教会とは何か
聖書箇所;コリント人への手紙第一1:1~3/メッセージ題目;教会とは何か うちの教会の日曜礼拝は今年に入ってから、ヨハネの黙示録を中心に学んでまいりました。それは、コロナ下という世相の中で、世の終わりというものを意識する私たちが、みことばをベースにいかに生きるかを追求する思いで本文を選ばせていただいたからでした。 しかし、私自身がメッセージ作成のために学びを続けているうちに、世間の雰囲気は変わりました。このようなウイルスの流行に一刻も早く歯止めをかけようと、ワクチンが開発され、承認され、多くの人が接種するようになりました。うちの教会でも何人もの信徒さんがワクチンをすでに接種されました。社会的に終末を意識するというより、悲惨な状況を克服しようという雰囲気が起きつつあります。 このような中でも、終末意識に満ちた黙示録からのメッセージを続けることが、果たしてふさわしいことだろうか……祈らされているうちに、私たちにもっと必要な学びは、もう少し現実的なことに対応したことではないかと気づかされました。 コロナ下という状況がまだ続く中で教会がなかなかひとつになれない、来られる人もいれば来られない人もいる……。そのような中で、私たちがこの水戸第一聖書バプテスト教会に連なっているとはどういうことかを、あらためて学ぶ必要があるのではないか……そのような結論に達し、当初の予定を変更し、教会とは何か、ということを学びたいと思います。 ヨハネの黙示録についての学びは、いずれ機会が巡ってきましたら、また学びを再開したいと思います。楽しみにしていらっしゃった方には申し訳ありませんが、ご理解をよろしくお願いいたします。 今日の箇所は私たちにもなじみの深いコリント人への手紙第一の、冒頭の1節から3節までのみことばです。この3節分の箇所を特徴づけるみことばは、なんといっても2節のみことば、教会というものを説明しているみことばです。 コリント教会に充てられたパウロの手紙は、聖書には第一と第二の2通が合わせて収録されていますが、この中でも第一の手紙を読んでみると、特に前半の部分で、かなりきわどい問題が取り扱われているのがわかります。 しかし、それだけではありません。この書簡においては、キリストのからだとしての教会においてわれわれ信徒がその器官であり、手足であるということ、また、愛というものについて美しい表現で語られていること、聖徒の復活について……こういう大事なことも、手紙の後半部分で取り扱われています。ともすると抽象的な表現が多用されている雰囲気のあるローマ人への手紙に比べ、コリント人への手紙第一の方はかなり実際的です。そのような両面性を持つこの書簡において、パウロが最初に語っていることは、教会とは何か、ということです。 この2節のみことばから、教会とは何かということを、私たちは3つのポイントから教えられます。順に見てまいりたいと思います。 第一に、教会とは主イエス・キリストの名が呼び求められるところ、どこも、です。 2節の前半をお読みします。……コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに…… このみことばからわかることは、コリントの教会も、いたるところで主イエス・キリストの名を呼び求める人たちとともに、神の教会である、ということです。同じ神の教会であるということです。その教会はエルサレムに始まり、だんだんとあちこちにできつつあり、コリントの教会もその一つだということです。こんにちにおいては世界中にあり、この水戸第一聖書バプテスト教会もそのひとつです。 何をもって「教会」というのでしょうか? それは「イエス・キリストの名を呼び求めている」ことによってです。イエス・キリストの名が呼び求められていないならば、それは名前だけの教会にすぎません。しかし、イエス・キリストの名前が呼び求められているならば、そのような人の群れは、教会と名乗るにふさわしい存在です。 イエス・キリストの名前を呼び求めることはあたりまえのことではありません。ヘブル人への手紙11章6節にはこのようにあります。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」 イエスさまは神の御子、すなわち神さまであられる以上、このみことばの「神」を「イエスさま」に置き換えても意味は通じます。 イエスさまに近づく者は、イエスさまがおられることと、イエスさまがご自分を求める者には報いてくださることを信じなさい。しかし、イエスさまがおられることを信じ、それ以上に、イエスさまがご自分を求める者には報いてくださることを信じるには、信仰が必要です。 この信仰を人に持たせてくださるのは、聖霊なる神さまのお働きによることです。つまり、イエスさまの御名を呼び求めることは、聖霊なる神さまの恵みがあって初めて可能なこと、成り立つことです。 この、聖霊なる神さまのお働きが臨む恵みによって、イエス・キリストの御名を呼び求める群れは、教会と呼ばれるにふさわしい存在です。 すると、こういう人がいるかもしれません。「イエス・キリストの御名が呼び求められているならば、どんな群れでも教会と呼んでいいのでしょうか?」この問いに対する答えは「イエス」でもあり「ノー」でもあります。まず、大前提として、この問いに対する答えは「イエス」、イエス・キリストの御名が呼び求められているならば、どんな群れでも教会です。 それでは、これが「ノー」となるケースは、どんなケースでしょうか? それは、イエス・キリストの御名を呼び求めておきながら、牧師のような教会リーダーを神格化したり、イエスさま以上に大事なものが教会にあったりするケースです。それはカルトであり、異端です。彼らはイエス・キリストの御名を呼び求めているように見えるのでわかりにくいですが、実際のところは、別のものを崇拝しています。 第二列王記17章を見ると、アッシリアによってイスラエルが滅ぼされた後、サマリアに入植した国々の民は、主なる神さまを礼拝するのと同時に、それぞれの民族の神々も同時に礼拝したとあります。ひどいケースになると、自分たちの宗教的慣習で子どもを火で焼いたとまであります。そんな彼らも、主を礼拝しているにはしています。しかし、そのような者たちは、ほんとうの意味で主を礼拝していると果たして言えるでしょうか? それと同じことで、呼び求めるべきはイエス・キリストの御名だけです。イエス・キリストの御名「だけ」を呼び求めている、すなわち、イエスさまの御名だけに拠り頼んでいる人々こそ、「教会」と呼ばれるにふさわしいのです。 私たちはともすると、イエスさまの御名だけを呼び求めることに満足せず、まるで偶像のような存在を教会に持ち込んでしまいかねない存在です。もし私たちがそうなってしまうなら、もはや私たちは教会ではなくなるのでしょうか。しかし、私たちは過度に心配することはありません。聖霊さまがイエスさまの御名を呼び求める信仰へと導いてくださっている以上、私たちがもしも間違った信仰の歩みをしているならば、聖霊なる主ご自身が私たちの歩みを軌道修正してくださいます。 私たちは恐れることなく、主に拠り頼んでいいのです。私たちは主イエスさまの御名を呼び求めるゆえに、主の教会、主のものです。心から感謝して、主の御名をほめたたえましょう。 第二に、教会は、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた人々の集まりです。 2節の中間にあるとおりです。私たちは「聖なるもの」なのです。驚くべきことではないでしょうか? この罪深い自分の身を思うならば、私たちはどれほど「聖」ということから遠い存在でしょうか? しかし神さまは私たちのことを「聖なるもの」にしてくださったのでした。 それではどのようにして「聖なるもの」となるのでしょうか? 日本においては「聖」と書いて「ひじり」と読むように、一般的な人々には、「聖」の領域に達するには、俗世を捨てて、ひたすら修行に励むというイメージがないでしょうか? しかし、私たちが「聖なるもの」になるのは、私たちの人生経験や努力によることではありません。イエス・キリストによると、このみことばは語ります。イエス・キリストとあります。キリスト、つまり、救い主なるイエスさまが、私たちを救ってくださり、私たちは聖なるものとなるのです。 私たちは本来、罪ゆえに、神さまに向かって越すことのできないギャップを前にしていました。人間は神々をこしらえて、それに礼拝することで聖なる存在になることを目指しました。よい行いを積み重ねることで聖なる存在になることを目指しました。人間理解を深め、人々を啓蒙することで聖なる存在になることを目指しました。しかし、人は何をどうしても、聖なる存在になることはできませんでした。なぜなら、自分の中にある「罪」の問題が解決されていなかったからです。 人に罪があるかぎり、聖なる神さまは、きよい神さまは、人を受け入れることはできません。 しかし神さまは人を愛しておられ、人が罪の中に滅びることを見過ごしにはできません。神さまはどのようになさったでしょうか? 人の受けるべき罪の罰を、神のひとり子イエスさまが十字架の上で身代わりにお受けくださることによって、人を罪と死から救い出してくださいました。 こうして、イエスさまの十字架を信じ受け入れた人は、聖なる存在にしていただきました。ここからわかることは、聖なる存在になることは「ひじり」のような人間的努力によることではなく、神さまの恵みによることだということです。神さまがご計画のうちに、私たちのことを救いに定めてくださり、聖霊なる神さまが私たちのことを、イエスさまの十字架を信じる信仰へと導いてくださり、そうして私たちは聖なるものとなります。 それが、聖なるものとされる、ということです。私たちは信仰の先人の偉大な業績を見ると、それが聖書の登場人物であれ、世界や日本の歴史に残る人物であれ、自分は到底あのようになれない、自分はなんてけがれているのか、俗っぽいのか、とお思いでしょうか? それで落ち込んだり、あるいは、あの人たちは特別でも自分は関係ない、と思ったりしますでしょうか? しかし、私たちはそう思う必要はありません。私たちもまた、神さまによって聖なる存在としていただいています。このことをもっと私たちはしっかりと受け止め、神さまに感謝をしてまいりたいものです。 考えてみてください。第一コリントを読み進めていくと、このコリント教会の信徒たちはいったい「聖なるもの」と呼んで大丈夫なのだろうか、と思えてきはしないでしょうか? あまりにもとんでもない生き方をしています。しかしそれでも、彼らは聖なるものなのです。 同じことで、私たちも聖なるものとされています。私たちは自分の罪深さや平凡さを見て、落ち込むことはないのです。私たちはもはや、罪人として振る舞う必要はなく、聖なるものとして生きることが求められています。 そこで第三のポイントにまいります。教会は、聖徒として召された人たちの集まりです。 みなさん、「召された」ということばを、私たちはどのように用いていますでしょうか? 先日、私たちの兄弟が天国に行かれましたが、こういうとき私たちクリスチャンは「召される」という言い方をします。また、何らかの職業をもって神さまに献身するような人に対しても、「召し」ですとか「召される」ということばを使います。 私が牧師の働きに就き、その働きを曲がりなりにも12年にわたって続けてこられたのは、神さまの「召し」があったからです。 そこでこのみことばに戻りますが、「聖徒として召された」とは、この地上に生きながら聖徒としての生き方をするように、神さまに呼ばれ、導かれている、ということを意味します。 聖徒、クリスチャンと言い換えてもいいですが、クリスチャンであるということは、立場ですとか、肩書ですとか、そういったこと以上の意味があります。「生き方」です。あるクリスチャンの方からお聞きしたことですが、その方は自分の信仰を「キリスト教」と呼ぶことに納得していない、というのです。その方はおっしゃいました。「言うなれば『キリスト道(どう)』です、いや、もっと言えば『キリスト命(いのち)』です。ほら、観光地なんかの落書きで、恋人の名前を書いて、だれだれちゃん命、なんて書いたりするでしょ? あれと同じです。」 聖徒として召されている、それは、聖徒として生きることが神さまに求められている、ということです。キリスト命、キリストのいのちをわがいのちとして生きる生き方です。さきほど第一のポイントで、教会とはキリスト・イエスの御名を呼び求める群れであることを学びましたが、私たちがイエスさまの御名を呼び求めるように、神さまも私たちに求めていらっしゃいます。あなたがたは、地上でわたしのこころを実現してほしい、実践してほしい。 聖霊なる神さまは、人を信仰告白、救いに導いてくださるお方ですが、それだけではなく、私たち聖徒が神さまのみこころを守り行うようにつねに励まし、導いてくださるお方です。私たちは毎日、聖霊なる神さまが聴かせてくださるさやかな御声に耳を傾け、その導きにお従いすることによって、聖徒として召された存在として生きることができます。そのために私たちは、毎日みことばをお読みし、お祈りをするわけです。 聖徒として召されているということは、私たちの生活からふさわしくないものを取り除いていくことが求められているということです。先週、上の娘が小学校の卒業アルバムを持ち帰ってきて、その中に載っていたクラスメイトのいろいろな将来の夢を面白く読ませてもらいました。パティシエ、ユーチューバ、消防士、獣医師、変わったところでは県庁の職員……。 そんな彼らが大人になったとき、もし、パティシエの仕事に慣れてきて、めんどうくさい、いちいち手なんて洗わなくていい、などとなったらどうなるでしょうか? 食中毒が起こるかもしれません。消防士の仕事に慣れてきて、訓練をいいかげんにしていたらどうなるでしょうか? いざ火事や救命活動となったとき、まともに働けません。 私たちが聖徒の召しに従う生き方も、それと同じです。私たちは聖なる存在となるために一切努力する必要はありませんでしたが、聖なる存在としての召しに忠実になるためには、主に拠り頼みつつ努力する必要があります。週に一日の時間を聖別し、礼拝をおささげすることも、毎日主の御前に出て、みことばをお読みしてお祈りすることも、普段の生活の中で主にお従いする生き方を祈りつつ実践していくことも、みな一定の努力が必要です。どうせ何をしても救われているとばかりに、だらけた生活をしているならば、果たして神さまはそんな私たちのことを喜んでくださるでしょうか。 私たちはこの、水戸第一聖書バプテスト教会という教会を形づくる者として、イエスさまをともに呼び求めることのできる恵みが与えられていることを感謝しましょう。イエスさまを信じる信仰が与えられて聖なるものとしていただいたことを感謝しましょう。そのように聖なるものとされた私たちが、ますます聖なるものとしての歩みを確実にしていくことができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。