教会とは何か

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:1~3/メッセージ題目;教会とは何か  うちの教会の日曜礼拝は今年に入ってから、ヨハネの黙示録を中心に学んでまいりました。それは、コロナ下という世相の中で、世の終わりというものを意識する私たちが、みことばをベースにいかに生きるかを追求する思いで本文を選ばせていただいたからでした。  しかし、私自身がメッセージ作成のために学びを続けているうちに、世間の雰囲気は変わりました。このようなウイルスの流行に一刻も早く歯止めをかけようと、ワクチンが開発され、承認され、多くの人が接種するようになりました。うちの教会でも何人もの信徒さんがワクチンをすでに接種されました。社会的に終末を意識するというより、悲惨な状況を克服しようという雰囲気が起きつつあります。  このような中でも、終末意識に満ちた黙示録からのメッセージを続けることが、果たしてふさわしいことだろうか……祈らされているうちに、私たちにもっと必要な学びは、もう少し現実的なことに対応したことではないかと気づかされました。 コロナ下という状況がまだ続く中で教会がなかなかひとつになれない、来られる人もいれば来られない人もいる……。そのような中で、私たちがこの水戸第一聖書バプテスト教会に連なっているとはどういうことかを、あらためて学ぶ必要があるのではないか……そのような結論に達し、当初の予定を変更し、教会とは何か、ということを学びたいと思います。 ヨハネの黙示録についての学びは、いずれ機会が巡ってきましたら、また学びを再開したいと思います。楽しみにしていらっしゃった方には申し訳ありませんが、ご理解をよろしくお願いいたします。 今日の箇所は私たちにもなじみの深いコリント人への手紙第一の、冒頭の1節から3節までのみことばです。この3節分の箇所を特徴づけるみことばは、なんといっても2節のみことば、教会というものを説明しているみことばです。 コリント教会に充てられたパウロの手紙は、聖書には第一と第二の2通が合わせて収録されていますが、この中でも第一の手紙を読んでみると、特に前半の部分で、かなりきわどい問題が取り扱われているのがわかります。 しかし、それだけではありません。この書簡においては、キリストのからだとしての教会においてわれわれ信徒がその器官であり、手足であるということ、また、愛というものについて美しい表現で語られていること、聖徒の復活について……こういう大事なことも、手紙の後半部分で取り扱われています。ともすると抽象的な表現が多用されている雰囲気のあるローマ人への手紙に比べ、コリント人への手紙第一の方はかなり実際的です。そのような両面性を持つこの書簡において、パウロが最初に語っていることは、教会とは何か、ということです。 この2節のみことばから、教会とは何かということを、私たちは3つのポイントから教えられます。順に見てまいりたいと思います。 第一に、教会とは主イエス・キリストの名が呼び求められるところ、どこも、です。 2節の前半をお読みします。……コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに…… このみことばからわかることは、コリントの教会も、いたるところで主イエス・キリストの名を呼び求める人たちとともに、神の教会である、ということです。同じ神の教会であるということです。その教会はエルサレムに始まり、だんだんとあちこちにできつつあり、コリントの教会もその一つだということです。こんにちにおいては世界中にあり、この水戸第一聖書バプテスト教会もそのひとつです。 何をもって「教会」というのでしょうか? それは「イエス・キリストの名を呼び求めている」ことによってです。イエス・キリストの名が呼び求められていないならば、それは名前だけの教会にすぎません。しかし、イエス・キリストの名前が呼び求められているならば、そのような人の群れは、教会と名乗るにふさわしい存在です。 イエス・キリストの名前を呼び求めることはあたりまえのことではありません。ヘブル人への手紙11章6節にはこのようにあります。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」 イエスさまは神の御子、すなわち神さまであられる以上、このみことばの「神」を「イエスさま」に置き換えても意味は通じます。 イエスさまに近づく者は、イエスさまがおられることと、イエスさまがご自分を求める者には報いてくださることを信じなさい。しかし、イエスさまがおられることを信じ、それ以上に、イエスさまがご自分を求める者には報いてくださることを信じるには、信仰が必要です。 この信仰を人に持たせてくださるのは、聖霊なる神さまのお働きによることです。つまり、イエスさまの御名を呼び求めることは、聖霊なる神さまの恵みがあって初めて可能なこと、成り立つことです。 この、聖霊なる神さまのお働きが臨む恵みによって、イエス・キリストの御名を呼び求める群れは、教会と呼ばれるにふさわしい存在です。 すると、こういう人がいるかもしれません。「イエス・キリストの御名が呼び求められているならば、どんな群れでも教会と呼んでいいのでしょうか?」この問いに対する答えは「イエス」でもあり「ノー」でもあります。まず、大前提として、この問いに対する答えは「イエス」、イエス・キリストの御名が呼び求められているならば、どんな群れでも教会です。 それでは、これが「ノー」となるケースは、どんなケースでしょうか? それは、イエス・キリストの御名を呼び求めておきながら、牧師のような教会リーダーを神格化したり、イエスさま以上に大事なものが教会にあったりするケースです。それはカルトであり、異端です。彼らはイエス・キリストの御名を呼び求めているように見えるのでわかりにくいですが、実際のところは、別のものを崇拝しています。 第二列王記17章を見ると、アッシリアによってイスラエルが滅ぼされた後、サマリアに入植した国々の民は、主なる神さまを礼拝するのと同時に、それぞれの民族の神々も同時に礼拝したとあります。ひどいケースになると、自分たちの宗教的慣習で子どもを火で焼いたとまであります。そんな彼らも、主を礼拝しているにはしています。しかし、そのような者たちは、ほんとうの意味で主を礼拝していると果たして言えるでしょうか? それと同じことで、呼び求めるべきはイエス・キリストの御名だけです。イエス・キリストの御名「だけ」を呼び求めている、すなわち、イエスさまの御名だけに拠り頼んでいる人々こそ、「教会」と呼ばれるにふさわしいのです。 私たちはともすると、イエスさまの御名だけを呼び求めることに満足せず、まるで偶像のような存在を教会に持ち込んでしまいかねない存在です。もし私たちがそうなってしまうなら、もはや私たちは教会ではなくなるのでしょうか。しかし、私たちは過度に心配することはありません。聖霊さまがイエスさまの御名を呼び求める信仰へと導いてくださっている以上、私たちがもしも間違った信仰の歩みをしているならば、聖霊なる主ご自身が私たちの歩みを軌道修正してくださいます。 私たちは恐れることなく、主に拠り頼んでいいのです。私たちは主イエスさまの御名を呼び求めるゆえに、主の教会、主のものです。心から感謝して、主の御名をほめたたえましょう。 第二に、教会は、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた人々の集まりです。 2節の中間にあるとおりです。私たちは「聖なるもの」なのです。驚くべきことではないでしょうか? この罪深い自分の身を思うならば、私たちはどれほど「聖」ということから遠い存在でしょうか? しかし神さまは私たちのことを「聖なるもの」にしてくださったのでした。 それではどのようにして「聖なるもの」となるのでしょうか? 日本においては「聖」と書いて「ひじり」と読むように、一般的な人々には、「聖」の領域に達するには、俗世を捨てて、ひたすら修行に励むというイメージがないでしょうか? しかし、私たちが「聖なるもの」になるのは、私たちの人生経験や努力によることではありません。イエス・キリストによると、このみことばは語ります。イエス・キリストとあります。キリスト、つまり、救い主なるイエスさまが、私たちを救ってくださり、私たちは聖なるものとなるのです。 私たちは本来、罪ゆえに、神さまに向かって越すことのできないギャップを前にしていました。人間は神々をこしらえて、それに礼拝することで聖なる存在になることを目指しました。よい行いを積み重ねることで聖なる存在になることを目指しました。人間理解を深め、人々を啓蒙することで聖なる存在になることを目指しました。しかし、人は何をどうしても、聖なる存在になることはできませんでした。なぜなら、自分の中にある「罪」の問題が解決されていなかったからです。 人に罪があるかぎり、聖なる神さまは、きよい神さまは、人を受け入れることはできません。 しかし神さまは人を愛しておられ、人が罪の中に滅びることを見過ごしにはできません。神さまはどのようになさったでしょうか? 人の受けるべき罪の罰を、神のひとり子イエスさまが十字架の上で身代わりにお受けくださることによって、人を罪と死から救い出してくださいました。 こうして、イエスさまの十字架を信じ受け入れた人は、聖なる存在にしていただきました。ここからわかることは、聖なる存在になることは「ひじり」のような人間的努力によることではなく、神さまの恵みによることだということです。神さまがご計画のうちに、私たちのことを救いに定めてくださり、聖霊なる神さまが私たちのことを、イエスさまの十字架を信じる信仰へと導いてくださり、そうして私たちは聖なるものとなります。 それが、聖なるものとされる、ということです。私たちは信仰の先人の偉大な業績を見ると、それが聖書の登場人物であれ、世界や日本の歴史に残る人物であれ、自分は到底あのようになれない、自分はなんてけがれているのか、俗っぽいのか、とお思いでしょうか? それで落ち込んだり、あるいは、あの人たちは特別でも自分は関係ない、と思ったりしますでしょうか? しかし、私たちはそう思う必要はありません。私たちもまた、神さまによって聖なる存在としていただいています。このことをもっと私たちはしっかりと受け止め、神さまに感謝をしてまいりたいものです。 考えてみてください。第一コリントを読み進めていくと、このコリント教会の信徒たちはいったい「聖なるもの」と呼んで大丈夫なのだろうか、と思えてきはしないでしょうか? あまりにもとんでもない生き方をしています。しかしそれでも、彼らは聖なるものなのです。 同じことで、私たちも聖なるものとされています。私たちは自分の罪深さや平凡さを見て、落ち込むことはないのです。私たちはもはや、罪人として振る舞う必要はなく、聖なるものとして生きることが求められています。 そこで第三のポイントにまいります。教会は、聖徒として召された人たちの集まりです。 みなさん、「召された」ということばを、私たちはどのように用いていますでしょうか? 先日、私たちの兄弟が天国に行かれましたが、こういうとき私たちクリスチャンは「召される」という言い方をします。また、何らかの職業をもって神さまに献身するような人に対しても、「召し」ですとか「召される」ということばを使います。 私が牧師の働きに就き、その働きを曲がりなりにも12年にわたって続けてこられたのは、神さまの「召し」があったからです。 そこでこのみことばに戻りますが、「聖徒として召された」とは、この地上に生きながら聖徒としての生き方をするように、神さまに呼ばれ、導かれている、ということを意味します。 聖徒、クリスチャンと言い換えてもいいですが、クリスチャンであるということは、立場ですとか、肩書ですとか、そういったこと以上の意味があります。「生き方」です。あるクリスチャンの方からお聞きしたことですが、その方は自分の信仰を「キリスト教」と呼ぶことに納得していない、というのです。その方はおっしゃいました。「言うなれば『キリスト道(どう)』です、いや、もっと言えば『キリスト命(いのち)』です。ほら、観光地なんかの落書きで、恋人の名前を書いて、だれだれちゃん命、なんて書いたりするでしょ? あれと同じです。」 聖徒として召されている、それは、聖徒として生きることが神さまに求められている、ということです。キリスト命、キリストのいのちをわがいのちとして生きる生き方です。さきほど第一のポイントで、教会とはキリスト・イエスの御名を呼び求める群れであることを学びましたが、私たちがイエスさまの御名を呼び求めるように、神さまも私たちに求めていらっしゃいます。あなたがたは、地上でわたしのこころを実現してほしい、実践してほしい。 聖霊なる神さまは、人を信仰告白、救いに導いてくださるお方ですが、それだけではなく、私たち聖徒が神さまのみこころを守り行うようにつねに励まし、導いてくださるお方です。私たちは毎日、聖霊なる神さまが聴かせてくださるさやかな御声に耳を傾け、その導きにお従いすることによって、聖徒として召された存在として生きることができます。そのために私たちは、毎日みことばをお読みし、お祈りをするわけです。 聖徒として召されているということは、私たちの生活からふさわしくないものを取り除いていくことが求められているということです。先週、上の娘が小学校の卒業アルバムを持ち帰ってきて、その中に載っていたクラスメイトのいろいろな将来の夢を面白く読ませてもらいました。パティシエ、ユーチューバ、消防士、獣医師、変わったところでは県庁の職員……。 そんな彼らが大人になったとき、もし、パティシエの仕事に慣れてきて、めんどうくさい、いちいち手なんて洗わなくていい、などとなったらどうなるでしょうか? 食中毒が起こるかもしれません。消防士の仕事に慣れてきて、訓練をいいかげんにしていたらどうなるでしょうか? いざ火事や救命活動となったとき、まともに働けません。 私たちが聖徒の召しに従う生き方も、それと同じです。私たちは聖なる存在となるために一切努力する必要はありませんでしたが、聖なる存在としての召しに忠実になるためには、主に拠り頼みつつ努力する必要があります。週に一日の時間を聖別し、礼拝をおささげすることも、毎日主の御前に出て、みことばをお読みしてお祈りすることも、普段の生活の中で主にお従いする生き方を祈りつつ実践していくことも、みな一定の努力が必要です。どうせ何をしても救われているとばかりに、だらけた生活をしているならば、果たして神さまはそんな私たちのことを喜んでくださるでしょうか。 私たちはこの、水戸第一聖書バプテスト教会という教会を形づくる者として、イエスさまをともに呼び求めることのできる恵みが与えられていることを感謝しましょう。イエスさまを信じる信仰が与えられて聖なるものとしていただいたことを感謝しましょう。そのように聖なるものとされた私たちが、ますます聖なるものとしての歩みを確実にしていくことができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「さばきの日、わざわいの日」

聖書箇所;ヨハネの黙示録8:1~13/メッセージ題目;「さばきの日、わざわいの日」 今年初めに発行した年報や月報をご覧いただきますとお分かりのことですが、私が今年に入って「ヨハネの黙示録」の講解をすることにしたことには、いまコロナ下ということで、世の終わりというものをとても感じさせるご時世であり、このような時代にあって、世の終わりについて詳しく綴るヨハネの黙示録から学び、世の終わりに備えていこう、という大きな目的がありました。 ヨハネの黙示録は、世の終わりについてかなり独特な表現でつづられた書です。多くの箇所に、大バビロンと表現されたサタンの勢力の描写、ならびにその勢力が究極のさばきを受ける描写が登場するなど、震え上がるような描写がこれでもかと登場します。私たちは読んでいて、このような終末に自分が巻き込まれたらどうしよう、と思ったりしないでしょうか? しかし、ヨハネの黙示録は、終末の絶望だけを説くみことばではありません。いやむしろ、天上の礼拝、究極の礼拝に私たちを招くみことばであり、それこそがメインのテーマというべきです。私たちがこのヨハネの黙示録を読んですべきことは、世の破滅を思って震え上がることではなく、永遠の御国を思って希望をいだくことです。 とはいいましても、このヨハネの黙示録の講解メッセージをするにあたり、世の終わりの破滅的な様相について語ることは避けられません。はっきり書いてあるからです。しかし、あくまで語り手である私がすることは、そのさばきそのものをことさらに取り上げて、いたずらに恐怖心をあおることではなく、そのような終末の様相を迎えようとも、なお主にまことの希望を置くように語ることです。それでは、今日の箇所の学びを始めてまいりましょう。 今日の箇所は3つのポイントに従って分けられます。それぞれにキーワードがありますが、それらはみな、数字で特徴づけられます。順番に、1番目が7つ目の封印と7つのラッパで「7」、2番目が4つの災いで「4」、そして3番目が「7引く4」の「3」です。7、4、3の順に見てみましょう。 まずは第一の「7」、7つ目の封印と7つのラッパです。6章において、子羊は巻物を封じた7つの封印のうち、6つの封印を解きます。それがみな、わざわいを告げ知らせるものであったこと、7章に入ったら、天上の礼拝の場面へと展開することは、すでに学んだとおりです。 そしていよいよ、7つ目の封印が解かれます。するとこのとき、さばきが即座に行われるのではなく、「天に半時間ほどの静けさがあった」のでした。ここでは、主に叫び求める大声も聞こえません。主をほめたたえる大声も聞こえません。何の声も、音もしないのです。 この静けさは何を意味するのでしょうか。嵐の前の静けさ、ということばがありますが、天が、今にも神さまが怒りを地に注がれようとしていることに、粛然として怖れをいだいていることを示しているといえます。 この静けさの中で、7人の御使いに1つずつ、合わせて7つのラッパが渡されます。これもまた、終わりの日のさばきが行われようとしていた、ということで、その恐ろしさを思うと、天地は震え上がろうというものです。 ここまでの幻では、7つの封印が解かれていますが、7つの封印が解かれることと、7つのラッパが吹き鳴らされることは、どちらも同じ、世の終わりの破滅的な様相を、別の観点から語っているということであり、できごとが時系列に沿って展開するというわけではありません。時系列で解釈しようとすると、あちこち矛盾が生じてきます。これは、終わりの日のさばきを、別々の観点から示したものなのです。 ともかく、このとき世界は静けさに支配されていました。世界はさばきの前に恐れて口をつぐんでいました。しかし、ここにはもうひとつの解釈が成り立ちます。それは、聖徒の祈りです。聖徒の祈りはかぐわしい香のごとく御前に立ち上っていますが、それは静かな祈りだった、ということです。 私はかつて、沈黙したまま時を過ごすという体験をしたことがあります。それは韓国にある「フィルグリムハウス」という祈祷院でのことで、普通韓国の祈祷院というと、大声を上げて山にこもってお祈りする、というイメージがあっただけに、人々がいてもまるで会話しないでいる様子は、最初かなり戸惑いました。 しかし、慣れてくると、ああ、私たちはなんと、騒々しいことに慣れていたのだろうか、と、神さまの御前で自分を見つめ直す、とてもよい時間となりました。そのような場所においては、もはや叫ぶようなお祈りは必要ありませんでした。 沈黙するということは、神さまとのコミュニケーションを断ち切ることではありません。むしろその反対で、神さまは沈黙のうちにささげるお祈りを、しかと聴き届けてくださいます。 ヨハネの黙示録6章11節で、祭壇の下にいる殉教者たちがさばきを求めて叫ぶ祈りをささげていたとき、主が彼らに、殉教する聖徒たちの数が満ちるまでもうしばらくの間休んでいるようにと言い渡されましたが、この「休んでいるように」ということばが「静かにしているように」とも訳せることは、前の学びでお話ししたとおりです。そうして、殉教者の祈りは、憤りを晴らすがごとき叫ぶ祈りから、神の怒りに委ねる静かな祈りへと変わったのです。 そして5節をお読みください。このように聖徒たち、主の御名のゆえに地上で苦しみ、傷ついた聖徒たちがささげる祈りは、やがて天に満ち、神の怒りとなって地にぶちまけられます。ここから、7つの封印が解かれた巻物が、7つのラッパへと引き移っていくのです。 そこで私たちは、聖徒たちにふさわしい祈りというものを考えてみたいと思います。もし私たちが、だれかに対して恨みをいだいていて、その恨みを晴らしてくださいと神さまに叫びつづけたとしても、その恨みが一向に晴らされないならば、私たちはむなしさを覚えたりはしないでしょうか? ローマ人への手紙12章19節のみことばをご覧ください。……これが、神さまが私たちに願っていらっしゃることです。なのに私たちは、なんと誰かに対する怒りの中にとどまり、そんな自分をあらゆる形で正当化するのでしょうか? たしかに、怒りを手離すのは難しいことです。私は長年の韓国とのお付き合いでそれを痛感してきましたし、最近も、会津若松の大学を卒業したある牧師先生から、その地域の人たちは150年もむかしの戊辰戦争の影響で、いまだに山口県の人を許せないでいると聞いて、これは韓国の人が日本に対して抱く感情以上に深刻だ、と思ったものでした。 しかし私たちクリスチャンは、神さまがその義にしたがって悪者に怒りを下されることを知っている以上、私たちの持つ怒りを神さまの御手にお委ねすることができる存在です。これは「特権」とさえ言えることです。私たちが怒りを晴らしたところで、たかが知れています。 しかし、神さまが怒られたとするとどうでしょうか? 私たちの目の前にある天地はすべて滅びます。ありえないほどの破滅をもって消え去ります。悪者はことごとく火の池に投げ込まれ、昼も夜も永遠に苦しみを受けます。神さまの子どもたち、神さまのしもべたちを苦しめるということは神さまのひとみに触れることであり、それだけの報いを受けて当然なのです。 よく読まれるイザヤ書43章4節のみことば、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」この節には続きがありまして、こうなっています。「だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民(くにたみ)をあなたのいのちの代わりにする。」私たち神の民はこれほどまでに、主の敵、すなわち私たちの敵に究極のさばきが下されるほどに愛されているということです。 その神さまの怒りが、神さまの時にしたがって下されるまで、私たちのすることは、怒りに従って行動することではありません。神さまへの従順です。愛の実践です。敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい。敵が飢えたならば食べさせなさい。渇いたならば飲ませなさい。 私たちは人を愛し、奉仕するように召されていますが、自分に敵対する人だからとその愛と奉仕の手を控えるならば、普通の人と何ら変わるところがありません。私たちは主のしもべです。だからだれに対しても愛と奉仕を実践しつづけるのです。たとえ相手が神さまを嫌い、自分を嫌う人であったとしても、愛と奉仕を控えてはならないのです。 そういう人の頭に燃える炭火を積むのは私たちではありません。神さまです。これほどまでに私たちを苦しめ、私たちが下手(したて)に出るのをいいことにマウンティングすることをやめない、そんな人は必ず、神さまがご自身の時にしたがってさばきの手を下されます。 怒りの叫びを上げずに静かに祈りつづける……それこそが、終わりの日に向けて私たちがすることです。その祈りの香の鉢がいっぱいになるまで、私たちは祈りつづけるのです。なすべき従順の行い、愛の行いに、あくまで専心することです。神さまがご自身の時に働いてくださいます。私たちは、祈りが報いられ、主がご自身の時に正義を地上に実現されることを信じて、祈りつづけ、従順の歩みを続けてまいりましょう。 二番目の鍵となる数字、「4」、これは、「4人の御使いが吹く4つのラッパ、それに伴う4つのさばき」です。静けさのあとにつづくのはけたたましいラッパの音です。ラッパは、さばきの訪れを象徴しています。7節から12節をお読みします。……これらのさばきは、モーセの時代のイスラエルが出エジプトを果たしたとき、神さまがエジプトに下されたさばきの再現とも見ることができます。 第一のラッパのさばきは、雹が落ちてあらゆる作物、人も家畜も被害を受けたことを連想します。第二、第三のラッパのさばきは、ナイル川が血になって水が飲めなくなったことを連想します。そして第四のラッパのさばきは、暗闇が地を覆ったことを連想します。 この出エジプトに際してのさばきは、神さまが、ご自身の民イスラエルの叫び求める祈りに耳を傾けてくださったことから下されたものであり、その証拠として、雹のさばきと暗闇のさばきは、イスラエル人のいるゴシェンの地には臨まなかったのでした。 同じことが、この世の終わりに際してこの世界に下されます。世界はあらゆる形で破滅に向かいます。 しかし、ここで注目すべきことがあります。ここで破滅しているものは「3分の1」であり、ということは、3分の2はまだ残されている、ということです。これは何を意味するのでしょうか? このようなさばきのただ中にあっても、神さまはまだ、地の民に対し、悔い改める余地を残していらっしゃる、すなわり、救われるチャンスを残していらしゃるということではないでしょうか? そうなったとき、人のすることは2つに1つです。悔い改めるか、悔い改めを拒絶するかです。イスカリオテのユダのことを思い出しましょう。イエスさまは、イスカリオテのユダに対して、最後まで兄弟、弟子として接されました。主のみからだと見込んで、最後の晩さんのパンとぶどう酒を分けられたのでした。それだけでしょうか? 足を洗ってくださり、ユダのしもべにまでなってくださったのでした。最後まで、これでもか、これでもか、と、悔い改めの機会を与えつづけてくださったのでした。それなのにユダはその場を飛び出し、大祭司のところに行って、イエスさまを十字架につける手引きをしたのでした。 かつてどこかで読んだ本の中で、イエスさまは、ご自身が十字架におかかりになって人類を救うというご計画を、ユダを用いて成し遂げられたのだから、ユダは救われて天国に入れられている、という意味のことが書いてあったのを読んだことがありますが、冗談ではありません。ユダは、最後まで与えられていた悔い改めの機会を自ら逃す選択をしたことによって、悪魔にたましいを売ったのでした。私たちは、こんなもっともらしい説に惑わされ、ユダも主を売る罪を犯したが用いられたのだからと、罪を犯す選択をする自分を正当化する愚かなことをしてはなりません。 今のこの世界もそうです。この4つの災いの示すような天変地異、事件、事故は、現実に私たちが生きている世界のあちこちで姿を見せています。ことに、10節のみことばに出てくる「苦よもぎ」は、ロシア語で「チェルノブイリ」です。これは知る人ぞ知る事実ですが、このことが例の原発事故に関連づけられて知られるようになるにつけ、震え上がった人も多いのではないでしょうか。しかし、そういうあらゆることを見てもなお、人は、救われようと神さまの御前に出る選択をする人と、神さまの御前に出ない選択をする人に分かれます。 私たちが今こうして、救いをいただいていることは感謝です。イエスさまを心に受け入れるべく、聖霊なる神さまが私たちに働いてくださるという、神さまのみわざを体験させていただいたからです。 この恵みが、この終わりの時に、ひとりでも多くの人に臨み、ひとりでも多く救われるように、私たちは祈る必要があります。破滅的な現実を見て恐れても、それで絶望してしまうのではなくて、神さまに立ち帰るように……。私たちは恵みにより、破滅から救っていただいた存在ですが、その救いが私たちだけにとどまることなく、みなに伝わり、ひとりでも多くの人が神の怒りと破滅から救われるように、祈ってまいりたいと思います。 三番目の鍵となる数字、それは「7つのラッパ引く4つのラッパ」、つまり「3」ですが、これは13節に登場する、1羽の鷲の大声にあらわれた「わざわいが来る」ということばが、3度繰り返されていることとも照応しています。 もともと吹き鳴らされるラッパは7本です。7つのラッパは完全に吹き鳴らされるのです。しかし、これまでの4つのラッパの呼び起こしたわざわいだけでも、地とそこに住む人はどれほどの災いをこうむったことでしょうか。それでも神さまのさばきは容赦されません。ご自身が一度定められたさばきは、完全に成し遂げられるまで行われるのです。 神さまがさばきを成し遂げられるのは、この地上の悪が完全に滅ぼされるためです。この世にすがっている人々はもしかすると、この終末のシナリオを知らないか、知っていても認めないかするかもしれません。しかし、私たち主の民は、こうして聖書が与えられている以上、今このようにして、この世界の終わりに臨む完全なさばきを知っています。 私たちは主と交わるならば、この世界がどんなに悪いか、いえ、それ以前に、以前の私たちはどんなに悪い人間だったか、思い知ることになります。私がクリスチャンになったのは中学3年の時のことで、あとちょっとで上の娘がその頃の私の年齢に並びますが、振り返ってみてもつくづく、娘たちには、あの頃の自分のようになってほしくはない、と思います。 あの頃の私は、クリスチャンになったとはいえ、神さまと関係のない歩みをすることも多く、そのまちがった歩みはことばづかいや態度、生活習慣に色濃く表れていました。きっと顔つきや放つ雰囲気も、クリスチャンらしさなどとてもなかったことでしょう。思い返しても冷や汗が出ますが、私たちがきよめられていくならば、そのような者も変えていただき、人の悪、世界の悪を好む思いから憎む思いへと変えられ、この世界に主の御手が臨むことを祈らされるようになります。 しかし、ほんとうに私たちの祈るべきは、私たちだけが助かり、あとはみんなさばかれて世界が終わることでしょうか? 決してそうであってはならないはずです。むしろ私たちの祈り求めるべきことは「悔い改め」ではないでしょうか? 悔い改め。それは人に要求する以前に、私たち自身が率先して行うべきものです。この世界の悪に気づかされ、その悪が主の御手に取り扱われることを求めることは必要ですが、それならば、私たちは自分のうちにある悪を悔い改めなくてもいいのでしょうか? それでは、人の目のちりに気を取られ、自分の目の中の梁を取り除こうとしない、間違った態度でいることです。 この、世の終わりの究極的なさばきは、必ず起こることです。神さまがそうお定めになったからです。しかしそれなら、神さまはなぜこのさばきを、1900年以上にわたって控えてこられたのでしょうか? それは、地の果てまでみことばが宣べ伝えられて、それだけ主の御名に殉じる主のしもべの数が満ちるまでに時間がかかっていることもさることながら、そのような犠牲者を生まないだけの努力を、主のしもべたちがしてきたことも多かったと考えるべきです。 しかし、その努力はおかしな形で実を結ぶようにもなります。それは、教会を構成する者たちの堕落、という形でです。こうなると殉教者は生まれなくなるかもしれませんが、教会はこの世界に対して、何の影響も及ぼせなくなります。しかし、それでいいのでしょうか? そうなったとき、私たちは、自分たちは救われているから終末のさばきを免れている、と言うことが、単なる開き直り、また慢心、怠惰の表れにしかならなくならないでしょうか? 初めの愛から離れた教会は、燭台が取り除かれます。すなわち、御霊が去り、神さまから教会として認めていただけなくなるということです。キリストへの燃える愛がない教会が、いったいどうやって、福音にいのちを懸ける教会になりうるでしょうか? そのような教会になる前に私たちに求められていることは、もし自分たちにキリストへの愛がないことに気づかされたならば、どこで間違ったかを振り返り、悔い改めて、初めの行いである、神を愛し、人を愛する愛を実践することをすることです。大事なのは悔い改めです。 イエスさまの昇天からヨハネの島流しに至るまでの初代教会の歴史は、悔い改めの歴史でもありました。自分たちの悔い改めが宣教地の悔い改めとなりました。一例をあげると、魔術を行う者として神さまの怒りのさばきのもとにあった人が、救われて怒りのさばきから免れさせていただき、その証しに買えば相当な額になる魔術書をみんな火にくべたのでした。 こんにちもそうではないでしょうか? 神の怒り、神のさばきはもう定まっているとばかりに、絶望的になることも、好き勝手に生きることも、どちらも「悔い改めない」「神さまに立ち帰らない」という点では変わるところがありません。さばきは完全に行われます。わざわいは完全にやってきます。 そのさばき、わざわいから、人々が救われることを願い、ひとりでも多くの人が悔い改めるように祈る私たちとなりますように、いえ、人の悔い改めを求める前に、まず私たちこそ悔い改める者となりますように、祈ってまいりたいと思います。 私たちは悪が相当のさばきを受けることを祈りますが、それでも私たちは、現実に目の前にいる人のことを恨んだり、憎んだりしてはなりません。愛するのです。人々がその世界から救われるように、救われるべく悔い改めるように祈るのです。そして、この悔い改めと救いが実現するために、まず私たちから悔い改めましょう。私たちは何を悔い改め、何を祈り求める必要があるでしょうか?

「神のしもべたちへの報い」

聖書箇所;ヨハネの黙示録7:1~17/メッセージ題目;「神のしもべたちへの報い」  先々週、私たちの愛する兄弟が主のみもとに召されたのは、あまりに突然のことで、私もどのように受け止めたらよいかわかりませんでした。それ以上に、ご家族はどれほどショックをお受けになったことだろうか……私は牧師として、何と申し上げればいいだろうか。 翌日の土曜日の朝、遠くの地から、ご家族が駆けつけられたとお聞きして、私はごあいさつに伺いました。ほんとうに、なんと申し上げるべきだろうか……自分が沈痛な面持ちでいるのが、自分でもわかりました。  しかし、ご家族は開口一番、こうおっしゃいました。「いえいえ、天国に凱旋したんですから!」凱旋……このおことばに私は、兄弟が王さまのように、勝利した兵隊さんのように、天国の門へと行進していかれるイメージがわき上がってまいりました。どんなに救われた思いになったかわかりません。 私たち、主にあって召された者の終わりは、まさに、「凱旋」と呼ぶにふさわしいものです。それはたしかにさびしいです。その気持ちまで否定してはなりませんが、私たちはむしろ、喜んでもいいのではないでしょうか。 そして聖書は、だれでも体験する人生の終わりとともに、この世界の終わりについても語っています。ヨハネの黙示録とは、この書が書かれた当時、ローマ帝国とユダヤの宗教社会との挟み撃ちに遭い、たいへんな苦しみの中にあった初代教会の主のしもべたちが報われるという希望を語りつつ、のちの世のすべての聖徒たちがキリストゆえに迫害を受けるが、最終的には報われるというよき知らせを語る書です。 今日の箇所、7章は、6章までに展開する、封印がひとつひとつ解かれていくたびに現れる、絶望的な終末の様相とはきわめて対照的な、希望に満ちた天国の情景です。地の者たちはキリストを主と告白しないゆえに、大いなるさばきに服さざるを得ません。しかし天の御国においてはどうでしょうか? この地上で苦しめられた聖徒たち、神のしもべたちが、神さまから大いなる報いを受け取ります。どのような報いでしょうか? 3つのポイントからお話ししたいと思います。第一に、神のしもべたちは、神さまに守られて御国に入れられるという報いをいただきます。 6章に展開する破滅的な場面の中で、第五の封印が解かれた場面にかぎっては、やや方向が異なります。人が終わりの日の様相に苦しむことに変わりがなくても、第五の封印が解かれて見せられるビジョンにかぎっては、反キリストに対するさばきではなく、神のしもべたちに迫害が加えられて苦しむ、という場面です。 キリスト者もまた苦しみます。この苦しみは、私たちの師であり主であるイエスさまが十字架を背負われ、私たちもその御跡を自分の十字架を背負ってついていく者である以上、私たちもまた負わなければならないものです。避けることはできません。むしろ私たちは、積極的にキリストのために苦しむ道を選び取っていくべきです。 しかし、私たち神のしもべにかぎっては、苦しみは報いられるのです。その最たるものは、私たちキリスト者には、さばきは決して臨むことがない、ということです。 1節を見ますと、御使いが四方の風を押さえつけ、地上に吹きつけないように押さえている様子が見えます。その直前の6章12節から17節を見ますと、天地万物、森羅万象に天変地異が起こり、いよいよ終末のさばきが展開する様相が、絶望的な叫びとともに描写されていますが、そのさばきが実際に地上を襲うまで、御使いが地に吹きつける風、さばきを押さえつけている、というわけです。 旧約聖書を読みますと、エレミヤ書49章36節を読んでもわかるとおり、四方からの風はさばきを象徴しています。しかし、その終末のさばきが実際に地に臨む前に、そのときが来たるのを、主ご自身が御使いに命じて遅らせられる、というのです。それはなぜでしょうか? 私たち、神のしもべのゆえです。神のしもべが完全に召され、神さまのものとなる、そのしもべの数が完全に満ちるまで、主はさばきを控えてくださいます。 この、印を押された人の数、14万4000人について、少し解説したいと思います。これは実際に、ひとり、ふたり、と数えて、14万4000人というわけではないのは、お分かりだと思います。聖書には数の象徴がよく登場するのはご存じのとおりですが、3、という数字は、天におられる神さまが、父、御子、御霊の三位のお方でいらっしゃるように、天、を象徴します。そして、4、は、本日の箇所で「四隅」とありますとおり、「地」を意味します。私たちの住む世界がまるい、ということを、私たちは教えられていますが、私たちの感覚は、世界は「東西南北の四角いもの」ではないでしょうか。地は四角、つまり、4、です。 というわけで、天の「3」と地の「4」を足した「7」という数字、また、掛けた「12」という数字が、完全数、ということになります。ことに、ここで出てくる十二部族は、完全なイスラエル、神の民、という意味になります。 その神の民も部族ごとに見ると、12掛ける1000で1万2000人です。1000、という数も、聖書の世界では「生活感覚においてとても大きな数」です。「主の御前では一日が千年、千年が一日」というのも、一年、二年と数えての文字どおりの千年というよりも、かぎりなく長い時、と解釈すべきでしょう。ヨハネの黙示録に登場する「千年の間王となる」という、いわゆる「千年王国」も、この概念で理解されるべきものでしょう。 そうだとすると、各部族から1万2000人というのも、完全掛けるかぎりなく多い数、ということになります。そしてそれに12を掛けるならば、完全で完全な、とても多い数のしもべ、ということになります。完全というのは、神さまが完全であるということであるとともに、神さまによって完全にされたしもべは完全であるということです。 いやはや、この欠けだらけ、罪だらけなのが私たちではないでしょうか。そんな私たちが、完全な神のしもべに加えていただく恵みをいただけるとは、なんということだと思いませんか? しかし、それがみこころです。 そのように主に召される者の数が完全に満ちるまで、この地には破滅的なさばきは望まないことを主は約束してくださっています。実際、ヨハネの黙示録が語られてから1900年あまり、主は忍耐をもってこの世界の罪を見過ごしにしてくださり、さばきから免れさせてくださいました。 とはいいましても、私たち日本のクリスチャンがよく知らないだけで、世界各地には主の御名のために苦しみ、いのちを落としている兄弟姉妹が実に多くいます。気がついたら神のしもべの数が満ちていた、ということも有り得るかもしれません。私たちは、主の日はまだまだ先だ、とばかりに、この世界で快楽や安逸をむさぼっている場合ではないのではないでしょうか。 しかし、私たちがこの世界において、救われた喜びに満たされ、主のために積極的に苦しみを担っていくならば、主は必ず、私たちを終わりの日のさばきから守ってくださるという、報いを与えてくださいます。感謝しつつ、今日の働きに種を蒔いてまいりたいと思います。 第二のポイントです。神のしもべたちは、天上の賛美に加えていただく報いをいただきます。 9節、10節をお読みします。……この9節の大勢の群衆が、神の民から召された14万4000人と同じか、ちがうかは議論が分かれるところですが、印を押された者たちは14万4000と数えられる、9節の大群衆は数えられない、よって別物だ、と断定するのは乱暴です。なぜなら、印を押された神の民の数はいま述べましたとおり、完全でとても多いということを意味する象徴的な数字であり、ある意味では「数えられない」ものであるという点、9節の大群衆とその点で同じだからです。 しかし、印を押された神のしもべはイスラエルの十二部族だから旧約の民、大群衆はすべての国民、部族、民族、言語に及ぶから、世界宣教が達成されて満たされた新約の民、と解釈する向きもあります。その場合、旧約の民と新約の民が合わさって完全な群衆になる、ということになるわけです。 どちらにせよいえることは、神さまと子羊イエスさまの御前に立つことが許された大群衆は、いかにたくさんいるとはいえ、全員が神さまに召された神のしもべであり、一人として欠けてはいない、完全無欠の神のしもべたち、ということです。神のしもべとしての要件を完全に満たしていて、その完全な神のしもべがひとりも欠けずに、完全な数で御前にそろっているわけです。 私たち一人ひとりも、その完全な大群衆の一人に加わっています。というより、私たちはその群衆に欠けていてはならないのです。私たちも全員加わって完全になります。信じますか? アーメンでしょうか? 神の民に加えられていることに感謝しつつ生きてまいりたいと思います。 そんな、私たちを含む神のしもべたちは何をするのでしょうか? そう、10節にありますとおり、主の栄光、主の救いをほめたたえるのです。 彼らは、天のお父さまのお導きによって、神の子羊イエスさまを救い主と信じ受け入れる恵みをいただきました。そのように救っていただいたゆえに、いまこうして天国に入れられ、神さまと子羊イエスさまの御前で大いなる賛美をおささげしているわけです。 実に、イエスさまの救いとは、天国において最もほめたたえられるべき主題です。神さまはなぜほめたたえられお方なのか? それは、神さまが救い主だからです。もちろん、12節の賛美のことばをお読みすればわかりますとおり、神さまはあらゆる賛美を受けるべき主権者でいらっしゃいます。 私がむかしキャンパス・クルセードのスタッフだった佐藤義孝さんからお聞きしたとおり、「私たちはなぜ神さまを賛美するのですか? それは、神さまだからです」ということばは、言い得て妙、以上に、それ以外に言いようがない真理であり事実です。 しかし神さまは、たんに恐いだけの主権者、人と関係のない主権者ではありません。讃美をお受けになるだけの理由をお持ちのお方です。神さまは、私たち神の民、神のしもべを永遠に救ってくださる主権者であるからこそ、賛美されるべきお方なのです。 では、私たちは何から救っていただいたゆえに、神さまを救い主とほめたたえるのでしょうか? いろいろ言えると思います。罪から救っていただいた。悪魔から救っていたただいた。地獄から救っていただいた。……しかし、なんといっても私たちが心に留めるべきことは、私たちが「神の怒りから救っていただいた」ということです。 ヨハネの黙示録6章の締めくくりで、地に住む者たちはなんと嘆いていますでしょうか?「神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」現に私たちの世界を覆うあらゆるわざわい、環境破壊や天変地異、疫病の流行といったことを見聞きすると、私たち人間は、自分たちに等しく臨む神の怒りの片鱗を見る思いがするのではないでしょうか。神さまは怒っておられる。それゆえに、この世界は破滅的に破壊される。 しかし、私たちは神さまのこの大いなる怒りとさばきから救っていただいた存在です。聖霊の印が額に押され、神さまのものとされている以上、私たちは神さまの子どもです。神さまがご自身の子どもとしてくださった以上、破滅的な怒りをもって私たちのことをおさばきになることは決してありません。私たちは救っていただいているのです。 私たちの賛美は、神さまがこのように、大いなる怒りから私たちを救ってくださったゆえに、うれしくてたまらないのでおささげするものです。クリスマスの時期など特にそうですが、神さまの救いを知らない人、信じるつもりのない人が、たわむれに賛美の歌を歌うことは、人間的になにやら宗教的高揚感に浸る以上の意味はないはずです。気持ちいいから歌っているだけ。 もちろん私たちは、そういうことを通してでもノンクリスチャンの人々がその歌詞の意味に目が開かれ、救われるようにと願ってやみませんが、歌うことそのものは「歌」以上のものではなく、「賛美」ではありません。よもや私たちにとっての「賛美」が、そのような人間的な気持ちよさのレベルにとどまったものとなっていないか、よくよく自分自身の礼拝態度を点検する必要があるのではないでしょうか。 私たちが賛美するのは、救われた喜びをもって主にすべての栄光をお帰しするゆえです。それは、礼拝の時間に歌うことはもちろんのこと、普段の生活においても、その生活態度、具体的な実践のすべてをもって、救い主なるイエスさまをほめたたえるのです。 私は救っていただいたから、人々とお酒の席で盛り上がるような快楽に陥らない。私は救っていただいたから、だらだらとテレビやインターネットに没頭して無駄に時間を過ごさない。私は救っていただいたから、朝すれ違う町の人たちに笑顔であいさつの声をかける。私は救っていただいたから、からだづくりと楽しい食卓を目指して、腕によりをかけて料理をつくる。こういう生き方はみな、神さまへの賛美の実践です。 もちろん、できること、すべきことは、みなさまおひとりおひとりでちがうと思います。よくお祈りして、何を具体的に取り組めるか、まずはこの1週間にひとつでいいですから、考えてごらんになることをお勧めします。でもその動機は、「救われた喜びの表現」です。救われた喜びをわがものとして、感謝してください。そこから行いは生まれてきます。 最後に、第三のポイントです。神のしもべたちは、地上のあらゆる苦難が報われるという報いをいただきます。この大群衆は、白い衣を着せられていました。天国の民、主の御前に出る者としてふさわしい姿をしていました。その者たちはどこから来たか知っていますか? ヨハネはそのように問われ、私の主よ、あなたこそご存じです、と答えました。 天の御国の長老は何と答えたでしょうか?「この者たちは大きな患難を経て来た者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」白い衣は、子羊の血によって洗われたゆえに白いのです。人の罪は緋のように赤いものです。しかし、その、だれもが持っている罪、ひどい罪を洗って白くしていただける唯一の道、それは、子羊イエスさまの血潮によって洗っていただく、ということです。 血によって洗ってきよくなる、という感覚は、羊を飼わない私たちにはぴんと来ないかもしれません。しかし私は以前、いまある神学校の校長先生をしていらっしゃる先生から、こんなお話を聞きました。モンゴルのような大平原で牧畜する地域では、車が必需品である一方で、壊れても直してくれるところなどないので、羊飼いは自分で車を直す必要があるそうです。そうして車を直すと、当然、手は黒い油まみれになります。その油を落とすのに、彼らは羊の血をバケツにとって、それに手を入れて洗うのだそうです。だから、羊の血できれいになるということが感覚的によくわかるのだといいます。 私は羊飼いではありませんが、これを聞いて、なるほど、子羊の血で洗って白くなるということは、牧畜を営んでいた聖書の民には感覚的にわかるのか、と腑に落ちたものでした。 それはさておき、このように子羊の血で洗っていただいて御前に立つ者は、「大きな患難を経て来た者たち」であると語られます。この、ヨハネの時代の聖徒たちがまさにそれにあたりました。 彼らはどんな約束をいただいたのでしょうか? 15節から17節です。この箇所の冒頭の「それゆえ」ということばに注目しましょう。患難を経て、子羊の血で白くされた、それゆえ、ということです。 このように、患難を経て、真に救われた者としてふさわしいことが証しされた者を御前に召してくださるという主の約束が示されました。このことに、この黙示を受け取ったヨハネも、現実に死と隣り合わせの迫害のもとにあったこの時代の聖徒たちも、どれほどの慰めをいただいたことでしょうか。 そしてこの慰めに満ちた約束は、のちの世の聖徒たちにも与えられ、そして今を生きる私たちにも与えられています。先週ご家族は、兄弟とのお別れに涙を流しましたし、私たちも兄弟をお見送りしてからも、兄弟のご意志を受け継いでさまざまな人たちのためにこの地で苦闘するならば、涙を流すことも一度や二度ではありません。しかし、天の御国においては、兄弟の涙はすでにぬぐわれていますし、私たちの涙もまた、神さまの御手によってぬぐっていただけます。 私たちも十字架を背負って主の御跡を従うならば、悲しみますし、苦しみます。しかし私たちのそのような悲しみも、苦しみも、終わりの日に天の御国にて報いていただけるのです。私たちはこのことにかぎりない希望をいだきつつ、今日の労すべき働きに取り組んでまいりたいものです。  私たちは世のさばきから守られ、天の御国に入れていただけます。私たちは神の怒りから救っていただいているゆえに、神さまを賛美する生き方に召されています。私たちのその生き方は十字架を背負う生き方ですが、終わりの日に大いなる報いをいただきます。永遠の喜び、永遠の安息に入れていただけます。 その日を目指して、今日も、明日も、労するための力と希望を、主は私たちに与えつづけてくださいます。 そのようにして私たちが、終わりの日にともに主の栄光を仰ぐ喜びを体験しますように、主の御名によってお祈りいたします。