起こることを、あなたに示そう。」地上は不完全ですが、天上は完全です。なぜならそこは、神さまとありのまま、顔と顔を合わせてまみえる場所だからです。イエスさまはそこに、「上れ」と導かれます。
天上には開いた門がありました。門が開いているのは、ヨハネが入ることを許されたからです。イエスさまが、ご自身の啓示を伝えるために、ヨハネをお選びになったからです。
しかし、この開いた門から入って、イエスさまがお告げになるみことばを聴くためには、「ここに上れ」というイエスさまのご命令にお従いし、実際に「上る」ことをする必要があります。どのようにしてそのご命令が守られるのかは次のポイントでお話ししますが、とにかく、イエスさまは「上れ」と命令されたのです。
天国というものは、「上れ」というイエスさまのご命令があって、そのご命令にお従いする心を持つことではじめて入ることを許される場所です。逆に言えば、イエスさまが「上れ」とおっしゃっているのに、お従いする気もなく、不完全なこの地上に執着しているならば、私たちはまだまだ、みこころよりもこの世の方を大事に思っている、ということになります。
とはいいましても、ヨハネはこのように「上れ」と言われはしたものの、これで完全に天国に入って、エノクのように、あるいはエリヤのように、この地上から取り去られ、二度と地上に現れなくなったわけではありません。この一連の黙示が終わったら、また地上の歩みに引き戻されました。
しかしヨハネの歩みは、もう以前のようではありませんでした。ヨハネは、主の教会がローマ帝国とユダヤの宗教社会から激しい迫害にあい、自身もパトモス島に島流しにあっていたという現実の中で、「上れ」というみことばどおりに主が天国のビジョン、反キリストが究極的なさばきにあうことを壮大な絵巻のように見せてくださって、新しい生きる力が与えられました。ヨハネはこの黙示が与えられたことにより、主の教会に天国のビジョンを示し、力づける人となり、新しい出発を果たしたのでした。
同じように私たちも、「ここに上れ」と言われるということは、単に死んで天国に行くということを指しているわけではありません。この地上に生きていても、「上れ」というイエスさまのご命令は、いつでも私たちに与えられています。
私たちも、不完全な地上の様相、そう、いまだったらコロナに右往左往させられている現実などその最たるものですが、そのような現実に傷つき、疲れ果てているかもしれません。礼拝に集えない聖徒の存在は、島流しにあった孤独なヨハネをほうふつとさせます。
しかしイエスさまは、私たちにおっしゃいます。「ここに上れ」。私たちはそのようにして、天国に招かれ、イエスさまのみことばをお聴きして、慰めをいただくのです。今私たちは礼拝堂で御前に集い、礼拝堂にいらっしゃれない方も、こうして文字をお読みになることを通して御前に集っていらっしゃいます。あるいはどこかで、音声でメッセージに耳を傾けて礼拝をささげていらっしゃるでしょうか。
それは、「ここに上れ」というみことばをいただき、開かれた天の御国の門の中へと招いていただいている、ということです。天国の招待状、それは「ここに上れ」というイエスさまのみことばであり、いまこうして、私たちがそのお招きにお応えしていますことを、心から感謝したいと思います。
そして、ヨハネがそうだったように、私たちも主の御前にてみことばをお聴きして慰めをいただき、この慰めのみことばを地上にて宣べ伝えるという、新しい使命を帯びて遣わされ、用いていただくのです。
その生き方は私たちにとって喜び、いえ、神さまにとって喜びであり、その喜びの生き方をすることは、私たちにとって最高の生きがいとなることです。お仕事をすることも、お勉強をすることも、みな、ヨハネのように、イエスさまだけが与えてくださる慰めを地上に宣べ伝えるために、主が用いてくださるものです。それゆえによりいっそう、日々の歩みに力を得て励んでまいりたいものです。
では、私たちはいかにして、「ここに上れ」というみことばにお従いするのでしょうか。そこで、つづいて2節と3節にまいります。まとめると、「ヨハネは、聖霊によって神の御座の前に引き出された」となります。
「ここに上れ」とイエスさまがおっしゃったとたん、たちまち、聖霊なる神さまがヨハネを捕らえ、天の御座の前、御座にましておられる神さまの前に引き出されました。ヨハネが見たのは、碧玉にも赤めのうのようにも見えるお方で、御座の前にはエメラルドのように見える虹がありました。みなさん、どう思いますか?
みなさんは宝石屋さんにお入りになったことがありますでしょうか? 私は子どもの頃、地元埼玉は与野の、時計屋さんを兼ねた貴金属店に入ったことがあるくらいで、宝石店というにはほど遠いものでしたが、それでもその中にディスプレイされたものはとても高価なものばかりで、子ども心にとても緊張したものでした。与野の時計屋さんでそうならば、東京の銀座や表参道の宝石店など、私の想像を絶する世界です。
でも……それらの宝石店の宝石だって、とてもとても小さなものしか置いていません。神さまはその壮大さにおいて、威厳において、美しさにおいて、スケールがちがいすぎます。巨大な宝石そのもののようなお方、その御前の巨大な宝石の虹……考えただけでくらくらしてきませんか?
このまことの富、まことの美なる方の前に、私たちは引き出されているのです。それは「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順になるように、聖霊なる神さまに促されての結果です。
私たちはイエスさまに「ここに上れ」とおっしゃっていただいても、御霊の力がなければそのご命令に従順になることができません。私たちの礼拝するお方は最高の美であり、最高の権威であることを、頭でわかってはいても、その御前に出ていこうという気持ちにならないのです。
しかし、ヨハネは明らかに、天国を渇望していました。ヨハネは「ここに上れ」というご命令に「はい!」とお答えする前に、たちまち御霊さまがヨハネを捕らえて、天上に連れていかれたのは、ヨハネが明らかに、「ここに上れ」と言われれば、時を移さず従順にお従いすることを聖霊さまはご存じだったからです。私たちに礼拝する心、天上に引き上げられて主とまみえたい心があるならば、聖霊なる神さまは「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順にならせてくださり、まことの威厳、まことの富、まことの美を見せてくださいます。
私たちがもし、この地上で貧しさを覚えていたとしても、富んでいる人に対して劣等感を持つ必要はありません。まことの富、まことの美であられる主の御前に出ていくことです。あるいは私たちが富んでいるならば、そのことを誇ってはなりません。主の御前においてその富は、ないも同然です。私たちの誇るべきは自分の富ではなく、豊かな富そのものであられる主ご自身です。
私たちは今こうして、「ここに上れ」というイエスさまのご命令に、聖霊なる神さまのお導きによって従順にお従いさせていただいています。私たちは今どこにいるのでしょうか? まことの美、まことの富なる神さまの御前です。私たちがこのお方のものであるということは、このお方が私たちのものでいらっしゃるということです。
ゆえに私たちは、この世の苦しい境遇、悲惨な境遇にばかり捕らわれていてはなりません。もちろん、現実というものを無視することはできません。私たちはこの世の中という現実の中に生きて、主のご栄光を顕すものですが、そのように現実を見る目は、イエスさまのご命令にお従いすべく聖霊さまに天上に引き上げられ、神さまにお目にかかることから始まります。
私たちにとってはこの目に見える世界もたしかに現実ですが、それ以上の現実は、このようにみことばに啓示されているとおりの、天にまします神さまのご存在とみこころ、そしてみわざです。
いまこのようにしておささげしている礼拝は、ヨハネと同じ、神さまの御前に導いていただいていることです。私たちはこのお導きにより、地上のあらゆる労苦から解放され、まことの富をすでに得ており、のちの日には本当にその富にあずからせていただくということを信じるのです。
さて、そのようにして御霊によって導かれた神さまの御前において人がすることは何でしょうか? 言うまでもなく礼拝です。最後に4節から11節をまとめます。まとめますと、「被造物は、最高のものをもって神を礼拝していた」となります。主の御座のところには、二組の群れがいました。第一は24人の長老、第二は4つの生き物です。
24人の長老にはいくつかの解釈がありますが、この「24」という数字、また、「長老」という立場にある者は、ひとまとまりの民に対してリーダーシップを発揮する者であることを考え合わせると、どうなるでしょうか?
24人の長老たちとは、イスラエルの12部族、そしてキリストの12使徒の象徴を合わせたものと言えるでしょう。してみますと、旧約の民と新約の民がともに御前にいることになります。創世記のはじめに記録されている世のはじめ以来、歴史を超えて、完成された旧新約聖書を持つ現代の私たちに至るまでの、世から選び出されて御前にいる主の民すべてということができます。
彼らは一様に、白い衣をまとっています。きよい衣です。完全にきよい天の御国に入るのにふさわしい衣を着ています。黙示録19章8節によれば、花嫁に象徴された教会は、輝くきよい亜麻布をまとうとありますが、その亜麻布とは聖徒の正しい行いです。人間の努力ではない、神さまから恵みによってその行いが正しいと認められた人が、きよい衣を着せられます。
正しい行い、すなわち、イエスさまを主と受け入れ、イエスさまの十字架と復活を信じること、その行いには何の努力もいりません。赤ちゃんが抱っこしてくれるお母さんの顔を一心に見つめることを「努力」と言わないのと同じことです。神さまをたまらなく愛するように導かれる聖徒が、神さまによってきよい衣を着せられるのです。
そして、金の冠。戴冠、ということばがありますが、冠とは王さまがかぶるものです。第一ペテロ2章9節の語るような、王である祭司、聖なる国民なるクリスチャンにふさわしい象徴です。
しかし10節をご覧ください、彼ら長老はその冠を「投げ出した」とあります。彼らは王ではありますが、神さまこそがまことの王であると告白し、神さまの前に王権を放棄しています。そしてひれ伏しています。礼拝とは、神さまの御前に自分のあらゆる権利、権威、宝を放棄し、投げ出すことです。
11節の彼らの告白をお聞きください。……長老たちは、御座にますこのお方が創造主であり、全能者であることを告白しています。このように礼拝をおささげするお相手がどのようなお方なのか、よくわかった上で礼拝をささげているわけです。
イエスさまはヨハネの福音書17章3節でおっしゃいました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」神さまがどんなお方であるかを知れば知るほど、人は神さまの偉大さ、自分の小ささを悟らされ、神さまをますます礼拝するしかなくなります。
しかしその真実な礼拝は人にとって、いのちそのものです。礼拝が深まれば深まるほど、人のいのちは豊かになります。私たちがみことばを学んで、人生における知恵を知る以前に、神さまご自身がどのようなお方かを知ることは、私たちのいのちを保ち、豊かにするということで意味があることなのです。
4つの生き物はどうでしょうか? 獅子、雄牛、人間の顔、空飛ぶ鷲……この4つの被造物のうち3つ、獅子、雄牛、鷲はそれぞれ、野の獣、家畜、空の鳥のうちで最強の存在です。獅子がその権威において動物最強なのは、言うまでもないでしょう。「百獣の王ライオン」というぐらいです。雄牛はほかの家畜、ヒツジやヤギや馬やロバと比べて、大地を耕す労働力という点で際立っています。力強さの象徴です。鷲は「空飛ぶ鷲」と但し書きがあるとおり、空の上から恐るべき視力で獲物を狙い、ガッと舞い降りてそのくちばしや爪で獲物をひとさらいします。これもまた強さ、鋭さの象徴です。
人間は、これらの動物に比べるとその手足はとても弱いです。しかし、人間には顔が位置する頭があります。頭を使って武器や農耕器具をつくり、これらの動物たちにも負けない力を備えます。顔はまた、人間が知恵を備えた神のかたちであることを象徴するものです。人の顔は、ほかのあらゆる被造物と異なり、その存在には知恵があること、いえ、神と交わりをすることが許された「霊」があることを示しています。
4つの獣が絶え間なく神を賛美したということは、その権威、力、知恵、行動力のすべてを用いて、神を礼拝した、ということです。しかし、この生き物たちにはそれぞれ、6つの翼があったことも注目すべきことです。これはイザヤ書6章2節に登場する御使い、主の御前に立つセラフィムを連想させます。セラフィムは2つの翼で顔を覆い、2つの翼で足を覆い、2つの翼で飛んでいました。つまり、その力をもって行動する前に、自分自身をあらわす顔を覆う謙遜さと、自分の行動をあらわす足を覆う謙遜さを、あわせて主の御前であらわしながら、御使いとして創造された存在にふさわしく、創造主の栄光を顕して、その翼で飛んでいたのでした。
すなわち、6つの翼は、御使いのごとくたえず主の御前で礼拝する者の持つべき態度を象徴しています。そして前も後ろも目で満ちていた、あまり実物をリアルに想像することは慎んだ方がいいと思いますが、これは、どんなときもたえず目を覚ましていた、ということです。絶えず謙遜に被造物としての分をわきまえて、しかし絶えず目を覚まして、力を尽くして、存在を尽くして、神さまを賛美し、礼拝するのです。
これこそ、私たちが御前にて持つべき態度です。では、具体的にどうすればいいのでしょうか?
私たちは今こうして礼拝をささげ、また、神さまをほめたたえる歌をおささげしています。これがまず、すべてをささげる礼拝を実践することです。私たちはこのように、一週間という神さまから与えられた恵みの中から最良の時間、日曜日の午前という時間を初物として、神さまにおささげします。このように礼拝をささげるべく、聖霊なる神さまが「ここに上れ」というみことばに従順にならせてくださっていることは、何にも増して素晴らしいことです。
しかし、礼拝はこの、日曜日の特定の時間にささげるものだけではありません。ローマ人への手紙12章1節をご覧ください。……私たちの普段の生活とは、生きてささげる礼拝、そのものです。私たちがお仕事をするのは、礼拝です。私たちがおうちの中で皿洗いをするのは、礼拝です。私たちが学校で勉強をしたり、おうちに帰って宿題をしたりするのは、礼拝です。いずれも、私たちが認められるためとか、人より抜きんでた存在になるためにすることではありません。私たちをイエスさまによって救ってくださった神さまが素晴らしいから、そのあふれる恵みを受けて取り組むのです。それが礼拝です。
このようにして御霊なる神さまは、いまこうして持っているような日曜日のこの時間を通して、また、普段の生活を通して、「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順にならせてくださり、どんな形にせよ神さまの御前にて最高の礼拝をささげさせてくださることで、いのちを得させ、いのちの中に保ってくださいます。
私たちのすることは難しいことではありません。「ここに上れ」というイエスさまのみことばに素直に、従順になることだけです。そうすれば聖霊なる神さまが私たちを、天上の礼拝へと上らせてくださいます。私たちはそこですべてをささげる最高の礼拝をおささげするのです。私たちの歩みが、つねに神さまを礼拝する、天の礼拝に連なる歩みとなりますように、その恵みに聖霊なる神さまがつねに私たちを導いてくださいますように、主の御名によってお祈りいたします。