「癒やしは愛を生む」
聖書箇所;マルコの福音書1:29〜31 メッセージ題目;「癒やしは愛を生む」 私は現在牧師として、フルタイムの働きをしています。そのフルタイムの働きをすることを、直接献身と言いますが、私が直接献身への召しをいただいたのは、1990年8月16日、高校2年生、16歳の夏のことでした。しかし、実際に直接献身に踏み切り、神学校に行くには、さらに7年の時間が必要でした。 直接献身を恐いと思った理由……いろいろ考えられると思いますが、その中でも大きかったもの、それは、「家族も含めて、自分の生活がどうなってしまうのか?」という、言いようもない恐れだったと思います。最も現実的には、果たして経済的に大丈夫なのだろうか? という不安なのですが、そのほかにも不安がつきまとってくるような気分になったものです。 私の場合、母親がすでにクリスチャンだったにもかかわらず、そのようなことを考えてしまっていたのです。自分には家族の中で味方になってくれる人が母親しかいない、いえ、これは見方を変えれば、母親だけでも味方になってくれる人がいたということでしたが、それでも不安だったことは否定できません。いわんや家族の中でクリスチャンは自分一人という人の場合、もし献身に導かれたならば、その人はどれほど不安だろうかと思います。 いえ、直接献身だけではありません。特にこの日本では、イエスさまを信じてバプテスマを受け、教会のひと枝に加わるということは、たいへんな決断をするようなものです。私たちはいかにしてその決断をして、永遠のいのちに加えられたのでしょうか? もちろん、それは主の恵みによることですが、その決断をするだけの、みことばに対する信仰も、私たちに与えられたからこそ、私たちはこうして、日本の社会のしがらみにとらわれずに、神の民として生きているわけです。素晴らしいことです。 今日の箇所には、ヤコブとヨハネが登場します。ペテロとアンデレもいたはずです。そのような、イエスさまに従った弟子たち……彼らはまさに、イエスさまのために何もかも「捨てた」人たちでした。同じマルコの福音書1章を読むと、ヤコブやヨハネは、「舟もろとも父も残して」イエスさまに従ったとあります。大事な家族を、生活のために必要な財産もろとも残して、イエスさまについていったのでした。 この聖書箇所をいきなり読むと、私たちはぎょっとしないでしょうか? 漁師の生活を支える舟、そればかりかお父さんさえも置いていかないとだめなのだろうか……。 そのように何もかも、家族さえも捨てないと、クリスチャンになれないのだろうか……そんなことを思ったりはしないでしょうか? しかし、私たちは決して、家族を見捨てて信仰生活を送るわけではありません。むしろそのような生き方は推奨できません。もしそのように、親を捨てるようなことをして、あとは知らん顔、という態度でいるならば、その人は、イエスさまのみこころをあまりにも表面的に受け取っていることになります。 イエスさまは決して、親不孝を勧めるようなお方ではいらっしゃいません。イエスさまはむしろ、家族という存在をとても気にかけておられた方でした。もちろん、家族という血の絆が優先するあまり、イエスさま本来の働きがおろそかになるようなことは、断固として退けられました。今月初めに礼拝メッセージで学んだとおりです。 しかしそれでも、イエスさまは家族をまったく見捨てられたわけではありません。イエスさまは十字架にお掛かりになったとき、その場にいた弟子のヨハネに、ご自身の母マリアの面倒を見ることを命じられました。ちゃんとケアしていらっしゃったのです。イエスさまにしてそうなのですから、いわんや私たちはどれほど、家族を大切にする必要があることでしょうか。 それでは、今日の箇所へとまいりたいと思います。イエスさまは、ご自身の家族だけではなく、イエスさまに従う者の家族のことを気にかけてくださるお方です。そのことを私たちは、今日の箇所から学ぶことができます。ともに見てまいりましょう。 30節をご覧ください。……熱、ということは、ここしばらくの間、多くの人が体験しています。私の友達や知り合いはワクチンを打って、とても高い熱が出てつらいと、フェイスブックのようなSNSで訴えていました。結構多くの人が書いています。みんな、普段病気になるようなことなどないから、そのように訴えたくてたまらなくなるのでしょう。 言うまでもないことですが、熱というのはつらいものです。私も15年ほどむかし、目の手術をしましたが、高い熱が出て、たいへんな思いをしました。看病してくれている人には悪いのですが、早く帰ってほしくてたまらなくなったものでした。話すのも、いえ、そばにだれかいること自体がたいへんなのです。 さて、この熱を出したのは、ペテロのしゅうとめ、とあります。このことから、ペテロは結婚していたことがわかります。 このところ学んでいるコリント人への手紙第一9章5節を見てみますと、ペテロには、イエスさまを信じて信者になっていた妻がいて、その妻を連れてペテロが宣教活動をしていたことがわかります。その妻の母親にあたるのが、この、熱病で床に着いているしゅうとめです。 しゅうとめは、ペテロの家でふせっていた、とあります。ということは、彼女は娘について、ペテロの家に引っ越してきていた、ということになります。ペテロはそういうことからも、しゅうとめに対する責任を果たす必要がありました。 31節をお読みします。イエスさまはみことばによってみわざを行なってくださるお方です。ゆえに病も、おことばひとつでいやすことのできるお方でした。病よ、去れ! そうおっしゃったならば、病は去る、イエスさまはそういうお方です。 しかしここでは、直接ペテロの家に訪ねて来られ、伏せっているしゅうとめの手を取って起こされました。イエスさまに直接手を握ってもらって、起こしていただいたのです。イエスさまは、ご自身の弟子であるペテロの家族がこのように苦しんでいるのを、イエスさまは放っておかれませんでした。深くあわれんで、いやしの業を行なってくださったのでした。 こうして熱病のいやされたしゅうとめは、何をしたでしょうか? そうです、イエスさまをもてなした、とあります。別の訳では、「イエスさまに仕えた」となります。いやされてそれで終わりだったのではありませんでした。イエスさまに、奉仕をもってお応えしたのでした。 ここに、私たちにとってのいやしの最終的な目標が示されています。イエスさまにお仕えすること。私たちは、イエスさまにいやしていただくことによって、喜んでイエスさまにお仕えするのです。 さて、人が「病む」ということはたとえばどういう場合か、いろいろ考えられます。肉体的な病気のために生きる気力を失った場合、あるいは、引きこもりのように、肉体には問題がなくても気力を失った場合……いずれにせよ「病んで」いるのです。 あるいは、人間関係でトラブルを起こしてしまうタイプの方がいます。やたら自己中心に振る舞ったり、やたらお節介を焼いたり、みんなの注目を浴びようとしたり、注目されなかったら不機嫌になったり……。 こういう人は、さびしいのです。愛されたいのです。しかし、その人の欲しがる愛を人が満たすには、限界がありすぎます。周りもそんな人を愛そうとして、疲れて、集団が病んでしまう結果になります。家族にせよ、職場にせよ、あるいは教会もそうなのですが、トラブルメーカーの引き起こす問題のために、集団まで病むという結果になります。 そういう人が「いやされる」ということは、どうなることを意味しているのでしょうか? そうです、「愛されたい」という思いに執着したり、「自分のことしか考えない」という段階にとどまったりするところから脱出するのです。「人を愛する」という行いが実践できるようになる、それが、ほんとうの意味での癒やしです。 人は、神のかたちに創造されています。そして、神さまは愛です。ということは、人は神のかたちである以上、人を愛したいという欲求、それに根ざした行動が本来先に立つべき存在です。人の本能は「愛されたい」ではないのです。「愛する」なのです。 それが、なぜだか人は、「愛されたい」となっているのです。なぜでしょうか? それは、「愛する」という、人が本来創造された神さまの目的から外れた生き方をしたがるようになったからです。神さまに背を向ける、罪のゆえに、「愛する」が「愛されたい」になってしまったのです。 創世記3章を思い出してください。罪を犯したアダムとエバは、責任転嫁して恥じるところを知りませんでした。彼らは神さまに「ごめんなさい」と言うべきでした。 アダムはエバのことを「私が善悪の知識の木の実を食べないように、しっかり言い渡さなかった私がいけませんでした」と、神さまに対して責任を取るべきでした。エバはエバで神さまに対し、アダムのことを「私が善悪の知識の木の実を食べるように渡したのがいけませんでした」と責任を取るべきでした。 それが、彼らのしたことは責任転嫁です。善悪の知識の木の実を食べるという罪を犯したことを、アダムは神さまとエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。要するに、彼らは神の怒りから相手をかくまうという、人を愛することを放棄し、自分可愛さに、人を罪に定めても自己弁護したのです。このように世界に罪が入った初めから、人は「愛する」存在が「悪い人に思われたくない」、早い話が「愛されたい」存在へと堕落してしまったのでした。 しかし、人はやり直せます。それは、「愛されたい」を「愛する」に変えてくださる、イエスさまが出会ってくださることによってです。 ご覧ください。聖書のどの箇所を読んでも、イエスさまが「愛されたい」という振る舞いをなさった箇所はありません。すべては「愛する」行動です。そのように、どんなときにも「愛する」という行動をもって、私たち人間に愛というものをお示しになったイエスさまは、私たちを「愛する」人に変えてくださいます。ペテロのしゅうとめの癒やしのわざは、単に熱が下がったことではありません。もちろん、それそのものもとても素晴らしい主のみわざですが、それ以上に素晴らしいことは、その癒やされた身をもって、ペテロを含むイエスさまの弟子の一行を、心を込めてもてなしたことです。 彼女は本来、ガリラヤ湖の漁師に娘を嫁がせ、それによって安定した老後を送れることが保障されていました。ところがその婿はといえば、大工のせがれに弟子入りし、あちこちへ旅をして回っている。娘はどうなるのだ? 婿は大丈夫か? 心配は尽きなかったはずです。 そんな自分はというと、高い熱を出して寝こんだ。死にそう。苦しい。そこへやってきたのがイエスさま。なんと、私の熱をすっかり癒やしてくださった! この、論より証拠のみわざは、彼女を愛する人へと成長させました。このお方になら、婿を託せる! 心からそう信じ、さあ、イエスさまもお弟子さんたちも、召し上がってください! 元気をつけて、次の旅に行ってください! そうして、愛するという行動を「もてなす」という形で、具体的に取れたのでした。 しかし、イエスさまとその一行は、いつまでもペテロの家にとどまっているわけにはいきませんでした。人々がイエスさまを必要としていました。悪霊につかれた人、病気の人が身内にいて、本人だけでなく、家族も友人もみな苦しんでおりました。しかし、イエスさまならば悪霊を追い出してくださる、病気をいやしてくださる……そのように信じて、人々はイエスさまのもとに押し寄せたのでした。 イエスさまとその一行は、もてなしてもらうことに終わりません。次なる愛する働きへと出ていくのです。イエスさまは、自己中心で愛されたいとばかり思っているような私たちに愛することを教えてくださり、愛する人へと変えてくださいます。それが、まことのいやしです。愛する人に変えていただける幸いに今日も感謝しつつ、いやしの御手に触れていただきながら歩んでまいりましょう。