放送伝道の意義

聖書本文;テモテへの手紙第二4:1~5/メッセージ題目;放送伝道の意義  本日午後、「世の光のつどい水戸大会」が、オンラインで開催されます。「世の光」というものは、いまから70年前に日本宣教の組織としてスタートした「太平洋放送協会」の番組で、ここ茨城県では「世の光いきいきタイム」という番組名で、毎週日曜日の午前7時10分から25分まで、15分間放送されています。かつてうちの教会の姉妹も出演されたことがあるのをご記憶の方も多いと思います。 「世の光のつどい」とは、この「世の光いきいきタイム」の聴取者、リスナーのつどいであり、そのもっともメインになる対象は、ラジオ番組を聴いていらっしゃる求道者の方です。ラジオをとおして聖書のメッセージに触れている求道者の方が、このつどいをとおしてメッセンジャーの牧師先生のメッセージを聴き、イエスさまを救い主と信じて主とともに歩む祝福を味わわれるため、教会につながるため、地域の教会が連合して集会を持ちます。  茨城県内では、日立市を中心とした県北地区、筑西市を中心とした県西地区、石岡市や小美玉市を中心とした県央地区、牛久市を中心とした県南地区、鹿島地区、そして水戸地区と「世の光のつどい」を開催する地域が分かれています。このうち私たち水戸地区は、かなり精力的に、毎年のように大会を開いてきました。しかし、去年はコロナ下ということもあり、集まって集会を持つことを断念せざるを得ませんでした。   今年に入り、茨城各地のつどいの準備会は、次々に大会開催を昨年に引き続いて断念しました。残るわれらが水戸地区も、断念しなければならないかも……私たちはそんな気持ちになりかかっていました。会場を手配できたとしても、いざ開催となったときにコロナがまたもや蔓延したとなったら目も当てられません。   しかし、準備会に新たなアイディアが与えられました。オンライン開催……折からのコロナ下ということで、昨年からオンラインでいろいろなセミナーやイベントが行われることは花盛りとなっていましたが、自分たちもやろう、ということになりました。 そもそも、この準備会自体がコロナ伝染を考慮してオンラインで行なっていたものであり、その話し合いのたびに太平洋放送協会の谷川(たにがわ)ディレクターも東京のオフィスから参加してくださっていたことが、大きな励ましとなりました。   世の光つどいのオンライン開催は、全国的にもあまり例がなかったものでもあり、谷川ディレクターはかなり頑張ってこの水戸大会のためにバックアップしてくださいました。 私たちは何度も準備会を持ち、今月頭には数時間かけてリハーサルを行いました。この、今までの水戸大会の歴史の中で、前例のない取り組みが成功するように、ぜひ祈っていただきたいと願います。   本日は普段のメッセージの箸休め的に、世の光のような放送伝道の意義を、テモテへの手紙第二4章1節から5節のみことばをもとにお話ししたいと思います。   以前も、詩篇150篇を読み解くときに用いた方法ですが、「5W1H」というものがあります。だれが、何を、いつ、どこで、なぜ、どのように……。この本文はパウロが主にあってテモテに命じたことば「みことばを宣べ伝えなさい」が核となっています。この箇所を「5W1H」で読み解きますと、このようになります。 「テモテが、みことばを、時が良くても悪くても、2節と5節のように、1節、3節、4節の理由から、宣べ伝える。」「どこで」ということは書かれてはいませんが、これは「時が良くても悪くても」というみことばを応用すれば、「テモテの置かれているところどこででも」と解釈することができるでしょう。   放送伝道というものは、単なるエンターテインメントではありません。放送、ラジオ、という媒体を使う分、「どのように」ということが具体的になっていますが、その根本にある「どのように」ということは、みことばにあるとおりです。2節と5節がその「どのように」であると申しましたが、ひとつずつ見てまいります。   忍耐のかぎりをつくし……みことばを宣べ伝えることは忍耐のいることです。私たちはラジオをつければ福音放送が聴けることを、当たり前のように思ってはいないでしょうか? しかし、その背後には、放送局の会計を支えるために、日本全国の教会から祈りをもってささげられた献金の存在があります。 それでも放送局の会計は潤沢とはいえません。極めて厳しい中で質の高い番組づくりをするということは、たいへんな忍耐を要することです。 いえ、番組づくりだけではありません。日本全国の地域との連携も含めた働きをするために、スタッフは大変苦労しています。メッセンジャーとしてメッセージをする牧師先生たちは普段牧会する教会の働きの合間にそのお仕事をしていらっしゃるわけで、ここにも大きな忍耐を必要としていらっしゃいます。   絶えず教えながら……ラジオというものは放送されたらそれで終わりというものではありません。放送局のホームページにアクセスしたり、電話をかけたりしたら、メッセージを聴くことができます。このように、記録に残っていつまでも繰り返し聴かれるに耐えられるだけの聖書の教えを、メッセンジャーの先生方は絶えず語っていらっしゃいます。もちろん、そのために背後でどれほど学んでいらっしゃることか、その膨大な学びの積み重ねが、わずか数分のメッセージに凝縮されているのです。   絶えず、ということを考えますと、放送伝道とは「絶えず」語る働きです。時が良くても悪くても語ります。リスナーがラジオを携帯する先、あるいはインターネットなどに残る、その番組の録音物を聴く先、どこででもメッセンジャーは語ります。いつ、どこで、ということでしたら、まさに、いつでも、どこででも、これが放送伝道の特徴です。   責め、戒め、また勧めなさい……放送伝道はだれもが耳にするというその性格上、火のように厳しい表現を用いてメッセージを語っているわけではありません。しかし、私たちも注意深く番組を聴いてみればわかりますが、罪ははっきり悪いことと指摘し、戒めることばを聖書のみことばをもとに語っています。 もしかすると人によっては、番組を聞いただけで自分のことが責められたと感じるかもしれませんが、それは番組を制作する人には承知のことです。たんなる甘ったるいだけのメッセージなら、何もキリスト教の人でなくても語れます。 しかし私たちは、人がキリストの十字架を信じて罪から神に立ち帰るためには、罪を指摘し、戒めることは避けて通れません。メッセンジャーはとてもソフトな語り口ですが、避けるべき罪をしっかり語り、神の子どもとして歩むべき生き方を勧めています。   5節も「どのように」ということを述べていると言えますが、これはこの箇所の結論にもあたる部分でもあるので、これについてはメッセージの最後にあらためて扱おうと思います。   それでは、次は「なぜ」について見てみます。   1節のみことばは、テモテをはじめ、聖徒がすべからくみことばを伝えるべき理由を述べています。   まず、伝道とは、神の御前に私たちが生きているゆえにすることです。神さはいつ、どんなときにも、私たちの前におられるお方です。 しかし私たちは、なんと罪深く、すぐ目の前におられる神さまを無視して生きることの多いものでしょうか。   そのような私たちが、しかし、神さまがそばにおられる、目の前におられることを絶えず意識して生きていくことができるならば、それはとても素晴らしいことです。神さまの恵みです。 そのように、私たちのそばにおられる神さまは、そのご存在とみこころ、みことばを、主のしもべたちが人々に宣べ伝えることを願っていらっしゃいます。神の御前につねに立つ、と思えば、私たちはみことばを伝えずにはいられなくなります。   さばき主なるキリスト・イエスの現れとその御国のゆえに……これも、みことばを宣べ伝える理由です。万物を神と和解させてくださり、人を天の御国に入れてくださるご存在は、イエス・キリスト、ただおひとりです。 このキリストを信じ受け入れるならば救われます。しかし、キリストを信じない者はさばきにあい、神の怒りがその上にとどまります。私たちはそのさばきを信じるゆえに、人々が少しでもさばきから免れることを願って、キリストを宣べ伝えるのです。   私たちにとっての伝道とは、それが神さまのみこころにかなうことだから、また、キリストによって神の怒りとさばきから人々を救うことだから行うこと……放送伝道というものも、そういう理由があって行うものです。決してこれは、いち宗教としてのキリスト教をベースにしたエンターテインメントを行なっているのではありません。   それが伝道ということの大前提ですが、みことばを宣べ伝えることをしなければならないのは、今後どういう時代になるからかということを、パウロはテモテに説いています。それが3節と4節のみことばですが、あらためて読みます。   まず、人々は健全な教えに耐えられなくなるのです。聖書のみことばをまっすぐに解き明かした、そのメッセージを聴くことをいやがります。聖書は愛について語りますが、この愛は甘ったるいものではなく、罪の悔い改めと表裏一体をなす、きわめて厳しいことに裏打ちされたものです。 人が神の愛を体験するには、どうしても罪がみことばと聖霊によって指摘される必要があります。その厳しいメッセージを聴きたがらないのです。   厳しいメッセージの代わりに人が聴きたがるものは、ただやさしいだけのメッセージです。あなたは愛されています。あなたは特別な存在です。それはたしかにそうですし、そのメッセージは聴く必要のあるものです。しかし、それしか聴かないで、罪を指摘するメッセージに一切耳を傾けないようでは、霊的に成長しているように思えても、実際は霊的な栄養失調に陥ります。耳に心地よいメッセージを聴くとはそういうことです。…

「癒やしは愛を生む」

聖書箇所;マルコの福音書1:29〜31 メッセージ題目;「癒やしは愛を生む」  私は現在牧師として、フルタイムの働きをしています。そのフルタイムの働きをすることを、直接献身と言いますが、私が直接献身への召しをいただいたのは、1990年8月16日、高校2年生、16歳の夏のことでした。しかし、実際に直接献身に踏み切り、神学校に行くには、さらに7年の時間が必要でした。 直接献身を恐いと思った理由……いろいろ考えられると思いますが、その中でも大きかったもの、それは、「家族も含めて、自分の生活がどうなってしまうのか?」という、言いようもない恐れだったと思います。最も現実的には、果たして経済的に大丈夫なのだろうか? という不安なのですが、そのほかにも不安がつきまとってくるような気分になったものです。  私の場合、母親がすでにクリスチャンだったにもかかわらず、そのようなことを考えてしまっていたのです。自分には家族の中で味方になってくれる人が母親しかいない、いえ、これは見方を変えれば、母親だけでも味方になってくれる人がいたということでしたが、それでも不安だったことは否定できません。いわんや家族の中でクリスチャンは自分一人という人の場合、もし献身に導かれたならば、その人はどれほど不安だろうかと思います。  いえ、直接献身だけではありません。特にこの日本では、イエスさまを信じてバプテスマを受け、教会のひと枝に加わるということは、たいへんな決断をするようなものです。私たちはいかにしてその決断をして、永遠のいのちに加えられたのでしょうか? もちろん、それは主の恵みによることですが、その決断をするだけの、みことばに対する信仰も、私たちに与えられたからこそ、私たちはこうして、日本の社会のしがらみにとらわれずに、神の民として生きているわけです。素晴らしいことです。  今日の箇所には、ヤコブとヨハネが登場します。ペテロとアンデレもいたはずです。そのような、イエスさまに従った弟子たち……彼らはまさに、イエスさまのために何もかも「捨てた」人たちでした。同じマルコの福音書1章を読むと、ヤコブやヨハネは、「舟もろとも父も残して」イエスさまに従ったとあります。大事な家族を、生活のために必要な財産もろとも残して、イエスさまについていったのでした。  この聖書箇所をいきなり読むと、私たちはぎょっとしないでしょうか? 漁師の生活を支える舟、そればかりかお父さんさえも置いていかないとだめなのだろうか……。 そのように何もかも、家族さえも捨てないと、クリスチャンになれないのだろうか……そんなことを思ったりはしないでしょうか? しかし、私たちは決して、家族を見捨てて信仰生活を送るわけではありません。むしろそのような生き方は推奨できません。もしそのように、親を捨てるようなことをして、あとは知らん顔、という態度でいるならば、その人は、イエスさまのみこころをあまりにも表面的に受け取っていることになります。 イエスさまは決して、親不孝を勧めるようなお方ではいらっしゃいません。イエスさまはむしろ、家族という存在をとても気にかけておられた方でした。もちろん、家族という血の絆が優先するあまり、イエスさま本来の働きがおろそかになるようなことは、断固として退けられました。今月初めに礼拝メッセージで学んだとおりです。 しかしそれでも、イエスさまは家族をまったく見捨てられたわけではありません。イエスさまは十字架にお掛かりになったとき、その場にいた弟子のヨハネに、ご自身の母マリアの面倒を見ることを命じられました。ちゃんとケアしていらっしゃったのです。イエスさまにしてそうなのですから、いわんや私たちはどれほど、家族を大切にする必要があることでしょうか。 それでは、今日の箇所へとまいりたいと思います。イエスさまは、ご自身の家族だけではなく、イエスさまに従う者の家族のことを気にかけてくださるお方です。そのことを私たちは、今日の箇所から学ぶことができます。ともに見てまいりましょう。  30節をご覧ください。……熱、ということは、ここしばらくの間、多くの人が体験しています。私の友達や知り合いはワクチンを打って、とても高い熱が出てつらいと、フェイスブックのようなSNSで訴えていました。結構多くの人が書いています。みんな、普段病気になるようなことなどないから、そのように訴えたくてたまらなくなるのでしょう。 言うまでもないことですが、熱というのはつらいものです。私も15年ほどむかし、目の手術をしましたが、高い熱が出て、たいへんな思いをしました。看病してくれている人には悪いのですが、早く帰ってほしくてたまらなくなったものでした。話すのも、いえ、そばにだれかいること自体がたいへんなのです。 さて、この熱を出したのは、ペテロのしゅうとめ、とあります。このことから、ペテロは結婚していたことがわかります。 このところ学んでいるコリント人への手紙第一9章5節を見てみますと、ペテロには、イエスさまを信じて信者になっていた妻がいて、その妻を連れてペテロが宣教活動をしていたことがわかります。その妻の母親にあたるのが、この、熱病で床に着いているしゅうとめです。 しゅうとめは、ペテロの家でふせっていた、とあります。ということは、彼女は娘について、ペテロの家に引っ越してきていた、ということになります。ペテロはそういうことからも、しゅうとめに対する責任を果たす必要がありました。 31節をお読みします。イエスさまはみことばによってみわざを行なってくださるお方です。ゆえに病も、おことばひとつでいやすことのできるお方でした。病よ、去れ! そうおっしゃったならば、病は去る、イエスさまはそういうお方です。 しかしここでは、直接ペテロの家に訪ねて来られ、伏せっているしゅうとめの手を取って起こされました。イエスさまに直接手を握ってもらって、起こしていただいたのです。イエスさまは、ご自身の弟子であるペテロの家族がこのように苦しんでいるのを、イエスさまは放っておかれませんでした。深くあわれんで、いやしの業を行なってくださったのでした。 こうして熱病のいやされたしゅうとめは、何をしたでしょうか? そうです、イエスさまをもてなした、とあります。別の訳では、「イエスさまに仕えた」となります。いやされてそれで終わりだったのではありませんでした。イエスさまに、奉仕をもってお応えしたのでした。 ここに、私たちにとってのいやしの最終的な目標が示されています。イエスさまにお仕えすること。私たちは、イエスさまにいやしていただくことによって、喜んでイエスさまにお仕えするのです。 さて、人が「病む」ということはたとえばどういう場合か、いろいろ考えられます。肉体的な病気のために生きる気力を失った場合、あるいは、引きこもりのように、肉体には問題がなくても気力を失った場合……いずれにせよ「病んで」いるのです。 あるいは、人間関係でトラブルを起こしてしまうタイプの方がいます。やたら自己中心に振る舞ったり、やたらお節介を焼いたり、みんなの注目を浴びようとしたり、注目されなかったら不機嫌になったり……。 こういう人は、さびしいのです。愛されたいのです。しかし、その人の欲しがる愛を人が満たすには、限界がありすぎます。周りもそんな人を愛そうとして、疲れて、集団が病んでしまう結果になります。家族にせよ、職場にせよ、あるいは教会もそうなのですが、トラブルメーカーの引き起こす問題のために、集団まで病むという結果になります。 そういう人が「いやされる」ということは、どうなることを意味しているのでしょうか? そうです、「愛されたい」という思いに執着したり、「自分のことしか考えない」という段階にとどまったりするところから脱出するのです。「人を愛する」という行いが実践できるようになる、それが、ほんとうの意味での癒やしです。 人は、神のかたちに創造されています。そして、神さまは愛です。ということは、人は神のかたちである以上、人を愛したいという欲求、それに根ざした行動が本来先に立つべき存在です。人の本能は「愛されたい」ではないのです。「愛する」なのです。 それが、なぜだか人は、「愛されたい」となっているのです。なぜでしょうか? それは、「愛する」という、人が本来創造された神さまの目的から外れた生き方をしたがるようになったからです。神さまに背を向ける、罪のゆえに、「愛する」が「愛されたい」になってしまったのです。 創世記3章を思い出してください。罪を犯したアダムとエバは、責任転嫁して恥じるところを知りませんでした。彼らは神さまに「ごめんなさい」と言うべきでした。 アダムはエバのことを「私が善悪の知識の木の実を食べないように、しっかり言い渡さなかった私がいけませんでした」と、神さまに対して責任を取るべきでした。エバはエバで神さまに対し、アダムのことを「私が善悪の知識の木の実を食べるように渡したのがいけませんでした」と責任を取るべきでした。 それが、彼らのしたことは責任転嫁です。善悪の知識の木の実を食べるという罪を犯したことを、アダムは神さまとエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。要するに、彼らは神の怒りから相手をかくまうという、人を愛することを放棄し、自分可愛さに、人を罪に定めても自己弁護したのです。このように世界に罪が入った初めから、人は「愛する」存在が「悪い人に思われたくない」、早い話が「愛されたい」存在へと堕落してしまったのでした。 しかし、人はやり直せます。それは、「愛されたい」を「愛する」に変えてくださる、イエスさまが出会ってくださることによってです。 ご覧ください。聖書のどの箇所を読んでも、イエスさまが「愛されたい」という振る舞いをなさった箇所はありません。すべては「愛する」行動です。そのように、どんなときにも「愛する」という行動をもって、私たち人間に愛というものをお示しになったイエスさまは、私たちを「愛する」人に変えてくださいます。ペテロのしゅうとめの癒やしのわざは、単に熱が下がったことではありません。もちろん、それそのものもとても素晴らしい主のみわざですが、それ以上に素晴らしいことは、その癒やされた身をもって、ペテロを含むイエスさまの弟子の一行を、心を込めてもてなしたことです。 彼女は本来、ガリラヤ湖の漁師に娘を嫁がせ、それによって安定した老後を送れることが保障されていました。ところがその婿はといえば、大工のせがれに弟子入りし、あちこちへ旅をして回っている。娘はどうなるのだ? 婿は大丈夫か? 心配は尽きなかったはずです。 そんな自分はというと、高い熱を出して寝こんだ。死にそう。苦しい。そこへやってきたのがイエスさま。なんと、私の熱をすっかり癒やしてくださった! この、論より証拠のみわざは、彼女を愛する人へと成長させました。このお方になら、婿を託せる! 心からそう信じ、さあ、イエスさまもお弟子さんたちも、召し上がってください! 元気をつけて、次の旅に行ってください! そうして、愛するという行動を「もてなす」という形で、具体的に取れたのでした。  しかし、イエスさまとその一行は、いつまでもペテロの家にとどまっているわけにはいきませんでした。人々がイエスさまを必要としていました。悪霊につかれた人、病気の人が身内にいて、本人だけでなく、家族も友人もみな苦しんでおりました。しかし、イエスさまならば悪霊を追い出してくださる、病気をいやしてくださる……そのように信じて、人々はイエスさまのもとに押し寄せたのでした。  イエスさまとその一行は、もてなしてもらうことに終わりません。次なる愛する働きへと出ていくのです。イエスさまは、自己中心で愛されたいとばかり思っているような私たちに愛することを教えてくださり、愛する人へと変えてくださいます。それが、まことのいやしです。愛する人に変えていただける幸いに今日も感謝しつつ、いやしの御手に触れていただきながら歩んでまいりましょう。

教会のお父さん

聖書箇所;コリント人への手紙第一4:14~21/メッセージ題目;教会のお父さん  最近、「親ガチャ」ということばが流行っているのをご存じでしょうか? あのガチャガチャみたいに、親を選べない子どもが、よい親だろうと悪い親だろうと、宿命のように受け入れなければならない、この世の不条理をあらわすことばです。悪い親、合わない親を持ったら「親ガチャに外れた」などという言い方をします。このことばが流行るとは、こんにちにおいてはよほど、親というものに重苦しさを覚えている子どもが多い、ということを示しているようです。  子どもとしては、そういう親を持ったならば確かにかわいそうです。同情したくなります。しかしここで、あえて「親ガチャに外れた」ですとか「毒親」と呼ばれるお父さん、お母さんの立場になって弁護してみますと、彼らお父さん、お母さんは、そもそも親になるとはどういうことか、親であるとはどういうことか、わからなかったのです。 それは、彼らお父さん、お母さんたちが、親とは何かを肌で理解できるような育てられ方をしなかったせいもあるでしょう。親になっても仕事や家事にかまけて、子どもとの健全な関係を振り返ったり、学んだりする余裕もなかったのでしょう。つい感情的になったり、無視したりするような接し方を、知らず知らずのうちに、子どもに対してしてしまっていたのでしょう。 子どもたちは、少なくともいい大人になったならば、自分のことをそれでも育ててくれた親に対し、「親ガチャに外れた」ですとか、「毒親」とか非難する前に、そうなるだけの理由があったことくらいは考えてあげてもいいのではないかと思います。そうすることで、少しでも親御さんから受けた傷がいやされるならと、願ってやみません。 そうは申してもやはり、素晴らしいお父さんを持てた子どもが幸せなのは間違いのないところです。男は怒らずきよい手を上げて祈りなさい、とみことばにありますが、ホンモノのお父さんは、自分の家庭のためにとにかく祈ります。ひたすら祈ります。なにがなんでも祈ります。そのように祈られている奥さんやお子さんは、もしかすると、それだけお父さんが祈っていることを知らないかもしれません。感じていないかもしれません。しかし、その家族は世界一幸せです。 今日のテーマは「お父さん」です。といいましても、肉の家族のお父さんではありません。教会の「お父さん」です。   今日の箇所は特に、15節のパウロの告白に注目します。……パウロは、自分はコリント教会のみなさんにとって父である、お父さんである、と告白しています。  14節にあるとおり、あなたがたは私の愛する子どもだから諭します。お父さんだからです。16節にあるとおり、あなたがたは私にならう者となってくださいと勧めます。お父さんだからです。そして17節、愛する子どもテモテをあなたがたのところに送ります。これも、お父さんの愛情と配慮の表れです。  パウロにとってコリント教会は、いっしょうけんめいに宣教して生み出した、信仰の共同体です。まさに、パウロはコリント教会にとってお父さんです。それが今、コリント教会は派閥争いに明け暮れ、四分五裂(しぶんごれつ)しています。早い話が「兄弟げんか」をしている有様です。その「兄弟げんか」をパウロがじきじきに仲裁しようというのが、この第一コリントが書かれた目的のひとつでありました。頼むから子どもたちは仲良くしてくれないと……まさしくパウロの「親心」です。  コリント教会は、派閥づくり、派閥争いをするだけのエネルギーはありました。しかし、エネルギーがあるならいいというものではありません。問題はそのエネルギーをどこに使うかです。 親の心に背いて、兄弟げんかするためにエネルギーを使うのでしょうか? それとも、親の心に従って、兄弟仲良く力を合わせ、主のみこころをともに成し遂げるためにエネルギーを使うのでしょうか? この違いはとても大きいです。いえ、天と地の差です。  14節をお読みください。パウロは何も、彼らコリント教会の至らない現状、だめさ加減を叱り飛ばして恥じ入らせようとしているわけではありません。そんな叱責は何も生みません。   よく、誤解されることばに「悔い改め」ということばがあります。「悔い改め」ということを神の御前でするとき、必ず必要になることは、言うまでもなく「悔いる」ことです。自分のしでかしてしまった、主の御前にふさわしくない罪にいやでも向き合い、その罪の醜さ、そして、その罪を犯してしまった自分の醜さを痛感し、「悔いる」のです。とても耐えがたく、また恥ずかしくなる作業ですが、それが「悔い改め」にとって必要なことです。   しかし、悔い改めとは、耐えがたいこと、恥ずかしいことを体験する以上のことです。その醜さ、恥ずかしさに向き合ったら、そこから「改め」、つまり、神さまへと方向転換するのです。そんな罪を犯した私のことを、神さまはイエスさまの十字架によって完全に赦してくださり、神さまのみこころを行う者へと変えてくださる。もはや自分は醜くない、恥ずかしくない、神さまのみこころを力強く正々堂々と行なっていこう! ここまで来て、初めて「悔い改め」が成立するのです。 恥じ入るだけのことを「悔い改め」とは言いませんし、そんな自虐的なことは、神さまが私たちに望んでいらっしゃる生き方から、最も遠いものです。パウロが「あなたがたコリント教会を私の愛する子どもとして諭す」というのは、もちろん「悔い改め」によってみこころにかなった教会、ふさわしい教会になることを期待するからです。 恥じ入らせるだけならば「悔い改め」ならぬ「悔い」させるだけです。愛する子どもとしてパウロの諭しを受けたコリント教会は、すべからく悔い改め、新たな出発をするべきだというわけです。 15節のみことば、これは、パウロのプライドというよりも、パウロが神さまから与えられたアイデンティティ、自分は神さまによって何者にされているか、という告白と見るべきです。 まず、パウロがコリント教会の礎を据えたということは、事実です。ゆえにパウロには、コリント教会を生んだ父としての責任があります。自分が産んだコリント教会がこんな四分五裂しているようでは、どれほどキリストのからだとしてふさわしくないか、私は神さまに申し訳ない……。 しかし、パウロは同時に、コリント教会には養育者があってこそ今がある、ということも認めています。それをパウロは、養育者が一万人いても、という、相当大胆な仮定をしています。アポロやケファもその養育者に含まれますが、そのほかにも、コリント教会のために献身した働き人は多くいたことでしょう。 これはしかし、よく考えると、それほど突拍子もない仮定をしているわけではありません。イエスさまの昇天されたあとの、教会の誕生日、ペンテコステの日にかぎっても、男性だけで3000人もが弟子に加えられています。それからあとも次々と弟子たちが加えられ、キリストのからだなる教会は大いに成長しました。 パウロやアポロやケファといった指導者の背後には、このような何千、何万もの聖徒たちの存在があり、その存在そのものが、キリストの福音がまことであると証言しているわけで、そうだとすると、この有名無名の何万もの聖徒たちはすべて、コリント教会を霊的にここまで養った養育係であるということができます。 養育係にはほかの側面もあります。いま現実に第一コリントが書かれるまで、旧約聖書に登場したすべての登場人物の存在です。彼らはときに模範になり、ときに反面教師になりました。この聖書に登場する有名無名の人物も、キリストへと教会を導く養育係の役割を果たしていると言えます。 しかし、そのような何千、何万という存在を向こうに回しても、パウロ「自分が」コリント教会を生んだ父であるという前提のもと、みことばを語っています。私があなたがたを生んだのだ、私はあなたがたを父親として愛している、父親として気にかけている、私の子どもたちよ、思い出してほしい……。 そんなパウロはなんと勧めていますでしょうか? 16節です。……牧会というものは、牧会者が、その牧会のもとにある聖徒たちに、自分自身の姿を模範として示すことと言えます。その姿とは、キリストの弟子として生きることです。私がキリストの弟子として生きるこの姿を、あなたがたも見てほしい、そして、学んでほしい、そのとおりに守り行なってほしい……。まさしく「オヤジの背中を見て子どもは学ぶ」のです。 聖書はすばらしいことが書いてありますが、この聖書のすばらしさは、みことばを守り行う人がその姿を人々の前に現すことによって、証明されます。聖書が素晴らしくても、そのとおりに生きることをしていないならば、絵に描いた餅となってしまいます。ゆえに教会には、聖書のみことばの素晴らしさを実践するキリストの弟子の生き方を人々に示す存在が必要になります。 パウロは、自分こそがその生き方をあなたがたの前で示すから、どうか私にならってキリストの弟子になってほしい、と語るわけです。しかし、現にこうしてパウロが「手紙」という形でコリント教会を教えているのは、自分自身がコリントに出向けないでいる、という事情があったからでした。パウロは多忙でしたし、コリントにおいそれと旅行はできませんでした。そこでパウロは何をしたのでしょうか? 17節です。 パウロはテモテのことを、「私が愛する、主にあって忠実な子」であると評価しています。そのテモテを見れば、すなわちパウロに接することと同じであり、パウロにならう生き方とは、すなわち、キリストの弟子として生きる生き方とはどういうものかを肌で知ることができる、というわけです。 パウロはテモテのことを、心血注いで訓練しました。この、パウロがテモテを教育し、訓練した哲学は、特に第一テモテ、第二テモテを読めばわかるとおりですが、その中で第二テモテ2章2節のみことばに注目していただきたいと思います。 このみことばを見ると、まず、パウロがテモテを教えています。そのテモテに、人を教えなさいと教えています。そのテモテの教えを受けた人が、次の人を教えるところまで、パウロは見据えています。 この「教える」ということは、「単なる知識や教養や情報として聖書を教える」のではありません。「みことばを生活化させ、守り行うことができるように教える」のです。そのためには、訓練が必要です。生まれつきのままの人間は肉的で、御霊に従うこと、みことばに従うことを好まないから、その肉の部分が取り除かれるプロセスが必要です。 そんな人間の自我が砕かれ、主に従順にお従いする人になるためには、訓練が必要です。イエスさまが十二弟子と寝食をともにしてご自身の弟子として訓練されたように、主の弟子となる訓練を施すのです。それを「弟子訓練」と言います。主の弟子訓練です。その「主の弟子訓練」をパウロがテモテに施したように、テモテもコリントの信徒たちに施し、ひいては、コリントの信徒たちからも弟子訓練のできる人材が起こされることにパウロは期待しています。 このように、自分の子どものように牧会哲学を分かち合う働き人を、子どもとして愛する教会に送り込むこと、これも、パウロのコリント教会に対する親心です。テモテをごらん、私のように生きるとは、キリストの弟子として生きるとは、こうすることだよ、さあ、学びなさい……。パウロの牧会のもとにあるコリント教会にとっては、パウロの腹心であるテモテこそが、牧会者として最もふさわしいわけで、そのような、リーダーの牧会哲学を共有する働き人が牧会することが、教会形成においてもっと理想的なありかたです。 ともかく、まずはパウロの代わりにテモテが行くことになったわけですが、とはいっても、コリント教会にとっては、これでおっかないパウロ先生が来なくて済む、よかったよかった、というわけにはまいりません。18節から21節をお読みします。 むかしの日本の漫画「夕焼け番長」をもじって、「言うだけ番長」ということばがあります。ことばは番長のように威勢がいいが、所詮ことばだけ。中身が伴っていない。コリント教会はそんな「言うだけ番長」の派閥争いで、神の力など現れてはいませんでした。 パウロはそんなコリント教会の信徒たちに言うわけです。あなたがたを、直接叱り飛ばしに行くかもしれないぞ、でもあなたがたがちゃんとしていれば、私が行ったとき、愛情とやさしさに満ちたことばでほめてあげようじゃないか。さあ、どうする? パウロは、忍耐をもってコリント教会を信頼しようとしています。あなたがたは兄弟げんかしない、愛し合う共同体になれるんだよ、さあ、私の心そのものである、テモテの生き方から学びなさい。 教会は、何らかの権威が存在していないならば、自分勝手なことをおっぱじめるようになります。それはなぜでしょうか? 教会は罪人の集まりだからです。罪人がかしらなるイエスさまにつながることをしないならば、その群れを支配する論理はイエスさまではなく、罪人の論理になります。そんな群れはキリストの教会としてふさわしくありません。そのような堕落した群れにならないために、このたびのコリント教会においてはテモテのような牧会者を必要としていました。 また、コリント教会に対して、まるでさばき主のように自分は行くかもしれないぞ、とパウロが迫ったのは、なぜであるか? パウロなど足元にも及ばないさばき主、再臨のイエスさまを意識させるためでした。パウロが来るならときちんとした態度で信仰生活を送ることを志すならば、ましてやイエスさまが来られることを意識して、それ相応のきちんとした態度で生きることは当然ではないか。父とは、終わりの日にさばきがあることを意識させ、きちんとした従順の生活を送れるように促す存在です。これもまた、厳しいながらも優しいパウロの親心です。 さて、ここまで、教会の父としてのパウロとその子どもとしてのコリント教会、あるいはテモテとの関係をみことばから見てまいりましたが、私は今回のメッセージを備えるにあたり、大きく意識を変えてみなさまにお仕えすることを決意しました。 以前この教会に来て間もない頃、役員会の席上で、ある役員の方が「武井先生には教会のお父さんであることが期待されているんだからね」とおっしゃいました。しかし私は、そのおことばは私に対する期待に満ちたおことばとして有難くお受け取りする一方で、自分自身を過信するまい、と思ったものでした。私たち人間にとって父とは、天のお父さまだけ、いわんや私たちクリスチャン、教会にとってはなおさらそうだからと思ったのでした。 イエスさまは、マタイの福音書23章9節のようにおっしゃっています。しかし、ここでイエスさまは、だれかのことを「父」と呼ぶ者の態度を問題にしていらっしゃるわけです。天のお父さま「になり代わって」だれかを父と呼んではならない、というわけです。そうでないならば、パウロがこうしてコリント教会やテモテにとって「私は父である」と主張することは、聖書的ではないことになります。そのイエスさまのおこころを、私はもっと深く考える必要がありました。 この教会の礎を据えられた先生は、もともと私たち教会にとって「父」とお呼びすべき方でした。しかし先生は、もうこの教会にはいらっしゃいません。それなら、だれが私たち、水戸第一聖書バプテスト教会にとっての「父」なのでしょうか? 私はこのみことばを黙想して、神さまがこうおっしゃったように受け取りました。「あのときあの役員が言ったように、あなたが父親の役割を果たすのだ。」 言われてみれば、私はほかの信徒の方から、武井先生はまるでお父さんみたいです、と言っていただいたこともあります。そのときも私は、なんともったいないおことば、と、まともに受け取ることをしませんでした。しかし、私はそのことを今、とても悔い改めています。この「教会のお父さん」であるということは、今現在の私の資質や人格で左右されるべきことではありません。これは主の召命です。主がそのように召されたならば、私がどんなであろうとも、それを主の召しと受け取って、ふさわしく振る舞えるようにお祈りするばかりです。 うちの教会はコリント教会のような派閥争いにエネルギーを費やすような問題だらけの群れではありません。しかし、成長する必要があるのは確かだと、みなさまだれもが思っていらっしゃると思います。私はその教会において、父親として語り、父親としてとりなして祈り、父親として訓練するばかりです。 しかし、教会の成長というものは、牧師ひとりの頑張りで成り立つものではありません。テモテのように、教会の父親のような存在の命(めい)を受けた働き人が、確実に必要です。 私が就任以来一貫して「弟子訓練」ということを強調するのは、このようなテモテのような働き人が「弟子訓練」をとおして私たちの中から起こされ、教会がみなともに「弟子訓練」をとおしてキリストの似姿へと成長することがみこころだと受け取っているからです。 こういう働き人は、よその教会から来てもらう必要はないと考えます。神さまは私たちの中に働き人を備えてくださっていると、信じていただきたいのです。 働き人は私たちの中からイエスさまが起こしてくださり、大きく成長させてくださり、また、その働き人から多くの群れを生み出してくださいます。 私はそして、パウロがコリント教会に意識させたように、ことばだけで終わるのではなく、力に満ちた行いの実を結ぶ群れへと教会が成長するように祈ります。そうして、イエスさまの再臨に日々備える教会となるように祈ります。イエスさまが再び来られる日まで、ともに主の弟子として整えられ、この世においてキリストを証しする群れとして私たちが用いられますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、一緒に祈りましょう。

「裸の王様」対「裸の王様」

聖書箇所;コリント人への手紙第一4:1~14/メッセージ題目;「裸の王様」対「裸の王様」  今日のメッセージのタイトルは、「裸の王様」対「裸の王様」とつけさせていただきました。その意味についてはあとでお分かりになると思います。「裸の王様」は、あのアンデルセンの童話の題名でもあります。この物語はみなさまご存じでしょう。でもまあ、あえておさらいしましょうか。 インチキな商売人がある国の王さまに、馬鹿な人の目には見えない、最高級のお召し物、という触れ込みで、服を売りつけました。でも、そこには何もなく、王さまにも家来にも服は見えません。このインチキ商人は、ただの空気を服と偽って売りつけ、がっぽりともうけたわけです。 でも王さまも家来も、不安になりました。見えない! 私は馬鹿なのか? 王さまも家来も、お互い、馬鹿だと思われたらかないません。みんな服が見えるふりをしました。そしてついにこの「お召し物を身に着け」、王さまは人々の前に姿を現し、行進します。沿道の大人たちにも当然、王さまは裸に見えます。でも、馬鹿だと思われたらかないません。みんな、王さまは裸なのにそう見えているそぶりも見せず、喝采します。「王様、万歳!」しかし、そこにひとりの男の子の声が上がりました。「やあ、王さまは裸だ!」 この傑作の童話は、まるで故事成語のような「裸の王様」ということばのもととなりました。権威があるように偉ぶっていても、実際は人望がない、中身が伴っていない、愚か者だとみんな知っている……そういう人を指すときに使います。あの会社のワンマン社長は、裸の王様だ、といった具合にです。 今日の箇所のみことばは、まさしく「裸の王様」を取り扱っています。それについてはあとで見るとして、今まで学んできた第一コリントのみことば同様、この箇所も、パウロやアポロのような教職者とコリント教会の信徒たちという、対立的な観点から書かれています。 さて、コリント教会に対する手紙もそうですが、新約聖書のローマ書から第二テサロニケまでの書簡は、パウロが書いた、教会の信徒たちに対する手紙です。それらの手紙をとおしてパウロは信徒たちをほめたり、激励したり、あるいはいまこうして第一コリントで学んでいるとおり、苦言を呈したりしているわけです。 私たちがこうしてパウロの書いた教会宛の手紙を読むとき、私たちは書簡に登場する複数の立場のうちどの立場と、自分を置き換えて読んでいますでしょうか? やはり自分は一般信徒だからと、各教会の信徒の立場で読みますしょうか? それとも、書簡はみなパウロの心が込められているものだから、パウロの立場で読みますでしょうか? 私たちは、そのどちらの立場からも読む必要があります。今日の箇所でいえば、苦言を呈す側のパウロの視点も、苦言を呈される側のコリント教会の視点も、どちらも必要です。 まずは、パウロをはじめとした献身者、教職者は、どのような立場にある者だと、本日の箇所は語っていますでしょうか? 1節のみことばをお読みします。まず、教職者は「キリストのしもべ」です。キリストのしもべとは何でしょうか? 「キリストのからだなる教会のしもべ」です。キリストのからだに仕えるならば、それはキリストに仕えることになります。 しかし、教会に仕えるということは、教会を成り立たせているひと枝ひと枝の兄弟姉妹に仕えるということです。その人たちはいかに聖徒という肩書き、すなわち聖い人々という称号を与えられていても、整えられていなくて問題だらけです。パウロのような教職者は、そういう人々に仕えるべく召された人だということです。 単にキリストに仕えるわけではありません。罪だらけの人の中に入り、くんずほぐれつの霊的格闘を体験します。ただごとではなく大変です。しかし、やはり彼らはキリストのからだなのです。この群れに仕えることが主から与えられた使命であると受け取り、キリストによって罪赦されたと信じ告白するこの群れに仕えるのが教職者なのです。 そして、どのような哲学で彼ら教会に仕えるのかも、1節のみことばは語ります。それは、自らを「神の奥義の管理者」であると自覚することです。「神の奥義」とは、聖書において示されているイエスさまの十字架の贖いです。膨大な内容を擁する旧新約聖書は、すべてがイエスさまの十字架を証しする内容であるとさえいえます。 しかしパウロの活動した当時は、まだこんにちのように66巻の聖典としての聖書は定まってはいませんでした。それだけに、真に霊感を受けたみことばをあらゆる書物の中から見分け、取り扱うために、およそ教会の教職者というものは、十字架の贖いという奥義にひときわ通じている必要がありました。 それは、聖書の聖典が今あるとおりに66巻と定められ、さらに印刷技術の発達と翻訳によって、聖書が世界中に「本」という形で普及し、世界中のほとんどの人が聖書を手にすることができる現代においても変わりません。 ご覧ください。聖書は世界で、そして日本で、人類の共有財産として扱われています。しかし、この聖書を読みさえすれば救い主イエスさまに出会い、その十字架を信じ受け入れ、聖徒となって天国に行けるのでしょうか? 地上にてキリストのからだなる教会を形づくるのでしょうか? いいえ、そうだったら、日本にはもっとクリスチャンが普通にいて、教会はもっと人があふれているはずでしょう。 イエスさまの十字架の贖いは、聖書をただ読んだだけではわからない、だからこそ、みことばを解き明かす人が必要になるわけで、パウロが自分自身のことをそう語ったように、教職者とはすべからく、みことばをふさわしく解き明かす、教会というキリストのからだにおけるしもべのことを指します。 2節にまいります。そのように福音という奥義を管理する、すなわち、ふさわしい教理を体系立ててしっかり学び、学んだことを身に着けてみことばを解き明かす人になるには、忠実だと認められることが必要になります。それは神と人に忠実になることですが、主の働き人にとってそれは、神の教会、キリストのからだなる教会に忠実になることです。 教会において教職者が福音という奥義を管理するためのスキルは、こんにちならば神学校に入って聖書神学や組織神学、実践神学や歴史神学を学べば、基礎的なことはわかります。教職者になるには神学教育を受けるべきなのはそのためです。 しかし、その管理を実際にするには、神と人に対して忠実に管理する姿勢が保てる人にならなければなりません。神学校で学ぶことは必須でも、それで教職者として完成するわけではなく、その学んだスキルを教会という現場に運用するうえで、教職者の人格とその現れが問われるわけです。   しかし、3節をお読みください。教職者という、神の奥義の管理者は忠実であることが必須であるといっても、その人が神の教会において忠実かどうかを判断することは、教会員のすることでも、教職者である自分自身のすることでもありません。自分はさばかれない、自分で自分をさばくこともしないと、パウロが告白するとおりです。 しかし、やはり教職者は神にさばかれる存在、というより、神の御前に立つ存在です。   4節のみことばをお読みください。指導者の肩書きを持っていようともなお罪深いこの身を、イエスさまの十字架によって赦してくださり、義と認めてくださる神さまが、私のことを認めてくださっている……その信仰によって、教職者はようやく人前に立てるのです。  5節をお読みします。……だからこそ、みことばを解き明かしてイエスさまの十字架の恵み、永遠のいのちにとどまる恵みを得られるよう仕えてくれる教職者のことを、おいそれとさばくようなことをしてはならないのです。しかし、とは申しましても、もし教職者が隠れて罪を行なっていたら、神さまの時が来て、彼のふさわしくない言動が白日の下(もと)に明らかにされ、彼が神のさばきに服さなければならなくなることは、充分あり得ます。 教師は格別にきびしいさばきを受けると、ヤコブの手紙3章1節は語ります。教師のような立場になったら、信徒はおいそれと注意をしてくれなくなり、ただ、神さまとの関係だけで歩まなければならなくなります。 だからこそ教職者は神さまを恐れ、神さまとの関係にあらゆる面で徹底して生きる必要があるわけですが、それもなくて人前に立つならば、いつしかその、主とのふさわしい交わりを持っているとはいえない姿勢の中、語ることはふさわしい教理、すなわち十字架という神の奥義から逸脱し、教会全体を病ませることになります。いえ、もしかすると、ことばでは立派なことを言えるかもしれませんが、その行いが否定しているわけで、そういう証しにならない行動が確実に教会員たちに伝わり、徳にならないことこの上ありません。 もし教職者が神の御前にふさわしくない姿勢でいることを発見したならば、教会は群れを健全に保つために、教職者に対してしかるべき戒めを施すことも必要になります。これは、コリント教会がパウロにそうしたように、人間的な理由で牧会にいちゃもんをつけることとはまったく次元の異なることです。 ともかく、パウロはコリント教会に対して、神に忠実な奥義の管理者としての責任を果たしていました。しかしコリント教会はというと、パウロなりアポロなりといった教職者を推しいただいて好き勝手に党派をつくって分裂していました。ここから先は、コリント教会の問題にパウロが触れる箇所となります。 6節、7節をお読みします。パウロもアポロも、「書かれていることを越えない」、つまり、みことばが行けと言えば行き、みことばがとどまれと言えばとどまる、徹底してみことばに生き、みことばを実践する生き方をしていました。 しかるに、コリントの信徒たちは何をしていたのでしょうか? パウロ派だのアポロ派だのをつくって、みことばが命じてもいないやり方で教会形成をしていました。明らかに彼らは、みことばに書かれていることを越えるような過ちを犯していました。 彼らの過ちはまた、別の派閥に反対することによって思い上がるという、人をさばく罪を犯していたことにもあります。さらに、パウロ派を気取る者たちはアポロの霊的な益を受け、逆にアポロ派を気取る者たちもパウロの霊的な益を受けているというのに、パウロ派はアポロから受けていないようにと言い、アポロ派はパウロから受けていないと言うような、偽った状態、思い上がった状態にありました。 そのようなコリント教会の実体を、パウロは思いきり皮肉っています。8節のみことばです。……彼らはパウロ派だの、アポロ派だのといった党派をつくり、まるで自分たちが偉い王様のように振る舞っている。しかしパウロは語ります。あなたがたはほんとうに偉いのか。私たち、みことばを解き明かして教会に仕える私たちの、ほんとうの思いを無視してまで、偉い者のように振る舞って、そんなに楽しいか。 パウロは、あなたが王であると主張するならば、自分も王であると主張させてもらおう、と語りました。これは皮肉でもありますが、真実でもあります。といいますのも、ペテロの手紙第一2章9節にあるとおり、私たち聖徒の身分は王であり、ヨハネの黙示録22章5節にあるとおり、聖徒は永遠に治める王だからです。パウロももちろん聖徒のひとりであるわけで、したがってパウロも王です。コリント教会の問題だらけの信徒たちも王です。 しかし、コリント教会の信徒たちは、そんな高尚な理由で自分たちが王として振る舞っているわけではありませんでした。単に人よりも偉ぶる虚栄心で王のように振る舞っていただけです。 そんなコリント教会にも通じる教会が、聖書の時代にありました。使徒ヨハネが「ヨハネの黙示録」を書き送った、ラオディキア教会でした。金が取引される経済の中心地、目薬をはじめとした薬の生産で名高い医療の中心地、衣服の生産が行われる産業の中心地……。そんなラオディキアは豊かに見えますが、その町の聖徒たちの現実をヨハネはこのように評価しています。ヨハネの黙示録3章15節から17節です。 ……コリント教会はパウロ派やアポロ派に分かれて、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしたかもしれません。主導権争いに熱くなったかもしれません。しかしそれは、神さまにとっては熱いことでもなんでもなく、気持ち悪いほどぬるいことであり、そんな彼らは貧しく哀れな裸の者と見なされます。まさしくアンデルセンが風刺したような裸の王様、それがコリント教会の信徒たちでした。 パウロには、もちろんそういう意味ではなく、自分自身が王であるという自覚がありました。しかし、パウロはこうも言っています。9節のみことば、10節を飛ばして、11節から13節のみことばをお読みします。…… パウロのこの告白を見ると、まるで世間一般の持つ王さまのイメージとは反対です。こんなに悲惨な人のように、普通ならばなりたがりません。 私はこの世の屑、かす……パウロ先生、お願いだからそんなこと言わないでください! 聞いていて耳を覆いたくなる告白ではないでしょうか? しかし、これが教職者として神の教会に仕えるパウロの、ありのままの姿だったのです。神さまのみこころにかなう「王」、ペテロやヨハネが正しい聖徒たちの身分として語る「王」は、このようにパウロが赤裸々に語るとおりの、みっともない姿をしています。別な意味での「裸の王様」です。しかし、この「裸の王様」は、裸の恥をあらわにしてこの上なく恥ずかしい、コリント教会の信徒たちのような「裸の王様」とは、根本から異なります。 なぜでしょうか? この、パウロのような「裸の王様」は、裸では終わらないからです。神さまはエデンの園のはじめ、裸でいたアダムとエバに、動物をほふって手ずからおつくりになった毛皮の服を着せてくださいました。まさしく、神さまが血を流していのちを犠牲にしてくださることをとおして、裸が覆われるわけです。それは、イエスさまの十字架の贖いによって、人の罪が覆われ、罪を憎まれる神の怒りから救われることを示していました。 そうです。裸の恥は、神さまが服を着せてくださることによって覆われます。パウロの告白に従えば、とても誇れない恥にまみれた生き方を彼は余儀なくされていました。しかし彼がその悲惨さ、恥ずかしさに耐えられたのはなぜでしょうか? 彼の着る物もない、裸の恥は、終わりの日に神さま御自らによって覆っていただけることを知っていたからでした。 その日、神さまが最大級の賞賛をしてくださる日、「よくやった。良い忠実なしもべだ」とほめてくださるその日をはっきり思い描く信仰があったからこそ、今日の貧しさに耐えられたのでした。自分が永遠の王であることを知っていたからこそ、今のこの貧しさがつかの間であると受け止めることができたのでした。 さて、ここまで申し上げれば、ほんとうの「裸の王様」はだれか、もうお分かりなのではないでしょうか? そうです、イエスさまです。あらゆる罪を十字架で背負われたイエスさまは、お裸でした。王の王イエスさまは、こんなにもみっともなく、また悲しいお姿で、傷ついて死んでいかれたのです。 しかし、イエスさまは復活されました。天の御座にお着きになりました。永遠の王です。ほんとうの裸の王様、イエスさまによって、どれほど私たちは罪赦され、神の子どもとしてきよくしていただいたことでしょうか!  そして裸の王様イエスさまは、今や復活のご栄光を帯びていらっしゃいます。もう裸ではありません。やがて白い衣をまとって、さばき主としてこの世に来られます。パウロはその、再臨のイエスさまにならうがゆえに、いましばしのこのとき、自らも裸の王様として振る舞うことを選択したのでした。 10節のみことばをお読みします。……聖徒たちが霊的に富むのは、このように貧しい主のしもべが身を低くして仕えるからです。そのことがわかっているならば、虚栄心で王のように振る舞う生き方などできないはずです。かえって、十字架のイエスさまにならうパウロのように、王の誇りにかけて人の救いのために裸の恥をものともしない生き方に献身することを選択できるはずです。 最後に、14節のみことばをお読みします。……コリントの信徒たちを恥じ入らせることは、パウロの意図するところではありませんでした。単に恥じ入るだけなら、「ああ、私たちの大事なパウロ先生の心も知らないで、勝手なふるまいをしてしまった」などと、「パウロ派」として振る舞うことそのものを悔い改めないで済ます危険があります。 パウロは、コリントの聖徒たちのことを、そのダメさ加減にもかかわらず「私の愛する子ども」と呼んでいます。子どもということは、パウロの性質を受け継いで生まれた人たちということであり、まことの「裸の王様」であるイエスさまに対する信仰を「裸の王様」として生き抜くことにより体現する、パウロのその性質を受け継いでいる、ということです。 またそれは、それだけパウロが責任を持って心血注いで養育する責任がある、ということです。イエスさまのあとをついて十字架を背負える、悪い意味ではなくほんとうの意味での「裸の王様」になって人々を統べ治める人々になれるようにと、パウロは祈っているわけです。 私たちは、どちらの裸の王様でしょうか? 自己中心で教会生活をすることで済ましている、ラオディキア教会にヨハネが警告したような裸の者であることを知らない、そんな裸の王様でしょうか? それとも、イエスさまのように、パウロのように、人々を神さまにあって生かすことを願うゆえに。あえて裸の恥を身に帯びることを選択する、やがて終わりの日に栄光の姿に変えられ、永遠に王として治めることを信じて、今日の貧しさをものともせずに歩む、そんな裸の王様でしょうか? 私たちはどちらにせよ、神さまの御目には裸です。それなら私たちは、裸の恥に目をつぶって好き勝手に生きることよりも、裸の恥を身に帯びながらも人々のしもべとして仕える王として振る舞い、終わりの日に白い衣を着せられて主から最大級の賞賛をいただけるだけの生き方を全うしたいと願いませんでしょうか?  私たちの現実を見てみましょう。貧しいでしょう。何も持っていないでしょう。しかし、こんな私たちは王さまなのです。王なるイエスさまを心の王座に受け入れている以上、私たちも王さまなのです。裸のように悲惨に見えても、私たちは王さまなのです。 人々に仕えることで王として振る舞う王さまです。人々のためにとりなして祈ることで王として振る舞う王さまです。そして、神の国の祝福を人々に分かち合うことで王として振る舞う王さまです。神さまの祝福に満ち、十字架にかかられたイエスさまにならう「裸の王様」として生きる祝福を、私たちがともに味わって生きていきますようにお祈りします。 では、お祈りします。

「主イエスの母、そして主イエスの家族」

聖書箇所;マタイの福音書12:46~50/メッセージ題目;「主イエスの母、そして主イエスの家族」  私は韓国に留学した1995年、「ソウル日本人教会」という教会に通っていました。その教会は、韓国訪問の折に教会に訪れるさまざまな日本の牧師先生が、日本のキリスト教会で起きていることをリアルタイムに伝えてくださる場となっていました。その先生方のメッセージの中で、忘れられないものがありました。その年は阪神淡路大震災が起こった年でしたが、当時、日本基督教団新潟教会の牧師でいらっしゃった、春名康範先生という方がいらしたとき、こんなことを語っていらっしゃいました。 震災からの復興活動での炊き出しに参加され、そのときの様子に、ある韓国語を思い出したというのです。それは「シック」ということばでした。「シッ」は「食べる」と書き、「ク」は「口」と書きます。「食べる口」というわけですが、これは「家族」という意味です。春名先生は、ボランティアの炊き出しに群がり、一緒にご飯を食べる被災者の、ああ、ありがたいなあ、というその姿に、シック、という韓国語を重ね合わせた、とおっしゃったのです。まさに、同じ大きな災いを通して、避難所で家族のような立場になったどうしが、同じ食べ物を食べて、シック、つまり、家族……なるほど……私は唸りました。  当時私は、韓国の地方からソウルに上京していた7人の大学生たちとひとつ屋根の下で共同生活をしていました。朝には交替でごはんをつくります。食べるときは鍋を真ん中において、お椀にもつがずにスプーンで直接すくって飲みます。キムチもおかずも、取り皿なんてありません。そして朝ごはんがすんだらそれぞれキャンパスに散り、夜になると帰ってきます。寝る前には車座になって、一日のできごとの報告とお祈りの課題をそれぞれ話し、最後にみんなで手をつないで祈ります。まさに「家族」。  私はその、春名先生のエピソードに感動した日、家に帰り、同居していた学生リーダーにそのことを話すと、彼もとても感動してくれました。やがて私が留学生活を終えて日本に帰るとき、彼はみんなの前で、トシ兄弟が言っていた「シック」のエピソードにとても感動した、俺たちはいっしょに食事を囲む家族じゃないか、という意味のことを、わざわざ言ってくれたものでした。 今日は礼拝において「主の晩さん」を分かち合います。先週金曜日、私は保守バプテスト同盟の教職者の勉強会である「同盟アーカイブズ」というものにオンラインで出席しました。そのとき教えられたことですが、ほんらい「主の晩さん」というものは儀式ではなく、主にある交わりの一環として行われた食事の一部であった、ということです。それが、時代が下るにつれて宗教的な意味づけがされ、いつの間にか、とても畏れ多いものとなってしまった、ということです。   本日、ともにいただく「主の晩さん」は、どうか、イエスさまが手ずから裂かれたパン、イエスさまが杯を回されたぶどう酒をともにいただく、家族としてともにいただく、そういう気持ちであずかってまいりたいと思います。そんな「主の晩さん」を控えた私たちは、同じ主の晩さんのパンと杯を食して口にする「シック」、家族であるわけですが、それがどんな家族なのかを、イエスさまが端的にお示しになったみことばから、今日はともに学び、ともに家族とされている喜びを分かち合いたいと思います。 今日の箇所は、イエスさまの母であるマリアと、イエスさまの弟たちが、イエスさまに会いにやってくる場面から始まっています。マリアのことは申し上げるまでもありません、あのマリアです。イエスさまの弟たちというのは、マリアとヨセフの間に生まれた人たちで、「主の兄弟」という別名で呼ばれることもあります。名前はマタイの福音書13章の終わりの部分で明らかになってもいますが、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダで、このうちヤコブとユダは、新約聖書の「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」を書いた人物で、つまりは初代教会の指導者になった人です。ついでに申し上げますと、イエスさまにはこの4人の弟のほかに、少なくとも2人の妹がいたことが、やはりマタイの福音書の13章からわかります。 また、これは類推ですが、イエスさまの公生涯の記述に、ヨセフのことが出てこないのは、イエスさまの公生涯の時期にはヨセフがすでに亡くなっていたからだというのが定説です。ヨセフがなぜ亡くなったかは、聖書はまったく沈黙しています。しかし、ヨセフは少なくとも、あまり健康が保てる仕事についていなかったのはたしかです。石で家を建てる時代のパレスチナで大工となったら、石を切ったり削ったりする作業で大量の粉塵が出て、マスクもない時代です、その粉塵を吸い込んで、健康をとても害したことでしょう。イエスさまがお生まれになったヨセフの家庭は、そのような厳しい労働者の家庭だったということを、私たちは覚えておきたいと思います。 イエスさまはもともと、そのような家庭の長男として、稼ぎ頭だったわけでした。しかし今やイエスさまは、神の国を宣べ伝えるお方でした。そのようなお方でしたが、ユダヤ人ならだれもかれもがイエスさまのことを受け入れていたわけではありませんでした。同じ12章をご覧ください。イエスさまはパリサイ人から、悪霊のかしら扱いされています。もちろんイエスさまは、それに対してごもっともな反論をしていらっしゃるわけですが、このように、当時絶対的な立場にあった宗教指導者たちに睨まれていたことは、マリアや弟たちを動揺させるに充分だったのではないでしょうか。そんな彼らがイエスさまに話しにやってきたわけです。お願いだから、悪いことは言わないから、こんな働きはやめて……。そんな彼らの心の声が聞こえてくるようです。 親兄弟が会いに来たならば、会うべきだと思いますでしょうか。しかし、イエスさまは取り継いだ人に対し、みなの聞いている前でおっしゃいました。48節から50節です。……イエスさまは、ご自分に弟子としてついてきていた人たちのことを、わたしの母、わたしの兄弟たち、とおっしゃいました。それはなぜであるか、50節に語られているとおりです。彼ら弟子たちは、天におられるイエスさまの御父のみこころを行なっているからだとおっしゃいました。 ここから、2つのことが分かります。ひとつは、イエスさまのお働き、神の国を宣べ伝えるお働きをとどめようとすることは、いかにイエスさまの肉親であろうとも、とどめることはできないし、また、とどめるべきではない、ということです。もうひとつは、天の父なる神のみこころを行うならばその人がほんとうの弟子である、その、神のみこころを行うとは、イエスさまに弟子としてついて行くことである、ということです。 イエスさまは、「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら」とおっしゃいました。ここでマリアたちも、群衆も、弟子たちも、そして私たちも、イエスさまの父とはどなたなのかを考える必要があります。 マタイの福音書の13章に入ってみると、イエスさまの故郷ナザレの人たちは、イエスさまはヨセフのせがれ以上の見方をしなかったわけです。マリアたちも、イエスさまのことをそのようにしか見ることができなかったからこそ、このようにイエスさまのお働きに関係なく、お働きの最中でも呼びつけるようなことをしたわけです。しかし、イエスさまの父なるお方はヨセフではなく、天のお父さまであることを知るならば、人はイエスさまの弟子になるならば、すなわち天のお父さまのみこころにお従いすることになります。イエスさまは、肉親の関係でご自身のご家族を決められるお方ではありません。天の父なる神さまを父としてイエスさまに従う人ならば、だれでも家族としてくださるのです。 天の父のみこころを行うなら、とは、それは、天の父をイエスさまのゆえに信じる、ということです。イエスさまを通してでなければ、だれも天の父のもとに行くことはありません。しかし、イエスさまを通すならば、人はだれでも、創造主なる神さまをお父さまとお呼びする者としていただけます。これが、信仰を持つ第一歩であり、それはまた同時に、イエスさまの弟子となる第一歩でもあります。しかし、イエスさまは私たちにとって遠いお方ではありません。私たちのことを家族として受け入れてくださいます。 さて、家族、というとき、「兄弟姉妹」なら、まあ私たちはわかるのではないでしょうか?例のベートーヴェンの「第九」のメロディの聖歌、25番の4番の歌詞は、「御神はわれらの父親なれば/御子なるイエスをば兄上と呼ばん」とあります。私たちはあまりイエスさまのことを「お兄さま」と呼ぶことはないように思いますが、まあ、論理的にそうなのはお分かりだと思います。私たちは同じ御父によって、イエスさまの兄弟姉妹にしていただいている存在です。 しかし「イエスさまの母」となりますと、これはどうでしょうか? イエスさまのこのみことばはかなり難解です。私たちは百歩譲って、イエスさまの弟や妹に加えていただけるとは思うでしょうが、「母」となると、あまりに畏れ多い、と思えませんでしょうか? しかしこのイエスさまのおことばは、ほかならぬマリアがどういう理由で訪ねてきたか、ということを考えると、謎は解けます。イエスさまは「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの……母なのです」とおっしゃっています。ということは、このときマリアは、天の父のみこころを少なくとも行なっていなかった、ということになるわけです。 マリアは何をしたのでしょうか? マリアは主の兄弟たちとともに、群衆のいる家の外にいました。要するに、イエスさまについて行っていたわけではありませんし、イエスさまが説いておられるメッセージそのものに関心があったわけではありませんでした。 ということは、マリアも含め主の肉の家族は、イエスさまの語っておられる神の国に無関心な態度を示していた、ということになります。それだけでしょうか? イエスさまがいっしょうけんめい、神の国の福音を語っていらっしゃるというのに、そこに主の兄弟たちとやってきて、イエスさまを呼びつけたということは、結果的にその行動は、イエスさまのそのお働きを中断させてしまうことになるわけです。 それはどういうことでしょうか。神の国の福音が、それだけ聞く人に伝わらないということになります。人が救われて神の国に入る可能性は、それだけ損なわれることになります。それはイエスさまの、神の子キリストとしての働きを邪魔することであり、つまりは天のお父さまのみこころをきわめて損っているということです。 しかし、さすがはイエスさまなのは、そのような無理解なマリアたちの行動さえも、神の国の福音を人々に解き明かす機会へとお用いになったことでしたが、ともかく、マリアは、ルカの福音書1章で告白したように、神の子イエスさまをこの世に送り出した主のはしためとしての立場を堅持している必要がありました。 それこそが、神の子キリストの母であるということです。キリストを生んだ人、というよりは、主のはしため、主に用いられることに至上の喜びを覚える謙遜な器、だからこそ、御父はイエスさまをこの世に送り出す人としてマリアをお選びになったのであり、私こそはイエスの母親でござい、というような振る舞う人は、いちばんイエスさまの母親と呼ばれるのにふさわしくない人です。 しかしこの、イエスさまに「わたしの母」と呼んでいただいた、その場でイエスさまのメッセージをお聴きしていた弟子たち、とくに女性の人たちがどんなに面映(おもはゆ)い思いをしたことか、想像するにあまりありますが、イエスさまの母、という面映ゆい呼び名は、イエスさまにそう呼んでいただいた人以外にふさわしい人などいないと考えるべきです。言うまでもないことだと思いますが、間違っても自分たちの間で、あら、あなたは神のみこころを行なっているわね、あなたはイエスさまのお母さまね、というようなレベルの話ではありません。あまりに畏れ多くて、そんなことはとても口にできないのがクリスチャンとしてのまともな神経でしょう。 マリアの話に戻りますが、マリアもまたひとりの人として、父なる神さまのお取り扱いのもとに身を低くする必要がありました。 イエスさまの献児式のためにエルサレムにヨセフとマリアが赴いたとき、シメオンがイエスさまについて、このような預言をしました。ルカの福音書2章、34節と35節です。……まさにさばき主なるイエスさまによって、マリアの心さえも、まるで剣が刺し貫くようにさばかれる、というわけです。マリアはこのとき、イエスさまのお働きを妨害したとは、自分は実は神のみこころを行なっていなかった、という現実を見せつけられました。マリアもまた、悔い改める必要があったのでした。 しかし、このようなマリアでしたが、聖書は、イエスさまの十字架のできごとにおいて、マリアがどうだったかを記しています。マリアは、イエスさまの十字架の前に立っていました。イエスさまの十字架をじっと見つめていたのです。イエスさまはそんなマリアに、ご自身の愛弟子ヨハネこそ、これからあなたと親子になる人です、とお語りになり、神の家族としての新しい家族の関係にマリアを導き入れられました。 マリアはもはや、私はイエスさまの母でござい、の人ではありませんでした。神の家族に生きることによって父のみこころを行うことで、マリアはようやくほんとうの意味で「イエスの母」となることができたのでした。 私たちは自分から「イエスの母」を目指すことなどできませんし、ましてや、名乗ることなどできません。しかし、「神のみこころを行う弟子となる」ことで、イエスさまの家族に加えていただくことはできます。イエスさまに肉親の家族が実際にあったわけですが、それ以上に強い関係として、私たちのことを家族にしていただけるのです。 私たちは今日、主の晩さんをもってパンとぶどう酒をともにいただきます。それは、イエスさまのみからだと血潮という主の食卓にともにあずかる、ひとつの家族であることを確かめる、おごそかにして麗しいひとときです。 私たちはイエスさまが、わたしの家族と呼んでくださった、特別な関係です。イエスさまと家族にしていただいている、これ以上素晴らしいことがあるでしょうか? 私たちは血を分けた家族との関係に、時に傷つき、いやな思いをします。しかしそれは、地上の家族が完全ではないからです。しかし、イエスさまと家族にしていただいている関係は、この世の何ものにも代えがたい関係で、私たちはこの、教会という共同体の中で、神の愛を体験し、兄弟愛をはぐくみます。 イエスさまは、私たちが家族としてますます愛に進むことを願っていらっしゃいます。そしてそれだけではなく、私たちに与えてくださったこの愛を、さらに多くの人に広げることを願っていらっしゃいます。私たちは今週、どのようにしてこの愛を味わいますでしょうか? そして、この愛をだれかに対して表現しますでしょうか? 私たちはだれかに愛をあらわしてこそ、イエスさまに愛されていることをほんとうに理解し、体験するようになります。