イエスさまを迎える準備

聖書箇所;マタイの福音書25:14~30/メッセージ題目;イエスさまを迎える準備 一年終わりの日曜礼拝となりました。今年教会は、「イエスさまを迎える準備をしよう」という標語のもと、コロナ下2年目のこの年をともに歩んでまいりました。この年を締めくくるみことばに、マタイの福音書25章14節から30節のみことばを選ばせていただきました。このみことばは、イエスさまの再臨に備える私たちに、極めて大事なことを教えています。 さて、このみことばですが、当然みなさまにも、初めて聖書を読んだときというものはあるわけですが、初めてこの箇所をお読みになったとき、みなさまはどうお思いになったでしょうか? 私の最初の印象は、「理不尽だ!」主人から財産を預かっていたしもべたちは、預かれ、と言われたのであって、それを勝手に増やしたりしていいのか? しかも、そうして増やしたら主人にほめられたりしているし? そして、主人から預かっていただけのこの1タラントのしもべは、怒られるわ、タラントを取り上げられるわ、外の暗やみに放り出されるわで、踏んだり蹴ったり、主人はあまりにもひどい! これが、最初に聖書を読んだときの、私の正直な感想です。 もちろん、これからお話しすることは、そういう意味じゃないですよ、ということですが、ともかく、今日の箇所でイエスさまが旅に出る主人に例えておられることは、イエスさまが十字架にかかって葬られ、復活され、昇天されて天の御国に行かれるということです。旅に出るということは、また帰ってくる、ということです。そのようにイエスさまも、この世界の主人として、再びこの世界に帰ってこられます。その間、私たち主のしもべたちはどのように過ごすべきかということを、イエスさまはこのたとえ話をとおして、私たちに教えてくださいました。 主人は3人のしもべたちに、それぞれの能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントを預けます。1タラントは成人男子20年分の賃金に相当しますから、年収が300万円としてざっと6000万円、といったところです。とんでもない大金です。2タラントや5タラントとなると数億円にもなります。 いったい主人はしもべたちに、何のためにこんな大金を預けたのでしょうか? 預けてはおくが、手をつけるな? だったら、イエスさまはこんなありえないようなたとえをお語りになるはずがありません。 ちょっと脱線しますが、イエスさまがお語りになったたとえというものは、実際にあり得ることをわざわざたとえという形で語っていらっしゃるわけではないことにご注意いただきたいと思います。あり得る話ならば、ストレートに「教え」としてお語りになります。 「たとえ」というものは、あり得ない話を聴き手に投げかけられることによって、そのたとえの語る神の国というものの奥深さを聴き手に深く考えさせ、神の国を自分のものにしてほしい、という、イエスさまのいわば親心のようなものがもとになっています。 ですから、この「タラントのたとえ」も、あり得ないような話で神の国というものを考えさせるためにイエスさまがお語りになっているわけですが、これは、ルカの福音書19章の「ミナのたとえ」と読み比べれば、主人がどういう目的でしもべたちにタラントを預けたか、主人のその動機を知ることができます。そうです、「商売をしなさい」です。 商売をするのは言うまでもなく、お金を儲けるためです。それはことばを換えれば、「お金を増やす」ためです。主人がしもべたちにタラントを託したのは、そのタラントを増やすためです。 さて、5タラント預かったしもべは、5タラントもうけて主人にほめられ、2タラント預かったしもべも2タラントもうけて主人にほめられています。このしもべたちはなせほめられたのでしょうか。それは、主人のことばから読み取ることができます。 まず「よくやった」。主人は努力したことを評価しています。主人から預かったタラントを増やすために、商売という海千山千を相手にする厳しい世界に飛び込み、失敗や損失もものともせず努力したことを評価しています。 私たちの生きているこの世界も、イエスさまを証しするにはあまりにも厳しいです。反抗にあったり、無関心の反応を示されたりします。それでも私たちが、イエスさまによって救われた喜びにあふれて種を蒔きつづけるならば、たとえ人は評価しなくても、私たちの主人である神さま、イエスさまが充分に評価してくださいます。 主人はしもべを評価しますが、その評価はどれほどすばらしいものでしょうか?「良い忠実なしもべだ」。良いしもべです。私たちは、良い人、と評価されたくて努力するでしょう。 しかしその評価が、ほかならぬ主人からもらえるのです。どんな評価がしもべとしてもらえる最高の評価でしょうか? それは、あなたは忠実だ、という、この評価につきるのではないでしょうか? そのように神さま、イエスさまは、私たちが恵みの中で努力したことを、ご自身に対して忠実であったと認めてくださり、良いしもべだ、と、最高の評価を与えてくださいます。 主人はどのような点で、このしもべが忠実であると評価するのでしょうか?「おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」。私たちにとって大事なのは、イエスさまがここでおっしゃった、わずかな物とは何を指すのか、ということを、きちんと理解しているかどうかということです。それは端的に言って、わずかな物に比べての多くの物、つまり、神の御国を任されるにふさわしいだけの備えを、ふだんから積み重ねているか、ということです。 主人の財産を商売という形で増やしたしもべたちは、その商売を展開するにあたって、だれのしもべであるか、ということを前面に出して営業をします。私のこの商売は、主人の命(めい)を受けていしていることです。そうしてしもべに対して、と同時に、主人に対して、相手の信用を勝ち取り、主人に対する信用と信頼という領域をこの世界に増やしていくわけです。 私たちも同じことで、私たちも自分の名前や顔を売るためにこの世界に生きているのではありません。私たちの主人であるイエスさまをこの世界の人に知ってもらおうと、私たちはこの世界の必要とされている領域に行って愛の奉仕をし、ささげものをします。イエスさまの福音を宣べ伝えます。人々をキリストの弟子にします。そうすることで、私たちの周りから神の国が広がっていきます。 このように、つねに神さまの御国とその義を第一とする生き方をするならば、神さまはわたしたちのその歩みを覚えていてくださり、私たちがのちの世ではるかに素晴らしい天の御国に入ることができるように、私たちを祝福してくださいます。 そしてこの歩みは、「主人の喜びをともに喜ぶ」ことなのです。主人に喜んで忠実に仕えるしもべは、主人が喜びの人だということを知っていて、自分も主人とともに喜びたい一心で、今日の働きに種を蒔くのです。 私もこれまでのクリスチャン生活で、たくさんのクリスチャンに出会ってまいりましたが、いい信仰を持っている人は、喜びを絶やさない人です。 「いつも喜んでいなさい」とみことばが語っている、そのとおりの喜びを、実に自然に表現できています。そういう方は、神さま、イエスさまが、私たちのことを喜んでおられることを知っていて、その喜びを知るから自然と喜びがあふれてくる、という印象を与えてくれます。 さて、ここまでが、主人に喜ばれた働き人がどうであったか、という、イエスさまのみことばであるわけですが、これと対照的な働き人、そう、主人の1タラントを土の中に埋めたしもべについて、今度は反面教師として見てみましょう。 24節、25節を見てみましょう。……このしもべが主人に対して抱いていた感情は「怖れ」でした。「蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方……」 この主人の姿、聖書のどこかで見たことはないでしょうか? そう、出エジプト前夜のファラオの姿です。藁はやらないがれんがを今までどおりつくれ。つくれない者を厳しく打ちたたく。そのように民をいじめ、搾取するひどい権力者。このしもべにとっての主人のイメージは、そういうものだったというのです。 このしもべは何を怖れていたのでしょうか。もし、商売に失敗したら、主人からどんな目にあわされるかわからない。主人は、1タラント以上のことを自分に期待しているはずだから、その期待に応えられなかったら、何をされるかわからない。 とにかく、ほかのしもべたちとちがい、このしもべはタラントを増やすことをしていませんでした。しかたがなく、このしもべは言い訳に終始するしかありませんでした。ところがこのしもべが言い訳に選んだことは、なんと、主人の人となりはこんなだから私は怖くなった、ということだったのでした。 それを聞いた主人はどうしたでしょうか? わかった、私のことが怖かったんだね、許してあげよう、あなたに1タラントも預けた私が悪かった、そう言ったのでしょうか? とんでもありません。主人は激怒しました。 まず、15節を見てみるとわかりますが、主人はしもべの能力に応じてタラントを預けています。1タラント預けられたしもべは、ちゃんと1タラントを運用する能力があったことを、主人は知っていました。その能力があることは、しもべ自身も自覚していたはずです。問題は、その能力を持っていながら、ちゃんと行動しなかったことにあります。 しかし、もっと根本的な問題がありました。それはこのしもべが、主人とは自分にとってどのような存在かということを、はなから勘違いしていた、ということでした。 主人をこわい、と思うのはなぜでしょうか? 自分が、罰を受けるにふさわしいだけの悪を行い、それをやめようとしないからです。どこかで後ろめたい思いにさいなまれているわけです。それが、主人は理不尽に怖い存在、と間違ってとらえることにつながるわけです。 主人とはどういう存在かを間違ってとらえることは、主人が自分に望んでいることをまったく行おうとしない、不真面目な態度につながります。そのことは、このしもべが取った行動からも証明できます。 しもべは、自分に行動する力がないと認めるならば、その財産を銀行に預けてでもして、財産を増やすべきでした。銀行に預けるとはどういうことでしょうか? 銀行はむかしも今も、資産運用のプロです。お金の信用のないところに、人は大事なお金など預けません。主人の大金をあずかる銀行は、それを主人のために大切に運用し、ついには利息をつけて返します。銀行は、そのように運用するのは、自分たちをプロと見込んでお金を任せてくれた主人のためであることを理解しているわけです。 しもべにとっては、1タラントをまるまる銀行に預けることは、自分は主人に期待されるだけの能力がない、ということを公言するに等しいことでもあり、ちょっと恥ずかしいことではあります。しかしその恥は、最後の清算の時に主人からタラントを取り上げられ、出ていけ、となる恥に比べたら、何ほどのこともありません。 私たちはみな、賜物が異なっています。ある人は表に立ってバリバリ働くでしょう。ある人は裏方になってこつこつ働くでしょう。要はその働きを、神さまのためにしているかどうかです。 教会というものは、その賜物の欠けたどうしを補い合う働きをする場所であり、そう考えると、賜物というタラントが行き来しているうちに増やされる、銀行のような場所です。 私たち一人ひとりにも賜物はあります。しかし、この賜物とは神さまからお預かりしているものであり、やがてイエスさまが来られたとき、この賜物をどのように増やしたかということを主はご覧になります。 だから、賜物というものは、自分の財産のように思ってはならないわけです。ところが、もしイエスさまがやがて来られることを意識しないでいるならば、この賜物をあたかも自分のもののように思い、自分勝手に用いるようになってしまいます。逆に言えば、賜物を自分勝手に用いている人は、イエスさまが再び来られることを意識していない、ということです。 今、自分勝手、と申しましたが、それなら自分勝手ではない用い方とは何か、ということになりますが、それは、神の国のために用いる、ということです。 神さまが私たちに求めていらっしゃるとおり、貧しい人や病気の人、疎外されている人、捕らえられている人をケアする働きへと実を結ぶ、そうすることによって隣人を愛し、神の栄光を顕す……神の国はそのようにして私たちのうちから実現するものです。 しかし、このように神の国のために賜物を用いることには、多くの犠牲が伴います。頑張りすぎて肉体的にも精神的にも健康を害することもあるでしょう。周りの無理解や中傷によって傷つくこともあるでしょう。誤解されて人間関係にひびが入ることもよくあるものです。お金も出ていく一方です。自分自身の不勉強や人格の欠けを思い知らされて落ち込むこともあります。自分がよかれ、と思ってした行動がかえって問題を引き起こすこともあるかもしれません。 まことに、主の恵みがなければ、一日も続けることができません。そんな思いをするくらいなら、せめて楽に生きたい……そう思いますでしょうか? しかしそれなら、神さまはなぜ私たちのことを、この世界において、世の光、地の塩として召されたのでしょうか? それは、私たちがそう生きられると見込んでくださったからです。わたしの創造したこの世界は荒れ果てている……あなたなら、この世界にわたしの国を拡大できる……。 しかし、このように主が託されたみこころが重荷に感じられる方が、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。主が再び来られることはわかっている、しかし、賜物を活用することは重荷でしかない。 そういう方はそれでも、どうか、賜物を土に埋めるしもべにならないでいただきたいのです。この賜物のあるままに、霊の銀行である教会に、ご自身もろとも委ねていただければと思います。それこそが、私たち一人ひとりに委ねられた賜物を、もっとも効果的に運用し、増やし、ついには再び来られるイエスさまの御前に堂々と立つ道です。 今年もこれで最後の日曜礼拝になります。さらにイエスさまのご再臨に近づきました。私たちにはどんな賜物がありますでしょうか? この賜物を増やすことができましたでしょうか? 終わりの日の清算を前にして、今日このとき、清算してみましょう。充分に励むことができた、と確信できるならばそれで充分、まだ励むことができるならば、何に取り組めるか、考えましょう。 そして、自分は神さまの期待に耐えきれない、と思うならば、せめて、この霊の銀行なる教会の交わりにとどまりましょう。間違っても、自分でその賜物を何とかしようとしないことです。 しばらくお祈りしましょう。

羊飼いのクリスマスを、私たちにも。

聖書箇所;ルカの福音書2:8-20/メッセージ題目;羊飼いのクリスマスを、私たちにも。 みなさん、クリスマスおめでとうございます。 クリスマスといいますと、みなさんはどのようなイメージをお持ちですか? なにやら美しい、なんだかわくわくする、そんなイメージを思い浮かべる方が多いのではないかと思います。 昨年来のコロナ下で、そんなことも言っていられない……私たちは憂鬱な毎日を過ごしてきました。せめてクリスマスくらいは、ぱーっと明るくなりたいものです。でも、クリスマスはなんでうれしいのでしょうか? なんでめでたいのでしょうか? イエス・キリストは、2000年前のユダヤでお生まれになりました。当時ユダヤは、ローマ帝国の属国でした。なにやら世界史の授業みたいで恐縮ですが、ちょっとおつきあいください。イエスさまのお誕生のとき、ローマ帝国では、皇帝アウグストゥスによって、すべての国民は本籍地に行って住民登録をするように命じられていました。ユダヤの人も例外ではありませんでした。 それでマリアとヨセフも、家のあるナザレからはるかかなたのベツレヘムまで、旅をしてきたのでした。彼らの先祖はイスラエルの歴史に名高い王さまダビデ、そのダビデの町がベツレヘムなので、彼らはベツレヘムまで行かなければなりませんでした。 そして、マリアのおなかの中には、赤ちゃんがいました。そう、その赤ちゃんこそイエスさまです。そのような中ではるか荒野を旅しなければならなかったのでした。余計に大変でした。 やっとのことで、彼らはベツレヘムにたどり着きました。でも、どこに行っても、宿屋は満員で、どこにも泊まることはできませんでした。しかたがなくて泊まったのは、馬小屋です。そのとき、マリアは赤ちゃんを産みました。馬小屋の中でイエスさまは生まれました。世界で最初のクリスマス、それは、いま私たちの知っているクリスマスとは程遠い、真っ暗で臭くて汚い馬小屋のできごとでした。 その、世界で最初のクリスマスに立ち会えた人たち、それは、羊飼いたちでした。今日私たちが生きている社会にも差別というものがあります。同じように、当時のユダヤにも差別はありました。羊飼いというものは、社会からのけ者にされている人たちの就く仕事でした。犯罪者、罪人扱いされている人たち。ほかのユダヤ人と一緒に礼拝に行くこともできない、嘘つきというレッテルを貼られている人たち。だから、裁判で証言することもできない。住民登録のことを申しましたが、ほかのユダヤ人とちがって、羊飼いは住民登録もさせてもらえませんでした。要するに羊飼いとは、ユダヤの宗教の世界からは疎外され、ローマ帝国の国民扱いもしてもらえない人たちだったのです。差別されて、疎外されている人たち。 その日もそんな羊飼いたちは、夜通し、羊の番をしていました。羊泥棒や野獣から群れを守るために、眠ることもできません。そんな時……突然、天使が現れ、まばゆい光にあたりが照らされました。羊飼いたちは突然のできごとに、恐ろしくなりました。 しかし、天使は恐がっている羊飼いたちに言いました。恐がってはいけません。私は、うれしいニュースを伝えに来たのです。……きょう、ダビデの町、ベツレヘムで、あなたがたのために、救い主、主キリストがお生まれになりました。その救い主は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃんです。 馬小屋の中、飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃんだなんて、なんて貧弱な格好なことでしょうか。でも、このお姿が、救い主の印だというのです。神の御子という天の輝く栄光を捨て、馬小屋のような、社会の最底辺のようなところに赤ちゃんとしてお生まれになったお方、このお方こそ、私たちのことを罪から救ってくださる救い主です。羊飼いたちはそれをその目で見たのです。 この世の最底辺に追いやられていた羊飼いたちにとって、それはどんなに大きな慰めとなったことでしょうか! 私たちはこのように、この世の最底辺まで降りてきてくださったキリストを礼拝するために、本日クリスマス礼拝のひと時をお持ちしているのです。 そして天使のことばに引き続いて、大勢の天使が現れ、神さまをほめたたえる讃美の歌を大合唱します。天においてはすばらしい栄光が神にあるように、地上においては神のみこころにかなう人に、平和があるように! やがて天使たちは天に帰っていきました。あたりは再び真っ暗になりましたが、羊飼いたちは互いに言いました。さあ、ベツレヘムに行こう。主が私たちに知らせてくださったこのできごとを見に行こう。羊飼いたちは急いで行きました。あとは、赤ちゃんがいる馬小屋を探すだけです。ほどなくして、羊飼いたちはマリアとヨセフ、そして生まれたばかりのキリストを捜し当てます。みんな、天使の告げたとおりでした。羊飼いたちは神をほめたたえながら帰っていきました。 この世は、出世すること、お金持ちになること、人に認められることを、人生の目標、また最高の価値のように教えます。しかし、あの時代の羊飼いたちは、どんなに頑張ってもそのような人になることができませんでした。彼らは、絶望を宿命と受け入れて生きるしかありませんでした。しかし、神さまは、そんな羊飼いのことを、救い主のお生まれに立ち会うように選んでくださったのでした。彼らはどれほどうれしかったことでしょうか! そして、羊飼いを選んでくださった神さまは、私たちのことも選んでくださいます。これが、聖書のメッセージです。この教会に普段集う私どもは、神さまに選んでいただいた者であるという自覚をもって日々過ごしております。自分たちは選んでいただいたけれども、それはなにかいっしょうけんめい努力したからとか、なにかいい行いをしたからではありません。ただ、神さまが一方的に私たちを選んでくださり、イエス・キリストの救いを信じる信仰を持たせてくださったと信じています。私たちは、神さまが私たちのすべての罪のために、ひとり子イエス・キリストを十字架につけてくださったことを信じるだけで救われるのです。救われるためには信じるだけ、そこには何の行いもいりません。 そして、この信仰を持てることは、神さまの一方的な恵み、プレゼントです。だから、神さまとその救いを信じているからといって、私たちは何か自分が特別だとか、自分のことを誇ることなどできません。ただ謙遜に、神さまが私たちを愛してくださるこのあふれる愛と恵みにあふれて、神さまと隣人にお仕えするのみです……。救い主の誕生に立ち会わせていただいた羊飼いのように、私たちも、特別に選んでいただいたことに感謝して、神さまをほめたたえる生き方を目指しております。 私どものこの生き方は、世の中の多くの人の目指すような、出世することとか、お金持ちになることとかとは、異なる生き方であるかもしれません。しかし私たちは、この生き方こそが、最高の生き方であると信じています。 羊飼いを最初のクリスマスをお祝いする人に選んでくださった神さまは、今日ここにいらっしゃいました私たちを、ほんとうの意味でクリスマスをお祝いするために、特別に選んでくださいました。みなさん、ぜひとも今日は、この礼拝の場所を、神さまが私たちに備えてくださったお祝いの場所として、喜びをもって受け入れていただければ幸いです。

「不思議な助言者イエスさま」

聖書本文;イザヤ書9:6~7/メッセージ題目;「不思議な助言者イエスさま」  先週私たちは、アドベントの第二主日で、水谷潔先生から「クリスマス前の自己点検」というタイトルでみことばを取り継いでいただきました。私も久しぶりにメッセージをお聴きする立場になりました。  みなさまはどの部分が心に残りましたか? 私は、「クリスチャンはキリストを指し示す矢印である」というメッセージでした。山道で絶対にしてはいけないいたずら、それは矢印の立て札を別の方向に向けること、山登りをする人は矢印のとおりに行けば迷わない。私たちもそれと同じ、私たちはキリストを指し示す矢印でいい、矢印は純金なんかでできている必要などない、段ボールの切れっぱしでもいい、要は、イエスさまを指し示していれば価値がある……。あなたはイエスさまを指し示していてこそ価値がある……ほんとうにそうだと教えられました。  水谷先生のメッセージをお聴きして、私自身のメッセージの語り方を反省させられました。私はあまりにも、イエスさま以外の情報を入れまくって、肝心のイエスさまを指し示していなかったのでは……? これからはメッセージをもっとシンプルにして、イエスさまが伝わるように工夫しよう。  正直に考えていただきたいのですが、メッセージにポイントがいくつもあってあとで忘れるくらいなら、ポイントはひとつでも、あとまでちゃんと覚えていた方がいいと思いませんか? というわけで、今日からメッセージはシンプルにいたします。イエスさまがみなさまに伝わるように努力します。そのかわり、ちゃんと聴いていただけたら幸いです。  今日の箇所はイザヤ書9章6節と7節のみことばです。イザヤ書とは南王国ユダの預言者イザヤによる預言であり、この9章の預言は、アハズという王が治めていた時代に語られたものです。  アハズ王……この王は悪いことをしました。まことの神さまの道を真っ直ぐに歩まず、偶像礼拝におぼれました。どれだけその歩みがひどかったかというと、第二列王記を読むと、自分の子どもを火の中に通すことさえした、とあります。それほど主に忌み嫌われる偶像礼拝の宗教行為に手を染めていたわけです。  このような王が統べ治めるとなると、ユダがいかに創造主なる神の民の国であるといっても、きわめて不安な中にありました。分裂王国の片割れであった北イスラエルは、9章1節に「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」とあるとおり、国の北方ガリラヤ地域一帯がアッシリアに侵略されて奪い取られ、南王国ユダも、心ある人は、明日はわが身、と意識せざるを得なかったはずです。  イザヤ書9章のみことばは、このような悲惨な目にあったガリラヤから、救い主キリストがデビューされるという驚くべき預言のみことばであり、それはこのみことばがマタイの福音書4章に引用されていることからもたしかなことです。その流れの中で、さきほどお読みしたみことば、6節と7節のみことばが登場してまいります。  この6節、7節のみことばは、特にキリストの誕生を預言しているみことばであり、アドベントの時期になるとあちこちの教会で礼拝メッセージとしてよく取り上げられます。この中の「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という呼び名、これはまさに、イエス・キリストというお方がどのようなお方かを語っている呼び名です。  この中で今日は、「不思議な助言者」という呼び名について集中的に学びます。その前に、あとの3つの呼び名についてもざっと見ておきますが、「力ある神」、言うまでもなく、創造主なる唯一の神さまですが、このお方がみどりご、赤ちゃんとしてこの世界にお生まれになるという、驚くべき預言です。この人が、力ある神なのです。そしてこの預言どおり、イエスさまはあらゆるしるしと奇蹟をもって、ご自身が「力ある神」であることを人々の前にお示しになりました。  「永遠の父」、この呼び名は、イエスさまが三位一体の神における「御子」であることを知っている私たちにとって、若干の混乱を覚えさせる呼び名になってはいないでしょうか? キリストは「子」であって、「父」ではないのではないだろうか? しかし、この「父」は、三位一体の「父」という解釈ではなく、「私たちの上におられ、私たちを守ってくださる保護者(という意味での父)」と解釈すればよろしいです。  「平和の君」、神に敵対していた人間が神と和解する道を、イエスさまはご自身の十字架によって開いてくださいました。まさしく、神との平和を実現してくださったのでした。そしてキリストは、十字架を信じ受け入れた者どうしを、国や民族を超えて、ひとつにしてくださいました。まさにキリストは、神との平和、人との平和を実現してくださる王の王、すなわち、平和の君です。  さあ、それではこの4つの呼び名の中で、いちばん最初に出てくる「不思議な助言者」ということばをじっくり学んでみたいと思います。  この「不思議な助言者」は、聖書の訳によっては「不思議」であり「助言者」である、と訳しています。そうです。イエスさまというお方は、存在そのものが不思議なお方です。旧約聖書の士師記に、サムソンの父マノアが神の使いを目の当たりにする場面が出てきますが、マノアが神の使いに名前を問うと、神の使いは「わたしの名は不思議と言う」と答えました。神さまという領域を名前で形容すると、そのものずばり「不思議」なのです。  神さまは「聖」である、といいます。聖書の「聖」です。この「聖」は、「きよい」と読みますが、聖書の語る「聖である」ということは、人間的な努力や修行、宗教行為で到達する領域ではありません。罪人である人間にとっては、どんなに努力しても到達できない、言ってみれば「異次元」です。神さまというお方、イエスさまというお方は、その「異次元」のお方であり、神さま、イエスさまが「聖である」ということは、人間の罪に満ちた次元からはまったく異なる「異次元」におられる、ということです。  イエスさまが「不思議」ということは、「聖である」ということと密接な関係があります。聖である、人間とは異次元だから、人間の罪に汚れた霊的感性では到底理解できないお方である、ということです。見てください、イエスさまが大いなるしるしと奇蹟を行われたとき、だれよりもその素晴らしさを理解できず、それどころかイエスさまを殺そうとさえしたのは、ユダヤの宗教家たちではなかったですか。彼らは神さまに仕えているつもりだったことでしょう、しかし、どんなに努力していようとも、彼らの努力はしょせん人間的なものにすぎず、神さまに認められるものではありませんでした。  また、理解できないということは、到達できないということでもあります。あまりにも次元が違いすぎて、人間の努力でどんなに頑張ってみたところで、修行してみたところで、イエスさまの域には到底及ばない、ということです。  そのように、存在そのものが不思議なお方が、助言者、すなわち、不思議な助言者、ということです。それでは、「助言者」ということを見てみましょう。  「助言者」は、いくつかの意味に解釈することができます。まず、この「助言者」というのは、単にアドバイスをくれる人、という意味ではありません。単なるアドバイスという次元ならば、アドバイスをもらう人が主であり、アドバイスをくれる人が従です。しかしキリストは、そういう次元で助言者なのではありません。  まず、英語の聖書を見てみると、「カウンセラー」とあります。現代においては心理学が社会や人々に対して持つ役割がますます重要になり、それにしたがって「カウンセラー」も重要な働きになっています。この「カウンセラー」の中でも、まことの「カウンセラー」はイエスさまである、というわけです。何でも相談できるカウンセラー。素晴らしい導きをくださるカウンセラー。  もちろん、私たちの暮らす社会における役割という面では、カウンセラーは万能ということは期待されず、臨床心理士のような資格を持つ人も、精神の病を治療することはしません。しかしイエスさまはどうでしょうか? 社会のつまはじきにされている取税人や罪人の食事会に招かれたイエスさまは、「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人です」とお語りになり、ご自身こそは罪人を招いて悔い改めさせ、罪に病んだ人を癒して健康にする医者であるとお語りになりました。それがおできになるのも、イエスさまは人を創造され、人にいのちを与えられる、まことの神さまであられるからです。  私たちが毎日、お祈りとみことばにおいてイエスさまとの交わりを持つ必要があるのは、私たちが罪によって病む病人、罪人であるからです。だから私たちは何よりも、自分は癒されなければならない罪人である、病人である、という自覚が必要です。私たちが日々イエスさまに近づき、お祈りとみことばによってイエスさまと交わるならば、イエスさまは私たちの罪の病を明らかにしてくださり、私たちをいやしてくださいます。そんなお医者さん、そんなカウンセラー、それがイエスさまです。  さて、このようにイエスさまはカウンセラーであるわけですが、イエスさまは単に私たちの問題を解決してくださるだけの「カウンセラー」ではありません。そこで私たちはこの「助言者」ということばの意味を、もう少し別の角度から考えてみたいと思います。  韓国語の聖書を読みますと、この「助言者」は「モサ」ということばに訳されています。この「モサ」ということばは、「謀(はかりごと)」「謀議」というときの「謀(ぼう)」ということばと、「軍師」というときの「師(し)」ということばを組み合わせて、日本式に発音すれば「謀師(ぼうし)」です。日本語でいちばん近いことばがあるとすれば「参謀」といったところでしょうか。しかし「謀師」となると、「参謀」よりさらに主体的なイメージです。日本人にとって近しいところでは何といっても、三国志の諸葛孔明でしょう。 三国志の軍師である諸葛孔明のアドバイスが、蜀の王である劉備玄徳と蜀の国の行く末を左右したように、聖書においても王のかたわらには、このような王と国の命運を左右する「謀師」が存在しました。ときに、指導者がどの「謀師」を起用したかによって、イスラエルの命運が決まったということさえ起こりました。アブサロム王子がどのような謀師、アドバイザーを起用したかが、ダビデのいのちとイスラエルの行く末を救ったという記述が、サムエル記第二に出てきます。 アブサロムがもし、アヒトフェルのアドバイスを受け入れたならば、ダビデは滅びました。しかし、ダビデの陣営からアブサロムの陣営に放たれたフシャイがアブサロムにアドバイスをすると、その意見が通り、ダビデのいのちは救われたのでした。このように、軍師のアドバイスひとつでダビデ王とイスラエルの行く末が決まった、ということがあったわけで、どの軍師がどんなアドバイスをするか、ということは、国を左右するたいへんな重みを持つことです。 いみじくも聖書協会共同訳という訳の聖書では、この「助言者」は「指導者」と訳されています。つまり、従の立場で主の立場に対して「助言」するのではありません。主の立場で従の立場に対して「指導者」として「指導」を行うのです。 この預言が語られたこの時代、イザヤのような心ある神の人にとって、アハズ王はとても「指導者」と認めることのできるような王ではありませんでした。アハズは本来ならば、ダビデの血を引く者として、神の人にふさわしい指導力を神の民の国であるユダ王国に対して発揮してしかるべきでした。しかしそのような期待はアハズに対してはとてもできませんでした。人間的な王の血統が神の民を治めるにふさわしい指導力を保障してくれたわけではなかったのでした。 しかしイザヤは、まことの指導者であるキリストはダビデの王座にとこしえにつく、すなわち、ダビデの子孫としてお生まれになるのと同時に、ダビデを王としてお立てになった神さまのみこころをもっとも忠実に実現してくださる、ダビデも人であったゆえに弱さをまとっていたが、キリストは神さまがダビデに期待されていたとおりをことごとく実現される、王の王である……。 この王の王、神の民ユダ王国の王の分際で偶像礼拝におぼれるようなアハズなど足元にも及ばない王、ほんとうの意味でダビデに与えられた王権をこの地に実現してくださる王……このイエス・キリストという王さまは、主権をもって導いてくださる王です。 私たちクリスチャンのただ中に存在する「神の国」……それはイエスさまが王として治めてくださる国です。私たちの住むこの世界のどの国家も、この「イエスさまの治める神の国」を実現することはできません。地上の国家は、しょせん人間が治め、人間が導くものでしかないからです。 しかし私たちはどうでしょうか。私たちは自分が罪人であることを認めています。イエスさまという主人に導いていただく、指導していただく必要があることを知っています。自分の人生の主人が自分ではなく、イエスさまであることを知っています。 しかしイエスさまは、単に君臨する王ではありません。悩む私たちに、いつでも耳を傾けてくださいます。迷う私たちを、いつでも捜し出してくださいます。なんということでしょうか、仕えてくださる王さまなのです! 仕えてくださる王さま! そんな王さまがいるでしょうか! でも、イエスさまは仕えてくださる王さまなのです! 私たちのきたない足を洗ってくださる王さまです。私たちに手を置いてくださり、病を癒してくださる王さまです。そして……十字架にかかってくださり、私たちを罪から救い出してくださった王さまです。私たちのためにいのちを捨ててくださった王さまです。私たちのためによみがえってくださった王さまです。私たちのために今この瞬間も、とりなして祈っていてくださる王さまです。 そしてイエスさまは……今度こそほんとうに王の王として、この世界に来られる王さまです。しかし、イエスさまを信じる私たちのことも、永遠に王としてくださるのです。私たちは主とともに統べ治めるのです。 そのように、私たちに御国を任せてくださる日に至るまで、今この地上のどんな小さなことにも忠実になれるように、イエスさまは私たちに、忠実であるとはどういうことか、忠実に振る舞うとはどうすることか、なぜ私たちは忠実であるべきかを、ひとつひとつ、たしかに教えてくださいます。 私たちが忠実になれないで悩むならば、すなわち、隣人に対してほんのわずかでも愛する行いができないで悩むならば、イエスさまは親しく、私たちの悩む祈りに耳を傾けてください、どうすればいいか、みことばによって教えてくださいます。イエスさまはそんなカウンセラーです。その積み重ねはやがて、私たちがイエスさまとともに御国を統べ治める指導力を得ることにつながります。イエスさまはそのように導いてくださる指導者、まことの指導者です。 さあ、イエスさまの前に私たちはいま出ましょう。私たちは神さまの御前で、悩んでいることはないでしょうか? イエスさまの導きを特別に必要としている領域はないでしょうか? 祈って、イエスさまの助けをともに求めましょう。具体的に求めましょう。

「クリスマス前の自己点検」

ルカの福音書1章5~17節 「クリスマス前の自己点検」   物事には、前触れとか、準備というものがあります。偉大な人物が登場する前に、人々がふさわしく受け入れられるように、備えや予告をします。たとえば、大名行列は奴さんたちで、王様のパレードの鼓笛隊で、大相撲で横綱が登場する時も、太刀持ち露払いが先頭となります。   そのことはクリスマスも同様です。多くの神の器が、イエス様が来られる準備に用いられました。乱暴に言えば、旧約の預言者たちは、奴さんであり、鼓笛隊であり、太刀持ち露払いです。そして、最後の仕上げ役が登場します。それがバプテスマのヨハネです。彼こそが、人類がクリスマス、イエスキリストのご降誕を迎えるための最後の仕上げをしたのです。   今、私たちは、クリスマス迎えようとしています。自らが今年のクリスマスを迎える備えとして、この朝はバプテスマのヨハネに学び、倣いたいと願います。この箇所にはバプテスマのヨハネの誕生とその働きが預言されています。17節によれば、その中心は主の前触れをする事、民の心の向きを変えること、すなわち整えられた民を主の前に用意することでした。  そのために、遣わされたバプテスマのヨハネがどのような人物であったかが15節と16節に記されています。今からの時、「クリスマス前の自己点検」と題しまして、その15節と16節の御言葉を中心にみ言葉をお取次ぎします。バプテスマのヨハネのありようを基準に、三つのポイントで、自己点検をしながら、クリスマスに向けて自らを備えてゆきたいと願います。 ~本論A~   では、さっそく一つ目です。「クリスマス前の自己点検」その一つ目は、「主の前に優れた者かどうか」です。人の前ではなく、主の前です。人の評価でなく、主の評価を第一に生きようとしているかどうかです。それは15節最初に一文に書かれています。「その子は、主の御前に大いなるものとなるからです。」 「彼は主の前に大いなる者となる」とあります。ここには、ヨハネが人にどう評価されるかは書かれていません。それほど大切なことではないからです。一方で、はっきりと神様からは、大いなる者と評価されると約束されているのです。イエス様もマタイの11章の中で「女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネより優れた人は出ませんでした」とおっしゃっています。 それでは、神様の前に大いなる者とはどういう人でしょう。人ではなく主の評価に生きるとはどのような歩みなのでしょうか。開かなくて結構ですが、同じルカの14章に分かりやすいたとえが登場いたします。   イエス様はおっしゃいまいした「結婚の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。(中略)招かれたなら、末席に行って座りなさい」と。このたとえ話のポイントはただの祝宴でなく、婚礼の席である事です。今の日本でもそうですが、披露宴の席はお客が選んで決めることはできず、招待主の側が一方的に決めます。   ですから、末席に着くとは、招待主の決定に委ねることを意味します。末席で招待主から、もう少し前へと言われたら、その席に着くのです。つまり、自分で地位や立場を選んで得ようせず、主に委ねなさいという事です。このたとえ話の結論は「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする物は高くされ」です。低くするとは、自らを仕える者とするという事です。  まず末席に着いて、それから案内される席に着きなさいという事は、主が召して下さった地位や立場にあって、それにふさわしく仕えなさいという事です。そのような者を主は高くして下さると聖書は教えます。そのような人物こそが主の前に大いなる者なのです。主の召しに従い、召された立場で忠実に仕える、これこそが主に評価される生き方です。   バプテスマのヨハネは、実に召された立場に忠実な器でした。ヨハネの福音書によれば、使徒ヨハネとアンデレは、そもそもバプテスマのヨハネの弟子でした。ある時、バプテスマのヨハネがイエス様を指差して「見よ。神の子羊」と言うと、二人はイエス様の弟子になってしまいました。 普通なら、面白くないでしょう。弟子に去られたのですから。しかし、彼は、それでよしとしたのです。なぜなら、イエス様を指し示し、人々をイエスに導くのが彼の役割、使命であったからです。イエス様が栄えるためなら、自分は衰えてよい、忘れ去られてよい、省みられなくてよいと考えていたからです。あくまで、中継ぎ、橋渡し役に徹していたのです。   最後に彼は、主の正義の故に殉教しました。正しくない結婚をしたヘロデ王の罪を責め、それが原因となり処刑されました。まさにバプテスマのヨハネは自分の立場で忠実に仕えきった器です。神の前に優れた者であったのです。   以前、ラジオで昭和歌謡を代表する作詞家である中西礼さんがこうおっしゃっていました。「僕は職業に貴賎はないと思うのです。むしろ、それぞれの職業の中に貴賎があると考えています。作詞家が他の職業より立派なく、他の職業と同等だと思うのです。ただ、作詞家にもいい作詞家と悪い作詞家がいます。サラリーマンにもよいサラリーマンと悪いサラリーマンがいます。魚屋さんにも良い魚屋さんと悪い魚屋さんがいます。職業それぞれの中に貴賎があると思っています。」   それを聞いて、神の前での評価も同じだなあと思いました。伝道者が一般の職業より優れた職業ではありません。人それぞれ主に召された職業や立場が最高なのです。そこに貴賎も優劣もありません。ただ、それぞれの職業や立場に貴賎があるのでしょう。   職業や役割などの召しにふさわしく、それぞれ置かれた立場で誇りをもって忠実に仕えているかどうか、主はそれをご覧になり、私たちを評価しておられるのです。私たちは、自らの座るべき席の決定を主に委ねるべきです。婚礼の席のように召して下さった方が一方的に決めて下さった席に座るのです。そして、そこで忠実に仕えるのです。それが神の前に優れたもののあり方です。   ヨハネは皮衣、野蜜とイナゴ食ばかり食べていました。ヨハネは当時の宗教家たちからは、「飲まない、食べない」ので気が狂っているという評価を受けていました。つまり変人扱いされていたのです。バプテスマのヨハネに対する宗教界の評価は「奇人、変人。狂人」でしかありませんでした。しかし、主の前に彼は大いなる者だったのです。 世俗化したこの社会では人間の価値は、その所有によって測られます。つまり、何を持っているかで人間の価値が測られるのです。財産、学歴、職歴、家柄、社会的地位、能力、資格、美しい容姿、それらを持っている人間が優れた者とされるのです。   しかし、主の前で優れているかどうかは所有に関係ありません。ヨハネのようにたとえ、所有がゼロであったとしても、与えられた立場で忠実に仕える者を主は優れたものと評価して下さるのです。そして、そのような人物こそがクリスマスの最後の仕上げに用いられたのです。   聖書は言います。「彼は主の前に大いなる者となるからです」。クリスマス前の自己点検、その一つ目は「主の前に大いなる者であるかどうか」です。お互いは、主の前にどうでしょうか。人の前での評価は二の次です。クリスマスを前にして、お互いは、主が召された席で忠実に仕えたいと願います。それぞれの遣わされている家庭、職場、学校、地域、教会において、忠実に仕え、神様の前に優れた者としてクリスマスを迎えられたらと願います。 ~本論B~ 続いて二つ目です。「クリスマス前の自己点検」、その二つ目は、「自らの内側はどうか」ということです。お互いは、クリスマスを迎えるにあたり、バプテスマのヨハネを模範とし、「自らの内側はどうか」を点検したいと願います。それは15節の後半に書かれています。15節の後半の一文をお読みします。「彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ、母の胎にいるときから聖霊に満たされ」   「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」とあります。バプテスマのヨハネは、神様の前に大いなる者でありました。しかし、それは彼の肉の努力や能力によるものではありませんでした。彼の内側は常に聖霊に満たされていたのです。私たちも神様の前に優れた者であるためには、聖霊に満たされている事が大切です。   では、聖霊に満たされるとは、この文脈では、どういうことでしょう?15節にそれをうかがわせる内容があります。「ぶどう酒や強い酒を決して飲まず」とあります。ここでは、聖霊に満たされる事と、お酒を飲む事、飲酒が呼応関係で対称的に書かれています。   聖霊とお酒と言えば、エペソ5章18節です。「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」とあります。聖霊に満たされる事とお酒に酔う事とは類似性があることを、ルカの1章もエペソの5章も示唆しています。   お酒と他の飲み物は決定的に違います。お酒の特殊性は、その液体が、飲んだ人の考えや、、判断、行動に影響が及ぼすことです。は酒で取り返しのつかない失敗をすること、人生を棒に振る場合もあります。お酒というものはただの液体、飲み物に過ぎませんが、時と場合によっては私たちに計り知れない大きな影響を与えます。   聖霊も同様です。私たちが救われて聖霊を内に宿すと人格に影響が起こります。考え方、物事の判断、実際の行動や生活、そして人生そのものに大きな変化が与えられます。そして、さらに聖霊に満たされるとその人は聖霊から支配的な影響を受けるのです。 ちょうど、お酒に酔った人が自分の意思が働かない程、お酒に支配されてしまうように、聖霊に満たされると、その影響が人格と生活の全分野に支配的に及ぶのです。 もちろん、聖霊は力の霊です。宣教の力を与える霊です。しかし、聖霊を満たされることを元気が出る栄養ドリンクのように考えては、一面的になってしまいます。 なぜなら、聖霊は御人格をお持ちだからです。三位一体という人格のお一人なのですから、聖霊に満たされる時、私たちは聖霊の力を受けるだけでなく、聖霊から人格的な影響を受けるのです。   普段の人間関係でも、私たちは人と交わるとその人の人柄に感化されます。「朱に交われば赤くなる」と言う通り、人間は交わる相手から人格的影響を受けます。そのように聖霊に満たされるとは聖霊という御人格に支配的影響を受けることを意味します。 主なる神様とお交わり、お従いする歩みの中で、聖霊に満たされ続けていくのです。私たちが御言葉を聴き、それに従い歩むという神様のとの人格関係の中で、祈りという神様との会話の中で私たちは、聖霊というご人格に影響を受けます。さらに、人生の運転席を自分から神様にお譲りして歩み続けるなら、いよいよ聖霊に満たれた歩みがあるのです。  …