聖書本文;コリント人への手紙第一3:1~9/メッセージ題目;「パウロに見る『宣教者とは何か』」
3週間ぶりに第一コリントから学びます。本日は3章の1節から9節のみことばより、「パウロに見る『宣教者とは何か』」と題してみことばに聴きましょう。
パウロのことを「パウロ先生」と呼ぶ牧師先生がいます。主に年配の方です。聖書の人物を「先生」と呼ぶとは、いい呼び方だな、と思ったものですが、新約の登場人物を呼ぶ際に「先生」という呼び名が似合うのは、パウロくらいではないでしょうか? ペテロ先生? ヨハネ先生? なんだかしっくりこないような気がします。やはり「パウロ先生」という呼び方が、いちばんしっくりくるようです。
パウロは、現代人の私たちにも「先生」と呼ばれるだけのことはあるでしょう。その深い神学的解き明かし、そして、その神学に裏打ちされた宣教と牧会の熱心……教会形成に献身した人たちにとっては、学ぶところばかりです。天に召されて2000年ちかくたっても、やはり「先生」と呼びたくなる、信仰の先輩、それがパウロです。
私たちはこのような「先生」になりたいでしょうか? 私たちもみことばを託された者であり、教会を形成する働きを託された者です。私たちは一方的にみことばを聴くだけではありません。みことばを語り、またみことばを守り行う模範を示す者です。そういう意味では私たちもパウロと同じ、宣教をする者、「宣教者」です。
本日の箇所の学びにまいりましょう。パウロはコリント教会の信徒たちを相手にして、嘆いていました。主にあって愛するゆえの嘆きです。しかしこの嘆きをよく見てみると、パウロが神さまから託された「宣教者」としての働き、キリストの御国の福音を宣べ伝えるとはどういうことなのかを知ることができます。3つのポイントに分けて見てまいります。
①第一に、宣教者とは説教者、みことばを語る人です。
1節のみことばをお読みします。……パウロは、コリント教会の信徒たちに対して「兄弟たち」と語りかけています。兄弟として呼びかけているわけで、あなたがたは私にとってとても親しい存在であるという、親愛の情をこめて呼びかけているわけです。
しかし、実際のところ、パウロはやさしいばかりのことばをかけるわけではありません。そのことばはとても厳しいものです。しかしまずは、パウロは福音宣教の種を蒔いたばかりの頃の彼ら、コリント教会の信徒たちの様子を語っています。
コリントという町に住む人はもともと、福音の何たるかを知っている人たちではありませんでした。パウロはそういう人たちが霊的には幼子、よちよち歩きの初歩の段階であるということを責めているわけではありません。何も知らない人に、神学校で講義するようなレベルのことを語ったって、何がわかってもらえるというのでしょうか。それに、このコリントの人たちの行動は、みことばの基準からははるかにかけ離れたものでした。それをみことばに従ってもらおうとするならば、とにかくコリントの人たちの目線に降りて、噛んで含めるように語らざるを得ません。
信徒が霊的に成長するためには、赤ちゃんがミルクをいっしょうけんめい飲むように、みことばを慕い求める必要があります。新約聖書ペテロの手紙第一2章2節に「霊の乳」とあるとおりです。――生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。――そう、赤ちゃんにとってのミルクのようなみことばを読んで学べば、救われますし、霊的に成長します。しかし、赤ちゃんにミルクを飲ませるには人肌に温めたり、消毒した哺乳瓶に入れたり、飲んだ後は吐き出さないように背中を軽くたたいてげっぷをさせたりするように、とかく手がかかるもので、単に飲ませればいいというものではありません。同じように霊的な幼子にみことばを語るには、相当な工夫をする必要があります。
あらゆる聖書の学問に通じていたパウロはもちろん、コリントの信徒たちにどんなメッセージを語るべきかということはわかっていました。2節のみことばです。……人は成長すれば、ミルクのような口当たりのよいものだけではなく、野菜のような大人の味を、ちゃんと噛んで味わえるようになります。
コリント教会の信徒たちは、もう初歩的なみことばの学びを卒業し、もっと難しく、もっと実際的なみことばを身に着けていてしかるべきでした。ところが実際はというと、その段階からとても遠いところにいました。
このように、指導者の期待に信徒が応えられないという現状に関しては、ヘブル人への手紙の著者が具体的に語っていますので、見てみましょう。5章の12節から14節です。――あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。/乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。/固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。――
うちの母は教会生活を最初、家からとても遠くはなれた教会で始めたこともあり、そのために車の運転免許を取りました。そのような中で信仰を持ち、免許も無事に取れたのですが、母はそのように信仰生活を始めたことを「若葉マークのクリスチャン」と、うれしがっていました。言い得て妙ですが、信仰生活をするにあたって、若葉マークをいつまでも外さないような振る舞いをするようでは困ります。もう、人にみことばを教えられるほどにみことばに通じ、自分自身もみことばを守り行う人になっているべきなのに、いまだに幼い。未信者のお客さんのように、初歩のクリスチャンのように、私のことを扱ってほしい。これでは困ります。
コリント教会にも、まさにこのような成長しない信者たちのもたらす問題が横たわっていたわけでした。それでは、それはどんな問題だったのでしょうか。3節のみことばです。……問題は、ほかの信徒をねたんだり、教会内に争いを起こしたりするような、「聖徒の交わり」に関するものでした。聖徒たちは同じ神さま、同じキリストによって罪赦され、愛されている存在ですから、主にあって愛し合ってしかるべきです。それがねたみ合う、争い合うのもやむなし、となっているならば、そのように神さまに赦され、愛されているということは、その人たちにとっては何の関係もない、ということになってしまいます。
具体的にどのような争いが起きていたのでしょうか? 4節のみことばです。……1章12節でも取り上げられている分派の問題を、パウロはここでも取り上げています。つまり、分派をつくるということは、教会にとってそれだけ由々しき問題である、ということです。
パウロにせよアポロにせよ、そんな彼らに対してみことばを語りつづけることで教育してきました。しかし、彼らはまともに受け止めることをせず、結果このように、分派をつくるなどという形で、その霊的幼さをさらけ出してしまいました。
そんな彼らに対しては、何度でもみことばを語りつづけるしかありません。ご覧ください。パウロは教会開拓に当たって彼らにみことばを語るだけではなく、このような問題を取り扱う必要があるため、今度は手紙という形でみことばを語っています。相手が理解してそのとおりに振る舞えるまで、何度でもみことばを語る説教者でありつづける、これが宣教者としてのありかたです。
私もこうして講壇をお預かりしている以上、みことばを語り告げる責任があります。しかし、みなさまにお願いしたいことですが、どうかこの、みことばを語るという働きを、私ひとりの働きにしないでいただきたいのです。
みなさまは日々お読みになるみことばを通して、どれほど多くのことを教えられているでしょうか? それをほかの兄弟姉妹に、ほかの未信者に語るのです。みことばを聴く者はもちろん霊的に成長しますが、語る者はそれ以上に成長します。みことばを語るという責任が伴い、その責任を果たすように生きるようになるからです。私たちはみことばを聴く者であるのと同時に、お互いが成長してキリストの満ち満ちた身丈にまでになるために、みことばを語る者となりましょう。
第二のポイントです。宣教者とは奉仕者、仕える人です。
5節のみことばをお読みします。……あなたがたは「パウロ派」とか「アポロ派」をつくって、私たちのことを派閥の頭目のように扱っている。しかし、私たちはあなたがたコリント教会の信徒たちが、キリストを信じるために神に用いられる奉仕者である。私たちは、奉仕者にすぎないのだ。
この奉仕者とは、しもべ、です。人は高い地位、尊敬されるような地位につきたがり、そういう人に対して下へも置かない扱いをするものですが、しもべのような立場の人に対しては、ぞんざいに扱って後ろめたさを覚えることをしません。パウロは、そのような世の価値観にどっぷり浸かっているコリントの信徒たちに、私たちは奉仕者にすぎないよ、しもべだよ、と語っているわけです。
そもそも、分裂や分派を起こすということは、相手の陣営よりも自分の陣営の方が上だ、と主張し、よって自分は人よりも偉い者である、と見なすことにほかなりません。しかし、それはこの世の価値観であり、間違っても、神の国にふさわしい態度ではありません。
イエスさまの十二弟子も、しばしばそのように、この中でだれがいちばん偉いか、ということを議論しました。イエスさまにいちばん近くあるべき彼らが、なんともふさわしくないことをしたものです。イエスさまはそんな弟子たちに対し、子どものようになれ、とおっしゃったり、みなに仕える者になりなさい、とおっしゃったり、さらにはご自身がしもべの姿を取って、彼らの足を洗ったりなさいました。子どものようになる、しもべのようになる……それはこの世が目指す生き方とは正反対のありかたですが、イエスさまご自身が、それでこそ偉い、という、逆説的なメッセージをその身をもって弟子たちにお伝えになりました。
神の国を地上に実現する教会において、ほんとうに私たちが目を留めるべき存在は、奉仕者です。奉仕者は、あの時代の華やかな都市、コリントにおいてそうだったように、いまの世においても人から注目されません。私たちもできることならば、奉仕ということはしたくありません。することをするのが当然と見なされるうえに、だれもほめてくれないからです。
しかしパウロは、自分はそういう存在であってもかまわない、自分はそういう存在である、と語っています。そう言えるのはなぜでしょうか? 私たちの主、イエスさまがしもべだったからです。イエスさまがしもべならば、イエスさまにならう私たちクリスチャンは、当然、しもべになれるはずです。
しかし、しもべ、奉仕者と申しましても、教会における奉仕は、この世において「奉仕」と呼ばれているものと、決定的な違いがあります。5節の後半をご覧ください。――主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。――
大事なのは主との関係です。6節を見ると、私が植えて、アポロが水を注ぎました、とあります。コリント教会を畑に見立て、苗を植える働き、すなわち、何もないところに宣教をして教会を開拓する作業そのものを、私パウロがした、そしてアポロが水を注いだ。
すなわち、そのあとの教会形成の働きを私パウロから引き継いで、アポロが教会形成に取り組んだ、それは言うなれば、パウロとアポロが神さまにあってコリント教会形成の役割分担をしたということである。間違っても、派閥づくりをしたわけではない、勘違いはしないでほしい、ということです。
奉仕は報いが与えられないように思えます。それでも励めるのはなぜでしょうか。神さまからのあふれる愛を受けているからです。神さまの愛によって、キリストのからだなる教会の益になるように奉仕したい! あふれる思いです。教会にはいろいろな奉仕の働きがあります。ざっと数えただけでも、日曜学校の教師、受付と案内、音響と録音、導入讃美の演奏、パワーポイント操作、司会、礼拝讃美の演奏、献金の集計と会計管理、そして忘れてはいけないのは、お掃除……みんな、しもべになって働いていらっしゃいます。奉仕者なのです。
世の中の人から見れば、なにもわざわざそんなことを日曜日にしなくたって、と見えるでしょうか? しかし私たちは、これが最高の喜びだからしているのです。神さまに愛されている、その愛の精一杯の表現として実践しているのです。
パウロにしてもそうでした。イエスさまの愛に触れられて、その愛の精一杯の表現として、異国の大都市コリントにて宣教しました。その結果パウロを待っていたものは、コリントの人たちの勘違いでしたが、それでもパウロは偉い人として振る舞わず、私はしもべですよ、奉仕者ですよ、と、コリント教会に告げ、そのとおりに振る舞ったのでした。
弟子たちの足を洗われたイエスさまの愛に触れられて、コリント教会にて奉仕者として振る舞ったパウロは、私たちのモデルです。私たちの目に見えない奉仕は、キリストのからだなる教会を立て上げるということにおいて、決してパウロの働きに引けを取ってはいません。
私たちはときに、教会での自分の奉仕はだれにも評価してもらえない、と思ってはいないでしょうか? 思い出してください。私たちは神さまの愛に触れられて、その愛を表現しているわけです。神さまとの関係で奉仕に取り組みましょう。神さまが私たちの存在を喜んでくださっているから、私たちはキリストのからだなる教会において喜びの奉仕のわざをささげられるのです。そのことそのものに喜び、イエスさまにならい、パウロにならい、奉仕者とされていることに、喜びと感謝をいだいてまいりましょう。
第三のポイントです。宣教者とは神の同労者です。
6節から7節をお読みします。……パウロもアポロもたしかに働いています。奉仕しています。しかし、いちばん大事なのは、成長させてくださる神さまです。
先週、教会のそばにある小学校の隣の田んぼが、稲刈りを行いました。あるのはもう刈り
株だけです。ついこの間田植えだと思ったのに、もう早いものです。田んぼは、田植えと稲刈りの時に特に農家の方が奮闘しますが、四六時中田んぼを監視するわけではありません。ほとんど、稲が成長するに任せるわけです。
作物や果樹によっては、農家の人が殊の外手入れをしなければならない品種もあります。それでも、それがちゃんと育つかどうかは、創造主なる神さまの御手にかかっています。大事なのは成長させてくださる神さまです。
教会もこれと同じものだというわけです。教会開拓をする人、その後の教会成長を担う人、役割は別々ですが、いちばん大事なのは、成長させてくださる神さまです。
8節のみことばをお読みします。……このみことばによれば、パウロとアポロは一つです。ひとつのコリント教会を立て上げるという、おひとりの神さまから託されたひとつの使命を果たすということにおいて、彼らはひとつでした。
とは申しましても、だれかが汗をかいてさえいれば、ほかの人は労さずとも同じ報酬を天の御国にて受けられるというものではありません。パウロが頑張りさえすればアポロは頑張らなくていい、というものではなく、あるいは、パウロやアポロが頑張りさえすればコリントの信徒たちは頑張らなくていい、というものでもありません。キリストのからだなる教会を立て上げる、このひとつの働きにともに取り組むために、自分に託された働きをいっしょうけんめいにすることが大事です。それは、天にて受けられる報酬をいただくにあたって、自分が失格者となることのないためです。
私たちはそのために、できるかぎりの努力が必要です。だれもが天の報酬をいただけるので、そのために努力するのです。私も天の御国にて報酬がいただけるように努力しますが、この水戸第一聖書バプテスト教会をこの地に立て上げたことの報酬を、みなさまもしっかり努力して、同じだけ受け取ってほしいと、切に願います。
9節のみことばです。……私たちパウロとアポロは同労者。これは、2つの意味があります。ひとつは、パウロとアポロの2人は、神「のために働く」ということにおいて、同労者である。もうひとつは、パウロもアポロも、神「と」の同労者である、ということです。
これは、どちらも真(まこと)です。主にある働き人は同労者である……これは今まで語ってきたとおりですが、それは同時に、主にある働き人は、主とともに働く同労者である、言い換えれば、主がともに働いてくださる、主の同労者である、ということです。
この素晴らしさがお分かりでしょうか? このことを説明するには、やはり聖書のみことばをお読みするのがいちばんです。旧約聖書、伝道者の書4章の9節から12節です。――9 二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。10 どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。11 また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。12 一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。――
これは、クリスチャンのカップルの結婚式でよく読まれるみことばで、主にある夫婦がいかに力強い存在かということの裏付けとなるみことばですが、夫婦にかぎりません。主にある同労者すべてに当てはまるみことばです。パウロとアポロも、コリントの地にキリストのからだなる教会を立て上げるという使命において、同労者であり、戦友でした。
12節をよく読むと、二人、について語っていたところに、三つ撚りの糸、という表現が登場します。クリスチャンの仲間関係の中にもうひとつ撚り合わせるのは何でしょうか? そう、神さまです。私たちが主にある同労者となるためには、主ご自身に間に入っていただくことです。
私たちがクリスチャンどうしでありながら、しばしば不和が起こったりするのは、神さまにご介在していただくように、私たち自身を差し出していないからです。「ともに」主の御前にひざまずいて祈る、ということをどれほどしているでしょうか?「ともに」みことばを分かち合って恵みをいただくということをどれほどしているでしょうか? そのような、「ともに」主と交わる体験を常にしていないならば、ほんらい主にあって強力に保つべき私たちの関係は、いともあっさりと崩れ去ってしまいます。
本文に戻って、9節の後半を見てみましょう。
――あなたがたは神の畑、神の建物です。――畑というと何を連想するでしょうか? 尾山令仁先生は現代訳聖書を翻訳されるにあたり、この箇所を「ぶどう畑」と訳されました。そのように言うと、何を連想しますでしょうか? そうです、弟子たちへの告別説教でお語りになった、イエスさまのたとえ、ヨハネの福音書15章の1節から6節のみことばです。
信徒の共同体である教会は、だれか人間のオーナーのものではありません。牧師のものでもなければ、役員のものでもありません。神さまのものです。神さまご自身が私たちを手入れしてくださいます。牧師はもちろんのことですが、信徒はみな、このぶどう畑を手入れする神さまの働きにともに労する、神の同労者であると同時に、神の畑です。私たちのすることはこの神の畑、神のぶどう畑の中で、イエスさまというぶどうの木にとどまることです。そうすればイエスさまが私たちにとどまってくださり、実を結ぶようにしてくださいます。
神の建物ということについては、来週くわしく扱います。詳しい説明は来週に譲り、ここでは、神の畑と同様に、オーナーは神さまご自身、お建てになるのは神さまご自身であり、私たちはその働きにあずかる同労者であり、また同時に神の建物そのものであるということに触れておけば充分と思います。
ここまで見てきましたとおり、神さまは私たちを畑や建物のように、ご自分のものとしてくださっているのと同時に、私たちのことを神さまの同労者という、この上なく素晴しい働きに召してくださいました。なんともったいないことでしょうか。この召命を前にした私たちの態度は二つに一つです。ひとつは、そんなのどうでもいいと思って無視すること、もうひとつは、この素晴らしい働きに召していただいたことに心から感謝して、一生懸命に励むことです。みなさまには、召しに感謝していっしょうけんめい励む道を選択していただきたいと、心からお願いします。
メッセージを振り返ります。
宣教者はみことばを語る人です。私たちも互いにみことばを語り、教え合い、教わり合い、学んだみことばをひとつひとつ実践してまいりましょう。
そして、宣教者は奉仕をする人です。私たちも、たとえ人から注目されなくても、日々主からいただく愛に大いに満たされ、あふれるばかりの愛をもって、小さな働きに忠実になりましょう。
そして、宣教者は主の同労者です。私たちが主にあってともに働くことで、主とともに働く恵み、主が私たちのただ中で働いてくださる恵みを、ともに体験してまいりましょう。
今週も、そしてこれからも、みことばを語る人として、奉仕する人として、主の同労者として、ともに恵みをいただく私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。