イエスさまは愛なり
聖書箇所;ヨハネの福音書8:1-11/メッセージ題目;イエスさまは愛なり 小学生のとき、私はクラスの友達から「聖書物語」という本を借りて、一生懸命に読んでいました。いろいろなエピソードが載っていたもので、出エジプトの十の災害の箇所など、子ども心にとても驚いたものでした。そのときその本を読んだことが、のちに教会に通うようになったときに役に立ったわけですが、その物語の中で、出エジプトの話と並んで印象に残った話が、さきほどお読みいただいたイエスさまの物語です。これを読んで、このイエスさまという方はただのお方ではない、と、子どもながら思ったものでした。 今日の本文にまいりましょう。1節と2節です。……この物語は、イエスさまがオリーブ山にいらっしゃったという記述から始まっています。ルカの福音書の記述を見てみますと、イエスさまが最後にエルサレムで過ごされたとき、夜はオリーブ山で過ごされ、昼は宮で教えられたとあります。オリーブ山で過ごされたのは、御父との交わりに専念されるためでした。 夜という時間は、周囲の景色という景色が暗やみに包まれ、よく見えません。感じるのは、山のひんやりした空気だけです。そのような場所は、御父に向かって祈りをささげるのに最も適した場所でした。 イエスさまは、御父なる神さまの御子として、この御父との交わりの時間をとても大切にされました。この日もそのようにして、御父との時間を過ごされてから、エルサレム神殿にてみことばを民に対し語られる働きに出ていかれました。 そのようにしてイエスさまが神殿に入られると、民が集まってきました。イエスさまは、みもとに集まる民に、喜んでみことばを語ってくださいました。そうです、私たちがイエスさまのみもとに行くとき、イエスさまは喜んで私たちにみことばを語ってくださいます。 ところがここに、みことばを聴くためではない、まったく別の理由でイエスさまのもとにやってきた者たちがいました。3節から5節をお読みします。……われこそは正義の味方なり、とでも言わんばかりの態度です。義なる神さまの義に照らせば、この女はさばかれて当然だ。さあ、あなたなら何と答えますかな? このユダヤ人の女性が姦淫の罪を犯した、というのは、ほんとうのことでしょう。だから彼女は、ユダヤの宗教指導者であるパリサイ人や律法学者たちのさばきにも服さざるを得なくなっていました。しかし彼ら宗教指導者がこの女性の罪を裁くことは、イスラエルから悪を除き、共同体を保つため、ということを第一に考えていなかった模様です。もしそういう目的があったならば、彼ら宗教指導者は、彼らなりに裁判を開いて決着をつけるべきでした。それなのに彼らは、イエスさまのもとにこの女性を引いていったのでした。なぜでしょうか? 6節の前半をお読みします。 そう、彼らの目的は、窮極的には、イエスさまを罪に定めてもはや何の活動もできないようにさせることにありました。たしかに申命記を読んでみますと、姦淫を犯した者は死刑に処せられるとあります。しかしその律法によると、死刑に処せられるのは男も女もでありますから、この場に女性だけが連れて来られたのはおかしな話です。男は、逃げるか何かしたのでしょうか。哀れにもこの女性は、たったひとりで神殿に連れ込まれ、群衆の見せしめになったのでした。 それはともかく、もしこのように姦淫を犯した者を、律法の告げるとおり死刑にせよと語るならば、普段イエスさまの説いておられる愛と赦しの教えは嘘だったことになります。その一方で、もしイエスさまが死刑にしてはならないと言われたならば、それはモーセの律法に反したことを教えたことになり、主のみことばに対する冒瀆を働いたことになります。 そしてもうひとつ。イエスさまを告発するのが彼らの目的だった、とあります。律法どおりに死刑にすべし、とイエスさまがおっしゃったならば、それは、唯一臣民を死刑にする権限を持ったローマ帝国に対する越権行為的な発言をしたことになり、宗教指導者たちはローマ総督に訴え、イエスさまは抹殺されてしまうことになります。そして、赦しなさい、とおっしゃったならば、宗教指導者は大祭司に訴え、これまたイエスさまは抹殺されてしまうことになります。政治的にローマが支配し、宗教的にユダヤ教の大祭司が支配するユダヤならではの政治形態を利用して、彼ら宗教指導者は、少なくとも彼らにとっては完璧に、イエスさまを抹殺する方法を編み出し、それをついに実行に移す時が来たのでした。 だがイエスさまは、そのような訴えを意に介されません。地面に指で何か書いておられました。いったい何を書いていたのかは、聖書は語っていないため、これは諸説ありますが、ひとつはっきりしていることは、イエスさまはあえて即答されず、彼らに語るに任せられた、ということです。 なぜ、イエスさまはその場で即答されなかったのでしょうか? その理由を考えてみたいと思います。7節と8節のみことばです。……イエスさまを責めたてる彼ら宗教指導者たちは、とにかく律法を守り行なうことに熱心でした。そのことによって、彼らはいかにも自分が罪のない人であるかのように振る舞っていました。 イエスさまはしかし、そんなふうに振る舞う彼らは、かえって、つねに罪人であるという自覚を抱えながら生きているということを見抜いておられました。自分も含めて人間はことごとく罪人であることが感じられてならないからこそ、モーセの律法の正しさを研究し、その正しさを自分のものとすべく努力し、また、人に教えているわけです。そんな彼らに、イエスさまのこのみことばは強烈な一撃を与えました。あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。 イエスさまは、石を投げてはいけないとおっしゃったのではありません。石を投げなさい、と、はっきりおっしゃっています。モーセの律法のとおりです。ただし、それができるのは、罪がない人だけである、とも語られました。 モーセの律法を完全に守り行える人は、罪のない人だけです。パリサイ人や律法学者は人間的にはストイックで偉い人であったかもしれません。しかし、彼らが罪人であることに変わりはありません。モーセの律法を完璧に守り行えてなどいないのです。 これさえおっしゃればもう充分でした。宗教指導者たちがそれでも石を投げつけるかどうか、もうはっきりしていました。イエスさまは彼らのことは意に介さず、顔を上げずにまた地面に何か書かれました。 9節のみことばです。……イエスさまのこのことばを聞いた宗教指導者たちは、年上の者から、ひとり、またひとり、その場を去っていきました。自分はこの女性に石を投げつける資格のある義人ではない、人をさばく資格のない罪人であることを深く悟らされたからでした。年長者から去った、とありますが、人生を重ねれば重ねるほど、人は自分が罪人であることを悟らされるものです。 人は信仰により正しい者とされること、年とともに人は完成に向かって進むことを説いたパウロも、晩年近くなって弟子のテモテに送った手紙の中で「私は罪人のかしらです」と語ったとおりです。そして年長者が去るならば、若い者が頑張ってその場にいる理由はありません。かくして、彼女を引き出した者たちは全員がその場を去りました。残ったのは彼女ひとりだけです。 10節のみことばです。……ここでイエスさまは、身を起こして彼女に語りかけました。なんと呼びかけているか? 「女の人よ」です。日本語だとこのことばにあたる適切なことばがないのですが、これは原語の意味では、高貴な婦人に対する呼びかけのことばです。彼女を見せしめにした宗教指導者たちとちがって、イエスさまは彼女に対し、ちゃんと人として、女性として、それもれっきとした人格を備えた女性として接したのでした。ここには、姦淫のような罪を犯した罪深い女、という見方など、まったく存在しません。 「彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」そう、死刑に値する罪を犯したと、彼女を責める者たちは、もはやどこにもいませんでした。イエスさまのたった一言で、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げていったからでした。 ローマ人への手紙、8章31節から34節までをお読みします。……イエスさまは、この女性の味方になってくださいました。味方になって、そのみことばひとつで責め立てる者たちを散らされました。 しかし、彼女にはまだ、もう一人のまなざしが向けられていました。イエスさまです。罪ある者はみことばによって罪を悟らされ、人をさばけない罪人であることを自覚しつつ去るのみでした。しかしイエスさまはちがいました。イエスさまは人をさばくことのおできになる方です。なぜなら、イエスさまは罪のないお方だからです。罪のないお方であるゆえに、いえ、それ以上に、律法をお定めになったお方であるゆえに、律法にしたがって彼女を石打ちにする資格をお持ちでした。イエスさまは彼女に何とおっしゃるでしょうか? 11節です。……なんと、罪のないお方、さばく資格のあるはずのお方であるイエスさまが、罪に定めることをなさらなかったのです。彼女を無罪放免なさいました。もはや彼女は、姦淫の罪を犯したことを、神さまの御前で責められることは、永遠になくなったのでした。 イエスさまはなぜ、律法どおりに彼女を石打ちにすることをお許しにならなかったのでしょうか? それは、人を死刑にする律法は、あくまで主の民の共同体の中から悪を取り除く目的で執行されるために必要なものであって、悪そのものが取り除かれるならば、もはや律法どおりに人をさばく必要などなくなるからです。悪が存在しない以上、彼女を石打ちの刑にすることは、罪のない人を殺すという罪を犯すことになります。彼女の罪を取り去られたイエスさまは、それゆえに彼女を石打ちにしてさばくことはなさらなかったのでした。 しかし、イエスさまが罪を見逃されたのは、果たして彼女だけだったのでしょうか? そうではありません。神の御子を葬り去ろうとした宗教指導者たちも、立派に罪人です。彼女を罪人としてさばくならば、神の御子を冒瀆する彼らも、死をもってさばかれてしかるべきでした。だが、イエスさまは彼らの頭上に天からの火を降らせず、彼らを去るに任せられました。 しかし、そうして罪を赦していただいたはずの宗教指導者たちのイエスさまに対する冒瀆の罪は次第にエスカレートし、ついにはイエスさまを十字架につけるまでになりました。だが、イエスさまは十字架の上で、御父に何と祈られましたでしょうか?「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」イエスさまは、十字架につけて御子を呪い殺すことをもって最大級の冒瀆をする民に向けられた御父の激しい怒りを、両手を広げて受け止められたのでした。お父さま、どうかわたしに免じて、彼らを赦してあげてください! イエスさまは、罪人をさばくべきそのさばきを、ことごとく、ご自身の身に受けられ、そして死なれたのでした。 イエスさまは、律法を曲解されたのではありません。むしろその反対で、神の愛をもって神の民を悔い改めに導き、きよさにあずからせることで、この姦淫の罪を犯した人をさばくための律法を、完璧に成就させられたのでした。 だからこそイエスさまはおっしゃるのです。「今からは決して罪を犯してはなりません。」この女性は、本来ならば殺されてもおかしくなかったような罪を犯したわけです。それを赦してくださったのは、神の子であるイエスさまです。ならばこの女性は、神と無関係に生きてはならないはずです。神の子イエスさまのみこころに一生従うことを目指しつつ歩んでいく必要があります。 彼女がその後どうなったかは、聖書は沈黙しています。しかし、私たちはここで、彼女のその後の人生をあれこれ詮索するのではなく、このとき罪を赦してくださったイエスさまの罪の赦しが、実はいまこうして聖書をお読みしている自分のためのものだったことを受け止める必要があります。 イエスさまはどのようにして罪を赦してくださったのでしょうか? 十字架にかかってくださることによってです。十字架とは、女の人を石打ちにすべしという神の義と、女の人を赦すべしという神の愛が、同時に実現したものでした。私たちもさばかれるべき罪人です。しかし、私たちは愛されているゆえに、そのさばきを免れさせていただきました。ただ、イエスさまの十字架を信じる信仰においてのみ、私たちは罪が赦されるのです。 もちろん私たちは、生きているかぎり、罪を犯すことを免れることはできません。私たちは赦された罪人です。罪人にちがいないのです。しかし、だからといって、自分が罪人であることを言い訳に、罪の生活をやめようとしないならば、話はちがってきます。それは、ご自身がきよいゆえに私たち主の民にもきよくあるようにと求められる、主の御心を無視することです。 私たちは律法を守り行うことによって義と認められるものでは決してなく、イエスさまの十字架を信じる信仰によって義と認めていただくものですが、そうして義と認められたならば、私たちのすることは、私たちを義と認めてくださった私たちの主人、主のみこころに従って、みことばに書いてある基準を守り行うべく、聖霊の助けをいただきながらできるかぎりの努力をすることです。その生き方を繰り返し、続けていくならば、私たちは主のきよさにあずかることになり、キリストの似姿として日々整えられることになります。 最後に、この女性のことを考えてみたいと思います。人生が終わる危機に瀕した日、そして人生最大の恥にまみれたその日は、イエスさまとの出会いによって、永遠に罪が赦され、救っていただいて主の民に加えられた日となりました。私たちの最悪のとき、それは、イエスさまに出会い、最良のときと変えられるのです。 もしあのときイエスさまに出会っていなかったら、自分はどうなっていただろうか……そんなふうに考えてみたことはおありでしょうか? しかし、そんなことは考える必要はありません。なぜなら、私たちは今、現実に、最も素晴らしい人生、永遠のいのちを生きているからです! このような出会いをすべく選ばれる可能性を秘めているのが、今私たちの周りにいる人たちです。中には、この女性のように、人々から責められるような罪を犯した人もいるかもしれません。そういう人を見たならば、私たちはみんなと一緒になって彼らを責めるでしょうか? みことばに反しているぞ、などと言って? それとも、イエスさまがその人をご覧になったそのまなざしを思いつつ、その人のことを見るでしょうか? ぜひとも私たちは、イエスさまのまなざしを身につけたいものです。それは、私たちもまた、本来ならばさばかれてしかるべきだった罪人だったのに、イエスさまがあわれんでくださり、私たちのことを一方的な恵みによって救ってくださったからです。 私たちの周りにいる人たちも、今の私たちのように、救われて主の民となる可能性を秘めている人たちです。主がそんな彼らをご自身の民として召されるために、主はだれを用いてくださるでしょうか? 私たちでなければ、いったいだれがその人たちに、永遠の罪のさばきから救うためにキリストを伝えることができるでしょうか? 人をさばくのは実に簡単です。しかし、私たちはどうか、もっと難しい道を率先して選ぶ者となりたいものです。人をさばくのではなく、愛する人になるのです。私たちがみことばを読むのは、今日の箇所から学んだような、イエスさまのような人になるためです。この世に対して悪は悪であるとはっきり言える確かな基準を持つ一方で、罪を悔いる人をまことの悔い改めと救いへと導く人になる……私たち教会、キリストのからだなる共同体には、そのことが求められています。 人を愛し、赦す者となる、難しいですが、キリストの愛を受けているならば、私たちは必ず、そのような人に変えられます。私たちの愛を主が本物にしてくださいますように、十字架の愛を実現する愛へと成長させてくださいますように、主の御名によってお祈りいたします。