「教会はキリストの花嫁」

聖書本文;エペソ人への手紙5:22~24/メッセージ題目;「教会はキリストの花嫁」  私の親戚一族は、母と兄、そして私が教会に通っていた以外には、キリスト教会とはとんと縁がありませんでしたが、あることをきっかけに、キリスト教会というものにちょっと好意的になりました。それは私が大学生のとき、いとこが、軽井沢のチャペルで、結婚式を牧師先生の司式で挙げたときのことでした。  もちろん、いとこはクリスチャンではなく、そればかりか、教会に通った経験さえあるわけではありません。そんないとこと、いとこの配偶者になる方のことを、司式をなさった牧師先生が「兄弟姉妹」と呼んでおられたのは、何とも不思議な気がしました。それでも結婚式は、軽井沢という土地柄も相まって、きわめてロマンチックなムードにあふれたものとなりました。 私の伯父はそれを見て、私に、「俊孝もキリスト教式で結婚式を挙げたらいい」といいました。当たり前のことを言わないでほしい、ぼくはクリスチャンだよ、という気分になりましたが、事程左様に、日本の人は教会のことを知っているわけではなく、それだけに、教会というものに一定のロマンを感じているものだと知ったできごとでした。 キリスト教式の結婚式がこれだけ日本ではやっていることは、日本人が宗教というものに無節操だからだと一概に責めることは、ないのではないかなと思います。花嫁が最高に輝くのは、やはりキリスト教式の結婚式ではないでしょうか。 でも、花嫁さんが輝くのは、結婚式だけではないはずです。新婚生活。ウェディング・ドレスをまとって結婚式の主人公になるだけではなく、新婚生活で旦那さんにいっぱいに愛されるなんて、すてきだなあ、と思います。 さて、本日のテーマは、教会はキリストの花嫁、ということで、みことばが語る「花嫁」というものについて、ともに学んでまいりたいと思います。このテーマで語るなら、みことばは私たちに実に多くのことを教えていて、語るべきことがたくさんありますが、今日はその中から、エペソ人への手紙5章の、よく結婚式で牧師先生のメッセージ本文に引用される箇所からお語りしたいと思います。 「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」特に結婚していらっしゃるみなさまにお伺いしたいのですが、このみことばから何を感じますでしょうか? これは、結婚された年数によってさまざまだと思います。まだまだ新婚気分の方なら、うんうん、とうなずかれるでしょう。もう結婚生活が長くなった方はもしかすると、主にお従いするように? そんなの無理! でしょうか? まあ、続きをお聞きください。23節です。……この23節のみことばは、3つのことを語っています。第一に、キリストが教会のかしらである、ということ。第二に、キリストがご自身のからだの救い主である、ということ。そして第三に、そのように、夫は妻のかしらである、ということです。 第一のポイントからまいりましょう。キリストは教会のかしらです。先週私たちは、教会はキリストのからだである、と学びました。からだならば、かしら、頭の部分があるわけです。その頭の部分に当たるのが、イエス・キリストである、というわけです。 あらためて考えてみるまでもないことですが、人間にとってのすべての行動は、頭に位置する脳の指令によることで、たとえば蚊に刺されて「かゆい」と感じたりすることも、明るい場所に出て「まぶしい」と感じたりすることも、みんな脳があるからそう反応するわけです。人間にとっては24時間どんなときも、脳と無関係な行動など存在しません。今こうしてみなさまの前でメッセージをすることにしても、立っていよう、マイクを握っていよう、原稿を読もう、みんなに視線を配ろう、このくらいの声の大きさと口調で話そう……みんな、脳の働きです。 イエスさまがかしらであるということはそのように、教会というものは、キリストのありとあらゆる指令なしには存在することができないことを意味します。私たちはあらゆることを、主のみことばに従って語り、行動します。ゆえに私たちは普段から、主は何を私たちに願っていらっしゃるのか、みことばから学ぶのです。普段からみことばに親しんでいるならば、聖霊なる神さまは私たちのうちに働き、ふさわしいことばを語らせてくださり、ふさわしい行いをさせてくださいます。 それゆえに私たちもまた、キリストのからだであるという自覚を持ち、イエスさまが私たちに願っていらっしゃることをみことばから受け取って、聖霊さまの助けによって語らせていただき、行わせていただくように、日々自分を主にささげていく必要があるわけです。 ディボーションというものはそのように、日々自分を主にささげることであり、単なる宗教的な行い、習慣のように考えるべきではありません。ディボーションを通して主の御声が受け取れていないと感じていらっしゃる方は、牧師まで個別におっしゃっていただければ感謝です。ともに対策を考えてまいりたいと思います。 もう一度申しますが、教会がキリストのからだであるならば、そのかしら、頭(あたま)はキリスト、イエスさまです。誤解される方がいらっしゃらないことを願いますが、牧師が頭なのではありません。牧師である私が講壇でみことばを取り次ぐのは、教会全体がかしらなるキリストに結びつくお手伝いをしていること以上のものではありません。 逆に言えば、みなさまがこのメッセージをお聴きになったとき、細かいたとえ話などが心に残るのではなく、よりいっそうキリストに結びつくようになったならば、私はメッセージを取り次いだ責任を果たしたことになります。 私たちは、かしらであるキリストに結びつくことによって、キリストの願っておらっしゃることを心から喜んで行いたいと願うようになります。そうでないならば、私たちは今なお肉が生きている弱い者です。御霊に逆らう肉の願うことを行いたいと心底願い、結果として罪を犯し、神さまのご栄光をいたくけがすことになります。 そのような人は名前ばかりのクリスチャンで、かしらなるキリストに結びついているなどとは到底言えません。いや、私たちは弱いのだから、罪人なのだから、仕方がない、などと言い訳してはなりません。なぜならば、私たちのかしらはキリストなのであって、私たちの肉の欲望のままに生きてかまわないと吹き込む、サタンではないからです。 では、私たちにとってはなぜ、キリストがかしらなのでしょうか? そこで第二のポイントです。キリストがご自身のからだなる教会の救い主だからです。 私たちはクリスチャンです。神さまのものです。しかし、私たちがイエスさまを信じてクリスチャンになるとき、私たちは、自分が神さまのことを選んだからクリスチャンになったのでしょうか? そうではありません。神さまが私たちを愛し、私たちのために御子イエスさまを遣わしてくださったから、私たちは神さまを愛しているのです。先にあったのは私たちの愛ではありません。神さまの愛です。神さまが愛してくださったから、聖霊さまは私たちがイエスさまを信じ受け入れるように働いてくださったのでした。 神さまが私たちを選んでくださったということは、私たちがまだ罪人であったとき、キリスト・イエスさまが私たちの罪のために死んでくださったということ、そのことによって、神さまが私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださった、ということです。 私たちが犠牲を払って神さまの愛を報酬として獲得するのではありません。犠牲は、神さまの側で支払ってくださったのです。 数年前、山中知義先生が教会にいらしたとき、メッセージで語ってくださいましたが、イエスさまが十字架の上で息を引き取られるとき最後におっしゃったことば、「完了した」ということばは、「テテレスタイ」であり、これは「支払い完了」ということばです。 本来私たち人間は、罪人ゆえに、罪の報酬は死、死、それも、永遠の死をもって神さまに償わなければなりませんでした。しかし、あわれみ深い神さまは、私たち人間が死をもって滅んでしまうことを喜ばれず、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださることにより、その死をもって、私たちの支払うべき罪の代価を、ことごとく支払ってくださいました。テテレスタイ、支払いは完了したのです。 キリストは単にからだのかしらなのではありません。からだの救い主です。私たち主の教会は、キリストに救っていただいたゆえに、キリストのからだとしていただいた存在です。私たちの罪深さを思うならば、どれほどもったいないことでしょうか? 先週私たちは、礼拝において主の晩さんを執り行いました。パンとぶどう汁をいただくことは、単なる宗教的儀礼以上の意味のあることです。パンをキリストのからだに見立て、ぶどう汁をキリストの血潮に見立ててともにいただくということは、私たちがキリストのからだにされている、そして私たちがキリストのからだにされるために、キリストが十字架で血潮を流されたことを、ともに告白するということです。 そのように、キリストがみからだなる教会のかしらとして、みからだなる教会のためにご自分のいのちを差し出されたことを、私たちは地上において、どのように表現するのでしょうか? そこで第三のポイントです。夫たる男性が妻たる女性のかしらとして振る舞い、妻がすべてのことで夫に従うことで、このキリストと教会の相愛関係は完成されます。 このようなことをいうと、フェミニズムの運動家の方々に眉をひそめられることは重々承知です。しかし、聖書に示された、神さまが私たちに与えてくださった原則は、夫たる男性は妻たる女性のかしらである、ということです。 聖書を初めから終わりまで読んでもはっきりしているとおり、神さまは「父なる神さま」である以上、神さまのイメージは男性と女性のどちらなのか、と尋ねられれば、男性、と答えるべきでしょう。 実際、神さまによって最初に造られた人間であるアダムは男性ですし、神のひとり子イエスさまも男性です。イスラエルの十二部族を形づくるヤコブの十二人の子どもも、イエスさまの十二弟子も、みな男性です。聖書の重要な登場人物は女性ももちろんいますが、多くは男性です。そういった事実は、神のかたちは男性であることを聖書が語っていることを裏づけています。 しかし、24節にあるとおり、「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい」と、もし私たちが直接語られたとすれば、私たちはいささか反発心を覚えないでしょうか? 私たちはすべてにおいてキリストに従いたい、ええ、従いたいわよ。私はクリスチャンですもの。でも、うちの宿六亭主に、すべてのことで従いなさいって? 冗談じゃないわ! こうなってしまうのはなぜでしょうか? そう、それは、この地上に存在する多くの夫婦関係において夫とは、妻から見て、宿六亭主のように見なされるしかない、という問題があるからです。 このように妻から見なされるのは、だいたいの場合、夫の側に問題があります。最大の理由は、23節のみことばに隠されています。23節のみことばは何の前提もなく、「夫は妻のかしらです」とは書いていません。「キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように」という但し書きがついたうえで、「夫は妻のかしらなのです」と書いてあります。どういうことかというと、妻を自分のからだとして愛していない、ということです。 夫が妻をどう愛さなければならないかは、そのあとの25節から28節に書いてあるとおりです。お読みしたいと思います。 25節のみことばを見ると、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように」とあります。キリスト・イエスさまは何をして教会を愛されましたか? 何をして教会のためにご自分を献げられましたか? はい、「十字架におかかりになって」です。 つまり夫たる男性は、妻たる女性のために日々十字架を負うことによって、初めて妻に愛される、尊敬される、従ってもらえる資格を得ることができるというべきです。犠牲を払うのです。献身するのです。 そういう犠牲も、そういう献身も、そういう謙遜も一切なくて、聖書に書いてあるんだから私に従え、などと、けっして言うべきではありません。 いったいイエスさまは、教会以外の存在のために十字架を負われたでしょうか? 教会以外の存在のために犠牲を払われたでしょうか? いいえ、イエスさまの十字架の犠牲は、教会のためにだけ向けられた完璧なものでした。 夫たる男性は、なかなかイエスさまが愛されたようには、妻を愛することができないかもしれません。しかし、「キリストが愛されたように妻を愛したい、なぜならば、それがみこころだから」と、心から願って取り組んでまいりたいものです。その態度はやがて、奥さんに伝わり、奥さんも、このみことばのとおりに夫に従いたい、という思いを持つように、必ず変わるはずです。 以上のことはおもに、結婚していらっしゃる方に向けてお語りしていることですが、結婚していらっしゃらない方を含めた教会全体の兄弟姉妹には、私はこのようにお伝えしたいと思います。私たちはいっしょに、キリストの貞淑な花嫁になろう。この世のどんな夫婦関係の成し遂げ得ない、キリストとの相思相愛の関係をつくっていこう。 花嫁としてキリストに従うには、心の中が花婿なるキリストでいっぱいになっている必要があります。2000年前、イエスさまのおられたとこにはどこにでも、人々がついて行きました。俗っぽい言い方をすれば、アイドルの追っかけのように、イエスさまの追っかけだったわけです。 私たちは今こうして、みことばを開いてお祈りすることで、あの当時のパレスチナのユダヤ人に負けないほど、イエスさまの近くに行くことができます。いや、彼らよりももっと祝福されています。 わずか3年のイエスさまの公生涯で、直接お声をかけていただいた人がどれだけいたというのでしょうか? でも私たちは、会話まで交わすことができるのです。御手で触れていただくことができるのです。 イエスさまがアイドル歌手のようだったら、追っかけをするばかりで、心の中に憧れのイメージをつくるだけで満足するしかありません。 しかしイエスさまはアイドル歌手のような遠い憧れではありません。すぐそばにいる「花婿」つまり、「花嫁の夫」です。いつでもそばにいられるのです。いつでも話せるのです。いつでも愛してくださるのです。 ならば私たち教会のすることは何でしょうか? そう、「花嫁修業」です。私たちの地上の歩みは、キリストに嫁ぐ終わりの日に備えた「花嫁修業」になぞらえることができるでしょう。大好きなイエスさまに迎えていただけると思ったら、よい行いをしてしっかり備えていきたい、と思いませんでしょうか? ヨハネの黙示録は、キリストの花嫁なる教会が身にまとう白いウェディング・ドレスは、聖徒の正しい行いである語っています。聖徒として、すなわち、神さまのみこころにふさわしく、正しい行いをしていくのです。私たちは正しい行いで救いを獲得するわけではありません。救われているゆえに、救ってくださったイエスさまのすばらしさを顕すべく、みこころにかなった正しい行いを積み重ねていくのです。 その歩みは一朝一夕にできるようになるものではありません。ありていに言ってしまえば、すべては「練習」です。しかし、私たちの生き方はたとえ、御国につくまでの練習であっても、間違いなく、主のご栄光を人々の前に輝かせ、人々が私たちをとおして神さまをほめたたえるように導きます。 花嫁修業に励むことは、真剣にしてまいりたいものです。花婿イエスさまにいっぱいに愛されている、その愛に応えるために、ともに、どんなことでも励んでまいりましょう。私たちの日々の努力が、主の恵みによって支えられ、終わりに日に恥ずかしくなく、花婿なるイエスさまの御前にともに立つものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。