「終末の騎馬」

聖書箇所;ヨハネの黙示録6:1~8/メッセージ題目;「終末の騎馬」  ギャンブルをしない私は大まかな印象で語ることしかできませんが、いわゆる公営ギャンブルの、競馬、競輪、競艇、オートレースのうち、競馬というものはほかの競技に比べ、かなり性質が異なっていて、それが人気の秘訣となっているように思えます。それは何よりも、自転車やモーターボートやオートバイが、乗り物、ありていに言ってしまえば「道具」なのに対して、競馬の馬は「生き物」ということが最大の理由でしょう。  そして何よりも競馬の魅力は、人と馬とが一体となって疾走する、そのかっこいい姿ではないでしょうか。あるクリスチャンの方が言っていましたが、私はクリスチャンだから賭け事はしないけれども、競馬場に行ってみて、馬を見てみたい。気持ちはわかります。そうです、馬の姿はなんと言いますか、人を惹きつけてやまない魅力があります。  本日のみことばは、馬が登場します。子羊なるイエスさまが秘められた巻物の7つの封印をひとつひとつ解いていかれるとき、馬に人がまたがる騎馬が登場していきます。ヨハネの黙示録6章においては、7つの封印のうち6つの封印が解かれていきますが、ここには終末の様相が展開していきます。 今日はそのうち4つの封印が解かれる様相について学びます。それはどのような展開であり、私たちはクリスチャンとして、その展開から何を学び、それゆえに何を決断すべきでしょうか。ともに学んでまいりたいと思います。  まずその前に、だいじなことを確認しておかなければなりません。私たちは「世の終わり」すなわち「終末」というものと、「世の終わる終わりの日」というものを、厳密に区別する必要がある、ということです。  私たちはとかく、今生きている世の中に起こるあらゆる事象を見て、そう、経済危機とか地震とか津波とか放射能とか、このところではコロナとか、そういうことが現実に起こっているこの世界の有様を見ると、世の終わりは近いと言いたくなるものではないでしょうか。 しかしはっきりさせておかなければならないことは、イエスさまが復活され、天に昇られて以来、再臨されるまで、世界はずっと終末である、ということです。現実にこのような危機が訪れているから終末、もちろんそれはそうなのですが、それ以上に、今私たちが生きるこの時代は、イエスさまが天に昇られて、その再臨を待ち望む終末である、と捉えるべきです。   私たちは「世の終わる終わりの日」が今すぐにでも迫っているかのように、あわてたり、うろたえたりせず、「今生きている終末」を見据え、落ち着いて、なすべきことを祈りつつなしていくようにしていく必要があります。  ヨハネの黙示録はもちろん、「世の終わる終わりの日」を語っていますが、そこに語られている事象と現実に起こっている事象が一致しているように見えるからと、そら世の終わりだ、世界は終わるなどとなってはなりません。 とは言いましても、ヨハネの黙示録が終末を語る書であることは確かなことであり、この書が開かれてから1900年あまり、世界はこの書の警告するような歩みを繰り返して、世の終わりにふさわしい状態にありました。キリスト教会も、絶えずその生きた時代が終末であることを意識してきました。  私たちはヨハネの黙示録を、未来に対する占いのような現実離れした書物と捉えてはなりません。むしろ、今現実に生きる私たちにとっての、きわめて現実的な指針として、しっかりそのみことばを受け止めていく必要があります。  以上の前提で、ヨハネの黙示録を引きつづき学んでまいりたいと思います。本日の箇所、ヨハネの黙示録6章です。1節から8節までのみことばにおいて、2節に1つずつ、合わせて4種類の騎馬が出てまいります。まず、1節と2節を見てみましょう。……子羊イエスさまが、第一の封印を解かれます。「来なさい」と言ったのは、4章と5章に登場する4つの生き物のひとつであり、その4つの生き物のひとつが、それぞれどの生き物なのかは明確に描かれていないにせよ、合わせて4回、「来なさい」と言い、そのたびに騎馬が登場します。 この四つの生き物は、獅子のような権威、雄牛のような活力、人間の顔の象徴する知恵、鷲のような行動力を投げ出して天上にてイエスさまに礼拝をささげる存在であることは、すでに学んだとおりです。この存在は、天上の礼拝の模範を人々に示す御使いです。  御使いが「来なさい」と言うたびに、騎馬が呼び出されます。まず現れたのは、白い馬であり、冠をかぶって弓を手に携えています。彼は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていきました。  この白馬にまたがった人は、いったいだれでしょうか? ヨハネの黙示録19章の、白馬にまたがった勝利の王なるイエスさまのイメージが頭にある人は、これはイエスさまだ、とおっしゃるかもしれません。 しかし、子羊なるイエスさまが封印を解いておられるときに、イエスさまが騎馬のように現れるというのもおかしなことです。それに、あとにはさらに3つの封印が解かれていきますが、そのたびに騎馬が登場するわけで、それらの騎馬のイメージと合わせて考えると、のちほどまとめて説明しますが、この白い騎馬の人物はイエスさまとは合いません。それならこれはだれでしょうか?  それはあとで見るとして、先に3節、4節を見てみましょう。子羊イエスさまは第二の封印を解かれます。すると、火のように赤い馬が出てきました。その馬にまたがる者の役割は、地から平和を奪い取り、互いに殺し合わせるようにすることです。  これは第一の馬、白い馬よりもイメージが明確です。馬が火のように赤いということは、戦いで流される血を連想します。まさに、血なまぐさい戦いの象徴です。しかし、このような存在がみこころにより呼び出されることを、私たちはどのように理解すればよろしいのでしょうか?  イエスさまは、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」とおっしゃって、すべての戦争、争いを否定されたのではないのでしょうか? それなのに、このような赤い馬が登場して戦争の存在が許されるとは、どう理解すればよろしいのでしょうか?  5節から6節です。第三の封印が解かれました。黒い馬に乗った者は秤を手にしていました。何を量るのかといえば、6節にあるとおりです。……1コイニクスが約1リットルなので、頭の中でリットルに置き換えていただければと思いますが、1デナリ、つまり1日分の稼ぎで、ようやく小麦1リットル、安い大麦なら3リットル、頑張って頑張って、ようやく口に糊するだけの食べ物が手に入れられるということであり、これは、赤い馬に象徴された戦争の結果、品不足で、たいへんな飢饉と物価の高騰が起こるということです。当時の物価から考えるならば、8倍から16倍くらいに高騰したということだそうです。500円のお弁当を食べるなら、それが4000円とか、8000円という世界です。どうしようというのでしょうか。  さて、その一方で、オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない、ということについてですが、オリーブ油もぶどう酒も、21世紀の現代においても変わらず高級品です。高級品をたしなむ、いわゆる上流階級の人は害を受けない、相変わらず守られる、貧困にあえぐのはいわゆる下層階級の人である、という、社会の二極分化が起こる、ということです。これは今現実に日本で起きていることです。金持ち、支配層は、庶民が飢えようが、貧困にあえごうが、知ったことではない、そういう不義の社会になるということです。  このような不条理がみこころによって許される、神は愛ではないのでしょうか? どう理解すべきでしょうか?  そして7節から8節、青ざめた馬の登場です。五木寛之の小説『蒼ざめた馬を見よ』は、まさにこの聖書箇所から名づけられた題名ですが、この馬は単なる「青色」ではなく、死人の顔のように青ざめた色です。  むかし、山本七平という聖書関係の書店のオーナーが、イザヤ・ベンダサンという名前のユダヤ人になりすまして『日本人とユダヤ人』というベストセラーを書き、その中で、この「青ざめた馬」という表現は誤訳だといちゃもんをつけました。これは結構知られていることのようで、私も学生時代、ある新興宗教の信者の友達から、「青ざめた馬」って誤訳らしいね、と言われた経験があります。まるで日本語の聖書が間違っていると馬鹿にされたように思えて、憮然としたものでした。  しかし、これは真に受けてはいけません。東北学院大学名誉教授の浅見定雄先生はこの件で山本七平を批判して、こんなユーモラスな表現を用いています。「なにしろこの馬に乗っているのは『死』だというのですから、馬の方も相当『あおざめ』ていなければならないのです!」というわけで「青ざめた馬」で合っていますので、惑わされないようにしたいものです。  人はどのようにして死ぬのでしょうか? ここまで見てきてわかることは、第二の馬、赤い馬のもたらす戦争によって、また、第三の馬、飢餓によって、人々は死にます。また、8節のみことばはそれに付け加えて、「死病」によって、また「野の獣」によって死ぬとも語ります。  戦争に伴い飢餓が蔓延すると、それに伴って衛生環境が劣悪になります。伝染病が流行して死ぬ人が多く現れます。現代における新型コロナウイルスの流行は戦争が直接の原因ではありませんが、ある意味「死病」という点で、この6章8節のみことばに通じる者がります。 また、戦争によって荒廃するところには野獣、猛獣が幅を利かせるのも常で、それらによって人は死にます。これは象徴的にも解釈することができるでしょう。戦いのもたらす人の心の荒廃は、人を精神的にも肉体的にも霊的にも病ませ、人を獣のようにします。そうして人は、霊肉ともに死んでいくのです。 このようにして人が倒れていくことを神は許される、どう理解すべきでしょうか? ただ、それでも救いというべきなのは、青ざめた馬、死の騎馬の権威により死ぬのは地上の4分の1であり、これはこのさばきは限定的なものである、と書かれていることです。それでもたくさんの人が死ぬことが許されているのは、変わりがありません。   さて、こうなりますと、第一に登場した「白い馬」が何者か、いよいよ気にならないでしょうか? それを解く鍵になるみことばがあります。マタイの福音書24章、3節から8節のみことばです。   ここでイエスさまは、弟子たちに対し、世の終わりに起こることを予告していらっしゃいますが、よく見ると順番があります。第一に4節と5節、惑わす者、偽キリストが出現するとあります。第二に6節と7節、戦争や戦争のうわさ、民族や国家の対立、そして第三に飢饉、それから地震とありますが、6節以下を見てみますと、子羊が開く第二の封印、第三の封印、そして来週学びますが、第六の封印と、順番が一致しています。   こういったことは、世の終わりにおいて、主がその存在と活動をお許しになるものです。なぜこの世界には戦争が存在するのか? なぜこの世界には飢饉や貧困が存在するのか? なぜこの世界には自然災害が存在するのか? 理由を問うならば、私たちは答えが見つけられなくて悩むばかりです。しかし、私たちがそれでも認めるべきことは、私たちのことを愛しておられる、愛なる神さまご自身が、これらの不条理の存在と活動を許しておられる、ということです。  そのことから何がわかりますでしょうか? 私たちが、神さまなしには生きることのできない存在である、ということです。 そこから私たちは、神さまに立ち帰る信仰が生まれてまいります。そうです、ヨハネの黙示録に展開する恐ろしい光景は、私たちがどうしても、イエスさまに立ち帰らなければならないことを教え、そこから永遠のいのちの交わりへと私たちを導く、素晴らしい導き手の役割を果たします。神さまを離れた人間の営みはいかに悲惨で、恐ろしいものしか生まないことか。その世界の破滅を意識し、恐怖におののくならば、すぐにでも主の御許に立ち帰るべきです。  そうなると、第一の封印が解かれて現れる白馬の者とは何者か、ということになるでしょう。これが再臨のキリストではないとしたらだれでしょうか? そうです、マタイの福音書24章4節、5節と考え合わせると、これは、キリストのなりをした偽キリストです。  6章2節の白馬の者は、弓という武器を持ってはいますが、その武器は利き剣のみことばではありません。また、冠をかぶってはいますが、これはギリシア語の原語を見れば一目瞭然で、王さまがかぶる王冠ではなく、スポーツの競技に勝利した者がかぶるような冠です。キリストに似ていますが、ちがうのです。 そしてこの者は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていきます。戦って勝利を得つつある中で、さらなる勝利を得ようと、貪欲になっている姿です。この偽キリストにとって勝利とは何でしょうか? できれば選ばれた民をも惑わして、ひとりでも多く真理の道から迷い出させ、地獄に道連れにすることです。   戦争ですとか、飢餓ですとか、貧困ですとか、そういった問題も確かに大きなものです。しかし、そのような問題が起こる最大の理由は、キリストを差し置いて王の位に座ろうと貪欲になる者の存在です。その自己中心、イエス・キリストという真理をあらゆる代用物に取り換えようとする試み、それが戦いを生み、争いを生み、ひいては飢餓や貧困のような人間社会の闇を生み出します。   現在多くの人は、多様性ですとか人権ですとか、そのようなものが強調されることで、よりよい社会を目指し、また、そうすることでよりよい社会になっていくと信じています。 しかし、その試みは果たして、神さまの御目から見たらどうなのでしょうか。あらゆる人が平等なのはそのとおりですが、それは果たして、あらゆる宗教には等しい価値がある、ということになるのでしょうか。もしそのように主張するなら、キリストのほかに救いがないと主張する聖書のおしえ、私たちの教えなどは、多様性を尊重するという建前の社会から真っ先に抹殺されることにならないでしょうか。多様性など口ばかりです。   でも、中には「物わかりのいい」クリスチャンもいるようで、そのような社会の歩みに歩調を合わせるべきだ、と主張します。もちろんイエスさまは謙遜なお方で、私たち神の子どもたちもそうあるように、おん自ら謙遜な姿勢を示してくださいましたが、私たちは考える必要があります。この世と調子を合わせて謙遜なポーズを示すことは、果たして、イエスさまが示された謙遜な姿勢と同じものなのだろうか?   私たちがへりくだったなりをするのは、しょせんは、自分たちを受け入れてもらおうとするようなあさましい心があるからではないだろうかと、きびしく、自分自身を振り返る必要があります。クリスチャンがそうして身を低くしているうちにも、この世の勢力はどんどん、私たちのいるべき領域を奪います。   先週私は、保守バプテスト同盟の教職者の勉強会、チームワークミーティングに参加して、同志社大学で社会福祉について専攻していらっしゃる木原活信教授という方の講義をお聴きして、目が開かれたことがありました。それは、戦前日本で社会福祉といえば、国家やお役所のような行政が担うものではなかった、というのです。その頃、社会福祉の人物を3人挙げるとすれば、山室軍平、石井十次、留岡幸助、そう、3人ともプロテスタントのクリスチャンで、社会福祉というかたちで弱者に仕える人とは、当然それはクリスチャンのことだったという時代があったのでした。  しかし戦後になって、社会福祉は公的な機関が担うものへと変容させられました。それは一見すると、日本という国が福祉国家として成熟した、よいことのように見えますが、見方を変えれば、福祉の分野にキリスト教会が入り込めなくなった、弱者に仕えることで主の栄光を現す機会が奪われてしまった、ということでもあったのでした。実際、そういう施設において、どれほど宗教的な要素というものは取り除かれていったことでしょうか。そういう施設で伝道ができるでしょうか? お祈りができるでしょうか? 聖書のお話ができるでしょうか?…