教会のお父さん

聖書箇所;コリント人への手紙第一4:14~21/メッセージ題目;教会のお父さん  最近、「親ガチャ」ということばが流行っているのをご存じでしょうか? あのガチャガチャみたいに、親を選べない子どもが、よい親だろうと悪い親だろうと、宿命のように受け入れなければならない、この世の不条理をあらわすことばです。悪い親、合わない親を持ったら「親ガチャに外れた」などという言い方をします。このことばが流行るとは、こんにちにおいてはよほど、親というものに重苦しさを覚えている子どもが多い、ということを示しているようです。  子どもとしては、そういう親を持ったならば確かにかわいそうです。同情したくなります。しかしここで、あえて「親ガチャに外れた」ですとか「毒親」と呼ばれるお父さん、お母さんの立場になって弁護してみますと、彼らお父さん、お母さんは、そもそも親になるとはどういうことか、親であるとはどういうことか、わからなかったのです。 それは、彼らお父さん、お母さんたちが、親とは何かを肌で理解できるような育てられ方をしなかったせいもあるでしょう。親になっても仕事や家事にかまけて、子どもとの健全な関係を振り返ったり、学んだりする余裕もなかったのでしょう。つい感情的になったり、無視したりするような接し方を、知らず知らずのうちに、子どもに対してしてしまっていたのでしょう。 子どもたちは、少なくともいい大人になったならば、自分のことをそれでも育ててくれた親に対し、「親ガチャに外れた」ですとか、「毒親」とか非難する前に、そうなるだけの理由があったことくらいは考えてあげてもいいのではないかと思います。そうすることで、少しでも親御さんから受けた傷がいやされるならと、願ってやみません。 そうは申してもやはり、素晴らしいお父さんを持てた子どもが幸せなのは間違いのないところです。男は怒らずきよい手を上げて祈りなさい、とみことばにありますが、ホンモノのお父さんは、自分の家庭のためにとにかく祈ります。ひたすら祈ります。なにがなんでも祈ります。そのように祈られている奥さんやお子さんは、もしかすると、それだけお父さんが祈っていることを知らないかもしれません。感じていないかもしれません。しかし、その家族は世界一幸せです。 今日のテーマは「お父さん」です。といいましても、肉の家族のお父さんではありません。教会の「お父さん」です。   今日の箇所は特に、15節のパウロの告白に注目します。……パウロは、自分はコリント教会のみなさんにとって父である、お父さんである、と告白しています。  14節にあるとおり、あなたがたは私の愛する子どもだから諭します。お父さんだからです。16節にあるとおり、あなたがたは私にならう者となってくださいと勧めます。お父さんだからです。そして17節、愛する子どもテモテをあなたがたのところに送ります。これも、お父さんの愛情と配慮の表れです。  パウロにとってコリント教会は、いっしょうけんめいに宣教して生み出した、信仰の共同体です。まさに、パウロはコリント教会にとってお父さんです。それが今、コリント教会は派閥争いに明け暮れ、四分五裂(しぶんごれつ)しています。早い話が「兄弟げんか」をしている有様です。その「兄弟げんか」をパウロがじきじきに仲裁しようというのが、この第一コリントが書かれた目的のひとつでありました。頼むから子どもたちは仲良くしてくれないと……まさしくパウロの「親心」です。  コリント教会は、派閥づくり、派閥争いをするだけのエネルギーはありました。しかし、エネルギーがあるならいいというものではありません。問題はそのエネルギーをどこに使うかです。 親の心に背いて、兄弟げんかするためにエネルギーを使うのでしょうか? それとも、親の心に従って、兄弟仲良く力を合わせ、主のみこころをともに成し遂げるためにエネルギーを使うのでしょうか? この違いはとても大きいです。いえ、天と地の差です。  14節をお読みください。パウロは何も、彼らコリント教会の至らない現状、だめさ加減を叱り飛ばして恥じ入らせようとしているわけではありません。そんな叱責は何も生みません。   よく、誤解されることばに「悔い改め」ということばがあります。「悔い改め」ということを神の御前でするとき、必ず必要になることは、言うまでもなく「悔いる」ことです。自分のしでかしてしまった、主の御前にふさわしくない罪にいやでも向き合い、その罪の醜さ、そして、その罪を犯してしまった自分の醜さを痛感し、「悔いる」のです。とても耐えがたく、また恥ずかしくなる作業ですが、それが「悔い改め」にとって必要なことです。   しかし、悔い改めとは、耐えがたいこと、恥ずかしいことを体験する以上のことです。その醜さ、恥ずかしさに向き合ったら、そこから「改め」、つまり、神さまへと方向転換するのです。そんな罪を犯した私のことを、神さまはイエスさまの十字架によって完全に赦してくださり、神さまのみこころを行う者へと変えてくださる。もはや自分は醜くない、恥ずかしくない、神さまのみこころを力強く正々堂々と行なっていこう! ここまで来て、初めて「悔い改め」が成立するのです。 恥じ入るだけのことを「悔い改め」とは言いませんし、そんな自虐的なことは、神さまが私たちに望んでいらっしゃる生き方から、最も遠いものです。パウロが「あなたがたコリント教会を私の愛する子どもとして諭す」というのは、もちろん「悔い改め」によってみこころにかなった教会、ふさわしい教会になることを期待するからです。 恥じ入らせるだけならば「悔い改め」ならぬ「悔い」させるだけです。愛する子どもとしてパウロの諭しを受けたコリント教会は、すべからく悔い改め、新たな出発をするべきだというわけです。 15節のみことば、これは、パウロのプライドというよりも、パウロが神さまから与えられたアイデンティティ、自分は神さまによって何者にされているか、という告白と見るべきです。 まず、パウロがコリント教会の礎を据えたということは、事実です。ゆえにパウロには、コリント教会を生んだ父としての責任があります。自分が産んだコリント教会がこんな四分五裂しているようでは、どれほどキリストのからだとしてふさわしくないか、私は神さまに申し訳ない……。 しかし、パウロは同時に、コリント教会には養育者があってこそ今がある、ということも認めています。それをパウロは、養育者が一万人いても、という、相当大胆な仮定をしています。アポロやケファもその養育者に含まれますが、そのほかにも、コリント教会のために献身した働き人は多くいたことでしょう。 これはしかし、よく考えると、それほど突拍子もない仮定をしているわけではありません。イエスさまの昇天されたあとの、教会の誕生日、ペンテコステの日にかぎっても、男性だけで3000人もが弟子に加えられています。それからあとも次々と弟子たちが加えられ、キリストのからだなる教会は大いに成長しました。 パウロやアポロやケファといった指導者の背後には、このような何千、何万もの聖徒たちの存在があり、その存在そのものが、キリストの福音がまことであると証言しているわけで、そうだとすると、この有名無名の何万もの聖徒たちはすべて、コリント教会を霊的にここまで養った養育係であるということができます。 養育係にはほかの側面もあります。いま現実に第一コリントが書かれるまで、旧約聖書に登場したすべての登場人物の存在です。彼らはときに模範になり、ときに反面教師になりました。この聖書に登場する有名無名の人物も、キリストへと教会を導く養育係の役割を果たしていると言えます。 しかし、そのような何千、何万という存在を向こうに回しても、パウロ「自分が」コリント教会を生んだ父であるという前提のもと、みことばを語っています。私があなたがたを生んだのだ、私はあなたがたを父親として愛している、父親として気にかけている、私の子どもたちよ、思い出してほしい……。 そんなパウロはなんと勧めていますでしょうか? 16節です。……牧会というものは、牧会者が、その牧会のもとにある聖徒たちに、自分自身の姿を模範として示すことと言えます。その姿とは、キリストの弟子として生きることです。私がキリストの弟子として生きるこの姿を、あなたがたも見てほしい、そして、学んでほしい、そのとおりに守り行なってほしい……。まさしく「オヤジの背中を見て子どもは学ぶ」のです。 聖書はすばらしいことが書いてありますが、この聖書のすばらしさは、みことばを守り行う人がその姿を人々の前に現すことによって、証明されます。聖書が素晴らしくても、そのとおりに生きることをしていないならば、絵に描いた餅となってしまいます。ゆえに教会には、聖書のみことばの素晴らしさを実践するキリストの弟子の生き方を人々に示す存在が必要になります。 パウロは、自分こそがその生き方をあなたがたの前で示すから、どうか私にならってキリストの弟子になってほしい、と語るわけです。しかし、現にこうしてパウロが「手紙」という形でコリント教会を教えているのは、自分自身がコリントに出向けないでいる、という事情があったからでした。パウロは多忙でしたし、コリントにおいそれと旅行はできませんでした。そこでパウロは何をしたのでしょうか? 17節です。 パウロはテモテのことを、「私が愛する、主にあって忠実な子」であると評価しています。そのテモテを見れば、すなわちパウロに接することと同じであり、パウロにならう生き方とは、すなわち、キリストの弟子として生きる生き方とはどういうものかを肌で知ることができる、というわけです。 パウロはテモテのことを、心血注いで訓練しました。この、パウロがテモテを教育し、訓練した哲学は、特に第一テモテ、第二テモテを読めばわかるとおりですが、その中で第二テモテ2章2節のみことばに注目していただきたいと思います。 このみことばを見ると、まず、パウロがテモテを教えています。そのテモテに、人を教えなさいと教えています。そのテモテの教えを受けた人が、次の人を教えるところまで、パウロは見据えています。 この「教える」ということは、「単なる知識や教養や情報として聖書を教える」のではありません。「みことばを生活化させ、守り行うことができるように教える」のです。そのためには、訓練が必要です。生まれつきのままの人間は肉的で、御霊に従うこと、みことばに従うことを好まないから、その肉の部分が取り除かれるプロセスが必要です。 そんな人間の自我が砕かれ、主に従順にお従いする人になるためには、訓練が必要です。イエスさまが十二弟子と寝食をともにしてご自身の弟子として訓練されたように、主の弟子となる訓練を施すのです。それを「弟子訓練」と言います。主の弟子訓練です。その「主の弟子訓練」をパウロがテモテに施したように、テモテもコリントの信徒たちに施し、ひいては、コリントの信徒たちからも弟子訓練のできる人材が起こされることにパウロは期待しています。 このように、自分の子どものように牧会哲学を分かち合う働き人を、子どもとして愛する教会に送り込むこと、これも、パウロのコリント教会に対する親心です。テモテをごらん、私のように生きるとは、キリストの弟子として生きるとは、こうすることだよ、さあ、学びなさい……。パウロの牧会のもとにあるコリント教会にとっては、パウロの腹心であるテモテこそが、牧会者として最もふさわしいわけで、そのような、リーダーの牧会哲学を共有する働き人が牧会することが、教会形成においてもっと理想的なありかたです。 ともかく、まずはパウロの代わりにテモテが行くことになったわけですが、とはいっても、コリント教会にとっては、これでおっかないパウロ先生が来なくて済む、よかったよかった、というわけにはまいりません。18節から21節をお読みします。 むかしの日本の漫画「夕焼け番長」をもじって、「言うだけ番長」ということばがあります。ことばは番長のように威勢がいいが、所詮ことばだけ。中身が伴っていない。コリント教会はそんな「言うだけ番長」の派閥争いで、神の力など現れてはいませんでした。 パウロはそんなコリント教会の信徒たちに言うわけです。あなたがたを、直接叱り飛ばしに行くかもしれないぞ、でもあなたがたがちゃんとしていれば、私が行ったとき、愛情とやさしさに満ちたことばでほめてあげようじゃないか。さあ、どうする? パウロは、忍耐をもってコリント教会を信頼しようとしています。あなたがたは兄弟げんかしない、愛し合う共同体になれるんだよ、さあ、私の心そのものである、テモテの生き方から学びなさい。 教会は、何らかの権威が存在していないならば、自分勝手なことをおっぱじめるようになります。それはなぜでしょうか? 教会は罪人の集まりだからです。罪人がかしらなるイエスさまにつながることをしないならば、その群れを支配する論理はイエスさまではなく、罪人の論理になります。そんな群れはキリストの教会としてふさわしくありません。そのような堕落した群れにならないために、このたびのコリント教会においてはテモテのような牧会者を必要としていました。 また、コリント教会に対して、まるでさばき主のように自分は行くかもしれないぞ、とパウロが迫ったのは、なぜであるか? パウロなど足元にも及ばないさばき主、再臨のイエスさまを意識させるためでした。パウロが来るならときちんとした態度で信仰生活を送ることを志すならば、ましてやイエスさまが来られることを意識して、それ相応のきちんとした態度で生きることは当然ではないか。父とは、終わりの日にさばきがあることを意識させ、きちんとした従順の生活を送れるように促す存在です。これもまた、厳しいながらも優しいパウロの親心です。 さて、ここまで、教会の父としてのパウロとその子どもとしてのコリント教会、あるいはテモテとの関係をみことばから見てまいりましたが、私は今回のメッセージを備えるにあたり、大きく意識を変えてみなさまにお仕えすることを決意しました。 以前この教会に来て間もない頃、役員会の席上で、ある役員の方が「武井先生には教会のお父さんであることが期待されているんだからね」とおっしゃいました。しかし私は、そのおことばは私に対する期待に満ちたおことばとして有難くお受け取りする一方で、自分自身を過信するまい、と思ったものでした。私たち人間にとって父とは、天のお父さまだけ、いわんや私たちクリスチャン、教会にとってはなおさらそうだからと思ったのでした。 イエスさまは、マタイの福音書23章9節のようにおっしゃっています。しかし、ここでイエスさまは、だれかのことを「父」と呼ぶ者の態度を問題にしていらっしゃるわけです。天のお父さま「になり代わって」だれかを父と呼んではならない、というわけです。そうでないならば、パウロがこうしてコリント教会やテモテにとって「私は父である」と主張することは、聖書的ではないことになります。そのイエスさまのおこころを、私はもっと深く考える必要がありました。 この教会の礎を据えられた先生は、もともと私たち教会にとって「父」とお呼びすべき方でした。しかし先生は、もうこの教会にはいらっしゃいません。それなら、だれが私たち、水戸第一聖書バプテスト教会にとっての「父」なのでしょうか? 私はこのみことばを黙想して、神さまがこうおっしゃったように受け取りました。「あのときあの役員が言ったように、あなたが父親の役割を果たすのだ。」 言われてみれば、私はほかの信徒の方から、武井先生はまるでお父さんみたいです、と言っていただいたこともあります。そのときも私は、なんともったいないおことば、と、まともに受け取ることをしませんでした。しかし、私はそのことを今、とても悔い改めています。この「教会のお父さん」であるということは、今現在の私の資質や人格で左右されるべきことではありません。これは主の召命です。主がそのように召されたならば、私がどんなであろうとも、それを主の召しと受け取って、ふさわしく振る舞えるようにお祈りするばかりです。 うちの教会はコリント教会のような派閥争いにエネルギーを費やすような問題だらけの群れではありません。しかし、成長する必要があるのは確かだと、みなさまだれもが思っていらっしゃると思います。私はその教会において、父親として語り、父親としてとりなして祈り、父親として訓練するばかりです。 しかし、教会の成長というものは、牧師ひとりの頑張りで成り立つものではありません。テモテのように、教会の父親のような存在の命(めい)を受けた働き人が、確実に必要です。 私が就任以来一貫して「弟子訓練」ということを強調するのは、このようなテモテのような働き人が「弟子訓練」をとおして私たちの中から起こされ、教会がみなともに「弟子訓練」をとおしてキリストの似姿へと成長することがみこころだと受け取っているからです。 こういう働き人は、よその教会から来てもらう必要はないと考えます。神さまは私たちの中に働き人を備えてくださっていると、信じていただきたいのです。 働き人は私たちの中からイエスさまが起こしてくださり、大きく成長させてくださり、また、その働き人から多くの群れを生み出してくださいます。 私はそして、パウロがコリント教会に意識させたように、ことばだけで終わるのではなく、力に満ちた行いの実を結ぶ群れへと教会が成長するように祈ります。そうして、イエスさまの再臨に日々備える教会となるように祈ります。イエスさまが再び来られる日まで、ともに主の弟子として整えられ、この世においてキリストを証しする群れとして私たちが用いられますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、一緒に祈りましょう。

「裸の王様」対「裸の王様」

聖書箇所;コリント人への手紙第一4:1~14/メッセージ題目;「裸の王様」対「裸の王様」  今日のメッセージのタイトルは、「裸の王様」対「裸の王様」とつけさせていただきました。その意味についてはあとでお分かりになると思います。「裸の王様」は、あのアンデルセンの童話の題名でもあります。この物語はみなさまご存じでしょう。でもまあ、あえておさらいしましょうか。 インチキな商売人がある国の王さまに、馬鹿な人の目には見えない、最高級のお召し物、という触れ込みで、服を売りつけました。でも、そこには何もなく、王さまにも家来にも服は見えません。このインチキ商人は、ただの空気を服と偽って売りつけ、がっぽりともうけたわけです。 でも王さまも家来も、不安になりました。見えない! 私は馬鹿なのか? 王さまも家来も、お互い、馬鹿だと思われたらかないません。みんな服が見えるふりをしました。そしてついにこの「お召し物を身に着け」、王さまは人々の前に姿を現し、行進します。沿道の大人たちにも当然、王さまは裸に見えます。でも、馬鹿だと思われたらかないません。みんな、王さまは裸なのにそう見えているそぶりも見せず、喝采します。「王様、万歳!」しかし、そこにひとりの男の子の声が上がりました。「やあ、王さまは裸だ!」 この傑作の童話は、まるで故事成語のような「裸の王様」ということばのもととなりました。権威があるように偉ぶっていても、実際は人望がない、中身が伴っていない、愚か者だとみんな知っている……そういう人を指すときに使います。あの会社のワンマン社長は、裸の王様だ、といった具合にです。 今日の箇所のみことばは、まさしく「裸の王様」を取り扱っています。それについてはあとで見るとして、今まで学んできた第一コリントのみことば同様、この箇所も、パウロやアポロのような教職者とコリント教会の信徒たちという、対立的な観点から書かれています。 さて、コリント教会に対する手紙もそうですが、新約聖書のローマ書から第二テサロニケまでの書簡は、パウロが書いた、教会の信徒たちに対する手紙です。それらの手紙をとおしてパウロは信徒たちをほめたり、激励したり、あるいはいまこうして第一コリントで学んでいるとおり、苦言を呈したりしているわけです。 私たちがこうしてパウロの書いた教会宛の手紙を読むとき、私たちは書簡に登場する複数の立場のうちどの立場と、自分を置き換えて読んでいますでしょうか? やはり自分は一般信徒だからと、各教会の信徒の立場で読みますしょうか? それとも、書簡はみなパウロの心が込められているものだから、パウロの立場で読みますでしょうか? 私たちは、そのどちらの立場からも読む必要があります。今日の箇所でいえば、苦言を呈す側のパウロの視点も、苦言を呈される側のコリント教会の視点も、どちらも必要です。 まずは、パウロをはじめとした献身者、教職者は、どのような立場にある者だと、本日の箇所は語っていますでしょうか? 1節のみことばをお読みします。まず、教職者は「キリストのしもべ」です。キリストのしもべとは何でしょうか? 「キリストのからだなる教会のしもべ」です。キリストのからだに仕えるならば、それはキリストに仕えることになります。 しかし、教会に仕えるということは、教会を成り立たせているひと枝ひと枝の兄弟姉妹に仕えるということです。その人たちはいかに聖徒という肩書き、すなわち聖い人々という称号を与えられていても、整えられていなくて問題だらけです。パウロのような教職者は、そういう人々に仕えるべく召された人だということです。 単にキリストに仕えるわけではありません。罪だらけの人の中に入り、くんずほぐれつの霊的格闘を体験します。ただごとではなく大変です。しかし、やはり彼らはキリストのからだなのです。この群れに仕えることが主から与えられた使命であると受け取り、キリストによって罪赦されたと信じ告白するこの群れに仕えるのが教職者なのです。 そして、どのような哲学で彼ら教会に仕えるのかも、1節のみことばは語ります。それは、自らを「神の奥義の管理者」であると自覚することです。「神の奥義」とは、聖書において示されているイエスさまの十字架の贖いです。膨大な内容を擁する旧新約聖書は、すべてがイエスさまの十字架を証しする内容であるとさえいえます。 しかしパウロの活動した当時は、まだこんにちのように66巻の聖典としての聖書は定まってはいませんでした。それだけに、真に霊感を受けたみことばをあらゆる書物の中から見分け、取り扱うために、およそ教会の教職者というものは、十字架の贖いという奥義にひときわ通じている必要がありました。 それは、聖書の聖典が今あるとおりに66巻と定められ、さらに印刷技術の発達と翻訳によって、聖書が世界中に「本」という形で普及し、世界中のほとんどの人が聖書を手にすることができる現代においても変わりません。 ご覧ください。聖書は世界で、そして日本で、人類の共有財産として扱われています。しかし、この聖書を読みさえすれば救い主イエスさまに出会い、その十字架を信じ受け入れ、聖徒となって天国に行けるのでしょうか? 地上にてキリストのからだなる教会を形づくるのでしょうか? いいえ、そうだったら、日本にはもっとクリスチャンが普通にいて、教会はもっと人があふれているはずでしょう。 イエスさまの十字架の贖いは、聖書をただ読んだだけではわからない、だからこそ、みことばを解き明かす人が必要になるわけで、パウロが自分自身のことをそう語ったように、教職者とはすべからく、みことばをふさわしく解き明かす、教会というキリストのからだにおけるしもべのことを指します。 2節にまいります。そのように福音という奥義を管理する、すなわち、ふさわしい教理を体系立ててしっかり学び、学んだことを身に着けてみことばを解き明かす人になるには、忠実だと認められることが必要になります。それは神と人に忠実になることですが、主の働き人にとってそれは、神の教会、キリストのからだなる教会に忠実になることです。 教会において教職者が福音という奥義を管理するためのスキルは、こんにちならば神学校に入って聖書神学や組織神学、実践神学や歴史神学を学べば、基礎的なことはわかります。教職者になるには神学教育を受けるべきなのはそのためです。 しかし、その管理を実際にするには、神と人に対して忠実に管理する姿勢が保てる人にならなければなりません。神学校で学ぶことは必須でも、それで教職者として完成するわけではなく、その学んだスキルを教会という現場に運用するうえで、教職者の人格とその現れが問われるわけです。   しかし、3節をお読みください。教職者という、神の奥義の管理者は忠実であることが必須であるといっても、その人が神の教会において忠実かどうかを判断することは、教会員のすることでも、教職者である自分自身のすることでもありません。自分はさばかれない、自分で自分をさばくこともしないと、パウロが告白するとおりです。 しかし、やはり教職者は神にさばかれる存在、というより、神の御前に立つ存在です。   4節のみことばをお読みください。指導者の肩書きを持っていようともなお罪深いこの身を、イエスさまの十字架によって赦してくださり、義と認めてくださる神さまが、私のことを認めてくださっている……その信仰によって、教職者はようやく人前に立てるのです。  5節をお読みします。……だからこそ、みことばを解き明かしてイエスさまの十字架の恵み、永遠のいのちにとどまる恵みを得られるよう仕えてくれる教職者のことを、おいそれとさばくようなことをしてはならないのです。しかし、とは申しましても、もし教職者が隠れて罪を行なっていたら、神さまの時が来て、彼のふさわしくない言動が白日の下(もと)に明らかにされ、彼が神のさばきに服さなければならなくなることは、充分あり得ます。 教師は格別にきびしいさばきを受けると、ヤコブの手紙3章1節は語ります。教師のような立場になったら、信徒はおいそれと注意をしてくれなくなり、ただ、神さまとの関係だけで歩まなければならなくなります。 だからこそ教職者は神さまを恐れ、神さまとの関係にあらゆる面で徹底して生きる必要があるわけですが、それもなくて人前に立つならば、いつしかその、主とのふさわしい交わりを持っているとはいえない姿勢の中、語ることはふさわしい教理、すなわち十字架という神の奥義から逸脱し、教会全体を病ませることになります。いえ、もしかすると、ことばでは立派なことを言えるかもしれませんが、その行いが否定しているわけで、そういう証しにならない行動が確実に教会員たちに伝わり、徳にならないことこの上ありません。 もし教職者が神の御前にふさわしくない姿勢でいることを発見したならば、教会は群れを健全に保つために、教職者に対してしかるべき戒めを施すことも必要になります。これは、コリント教会がパウロにそうしたように、人間的な理由で牧会にいちゃもんをつけることとはまったく次元の異なることです。 ともかく、パウロはコリント教会に対して、神に忠実な奥義の管理者としての責任を果たしていました。しかしコリント教会はというと、パウロなりアポロなりといった教職者を推しいただいて好き勝手に党派をつくって分裂していました。ここから先は、コリント教会の問題にパウロが触れる箇所となります。 6節、7節をお読みします。パウロもアポロも、「書かれていることを越えない」、つまり、みことばが行けと言えば行き、みことばがとどまれと言えばとどまる、徹底してみことばに生き、みことばを実践する生き方をしていました。 しかるに、コリントの信徒たちは何をしていたのでしょうか? パウロ派だのアポロ派だのをつくって、みことばが命じてもいないやり方で教会形成をしていました。明らかに彼らは、みことばに書かれていることを越えるような過ちを犯していました。 彼らの過ちはまた、別の派閥に反対することによって思い上がるという、人をさばく罪を犯していたことにもあります。さらに、パウロ派を気取る者たちはアポロの霊的な益を受け、逆にアポロ派を気取る者たちもパウロの霊的な益を受けているというのに、パウロ派はアポロから受けていないようにと言い、アポロ派はパウロから受けていないと言うような、偽った状態、思い上がった状態にありました。 そのようなコリント教会の実体を、パウロは思いきり皮肉っています。8節のみことばです。……彼らはパウロ派だの、アポロ派だのといった党派をつくり、まるで自分たちが偉い王様のように振る舞っている。しかしパウロは語ります。あなたがたはほんとうに偉いのか。私たち、みことばを解き明かして教会に仕える私たちの、ほんとうの思いを無視してまで、偉い者のように振る舞って、そんなに楽しいか。 パウロは、あなたが王であると主張するならば、自分も王であると主張させてもらおう、と語りました。これは皮肉でもありますが、真実でもあります。といいますのも、ペテロの手紙第一2章9節にあるとおり、私たち聖徒の身分は王であり、ヨハネの黙示録22章5節にあるとおり、聖徒は永遠に治める王だからです。パウロももちろん聖徒のひとりであるわけで、したがってパウロも王です。コリント教会の問題だらけの信徒たちも王です。 しかし、コリント教会の信徒たちは、そんな高尚な理由で自分たちが王として振る舞っているわけではありませんでした。単に人よりも偉ぶる虚栄心で王のように振る舞っていただけです。 そんなコリント教会にも通じる教会が、聖書の時代にありました。使徒ヨハネが「ヨハネの黙示録」を書き送った、ラオディキア教会でした。金が取引される経済の中心地、目薬をはじめとした薬の生産で名高い医療の中心地、衣服の生産が行われる産業の中心地……。そんなラオディキアは豊かに見えますが、その町の聖徒たちの現実をヨハネはこのように評価しています。ヨハネの黙示録3章15節から17節です。 ……コリント教会はパウロ派やアポロ派に分かれて、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしたかもしれません。主導権争いに熱くなったかもしれません。しかしそれは、神さまにとっては熱いことでもなんでもなく、気持ち悪いほどぬるいことであり、そんな彼らは貧しく哀れな裸の者と見なされます。まさしくアンデルセンが風刺したような裸の王様、それがコリント教会の信徒たちでした。 パウロには、もちろんそういう意味ではなく、自分自身が王であるという自覚がありました。しかし、パウロはこうも言っています。9節のみことば、10節を飛ばして、11節から13節のみことばをお読みします。…… パウロのこの告白を見ると、まるで世間一般の持つ王さまのイメージとは反対です。こんなに悲惨な人のように、普通ならばなりたがりません。 私はこの世の屑、かす……パウロ先生、お願いだからそんなこと言わないでください! 聞いていて耳を覆いたくなる告白ではないでしょうか? しかし、これが教職者として神の教会に仕えるパウロの、ありのままの姿だったのです。神さまのみこころにかなう「王」、ペテロやヨハネが正しい聖徒たちの身分として語る「王」は、このようにパウロが赤裸々に語るとおりの、みっともない姿をしています。別な意味での「裸の王様」です。しかし、この「裸の王様」は、裸の恥をあらわにしてこの上なく恥ずかしい、コリント教会の信徒たちのような「裸の王様」とは、根本から異なります。 なぜでしょうか? この、パウロのような「裸の王様」は、裸では終わらないからです。神さまはエデンの園のはじめ、裸でいたアダムとエバに、動物をほふって手ずからおつくりになった毛皮の服を着せてくださいました。まさしく、神さまが血を流していのちを犠牲にしてくださることをとおして、裸が覆われるわけです。それは、イエスさまの十字架の贖いによって、人の罪が覆われ、罪を憎まれる神の怒りから救われることを示していました。 そうです。裸の恥は、神さまが服を着せてくださることによって覆われます。パウロの告白に従えば、とても誇れない恥にまみれた生き方を彼は余儀なくされていました。しかし彼がその悲惨さ、恥ずかしさに耐えられたのはなぜでしょうか? 彼の着る物もない、裸の恥は、終わりの日に神さま御自らによって覆っていただけることを知っていたからでした。 その日、神さまが最大級の賞賛をしてくださる日、「よくやった。良い忠実なしもべだ」とほめてくださるその日をはっきり思い描く信仰があったからこそ、今日の貧しさに耐えられたのでした。自分が永遠の王であることを知っていたからこそ、今のこの貧しさがつかの間であると受け止めることができたのでした。 さて、ここまで申し上げれば、ほんとうの「裸の王様」はだれか、もうお分かりなのではないでしょうか? そうです、イエスさまです。あらゆる罪を十字架で背負われたイエスさまは、お裸でした。王の王イエスさまは、こんなにもみっともなく、また悲しいお姿で、傷ついて死んでいかれたのです。 しかし、イエスさまは復活されました。天の御座にお着きになりました。永遠の王です。ほんとうの裸の王様、イエスさまによって、どれほど私たちは罪赦され、神の子どもとしてきよくしていただいたことでしょうか!  そして裸の王様イエスさまは、今や復活のご栄光を帯びていらっしゃいます。もう裸ではありません。やがて白い衣をまとって、さばき主としてこの世に来られます。パウロはその、再臨のイエスさまにならうがゆえに、いましばしのこのとき、自らも裸の王様として振る舞うことを選択したのでした。 10節のみことばをお読みします。……聖徒たちが霊的に富むのは、このように貧しい主のしもべが身を低くして仕えるからです。そのことがわかっているならば、虚栄心で王のように振る舞う生き方などできないはずです。かえって、十字架のイエスさまにならうパウロのように、王の誇りにかけて人の救いのために裸の恥をものともしない生き方に献身することを選択できるはずです。 最後に、14節のみことばをお読みします。……コリントの信徒たちを恥じ入らせることは、パウロの意図するところではありませんでした。単に恥じ入るだけなら、「ああ、私たちの大事なパウロ先生の心も知らないで、勝手なふるまいをしてしまった」などと、「パウロ派」として振る舞うことそのものを悔い改めないで済ます危険があります。 パウロは、コリントの聖徒たちのことを、そのダメさ加減にもかかわらず「私の愛する子ども」と呼んでいます。子どもということは、パウロの性質を受け継いで生まれた人たちということであり、まことの「裸の王様」であるイエスさまに対する信仰を「裸の王様」として生き抜くことにより体現する、パウロのその性質を受け継いでいる、ということです。 またそれは、それだけパウロが責任を持って心血注いで養育する責任がある、ということです。イエスさまのあとをついて十字架を背負える、悪い意味ではなくほんとうの意味での「裸の王様」になって人々を統べ治める人々になれるようにと、パウロは祈っているわけです。 私たちは、どちらの裸の王様でしょうか? 自己中心で教会生活をすることで済ましている、ラオディキア教会にヨハネが警告したような裸の者であることを知らない、そんな裸の王様でしょうか? それとも、イエスさまのように、パウロのように、人々を神さまにあって生かすことを願うゆえに。あえて裸の恥を身に帯びることを選択する、やがて終わりの日に栄光の姿に変えられ、永遠に王として治めることを信じて、今日の貧しさをものともせずに歩む、そんな裸の王様でしょうか? 私たちはどちらにせよ、神さまの御目には裸です。それなら私たちは、裸の恥に目をつぶって好き勝手に生きることよりも、裸の恥を身に帯びながらも人々のしもべとして仕える王として振る舞い、終わりの日に白い衣を着せられて主から最大級の賞賛をいただけるだけの生き方を全うしたいと願いませんでしょうか?  私たちの現実を見てみましょう。貧しいでしょう。何も持っていないでしょう。しかし、こんな私たちは王さまなのです。王なるイエスさまを心の王座に受け入れている以上、私たちも王さまなのです。裸のように悲惨に見えても、私たちは王さまなのです。 人々に仕えることで王として振る舞う王さまです。人々のためにとりなして祈ることで王として振る舞う王さまです。そして、神の国の祝福を人々に分かち合うことで王として振る舞う王さまです。神さまの祝福に満ち、十字架にかかられたイエスさまにならう「裸の王様」として生きる祝福を、私たちがともに味わって生きていきますようにお祈りします。 では、お祈りします。

「主イエスの母、そして主イエスの家族」

聖書箇所;マタイの福音書12:46~50/メッセージ題目;「主イエスの母、そして主イエスの家族」  私は韓国に留学した1995年、「ソウル日本人教会」という教会に通っていました。その教会は、韓国訪問の折に教会に訪れるさまざまな日本の牧師先生が、日本のキリスト教会で起きていることをリアルタイムに伝えてくださる場となっていました。その先生方のメッセージの中で、忘れられないものがありました。その年は阪神淡路大震災が起こった年でしたが、当時、日本基督教団新潟教会の牧師でいらっしゃった、春名康範先生という方がいらしたとき、こんなことを語っていらっしゃいました。 震災からの復興活動での炊き出しに参加され、そのときの様子に、ある韓国語を思い出したというのです。それは「シック」ということばでした。「シッ」は「食べる」と書き、「ク」は「口」と書きます。「食べる口」というわけですが、これは「家族」という意味です。春名先生は、ボランティアの炊き出しに群がり、一緒にご飯を食べる被災者の、ああ、ありがたいなあ、というその姿に、シック、という韓国語を重ね合わせた、とおっしゃったのです。まさに、同じ大きな災いを通して、避難所で家族のような立場になったどうしが、同じ食べ物を食べて、シック、つまり、家族……なるほど……私は唸りました。  当時私は、韓国の地方からソウルに上京していた7人の大学生たちとひとつ屋根の下で共同生活をしていました。朝には交替でごはんをつくります。食べるときは鍋を真ん中において、お椀にもつがずにスプーンで直接すくって飲みます。キムチもおかずも、取り皿なんてありません。そして朝ごはんがすんだらそれぞれキャンパスに散り、夜になると帰ってきます。寝る前には車座になって、一日のできごとの報告とお祈りの課題をそれぞれ話し、最後にみんなで手をつないで祈ります。まさに「家族」。  私はその、春名先生のエピソードに感動した日、家に帰り、同居していた学生リーダーにそのことを話すと、彼もとても感動してくれました。やがて私が留学生活を終えて日本に帰るとき、彼はみんなの前で、トシ兄弟が言っていた「シック」のエピソードにとても感動した、俺たちはいっしょに食事を囲む家族じゃないか、という意味のことを、わざわざ言ってくれたものでした。 今日は礼拝において「主の晩さん」を分かち合います。先週金曜日、私は保守バプテスト同盟の教職者の勉強会である「同盟アーカイブズ」というものにオンラインで出席しました。そのとき教えられたことですが、ほんらい「主の晩さん」というものは儀式ではなく、主にある交わりの一環として行われた食事の一部であった、ということです。それが、時代が下るにつれて宗教的な意味づけがされ、いつの間にか、とても畏れ多いものとなってしまった、ということです。   本日、ともにいただく「主の晩さん」は、どうか、イエスさまが手ずから裂かれたパン、イエスさまが杯を回されたぶどう酒をともにいただく、家族としてともにいただく、そういう気持ちであずかってまいりたいと思います。そんな「主の晩さん」を控えた私たちは、同じ主の晩さんのパンと杯を食して口にする「シック」、家族であるわけですが、それがどんな家族なのかを、イエスさまが端的にお示しになったみことばから、今日はともに学び、ともに家族とされている喜びを分かち合いたいと思います。 今日の箇所は、イエスさまの母であるマリアと、イエスさまの弟たちが、イエスさまに会いにやってくる場面から始まっています。マリアのことは申し上げるまでもありません、あのマリアです。イエスさまの弟たちというのは、マリアとヨセフの間に生まれた人たちで、「主の兄弟」という別名で呼ばれることもあります。名前はマタイの福音書13章の終わりの部分で明らかになってもいますが、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダで、このうちヤコブとユダは、新約聖書の「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」を書いた人物で、つまりは初代教会の指導者になった人です。ついでに申し上げますと、イエスさまにはこの4人の弟のほかに、少なくとも2人の妹がいたことが、やはりマタイの福音書の13章からわかります。 また、これは類推ですが、イエスさまの公生涯の記述に、ヨセフのことが出てこないのは、イエスさまの公生涯の時期にはヨセフがすでに亡くなっていたからだというのが定説です。ヨセフがなぜ亡くなったかは、聖書はまったく沈黙しています。しかし、ヨセフは少なくとも、あまり健康が保てる仕事についていなかったのはたしかです。石で家を建てる時代のパレスチナで大工となったら、石を切ったり削ったりする作業で大量の粉塵が出て、マスクもない時代です、その粉塵を吸い込んで、健康をとても害したことでしょう。イエスさまがお生まれになったヨセフの家庭は、そのような厳しい労働者の家庭だったということを、私たちは覚えておきたいと思います。 イエスさまはもともと、そのような家庭の長男として、稼ぎ頭だったわけでした。しかし今やイエスさまは、神の国を宣べ伝えるお方でした。そのようなお方でしたが、ユダヤ人ならだれもかれもがイエスさまのことを受け入れていたわけではありませんでした。同じ12章をご覧ください。イエスさまはパリサイ人から、悪霊のかしら扱いされています。もちろんイエスさまは、それに対してごもっともな反論をしていらっしゃるわけですが、このように、当時絶対的な立場にあった宗教指導者たちに睨まれていたことは、マリアや弟たちを動揺させるに充分だったのではないでしょうか。そんな彼らがイエスさまに話しにやってきたわけです。お願いだから、悪いことは言わないから、こんな働きはやめて……。そんな彼らの心の声が聞こえてくるようです。 親兄弟が会いに来たならば、会うべきだと思いますでしょうか。しかし、イエスさまは取り継いだ人に対し、みなの聞いている前でおっしゃいました。48節から50節です。……イエスさまは、ご自分に弟子としてついてきていた人たちのことを、わたしの母、わたしの兄弟たち、とおっしゃいました。それはなぜであるか、50節に語られているとおりです。彼ら弟子たちは、天におられるイエスさまの御父のみこころを行なっているからだとおっしゃいました。 ここから、2つのことが分かります。ひとつは、イエスさまのお働き、神の国を宣べ伝えるお働きをとどめようとすることは、いかにイエスさまの肉親であろうとも、とどめることはできないし、また、とどめるべきではない、ということです。もうひとつは、天の父なる神のみこころを行うならばその人がほんとうの弟子である、その、神のみこころを行うとは、イエスさまに弟子としてついて行くことである、ということです。 イエスさまは、「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら」とおっしゃいました。ここでマリアたちも、群衆も、弟子たちも、そして私たちも、イエスさまの父とはどなたなのかを考える必要があります。 マタイの福音書の13章に入ってみると、イエスさまの故郷ナザレの人たちは、イエスさまはヨセフのせがれ以上の見方をしなかったわけです。マリアたちも、イエスさまのことをそのようにしか見ることができなかったからこそ、このようにイエスさまのお働きに関係なく、お働きの最中でも呼びつけるようなことをしたわけです。しかし、イエスさまの父なるお方はヨセフではなく、天のお父さまであることを知るならば、人はイエスさまの弟子になるならば、すなわち天のお父さまのみこころにお従いすることになります。イエスさまは、肉親の関係でご自身のご家族を決められるお方ではありません。天の父なる神さまを父としてイエスさまに従う人ならば、だれでも家族としてくださるのです。 天の父のみこころを行うなら、とは、それは、天の父をイエスさまのゆえに信じる、ということです。イエスさまを通してでなければ、だれも天の父のもとに行くことはありません。しかし、イエスさまを通すならば、人はだれでも、創造主なる神さまをお父さまとお呼びする者としていただけます。これが、信仰を持つ第一歩であり、それはまた同時に、イエスさまの弟子となる第一歩でもあります。しかし、イエスさまは私たちにとって遠いお方ではありません。私たちのことを家族として受け入れてくださいます。 さて、家族、というとき、「兄弟姉妹」なら、まあ私たちはわかるのではないでしょうか?例のベートーヴェンの「第九」のメロディの聖歌、25番の4番の歌詞は、「御神はわれらの父親なれば/御子なるイエスをば兄上と呼ばん」とあります。私たちはあまりイエスさまのことを「お兄さま」と呼ぶことはないように思いますが、まあ、論理的にそうなのはお分かりだと思います。私たちは同じ御父によって、イエスさまの兄弟姉妹にしていただいている存在です。 しかし「イエスさまの母」となりますと、これはどうでしょうか? イエスさまのこのみことばはかなり難解です。私たちは百歩譲って、イエスさまの弟や妹に加えていただけるとは思うでしょうが、「母」となると、あまりに畏れ多い、と思えませんでしょうか? しかしこのイエスさまのおことばは、ほかならぬマリアがどういう理由で訪ねてきたか、ということを考えると、謎は解けます。イエスさまは「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの……母なのです」とおっしゃっています。ということは、このときマリアは、天の父のみこころを少なくとも行なっていなかった、ということになるわけです。 マリアは何をしたのでしょうか? マリアは主の兄弟たちとともに、群衆のいる家の外にいました。要するに、イエスさまについて行っていたわけではありませんし、イエスさまが説いておられるメッセージそのものに関心があったわけではありませんでした。 ということは、マリアも含め主の肉の家族は、イエスさまの語っておられる神の国に無関心な態度を示していた、ということになります。それだけでしょうか? イエスさまがいっしょうけんめい、神の国の福音を語っていらっしゃるというのに、そこに主の兄弟たちとやってきて、イエスさまを呼びつけたということは、結果的にその行動は、イエスさまのそのお働きを中断させてしまうことになるわけです。 それはどういうことでしょうか。神の国の福音が、それだけ聞く人に伝わらないということになります。人が救われて神の国に入る可能性は、それだけ損なわれることになります。それはイエスさまの、神の子キリストとしての働きを邪魔することであり、つまりは天のお父さまのみこころをきわめて損っているということです。 しかし、さすがはイエスさまなのは、そのような無理解なマリアたちの行動さえも、神の国の福音を人々に解き明かす機会へとお用いになったことでしたが、ともかく、マリアは、ルカの福音書1章で告白したように、神の子イエスさまをこの世に送り出した主のはしためとしての立場を堅持している必要がありました。 それこそが、神の子キリストの母であるということです。キリストを生んだ人、というよりは、主のはしため、主に用いられることに至上の喜びを覚える謙遜な器、だからこそ、御父はイエスさまをこの世に送り出す人としてマリアをお選びになったのであり、私こそはイエスの母親でござい、というような振る舞う人は、いちばんイエスさまの母親と呼ばれるのにふさわしくない人です。 しかしこの、イエスさまに「わたしの母」と呼んでいただいた、その場でイエスさまのメッセージをお聴きしていた弟子たち、とくに女性の人たちがどんなに面映(おもはゆ)い思いをしたことか、想像するにあまりありますが、イエスさまの母、という面映ゆい呼び名は、イエスさまにそう呼んでいただいた人以外にふさわしい人などいないと考えるべきです。言うまでもないことだと思いますが、間違っても自分たちの間で、あら、あなたは神のみこころを行なっているわね、あなたはイエスさまのお母さまね、というようなレベルの話ではありません。あまりに畏れ多くて、そんなことはとても口にできないのがクリスチャンとしてのまともな神経でしょう。 マリアの話に戻りますが、マリアもまたひとりの人として、父なる神さまのお取り扱いのもとに身を低くする必要がありました。 イエスさまの献児式のためにエルサレムにヨセフとマリアが赴いたとき、シメオンがイエスさまについて、このような預言をしました。ルカの福音書2章、34節と35節です。……まさにさばき主なるイエスさまによって、マリアの心さえも、まるで剣が刺し貫くようにさばかれる、というわけです。マリアはこのとき、イエスさまのお働きを妨害したとは、自分は実は神のみこころを行なっていなかった、という現実を見せつけられました。マリアもまた、悔い改める必要があったのでした。 しかし、このようなマリアでしたが、聖書は、イエスさまの十字架のできごとにおいて、マリアがどうだったかを記しています。マリアは、イエスさまの十字架の前に立っていました。イエスさまの十字架をじっと見つめていたのです。イエスさまはそんなマリアに、ご自身の愛弟子ヨハネこそ、これからあなたと親子になる人です、とお語りになり、神の家族としての新しい家族の関係にマリアを導き入れられました。 マリアはもはや、私はイエスさまの母でござい、の人ではありませんでした。神の家族に生きることによって父のみこころを行うことで、マリアはようやくほんとうの意味で「イエスの母」となることができたのでした。 私たちは自分から「イエスの母」を目指すことなどできませんし、ましてや、名乗ることなどできません。しかし、「神のみこころを行う弟子となる」ことで、イエスさまの家族に加えていただくことはできます。イエスさまに肉親の家族が実際にあったわけですが、それ以上に強い関係として、私たちのことを家族にしていただけるのです。 私たちは今日、主の晩さんをもってパンとぶどう酒をともにいただきます。それは、イエスさまのみからだと血潮という主の食卓にともにあずかる、ひとつの家族であることを確かめる、おごそかにして麗しいひとときです。 私たちはイエスさまが、わたしの家族と呼んでくださった、特別な関係です。イエスさまと家族にしていただいている、これ以上素晴らしいことがあるでしょうか? 私たちは血を分けた家族との関係に、時に傷つき、いやな思いをします。しかしそれは、地上の家族が完全ではないからです。しかし、イエスさまと家族にしていただいている関係は、この世の何ものにも代えがたい関係で、私たちはこの、教会という共同体の中で、神の愛を体験し、兄弟愛をはぐくみます。 イエスさまは、私たちが家族としてますます愛に進むことを願っていらっしゃいます。そしてそれだけではなく、私たちに与えてくださったこの愛を、さらに多くの人に広げることを願っていらっしゃいます。私たちは今週、どのようにしてこの愛を味わいますでしょうか? そして、この愛をだれかに対して表現しますでしょうか? 私たちはだれかに愛をあらわしてこそ、イエスさまに愛されていることをほんとうに理解し、体験するようになります。

自由のための二つの警告

聖書箇所;コリント人への手紙第一3:18~23/メッセージ題目;自由のための二つの警告 先週私たちは、私たち聖徒は神の建物であると学びました。礼拝堂という目に見える建物のことを言っているのではなく、パウロのような働き人がキリストという土台の上に建てた存在が聖徒、キリストを土台としているだけの価値ある献身で建てるべきなのが聖徒、そして何よりも、主ご自身を迎え入れた神の宮なのが聖徒です。 そのような存在とされていることを教えられなければならないのは、コリント教会がそれにふさわしい歩みをしていなかったからです。私たちも下手をすると、そのようなふさわしくない歩みをしてしまう、だから私たちは、みことばが何を語っているかをよく聴き、みこころにかなった教会形成に献身する必要があります。 今日の箇所を見てみますと、パウロは2つの警告を発しています。ひとつは「だれも自分を欺いてはいけません」、もうひとつは「だれも人間を誇ってはいけません」です。 コリント人への手紙は全体に、彼らコリント教会のレベルに合わせてやさしい表現が用いられています。しかし、この表現だけを抜き出してみると、パウロはちょっとわかりにくい言い方をしています。しかし、安心してください。わからないのは私たちが不勉強だったり、霊的に鈍すぎたりするからではありません。ほかならぬペテロが言っています。……その中には理解しにくいところがあります。……第二ペテロ3章16節にはっきり書かれています。わかりにくいからと不安がらなくていいのです。 しかし、わかりにくい内容を曲解するようで困ります。この第二ペテロ3章16節には続きがあります。……無知な、心の定まらない人たちは、聖書の中の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。……みことばをふさわしい教理どおりに理解していないならば、滅びてしまいます。いわゆる異端と呼ばれる人たちは、聖書を用いていても「キリストのからだなる教会」、すなわち、救いの恵み、永遠のいのちの恵み、天国の恵みを私たちとともに味わう人たちと言えないのは、彼らが正しい教理で聖書を解釈せず、聖書を曲解しているからです。 どうすればいいのでしょうか? 何よりも私たちは、この姿勢で聖書をお読みする必要があります。ヤコブの手紙1章、5節と6節です。…… みことばを理解する知恵は、神さまに求めるのです。神さまに求めるならば、私たちは礼拝でのみことばの解き明かしも、ふだん読むディボーションのテキストも、聖書や信仰に関する書籍も、より真剣に理解しようとするでしょうし、神さまはそのような人に、ふさわしい知識を与えてくださいます。それをしないと、いざというときに大風に吹かれて揺れ動く船のようになってしまいます。イエスさまの語られたとおりに表現を変えると、砂の上に家を建てた人のようになります。要するに、イエスさまという土台の上に根ざしていないのです。 前置きが長くなりましたが、「だれも自分を欺いてはいけません」という警告も、「だれも人間を誇ってはいけません」という警告も、それにふさわしい解釈を必要としています。どうか気分や雰囲気でわかったつもりにならないで、しっかり学んで、岩なるイエスさまの上に家を建てる人として、ともに成長してまいりたいと思います。 ではまず、「だれも自分を欺いてはいけません」の警告からまいりましょう。 18節のみことばを見てみましょう。……コリント教会の信徒は自分を欺いている、パウロはそう警告しています。どのように自分を欺いているのでしょうか?「この世で知恵がある」と思い込んでいる、ということです。 ここまでの一連の流れから、コリント教会の信徒たちは、「だれにつくか」ということで人よりも知恵がある、あるいは、自分は絶対的な知恵を得ている、と考えていることがわかります。パウロという大先生に教えられたから自分には知恵がある、ですとか、アポロという大先生に教えられたから自分には知恵がある、ですとか。 しかし、これもここまで述べられてきたとおり、パウロもアポロも、神の建物である聖徒たちを立て上げる「しもべ」にすぎません。本来、コリント教会がつくべきは、「イエスさま」であって、「パウロ」や「アポロ」のような、人間の働き人であってはいけません。 そのようなコリント教会の聖徒たちに、パウロは「自分を知恵のある者と思うなら愚かになりなさい」と語ります。しかし、彼らは知恵を最高の価値あるものとして求めるような者たちです。そういう者たちが、パウロの命じるように「愚か」になるには、どうしなければならないでしょうか? 19節のみことばです。……そうです。彼らが「知恵」と思っているものは、「神の御前で愚かである」と、徹底して認めることが必要です。そう認めることもみことばが根拠になっていて、パウロはここで、2つのみことばを引用しています。 まず、19節のほうのみことばから見てみますが、人間はどんなに自分に知恵があるように思えても、神さまはその知恵を用いて、かえってその者が知恵のない者のように振る舞わせます。 そして20節、人間にはいかに知恵があったとしても、それはしょせん、被造物の中から出てきた知恵にすぎません。創造主の知恵にははるか遠く及ばないものです。 この2つの真理の例として挙げられる聖書の記述があります。先週、マクチェイン式聖書通読の箇所になっていた、アブサロムの軍師だったアヒトフェルのことをご記憶でしょうか? サムエル記は、アヒトフェルのことばは人が神に伺って得ることばのようだったと評価しています。相当な評価です。しかし、その知恵たるやどういうものだったかというと、エルサレムをあとにして落ち延びたダビデが王宮に残したそばめたちを、アブサロムに白昼堂々衆人環視のもとで寝取らせたような、悪魔のような恐ろしい知恵です。これで全イスラエルをアブサロムのほうになびかせたわけですから、ただごとではない知恵です。 その知恵を用い、アヒトフェルは作戦を立てました。この作戦のとおりにいったならば、ダビデは確実に死にました。それは、神さまがダビデのすえとしてイエスさまを生まれさせられるというご計画さえ水泡に帰するような知恵で、人間的には完璧な作戦であった一方で、悪魔的などす黒い知恵によるものでした。 しかし神さまは、ダビデがひそかにアブサロムの陣営に放ったフシャイの作戦をアブサロムが受け入れるように働かれました。結局、これほどの知恵者(ちえしゃ)だったアヒトフェルは、自らいのちを断つという悲劇的な結末を迎えました。まさにアヒトフェルは、反キリスト的な自らの知恵にとらえられて滅びたのでした。アヒトフェルにはむしろ、知恵がない方がどんなによかったかしれないとさえ言えそうです。 このような箇所をお読みすると、どんな知恵のある者も神さまの知恵には遠く及ばないことを思い知らされます。私たちはそれでも知恵ある者として振る舞いたいでしょうか? 主のみこころは、私たちが愚かであることを選択することです。 愚かであるということは、自分の知恵がむなしいことを認めるのと同時に、主こそがまことの知恵であることを認めることです。以前も学びました、第一コリント1章25節をご覧ください。……神の愚かさとは、イエスさまの十字架です。人は自分の知恵にしたがって、イエスさまの十字架など信じないし、信じたくもないというでしょう。しかし、それこそがつまずきとなり、神さまの前にへりくだって救いを得られるかどうかの境目となります。 そうです。自分を欺くということは、十字架という「神の愚かさ」によって救われたことにより、あらゆる「人間につく知恵」がむなしくされているにもかかわらず、この期に及んで「人間の知恵」に執着し、イエスさまを見失ってしまう、ということです。 このような愚かなことは、私たちもしばしば犯してはいないでしょうか? よく私たちクリスチャンがつい口にしてしまうことばですが、どこかの教会のことを話題にするとき、その教会の牧師先生の名前を挙げて、「だれだれ先生の教会」という言い方をしてはいないでしょうか? しかし、厳密に言えば、この言い方は正しくありません。教会はキリストのものであり、特定の牧師のものではありません。「だれだれ先生の教会」という呼び方をすると、まるでその先生の存在が、教会を教会ならしめているキリストにまさるかのようにしてしまいかねません。そういうことでは、あえて厳しい言い方をしますが、「私はパウロにつく」、「いや、私はアポロにつく」といって分裂した、コリント教会の幼い状態と五十歩百歩ということになってしまいます。 私たちは、イエス・キリストという岩なる土台の上に立てられた存在です。つまり、キリストのものです。父なる神さまがこのお方を、私たち聖徒の身代わりに十字架につけてくださった、それが神さまの知恵であった以上、その知恵を超える知恵はありません。その知恵を愚かだと決めつける者こそ愚かです。いわんや、この十字架によってもろとも神さまに贖われた教会を、人間的な知恵につこうとする党派心によって分裂させるなど、もっとも知恵のない愚かな行いです。 私たちは、イエスさまの十字架という知恵をいただいていることを、自分を欺かずに自分のものとして、その十字架の知恵によってすべて振る舞ってまいりましょう。この、私たちがひとつとなり、犠牲をもって隣人に仕える生き方は、この世のあらゆる知恵にまさる知恵、キリストの知恵を世に示すことです。 そのようにして自分を偽らない人に、主は豊かな祝福を与えてくださいます。ともにこの十字架の知恵を今週も、そしてこれからも求め、その知恵をもってこの世に生きる者とならせていただきましょう。 それでは21節にまいります。……次の警告は「だれも人間を誇ってはいけません」です。 人間を誇る、それはここまで見てくればお分かりのとおり、「あなたがたはパウロについているというが、パウロという人間を誇ってはいけない」、「同じように、アポロという人間を誇ってはいけない」ということです。 21節のみことばは続きます。「すべては、あなたがたのものです。」どういうことでしょうか? パウロやアポロのような教職者があなたがたを持っているわけではない、ということです。 22節に入ると、この論理はさらに具体的に展開します。……「私はパウロにつく」、「私はアポロにつく」、「私はケファにつく」などと分裂していたのが、コリント教会の現状だったわけですが、そのパウロやアポロやペテロは、あなたがたのものである、というわけです。これは誇張ではありません。ペテロは聖徒たちに向かって、あなたがたは王である、と語っていますし、使徒ヨハネも聖徒たちを指して、彼らは永遠に王である、と言っています。彼ら教職者は、その王なる聖徒たちに仕えるしもべであるわけで、したがって聖徒たちは彼らしもべを所有していると言えます。 いまは放送伝道の時代で、信徒たちは自分の霊的養いのために、手軽にパソコンやスマートフォンにアクセスして、福音放送の番組に耳を傾けますが、そのような番組は多くが、牧師たちの無給のボランティアで成り立っています。聖徒からお金を取っているわけではないのです。しかし聖徒はいつでもどこでも好きなだけ、そのような福音放送にアクセスして霊的に養われます。これは言ってみれば、聖徒が福音放送に関わる教職者たちの霊的財産を所有しているということです。 いえ、もっと根本的なことを言えば、私たちがいま聖書を手にしているということは、モーセに始まり、ヨハネに至るまで、みことばを取り継ぐということをもって私たちに献身者たちが仕えている、ということであり、さらに言えば、聖書が書かれて以来2000年にわたるキリスト教会の歴史において献身してきたすべての働き人は、いまこうして教会形成をしている主体である私たち聖徒のものである、ということになります。 私も今こうしてみなさまにお語りすることで、歴代の働き人たちの末席を汚(けが)させていただいているものですが、私はみなさまを所有する立場になどありません。水戸第一聖書バプテスト教会が「武井先生の教会」など、もってのほかです。このことについては、ぜひ今日みなさまにお配りした月報のコラムをお読みいただけたらと思いますが、ともかく、私はみなさまを所有する者ではなく、むしろ反対に、みなさまに所有していただいている者です。このことを私は片時も忘れずにお仕えしたいと願っています。 しかし、聖徒たちが所有するのは、霊的教訓を施す教職者、献身者にかぎりません。世界であれ、ともあります。これは宇宙万物、森羅万象です。ローマ人への手紙8章28節によれば、神さまはすべてを働かせて益としてくださるお方です。文字どおり、すべてです。そのような宇宙万物、森羅万象を、私たち聖徒が所有しているとは、なんと素晴しいことでしょうか。 いのちであれ、死であれ、ともあります。ピリピ人への手紙1章20節と21節をご覧ください。生きるにせよ、死ぬにせよ、キリストの御名があがめられて、主のご栄光が顕される、これが私たちクリスチャンの生き方です。私たち人間は、この地上において、生きるか、死ぬかのどちらかですが、そのどちらであれ、私たち聖徒のものだというのです。私たち聖徒は、世の人たちが執着している「生きること」からも、世の人たちがひたすら怖がっている「死ぬこと」からも、自由な存在とされていることを、しっかり受け止めてまいりたいと思います。 現在のものであれ、未来のものであれ、とあります。ここでは「過去のもの」とは語られていません。過去は変えられないものであり、つまりは、私たちの責任の及ばないものです。しかし、私たちがいまを、また未来をどう生きるかは、神さまが私たちに託してくださった事柄であり、この「現在」、また「未来」において主が私たちを用いられ、主が私たちをとおしてみわざを行なってくださるゆえに、私たちは「現在」また「未来」が私たちのものとされていることを知るのです。過去は変えられません。しかし、現在と未来は私たちが変えられます。喜んでいいのです。確信を持っていいのです。 しかし、23節に入りますと、そのようにすべてを持つ私たち聖徒のことを、やはり所有しておられる方がいらっしゃることを、私たちは教えられます。「あなたがたはキリストのもの」、そうです、私たちは、イエスさまが十字架の血潮をもって買い取ってくださった存在、すなわち、イエスさまのものです。私たちがイエスさまのものであるということは、イエスさまが私たちのかしらとなられ、私たちがイエスさまのからだにしていただいた、ということです。 そして、キリストは神のものです。イエスさまは神のみこころにどこまでも従順であられ、実に十字架の死に至るまで従順であられました。神さまはどのようなお方でしょうか? ローマ人への手紙11章36節です。……イエスさまの十字架は、神から発し、神によって成り、神に至る、神の栄光を顕すできごとでした。同じように、神さまは被造物にとってすべてのすべてであられ、私たち聖徒もまた、神から発し、神によって成り、神に至る、神の栄光をとこしえに顕す存在です。 そのように、私たち聖徒をキリストにあってご自身の民として所有していらっしゃる神さまは、私たちにすべてのものを所有させてくださいました。そのような私たちがどうして、だれか人間に所有されるべきでしょうか。私たちがだれかに属しているからと、その人を誇るべきでしょうか。私たちが誇るべきは、神さまだけです。 私たちは自分が思っているよりも、もっと自由な存在です。私たちはだれか人間に所有されている存在ではなく、むしろすべてを所有する存在です。私たちを所有しておられるのは、イエス・キリストだけです。私たちはもしかして、不自由さをどこかで感じていないでしょうか? 私たちはイエスさまとの個人的な関係の中で、また、イエスさまとの共同体全体との関係の中で、自由を味わいましょう。 しばらく祈りましょう。私たちはだれか人に自分自身を所属させてはこなかったでしょうか? イエスさまにだけついて、ほんとうの自由を味わいますように。

「私たち聖徒は神の建物」

聖書箇所;コリント人への手紙第一3:9~17/メッセージ題目;「私たち聖徒は神の建物」 先週のメッセージの聖書箇所は、9節で締めくくっています。そのときの解き明かしで、終わりのことば「あなたがたは……神の建物です」ということについては、今週のメッセージで詳しく扱うことをお話ししました。そこでお約束したとおり、今日は、「あなたがたは……神の建物です」という、パウロのことばから学びます。 私がみなさまからお伺いして知っていることですが、うちの教会は長年、自前の礼拝堂を手に入れるために、聖徒のみなさまで一生懸命祈り、また、献金してこられました。基本的に外部の業者に頼まず、自分たちで一生懸命に建てられました。そうして建ったのがこの礼拝堂ですから、この礼拝堂が献堂されたときのみなさまの喜びはどれほどのものだっただろうかと思います。 教会というと私たちは真っ先に、礼拝堂をイメージするかもしれません。もちろん、聖書における「教会」というものは、そのような「建物」というよりはむしろ「人の集まり」「会衆」と解釈すべきです。それは今までも学んできたとおりです。しかし、「教会」を「建物」というイメージで受け取っても、あながちピントが外れていないかなと思えるのは、もしかしたら、今日学ぶ箇所のイメージが私たちクリスチャンにあるためかもしれません。 しかし、コリント教会に特定の礼拝堂がなくても、この群れをパウロが建物になぞらえたのは、やはり「神の建物」とは、目に見えて手でさわれる礼拝堂、チャペル以上に、主によって贖われた聖徒たちの群れを意味するということが前提になります。コリント教会が聖なる民、聖徒たちであるのと同様に、私たちも聖徒です。ゆえに、私たちも神の建物ということになります。 今日の聖書箇所はあらためて9節からを本文にして、17節まで、建物ということを扱った本文から、私たちはともに学びたいと思います。それではいつものように、3つのポイントからお話しいたします。 ①第一のポイントです。神の建物の土台はイエス・キリストです。 9節のみことばにあるとおり、神の目から見て私たち聖徒は、神の建物です。それでは私たちは、どのような建物なのでしょうか? まず、土台からして独特です。10節と11節のみことばをお読みします。 10節でパウロは、自分のことを建築家になぞらえています。ここでいう建築家は、家を建てる働きそのものをする「大工」ではなく、建てる作業の図面を描く「設計士」また、作業全体を見張る「監督」ともいうべき、大局から教会形成に関わる人です。どのようにすればこのコリントという都市に立てるにふさわしい教会がつくれるかを考え、それにふさわしく土台を据えるのです。 現実のコリント教会を見てみると、争いがあったり、派閥に分かれた分裂があったりと、目を覆わんばかりの醜態をさらしていて、それは主の教会としてとても証しにならないような状態にありました。しかし、忘れてはならないことがあります。そのような醜い有様をさらしていても、そのような者たちをイエスさまは十字架の血潮によって救い、あがなってくださったということです。彼らはどんなに醜くても、イエス・キリストを土台とした「神の建物」であることに変わりはありません。神さまのものです。救われているのです。 「あんなことをするような人が救われているのか?」などと思える言動をするクリスチャンというのはいるものです。しかし、これは間違えてはなりません。イエスさまを信じているかぎり、その人は救われています。ただ、イエスさまという土台にしっかり立て上げられるために、まだまだそのプロセスの中にある「工事中」の段階なだけです。工事中ならば騒音もします。セメントや溶剤のかぎたくないにおいもします。ほこりも立ちます。しかし、それらのことは、しっかり立て上げられるために必要なプロセスと考えれば、受け入れられるのではないでしょうか? 少なくとも「こんな人は救われていない!」などと、さばくものではありません。 さて、土台の上に家を建てるといえば、イエスさまのおっしゃったおことばを思い出します。マタイの福音書7章、24節から27節のみことばです。 洪水のような事態というものは、つねに変転する人生にはつきものです。現に今こうしていても、コロナという事態が起きていて、この洪水のような事態にもう1年半以上も私たちは翻弄されっぱなしです。しかし、仮にコロナが起きていなかったとしても、この平和な日本にかぎっても、地震だの台風だの、どうしようもない自然災害は起きるものです。これは不可抗力の災害のケースですが、私たち個人個人の人生にも、そのような嵐のごとき事態というものはつねに起こり得るものです。 このようなときに問われるのが、私たちが何に土台を置いているかです。私たちの土台がイエスさまであるならば、その人は安全です。言ってみれば、土台が人生全体を支えてくれるようなものです。イエスさまが土台でないということは、みことばを聴かないか、あるいは、聴いてもそのみことばを守り行わないということであり、そのような人の人生はいざというときにめちゃめちゃになります。 イエスさまと関係のない教会形成や教会生活というものは、イエスさまと交わりのない生活であり、そのような生活が、砂の上に家を建てる生き方です。私たち教会がほんとうに、土台がイエス・キリストであるというならば、いついかなるときも、イエスさまとの交わりの中に、各自が、そして教会全体が、生きる必要があります。私たちはその生き方を目指していますでしょうか? 実践していますでしょうか? イエスさまを土台とする生き方、教会形成にともに取り組む祝福を、ともにいただいてまいりましょう。 ②第二のポイントにまいります。神の建物は火によって判別されます。 12節、13節のみことばです。 何で建てるか。このみことばを見ると、その材料が、金、銀、宝石、木、草、藁とあります。 言うまでもないことですが、金や銀や宝石は、小さなものでもとても高いものです。宝石店や貴金属店に行くと、あんな小さなものがなんであんなに高いのか、と思うでしょう。 いわんやこの金、銀、宝石が、家を建てるほど大きな塊だったら、それはどれほど高く、また重いことでしょうか。だいいち、それを建材にするために加工するのもひと苦労です。それで建物を建てるということは、想像を絶するほど大変なことです。 これに比べると、木や草や藁で建物を建てることなど、実に簡単です。材料は手に入れやすく、建材として加工しやすく、軽いのですぐに建ちます。しかし、このような建物には最大の弱点があります。火です。火事になったらひとたまりもありません。 みことばを読むと、どのように建物を建てたかは「その日」における火の審判が明らかにするとあります。その火の審判はどれほどのものでしょうか? ペテロの手紙第二3章10節をお読みください。 怖ろしいばかりの描写です。しかし、これは現実です。私たちは知らなければなりません。私たちの地上の歩みは、ことごとく、このように火によってさばかれる終わりに向かっているということをです。その火が来たら、この世界に存在するものはことごとく焼き滅ぼされます。 その火の審判は何を明らかにするのでしょうか? 私たちクリスチャンが、イエス・キリストを土台として、いかに人生をともに立て上げてきたかということです。そもそも、木や草や藁のような建材で建物を建てるということは、イエス・キリストを土台にした生き方にしては安易なことであり、土台さえしっかりしていればあとは何をしてもいい、何をしても許される、という発想の産物です。そんな生き方は終わりの日には、何も残してはくれません。 逆に、イエスさまという土台は何にも増して素晴らしいから、その土台にふさわしいだけの犠牲を払って建物を建てようという行動につながっていくならば、それは金や銀や宝石で建物を建てるということになぞらえられます。たいへんなことですが、終わりの日にすべてが火によって焼き払われても、地上にキリストのからだなる教会をしっかり立てた、神の国を拡大した、ということのゆえに、神さまは私たちに対し、「よくやった、よい忠実なしもべだ」という、最大級の賞賛を与えてくださいます。 しかし、もし、イエス・キリストを土台にしたわりには大したことをしなかったならば、それは木や草や藁で建物を建てるようなもので、火で焼き払われておしまいです。 とはいっても、その人は救われないわけではありません。15節のみことばをお読みします。 土台がイエス・キリストであるかぎり、イエスさまに根ざした信仰のゆえに、その人は火をかいくぐって、天国に入れていただけます。しかし、それ以上のものではありません。やはり価値のない建て方をしたならば、それは永遠につづく神の国に益する働きと見なしてはいただけないのです。 しかし、このようなことを言うと、クリスチャンの歩みとはしょせん業績主義なのか、とか、亡くなる直前にイエスさまを受け入れるような回心を体験した人はどうなるのか、その家族が感動したことはどうなるのか、というようなことが気になってはこないでしょうか? しかし問題は、過去私たちがどうだったか、ちゃんと業績を残していたか、それが査定されている、ということではありません。問題は過去ではなく、現在なのです。もし、自分たちが今まで、イエスさまを土台としているクリスチャンとして、その土台にふさわしくない人生を立て上げていたということを知ったならば、私たちのすることは、ああ、こんな人生しか歩んでいなかったから、終わりの日の炎に焼かれてしまう、と、恐れることではありません。 私たちが求めるべきは、14節に書かれているとおりの生き方です。 報い、それは、神さまのために天国をともに立て上げたことを、神さまに認めていただけるという報いです。「よくやった、よい忠実なしもべだ」、この御声をお聞きしたいでしょうか? 今からでも金、銀、宝石を求め、それを加工して建物を建てるがごとく、神の栄光のため、主の御国のために生きることです。チャンスはまだ残されています。そのチャンスのあるうちに、聖徒という神の建物をともに立て上げる働きに献身してまいりましょう。私たちの共同体はこの地上に天国をあらわす存在です。ヨハネの黙示録の21章に描かれた天国の描写、ちょっとだけ見ましょう、18節から21節です。 この天国の麗しさは、そっくりそのまま、天国を地上に実現する私たちのことです。これが私たちなのです。 パウロのことばの意味はこうではないでしょうか? 麗しい金や銀や宝石で建てられているのがあなたたち、コリント教会なのですよ、木や草や藁で建てるような、安易な生き方をどうかやめなさい。 私たちも、終わりの日に神さまの栄光のために何が残せるでしょうか? 生きるチャンスが与えられているかぎり、最高のものを神さまのためにささげ、残す生き方を全うする私たちとなりますように、天国の麗しさを実現する私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 ③最後に、第三のポイントです。神の建物は神の宮です。 16節、17節をお読みします。 私たちは何だとこのみことばは語りますか? そうです、「神の宮」です。私たちがひとつとなって、ひとつの宮、ひとつの神殿を形づくるのです。 コリントにも、創造主なる神さまを祀るものではなかったにせよ、神殿はありました。また、やはりコリントにはユダヤ人がいましたので、エルサレムで神殿を見たことがあるという人も多かったでしょう。神殿のイメージはそれぞれにそれなりにあったはずです。しかし、ほんとうの神殿はあなたたちなのです、あなたたちは、イエス・キリストの父なる神ご自身が神殿とされた存在です。パウロははっきり語りました。 神殿は何があってもけがされてはなりません。ましてや、壊されてはなりません。もし、けがれや破壊を神殿に持ち込むような者がいたならば、その者は制裁されなければなりません。その制裁を下すのは、神さまご自身です。 そもそも、神さまにとって神の宮、神殿をは何を指すのでしょうか? それは、目に見える建物ではありません。 究極的にそれは何を指すのか、さきほどお読みしたヨハネの黙示録21章のみことばの続きを読むと、このようにあります。ヨハネの黙示録21章22節です。 神殿とは聖徒たちであるとともに、イエスさまご自身、神さまご自身です。まさしく私たち教会が、キリストのからだであるゆえんです。絶対に壊されてはならないし、けがされてもなりません。その神殿が聖徒たちであるということならば、神殿をけがし、壊すということは、どうすることでしょうか? そうです、主にあって保たれるべき交わりを乱すことです。教会の中に派閥をつくり、争いを起こすなど、言ってみれば、宮をけがし、壊すということです。私たちが罪を犯してはならないのは、私たちが聖なるキリストのからだの一部分だからです。まさしく、第一コリント6章15節のみことばが戒めるとおりです。 もちろん、それだけではありません。信仰の共同体というものは、それを形づくる私たち一人ひとりの歩みも関わってくるものであり、もし私たちが不従順、不品行の歩みをしているならば、その歩みは自分ひとりの中だけで完結するものではありません。教会という神の宮全体に関わってくるものです。もし、宮のどこかに壊れた場所や、きたない場所があったならば、それで宮全体のイメージががた落ちするもので、それと同じことです。私たちは宮とされているものにふさわしくあるべきです。 私たちが神の宮であるという自覚は、2つの次元で持つべきものです。まずは、私たち一人ひとりが神の宮であるということです。私たちは一人ひとりが、心の中にイエスさまを迎え入れ、イエスさまを宿している存在です。私たち一人ひとりの生活を通して、私たちに関わる全ての人が、私たち一人ひとりの心の中におられるイエスさまに触れ、イエスさまの御名をあがめるようにするのです。 また、私たち教会という共同体が神の宮です。私たちの交わりの真ん中に神さま、イエスさまをお迎えしているわけです。私たちは今こうして、礼拝という共同体においてともに神さまを礼拝しています。また、私たちは礼拝が終わると、それぞれの場所に散っていきますが、それでも私たちは、水戸第一聖書バプテスト教会に属する兄弟姉妹という立場で、ひとつの共同体、ひとつの主のからだ、神の宮をなす存在です。 私たちはどうでしょうか? 私たちの土台はイエスさまであることをつねに自覚し、この岩なるお方の上につねに建物を建てるがごとき生き方を志していますでしょうか? この生き方はひとりひとりがするものですし、また、ともにするものです。 また、私たちはこの、だれよりも素晴らしいお方という土台の上に建てるにふさわしい生き方を目指していますでしょうか? いいかげんに生きることなく、それぞれが、また、ともに、イエスさまという土台にふさわしい最高の生き方を目指してまいりましょう。 そして、私たちはイエスさまをお迎えした、神の宮です。私たちをとおして神さまが礼拝されるのです。ひとりひとりが、また、ともに、神さまを証しする生き方に献身してまいりましょう。 そのようにしてともにこの地において、私たち聖徒たちがふさわしい生き方をすることによって、やがて来る終わりの日に恥ずかしくなく御前に立つものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「パウロに見る『宣教者とは何か』」

聖書本文;コリント人への手紙第一3:1~9/メッセージ題目;「パウロに見る『宣教者とは何か』」  3週間ぶりに第一コリントから学びます。本日は3章の1節から9節のみことばより、「パウロに見る『宣教者とは何か』」と題してみことばに聴きましょう。  パウロのことを「パウロ先生」と呼ぶ牧師先生がいます。主に年配の方です。聖書の人物を「先生」と呼ぶとは、いい呼び方だな、と思ったものですが、新約の登場人物を呼ぶ際に「先生」という呼び名が似合うのは、パウロくらいではないでしょうか? ペテロ先生? ヨハネ先生? なんだかしっくりこないような気がします。やはり「パウロ先生」という呼び方が、いちばんしっくりくるようです。 パウロは、現代人の私たちにも「先生」と呼ばれるだけのことはあるでしょう。その深い神学的解き明かし、そして、その神学に裏打ちされた宣教と牧会の熱心……教会形成に献身した人たちにとっては、学ぶところばかりです。天に召されて2000年ちかくたっても、やはり「先生」と呼びたくなる、信仰の先輩、それがパウロです。 私たちはこのような「先生」になりたいでしょうか? 私たちもみことばを託された者であり、教会を形成する働きを託された者です。私たちは一方的にみことばを聴くだけではありません。みことばを語り、またみことばを守り行う模範を示す者です。そういう意味では私たちもパウロと同じ、宣教をする者、「宣教者」です。 本日の箇所の学びにまいりましょう。パウロはコリント教会の信徒たちを相手にして、嘆いていました。主にあって愛するゆえの嘆きです。しかしこの嘆きをよく見てみると、パウロが神さまから託された「宣教者」としての働き、キリストの御国の福音を宣べ伝えるとはどういうことなのかを知ることができます。3つのポイントに分けて見てまいります。 ①第一に、宣教者とは説教者、みことばを語る人です。   1節のみことばをお読みします。……パウロは、コリント教会の信徒たちに対して「兄弟たち」と語りかけています。兄弟として呼びかけているわけで、あなたがたは私にとってとても親しい存在であるという、親愛の情をこめて呼びかけているわけです。   しかし、実際のところ、パウロはやさしいばかりのことばをかけるわけではありません。そのことばはとても厳しいものです。しかしまずは、パウロは福音宣教の種を蒔いたばかりの頃の彼ら、コリント教会の信徒たちの様子を語っています。  コリントという町に住む人はもともと、福音の何たるかを知っている人たちではありませんでした。パウロはそういう人たちが霊的には幼子、よちよち歩きの初歩の段階であるということを責めているわけではありません。何も知らない人に、神学校で講義するようなレベルのことを語ったって、何がわかってもらえるというのでしょうか。それに、このコリントの人たちの行動は、みことばの基準からははるかにかけ離れたものでした。それをみことばに従ってもらおうとするならば、とにかくコリントの人たちの目線に降りて、噛んで含めるように語らざるを得ません。  信徒が霊的に成長するためには、赤ちゃんがミルクをいっしょうけんめい飲むように、みことばを慕い求める必要があります。新約聖書ペテロの手紙第一2章2節に「霊の乳」とあるとおりです。――生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。――そう、赤ちゃんにとってのミルクのようなみことばを読んで学べば、救われますし、霊的に成長します。しかし、赤ちゃんにミルクを飲ませるには人肌に温めたり、消毒した哺乳瓶に入れたり、飲んだ後は吐き出さないように背中を軽くたたいてげっぷをさせたりするように、とかく手がかかるもので、単に飲ませればいいというものではありません。同じように霊的な幼子にみことばを語るには、相当な工夫をする必要があります。 あらゆる聖書の学問に通じていたパウロはもちろん、コリントの信徒たちにどんなメッセージを語るべきかということはわかっていました。2節のみことばです。……人は成長すれば、ミルクのような口当たりのよいものだけではなく、野菜のような大人の味を、ちゃんと噛んで味わえるようになります。 コリント教会の信徒たちは、もう初歩的なみことばの学びを卒業し、もっと難しく、もっと実際的なみことばを身に着けていてしかるべきでした。ところが実際はというと、その段階からとても遠いところにいました。 このように、指導者の期待に信徒が応えられないという現状に関しては、ヘブル人への手紙の著者が具体的に語っていますので、見てみましょう。5章の12節から14節です。――あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。/乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。/固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。―― うちの母は教会生活を最初、家からとても遠くはなれた教会で始めたこともあり、そのために車の運転免許を取りました。そのような中で信仰を持ち、免許も無事に取れたのですが、母はそのように信仰生活を始めたことを「若葉マークのクリスチャン」と、うれしがっていました。言い得て妙ですが、信仰生活をするにあたって、若葉マークをいつまでも外さないような振る舞いをするようでは困ります。もう、人にみことばを教えられるほどにみことばに通じ、自分自身もみことばを守り行う人になっているべきなのに、いまだに幼い。未信者のお客さんのように、初歩のクリスチャンのように、私のことを扱ってほしい。これでは困ります。 コリント教会にも、まさにこのような成長しない信者たちのもたらす問題が横たわっていたわけでした。それでは、それはどんな問題だったのでしょうか。3節のみことばです。……問題は、ほかの信徒をねたんだり、教会内に争いを起こしたりするような、「聖徒の交わり」に関するものでした。聖徒たちは同じ神さま、同じキリストによって罪赦され、愛されている存在ですから、主にあって愛し合ってしかるべきです。それがねたみ合う、争い合うのもやむなし、となっているならば、そのように神さまに赦され、愛されているということは、その人たちにとっては何の関係もない、ということになってしまいます。 具体的にどのような争いが起きていたのでしょうか? 4節のみことばです。……1章12節でも取り上げられている分派の問題を、パウロはここでも取り上げています。つまり、分派をつくるということは、教会にとってそれだけ由々しき問題である、ということです。 パウロにせよアポロにせよ、そんな彼らに対してみことばを語りつづけることで教育してきました。しかし、彼らはまともに受け止めることをせず、結果このように、分派をつくるなどという形で、その霊的幼さをさらけ出してしまいました。 そんな彼らに対しては、何度でもみことばを語りつづけるしかありません。ご覧ください。パウロは教会開拓に当たって彼らにみことばを語るだけではなく、このような問題を取り扱う必要があるため、今度は手紙という形でみことばを語っています。相手が理解してそのとおりに振る舞えるまで、何度でもみことばを語る説教者でありつづける、これが宣教者としてのありかたです。 私もこうして講壇をお預かりしている以上、みことばを語り告げる責任があります。しかし、みなさまにお願いしたいことですが、どうかこの、みことばを語るという働きを、私ひとりの働きにしないでいただきたいのです。 みなさまは日々お読みになるみことばを通して、どれほど多くのことを教えられているでしょうか? それをほかの兄弟姉妹に、ほかの未信者に語るのです。みことばを聴く者はもちろん霊的に成長しますが、語る者はそれ以上に成長します。みことばを語るという責任が伴い、その責任を果たすように生きるようになるからです。私たちはみことばを聴く者であるのと同時に、お互いが成長してキリストの満ち満ちた身丈にまでになるために、みことばを語る者となりましょう。 第二のポイントです。宣教者とは奉仕者、仕える人です。   5節のみことばをお読みします。……あなたがたは「パウロ派」とか「アポロ派」をつくって、私たちのことを派閥の頭目のように扱っている。しかし、私たちはあなたがたコリント教会の信徒たちが、キリストを信じるために神に用いられる奉仕者である。私たちは、奉仕者にすぎないのだ。  この奉仕者とは、しもべ、です。人は高い地位、尊敬されるような地位につきたがり、そういう人に対して下へも置かない扱いをするものですが、しもべのような立場の人に対しては、ぞんざいに扱って後ろめたさを覚えることをしません。パウロは、そのような世の価値観にどっぷり浸かっているコリントの信徒たちに、私たちは奉仕者にすぎないよ、しもべだよ、と語っているわけです。  そもそも、分裂や分派を起こすということは、相手の陣営よりも自分の陣営の方が上だ、と主張し、よって自分は人よりも偉い者である、と見なすことにほかなりません。しかし、それはこの世の価値観であり、間違っても、神の国にふさわしい態度ではありません。  イエスさまの十二弟子も、しばしばそのように、この中でだれがいちばん偉いか、ということを議論しました。イエスさまにいちばん近くあるべき彼らが、なんともふさわしくないことをしたものです。イエスさまはそんな弟子たちに対し、子どものようになれ、とおっしゃったり、みなに仕える者になりなさい、とおっしゃったり、さらにはご自身がしもべの姿を取って、彼らの足を洗ったりなさいました。子どものようになる、しもべのようになる……それはこの世が目指す生き方とは正反対のありかたですが、イエスさまご自身が、それでこそ偉い、という、逆説的なメッセージをその身をもって弟子たちにお伝えになりました。  神の国を地上に実現する教会において、ほんとうに私たちが目を留めるべき存在は、奉仕者です。奉仕者は、あの時代の華やかな都市、コリントにおいてそうだったように、いまの世においても人から注目されません。私たちもできることならば、奉仕ということはしたくありません。することをするのが当然と見なされるうえに、だれもほめてくれないからです。  しかしパウロは、自分はそういう存在であってもかまわない、自分はそういう存在である、と語っています。そう言えるのはなぜでしょうか? 私たちの主、イエスさまがしもべだったからです。イエスさまがしもべならば、イエスさまにならう私たちクリスチャンは、当然、しもべになれるはずです。  しかし、しもべ、奉仕者と申しましても、教会における奉仕は、この世において「奉仕」と呼ばれているものと、決定的な違いがあります。5節の後半をご覧ください。――主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。――  大事なのは主との関係です。6節を見ると、私が植えて、アポロが水を注ぎました、とあります。コリント教会を畑に見立て、苗を植える働き、すなわち、何もないところに宣教をして教会を開拓する作業そのものを、私パウロがした、そしてアポロが水を注いだ。 すなわち、そのあとの教会形成の働きを私パウロから引き継いで、アポロが教会形成に取り組んだ、それは言うなれば、パウロとアポロが神さまにあってコリント教会形成の役割分担をしたということである。間違っても、派閥づくりをしたわけではない、勘違いはしないでほしい、ということです。   奉仕は報いが与えられないように思えます。それでも励めるのはなぜでしょうか。神さまからのあふれる愛を受けているからです。神さまの愛によって、キリストのからだなる教会の益になるように奉仕したい! あふれる思いです。教会にはいろいろな奉仕の働きがあります。ざっと数えただけでも、日曜学校の教師、受付と案内、音響と録音、導入讃美の演奏、パワーポイント操作、司会、礼拝讃美の演奏、献金の集計と会計管理、そして忘れてはいけないのは、お掃除……みんな、しもべになって働いていらっしゃいます。奉仕者なのです。  世の中の人から見れば、なにもわざわざそんなことを日曜日にしなくたって、と見えるでしょうか? しかし私たちは、これが最高の喜びだからしているのです。神さまに愛されている、その愛の精一杯の表現として実践しているのです。 パウロにしてもそうでした。イエスさまの愛に触れられて、その愛の精一杯の表現として、異国の大都市コリントにて宣教しました。その結果パウロを待っていたものは、コリントの人たちの勘違いでしたが、それでもパウロは偉い人として振る舞わず、私はしもべですよ、奉仕者ですよ、と、コリント教会に告げ、そのとおりに振る舞ったのでした。 弟子たちの足を洗われたイエスさまの愛に触れられて、コリント教会にて奉仕者として振る舞ったパウロは、私たちのモデルです。私たちの目に見えない奉仕は、キリストのからだなる教会を立て上げるということにおいて、決してパウロの働きに引けを取ってはいません。 私たちはときに、教会での自分の奉仕はだれにも評価してもらえない、と思ってはいないでしょうか? 思い出してください。私たちは神さまの愛に触れられて、その愛を表現しているわけです。神さまとの関係で奉仕に取り組みましょう。神さまが私たちの存在を喜んでくださっているから、私たちはキリストのからだなる教会において喜びの奉仕のわざをささげられるのです。そのことそのものに喜び、イエスさまにならい、パウロにならい、奉仕者とされていることに、喜びと感謝をいだいてまいりましょう。 第三のポイントです。宣教者とは神の同労者です。   6節から7節をお読みします。……パウロもアポロもたしかに働いています。奉仕しています。しかし、いちばん大事なのは、成長させてくださる神さまです。  先週、教会のそばにある小学校の隣の田んぼが、稲刈りを行いました。あるのはもう刈り 株だけです。ついこの間田植えだと思ったのに、もう早いものです。田んぼは、田植えと稲刈りの時に特に農家の方が奮闘しますが、四六時中田んぼを監視するわけではありません。ほとんど、稲が成長するに任せるわけです。 作物や果樹によっては、農家の人が殊の外手入れをしなければならない品種もあります。それでも、それがちゃんと育つかどうかは、創造主なる神さまの御手にかかっています。大事なのは成長させてくださる神さまです。   教会もこれと同じものだというわけです。教会開拓をする人、その後の教会成長を担う人、役割は別々ですが、いちばん大事なのは、成長させてくださる神さまです。  8節のみことばをお読みします。……このみことばによれば、パウロとアポロは一つです。ひとつのコリント教会を立て上げるという、おひとりの神さまから託されたひとつの使命を果たすということにおいて、彼らはひとつでした。 とは申しましても、だれかが汗をかいてさえいれば、ほかの人は労さずとも同じ報酬を天の御国にて受けられるというものではありません。パウロが頑張りさえすればアポロは頑張らなくていい、というものではなく、あるいは、パウロやアポロが頑張りさえすればコリントの信徒たちは頑張らなくていい、というものでもありません。キリストのからだなる教会を立て上げる、このひとつの働きにともに取り組むために、自分に託された働きをいっしょうけんめいにすることが大事です。それは、天にて受けられる報酬をいただくにあたって、自分が失格者となることのないためです。 私たちはそのために、できるかぎりの努力が必要です。だれもが天の報酬をいただけるので、そのために努力するのです。私も天の御国にて報酬がいただけるように努力しますが、この水戸第一聖書バプテスト教会をこの地に立て上げたことの報酬を、みなさまもしっかり努力して、同じだけ受け取ってほしいと、切に願います。 9節のみことばです。……私たちパウロとアポロは同労者。これは、2つの意味があります。ひとつは、パウロとアポロの2人は、神「のために働く」ということにおいて、同労者である。もうひとつは、パウロもアポロも、神「と」の同労者である、ということです。 これは、どちらも真(まこと)です。主にある働き人は同労者である……これは今まで語ってきたとおりですが、それは同時に、主にある働き人は、主とともに働く同労者である、言い換えれば、主がともに働いてくださる、主の同労者である、ということです。 この素晴らしさがお分かりでしょうか? このことを説明するには、やはり聖書のみことばをお読みするのがいちばんです。旧約聖書、伝道者の書4章の9節から12節です。――9 二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。10…

「神を『アバ』とお呼びする祝福」

聖書箇所;ローマ人への手紙8:14~16/メッセージ題目;「神を『アバ』とお呼びする祝福」  先週私は、グレゴリー・スレイトンという方の書いた『働き方改革より父親改革』という本を読み終わりました。買ってから何か月も持っていましたが、読めば読むほど考えさせられる箇所が多く、なかなか読み進めることができませんでした。それに、この本は一方的に考えを述べるタイプの本ではなく、読者に考えさせるための質問が豊富に込められていて、その質問にぶつかるたびに、私はいろいろと考えさせられたものでした。  さて、私がそのような『父親改革』のような本を好んで買って読むのは、私がよい父親であろうとするからです。私は正直に申しまして、主のみこころにかなったといえるよい父親のモデルにめぐり合うという経験を、ほとんどしてこないで育ってまいりました。あの人のようにすればよい父親である、聖書的にふさわしい父親である、というモデルが、周囲になかったのです。  さらに根本的なことを申しますと、私にとっての父親像というものは、神さまに対する見方に大きな影響を与えていることを認めなければなりません。私は講壇の上からみことばを語るなどして、聖書の語る神さま、天のお父さまとはどのようなお方かを伝えてまいりました。しかし、その当の自分が、ひょっとしてまだまだ律法的なイメージで神さまをとらえてはいなかったか……それは、自分にとっての父親という存在は、厳しいばかりのものと捉える存在だったからではないか……あらためて思わされるものです。  そこで今日は、私も含め、神さまが私たちに願っていらっしゃる、ご自身とのふさわしい関係を私たちが結ばせていただくために、特に「神さまが私たちの父であること」にスポットを当てて学んでみたいと思います。今日はいつもとパターンを変え、みことばを本文に沿って解き明かす方法ではなく、主題を先に決めてみことばを学ぶやり方で学びたいと思います。「神さまが私たちの父であること」、これが主題です。  私たちが「父」というと、それには大きく分けて2つの意味があります。ひとつは、○○の父、といったような、漠然とした概念として、何かを生み出した偉大な男性、という意味です。児童福祉の父、石井十次(いしいじゅうじ)、というような使い方をします。  もうひとつの「父」は、言うまでもなく、私たちにとって身近な「父」、つまり、○○君のお父さん、○○ちゃんのパパ、という意味の、だれかにとっての肉親の父親、ということです。本来なら「父」とは、こちらの意味です。 しかし、王族のような一部の例外を除き、多くの場合、これはきわめてプライベートなものです。たとえば、いま石井十次のことを挙げましたが、石井十次にはお嬢さんがいます。岡山の大原美術館の基礎をつくった、洋画家の児島虎次郎の奥さんになった人です。この方から見た場合の十次は、「児童福祉の父」ではなく、単なる「私のお父さん」です。  私たちは神さまのことを、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神という、三位一体のお方であると知っています。それで私たちは神さまを「父なる神さま」ですとか、「天のお父さま」とお呼びするわけですが、もしかして私たちは、「○○の父」というような、きわめて漠然としたイメージで、父なる神さまをとらえていないでしょうか? 私たちにとって父なる神さまは、「私のお父さんだから」、父なる神さまという感覚はありますでしょうか?  たとえば、私たちが神さま、特に父なる神さまに向かって呼びかける場合、普通、どのように呼びかけていますでしょうか?  「神さま」でしょうか? いい呼びかけです。私たちはそのように呼びかけて、かぎりない安心感をいだくのではないでしょうか? 天地万物を創造された唯一のお方、偉大なお方は、どこにでもおられ、そして、今、ここにおられる。そんな安心感を、私たちは「神さま」という呼びかけに抱くものではないでしょうか? 日本のキリスト教会における信仰の先輩たちは、そのような信仰をもって「神さま」とお呼びしてきたはずで、そこには、同じ「神さま」ということばを使おうとも、八百万の神々と創造主をごっちゃにするような節操のなさは存在しないはずです。  あるいは私たちは「天のお父さま」と呼びかけていますでしょうか? いい呼びかけです。「天のお父さま」というと、天の偉大な御座に座しておられる、偉大な万物の父、という印象を持たないでしょうか? むかし、いいおうちのお坊っちゃんやお嬢ちゃんが、膝をついて頭を下げて「お父さま」と呼びかけるようなイメージに似ているかもしれません。  私が教会に通いはじめてしばらくの間、それは中高生の頃のことですが、その頃私は神さまに対しては「神さま」とお呼びするか「天のお父さま」とお呼びするものと決まっている、と思っていました。実際、ときどき訪問するよその教会でも、普通にそう呼んでいました。  しかし、大学に上がり、学生宣教団体のキャンパス・クルセードに出入りするようになって、驚いたことは、学生やスタッフが神さまに対して呼びかけるそのことばでした。 こんな風に呼びかけるのです。「お父さま」……「天の」もついていません。「お父さま」、こう言ってお祈りを始めるのです。最初はちょっとぎょっとしました。これがキャンパス・クルセードという宣教団体独特の文化なのだろうか……。  さらにびっくりしたのは、別のスタッフのことば、「お父さん」……いいんですか!? こんな風にお呼びして! 圧倒されましたが、実は私はこのスタッフから、聖書の知識やクリスチャンとしての在り方など、とてもたくさんのことを教えていただいてもいたので、だんだんと、このスタッフが持っておられる神さまとの親密さを、心底うらやましいと思うようになりました。  うらやましいと言えば、大学に上がって韓国語を学ぶようになって、だんだんと韓国教会との交わりを持つようになり、韓国の民族や韓国語が、いかに聖書の教えと親和性を持っているか、ということを知るようになり、ああ、これだから韓国教会はすごいな、とうらやましさを覚えるようになりました。そのうらやましさをおぼえた理由を、いくつかお話ししたいと思います。  みなさん、韓国語で「アンニョンハセヨ」といえば、「こんにちは」という意味なのはご存知だと思います。朝なら「おはようございます」、夜なら「こんばんは」の意味で、一日中いつでも使えます。このことばの「アンニョン」は「安寧秩序」の「安寧」と書きます。これは「平穏無事」という意味でもあり、つまりは「平安」です。「ハセヨ」は、「~でありなさい」「~しなさい」という意味で、ということはこれは「平安がありますように」という意味にもなります。お分かりですね、これは聖書の世界のあいさつ「シャローム」と同じです。韓国語とはそういうことばです。  しかし、それ以上に、日本人としてかなわんなあ、と思うことばが、まさに今日の主題にかかわってくることばで、それは「アッパ」ということばです。お分かりの方はお分かりだと思います、これは「お父さん」、というより「父ちゃん」ですとか「パパ」という意味のことばです。ことばが話せるようになった赤ちゃんがお父さんに呼び掛けることば、それが「アッパ」です。  なにかに似ていると思いませんか? はい、「アバ」です。イエスさまは御父に、ゲツセマネの園の祈りにおいて「アバ、父よ」と呼びかけられた、とマルコの福音書にあります。あの「アバ」は、まさに幼児がお父さんに呼びかける「パパ」ですとか「父ちゃん」なのです。イエスさまがそのように御父に呼び掛けられた意味についてもあとで扱いますが、ともかく「アバ」は「父ちゃん」「パパ」つまり、「アッパ」なのです。  ただし、韓国語の聖書では、日本の新改訳聖書と同じように、「アバ」と表記します。韓国語でも「アバ」なのです。しかし、私は韓国人の牧師先生のメッセージを今までずいぶん聴いてまいりましたが、先生の中には、「アバ」というべきところを「アッパ」と、しかも感情を思い切り込めて「アッパー!」とおっしゃる方がおられました。韓国でならまだしも、日本にある教会でもそういうメッセージをなさる先生がいるのを見て、私はなんというか、韓国語という言語に、日本人のクリスチャンとして、ほとんど嫉妬にも近い感情をいだいたものでした。なにしろ日本語の「パパ」も「お父さん」も、「アッパ」が「アバ」に似ているほどには発音がまるで似ていません。  そこで、ここからが本論ですが、父なる神さまに対して大胆にも「アバ」と呼びかけられたオリジナルのお方は、もちろんイエスさまです。先ほども申しましたが、イエスさまはゲツセマネの園、十字架を前にした祈りにおいて、血の汗を流してお祈りされましたが、マルコの福音書には特にこのとき、「アバ、父よ」と呼びかけられたことが記録されています。まるで小さな子どもがお父さんに呼びかけるように、イエスさまはお父さんの名を呼ばれたのです。  現代にクリスチャンとして生きる私たち、神さまが三位一体のお方であり、父なる神さまであると理解している私たちにとっては、神さまを父とお呼びすることは特段おかしなことではないように感じられるかもしれません。しかし、ヨハネの福音書5章18節をご覧ください。イエスさまが父なる神さまを「わたしの父」とお呼びすることは、神の民の中においては、絶対にあってはならないことだったのです。「わたしの父」というイエスさまのおことば、この当たり前すぎることばは、ユダヤの宗教指導者たちを震え上がらせるに充分でした。何を恐ろしいことを口にするのか! こんなやつを生かしておくこと自体が神への冒瀆だ!  もちろん、そんなことを思う者こそが、神を冒瀆していた者でした。どれほどの冒瀆を行なったか? 神の子イエスさまを十字架につけるほどの冒瀆です。そして、神の霊なる聖霊をけがれた霊とみなし、そう口にする冒瀆です。決して赦されず、永遠の罪に定められる冒瀆です。  しかし、この決してけがされてはならないお方、聖霊なる神さまはどのようなお方なのでしょうか? ガラテヤ人への手紙4章6節をお読みしましょう。……御霊、聖霊なる神さまとは、「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊であると書かれています。まさに、御父に「アバ、父よ」と叫ばれた、イエスさまの霊、それが御霊です。 その霊が人に注がれるということは、御霊が人をして「アバ、父よ」と叫ばせられるとも言えるわけです。それが、私たちが父なる神さまを「アバ、父よ」とお呼びする御力です。  先ほどお読みいただいたローマ人への手紙8章15節のみことばは、そのことをさらにストレートに語っています。……まさにこの箇所の語るとおり、私たちは御霊によって、アバ、父、と叫びます。イエスさまが祈られるように、大胆に御父の御前に出ていいのです。イエスさまが御父の御怒りを十字架で受け止めてくださった今や、もはや御父を恐れることはありません。「お父さーん! アバー!」イエスさまのように、その御胸に飛び込んでいいのです。  さて、イエスさまは絶えず永遠に、御父と交わりを持っていらっしゃるお方です。しかし今から2000年前、地上において生活されたときは、そのような御父との交わりのうちに、サタンが妨害を仕掛けてくることが何度もありました。神に仕えるとは名ばかりの宗教指導者や、愚かでなかなか変わってくれない弟子たちとつきあうこと……十字架に至っては、御父との交わりの断絶に至る、御父への完全な従順という、途方もない不条理でした。イエスさまは御父への従順を果たすため、どれほどの御力を必要とされたことでしょうか。その御力に満たされるためにも、まだ朝早く暗いうちに起きて、だれにも妨害されない時間と場所で御父との交わりを持つことは、イエスさまにとって必要なことでした。  しかし、イエスさまにとっての朝のこの祈りは、いわば「宗教行為」のような「義務」ではありませんでした。むしろ喜んで御父の御前に出ていかれる時間だったと考えるべきです。  お祈りから喜びが奪われたらどうなるでしょうか? ましてや、毎朝のお祈りにおいては? 私たちも実際にトライしてみればわかることですが、このような早天の祈りがもし「お勤め」のごとき宗教行為となってしまったならば、途方もなく苦しいことになります。  私はかつて、いくつかの教会で義務として早天祈祷に毎日出ていたものですが、それはきわめてきつい体験であり、その頃その早天祈祷で祈ったことがどれほど応えられたか、はっきり申しまして、今となってはほとんど思い出せません。  早天祈祷が大事なのは知っている、なぜならばイエスさまがなさったお祈りにならうことだから、そうわかっていても喜びが全くありませんでした。言うなれば私にとっての早天祈祷は、宗教行為以上の何ものでもなかったわけです。イエスさまのように、御父を「アバー!」とお呼びするような生ける神との交わりのない時間です。 ほかの方はわかりませんが、少なくとも私にとってははっきり申しましてその時間は、御霊の満たしもお働きも体験できない時間でした。  しかし、2013年の12月末、私は水戸第一聖書バプテスト教会とつながりを持つようになったとき、聖霊なる神さまは私の心に大いなる飢え渇きを起こしてくださいました。私は毎朝4時20分に起き、翌年2014年の7月に日本に帰るまでの間ほぼ毎朝、家の近くにある教会に通って早天祈祷に出席しました。このとき私は長年夢見てきた、日本での教会の働きに専念するという夢がいよいよかなうことを前にして、ひたすら祈りました。神さま、私は日本で牧会するには、あまりに無力です! 力をください! このときは私は間違いなく、父なる神さまに「アバー!」と呼び求める信仰が育っていたと思います。  イエスさまにとっての朝のひそかな祈りは、ミニストリーのエネルギーを得るための儀式などというものではありません。もっと単純なものだったと考えるべきです。世のしがらみの中で、人として生きられるゆえの肉体の限界の中で、御父との時間に飢え渇き、思い切り甘えられるように「アバー!」と、その御胸に飛び込んでおられた、イエスさまにとって朝のお祈りとは、そういう時間だったと考えるべきではないでしょうか? だとすると、早天祈祷というものは、肉体に鞭を打って眠い目をこすってひたすら祈りに徹する荒行(あらぎょう)、などととらえるのは、見当違い、ということになります。 イエスさまは、それしかなかったからお祈りされた、というべきです。あたかもそれは、いのちをつなぐために食べ物を食べ、水を飲むのと同じことです。御父に祈らなければ、御父の御胸に飛び込まなければ生きられないから、イエスさまはお祈りされたのです。そこから御国の福音を宣べ伝える力、弟子を訓練する力、ついには十字架におかかりになる従順の力に、イエスさまは満たされてゆかれたのでした。   私たちはあまりにも祈っていません。神さまに拠り頼まないでも生きていられるなどと思うほど、私たちは思い上がっています。イエスさまをご覧ください。イエスさまはどれ一つとして、ご自身のご意志、またお力で行われたことなどなく、御父に祈られ、御父に示されるとおりに、御父に拠り頼まれながら、すべてのことを行われました。  神さまに祈らなくてもいいなんて、いったい私たちはイエスさまよりえらいのでしょうか? 私たち凡人、弱い者、愚かな者が祈らないで、何ができるというのでしょうか? 祈らないでことをするなら、私たちは肉に従って生きるしかなくなります。肉に従うということは、肉を利用して私たちを操作するサタンに従い、サタンの心を成し遂げることを意味します。そんなことでいいのでしょうか?  もっといえば、私たちにとって神さまとは「アバー!」とその御胸に飛び込まないでもいいほど、遠いお方なのでしょうか? 神さまは私たちを子どもとしてくださったのに、子どもである私たちが、神さまの御胸に飛び込まなくていいのでしょうか? 子どもとして神さまの御胸に飛び込むことは、決して「甘えている」と非難されるべきことではありません。 「甘えている」と非難すべきことはむしろ、神さま以外のもの、テレビでもゲームでもインターネットでも、あるいはお酒でもギャンブルでも、そういう快楽におぼれて、決して神さまのほうに行かないことではないでしょうか? そんな私でも神さまは見過ごしにしてくださる、赦してくださる、と神さまを甘く見ること、これこそが神さまに対する非難すべき「甘え」ではないでしょうか?  というわけで私たちは、イエスさまの霊なる御霊を受けて、「アバ、父」と大胆に神さまにお近づきする権限をいただいたのですから、堂々と「アバー!」と近づくべきです。しかし「アバー!」ではちょっと、聖書原語のカラーが強すぎるとお思いでしょうか? なら、「お父さん」でどうでしょうか?  今からちょっと祈りましょう。 これまで私たちは「神さま」とか「天のお父さま」とお呼びしてきました。それを「お父さん」と呼びかけてみてはいかがでしょうか? なにしろ「アバー!」なのですから。さらに言えば、祈りの途中で「あなた」ですとか「あなたさま」と呼びかける、その呼び方も考えましょう。私たちは自分の父親に「あなた」とか「あなたさま」とは言いません。「お父さん」と言うでしょう。「うん、お父さんの言うとおりだね」ですとか。  だからお祈りの中でも、たとえば、「神さま、私はあなた(さま)のみこころに従います」と今まで祈ってきたそのことばを、「お父さん、私はお父さんのみこころに従います」というように祈ってみてください。大丈夫です。だって、「アバ」なんですから。ほんとうは「お父さん」でもまだ堅いぐらいですが、「パパ」じゃいくらなんでもあれですから、まあ、それくらいにしましょう。さあ、一緒にお父さんに祈りましょう。しばらく祈りましょう。神さまが「アバ」、いや、「お父さん」と呼びかけていいお方であることを、ともに体験しましょう。  いかがでしたか? なかなかことばが出てきませんでしたか? 恥ずかしかったですか? それとも、もっと神さまを身近に感じられましたか? 私たち全員にとって、神さまはお父さんです。アバと呼びかけるべきお方です。私たちには、神さまをアバ、お父さんとお呼びかけできるイエスさまの霊、聖霊が注がれているのですから、安心して「お父さん」と呼んでみてください。そしてそうお呼びかけしても平安なほど、近しい交わりを神さまと毎日分かち合ってまいりましょう。

兄弟姉妹を愛するために

聖書箇所;ヨハネの手紙第一2:1~11(新p478)/メッセージ題目;「兄弟姉妹を愛するために」 私たちクリスチャンは、教会外部の人たちからどのように見られているでしょうか? えらい人でしょうか? きよい人でしょうか? もちろん、そんなたいそうな人たちではないことなど、私たち自身がいちばんよく知っていることですが、以前教会に通っていなかった頃の私の経験から言わせていただければ、クリスチャンという存在には、一般の人たちはそのような、一定のイメージを持っているようです。  イエスさまは、人々が私たちクリスチャンに対して抱くイメージを特徴づけるものは、私たちクリスチャンの兄弟姉妹の間の「愛」である、という意味のことをおっしゃいました。ヨハネの福音書13章34節と35節をお読みいただきたいと思います。……それでは、私たちはいかにしてその「愛」を実践していくものなのでしょうか? ヨハネの第一の手紙から、この「愛」について、私たちは学んでいきたいと思います。  まず1節から見てまいります。……最初に、私たちは「罪を犯さないようになる」ことが要求されています。なぜでしょうか? 私たちは、罪を犯すことのふさわしくない存在にされているからです。エペソ人への手紙5章8節には、このように書かれています。……私たちは、光であられるイエスさまを心の中にお迎えしているので、私たちもまた、イエスさまという光を照らす「光」となりました。私たちはその光を照らす、神の子どもらしく歩む必要があるわけです。  コリント人への第二の手紙6章14節には、このようにあります。……光の子どもである私たちにとって、暗闇は似合わないのです。私たちは、暗闇の勢力に仲間入りすべきではない存在なのです。 そういうわけで罪はどんな罪でも避けなければなりません。それでも私たちは、罪を犯してはしまわないでしょうか? 時に、暗闇のわざに仲間入りしてしまいはしないでしょうか? そんな私たちが罪を犯さないようになるとは、どういうことでしょうか? 1節のみことばの後半を改めてごらんください。私たちには、御父の御前で私たちのことを弁護してくださる、イエスさまがいらっしゃいます。  イエスさまご自身がとりなしてくださるのです。何と感謝なことでしょうか! それでは、イエスさまはどのようにして、私たちの罪をとりなしてくださるのでしょうか? 2節のみことばです。……宥めのささげ物、とあります。宥めのささげ物については、ローマ人への手紙3章25節と26節に書かれています。  神さまはまず、人々のあらゆる不敬虔と不義に対し、怒っておられます。その怒りがもし人にそのまま注がれたならば、人はひとりとして生きることはできませんでした。しかし神さまは、人を愛しておられ、人がひとりとして滅びることを望んではいらっしゃいませんでした。その神さまの怒りを宥めるささげ物……それは、神のひとり子イエスさまが十字架にかかって血潮を流してくださることだったのです。  本来ならば人の側で、神の怒りを宥めるささげ物を供えなければならなかったのではないでしょうか。しかし、人は不完全であり、かつ罪深いので、どんなものを用意したとしても、完全な神さまのみこころにかなうささげ物を用意することはできませんでした。 このままでは人は神さまの怒りに触れて滅ぼされてしまいます。そこで神さまの側から、宥めのささげ物を備えられました。神さまが供え物とされたのは、完全なるお方、イエスさまだったのです。そのささげ物は、「私たちの罪だけでなく、世全体の罪のため」とあります。すべての時代のすべての人にとって有効なものです。   ここに、人に対する神さまの愛を見ることができます。神さまは人を愛しておられることを、ご自身のひとり子を十字架におつけになるということをとおして、人の前に示してくださったのです。  そのようにして神さまの愛をいただいた私たちのすることは何でしょうか? 3節です。  ……神さまを知っているとはどういうことでしょうか? ただ「神は父、子、御霊の三位一体のお方である」とか「神は愛である」とか、そういうことを知っていればいいのでしょうか? もちろん、それもとても大事なことですが、それで完結してしまうならば、単なる「情報」にすぎません。3節のこのみことばは、神を知っていることは、「神の命令を守る」ことによって証明されると語っています。ということは、聖書に対する知識がいっぱいあっても、生活がとても主のみこころにかなわないような人は、実は神を知っていることにはならない、ということがわかるわけです。 続く4節にはこのようにあります。……この4節のみことばをお読みして、私たちはどのように感じたでしょうか? 「私は神の命令を守っているから、神を知っていると言っても偽ってはいない」と思いますか? もしそうお思いでしたら、1章の、8節と10節をお読みください。……そうです、私たちはどこかで罪を犯しているものです。神の命令に反する生き方をしている者、それが私たちです。うぬぼれてはなりません。 ならば、「ああ、自分は神を知っていたつもりになっていた、実際はご命令を守らないことばかりだ! 自分は真理がうちにない、偽り者だ!」と思いますか? もしそうならば1節のみことばに戻りましょう。私たちのその罪は、イエスさまが十字架によって赦してくださいました。私たちは、神の恵みによって罪のさばきから守られている存在です。自分の罪深さに思いを巡らすよりも、イエスさまの完全な赦しに信頼していただきたいのです。 5節のみことばにまいります。……このみことばは何を語っているのでしょうか? みことばを守る人には、神の愛が実現している、ということです。誤解のないように申し上げますが、みことばを文字どおりに守ることで神の愛を獲得するのではありません。言い換えれば、私たちがみことばを守り行う理由は、神さまに愛してほしいからではありません。 神さまがすでに自分のことを、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださるほどに愛してくださっているから、その愛に応えて、みことばを守るのです。神さまが愛しておられるその愛を感じて、みことばを守り行いたくてたまらなくなるのです。そのようにみことばを守りたくてたまらない人は、間違いなく、神さまのうちにいます。私たちが目指すべきは、このような人ではないでしょうか? そういうわけで、神さまのうちにとどまることが私たちの目標ですが、どのように生きる必要があるのでしょうか? 6節のみことばです。……キリストが歩まれた歩みは、4つの福音書に記されています。そのイエスさまの歩み。これこそ、私たちの目指すべき歩みであるというわけです。このような歩みは、イエスさまを信じバプテスマを受ければ、ひとりでにできるようになるものではありません。だからといって、私たちが人間的な努力を積み重ねればできるようになるというものでもありません。私たちの力でイエスさまのような歩みができないことを素直に認め、神さまの力に拠り頼みつつ、神さまの恵みの中で少しでも努力を重ねていく必要があります。 そのように、キリストに似た者になるために私たちは、毎日聖書を読んで、イエスさまがどのように歩まれたかを常に学ぶ必要があります。この取り組みは、ひとりでするものではありません。教会の兄弟姉妹でともに取り組むものです。教会のみなさまでともに成長してまいりたいものです。 さて、このようにヨハネが読者に命じていることは、どのような性質を持っている命令でしょうか? 7節と8節をお読みします。……7節ではこれが古い命令であると言い、8節では新しい命令であると言っています。いったいどういうことでしょうか?……まず7節では、古い命令とは「あなたがたがすでに聞いているみことば」のことであると書かれています。 この時代におけるみことばとは、今で言う旧約聖書です。いうまでもなく旧約聖書の時代には、キリストはイエスさまというお名前では登場していません。しかし、神さまの示された人間の守り行うべき基準については、旧約聖書には書かれています。その意味で、使徒ヨハネはこの命令を「古い命令」と語ったのです。 この「古い命令」は、人間的な努力で守り行えるものではありませんでした。しかし、時が満ちて、イエスさまがこの地上に来られました。旧約に啓示されていた救い主のおとずれは、イエスさまが来られたことによって成就したのです。そしてイエスさまを超える啓示は、もはや存在しません。イエスさま以上に新しいお方はいないのです。このイエス・キリストの恵みによって、この古い命令は「守り行わなければならない」ものから「守り行いたい」ものへと昇華されました。 ゆえに、キリストのように歩めと説くこの命令は、旧約のみことばに根差している分、古い命令であり、永遠に新しいお方であるイエスさまゆえに、新しい命令なのです。古い命令であると同時に新しい命令である。ということは、この命令はどの時代にも通用する、時代を超えた真理であるということになります。「それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です」と語っているとおりです。 私たちはその真理の光に照らされるべく召された者です。しかし、実際の私たちの姿はどうでしょうか? 9節のみことばをお読みします。 ……この世の中で、イエスさまという光にあずかることほど素晴らしいことはありません。私たちはそれを知っているから、教会にも来ますし、聖書も読みますし、お祈りもします。しかしこのみことばは、兄弟を憎んでいる者は今もなおやみの中にいる、つまり、光の中にはいない、と語っています。 私たちの心が問われています。私たちにはだれか、憎んでいる人がいないでしょうか? もし、だれかのことを憎んでいるならば、表面的にどんなに取り繕ったとしても、やみの中にいるという事実を覆すことはできません。 10節を飛ばして先に11節をお読みします。……このみことばは、兄弟と呼ばれている人、つまり、神さまが私たちの隣人としてそばに置いてくださっている人を憎む、そのメカニズムを語っています。それは、そのように兄弟を憎む人は、神の光の中にとどまるよりも、神の光に照らされないほうがいいと思っている領域、すなわち闇というものを心の中につくり出し、その闇の中にあえてとどまろうとするから、と語っています。その結果、その闇の力のゆえに、兄弟を憎むということをしてしまうのです。   逆に言えば私たちは、兄弟を憎む心を温存することによって、私たちの心はどす黒いやみが支配するようになります。口ではいかにも立派なことを言っていようと、実際に兄弟を憎んでいるならば、その人は神の光に照らされることを拒んでいるということになるのです。 そんな私たちはどうすればいいのでしょうか? 10節のみことばに答えがあります。そうです、神の光の中にとどまるためには、とにかく兄弟を愛すればいいのです。しかし、こう申しますと、非常に事は簡単に済みますが、私たちの実際の姿はどうでしょうか? すぐそばにいる人を愛していると、心から言えるでしょうか? 夫婦の間で衝突があったらどうでしょうか? 親子の間ではどうでしょうか? 嫁姑の間ではどうでしょうか? 教会の兄弟姉妹の間ではどうでしょうか?  このようにひとつひとつ見ていくと、私たちはみな、神さまが定めておられる「愛」の基準からとても遠いところにある……それが私たちの姿ではないでしょうか? しかし、私たちの目指すべきは光の中にとどまることであるのは変わりません。私たちに愛がないことを悟らされたならば、どうすればいいのでしょうか? そうです、このような者を御父の御前でとりなしてくださる、イエスさまのみもとに行けばいいのです。 そもそも、完璧に隣人を愛する歩みができた人なんて、イエスさま以外にいらっしゃいません。私たちの愛という歩みはどこかが不完全なものです。しかし、イエスさまが愛されたように隣人を愛するならば、私たちの愛は完全な愛、神さまのみこころにかなう愛に近づくのです。それこそが、神さまの光の中にとどまる歩みです。 もう一度、メッセージの冒頭でご紹介したみことば、ヨハネの福音書13章34節と35節をお読みします。……私たちが互いに愛し合うためには、まず、イエスさまがどんなに私たちのことを愛しておられるかを知る必要があります。だから私たちは聖書をいつもお読みするのですし、また、お祈りをするのです。その結果、教会という場で奉仕のわざをとおして、愛の実を具体的に結んでいくのです。 そのようにお互いが、キリストの愛によって愛し合う姿……私たちにとってこれ以上、この世に対して、神さまを証しする生き方はありません。私たちが互いに愛し合っているならば、目に見えないイエスさまというお方に従っているんだなあ……ということは、イエスさまというお方は実際にいらっしゃるんだなあ……このお方は信じ従うべきお方なんだなあ……ということが、世に対して伝わっていきます。いくら論理的に聖書の正しさを証明しようとしても、私たちが互いに、イエスさまの愛によって愛し合っていなければ、世の中にどうやって、神さまが信じ受け入れるべき真理なるお方であることを伝えることができるでしょうか。 そうは言いましても、何度も申し上げているとおり、私たちはなかなか愛することのできない者です。ならば、そのような私たちであることを正直に主の御前に認め、赦していただきましょう。ヨハネの手紙第一の1章の9節をお読みします。 兄弟姉妹を愛さないということも、罪です。その罪を抱えているかぎり、私たちは暗闇の中に今もなおいることになります。暗闇の中にとどまっていてはいけません。私たちは主の光に導かれ、主の光へと向かって歩むように召された存在です。主の光の中を歩んでいる証拠は、互いに愛し合うという形で実を結びます。 私たちがいま生きている世の中は、ソーシャル・ディスタンスということが言われています。同じ物理的な空間をともにする形で愛し合うことには、ハンディがあるのが現実です。もちろん、この礼拝堂に日曜日にやってきて時間を共有するのがベストにはちがいありませんが、それができる状況になくて悩んでいる方がおられるのが現実です。 しかしそれでも、私たちは愛し合えないでしょうか? 私たちの生きる社会は幸い、文明の利器というものがあります。私たちには電話もありますし、手紙もあります。ラインもあります。私たちが愛し合う共同体の中にいることを、文明の利器を用いることで確かめるのも一つのありかたでしょう。それはちょうど、使徒のヨハネの時代に手紙を介してみことばをやり取りしたのと同じことと言えないでしょうか? 信仰の家族として愛し合う共同体を形づくるうえで、いまはかなり制限が加わって難しさを覚えますが、このようなときだからこそ互いのために祈り、励まし合い、力づけ合う共同体として成長するものとなりますように、そして、その歩みが神さまを示すまたとない証しとしてこの世界に伝わりますように、私たちの群れに祝福があるようにお祈りいたします。

三位一体の神の知恵

聖書箇所;コリント人への手紙第一2:6~16(新p328)/メッセージ題目;三位一体の神の知恵  先々週のメッセージは、フォーク歌手早川義夫のレコード「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」をもじって、「知恵あることはなんて愚かなんだろう」と題して、この世の知恵と神の知恵を対比して学びました。先週はさらに進めて、その愚かさの正体についてキリスト者にとっての弱さの正体とともに学び、「愚か」とは選択するもの、十字架につけられたイエス・キリストにこだわることであるということを見てまいりました。 今日は第一コリント2章の後半の方に入ってまいります。第一コリント2章は後半に入ると、弱さや愚かさということを扱っていた内容から、その反対の、知恵ということを扱う内容へと変わります。 パウロはここで、この世の知恵ではない、まことの知恵を語っています。それでは、ここでパウロが語るまことの知恵とはどのようなものでしょうか? 3つのポイントから見てまいりたいと思います。 第一のポイントです。まことの知恵とは、神に属するものです。 6節をお読みします。……先週も学びましたとおり、パウロはコリント宣教を始めたばかりのときには、あえて十字架のイエスさまのことしか知らない、いわば「愚か」な者になるという選択をしました。しかしこの6節をご覧ください。パウロは、成熟した人たちの間では知恵を語ると言っています。 知恵といっても、ここにあるとおり、この世の知恵でも、この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもないということです。この世の知恵とは、一般人が常識として普通に身に着ける知恵です。支配者たちの知恵とは、社会の支配者が民衆に啓蒙するように教える知恵であり、その支配者も過ぎ去っていくということは、この知恵はきわめて限定的です。そのどちらも、この世に属する知恵であるという点では変わりがなく、パウロの語る知恵は、そのどちらでもない、ということです。 それでは、パウロは成熟した人たちの間では、どのような知恵を語るのでしょうか? 7節のみことばです。……そうです。知恵とは、隠された神の奥義です。神に属するものです。これこそ、成熟した人たちの間で語られるべき知恵です。 それでは、クリスチャンにとっての成熟とは何でしょうか? 何によって測られるのでしょうか? パウロが、この世に属する知恵を語らないと言っている以上、この世の知恵に満たされていることがクリスチャンにとっての成熟ではないことは明らかです。この世の知恵を充分身に着けているからと、その人が成熟したクリスチャンであるとはかぎらないのです。クリスチャンにとっての成熟の度合いは、神さまをどれだけ愛し、隣人をどれだけ愛しているかにかかっています。その前提として、イエスさまが自分のことをどれだけ愛していらっしゃるかを日々の主との交わりの中で体験し、その感謝の表現を、生活の中で具体的に行なうのです。 そのように成熟することで、神の奥義を受け入れるにふさわしく成長します。そしてその一方で、神の奥義を学んで成長することによって人は成熟するともいえます。私たちは、普通の人には難しいように思われる隠された知恵、奥義を普通に受け入れることができます。なぜならば、この7節のみことばによれば、この奥義の知恵は、私たちの栄光のために、神さまが世界の始まる前からあらかじめ定めておられたものであり、それはことばを換えると、世界の始まる前から神さまは、私たちを選び、奥義の知恵が理解できるようにしてくださっていたということだからです。私たちは、人の目には難解にも愚かにも映るみことばを、素直に理解できる力が備わっているのです。 しかし、この知恵は、先週も学んだとおり、強い者、知恵ある者、この世界の主導権を取るような者には理解できない仕掛けになっていました。彼らは、自分の罪を明らかにするイエスさまのことを決して受け入れず、ついには十字架につけてなぶり殺しにしました。神の子をのろわれた存在と見なしたのです。神の子を否定する。それが、この世の力ある者、知恵ある者のしたことでした。世は自分たちの肉の力、罪深い力によっては、神さまの奥義、知恵を知ることはなかったのでした。 しかし、9節をご覧ください。……人の知恵によっては到底理解できなかったことを、理解する力を、神さまは特別な人に与えてくださいました。どんな人に対してでしょうか? 神を愛する人たちにです。 神さまを知ったら、神さまを愛するようになってしかるべきです。ああ、こんなにも大いなる創造主が、私に目を留めていてくださっているなんて! こんな小さな者を罪から救うために、イエスさまを身代わりに十字架につけてくださっただなんて! 毎日、何年繰り返し読んでも読み切れない、こんなに分厚いラブレターを書いてくださっただなんて! ひとつひとつのみことばによって、ときどきにささげる祈りによって、私たちは神さまの愛を知り、ますます神さまを愛するようになります。 そのように神さまを愛することにおいて成長するならば、神さまはみことばに奥義として秘められたその知恵を、私たちに教えてくださいます。私たちはときに、神さまのみこころがわからなくなることはないでしょうか? 聖書を読んでいても、何を言っているのかわからない。いや、わかっているようには思えても、それがいまの自分とどんな関係があるかわからない。そんなとき、私たちにはすることがあります。神さまを愛していることを確認するのです。あえて、神さま、私はあなたさまを愛しています! と告白するのです。 サタンは言います。特に、私たちが霊的に弱っているとき、サタンの声が聞こえてこないでしょうか。こんなに神のみこころのわからないおまえなんか、神を愛していない、と、嘘を吹き込みます。しかし、そのような攻撃が臨むような、霊的に弱っているときこそ、神さまを愛していることを告白するのです。神さま、いま私はあなたさまのみこころを計り知ることができないでいます。けれども私は、あなたさまを愛します。あなたさまを愛する私に、あなたさまはみこころをお示しくださり、何をどうすればよいかを必ず、あなたさまの時にしたがって教えてくださると信じます。 そう告白していいのです。私たちは、みこころを必ず示してくださる神さまとひとつとなっているということを、少なくとも教えていただいています。その知恵を得させるように、神さまは世界の始まる前から私たちのことを選んでくださいました。自分は選ばれている、奥義を授けていただくにふさわしいものとしていただいている、そのことに感謝して、今日も、そしてこれからも、神さまの知恵を求め、神さまの知恵に満たされてまいりましょう。 第二のポイントです。第二に、まことの知恵とは御霊によるものです。 10節のみことばです。……人がまことの知恵、神の知恵を知ることができるのは、神さまが御霊によって、その知恵を啓示してくださるからです。神さまの奥義というものは、何やら難しい聖書の学びを積み重ねることによってようやく得られるといった性質のものではありません。奥義というと、何やらとても難しいもののように思えるかもしれませんが、神さまのみこころを知らされている私たちが経験上言えることで、それが難解なものではないことを、私たちはよく知っていると思います。イエスさまの十字架の贖いは、あまりにもわかりやすい真理ですが、これはだれにでも理解できるという性質のものではありません。だからこそ奥義なのです。 この奥義をわかりやすいものとして、受け入れやすいものとして私たちに示してくださるお方が、御霊なる神さまです。では、御霊なる神さまとはどのようなお方でしょうか? 11節です。……そうです、御霊とは、唯一、神さまのみこころをことごとく知っておられるお方です。 このことをパウロは、「人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、だれが知っているでしょう」と、神さまに霊的存在として形づくられた人間のことを例に挙げて説明しています。人は、会話をしたり、意見を表明したりして、自分の内面を人前にさらします。これはある意味、自分の霊が何を思うかを、他人に示すわけです。あるいは、口に出さなくても、顔の表情やしぐさで、何を考えているかがある程度他人に見えたりします。 それでも、そのようにして他人に見えるものはその人のほんの一部にすぎません。その人の霊の部分は、ほとんどが人に見えないところにあり、それこそがその人を形づくっていますが、それは少しずつでも人に対し、ことばなどを通して分かち合わないかぎり、わかってもらえません。 同じように、神さまのことをすべてご存じなのは御霊です。私たちは雄大な自然という被造物を見て、神さまの偉大さ、繊細さを見ることができますが、それは神さまがどういうお方かを知るうえでの、実は限られた情報にすぎません。 しかし、12節をご覧ください。神さまは、ご自身のことをだれよりもご存じの御霊によって、私たちにご自身を余すところなく啓示してくださいました。聖書のみことばのみ、そしてみことば全体によって、聖霊なる神さまは私たち信じる者に、神さまご自身を完全に示してくださいました。 それでも私たちにとって聖書は、何の心構えもなく読もうとしたら、相変わらず難解な書物です。そのような私たちが神さまのみこころを知るためには、どうすればいいのでしょうか? 13節です。……そうです。人間の知恵で聖書を読もうとしないことです。人間の知恵で聖書を読もうとすると、うまくいきません。わからなくなります。聖書は、聖霊なる神さまに教えられるとおりに読むことです。そうすると、聖霊なる神さまがその知恵によって、聖霊なる神さまご自身の書かれた聖書のみことばを解き明かしてくださいます。 そうです。聖書をお読みするときに、聖霊さまの助けをいただくのです。毎日のディボーションや聖書通読のとき、聖書を読む前に静かに祈り、聖霊なる神さまが解き明かしてくださるように助けを求めることが大事になります。ただし、さきほども申しましたとおり、そこには神さまを愛する心が必要になります。神さまを愛するならば、神さまの霊に自分を従わせようと、へりくだることになります。へりくだるからこそ、自分の知恵では聖書が読めないことを心底認め、聖霊なる神さまに拠り頼むようになるのです。そうすると、人間の知恵ではわからない神の奥義を、聖霊なる神さまは教えてくださいます。 私たちは本来が罪人であり、神さまのみこころを知る権利などありませんでした。しかし、あわれみ深い神さまは私たちを救ってくださり、聖霊さまによって神の奥義を知る知識をことごとく、私たちに知らせることをよしとしてくださいました。このことはどれほどもったいない恵みでしょうか? それでも神さまは私たちに御霊をくださり、ご自身のみこころを示すことをよしとされたのですから、私たちのすることは、そのみこころを御霊によって教えていただくことだけです。 しかし、14節をご覧ください。……この箇所を読むと、「生まれながらの人間」という表現が出てきます。聖霊によって新しく生まれていない人、それが生まれながらの人です。 イエスさまはニコデモにおっしゃいました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」人は聖霊さまによって新しく生まれていなければ、神の御霊に属することを愚かなこととしか考えません。聖霊さまに属することで得られる神の国、永遠のいのちがどんなに素晴らしいものか、理解できないし、それ以前に、理解する必要もないと考えるのです。それは、神の国や永遠のいのちといったものの素晴らしさは、御霊によってわかるものであり、御霊の臨んでいないその人には、何のことだかさっぱりわからないからです。 前にこのメッセージの時間に申しました。人は、もしまことの神さまに対する信仰がなかったならば、神さまのことをどのように理解するのでしょうか。父なる神さまはわかるかもしれません。イエスさまのこともわかるかもしれません。しかし、聖霊なる神さまはわからないはずです。 果たして私たちは、未信者の人に聖霊なるお方のことを説明して、理解していただける自信があるでしょうか? 私にも自信がありません。なぜならば、聖霊なる神さまは頭の知識によって理解できるようなお方ではなく、実際に体験することによってはじめて理解できるお方だからです。ゆえに、聖霊を理解している人は、神さまが聖霊を体験させてくださった人です。異言のような超常現象があるなしにかかわらず、聖霊を正しく理解できている人は、神さまがそのように選び、聖霊を注いでくださった人です。 そのようにして御霊に属する人となった人は、どうなるでしょうか? 15節です。……そうです。全能なる神さまの霊が臨むゆえに、すべてのことをわきまえる力を授けていただきます。すごいことです。 その一方で、「その人自身はだれによっても判断されない」とあります。これは、その人の霊以外に自分のことを知っている者はいない、ということ以上の意味です。 その人自身というのは、神さまの霊なる聖霊によって神さまご自身と一体化した、その人、という意味です。その人のことは、もしかするとある程度は、その人と交わす会話などを通して、他人にはわかるかもしれません。しかし、その人のうちに働く御霊の働きは、だれにも推し量れませんし、また、勝手に推し量るようなことをしてはいけません。 もちろん、たとえば子育てなどをしていて、子どものためにとりなして祈るとき、その子どもに聖霊なる神さまが働かれてみこころを示されることを、クリスチャンの親としては祈るものです。私も、信徒のみなさまのためにお祈りするとき、やはりそのように聖霊なる神さまのお働きがみなさまにありますように祈らされます。その祈り自体は必要です。 しかし、子どもなり信徒なり、人をみこころにかなう人へとつくり変える御霊さまのお働き、みこころに関しては、御霊さまはきっとこのように働いてくださるだろうと推し量ったりすることは、控えるべきです。そのように祈ったならば、もしそのとおりに事が進まなかったら、私たちは神さまに対して不信仰になりはしないでしょうか? 神さまは私たちのちっぽけな願望をはるかに超えて働かれるお方です。ここはひとつ、神さまのみこころに委ねるべきです。 愛知県で牧師をしている私の友達が、このような神さまのお働きについて、うまいことを言っていました。「餅は餅屋」。言い得て妙ではないでしょうか? 御霊のことは人間的なレベルであれこれ詮索するのではなく、委ねてまいりましょう。 私たちクリスチャンは、同じ聖霊さまによって、すべてを判断する知恵があるとともに、人からは判断されない知恵を持つという、たぐいまれな知恵を与えていただきました。なんと私たちは特別な恵みをいただいているのでしょうか。聖霊さまがこのように、つねに特別な知恵の恵みに満たしてくださることに感謝しましょう。 第三のポイントです。第三に、まことの知恵とはキリストの心です。 16節のみことばをお読みします。……この中に旧約聖書のみことばが引用されていますが、その聖書箇所は、イザヤ書の40章13節のみことばです。実際にひらいて読んでみましょう。前後の12節と14節も合わせてお読みしたいと思います。 主は創造主です。大いなるこの方の知恵と御力には、だれもかなうことができません。ヨブ記を読むと、主ご自身がみことばをもってそのみわざをこれでもかとお示しになったとき、ついにヨブは降伏し、悔い改め、その結果ヨブは大いなる回復をいただきました。 ヨブにしてそうだったなら、いわんやちっぽけな私たちはどれほど、創造主なるお方のその壮大さの前にひれ伏さざるを得ないことでしょうか。 しかし逆に、私たちは鈍く、ヨブのようには神さまと深い交わりを持っているわけではないので、私たちはこの期に及んで、まだ神さまを自分の思いどおりに動かしたいと思ったり、勝手にみこころを推し量ったりするような愚を犯すものです。そのような私たちは、どうしなければならないでしょうか?「しかし、私たちはキリストの心を持っています。」キリストが私たちとひとつとなってくださっていることを自覚することです。 この箇所は文脈からすると、パウロのことを霊的に充分な教師と見なしきれない、コリント教会の一部の信徒たちに対する警告の意味を込めたことばと読むことができます。パウロのことを判断する、つまり、彼らコリント教会の信徒たちは霊的に幼子であるにもかかわらず、実際に御霊の働いているパウロを判断しようとする愚かさを戒めているわけです。 ガラテヤ人への手紙2章20節のパウロの告白は有名ですが、あらためて開いてみましょう。……キリストとともに十字架につけられ、自分のうちにはもはや自分ではなく、復活のキリストが生きておられる。これがパウロなのです。それゆえに、自分を判断しようとすることはキリストを判断することであると強く警告するのです。 それは私たちも同じです。私たちはもはや自分が生きているのではありません。キリストが自分のうちに生きておられるのです。すべての救い主、すべてのさばき主、王の王、主の主がうちにおられるならば、だれが私たちに敵対できるでしょうか。だれがそのような私たちに対して偉そうに振る舞えるでしょうか。私たちはイエスさまの十字架と復活のゆえに、勝利者なのです。このことを忘れてはなりません。私たちが誇るとすれば、このように私たちに絶対的な勝利を与えてくださったキリストが、私たちの心のうちに住んでくださっているということです。神さまが私たちに与えてくださった知恵とは、キリストご自身です。私たちはイエスさまとの日々の交わりを通して、この世の何ものも与えることのできない知恵をいただきます。 改めまして、ガラテヤ人への手紙2章20節をお読みして、私たちが何者であるかを思い起こしましょう。十字架にかかられ、復活されたイエスさまが私たちの心の中にお入りくださり、いつまでもともにいてくださり、たえず神の知恵なるみことばを与えつづけてくださることに、心から感謝してまいりましょう。そして、今日も、明日も、これからも、イエスさまとの交わりの中で、みことばをいただきつづけてまいりましょう。 結論にまいります。クリスチャンとして生きるということは、神さまに属するその知恵によって生きること、聖霊さまが与えてくださるその知恵によって生きること、キリストご自身というその知恵にしたがって生きることです。そのようにして、愚かで知恵のなかった私たちは、この世の何ものにもまして強い者、知恵ある者にしていただけます。このことを心から感謝し、今日も三位一体の神さまに知恵を求めてまいりましょう。 では、お祈りします。

「キリストのほかには何も知るまい」

聖書箇所;コリント人への手紙第一2:1~5(新p328)/メッセージ題目;「キリストのほかには何も知るまい」  このメッセージの原稿に取りかかる朝、私は娘たちと、あのマンガの『ドラえもん』の話をしていました。私自身が『ドラえもん』を読んで育ってきたために、『ドラえもん』はわが家の食卓では共通の話題となっています。  大人になって私が気づかされたことですが、『ドラえもん』が人気なのは、ドラえもんの出してくれる道具が何でもかなえてくれることそのものよりも、その道具に頼ることではじめてなんとかやっていける、のび太の弱さに、物語を見る者がシンパシーを感じるせいではないかと思います。  あの、何をやらせてもダメ、勉強もスポーツもダメ、そのくせ愚かとさえ思えるような言動……それを見て、人はのび太のだめさ加減を笑いながら、どこか自分にもそういうところがあるのではないかと思い、そんな自分もドラえもんの秘密道具のようなものに助けてほしい、と思うから、あのマンガは人気なのではないかと思います。  実際、のび太のモデルになったのは、作者の藤子・F・不二雄自身だそうで、それはご本人がそう言っているから確かなことです。マンガを子ども雑誌に新しく連載することが決まり、その予告に何も思いつけなくて、「机から何かが飛び出した」というシーンだけを描いたはいいけれども、肝心の「何が飛び出した」ということはまったく考えていなくて、刻一刻と迫る締め切りにパニックになったそうです。  彼は両手を挙げ、「わしゃ破滅じゃー!」と叫びながら階段を駆け下りました。そのとき、そこにおいてあった娘の人形「ポロンちゃん」をうっかり蹴飛ばして、お嬢さんに叱られました。しかし、それがきっかけで、ポロンちゃんの形からドラえもんのキャラクターを思いつきました。そして、今こうして締め切りに追われてパニックになっている自分のような、ダメな子どもを助けてくれる未来のロボット、という物語へと、一挙につながったのだそうです。  そういうわけでのび太は、作者自身です。のび太が子どもにお大人にもあれだけ愛されているのは、作者自身のダメさ加減をさらすような素直さが作品に反映されているからではないか、それに読者が共感するからではないかと思います。  さて、導入はここまでにして、聖書の本文に入ってまいりたいと思います。今日の箇所は短いですが、パウロはこの箇所に至るまで、神さまがお選びになる人間の、弱さ、ですとか、愚かさ、ということを強調してきました。それがここに来るとどうでしょうか、弱く、愚かなのは、パウロ自身であると告白しています。  弱い、とか、愚か、というと、私たちはあたかも、それは『ドラえもん』ののび太のような人のことであり、碩学のパウロなどとても当てはまらない、と思うかもしれません。何をご謙遜を、と。しかし、ここはパウロの告白に耳を傾け、そのような告白をするパウロはいったいどういう人か、ということを、みことばから学んでみたいと思います。  今日の箇所を順番に見てまいりたいと思います。まずは1節からです。……パウロはコリントにおける宣教と教会形成においては、このように、ことばの巧みさや学問の深さを用いて行なってはいませんでした。  それはなぜでしょうか? まず言えることは、コリント教会の信徒のレベルに合わせた、ということです。コリント書第一・第二と読み進めていくとわかりますが、ローマ書の格式高く難解な表現とは、ずいぶん違っていることがわかります。コリント書は第一も第二も、全体にとにかく具体的、実際的で、わかりやすい表現に満ちています。  実際、コリント教会は、取り扱わなければならない問題だらけでした。それは現代日本で教会を形成する私たちから見れば、そんなこともわからないのか、と、あきれてしまうほどのレベルの問題さえ含まれています。しかし、異邦人の社会に宣教するということは、神の民にとっては常識として普通に通用することも、まるで通用しない、そういう非常識が常識となっている中にチャレンジしていくということです。  聖書の学問に深く精通したパウロとしては、あらためて異邦人のありさまにあきれることばかりだったかもしれません。しかしそれでも、パウロはこの群れが、宣教者である自分に対して神さまが割り当てられた群れであると信じ受け入れて、責任をもって牧会しました。こういう人たちには、難しいことばを用いても始まりません。どこまでも彼らの目の高さに降りて、それでも彼らの生活が変えられるように、語るべきことをやさしく実際的なことばで語る必要があります。    こういうメッセージをパウロから聴けたコリント教会は幸いだったと思います。群れをふさわしく束ねる倫理もないような中にあって、ほかならぬみことばの語る倫理を具体的に、みことばの最高の教師であるパウロから聴けたとは、この上なく素晴らしい恵みだったということができます。    それでも彼らが聴かされることばは、「すぐれたことばや知恵を用いた神の奥義」ではありませんでした。パウロにはわかっていました。自分の極めた学問のレベルの高さに合わせて彼らに語ると、彼らにはわからない。彼らには奥義など語れない。    なぜ、彼らにはそのようなすぐれたことばや奥義に満ちたことを語るまいと、パウロは決めたのでしょうか? それは、そのようなことは、彼らの実生活から、あまりにも距離がありすぎることだったからです。パウロは巡回しながらメッセージを語り、教会をほうぼうに立てる人です。コリントにもそう長い間いたわけではありません。そんな中で、コリントの人が聞いてもわからなかったり、彼らの生活に何の影響も及ぼさない、いわゆる「ありがたい」メッセージを語ったりしても、時間が無駄になるだけでした。    それなら、コリントの信徒にとって、実際に何がいちばん必要なメッセージだったのでしょうか? 2節のみことばです。……イエス・キリスト、しかも十字架につけられた方……パウロは何を語るにしても、このことしか語らなかったということです。    イエス・キリスト、つまり、神のひとり子なる救い主イエスさまを、パウロは徹底して語りました。しかし、イエスさまのこと自体を語るのは、ありていに言ってしまえば、だれにでもできることです。パウロはただ単に、イエスさまを語ったのではありません。「しかも十字架につけられた方」と語っています。十字架の死をもって私たち人類を罪と死から贖い、御父なる神さまと和解させてくださり、死からよみがえって私たちを罪と死に永遠に勝利させてくださったイエス・キリストのことしか、私はあなたがたの間で知らないことにした、と語っているのです。    猥雑な港町コリントの庶民を惹きつけるには、新興宗教のような有難そうなメッセージを語るのでしょうか? 自己啓発めいた生き方のヒントを語ったりして、彼らの知的好奇心を満たすのでしょうか? しかし、それでは彼らを表面的には喜ばせられても、永遠のいのちを与えることなどできません。それをキリスト教会と呼ぶことなどできません。むしろ彼らはこの世の知恵や有難さではなく、イエス・キリストの十字架の福音こそ聴くべきだったのです。    一般的に私たち保守バプテストを含む、キリスト教会におけるひとつの陣営を「福音派」と呼ぶのはご存知でしょう。うちの教会のように新改訳聖書を用いる教会は、ほぼ例外なく「福音派」に分類されます。しかしこの「福音派」という呼び方には、なんとなく、その陣営に属する人たちのことを見下すような響きを感じないでしょうか?  いわく、アメリカの前の大統領に象徴される、保守陣営における反知性主義を形づくっているのは福音派である、とか、福音派の用いる新改訳聖書は護教的で学問的ではない、とか、まるで私たちのことを何も考えていない人のように扱うわけです。  護教的、とは、教えを護る、と書きますが、作品がみな福音を伝えるものである三浦綾子の文学は護教的である、という言い方をします。普通、護教的という言い方は、批判的に使われる表現です。そういうわけで、福音派は護教的な、愚かな人たちだというわけです。  しかし、あえて主張させていただきますと、福音派とは、イエスさまの十字架のみに救いがあることを高らかに謳う、誇り高き教会の群れです。この第一コリント2章2節のパウロの告白は、新約聖書のうち13にもなる書をしたためたほどの指導者パウロの、最も欠かしてはならない告白です。  パウロがそうだったならば、私たちもパウロにならって、イエス・キリスト、しかも十字架につけられた方のほかは何も知らない、と言うべきです。私たちがクリスチャンであるというならば、このこだわりを捨ててはなりません。私たちのことを指して、あの人たちは学問的ではない福音派、と陰口をたたく人には、たたかせておけばいいのです。彼らは何をどう頑張っても、パウロのことも、イエスさまの十字架も否定できないのです。  本文に戻りますが、ともかく、十字架につけられたイエス・キリストに徹底してこだわったのは、コリント教会のレベルに合わせることもさることながら、もうひとつ理由がありました。3節のみことばです。……パウロはコリントに足を踏み入れたとき、弱さを感じていました。  パウロがどういう印象を与える人だったかは、このコリント書や、ほかにもガラテヤ書などをあわせて考えると、威厳に満ちた教師のような印象を与えることのない、弱々しい印象の人だったということが見えてきます。ガラテヤ書の表現から類推するに、パウロは眼病を患っていたように見えます。学者によっては、それはトラコーマだと主張する人もいますが、いずれにせよ目を患っていたようです。むかしは現代のように眼鏡などかけませんから、目の力のなさは見る人に対し、いかにも弱々しいという第一印象を与えたのではないでしょうか。  それだけではありません。使徒の働きを見ると、パウロがコリントに入ったのは、18章に記録されているできごとです。このときパウロの身には何があったのでしょうか? 直前の17章を見ると、ギリシアの宗教や哲学の総本山ともいえるアテネにたまたま滞在し、アレオパゴスで大伝道集会を開くというチャンスが与えられましたが、成果らしい成果といえば、わずか数人の人がイエスさまを受け入れただけ、というものでした。  パウロがコリントに赴いたのは、そんな身体上の弱さと、アテネ宣教の失敗の体験という背景があったわけです。パウロは、律法学者として研鑽するかぎり未知の世界だった、異国の港湾都市に赴いたわけです。荒くれ者たち、律法も創造主も知らない者たちのなかに飛び込むパウロの心情を考えてみましょう。そんな彼らには何を語るべきなのでしょう? 十字架のイエスさましかなかったのでした。  4節のみことばをお読みします。……彼らコリントの人たちが福音に触れるには、頭での理解以上に、御霊ご自身が力をもってお働きになることが必要でした。この第一コリントを読み進めると、コリント教会にはさまざまな霊的現象が起きていたようですが、そういうさまざまな現象も、イエスさまが証しされ、そうして彼らがイエスさまを受け入れるためには必要なことでした。  しかし、パウロの宣教はもっとよく考えれば、超常現象が起こる、起こらない以前に、御霊の力ある働きそのものだったということができます。パウロは見るからに弱々しい、貧相なユダヤ人の学者です。それがギリシアの港湾都市、大都市コリントに飛び込んだわけですから、たいへんな冒険をしたことになります。  どれほど緊張したことでしょうか。この町で宣教しなさい、という御霊の働きに従順になることに、大いなる葛藤を覚えたはずです。しかしいざ宣教してみると、プリスキラとアキラ夫婦という同労者を得て、彼らの仕事を手伝うことでコリントへの定着を果たし、宣教が展開できるようになりました。これぞ御霊の力です。    御霊の働きは不思議です。弱い人が用いられ、主の証し人となるのです。私が何度も語っていますが、ダウン症のあっこちゃんは、聖書に対して深い学問的探究をしたわけではありません。聖書を語る裏づけとなる社会的な経験をたっぷりしたわけでもありません。しかし、あっこちゃんのひとこと、「私は神さまが好きだから」ということばは、私にとって、一万人の牧師の説教をはるかに凌ぐメッセージとなったのでした。これこそが、弱さのうちに働かれる御霊の力です。    そのような御霊の力の現れる信仰は、働き人のものにとどまりません。5節をお読みしましょう。……そうです。この御霊の働きによる宣教は、宣教の対象となる教会と兄弟姉妹の信仰において、神の力、すなわち御霊の力をあらわします。    パウロは、弱さのうちに宣教しました。また、十字架につけられたイエス・キリストのほかは何も知らないとは、あえて愚か者になることを選択したとさえ言えます。しかし、そのように弱く、また愚かな中でなされる宣教は、大いなる御力であり知恵であられる御霊の働きの介在を可能にします。    私たちは宣教とか、伝道というと、何か難しいことをしなければならないのではないかとか、考えてはいないでしょうか? しかし私たちがすることは、キリスト「教」にまつわるいろいろなことを伝えることではありません。ありていに言ってしまえば、私たちは弱くてもいいのです。愚かでもいいのです。ただ、十字架につけられたイエス・キリストを知ってさえいればいいのです。御霊の力が現れていさえいればいいのです。    何度も申し上げていることです。伝道における成功とは何ですか? もう一度言いましょう。「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神におゆだねすることである。」その力と知恵が現れるためには、自分の愚かさ、無力さを認めることです。パウロにはそれができていました。それはもちろん、パウロがコリント宣教の現場で感じさせられた弱さ、選択した愚かさでしたが、そうさせたのはコリントの環境である以上に、神さまご自身の前に自分を差し出す態度でした。    そのようにおのれをむなしくしたパウロが神の力を体験したように、パウロの宣べ伝える十字架の福音は、聴く人に神の力、神の知恵を体験させます。まことに、聖霊なる神さまの力によって宣べ伝える福音は、人を神の力に満たします。私たちもそうして力に満たしていただいた存在です。今度は私たちが、人が神の力と知恵に満たされるように働く番です。    私たちは弱く、愚かだということを、主の御前にて徹底して認め、愚かは愚かでもイエスさまの十字架のことしか知らない愚か者になり、弱いことは弱くても、御霊の力によって強くされる者となることを願いますでしょうか? もし、そのように愚かさ、弱さの中でも、十字架の力、御霊の力をいただくならば、私たちは必ず、主の栄光を現す器として用いていただけます。そのような生き方を心からめざし、今日も祈りつつ励んでまいりましょう。