聖書本文;テモテへの手紙第二4:1~5/メッセージ題目;放送伝道の意義
本日午後、「世の光のつどい水戸大会」が、オンラインで開催されます。「世の光」というものは、いまから70年前に日本宣教の組織としてスタートした「太平洋放送協会」の番組で、ここ茨城県では「世の光いきいきタイム」という番組名で、毎週日曜日の午前7時10分から25分まで、15分間放送されています。かつてうちの教会の姉妹も出演されたことがあるのをご記憶の方も多いと思います。
「世の光のつどい」とは、この「世の光いきいきタイム」の聴取者、リスナーのつどいであり、そのもっともメインになる対象は、ラジオ番組を聴いていらっしゃる求道者の方です。ラジオをとおして聖書のメッセージに触れている求道者の方が、このつどいをとおしてメッセンジャーの牧師先生のメッセージを聴き、イエスさまを救い主と信じて主とともに歩む祝福を味わわれるため、教会につながるため、地域の教会が連合して集会を持ちます。
茨城県内では、日立市を中心とした県北地区、筑西市を中心とした県西地区、石岡市や小美玉市を中心とした県央地区、牛久市を中心とした県南地区、鹿島地区、そして水戸地区と「世の光のつどい」を開催する地域が分かれています。このうち私たち水戸地区は、かなり精力的に、毎年のように大会を開いてきました。しかし、去年はコロナ下ということもあり、集まって集会を持つことを断念せざるを得ませんでした。
今年に入り、茨城各地のつどいの準備会は、次々に大会開催を昨年に引き続いて断念しました。残るわれらが水戸地区も、断念しなければならないかも……私たちはそんな気持ちになりかかっていました。会場を手配できたとしても、いざ開催となったときにコロナがまたもや蔓延したとなったら目も当てられません。
しかし、準備会に新たなアイディアが与えられました。オンライン開催……折からのコロナ下ということで、昨年からオンラインでいろいろなセミナーやイベントが行われることは花盛りとなっていましたが、自分たちもやろう、ということになりました。
そもそも、この準備会自体がコロナ伝染を考慮してオンラインで行なっていたものであり、その話し合いのたびに太平洋放送協会の谷川(たにがわ)ディレクターも東京のオフィスから参加してくださっていたことが、大きな励ましとなりました。
世の光つどいのオンライン開催は、全国的にもあまり例がなかったものでもあり、谷川ディレクターはかなり頑張ってこの水戸大会のためにバックアップしてくださいました。
私たちは何度も準備会を持ち、今月頭には数時間かけてリハーサルを行いました。この、今までの水戸大会の歴史の中で、前例のない取り組みが成功するように、ぜひ祈っていただきたいと願います。
本日は普段のメッセージの箸休め的に、世の光のような放送伝道の意義を、テモテへの手紙第二4章1節から5節のみことばをもとにお話ししたいと思います。
以前も、詩篇150篇を読み解くときに用いた方法ですが、「5W1H」というものがあります。だれが、何を、いつ、どこで、なぜ、どのように……。この本文はパウロが主にあってテモテに命じたことば「みことばを宣べ伝えなさい」が核となっています。この箇所を「5W1H」で読み解きますと、このようになります。
「テモテが、みことばを、時が良くても悪くても、2節と5節のように、1節、3節、4節の理由から、宣べ伝える。」「どこで」ということは書かれてはいませんが、これは「時が良くても悪くても」というみことばを応用すれば、「テモテの置かれているところどこででも」と解釈することができるでしょう。
放送伝道というものは、単なるエンターテインメントではありません。放送、ラジオ、という媒体を使う分、「どのように」ということが具体的になっていますが、その根本にある「どのように」ということは、みことばにあるとおりです。2節と5節がその「どのように」であると申しましたが、ひとつずつ見てまいります。
忍耐のかぎりをつくし……みことばを宣べ伝えることは忍耐のいることです。私たちはラジオをつければ福音放送が聴けることを、当たり前のように思ってはいないでしょうか? しかし、その背後には、放送局の会計を支えるために、日本全国の教会から祈りをもってささげられた献金の存在があります。
それでも放送局の会計は潤沢とはいえません。極めて厳しい中で質の高い番組づくりをするということは、たいへんな忍耐を要することです。
いえ、番組づくりだけではありません。日本全国の地域との連携も含めた働きをするために、スタッフは大変苦労しています。メッセンジャーとしてメッセージをする牧師先生たちは普段牧会する教会の働きの合間にそのお仕事をしていらっしゃるわけで、ここにも大きな忍耐を必要としていらっしゃいます。
絶えず教えながら……ラジオというものは放送されたらそれで終わりというものではありません。放送局のホームページにアクセスしたり、電話をかけたりしたら、メッセージを聴くことができます。このように、記録に残っていつまでも繰り返し聴かれるに耐えられるだけの聖書の教えを、メッセンジャーの先生方は絶えず語っていらっしゃいます。もちろん、そのために背後でどれほど学んでいらっしゃることか、その膨大な学びの積み重ねが、わずか数分のメッセージに凝縮されているのです。
絶えず、ということを考えますと、放送伝道とは「絶えず」語る働きです。時が良くても悪くても語ります。リスナーがラジオを携帯する先、あるいはインターネットなどに残る、その番組の録音物を聴く先、どこででもメッセンジャーは語ります。いつ、どこで、ということでしたら、まさに、いつでも、どこででも、これが放送伝道の特徴です。
責め、戒め、また勧めなさい……放送伝道はだれもが耳にするというその性格上、火のように厳しい表現を用いてメッセージを語っているわけではありません。しかし、私たちも注意深く番組を聴いてみればわかりますが、罪ははっきり悪いことと指摘し、戒めることばを聖書のみことばをもとに語っています。
もしかすると人によっては、番組を聞いただけで自分のことが責められたと感じるかもしれませんが、それは番組を制作する人には承知のことです。たんなる甘ったるいだけのメッセージなら、何もキリスト教の人でなくても語れます。
しかし私たちは、人がキリストの十字架を信じて罪から神に立ち帰るためには、罪を指摘し、戒めることは避けて通れません。メッセンジャーはとてもソフトな語り口ですが、避けるべき罪をしっかり語り、神の子どもとして歩むべき生き方を勧めています。
5節も「どのように」ということを述べていると言えますが、これはこの箇所の結論にもあたる部分でもあるので、これについてはメッセージの最後にあらためて扱おうと思います。
それでは、次は「なぜ」について見てみます。
1節のみことばは、テモテをはじめ、聖徒がすべからくみことばを伝えるべき理由を述べています。
まず、伝道とは、神の御前に私たちが生きているゆえにすることです。神さはいつ、どんなときにも、私たちの前におられるお方です。
しかし私たちは、なんと罪深く、すぐ目の前におられる神さまを無視して生きることの多いものでしょうか。
そのような私たちが、しかし、神さまがそばにおられる、目の前におられることを絶えず意識して生きていくことができるならば、それはとても素晴らしいことです。神さまの恵みです。
そのように、私たちのそばにおられる神さまは、そのご存在とみこころ、みことばを、主のしもべたちが人々に宣べ伝えることを願っていらっしゃいます。神の御前につねに立つ、と思えば、私たちはみことばを伝えずにはいられなくなります。
さばき主なるキリスト・イエスの現れとその御国のゆえに……これも、みことばを宣べ伝える理由です。万物を神と和解させてくださり、人を天の御国に入れてくださるご存在は、イエス・キリスト、ただおひとりです。
このキリストを信じ受け入れるならば救われます。しかし、キリストを信じない者はさばきにあい、神の怒りがその上にとどまります。私たちはそのさばきを信じるゆえに、人々が少しでもさばきから免れることを願って、キリストを宣べ伝えるのです。
私たちにとっての伝道とは、それが神さまのみこころにかなうことだから、また、キリストによって神の怒りとさばきから人々を救うことだから行うこと……放送伝道というものも、そういう理由があって行うものです。決してこれは、いち宗教としてのキリスト教をベースにしたエンターテインメントを行なっているのではありません。
それが伝道ということの大前提ですが、みことばを宣べ伝えることをしなければならないのは、今後どういう時代になるからかということを、パウロはテモテに説いています。それが3節と4節のみことばですが、あらためて読みます。
まず、人々は健全な教えに耐えられなくなるのです。聖書のみことばをまっすぐに解き明かした、そのメッセージを聴くことをいやがります。聖書は愛について語りますが、この愛は甘ったるいものではなく、罪の悔い改めと表裏一体をなす、きわめて厳しいことに裏打ちされたものです。
人が神の愛を体験するには、どうしても罪がみことばと聖霊によって指摘される必要があります。その厳しいメッセージを聴きたがらないのです。
厳しいメッセージの代わりに人が聴きたがるものは、ただやさしいだけのメッセージです。あなたは愛されています。あなたは特別な存在です。それはたしかにそうですし、そのメッセージは聴く必要のあるものです。しかし、それしか聴かないで、罪を指摘するメッセージに一切耳を傾けないようでは、霊的に成長しているように思えても、実際は霊的な栄養失調に陥ります。耳に心地よいメッセージを聴くとはそういうことです。
しかし、そのようなえり好みをすると、聖書からメッセージを聴くことにどうしても限界が生じます。そうなると、聖書以外のものから寄せ集めて聴くという事態になります。
本日、10月31日は、「宗教改革記念日」に当たります。1517年、贖宥状(しょくゆうじょう)というものを発行して罪の赦しを金で買えるように喧伝したカトリック教会に抗議して、マルティン・ルターが95か条の論題というものをヴィッテンベルクの城教会の門扉に掲示した日であり、これが宗教改革の発端となったことから、プロテスタント教会はこの日10月31日を宗教改革記念日としてきました。
この「宗教改革」の大事な原則に、「聖書のみ」また「聖書全体」というものがあります。聖書以外のものを基準にして教え、学ぶということは、もっとも改革されなければならない人間の罪深さであり、教会が最も避けるべきことです。しかし、人は堕落すると、聖書以外のものを基準にして、好き勝手なことを聞くようになります。
その結果、4節にあるとおり、真理から耳を背けるようになります。真理は耳が痛いものです。しかし、真理は人を罪と死から救い、まことの神との交わりに導き入れるため、絶対に聞くべきことです。それを聴かないとどうなるかというと、聖書以外のこと、すなわち、作り話に傾くようになります。
宗教改革は、聖書こそが真理であることに人々の目を開かせたということにおいて、キリスト教会の歴史上最大といっていい役割を果たしました。しかし、その後人間たちは、聖書の真理から離れた形で「真理」を追究することとなり、その結果、なんとも恐ろしいことに、神のみことばである聖書さえも人文学的な研究の対象として、相対主義の中で絶対的な真理の立場を剝奪しました。これこそ「作り話」に人々がそれた結果です。
私たちはこのような世界において、みことばを変わらぬ絶対唯一の真理として宣べ伝えるのです。いま、茨城県内、また全国で展開している放送伝道の働きは、このようにみことばを絶対の真理と信じ告白する群れの働きです。
それでは、この伝道の働きをだれがするのでしょうか? 5節のみことばをご覧ください。何と書いてありますか? そうです、「あなた」がするのです! もちろん、第一にパウロはテモテにあてて書いているので、この「あなた」とは「テモテ」のことですが、私たちはこのテモテ書を読むとき、自分をテモテの立場に置き換えて読んでいるわけです。
「あなた」とはまぎれもない、このテモテ書を読んできた歴史上のすべての聖徒、世界中のすべての聖徒であり、そこには当然、私たちも含まれています。
伝道ということは、牧師や宣教師だけがすればいいものではありません。ここにいます私たちがみな、この伝道という働きを担うべく召されています。それでは、その働きを「どのように」担うべきか、この5節から見てまいりましょう。
「慎み」です。……私たちは真理からそれることばを投げつけられたら感情的にもなるでしょう。おのれ悪魔め、といきり立ちたくもなるでしょう。しかし私たちは、ここは慎みなさい、と教えられています。私たちは肉の思いでみことばを宣べ伝えるべきではありません。聖霊の働きに委ね、へりくだって、自分の肉の思いを脇に下ろして、みことばを伝えさせていただくのです。
しかし私たちの行く手には、苦難が待ち受けています。私たちが福音を宣べ伝えるという、神の子どもとして至極当然のことをしても、そのことのゆえに嫌われたり、陰口を叩かれたり、変な目で見られたり、馬鹿にされたり、おかしな議論に引き込まれて疲れたり、ということは起こるものです。それでも私たちはやめてはならない、みことばを宣べ伝えなさい、というご命令に変わりはないのです。
そうして私たちは伝道者としての務めを充分に果たすのです。私たちは自分が教会のお客さんだと思ってはなりません。このように「あなたは」ということばを受け取っているかぎり、「私たちが」伝道者なのです。
さて、この箇所の結論の部分にもあたる5節と、放送伝道がどんな関係を持っているか、それを考えたいのですが、あの日曜日7時10分から15分間の番組は、お聴きになればわかりますが、とても慎んでいます。いま毎週コンスタントに放送されている番組は、きわめて慎んでいる、日本人のもの静かさにぴったりの番組となっています。
実はあの番組に至るまでの時間、ある宗教団体の長い番組が前に控えていて、番組を聴こうとして早めにチューニングを合わせてしまうとその宗教の番組が流れてしまい、私たちは少しもやっとします。
しかし、そのような流れの中にあっても、けんかをするような姿勢で強い主張をするわけではなく、ただ淡々と落ち着いて、しかし明確に福音を語っています。
また、それは一般の番組に伍して放送されるぶん、苦難もそれ相応にあります。刺激的な番組を求める人が聴いたら「つまらない」というでしょうし、聖書のメッセージがきらいな人が聴いたら、何を言われるか分かったものではありません。それは不特定多数を対象に電波を飛ばす放送伝道というものが、宿命のようにして背負いつづける苦難です。
しかしそれでも、あの朝の15分間の枠が許されているかぎり、番組は流れつづけるのです。信仰の先輩たちが血の汗を流す思いで獲得されたあの番組枠、諸教会の祈りを込めたささげものにより保たれているあの番組枠は、どれほど大事なものか、私たちは考えてみてもいいのではないでしょうか。
そのようにしてあの番組に携わるすべての人は、伝道者の働きをなし、自分の務めに取り組んでいます。
私は本日、あえてこの番組に特化した形でメッセージを語らせていただきました。それには理由があります。もちろんそれは、午後の水戸大会にリンクしてということでもありますが、みなさまに知っていただきたいエピソードがあり、それを考えていただきたくてこの時間に語らせていただきました。そのエピソードをお語りして、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。
それは、ある日曜日の朝のことでした。私は歩いて教会に向かっていました。すると、道沿いの畑から、何やら聞き覚えのある音楽が流れてきたのでした。あれっ? と思って立ち止まると、やはり聞き覚えのある声が聞こえてきました。「いかがお過ごしですか、キリスト教会がお送りする、世の光いきいきタイム、司会の江橋摩美です……」私は飛び上がりたくなりました。
教会はクリスマスになると、新聞に折り込みチラシを入れて教会の宣伝をしてきました。だから地域の方々は、教会がここにあることを知っています。しかし、果たして何人の方が、この礼拝堂の中に入ってメッセージを聴いたというのでしょうか。涙とともに種を蒔く、それは、喜び叫びながら刈り取るという神の約束があるからですが、その約束がいったいいつ叶うのかわからなくなってしまうようなきびしさを、肌身に染みて実感するようになり、こんなことじゃいけない、しっかりしろ、信仰を働かせろ、と、自分を鼓舞してばかりでした。
しかし、なんとこのおばあさんは、農作業をしながら腰につけた、つけっぱなしのラジオによって、しっかり、福音を聴いてくれていたのでした。教会の外に福音は伝わっていたのでした。そしておそらく、このおばあさんのように、私たちの目には見えないけれども現実に番組を聴き、福音に触れておられる方は、教会のあるこの町にも必ずたくさんいる……その方々もいずれ、求道する心が起こされたら、うちの教会にいらっしゃる……私は希望をいだきました。
だから、うちの教会がこの働きを経済的に支えていることを、どうかきわめて意味のあることだと信じていただきたいのです。そしてどうか、今日1時30分からうちの教会でも中継して参加することになっている、世の光のつどい水戸大会に参加していただきたいのです。これに参加することで、この働きにこの地域の教会、聖書を神のみことばと信じ告白する教会が連帯して参加していることに、力を得ていただきたいのです。
参加する方法は簡単です。1時半から礼拝堂に集まり、パソコンの前に陣取る、これだけです。映る画面には各教会の様子が映ります。これをご覧になれば、ともすれば私たちだけがクリスチャンのように思えてしまうコロナ下の寂しさが、大いにまぎれ、力づけられると信じます。
この諸教会の連帯が、この水戸地域の福音化に大いに益するものとなりますように、ともに祈って取り組んでまいりましょう。この番組を聴く方々の中から多くの人が福音に関心を持ち、その中から私たちの教会を訪ね、キリストに出会う人が起こされますように、祈ってまいりましょう。私たちもそのような方が教会にいらっしゃったら、いつでも歓迎できますように、備えてまいりましょう。未来の私たちの兄弟姉妹は、日曜日朝7時10分から25分のラジオのそばにいらっしゃいます。
では、お祈りします。