聖書箇所;ヨハネの手紙第一2:1~11(新p478)/メッセージ題目;「兄弟姉妹を愛するために」
私たちクリスチャンは、教会外部の人たちからどのように見られているでしょうか? えらい人でしょうか? きよい人でしょうか? もちろん、そんなたいそうな人たちではないことなど、私たち自身がいちばんよく知っていることですが、以前教会に通っていなかった頃の私の経験から言わせていただければ、クリスチャンという存在には、一般の人たちはそのような、一定のイメージを持っているようです。
イエスさまは、人々が私たちクリスチャンに対して抱くイメージを特徴づけるものは、私たちクリスチャンの兄弟姉妹の間の「愛」である、という意味のことをおっしゃいました。ヨハネの福音書13章34節と35節をお読みいただきたいと思います。……それでは、私たちはいかにしてその「愛」を実践していくものなのでしょうか? ヨハネの第一の手紙から、この「愛」について、私たちは学んでいきたいと思います。
まず1節から見てまいります。……最初に、私たちは「罪を犯さないようになる」ことが要求されています。なぜでしょうか? 私たちは、罪を犯すことのふさわしくない存在にされているからです。エペソ人への手紙5章8節には、このように書かれています。……私たちは、光であられるイエスさまを心の中にお迎えしているので、私たちもまた、イエスさまという光を照らす「光」となりました。私たちはその光を照らす、神の子どもらしく歩む必要があるわけです。
コリント人への第二の手紙6章14節には、このようにあります。……光の子どもである私たちにとって、暗闇は似合わないのです。私たちは、暗闇の勢力に仲間入りすべきではない存在なのです。
そういうわけで罪はどんな罪でも避けなければなりません。それでも私たちは、罪を犯してはしまわないでしょうか? 時に、暗闇のわざに仲間入りしてしまいはしないでしょうか? そんな私たちが罪を犯さないようになるとは、どういうことでしょうか? 1節のみことばの後半を改めてごらんください。私たちには、御父の御前で私たちのことを弁護してくださる、イエスさまがいらっしゃいます。
イエスさまご自身がとりなしてくださるのです。何と感謝なことでしょうか! それでは、イエスさまはどのようにして、私たちの罪をとりなしてくださるのでしょうか? 2節のみことばです。……宥めのささげ物、とあります。宥めのささげ物については、ローマ人への手紙3章25節と26節に書かれています。
神さまはまず、人々のあらゆる不敬虔と不義に対し、怒っておられます。その怒りがもし人にそのまま注がれたならば、人はひとりとして生きることはできませんでした。しかし神さまは、人を愛しておられ、人がひとりとして滅びることを望んではいらっしゃいませんでした。その神さまの怒りを宥めるささげ物……それは、神のひとり子イエスさまが十字架にかかって血潮を流してくださることだったのです。
本来ならば人の側で、神の怒りを宥めるささげ物を供えなければならなかったのではないでしょうか。しかし、人は不完全であり、かつ罪深いので、どんなものを用意したとしても、完全な神さまのみこころにかなうささげ物を用意することはできませんでした。
このままでは人は神さまの怒りに触れて滅ぼされてしまいます。そこで神さまの側から、宥めのささげ物を備えられました。神さまが供え物とされたのは、完全なるお方、イエスさまだったのです。そのささげ物は、「私たちの罪だけでなく、世全体の罪のため」とあります。すべての時代のすべての人にとって有効なものです。
ここに、人に対する神さまの愛を見ることができます。神さまは人を愛しておられることを、ご自身のひとり子を十字架におつけになるということをとおして、人の前に示してくださったのです。
そのようにして神さまの愛をいただいた私たちのすることは何でしょうか? 3節です。
……神さまを知っているとはどういうことでしょうか? ただ「神は父、子、御霊の三位一体のお方である」とか「神は愛である」とか、そういうことを知っていればいいのでしょうか? もちろん、それもとても大事なことですが、それで完結してしまうならば、単なる「情報」にすぎません。3節のこのみことばは、神を知っていることは、「神の命令を守る」ことによって証明されると語っています。ということは、聖書に対する知識がいっぱいあっても、生活がとても主のみこころにかなわないような人は、実は神を知っていることにはならない、ということがわかるわけです。
続く4節にはこのようにあります。……この4節のみことばをお読みして、私たちはどのように感じたでしょうか? 「私は神の命令を守っているから、神を知っていると言っても偽ってはいない」と思いますか? もしそうお思いでしたら、1章の、8節と10節をお読みください。……そうです、私たちはどこかで罪を犯しているものです。神の命令に反する生き方をしている者、それが私たちです。うぬぼれてはなりません。
ならば、「ああ、自分は神を知っていたつもりになっていた、実際はご命令を守らないことばかりだ! 自分は真理がうちにない、偽り者だ!」と思いますか? もしそうならば1節のみことばに戻りましょう。私たちのその罪は、イエスさまが十字架によって赦してくださいました。私たちは、神の恵みによって罪のさばきから守られている存在です。自分の罪深さに思いを巡らすよりも、イエスさまの完全な赦しに信頼していただきたいのです。
5節のみことばにまいります。……このみことばは何を語っているのでしょうか? みことばを守る人には、神の愛が実現している、ということです。誤解のないように申し上げますが、みことばを文字どおりに守ることで神の愛を獲得するのではありません。言い換えれば、私たちがみことばを守り行う理由は、神さまに愛してほしいからではありません。
神さまがすでに自分のことを、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださるほどに愛してくださっているから、その愛に応えて、みことばを守るのです。神さまが愛しておられるその愛を感じて、みことばを守り行いたくてたまらなくなるのです。そのようにみことばを守りたくてたまらない人は、間違いなく、神さまのうちにいます。私たちが目指すべきは、このような人ではないでしょうか?
そういうわけで、神さまのうちにとどまることが私たちの目標ですが、どのように生きる必要があるのでしょうか? 6節のみことばです。……キリストが歩まれた歩みは、4つの福音書に記されています。そのイエスさまの歩み。これこそ、私たちの目指すべき歩みであるというわけです。このような歩みは、イエスさまを信じバプテスマを受ければ、ひとりでにできるようになるものではありません。だからといって、私たちが人間的な努力を積み重ねればできるようになるというものでもありません。私たちの力でイエスさまのような歩みができないことを素直に認め、神さまの力に拠り頼みつつ、神さまの恵みの中で少しでも努力を重ねていく必要があります。
そのように、キリストに似た者になるために私たちは、毎日聖書を読んで、イエスさまがどのように歩まれたかを常に学ぶ必要があります。この取り組みは、ひとりでするものではありません。教会の兄弟姉妹でともに取り組むものです。教会のみなさまでともに成長してまいりたいものです。
さて、このようにヨハネが読者に命じていることは、どのような性質を持っている命令でしょうか? 7節と8節をお読みします。……7節ではこれが古い命令であると言い、8節では新しい命令であると言っています。いったいどういうことでしょうか?……まず7節では、古い命令とは「あなたがたがすでに聞いているみことば」のことであると書かれています。
この時代におけるみことばとは、今で言う旧約聖書です。いうまでもなく旧約聖書の時代には、キリストはイエスさまというお名前では登場していません。しかし、神さまの示された人間の守り行うべき基準については、旧約聖書には書かれています。その意味で、使徒ヨハネはこの命令を「古い命令」と語ったのです。
この「古い命令」は、人間的な努力で守り行えるものではありませんでした。しかし、時が満ちて、イエスさまがこの地上に来られました。旧約に啓示されていた救い主のおとずれは、イエスさまが来られたことによって成就したのです。そしてイエスさまを超える啓示は、もはや存在しません。イエスさま以上に新しいお方はいないのです。このイエス・キリストの恵みによって、この古い命令は「守り行わなければならない」ものから「守り行いたい」ものへと昇華されました。
ゆえに、キリストのように歩めと説くこの命令は、旧約のみことばに根差している分、古い命令であり、永遠に新しいお方であるイエスさまゆえに、新しい命令なのです。古い命令であると同時に新しい命令である。ということは、この命令はどの時代にも通用する、時代を超えた真理であるということになります。「それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です」と語っているとおりです。
私たちはその真理の光に照らされるべく召された者です。しかし、実際の私たちの姿はどうでしょうか? 9節のみことばをお読みします。
……この世の中で、イエスさまという光にあずかることほど素晴らしいことはありません。私たちはそれを知っているから、教会にも来ますし、聖書も読みますし、お祈りもします。しかしこのみことばは、兄弟を憎んでいる者は今もなおやみの中にいる、つまり、光の中にはいない、と語っています。
私たちの心が問われています。私たちにはだれか、憎んでいる人がいないでしょうか? もし、だれかのことを憎んでいるならば、表面的にどんなに取り繕ったとしても、やみの中にいるという事実を覆すことはできません。
10節を飛ばして先に11節をお読みします。……このみことばは、兄弟と呼ばれている人、つまり、神さまが私たちの隣人としてそばに置いてくださっている人を憎む、そのメカニズムを語っています。それは、そのように兄弟を憎む人は、神の光の中にとどまるよりも、神の光に照らされないほうがいいと思っている領域、すなわち闇というものを心の中につくり出し、その闇の中にあえてとどまろうとするから、と語っています。その結果、その闇の力のゆえに、兄弟を憎むということをしてしまうのです。
逆に言えば私たちは、兄弟を憎む心を温存することによって、私たちの心はどす黒いやみが支配するようになります。口ではいかにも立派なことを言っていようと、実際に兄弟を憎んでいるならば、その人は神の光に照らされることを拒んでいるということになるのです。
そんな私たちはどうすればいいのでしょうか? 10節のみことばに答えがあります。そうです、神の光の中にとどまるためには、とにかく兄弟を愛すればいいのです。しかし、こう申しますと、非常に事は簡単に済みますが、私たちの実際の姿はどうでしょうか? すぐそばにいる人を愛していると、心から言えるでしょうか? 夫婦の間で衝突があったらどうでしょうか? 親子の間ではどうでしょうか? 嫁姑の間ではどうでしょうか? 教会の兄弟姉妹の間ではどうでしょうか?
このようにひとつひとつ見ていくと、私たちはみな、神さまが定めておられる「愛」の基準からとても遠いところにある……それが私たちの姿ではないでしょうか? しかし、私たちの目指すべきは光の中にとどまることであるのは変わりません。私たちに愛がないことを悟らされたならば、どうすればいいのでしょうか? そうです、このような者を御父の御前でとりなしてくださる、イエスさまのみもとに行けばいいのです。
そもそも、完璧に隣人を愛する歩みができた人なんて、イエスさま以外にいらっしゃいません。私たちの愛という歩みはどこかが不完全なものです。しかし、イエスさまが愛されたように隣人を愛するならば、私たちの愛は完全な愛、神さまのみこころにかなう愛に近づくのです。それこそが、神さまの光の中にとどまる歩みです。
もう一度、メッセージの冒頭でご紹介したみことば、ヨハネの福音書13章34節と35節をお読みします。……私たちが互いに愛し合うためには、まず、イエスさまがどんなに私たちのことを愛しておられるかを知る必要があります。だから私たちは聖書をいつもお読みするのですし、また、お祈りをするのです。その結果、教会という場で奉仕のわざをとおして、愛の実を具体的に結んでいくのです。
そのようにお互いが、キリストの愛によって愛し合う姿……私たちにとってこれ以上、この世に対して、神さまを証しする生き方はありません。私たちが互いに愛し合っているならば、目に見えないイエスさまというお方に従っているんだなあ……ということは、イエスさまというお方は実際にいらっしゃるんだなあ……このお方は信じ従うべきお方なんだなあ……ということが、世に対して伝わっていきます。いくら論理的に聖書の正しさを証明しようとしても、私たちが互いに、イエスさまの愛によって愛し合っていなければ、世の中にどうやって、神さまが信じ受け入れるべき真理なるお方であることを伝えることができるでしょうか。
そうは言いましても、何度も申し上げているとおり、私たちはなかなか愛することのできない者です。ならば、そのような私たちであることを正直に主の御前に認め、赦していただきましょう。ヨハネの手紙第一の1章の9節をお読みします。
兄弟姉妹を愛さないということも、罪です。その罪を抱えているかぎり、私たちは暗闇の中に今もなおいることになります。暗闇の中にとどまっていてはいけません。私たちは主の光に導かれ、主の光へと向かって歩むように召された存在です。主の光の中を歩んでいる証拠は、互いに愛し合うという形で実を結びます。
私たちがいま生きている世の中は、ソーシャル・ディスタンスということが言われています。同じ物理的な空間をともにする形で愛し合うことには、ハンディがあるのが現実です。もちろん、この礼拝堂に日曜日にやってきて時間を共有するのがベストにはちがいありませんが、それができる状況になくて悩んでいる方がおられるのが現実です。
しかしそれでも、私たちは愛し合えないでしょうか? 私たちの生きる社会は幸い、文明の利器というものがあります。私たちには電話もありますし、手紙もあります。ラインもあります。私たちが愛し合う共同体の中にいることを、文明の利器を用いることで確かめるのも一つのありかたでしょう。それはちょうど、使徒のヨハネの時代に手紙を介してみことばをやり取りしたのと同じことと言えないでしょうか?
信仰の家族として愛し合う共同体を形づくるうえで、いまはかなり制限が加わって難しさを覚えますが、このようなときだからこそ互いのために祈り、励まし合い、力づけ合う共同体として成長するものとなりますように、そして、その歩みが神さまを示すまたとない証しとしてこの世界に伝わりますように、私たちの群れに祝福があるようにお祈りいたします。