聖書箇所;コリント人への手紙第一6:12~20/メッセージ題目;「私たちは聖霊の宮」
水戸市の東の方、常澄(つねずみ)という地区に、すごい像が立っています。「ダイダラボウ」の像です。見るからに威圧感があります。この「ダイダラボウ」の像が、偶然大串貝塚にできた、と言ったら、みんなどう反応するでしょうか?「なに言ってんの?」まあ、当たり前です。こんな威容を誇るダイダラボウも、人の知恵で建てられました。
私たち人間はどうでしょうか? とても精巧です。ものを考えます。ことばを話します。ものをつくります。それなのになぜ私たち人間の学校やマスコミは、人間は偶然できたと教えるのでしょうか?
もし、人間が偶然できたというのがほんとうならば、何をしてもいいことになります。人殺しをしてもいい、人のものを盗んでもいい、好きな人どうしでいやらしいことをしてもいい……しかし人間は、それをしてはいけない、と、心のどこかで意識してはいないでしょうか? そう、それは、人間が神さまに造られている証拠です。そして神さまは私たちのことを、「聖霊の宮」としてくださいました。ただ被造物であるだけではない、神の霊を宿す存在。
今日のメッセージはワンポイントでまいります。「私たちは聖霊の宮」。
みなさん、宮というと、何を思いますでしょうか? 私の故郷は「大宮」というところで、その名前の由来は、「氷川神社」という大きな神社です。私の地元では「おひかわさま」なんて言われて、崇敬を集めています。大きな宮だから大宮です。
宮、というのは、宗教的な崇敬の対象となる場所で、コリント人への手紙はギリシャのコリントにあてて書かれた手紙ですが、ギリシャだったらアテネの「パルテノン神殿」が有名です。当然、コリントにも神々の神殿があったわけです。
世界に目を転じると、これは聖書よりあとの時代ですが、インドのタージマハルですとか、カンボジアのアンコールワットですとか、とにかく「宮」というものは大きな存在で、信者の崇敬を集めるとともに、国を代表する観光名所になったりします。
日本ならどうでしょうか? 東京なら何といっても浅草の浅草寺(せんそうじ)です。ほかにも明治神宮、関東なら成田山新勝寺、日光東照宮、西日本なら伊勢神宮、太宰府天満宮、京都や奈良のたくさんの神社仏閣……きりがないのでこれくらいにしますが、とにかく、古今東西、人間のいたところには、崇敬の対象である宮があったといっていいでしょう。
さて、コリント教会は聖書の教えを受けるにあたって、当然、イスラエルの神を礼拝するうえでの「宮」というもの、旧約聖書に登場する、まことの神を礼拝する場所としての「宮」についても教えられていたわけです。出エジプトの荒野生活における「幕屋」、ソロモン以降のエルサレムにおける神殿、こういう話を聞いて、コリントの信徒たちは何を思ったことでしょうか? やはり自分たちのそれまでの宗教生活、ギリシャの神々の神殿に詣でていた過去のイメージと二重写しにしながら、まことの神、イスラエルの神を礼拝する「宮」というものをイメージしていたのではないでしょうか?
それは、イスラエルの民を越えて世界宣教に出ていくにあたっては、克服すべき問題です。人は宣教によってイエスさまを知るように導かれたならば、偶像礼拝の「宮」ではなく、神の「宮」というものに対する正しい捉え方をする必要があります。
正しい捉え方と申しましたが、それは、創造主なる神さまを礼拝するには、ユダヤのエルサレムに行かなければならない、ということではありません。ヨハネの福音書4章、サマリアの女とイエスさまの会話に注目します。イエスさまは、愛に飢え渇いていたこの女性のほんとうの問題を言い当てました。サマリア人は、むかしからゲリジム山というところに礼拝場所を築いて、創造主を礼拝していました。しかし、彼女の問題を言い当てたイエスさまがユダヤ人の預言者ということで、この女性は、創造主を礼拝するならばユダヤ人の大事にしているエルサレムの神殿に行くべきなのではないか、と、動揺しはじめました。
しかし、イエスさまはおっしゃいました。(21節)礼拝をささげるべき場所とはサマリアのゲリジム山でもなく、ユダヤのエルサレムでもない、今からはそういう時代になる、というわけです。
礼拝とは、人間の手による宮、礼拝場所でささげられるものとかぎらない……イエスさまは何とおっしゃっていますか?(24節)イエスさまが求めておられるのは、御霊と真理によって礼拝する、ということです。プログラムをこなす「お勤め」、「参詣」、「参拝」、そういうものを求めていらっしゃらないことにご注目ください。御霊によって、つまり聖霊に満たされて、真理によって、つまり真理なる聖書のみことばによって、礼拝する。これを神さまは求めていらっしゃると、イエスさまは語られたのでした。
すると、神さまを礼拝する場所である、宮とは何か、ということになります。そこで、今日の本文の19節に注目します。
あなたがたは、聖霊の宮である、というのです! なぜかというと、あなたがたのうちにおられる神から、その肉体を、また、共同体なる教会を、あなたがたは受けているから、というわけです。教会とはキリストのからだです。したがって、私たち一人ひとりの肉体・たましい・霊が聖霊の宮であり、私たちの属する水戸第一聖書バプテスト教会・また、日本と世界のすべての教会が、聖霊の宮です。
私たちが宮であるということは、私たちにはオーナーがいて、また、設計者がいる、ということです。それは、神さまです。
みなさん、旧約聖書を読むと、あんなにもたくさん、イスラエルの神の幕屋ですとか、宮に関する記述が出てくるのはなぜだろうって、考えたことありますか? 読んでいて退屈になりませんか? あれさえなければ、もっと聖書通読は楽しいのに、なんて考えたりしませんか?
しかし、これはちゃんと理由があります。設計や材料や礼拝のしかたをどうするべきかを微に入り細にわたって書いているのは、神さまがそうしなさい、とおっしゃっているそのみこころはひとつだから、ということです。わたしのみこころはこれだよ、と、神さまが人間に対し、わかるように教えてくださるため、そのために、あれだけ細かく、あれだけたくさん、宮についての記述が登場するわけです。それ以外の建て方をしたら神の宮とは言わない。それ以外の礼拝のしかたをしたら神を礼拝したことにはならない。
宇佐神先生は「聖書は創造主が人類に与えられた説明書」とおっしゃっていますが、けだし名言、アーメンです。しかし私たちは、例えばパソコンや携帯電話の分厚い説明書、その細かい字で書いてあるひとつひとつの説明を、読んで使いますか? 全部理解して使おうと思ったら、頭が痛くなるでしょう。基本的な操作さえわかれば、あとは使って、使っているうちに慣れてくればいいわけです。しかし、製造した側はそうはいきません。製造物責任法というものがありますので、それがどのような製品かをきちっと書いてわかるようにしておかなければならないわけです。
聖書もこれと同じで、本来神さまを礼拝するとはこういうことだったと、イエスさまがこの世に来られて律法を成就されてから2000年経っても、いらないといって削ることはしないわけです。
さて、イエスさまが来られて、この「神の宮」に関する教えは「アップデート」されました。世界宣教、神の民イスラエルの子孫であるユダヤやサマリアを越えた異邦人にみことばが伝わるにあたり、ほんとうの礼拝とは聖霊の宮なる人間そのものをもってするものである、という、ほんとうの教えが伝わりました。
神の民は、宗教生活に熱心でした。しかし、イエスさまはそのような神の民が、神さまのみこころをちゃんと守り行なっていないことに、激しくお怒りになり、ほんとうの神の愛というものを、弟子を育ててご自身の働きを分かち合われ、遣わされることによって、お示しになりました。そうです、イエスさまの弟子とは、神の宮としての生き方をまっとうする人たちのことです。
その、ほんとうの聖霊の宮をもって、御霊と真理によって礼拝する、それはどういうことか、このみことばを読みましょう。(20節)代価って何ですか? そう、イエスさまの十字架の血潮です。神の子の血潮が私たちの代わりに流された、これ、すごいことです。イエスさまの十字架の血潮が流された神の宮、聖霊の宮、それが私たちです。イエスさまの血潮によって私たちは神のものとしていただいたのでした。私たちの努力で神さまに認めていただいたのではありません。イエスさまが私たちを愛して、身代わりになって血潮を流してくださったのでした。
私たちの礼拝は、イエスさまがもう、血潮を流してくださった、「だから」ささげる礼拝です。イエスさまなしの礼拝というものは、私たちにはありえません。逆に言えば、私たちはイエスさまの血潮以外のものをもって神さまを礼拝することはできません。私たちが自分のからだをもって神さまを礼拝する、ということは、どうだ! こんなにも私は神さまのみこころを守り行えたぞ! と、自分の努力を誇ることではありません。私たちは神さまのみこころを守り行うことなどできない、それぐらいのひどい罪人なのに、神さまの恵みでみこころを守り行う者にしていただいている、ゆえに恵みの神さまに感謝し、そうさせてくださった神さまにすべてのご栄光をお帰しする、これが礼拝なのです。聖霊の宮として生きるということです。
私たちが聖霊の宮であるということは、もうひとつ、この宮を神さまとひとつとなること以外に使ってはなりません、別の言い方をすれば、神さま以外とひとつとなることに使ってはなりません、ということを意味します。(15節)
姦淫をすることがなぜいけないのか、それは、みこころを損なうから、ということですが、それはなぜみこころを損なうことになるのか、それは、キリストのからだを遊女のからだにしてしまうからだ、ということです。
列王記やダニエル書のみことばを読んでみますと、神殿の中から宝物が奪われて、偶像礼拝に使われるという悲惨な状況が語られています。それは敵が悪いというよりも、神の民が王をはじめとして偶像礼拝におぼれ、その結果主の宮が粗末な扱いを受けた、ということです。そのように、神の民が偶像礼拝という名の姦淫、貪りをすることは、私たちというキリストのからだを取って遊女のからだとする、ということです。
私たちは、そのような生き方をしてはいけません。なぜなら私たちは聖霊の宮だからです。だから私たちは聖霊の宮であるという自覚が必要です。聖霊をお迎えしているにふさわしくなければならないでしょう。汚い宮、というものは、それだけで矛盾です。私たちはきれいに保たれる必要があるでしょう。健康に保たれる必要があるでしょう。汚いものを見たり聞いたりしてはいけません。インターネットの情報とか、テレビの情報とか、注意してください。変なものを見つづけると、確実にけがれます。ジャンクなものばかり食べたり飲んだりしてもいけません。聖霊がけがれるわけではありませんが(ここ注意してください)、聖霊の宮がおかしくなります。し私たちはソロモンの神殿にもし自分がいたとして、勝手に土足で入るでしょうか? ものを食べながら歩き回って、ごみをポイ捨てするでしょうか? 私たちが聖霊の宮であるということは、それ以上のことです。聖霊さまにいていただくにふさわしく、自分を保たないでしょうか? 貪りのような快楽だけではありません。ストレスをそのままにしておいて、自分のことをケアしないのもいけません。聖霊の宮が壊れます。
聖霊の宮を保つ秘訣をお伝えして、今日のメッセージを締めくくります。それは、聖霊に満たされることです。具体的に何をすればいいかというと、毎日の礼拝と日曜日の礼拝です。毎日の礼拝は別名を「ディボーション」といいます。具体的には、毎日少しずつみことばをお読みし、そのみことばを黙想し、教えられたことを生活に適用し、実践することです。そして、この実践したことを、教会において分かち合うことです。そこまでやってディボーションは完成です。
でも、これは「お勤め」ではありません。みことばを聴かないと生きていけない! みことばを聴きたくてたまらない! だからこそするものが、ほんとうのディボーションです。ディボーションをすることで天国行きのステージが高くなるとか、そんな感覚でしてもらっては困ります。天国にはもう入れていただいているのです。そうではなくて、この茨城の地で神の栄光を顕す、その生き方をすることで神さまを礼拝するために、またその生き方をするうえで、肝心の聖霊の宮である私たちの健康が保たれるために、ディボーションをするのです。
それは、日曜日の礼拝も同じことです。私たちは聖霊の宮なるこのからだをもって、週に一日の時間を聖別して、創造主なる神さまを礼拝するのです。ちゃんと安息を神さまの前で取らないと、聖霊の宮は壊れます。私たちは聖霊の宮、神のかたちです。壊れてはいけません。
さあ、今日、ひとつ決断したいと思います。私たちは聖霊の宮として、これからどのように生きていきますか? しばらく祈りましょう。祈って、ひとつ決断しましょう。