「報われる苦難、報われない苦難」

聖書箇所;ヨハネの黙示録6:9~17/メッセージ題目;「報われる苦難、報われない苦難」 福音を人々に伝えるチラシ「トラクト」のもいろいろなデザインのものがありますが、みなさんご存知でしょうか、中にはすごいデザインのものもあります。前に見かけたものですが、夕暮れから夜にかけての「おおまがどき」の踏切の写真が紙面いっぱいに写っていて、しかも踏切は警報の赤いライトが毒々しく灯っています。見ているだけで、夕闇の中けたたましくカンカン鳴る警報の音さえ聞こえてきそうです。そこに白抜きの大きな字で「苦しい時は必ず過ぎ去る」……。 すごいインパクトでしたが、普段から苦しみにさいなまれる人々に呼びかけるメッセージです。私はそれを見て、なんとかひとりでもこれを手に取って苦しみから救われてほしい、助かってほしいと願わされたものでした。苦しい時は過ぎ去るのです。このことを私たち人間は希望として持ちつづける必要があります。 さて、人間はだれしも、苦しみ、苦難というものを身に負うものですが、その苦難には、報われる苦難と報われない苦難の2つがあることを、みことばは語っています。今日の箇所はそのコントラストを如実に表しています。 先週のメッセージで私たちは、御座におられるほふられた小羊なるイエスさまがひとつひとつ巻物の封印を解いていかれるたび、終末にふさわしい恐ろしさをもたらす騎馬がひとつひとつ、合計4つ、この地に遣わされることを学びました。偽キリスト、戦争、飢餓、それらのもたらす死……本日はそれに続く、第五と第六の封印が解かれていく様について学びます。私たちはそのような終末の様相の中で、どのような希望を持ち、何を祈るのでしょうか? ともに見てまいりましょう。 まずは第五の封印が解かれる様です。9節から11節をお読みします。 9節から見てみましょう。どのような者たちがいたのでしょうか?「神のことばと、自分たちが立てた証しのために殺された者たち」がいたのでした。 言うまでもなく、神のことばはユダヤ人の社会には普及していました。しかし、神のことばは、イエスは主であると語っていると宣べ伝えるゆえに、イエスさまを十字架につけたユダヤの宗教社会は、そのようなキリスト教会に迫害を加えました。 兄弟姉妹は、聖書のみことばが「イエスは主である」と語っただけではありません。この聖書の証しする唯一の救い主、イエスさまを信じたことで、自分たちが永遠のいのちをいただいた、どうか信じてほしいと、証しのことばを宣べ伝えたのでした。しかし、彼らユダヤ人の態度は変わらなかったばかりか、ますます頑なになり、激しい迫害を加えました。こうして、使徒の働き7章に記録されているとおり、ステパノは石打ちにあって殺されたのでした。また、同じく使徒の働きの12章を見ると、そのようなユダヤ人の機嫌を取ろうというヘロデの差し金で、使徒ヤコブが剣で殺されました。 迫害を加えたのはユダヤの宗教社会だけではなく、ローマ帝国も同様でした。カエサルではなくイエス・キリストこそ王であると宣べ伝えるクリスチャンたちに対し、ローマ帝国は、それなら、と、カエサルに従うのではなく、イエスさまにお従いする選択をしたのではなく、かえって、カエサルに背く不逞の輩であると、クリスチャンに激しい迫害を加えました。聖書には記録されていませんが、ネロ皇帝による迫害は特に激しいもので、自らローマに火を放ち、その大火事はクリスチャンが火を放ったからだと濡れ衣を着せ、クリスチャンを捕らえて殺し、夜を照らすたいまつの代わりにその死体を掲げて燃やしたと伝えられています。 そのような中でヨハネも捕らえられ、現にこうして島流しの憂き目にあっていたわけですが、ヨハネが見たのは、祭壇の下で、このように殉教した聖徒たちのたましいが、大声で主に叫び求める姿です。 彼らは何を叫んでいたのでしょうか? 10節です。……彼ら殉教者は、もう自分たちは天国に入れられているから、この地上で何が起こっていようと関係ない、となっているのではありません。地上の聖徒たちがいまもなお死の苦しみにさらされていることを悲しみ、嘆いています。主よ、早く、彼らに迫害を加えている者たちをさばいてください! この地上にて苦しむ者たちは、孤独な戦いを強いられているのではありません。天の御国において、殉教していった信仰の先達が、とりなして祈っていてくれるのです。速やかに主の御手が敵の手にくだり、主のしもべたちが守られますように……。そのような殉教者のたましいに対し、どのようなことが起きたでしょうか? 11節です。白い衣……天の御国の民としてふさわしい者たちが着る物ですが、これは「着せられる」ものです。自分で手に入れて着るのではありません。すなわち、人が天国に入るということは、神さまの恵みです。神さまがよしと認めてくださった者が、天国に入れるのです。 この殉教者たち、叫び求める者たちは、天国に入れられる恵みをいただきました。そのとき、どんな御声があったでしょうか? あなたがた、神のしもべたちの仲間で、あなたがたと同じように殺される者の数が満ちるまで、もうしばらく休んでいなさい、と語られました。 彼ら殉教者たちは、どれほどの悲しみの叫びを発していたことでしょうか? 自分たちはこうして地上のいのちを終え、天の御国に入れられている。しかし、地上で私たちのしもべ仲間はどんなに苦しんでいることか! 主よ、なんとかしてください! 苦しみを与える者どもを、早くさばいてください! これは、単に恨みを晴らすという次元の話ではありません。主が愛をもって創造された世界に、依然として悪と不義がはびこり、その悪と不義は主のしもべたちを激しく迫害するという形で露骨に現れている、こうして、主の栄光が地上でいたくけがされている、それは主に献身するしもべたちにとって、あまりにも耐えがたいことでした。 そんな彼らに、主は何とおっしゃいましたでしょうか?「休んでいなさい」とおっしゃいました。この「休んでいなさい」は、新共同訳という訳の聖書を読むと、「しばらく静かに待つように」と書かれています。すなわち「休む」とは、「静かにしていて待つ」ということです。 「静かにする」ということは、「大声で叫ぶ」ことと対照的です。聖書はところどころで、叫び求めて祈る者の幸いを語っていますが、この箇所に関しては、叫ばないで、静かにしていなさい、というのが、神さまのみこころでした。 なぜ、神さまは彼らの悲しみ、痛みを知りながら、「静かに待ちなさい」とおっしゃるのでしょうか? それは、神さまが必ず、終わりの日に、彼らに報いをするからです。 すでに初代教会の数十年間のあいだにも、おびただしく血が流されていました。しかしそれでも、地の果てまで福音が宣べ伝えられるためには、それから約2000年にわたって、さらに多くの犠牲が伴ってきました。今も多くの主のしもべたちが犠牲を強いられています。中には殺された人もたくさんいます。 しかし、主はそのすべての苦しみを覚えてくださっています。だからこそ私たちは、今日の苦しみに耐えることができるのです。この苦しみは必ず報われる。 いま私たちはもしかすると、主のために苦しみを担っているかもしれません。主の愛で人を愛そうとするとき、大きな反発にあって、かえって傷つけられている。主を証ししようとするとき、それを拒まれて迫害される。クリスチャンらしく振る舞おうとすると周りから馬鹿にされる。 それは、海外でいのちが左右されるような迫害にあっている兄弟姉妹のことを考えると、とても軽いものであるかもしれませんが、それでも苦しんでいることに変わりはありません。日本という国は肉体的な命を奪うような迫害は加えないかもしれませんが、いじめや同調圧力などの精神的な迫害を加え、霊的に死んだ状態に追いやるような迫害は、そう意識するにせよしないにせよ、加えてくる民族の国ではないでしょうか。こういう民にキリストを証しすることは、どれほど苦しいでしょうか。 しかし、この苦しみは報われます。なぜなら、主が天における殉教者の叫びに耳を傾け、みわざを成してくださるからです。私たち日本の教会はいのちを落とすような危険にさらされているわけではありませんが、かつて私の尊敬する玉漢欽先生は私の母校で、並みいる神学生たちを前にしておっしゃいました。「日本の教会は、生きた殉教者です。」そのおことばを聞いていらい、私は韓国教会に比べて日本の教会に力がないことに劣等感をいだくのをやめ、誇りを持つようになりました。 生きた殉教者である日本の教会の一員として、天上の殉教者たちの祈りが応えられるまで、終わりの時に至るまでその数を満たすべくこの地上で、主が私たちのことをこの地上で証し人として用いてくださるように、主の御名によってお祈りいたします。 では、もうひとつの苦難の方も見てみましょう。こちらは早い話が、「報われない苦難」です。12節、13節をお読みします。……これは、地上と天体の異常、天変地異です。終わりの日には、こういうことが起こるというわけです。 このような滅亡……読むだけでも恐ろしいものです。できるならば私たちはこの現場に居合わせたくはないものです。ここに書かれているようなことは、ヨハネの黙示録が人類に啓かれてから1900年あまり、まだそのとおりに実現したわけではありません。しかし、このような天変地異が終わりの日に起こることは、マタイの福音書24章29節のイエスさまの予言、ペテロの手紙第二3章の10節と12節の預言のように、聖書のほかの箇所にもしっかり書かれている以上、これは確実なことだと受け取るべきです。 しかし私たち人類は、この2000年のあいだにも、きわめて破滅的な自然災害、天変地異に接することがしばしばあったものでした。そういうことを体験すると、この第六の封印が解かれて起こされる天変地異も、あながち空想の産物ではない、と思えてくることでしょう。実際、この四半世紀近くの間の日本にかぎっても、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本大震災など、大地震が何度となく起こりました。いま世界は、コロナというどうにもならない現実に怯えています。そのたびに私たちは、いよいよ世の終わりということを肌で感じ、身震いしてきたものでした。 しかし、人がほんとうに身震いする理由は何でしょうか? 破壊的な天変地異によってこの世界が終わってしまうことでしょうか? それももちろんですが、そのことそのものよりももっと大きなことを人々は恐れているというべきです。15節から17節をお読みします。 15節を見てみますと、このような天変地異に際して、人々が洞穴や山の岩間に身を隠すと語られています。洞穴、とありますが、これはもしかしたら、ヨハネよりもあとの時代に世界中に無数に掘られることになるトンネルや地下鉄、地下街も含まれるのかもしれません。実際、そういう地下の施設は、有事の際にはシェルターの役割を果たします。モスクワやピョンヤンの地下鉄は特にそのことが意識されていて、とても深いところにトンネルが掘られているそうです。 そこに入って身を隠す者のリストを見ると、王や高官、高位の軍人、金持ちや有力者が優先的にリストアップされています。やはりこの、主のしもべなるクリスチャンたちに対してきわめて敵対的、冷笑的だった、この世で力や支配権を持つ者たちがこぞって逃げ込んでいます。 しかしそれに加えて、すべての奴隷と自由人、ともあります。もちろんヨハネの時代にも奴隷はいましたが、ヨハネが見た幻が未来的、終末的なものであったことを考えると、ヨハネの時代には、こんにちのような規模や仕組みで組織や企業が人を雇うという形態はなかったわけで、もしかするとここでいう「奴隷」とは、むちで叩かれているようなかわいそうなイメージで捉えるべきものではなく、給料で生活する人たちのことを指しているのかもしれません。それに加えての「自由人」ですから、要するに、どんな生活形態をしていようと、社会的な地位や権力があろうとなかろうと、みんな逃げる、というわけです。 しかし、ほんとうの天変地異、終末の天変地異が訪れたら、そんなものはいかに頑丈につくられていても役に立ちません。人々を覆う苦しみは言語を絶するものがあり、人々は生きるよりもむしろ、この山々が崩れてでも、自分を死の恐怖、神の御怒りから隠してほしいと願うのです。 彼らが繰り返して、「子羊の御怒り」と語っていることは、注目に値します。つまり彼らは、自分の罪が子羊イエスさまを十字架につけた、それほど自分の罪は激しく、またひどいものだったことを知っていたのでした。子羊は今や、従順に十字架へと歩まれたお方ではありません。世界の終わりをもたらすべく、天と地のすべてを揺るがし、滅ぼされる、激しい怒りを行使されるお方となっていました。 それでも彼ら罪人は、この期に及んで勘違いをしていました。それは自分のいのちを左右さえする勘違いです。彼らは、神さまとイエスさまから逃げることが、その御怒りから逃れることだという、一縷の望みにかけていました。しかしそれは、人として最もやってはいけないことでした。イエスさまから逃げてはいけないのです。しかし、御怒りは天地万物の破滅とともに迫ってきています。逃げなければなりません。どこに逃げるのでしょうか? イエスさまの中に逃げるのです。 しかし、主の民を苦しめてきた者たちのうち、果たして何人がそのような決断をすることができるというのでしょうか? 彼ら主に敵対する者たちは、主の民が苦しむのを尻目に、この世では快楽を謳歌してきました。そのような者たちは終わりの日にイエスさまのもとに逃げ込むこともできず、報われない苦しみに陥ります。そうです、このように、世の終わりの苦しみに巻き込まれることこそ、ほんとうの苦しみ、報われない苦難です。 私たちはどうでしょうか? テサロニケ人への手紙5章の2節から5節のみことばをお読みしましょう。……私たちはこの「報われない苦難」から守っていただける存在です。それはどれほど感謝なことでしょうか? しかし、なぜ守っていただけると言えるのでしょうか? 続く6節から8節をお読みすれば、その理由がわかります。……そうです、私たちがこの時代の快楽に酔いつぶれてしまうことなく、この時代を警戒し、いずれはこの時代に臨む破滅を見据えつつ、つねに目を覚まして霊的に武装するからです。 私たちにとって、この世はふさわしい場所ではありません。だからこそ私たちはこの世に生きていて、苦しむのです。しかし、私たちの苦しみは、終わりの日に必ず報いられます。神さまご自身が報いてくださいます。その報いは、神の敵、すなわち私たち神につく者たちの敵に、世の終わりにおいて、破滅的な終末を来たらされることによってかないます。 しかし、私たちはここで考えましょう。今私たちのことを苦しめている人たちは、私たちの愛すべき人たちではないでしょうか? 家族や親戚、友達や、尊敬すべき人たちではないでしょうか? そのような人たちまで一緒になって、終わりの日に罪人どもとともに地の穴になだれ込み、イエスさまから離れることを願うと考えたら、私たちの心は平安でいられるでしょうか? 彼らもまた私たちのように救われ、この世の破滅から守られ、報われない苦しみから救われるように、私たちは祈る必要があります。そしてそればかりか、この世でキリストのみあとを自分の十字架を背負って生きる苦難の生き方、報われる苦難の生き方を私たちともにしていくことができますように、そのことも祈ってまいりたいものです。 そのようにして、やがて来る破滅をいたずらに恐れるのではなく、その日に義のさばきと救いが実現され、主の栄光が顕されることを喜びつつ待ち望む私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

「終末の騎馬」

聖書箇所;ヨハネの黙示録6:1~8/メッセージ題目;「終末の騎馬」  ギャンブルをしない私は大まかな印象で語ることしかできませんが、いわゆる公営ギャンブルの、競馬、競輪、競艇、オートレースのうち、競馬というものはほかの競技に比べ、かなり性質が異なっていて、それが人気の秘訣となっているように思えます。それは何よりも、自転車やモーターボートやオートバイが、乗り物、ありていに言ってしまえば「道具」なのに対して、競馬の馬は「生き物」ということが最大の理由でしょう。  そして何よりも競馬の魅力は、人と馬とが一体となって疾走する、そのかっこいい姿ではないでしょうか。あるクリスチャンの方が言っていましたが、私はクリスチャンだから賭け事はしないけれども、競馬場に行ってみて、馬を見てみたい。気持ちはわかります。そうです、馬の姿はなんと言いますか、人を惹きつけてやまない魅力があります。  本日のみことばは、馬が登場します。子羊なるイエスさまが秘められた巻物の7つの封印をひとつひとつ解いていかれるとき、馬に人がまたがる騎馬が登場していきます。ヨハネの黙示録6章においては、7つの封印のうち6つの封印が解かれていきますが、ここには終末の様相が展開していきます。 今日はそのうち4つの封印が解かれる様相について学びます。それはどのような展開であり、私たちはクリスチャンとして、その展開から何を学び、それゆえに何を決断すべきでしょうか。ともに学んでまいりたいと思います。  まずその前に、だいじなことを確認しておかなければなりません。私たちは「世の終わり」すなわち「終末」というものと、「世の終わる終わりの日」というものを、厳密に区別する必要がある、ということです。  私たちはとかく、今生きている世の中に起こるあらゆる事象を見て、そう、経済危機とか地震とか津波とか放射能とか、このところではコロナとか、そういうことが現実に起こっているこの世界の有様を見ると、世の終わりは近いと言いたくなるものではないでしょうか。 しかしはっきりさせておかなければならないことは、イエスさまが復活され、天に昇られて以来、再臨されるまで、世界はずっと終末である、ということです。現実にこのような危機が訪れているから終末、もちろんそれはそうなのですが、それ以上に、今私たちが生きるこの時代は、イエスさまが天に昇られて、その再臨を待ち望む終末である、と捉えるべきです。   私たちは「世の終わる終わりの日」が今すぐにでも迫っているかのように、あわてたり、うろたえたりせず、「今生きている終末」を見据え、落ち着いて、なすべきことを祈りつつなしていくようにしていく必要があります。  ヨハネの黙示録はもちろん、「世の終わる終わりの日」を語っていますが、そこに語られている事象と現実に起こっている事象が一致しているように見えるからと、そら世の終わりだ、世界は終わるなどとなってはなりません。 とは言いましても、ヨハネの黙示録が終末を語る書であることは確かなことであり、この書が開かれてから1900年あまり、世界はこの書の警告するような歩みを繰り返して、世の終わりにふさわしい状態にありました。キリスト教会も、絶えずその生きた時代が終末であることを意識してきました。  私たちはヨハネの黙示録を、未来に対する占いのような現実離れした書物と捉えてはなりません。むしろ、今現実に生きる私たちにとっての、きわめて現実的な指針として、しっかりそのみことばを受け止めていく必要があります。  以上の前提で、ヨハネの黙示録を引きつづき学んでまいりたいと思います。本日の箇所、ヨハネの黙示録6章です。1節から8節までのみことばにおいて、2節に1つずつ、合わせて4種類の騎馬が出てまいります。まず、1節と2節を見てみましょう。……子羊イエスさまが、第一の封印を解かれます。「来なさい」と言ったのは、4章と5章に登場する4つの生き物のひとつであり、その4つの生き物のひとつが、それぞれどの生き物なのかは明確に描かれていないにせよ、合わせて4回、「来なさい」と言い、そのたびに騎馬が登場します。 この四つの生き物は、獅子のような権威、雄牛のような活力、人間の顔の象徴する知恵、鷲のような行動力を投げ出して天上にてイエスさまに礼拝をささげる存在であることは、すでに学んだとおりです。この存在は、天上の礼拝の模範を人々に示す御使いです。  御使いが「来なさい」と言うたびに、騎馬が呼び出されます。まず現れたのは、白い馬であり、冠をかぶって弓を手に携えています。彼は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていきました。  この白馬にまたがった人は、いったいだれでしょうか? ヨハネの黙示録19章の、白馬にまたがった勝利の王なるイエスさまのイメージが頭にある人は、これはイエスさまだ、とおっしゃるかもしれません。 しかし、子羊なるイエスさまが封印を解いておられるときに、イエスさまが騎馬のように現れるというのもおかしなことです。それに、あとにはさらに3つの封印が解かれていきますが、そのたびに騎馬が登場するわけで、それらの騎馬のイメージと合わせて考えると、のちほどまとめて説明しますが、この白い騎馬の人物はイエスさまとは合いません。それならこれはだれでしょうか?  それはあとで見るとして、先に3節、4節を見てみましょう。子羊イエスさまは第二の封印を解かれます。すると、火のように赤い馬が出てきました。その馬にまたがる者の役割は、地から平和を奪い取り、互いに殺し合わせるようにすることです。  これは第一の馬、白い馬よりもイメージが明確です。馬が火のように赤いということは、戦いで流される血を連想します。まさに、血なまぐさい戦いの象徴です。しかし、このような存在がみこころにより呼び出されることを、私たちはどのように理解すればよろしいのでしょうか?  イエスさまは、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」とおっしゃって、すべての戦争、争いを否定されたのではないのでしょうか? それなのに、このような赤い馬が登場して戦争の存在が許されるとは、どう理解すればよろしいのでしょうか?  5節から6節です。第三の封印が解かれました。黒い馬に乗った者は秤を手にしていました。何を量るのかといえば、6節にあるとおりです。……1コイニクスが約1リットルなので、頭の中でリットルに置き換えていただければと思いますが、1デナリ、つまり1日分の稼ぎで、ようやく小麦1リットル、安い大麦なら3リットル、頑張って頑張って、ようやく口に糊するだけの食べ物が手に入れられるということであり、これは、赤い馬に象徴された戦争の結果、品不足で、たいへんな飢饉と物価の高騰が起こるということです。当時の物価から考えるならば、8倍から16倍くらいに高騰したということだそうです。500円のお弁当を食べるなら、それが4000円とか、8000円という世界です。どうしようというのでしょうか。  さて、その一方で、オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない、ということについてですが、オリーブ油もぶどう酒も、21世紀の現代においても変わらず高級品です。高級品をたしなむ、いわゆる上流階級の人は害を受けない、相変わらず守られる、貧困にあえぐのはいわゆる下層階級の人である、という、社会の二極分化が起こる、ということです。これは今現実に日本で起きていることです。金持ち、支配層は、庶民が飢えようが、貧困にあえごうが、知ったことではない、そういう不義の社会になるということです。  このような不条理がみこころによって許される、神は愛ではないのでしょうか? どう理解すべきでしょうか?  そして7節から8節、青ざめた馬の登場です。五木寛之の小説『蒼ざめた馬を見よ』は、まさにこの聖書箇所から名づけられた題名ですが、この馬は単なる「青色」ではなく、死人の顔のように青ざめた色です。  むかし、山本七平という聖書関係の書店のオーナーが、イザヤ・ベンダサンという名前のユダヤ人になりすまして『日本人とユダヤ人』というベストセラーを書き、その中で、この「青ざめた馬」という表現は誤訳だといちゃもんをつけました。これは結構知られていることのようで、私も学生時代、ある新興宗教の信者の友達から、「青ざめた馬」って誤訳らしいね、と言われた経験があります。まるで日本語の聖書が間違っていると馬鹿にされたように思えて、憮然としたものでした。  しかし、これは真に受けてはいけません。東北学院大学名誉教授の浅見定雄先生はこの件で山本七平を批判して、こんなユーモラスな表現を用いています。「なにしろこの馬に乗っているのは『死』だというのですから、馬の方も相当『あおざめ』ていなければならないのです!」というわけで「青ざめた馬」で合っていますので、惑わされないようにしたいものです。  人はどのようにして死ぬのでしょうか? ここまで見てきてわかることは、第二の馬、赤い馬のもたらす戦争によって、また、第三の馬、飢餓によって、人々は死にます。また、8節のみことばはそれに付け加えて、「死病」によって、また「野の獣」によって死ぬとも語ります。  戦争に伴い飢餓が蔓延すると、それに伴って衛生環境が劣悪になります。伝染病が流行して死ぬ人が多く現れます。現代における新型コロナウイルスの流行は戦争が直接の原因ではありませんが、ある意味「死病」という点で、この6章8節のみことばに通じる者がります。 また、戦争によって荒廃するところには野獣、猛獣が幅を利かせるのも常で、それらによって人は死にます。これは象徴的にも解釈することができるでしょう。戦いのもたらす人の心の荒廃は、人を精神的にも肉体的にも霊的にも病ませ、人を獣のようにします。そうして人は、霊肉ともに死んでいくのです。 このようにして人が倒れていくことを神は許される、どう理解すべきでしょうか? ただ、それでも救いというべきなのは、青ざめた馬、死の騎馬の権威により死ぬのは地上の4分の1であり、これはこのさばきは限定的なものである、と書かれていることです。それでもたくさんの人が死ぬことが許されているのは、変わりがありません。   さて、こうなりますと、第一に登場した「白い馬」が何者か、いよいよ気にならないでしょうか? それを解く鍵になるみことばがあります。マタイの福音書24章、3節から8節のみことばです。   ここでイエスさまは、弟子たちに対し、世の終わりに起こることを予告していらっしゃいますが、よく見ると順番があります。第一に4節と5節、惑わす者、偽キリストが出現するとあります。第二に6節と7節、戦争や戦争のうわさ、民族や国家の対立、そして第三に飢饉、それから地震とありますが、6節以下を見てみますと、子羊が開く第二の封印、第三の封印、そして来週学びますが、第六の封印と、順番が一致しています。   こういったことは、世の終わりにおいて、主がその存在と活動をお許しになるものです。なぜこの世界には戦争が存在するのか? なぜこの世界には飢饉や貧困が存在するのか? なぜこの世界には自然災害が存在するのか? 理由を問うならば、私たちは答えが見つけられなくて悩むばかりです。しかし、私たちがそれでも認めるべきことは、私たちのことを愛しておられる、愛なる神さまご自身が、これらの不条理の存在と活動を許しておられる、ということです。  そのことから何がわかりますでしょうか? 私たちが、神さまなしには生きることのできない存在である、ということです。 そこから私たちは、神さまに立ち帰る信仰が生まれてまいります。そうです、ヨハネの黙示録に展開する恐ろしい光景は、私たちがどうしても、イエスさまに立ち帰らなければならないことを教え、そこから永遠のいのちの交わりへと私たちを導く、素晴らしい導き手の役割を果たします。神さまを離れた人間の営みはいかに悲惨で、恐ろしいものしか生まないことか。その世界の破滅を意識し、恐怖におののくならば、すぐにでも主の御許に立ち帰るべきです。  そうなると、第一の封印が解かれて現れる白馬の者とは何者か、ということになるでしょう。これが再臨のキリストではないとしたらだれでしょうか? そうです、マタイの福音書24章4節、5節と考え合わせると、これは、キリストのなりをした偽キリストです。  6章2節の白馬の者は、弓という武器を持ってはいますが、その武器は利き剣のみことばではありません。また、冠をかぶってはいますが、これはギリシア語の原語を見れば一目瞭然で、王さまがかぶる王冠ではなく、スポーツの競技に勝利した者がかぶるような冠です。キリストに似ていますが、ちがうのです。 そしてこの者は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていきます。戦って勝利を得つつある中で、さらなる勝利を得ようと、貪欲になっている姿です。この偽キリストにとって勝利とは何でしょうか? できれば選ばれた民をも惑わして、ひとりでも多く真理の道から迷い出させ、地獄に道連れにすることです。   戦争ですとか、飢餓ですとか、貧困ですとか、そういった問題も確かに大きなものです。しかし、そのような問題が起こる最大の理由は、キリストを差し置いて王の位に座ろうと貪欲になる者の存在です。その自己中心、イエス・キリストという真理をあらゆる代用物に取り換えようとする試み、それが戦いを生み、争いを生み、ひいては飢餓や貧困のような人間社会の闇を生み出します。   現在多くの人は、多様性ですとか人権ですとか、そのようなものが強調されることで、よりよい社会を目指し、また、そうすることでよりよい社会になっていくと信じています。 しかし、その試みは果たして、神さまの御目から見たらどうなのでしょうか。あらゆる人が平等なのはそのとおりですが、それは果たして、あらゆる宗教には等しい価値がある、ということになるのでしょうか。もしそのように主張するなら、キリストのほかに救いがないと主張する聖書のおしえ、私たちの教えなどは、多様性を尊重するという建前の社会から真っ先に抹殺されることにならないでしょうか。多様性など口ばかりです。   でも、中には「物わかりのいい」クリスチャンもいるようで、そのような社会の歩みに歩調を合わせるべきだ、と主張します。もちろんイエスさまは謙遜なお方で、私たち神の子どもたちもそうあるように、おん自ら謙遜な姿勢を示してくださいましたが、私たちは考える必要があります。この世と調子を合わせて謙遜なポーズを示すことは、果たして、イエスさまが示された謙遜な姿勢と同じものなのだろうか?   私たちがへりくだったなりをするのは、しょせんは、自分たちを受け入れてもらおうとするようなあさましい心があるからではないだろうかと、きびしく、自分自身を振り返る必要があります。クリスチャンがそうして身を低くしているうちにも、この世の勢力はどんどん、私たちのいるべき領域を奪います。   先週私は、保守バプテスト同盟の教職者の勉強会、チームワークミーティングに参加して、同志社大学で社会福祉について専攻していらっしゃる木原活信教授という方の講義をお聴きして、目が開かれたことがありました。それは、戦前日本で社会福祉といえば、国家やお役所のような行政が担うものではなかった、というのです。その頃、社会福祉の人物を3人挙げるとすれば、山室軍平、石井十次、留岡幸助、そう、3人ともプロテスタントのクリスチャンで、社会福祉というかたちで弱者に仕える人とは、当然それはクリスチャンのことだったという時代があったのでした。  しかし戦後になって、社会福祉は公的な機関が担うものへと変容させられました。それは一見すると、日本という国が福祉国家として成熟した、よいことのように見えますが、見方を変えれば、福祉の分野にキリスト教会が入り込めなくなった、弱者に仕えることで主の栄光を現す機会が奪われてしまった、ということでもあったのでした。実際、そういう施設において、どれほど宗教的な要素というものは取り除かれていったことでしょうか。そういう施設で伝道ができるでしょうか? お祈りができるでしょうか? 聖書のお話ができるでしょうか?…

天上の礼拝

聖書本文;ヨハネの黙示録5:1~14/メッセージ題目;「天上の礼拝」 20年ほど前、神学校を卒業して仙台の教会で働いていたとき、私は教会の若者たちとともに子ども相手の働きをしていました。そのとき私たちは、子どもたちにこんな質問をよくしたものでした。「ねえ、天国ってどんなところだと思う?」するとたいていの子どもはこう答えます。「うーん、花がいっぱい咲いているところ……。」 天国とはいっぱいのお花ですか、なるほどねえ……ひたち海浜公園とか、石岡フラワーパークとかを、もっとすごくした感じでしょうか……きっとこのようなイメージは、子どもにかぎらず、多くの日本人の持つイメージなのだと思います。だれでもおおまかに、天国というものに対するイメージを持っているわけです。 でも、私たちクリスチャンは、聖書をお読みすることによって、天国を垣間見ることを許されています。私たちは天国という場所に対してあれこれ詮索しないで、聖書をお読みすることによって、ふさわしいイメージを持ってまいりたいものです。お花いっぱいをイメージする方には残念なことを申し上げますと、聖書には、天国がお花いっぱいと書いてはいません。まあ、実際はもしかするとお花がいっぱいで、聖書に書いてないだけかもしれませんけれども。 ともかく、聖書の語る天国のイメージ。今日の本文を見ますと、イエス・キリストがほめたたえられ、イエス・キリストが礼拝をお受けになっている様子が描写されています。天国とは、イエスさまが礼拝をお受けになる場所です。 今日のメッセージは、特にイエスさまというお方に集中して学んでまいりたいと思います。では、本文の学びにまいります。3つのキーワードから解き明かしてまいりたいと思います。 第一のキーワード、それは「巻物」です。 今日の聖書本文の前半では、「巻物」ということばが、ひたすら繰り返し登場します。今日の本文は全部で14節ですが、その前半の方で、9節までの間に、なんと6節以外のすべての節で巻物が出てまいります。合わせて8節、全部で14節ある5章のうち8節に巻物が出てきます。半分以上です。この5章においては、巻物というものが極めて重要な役割を果たしていることが分かります。 現在私たちは、こうして製本された聖書を手にしていますが、むかしは言うまでもなく、聖書といえばたくさんの巻物に分かれていたものでした。こうして現に黙示録を記録しているヨハネの時代も、もちろん文書を記録して残す手段は巻物です。 では、ヨハネが見た巻物は何だったのでしょうか? まずそれは、御座に着いておられる方の右の手に握られていました。右の手は、神さまの力を現しています。神さまの力なる右の手、義の右の手に握られた巻物は、神の力、神の義に満ちた存在です。 しかし、これだけでは巻物の正体はわかりません。いったいこれは何が書かれた巻物でしょうか? 内側も外側も字が書かれているとありますが、何が書かれているのでしょうか? これを知る手掛かりは、旧約聖書にあります。おひらきになってください。エゼキエル書2章と3章のみことばです。 まずは8節から10節です。このとき神の民イスラエルは、まことの神さまを離れ、偶像礼拝の罪の中にあり、いよいよそのさばきがバビロン捕囚という形で実現し、完全な亡国の前夜という状況にありました。それでも心が頑なで悔い改めないイスラエル、神の民にみことばを語るべく、エゼキエルは神さまに遣わされていました。神さまはそのような状況において、幻のうちにエゼキエルに巻物をお示しになりました。 このときエゼキエルが見た巻物には、ヨハネが見たのと同じように、表にも裏にも文字が書かれていました。主はその巻物は広げられ、エゼキエルには書かれていた内容がわかりました。それは「嘆きと、うめきと、悲痛」だったというのです。 3章以下を見ますと、神さまはエゼキエルに、この巻物を食べさせ、イスラエルの民にみことばを語れとお命じになりました。この巻物は「嘆きと、うめきと、悲痛」のことばに満ちてはいましたが、口にすると蜜のように甘いものでした。しかしそのみことばは、みことばに対して心を閉ざす頑ななイスラエルに対して、それでも堂々と語るように、主がエゼキエルの口に授けてくださったものでした。 この、エゼキエルの目の前に展開された巻物は、神さまが人と結ばれた契約に人が違反した場合に注がれる呪いを象徴しているとも言えます。また、開封されてその書かれた内容が実行されるべき遺言状とも言えます。ヨハネが見た巻物も、そのような意味で共通していたと言えます。実際、ヨハネの生きた時代、ヨハネもまたその一員であったローマ帝国において、遺言状や契約書というものは、羊皮紙の表裏両面に文字が書かれたもので、詳細な内容が内側に、その要約した内容が外側に書かれ、7つの封印がなされていました。 まさにヨハネの見た幻のとおりです。ヨハネの前に提示された巻物は、ほかならぬ神のみこころそのものでした。神のみこころ、神が愛であることが実現する場は、キリストのからだなる教会においてです。この封印が解かれるなら、教会を愛しておられるという神のみこころははっきり示されます。 しかし、この封印は、7つあり、完全に、完璧に封じられていました。この完璧な封印は、天上の御使いにも、24人の長老たちにも、4つの生き物にも解けませんでした。創世以来の世々の聖徒たちにも、預言者たちにも、使徒たちにも解けませんでした。このまま神はみこころを秘められたまま沈黙されて、教会は反キリストの手によって滅びることが許されようというのだろうか……ヨハネは絶望に襲われ、激しく泣きました。 しかし……ここに大いなる希望が示されました。7つの封印を解いて、神のみこころを示すお方がいらっしゃるというのです。それはイエスさま、あらゆる神に敵対する勢力に勝利されたお方、イエスさまが、その勝利によって封印を解いてくださる、というのです。 7節をご覧ください、イエスさまは、御座に着いておられる御父の御手から巻物を受け取られました。御父が、巻物を開いて啓示することをお許しになった唯一の存在、それはイエスさまです。9節をご覧ください。4つの生き物と24人の長老たちは、イエスさまというお方が、御父から巻物を受け取られ、封印を解くにふさわしいお方だということを告白し、讃美しています。そうです。イエスさまは御父のみこころを握られ、伝えられる主権をお持ちのお方ゆえに、ほめたたえられるお方です。 ヨハネの時代、神の教会は風前のともしびだったと言えましょう。その現実を見れば、どれほど絶望に襲われるしかなかったことでしょうか。現に使徒たちは次々と殉教し、当のヨハネはパトモス島に島流しの憂き目に遭っていました。しかし、その現実以上の現実は、神さまのみこころです。神さまはイエスさまのゆえに、沈黙していらっしゃいませんでした。慰め主なるイエスさまを通して、はっきりみこころをお示しくださり、教会を力づけてくださいました。 私たちも今、コロナ下で礼拝をささげるために集うこともままならないという現実の中にいます。私たちの群れはこうして集えるだけまだよいですが、私の知っている教会の中には、礼拝そのものを中止してしまっている群れもあります。 そのような兄弟姉妹のことを思うと、胸が痛むばかりです。しかし私たちは、この現実の中で絶望していたままでいることはありません。 イエスさまは勝利を得られ、御父のみこころを示してくださいます。それはわざわいをもたらすものではなく、いのちと平安をもたらしてくださるものです。私たちはもう、自分たちの身の上の絶望的な状況を案じて泣いたり、悲しんだりすることはないのです。私たちの現実はこの悲惨に見える世界ではありません。勝利を取ってくださったイエスさまです。 では、イエスさまはどのようにして勝利を取ってくださったのでしょうか? そこで第二のキーワードにまいります。第二のキーワード、それは「屠られた小羊」です。 5節のみことばをお読みします。……ここでイエスさまは、ユダ族から出た獅子、ダビデの根、と表現されています。主がむかしからのお約束のとおりにこの地上に送ってくださったお方、このお方は獅子のごとく、近づきがたい権威をまとわれた強いお方であり、このお方が勝利された、というのです。 獅子は、勇猛果敢に獲物と闘って勝利します。イエスさまもそのように、サタンと勇猛果敢に闘って勝利され、鬣(たてがみ)をなびかせるがごとく、勝利者として君臨されます。 しかし、実際の闘いの姿は、私たちの目にはどのように見えたのでしょうか。6節のみことばをご覧ください。……屠られた子羊として、屠る人の手に従順にわが身を差し出すがごとく、十字架におかかりになりました。御父のみこころを、そのようにしてなしとげられました。 それでもこの子羊は、私たちの知っている子羊、そう、それこそ、2週間前の日曜日のその生態を学んだ、詩篇23篇の子羊とは、大いに異なった姿をしていました。7つの角と7つの目を持っていました。角とは力の象徴であり、それが7つあるということは、完全な力を身にまとっておられる、ということです。 また、7つの目、すなわち7つの御霊。この世界すべてと、この世界に存在するすべてのキリストのからだなる教会を知っておられるお方の全知の象徴です。すなわちこの子羊は、全知全能なる力あるお方、ということです。 しかしこのお方は、屠られたお姿でここにおられます。すなわち、子羊なるイエスさまにとっての究極のお姿は、十字架で死なれたお姿、ということです。しかし子羊はほふられてはいても、死んで横たわった状態でここにいるのではありません。生きて、立っておられます。 十字架で死なれて私たちを罪と死から贖い出し、御父の怒りから救い出してくださって、私たちを御父のもとへと導いてくださったまま、永遠に生きておられるのです。このお方は全知全能なるお方であり、この世界のすべてを見渡されます。そして、すべての教会を見渡していらっしゃいます。イエスさまの御目にはもちろん、この水戸第一聖書バプテスト教会のすべての聖徒たちも見えていらっしゃいます。 この時代の教会は苦難のどん底にありましたが、忘れられてはいませんでした。この地上で勝利し、のちの世で究極の勝利をするように導かれていました。私たちもまた、いまはあらゆる苦しみを体験しているかもしれません。コロナなどその最たるものでしょうし、コロナが引き金となって、私たちクリスチャンのことを悪く思ったり、色眼鏡で見たり、そのような苦しみを私たちは通らされているかもしれません。 しかし、私たちはそのような世の中であえてがんばって、自分の正しさを主張する必要はありません。すべてはイエスさまが十字架のうえで成し遂げてくださいました。私たちのすることは、このようにすべてを成し遂げてくださったイエスさまを信じることだけです。そこから賛美が生まれ、礼拝が生まれます。 私たちは、イエスさまを礼拝すべく、あらゆる部族、言語、民族、国民(くにたみ)の中から選ばれて、いまこうして御前におります。私たちはこの選びの恵みのゆえに、神さまをほめたたえずにはいられません。世々の聖徒ともに礼拝者として御前に集うことを許されているゆえに、心から感謝いたしましょう。 そこで最後の、第三のキーワードです。第三のキーワード、それは「礼拝」です。 8節をご覧ください。4つの生き物と24人の長老は、巻物を受け取った子羊、イエスさまの前にひれ伏しました。 彼らは何を手にしていましたでしょうか? 竪琴、そして聖徒の祈りという名の香の満ちた鉢を手にしていました。 竪琴、というと、もちろん、音楽のために用いるものですが、旧約聖書で竪琴というと、すぐに思いつく人物はいませんか? そう、ダビデです。ダビデはゴリアテを倒す初めての闘いの前から、悪霊に取りつかれて精神を病んでいたサウル王のそばで竪琴を奏で、悪霊を去らせる役割を果たしていたほどの、竪琴の名手でした。 そのダビデはまた、詩人として、数多くの讃美の詩を残し、その多くが「詩篇」という形で聖書に収録されました。先々週学んだ詩篇23篇は、野の羊飼いとしての体験から生まれた実に美しい詩です。 竪琴、それは、神さまをほめたたえる讃美の歌を歌うために奏でる楽器です。讃美において楽器を用いるか否かということに関しては、教団・教派で見解が分かれますが、私たちは、聖書の中にこのように楽器についての記述が多く出てくることからも、楽器は大いに活用すべきと考えてよろしいと思います。なんといっても楽器を用いる最大の根拠、それはこの5章8節のみことばではないでしょうか。楽器の伴奏のある讃美は奨励されてしかるべきです。 琴、ということにかぎっても、この礼拝堂の左右にある、オルガンは「風琴」、ピアノは「洋琴」であり、「琴」です。ギターやベースも弦楽器だから「琴」です。私たちは今もなお、讃美をささげるにふさわしい者とされているのです。 また、イエスさまを礼拝するにあたっておささげするかおり高い香は、祈りです。宗教儀式としてのお香をささげるのではありません。祈りとはイエスさまが慕わしくて、イエスさまと一緒に会話したくて、ひとりでにささげてこそではないでしょうか? まさしく祈りとは、イエスさまとの交わりです。その交わりが積み重なって、イエスさまの前に香る礼拝となるのです。 そういえばですが、みなさまの中には「いのちの道コース」を受講された方も多くいらっしゃいますが、お祈りというものの要素を改めて振り返ってみましょう。「あれをしてください!」「これをかなえてください!」そればかりがお祈りではありません。そこで、おててをご覧ください。この手の五本指は、お祈りの要素を表しています。 まずは親指。これは「賛美」です。親指、お父さん指、これは、私たちのお父さんである「神さま」です。神さまが神さまだから賛美するのです。 次に人差し指。これは「感謝」です。神さま、イエスさま、感謝します。お母さん指、先週私たちは「母の日」でしたが、「ありがとう」と言われるのは、お母さんです。なぜかお父さんはそれほど、ありがとうと言われない! ともかく、賛美して感謝するのです。 次に中指、これは五本指の中でいちばん長い、出る杭は打たれる、とありますが、杭、を、あらためる、と覚えてください、そう、「悔い改め」です。自分から神さまに方向転換する、これが「悔い改め」です。 そして薬指、薬を使って人を治します。そのように、人のために祈ります、その人の状況がよくなるように。そう、「とりなし」です。 最後に小指、赤ちゃん指、赤ちゃんが欲しいものを欲しがるように、大胆に神さまに求めます。願い求める祈りです。 以上、賛美、感謝、悔い改め、とりなし、願い求め、この祈りの生活を、私たちがしっかりしているなら、天の鉢はあふれ、イエスさまの御前に立ち上るお香はいよいよ豊かに、香り高いものとなります。 しかしこの場面をご覧ください、ここでささげられている祈りは、この5つの中でも、特に「賛美」に集中していることにお気づきだと思います。9節と10節。イエスさまがこのように、私たちを選び、王国とし、祭司として御前に立たせてくださり、地を治めさせてくださるゆえに、イエスさまをほめたたえています。当たり前のことではない、まことの恵みのゆえに、これほどまでにもったいない立場にならせていただいたとは。 そして、見渡すかぎり埋めつくす御使いは、こぞってイエスさまをほめたたえています。12節です。すべてをイエスさまにお帰ししています。そして13節、すべての被造物がほめたたえ、14節、4つの生き物は「アーメン」と言い、24人の長老はひれ伏しています。 賛美と祈りに満ち、イエスさまにご栄光をお帰しする、これこそ礼拝です。礼拝とはお勤めのような宗教的行事でもなければ、さりとてエンターテインメントでもありません。私たちの中心でイエスさまの栄光が燦然と輝き、礼拝者が謙遜のかぎりをつくし、イエスさまにすべての讃美と感謝と祈りがささげてこそ、礼拝は礼拝となります。 私たちが招かれているこの場は、まさしく、天上の礼拝が実現した場所です。このただ中にイエスさまがおられます。恐るべきお方……しかし、畏れ多くも、私たちのことを友と呼んでくださり、すべてのみこころの秘密を明らかにしてくださるお方……私たちは日曜日ごとに、そして普段の生活を通して、このお方をともに礼拝すべく招かれています。 イエスさまは十字架の死をもって、罪と死とサタンに勝利してくださいました。その勝利ゆえに、秘められたみこころは私たちに明らかになりました。そのみこころとは、私たちもまた世とサタンに勝利し、永遠に統べ治める者とならせていただく、ということです。そのように、ご自身が勝利され、私たちに勝利を与えてくださったお方、イエスさまは、永遠に礼拝をお受けになるお方です。 今このようにして、私たちも礼拝にともに連ならせていただいていることに、心から感謝しましょう。では、お祈りいたします。

「ここに上れ」

聖書箇所;ヨハネの黙示録4:1~11/メッセージ題目;「ここに上れ」 高校生の時参加した、松原湖バイブルキャンプの話です。キャンプでは三度三度のお食事の時間、特定の仲良しさんだけが固まらないように工夫して、その食事ごとにいろいろテーマを決めて高校生たちを席に着かせていました。「なになにが好きな人」はこちらのテーブルに! ですとか。 ある日のお昼ごはんだったと記憶していますが、「どこの国に行きたいですか?」という質問のとおりに、みんな席に着きました。アメリカですとか、フランスですとか。8人掛けぐらいのそれぞれのテーブルに、国の名前を書いた札が置いてあります。私は「ドイツ」にしました。特にドイツが好きだったからではありません。なんのことはない、ちょっと可愛いな、と思った女の子がそこにいたからでした。 で、私の座ったその席から隣のテーブルを見たら、国の名前が書いてある札が見えました。何と書いてあったか。「天国」。私は、しまった! と思いました。気が付くともうそのテーブルは、人でいっぱいでした。私は後ろめたいと思いと、さりとてその女の子に話しかける勇気も出なかったのとで、おいしいはずのごはんの味も忘れてしまいました。 天国、すべてのクリスチャンの憧れです。みなさん、天国に行きたいですか? でも、今すぐに行きたいですか? そう聞かれると躊躇してしまいますか? でも、この世界には天国に心からあこがれている人たちがいます。私たちが礼拝で用いている「聖歌」には、むかしのアメリカでつくられた「黒人霊歌」が多数収録されていますが、ミシシッピ川をヨルダン川に見立てて生きてきた黒人クリスチャンたちにとって、天国はとても近しいものだったにちがいありません。共産圏やイスラム圏のようなたいへんな環境でイエスさまを信じている人たちにとっても、きっと天国は近いだろうと思います。私たちにとってもそのようでありたいものです。 私たちはその時代の黒人クリスチャンたちほどには苦しくないかもしれませんが、それでも天国に希望をいだくことで、この地上の歩みに力を得られることに変わりはないはずです。本日からヨハネの黙示録の学びを再開しますが、ヨハネの黙示録はおっかない書物ではなく、天にまします神さまに希望を置く私たちにとっては、天国の望みあふれた、慰めの書物です。ともに学び、日々の歩みに力を得てまいりたいと思います。それでは今日の本文、4章です。 4章は3つのパートに分かれます。まずは1節、そして2節と3節、最後に4節から11節です。 1節から見てみましょう。1節をまとめると、「ヨハネは、イエスさまによって天国に招かれた」となります。 ここまでヨハネは、小アジアの7つの教会に対してイエスさまが語られるみことばを聴いてきました。そのみことばは、迫害の中にある彼らに対する励ましであり、また、愛が冷えたり世と妥協したりする彼らに対する叱責でした。いずれも、地上の教会に対するみことばであり、彼ら教会は地上にある以上不完全であったり、迫害を受けたりします。私たちと同じです。 イエスさまはしかし、ヨハネの視点を、地上の教会から天上に導かれます。「ここに上れ。この後(のち)必ず起こることを、あなたに示そう。」地上は不完全ですが、天上は完全です。なぜならそこは、神さまとありのまま、顔と顔を合わせてまみえる場所だからです。イエスさまはそこに、「上れ」と導かれます。 天上には開いた門がありました。門が開いているのは、ヨハネが入ることを許されたからです。イエスさまが、ご自身の啓示を伝えるために、ヨハネをお選びになったからです。 しかし、この開いた門から入って、イエスさまがお告げになるみことばを聴くためには、「ここに上れ」というイエスさまのご命令にお従いし、実際に「上る」ことをする必要があります。どのようにしてそのご命令が守られるのかは次のポイントでお話ししますが、とにかく、イエスさまは「上れ」と命令されたのです。 天国というものは、「上れ」というイエスさまのご命令があって、そのご命令にお従いする心を持つことではじめて入ることを許される場所です。逆に言えば、イエスさまが「上れ」とおっしゃっているのに、お従いする気もなく、不完全なこの地上に執着しているならば、私たちはまだまだ、みこころよりもこの世の方を大事に思っている、ということになります。 とはいいましても、ヨハネはこのように「上れ」と言われはしたものの、これで完全に天国に入って、エノクのように、あるいはエリヤのように、この地上から取り去られ、二度と地上に現れなくなったわけではありません。この一連の黙示が終わったら、また地上の歩みに引き戻されました。 しかしヨハネの歩みは、もう以前のようではありませんでした。ヨハネは、主の教会がローマ帝国とユダヤの宗教社会から激しい迫害にあい、自身もパトモス島に島流しにあっていたという現実の中で、「上れ」というみことばどおりに主が天国のビジョン、反キリストが究極的なさばきにあうことを壮大な絵巻のように見せてくださって、新しい生きる力が与えられました。ヨハネはこの黙示が与えられたことにより、主の教会に天国のビジョンを示し、力づける人となり、新しい出発を果たしたのでした。 同じように私たちも、「ここに上れ」と言われるということは、単に死んで天国に行くということを指しているわけではありません。この地上に生きていても、「上れ」というイエスさまのご命令は、いつでも私たちに与えられています。 私たちも、不完全な地上の様相、そう、いまだったらコロナに右往左往させられている現実などその最たるものですが、そのような現実に傷つき、疲れ果てているかもしれません。礼拝に集えない聖徒の存在は、島流しにあった孤独なヨハネをほうふつとさせます。 しかしイエスさまは、私たちにおっしゃいます。「ここに上れ」。私たちはそのようにして、天国に招かれ、イエスさまのみことばをお聴きして、慰めをいただくのです。今私たちは礼拝堂で御前に集い、礼拝堂にいらっしゃれない方も、こうして文字をお読みになることを通して御前に集っていらっしゃいます。あるいはどこかで、音声でメッセージに耳を傾けて礼拝をささげていらっしゃるでしょうか。 それは、「ここに上れ」というみことばをいただき、開かれた天の御国の門の中へと招いていただいている、ということです。天国の招待状、それは「ここに上れ」というイエスさまのみことばであり、いまこうして、私たちがそのお招きにお応えしていますことを、心から感謝したいと思います。 そして、ヨハネがそうだったように、私たちも主の御前にてみことばをお聴きして慰めをいただき、この慰めのみことばを地上にて宣べ伝えるという、新しい使命を帯びて遣わされ、用いていただくのです。 その生き方は私たちにとって喜び、いえ、神さまにとって喜びであり、その喜びの生き方をすることは、私たちにとって最高の生きがいとなることです。お仕事をすることも、お勉強をすることも、みな、ヨハネのように、イエスさまだけが与えてくださる慰めを地上に宣べ伝えるために、主が用いてくださるものです。それゆえによりいっそう、日々の歩みに力を得て励んでまいりたいものです。 では、私たちはいかにして、「ここに上れ」というみことばにお従いするのでしょうか。そこで、つづいて2節と3節にまいります。まとめると、「ヨハネは、聖霊によって神の御座の前に引き出された」となります。 「ここに上れ」とイエスさまがおっしゃったとたん、たちまち、聖霊なる神さまがヨハネを捕らえ、天の御座の前、御座にましておられる神さまの前に引き出されました。ヨハネが見たのは、碧玉にも赤めのうのようにも見えるお方で、御座の前にはエメラルドのように見える虹がありました。みなさん、どう思いますか? みなさんは宝石屋さんにお入りになったことがありますでしょうか? 私は子どもの頃、地元埼玉は与野の、時計屋さんを兼ねた貴金属店に入ったことがあるくらいで、宝石店というにはほど遠いものでしたが、それでもその中にディスプレイされたものはとても高価なものばかりで、子ども心にとても緊張したものでした。与野の時計屋さんでそうならば、東京の銀座や表参道の宝石店など、私の想像を絶する世界です。 でも……それらの宝石店の宝石だって、とてもとても小さなものしか置いていません。神さまはその壮大さにおいて、威厳において、美しさにおいて、スケールがちがいすぎます。巨大な宝石そのもののようなお方、その御前の巨大な宝石の虹……考えただけでくらくらしてきませんか? このまことの富、まことの美なる方の前に、私たちは引き出されているのです。それは「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順になるように、聖霊なる神さまに促されての結果です。 私たちはイエスさまに「ここに上れ」とおっしゃっていただいても、御霊の力がなければそのご命令に従順になることができません。私たちの礼拝するお方は最高の美であり、最高の権威であることを、頭でわかってはいても、その御前に出ていこうという気持ちにならないのです。 しかし、ヨハネは明らかに、天国を渇望していました。ヨハネは「ここに上れ」というご命令に「はい!」とお答えする前に、たちまち御霊さまがヨハネを捕らえて、天上に連れていかれたのは、ヨハネが明らかに、「ここに上れ」と言われれば、時を移さず従順にお従いすることを聖霊さまはご存じだったからです。私たちに礼拝する心、天上に引き上げられて主とまみえたい心があるならば、聖霊なる神さまは「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順にならせてくださり、まことの威厳、まことの富、まことの美を見せてくださいます。 私たちがもし、この地上で貧しさを覚えていたとしても、富んでいる人に対して劣等感を持つ必要はありません。まことの富、まことの美であられる主の御前に出ていくことです。あるいは私たちが富んでいるならば、そのことを誇ってはなりません。主の御前においてその富は、ないも同然です。私たちの誇るべきは自分の富ではなく、豊かな富そのものであられる主ご自身です。 私たちは今こうして、「ここに上れ」というイエスさまのご命令に、聖霊なる神さまのお導きによって従順にお従いさせていただいています。私たちは今どこにいるのでしょうか? まことの美、まことの富なる神さまの御前です。私たちがこのお方のものであるということは、このお方が私たちのものでいらっしゃるということです。 ゆえに私たちは、この世の苦しい境遇、悲惨な境遇にばかり捕らわれていてはなりません。もちろん、現実というものを無視することはできません。私たちはこの世の中という現実の中に生きて、主のご栄光を顕すものですが、そのように現実を見る目は、イエスさまのご命令にお従いすべく聖霊さまに天上に引き上げられ、神さまにお目にかかることから始まります。 私たちにとってはこの目に見える世界もたしかに現実ですが、それ以上の現実は、このようにみことばに啓示されているとおりの、天にまします神さまのご存在とみこころ、そしてみわざです。 いまこのようにしておささげしている礼拝は、ヨハネと同じ、神さまの御前に導いていただいていることです。私たちはこのお導きにより、地上のあらゆる労苦から解放され、まことの富をすでに得ており、のちの日には本当にその富にあずからせていただくということを信じるのです。 さて、そのようにして御霊によって導かれた神さまの御前において人がすることは何でしょうか? 言うまでもなく礼拝です。最後に4節から11節をまとめます。まとめますと、「被造物は、最高のものをもって神を礼拝していた」となります。主の御座のところには、二組の群れがいました。第一は24人の長老、第二は4つの生き物です。 24人の長老にはいくつかの解釈がありますが、この「24」という数字、また、「長老」という立場にある者は、ひとまとまりの民に対してリーダーシップを発揮する者であることを考え合わせると、どうなるでしょうか? 24人の長老たちとは、イスラエルの12部族、そしてキリストの12使徒の象徴を合わせたものと言えるでしょう。してみますと、旧約の民と新約の民がともに御前にいることになります。創世記のはじめに記録されている世のはじめ以来、歴史を超えて、完成された旧新約聖書を持つ現代の私たちに至るまでの、世から選び出されて御前にいる主の民すべてということができます。 彼らは一様に、白い衣をまとっています。きよい衣です。完全にきよい天の御国に入るのにふさわしい衣を着ています。黙示録19章8節によれば、花嫁に象徴された教会は、輝くきよい亜麻布をまとうとありますが、その亜麻布とは聖徒の正しい行いです。人間の努力ではない、神さまから恵みによってその行いが正しいと認められた人が、きよい衣を着せられます。 正しい行い、すなわち、イエスさまを主と受け入れ、イエスさまの十字架と復活を信じること、その行いには何の努力もいりません。赤ちゃんが抱っこしてくれるお母さんの顔を一心に見つめることを「努力」と言わないのと同じことです。神さまをたまらなく愛するように導かれる聖徒が、神さまによってきよい衣を着せられるのです。 そして、金の冠。戴冠、ということばがありますが、冠とは王さまがかぶるものです。第一ペテロ2章9節の語るような、王である祭司、聖なる国民なるクリスチャンにふさわしい象徴です。 しかし10節をご覧ください、彼ら長老はその冠を「投げ出した」とあります。彼らは王ではありますが、神さまこそがまことの王であると告白し、神さまの前に王権を放棄しています。そしてひれ伏しています。礼拝とは、神さまの御前に自分のあらゆる権利、権威、宝を放棄し、投げ出すことです。 11節の彼らの告白をお聞きください。……長老たちは、御座にますこのお方が創造主であり、全能者であることを告白しています。このように礼拝をおささげするお相手がどのようなお方なのか、よくわかった上で礼拝をささげているわけです。 イエスさまはヨハネの福音書17章3節でおっしゃいました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」神さまがどんなお方であるかを知れば知るほど、人は神さまの偉大さ、自分の小ささを悟らされ、神さまをますます礼拝するしかなくなります。 しかしその真実な礼拝は人にとって、いのちそのものです。礼拝が深まれば深まるほど、人のいのちは豊かになります。私たちがみことばを学んで、人生における知恵を知る以前に、神さまご自身がどのようなお方かを知ることは、私たちのいのちを保ち、豊かにするということで意味があることなのです。 4つの生き物はどうでしょうか? 獅子、雄牛、人間の顔、空飛ぶ鷲……この4つの被造物のうち3つ、獅子、雄牛、鷲はそれぞれ、野の獣、家畜、空の鳥のうちで最強の存在です。獅子がその権威において動物最強なのは、言うまでもないでしょう。「百獣の王ライオン」というぐらいです。雄牛はほかの家畜、ヒツジやヤギや馬やロバと比べて、大地を耕す労働力という点で際立っています。力強さの象徴です。鷲は「空飛ぶ鷲」と但し書きがあるとおり、空の上から恐るべき視力で獲物を狙い、ガッと舞い降りてそのくちばしや爪で獲物をひとさらいします。これもまた強さ、鋭さの象徴です。 人間は、これらの動物に比べるとその手足はとても弱いです。しかし、人間には顔が位置する頭があります。頭を使って武器や農耕器具をつくり、これらの動物たちにも負けない力を備えます。顔はまた、人間が知恵を備えた神のかたちであることを象徴するものです。人の顔は、ほかのあらゆる被造物と異なり、その存在には知恵があること、いえ、神と交わりをすることが許された「霊」があることを示しています。 4つの獣が絶え間なく神を賛美したということは、その権威、力、知恵、行動力のすべてを用いて、神を礼拝した、ということです。しかし、この生き物たちにはそれぞれ、6つの翼があったことも注目すべきことです。これはイザヤ書6章2節に登場する御使い、主の御前に立つセラフィムを連想させます。セラフィムは2つの翼で顔を覆い、2つの翼で足を覆い、2つの翼で飛んでいました。つまり、その力をもって行動する前に、自分自身をあらわす顔を覆う謙遜さと、自分の行動をあらわす足を覆う謙遜さを、あわせて主の御前であらわしながら、御使いとして創造された存在にふさわしく、創造主の栄光を顕して、その翼で飛んでいたのでした。 すなわち、6つの翼は、御使いのごとくたえず主の御前で礼拝する者の持つべき態度を象徴しています。そして前も後ろも目で満ちていた、あまり実物をリアルに想像することは慎んだ方がいいと思いますが、これは、どんなときもたえず目を覚ましていた、ということです。絶えず謙遜に被造物としての分をわきまえて、しかし絶えず目を覚まして、力を尽くして、存在を尽くして、神さまを賛美し、礼拝するのです。 これこそ、私たちが御前にて持つべき態度です。では、具体的にどうすればいいのでしょうか? 私たちは今こうして礼拝をささげ、また、神さまをほめたたえる歌をおささげしています。これがまず、すべてをささげる礼拝を実践することです。私たちはこのように、一週間という神さまから与えられた恵みの中から最良の時間、日曜日の午前という時間を初物として、神さまにおささげします。このように礼拝をささげるべく、聖霊なる神さまが「ここに上れ」というみことばに従順にならせてくださっていることは、何にも増して素晴らしいことです。 しかし、礼拝はこの、日曜日の特定の時間にささげるものだけではありません。ローマ人への手紙12章1節をご覧ください。……私たちの普段の生活とは、生きてささげる礼拝、そのものです。私たちがお仕事をするのは、礼拝です。私たちがおうちの中で皿洗いをするのは、礼拝です。私たちが学校で勉強をしたり、おうちに帰って宿題をしたりするのは、礼拝です。いずれも、私たちが認められるためとか、人より抜きんでた存在になるためにすることではありません。私たちをイエスさまによって救ってくださった神さまが素晴らしいから、そのあふれる恵みを受けて取り組むのです。それが礼拝です。 このようにして御霊なる神さまは、いまこうして持っているような日曜日のこの時間を通して、また、普段の生活を通して、「ここに上れ」というイエスさまのみことばに従順にならせてくださり、どんな形にせよ神さまの御前にて最高の礼拝をささげさせてくださることで、いのちを得させ、いのちの中に保ってくださいます。 私たちのすることは難しいことではありません。「ここに上れ」というイエスさまのみことばに素直に、従順になることだけです。そうすれば聖霊なる神さまが私たちを、天上の礼拝へと上らせてくださいます。私たちはそこですべてをささげる最高の礼拝をおささげするのです。私たちの歩みが、つねに神さまを礼拝する、天の礼拝に連なる歩みとなりますように、その恵みに聖霊なる神さまがつねに私たちを導いてくださいますように、主の御名によってお祈りいたします。

「主は羊飼い、私たちは羊」

聖書箇所;詩篇23:1~6/メッセージ題目;「主は羊飼い、私たちは羊」 大学4年生のときのことです。私は卒業が見えてきてはいたものの、まだ進路に迷っていました。あるとき、私は学科の先輩に、そんな自分の身の上をこぼしたものでした。すると先輩はおっしゃいました。「羊飼いにでもなれば?」 私は何かにつけて、自分がクリスチャンであることを公言していたので、先輩はそんな私のことを考えてくれて、牧師になれ、という意味でおっしゃったのか、それとも、単なる冗談でおっしゃったのか、測りかねましたが、優柔不断な私の背中を押してくれたような、このおことばを有り難く頂戴し、やがて私は卒業式も待たず、韓国の神学校に入学してしまいました。 そんなこともあって、牧師とは羊飼いであるということが長年、私の中にひとつの概念としてあるわけですが、今回私は、日曜礼拝のみことばに、詩篇23篇を選ばせていただきました。 私も牧師の末席に連ならせていただいている者ですが、私もまた、一匹の羊です。何かにつけて私は、自分が羊であることを、年を追うごとに思わされるものです。私もか弱い羊、されどよき羊飼いに養っていただいている羊です。 それで、詩篇23篇です。あの王さまダビデが、なんとこともあろうに、自分のことを羊に例えているという、なんとも意表をつく組み合わせ、しかしその組み合わせをもって、私たちクリスチャンの本質を言い当てている、詩篇の中でも特に印象的な詩からお話をさせていただこうと思います。 今回のメッセージを語らせていただくにあたり、私はフィリップ・ケラーという人物の『羊飼いが見た詩篇23篇』という本を読みました。とてもいい本でした。フィリップ・ケラーは農学や牧畜学を学んだ学者でもありますが、長年にわたる羊飼いの経験を有した人物でもあり、伝道者でもあります。そのような、2つの意味での牧羊をどちらも経験された方の語るおことば、みことばの解き明かしだけに、並々ならぬ説得力を持った本であり、機会があればぜひお読みいただきたい名著です。 今回のメッセージはこの本から教えられたことをベースにお語りしてまいりたいと思います。もちろん、そのとおりになぞるのでは意味がありません。本を読んでいただいたら済む話ですので。今日は、ひとつの問いからはじめて、みことばを黙想し、私たち自身にみことばを適用してまいりたいと思います。 私たち自身に問うべき問いとは何か。「あなたにとって、だれが羊飼いですか。」 この問いを投げかけられたならば、私たちは模範解答のように、「主が羊飼いです。なぜなら、詩篇23篇1節にそう書いてあるからです」と答えますでしょうか。たしかに、聖書にはそう書いてあります。それはもっともです。 しかし、それなら私たちはつづけて問いかけなければなりません。「あなたにとって、ほんとうに、主が羊飼いですか。」 私たちは果たして、「はい」とお答えすることができますでしょうか。この問いに答えるためには、大前提として、私たち自身が「羊」であると認める必要があります。 以前私はこのメッセージの時間に、北海道で羊たちと戯れたお話をいたしました。しかし、それはもちろん、まったくほんものの羊と触れ合わないよりはよかったかもしれませんが、このたびケラー先生の本をお読みして、その程度で羊のことを知ったつもりになっていたことに、恥ずかしくなりました。 もちろん私は、いまだってケラー先生の本を読んだ程度のもので、ほんの少し羊のことが分かるようになったにすぎません。それでも、やはり学んではおくものでした。私はこのたびの読書を通じて、ああ、ほんとうに私たち人間は羊に似ている、と、あらためてしみじみ思ったものでした。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」まことに、預言者イザヤが語ったとおりです。 羊は、同じところにとどまろうとし、それは結果として同じところの草ばかり食べることになるので、うかうかしていると青々とした牧草地は荒れ果て、見るも無残になります。牧草地が荒れ果てたら自分でどうにかできるほど賢くはありません。 ほうっておくとやせ衰えて飢え死にします。だから牧者は、ちゃんと草の生えているところをリサーチし、そこに連れていきます。そこに毒草が生えたままにしないように手入れすることも、もちろん怠ってはなりません。 また、何かの拍子にひっくり返ったら自分では立てません。下手にもがいたりしてますます立てなくなり、やがて死んでしまいます。牧者は行ってちゃんと起こしてやる必要がありますが、これは相当に技術のいること、また、たいへんなことのようです。 また、やはり羊のことを放っておくと、毛がもこもこと生え、泥や糞尿がくっついて不衛生になりますし、長く生えてくると身動きが取れなくなります。したがって、牧羊をする人が定期的にきちんと刈り取ってやらなければなりません。この毛を刈る作業も、結果として羊を快適にすることであるにもかかわらず、羊はとてもいやがります。 きりがないのでこれくらいにしますが、羊というものは、ケアされることによってはじめて生きることのできる存在である、とさえ言えます。そうです。私たちも、まことの牧者なるイエスさまに牧していただくことで、生き生きと生きることができる存在です。「主は私の羊飼い」、なんと素晴らしく、また誇らしい告白でしょうか。 しかし、羊は愚かです。羊飼いによって飼われることではじめて生きるにもかかわらず、羊飼いの支配から逃れたところに自分の生きるテリトリーがあるがごとくに振る舞います。早い話が、羊飼いの目を盗んで群れから離れるのです。その結果どうなるか、といえば、くぼみに落ち込んでひっくり返り、もはや立てなくなっていのちを落とします。おおかみのような猛獣に襲われていのちを落とします。 しかし、ほんとうの羊飼いの牧する群れの中に身を置くかぎり、その羊は安全です。ダビデは自らが羊飼いで、身を挺して羊を守った体験を持っていました。ライオンや熊が襲いかかったらその口から羊を奪い返し、打ち殺すことさえしました。私がそのようにいのちを懸けて羊の群れを守ったように、主は私のことをいのちを懸けて守ってくださる羊飼い……ダビデはそう告白しています。 私たちの羊飼いが全能なる神さま、創造主であられるならば、私たちは何か乏しいことなどあるでしょうか。まさしく、「私は乏しいことはありません」。とはいいましても、私たちは生活が安定するとか、お金持ちになるとか、人間関係で成功するとか、そういうことを「乏しくない」ととらえるべきではありません。 ダビデもまた、サウルやアブサロムに追われる身になったなど、その人生が苦難の連続だったことを、聖書は克明に記録しています。しかし、ダビデにとって大きな祝福だったことは、そのような激しい困難の中にあって、主ご自身が変わらずにダビデのことを牧していてくださったことでした。 羊たちも、豊かな牧草地で養われるためには、いつまでも同じところにとどまっていては食べ尽くしてしまうので、高地の豊かな牧草地に移動する必要があります。そのとき羊たちは、いやでも、危険いっぱいの暗やみの谷を歩かされることになります。 そこがどんなに狭い道で、がけから落ちるかもしれなくても、猛獣にやられるかもしれなくても、歩くのです。そこを歩かないことには、死ぬのです。平安な場所にいれば死なないのではありません。平安な場所にいたらむしろ死ぬのです。平安な場所を出て、危険極まる暗闇の谷を歩くことで、羊は生きるのです。 ダビデもそうでした。ダビデは危険の中にいたとき、まことの牧者なる主との交わりの中で生きることができました。逆に、ダビデが死の道を選択したような状況とはどんなときでしょうか? そう、主が牧者であることを拒否したときです。バテ・シェバを寝取り、その夫のウリヤを謀殺したとき、ダビデは、主が自分の牧者であることを拒否し、悪魔にたましいを売っていました。しかしのちにダビデは真剣に悔い改め、悪魔が手にしていたダビデのたましいは買い戻されました。 むろん、このような罪を犯したダビデが無事で済むはずがなく、バテ・シェバとの間にもうけた子ども、長男のアムノンを次々に失い、三男アブサロムのクーデターでエルサレムから逃げ出します。要するに、ウリヤとバテ・シェバの家庭を破壊したダビデは、今度は自分の家庭の破壊に苦しめられることになったわけです。しかし、これはダビデに対するさばきというのとはちがいます。ダビデはすでに罪を悔い改めているので、さばかれて地獄に落ちるようなことはありません。しかし、したことの責任は取らなければなりませんでした。 それでもダビデが絶望せずに生きつづけることができたのは、このような最悪の状況にあっても、なお主が羊飼いとしてダビデを導き、養っていてくださったからです。ダビデは安らかな王宮を離れ、食べるものにも事欠いて眠れない野宿生活をしながら、あらためて自分のしてしまったことを悔いてならなかったことでしょう。しかし、ダビデは悔いるだけでは終わりませんでした。ダビデを養うまことの牧者の鞭と杖を、ダビデは体験していたのでした。 むちは、以前メッセージの時間にお話ししたような革製のものではなく、木の枝を切り出してつくるもので、これを投げつけることで猛獣を撃退します。イエスさまもみことばを用いてサタンの誘惑、実際はサタンの攻撃を退けられました。このようにむちとは、悪い者の攻撃から私たちを守るみことばを象徴しています。 杖もまた、牧者にフィットした、まるでからだの一部のような道具です。羊が出産するとき、牧者は杖を伸ばして生まれた子をやさしくその上に載せ、取り上げます。また、羊を連れ出すとき、からだにやさしく当ててあげて導きます。杖とはまさに、牧者と羊をつなげる役割を果たすものです。そうです、牧者なるイエスさまと私たちとの交わりをなしてくださる、聖霊なる神さまを象徴しています。 あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。ときにやさしく、ときにきびしく私たちを扱うむちと杖は、みことばと聖霊です。羊飼いなる主は私たちのことを、みことばと聖霊をもって守り、導き、励まし、力づけてくださいます。死を意識するような絶望の状況にあっても、主は私たちのことを死にとどまらせることなどなさらず、必ず、食卓を整え、油を注いでくださる恵みをくださいます。 例のケラー先生の本に教えられたことですが、5節のみことばは「夏」のことなのだそうです。谷間を抜けて夏の高地に導かれ、そこで草を食べるように、牧者は導きます。しかし、夏には夏特有の問題があります。それは、ハエのような小さな昆虫が顔にたかり、猛烈なかゆみを催す、そればかりか、その産んだ卵がかえって幼虫が鼻腔(びくう)などを通って脳に達すると、羊は頭がおかしくなってそこかしこにからだをぶつけ、ついには死に至る……そういうことのないように、防虫と殺虫の意味を込めて、頭部に特別な油を塗ってやることが大事なのだそうです。そうすると虫は寄りつかなくなり、健康に保たれます。羊の頭に油を注ぐとは、そういうことです。 主から注がれる油は、聖霊の象徴です。私たちは聖霊なる神さまのご臨在とお導きによって、私たちを教え導く聖書のみことばの意味を知り、実際に生活が導かれていきます。また、聖霊なる神さまは私たちを「悪い虫」から守ってくださいます。 うちも娘を持つのでしょっちゅう祈ることですが、将来娘たちが大きくなったとき、どうか悪い虫が取りつかないように、親としてそういう祈りをささげるのは当然ではないでしょうか? しかし、悪い虫がつかないためには、普段から娘たちを愛情たっぷりにケアする必要があります。 同じことで、この羊の囲いに属する私たちのことを、まことの牧者なるイエスさまは、ことのほかケアしてくださいます。悪い虫、サタンと悪霊どもが取りついて、人生を狂わせることのないように、守ってくださいます。何によってかといえば、みことばと御霊によってです。 杯、はどうでしょうか? ダビデの前に整えられる主の食卓には、食卓に必須のぶどう酒の杯があります。ぶどう酒によって人は力づけられます。さて、ぶどう酒には言うまでもなく、アルコールが含まれているわけですが、羊とアルコールとの関係に関しても、ケラー先生の本に新たに教えられたことがありました。野で迷って衰えた羊を探し当てたら、羊飼いはブランデーの水割りを少し口に含ませてやるのだそうです。そうすると羊は少しずつ元気を取り戻します。 そのように、あふれる杯は私たちを力づけ、元気づけます。それでは、その杯に注がれたぶどう酒とは、私たちにとってどんなぶどう酒でしょうか? そう、イエスさまの十字架の血潮です。イエスさまの十字架の血潮の添えられた食卓、それを羊飼いなる主は私たちのために備えてくださいます。羊飼いなるイエスさまご自身が私たちのために十字架にかかって死んでくださった、ゆえに私たちは罪赦され、神さまとともに歩むことが許されています。私たちはイエスさまの十字架の血潮によって、私たちに取りついた死に至る罪が洗い流され、まことのいのちの力をいただくのです。 私たちはこの牧者なるイエスさまを前にして、「私はいつまでも、主の家に住まいます」と告白できますでしょうか? 心底告白できますでしょうか? いざ、私たちの心が問われたら、それはとても難しいと思います。これだけの告白をしたダビデでさえ、バテ・シェバに関わったときには、主が自分の羊飼いであることを拒否したくらいです。いわんや私たちのような俗物は、どれほど主に、自分の羊飼いでいていただくことは難しいことでしょうか! しかし、あきらめないでいただきたいのです。主は私たちがこのような頑迷な羊、愚かな羊であることをすべてご存じの上で、なお私たちのことを諦めずに導きつづけていてくださいます。私たちのすることは、牧者なるイエスさまから目を離さないこと、これだけです。 具体的に、牧者なるイエスさまから目を離さないために私たちがすること、それは、牧者なるイエスさまが牧してくださっているこの群れ、水戸第一聖書バプテスト教会という群れから、離れないことです。ここから離れる選択をしてしまうなら、それはイエスさまを見失う選択に一歩近づくことを意味しています。 もちろん、いまは以前に比べ、この礼拝堂にともに集うことが相当に難しくなっています。それをすべて突破してここに来なさい、と言いたいのではありません。それぞれの事情がおありなのは仕方ないことです。それもすべてイエスさまはご存じです。しかし、そうは申しましても、どうかご自分が、この水戸第一聖書バプテスト教会という羊の囲いに属するひとりであることだけは、お忘れにならないでいただきたいのです。 最後に、あらためて自分自身に尋ねてみましょう。「あなたにとって、だれが羊飼いですか?」世の中の何ものも、自分を満たすために人を利用し、ついには見捨てる、自分のことしか考えない存在です。しかし主イエスさまはちがいます。私たちが豊かにいのちを得て、いのちを保つことで、ご栄光をお受けになるお方です。私たちがキリストによっていのちあふれる生き方をするとき、主は喜んでくださるのです。主の素晴らしさが輝くのです。 私たちは自分自身を見るとき、無力な羊のように思えてならないかもしれません。それはそうです、なぜならそのとおりだからです。しかし、私たちはイエスさまという牧者によって養っていただく羊です。強くしていただいています。守っていただいています。私たちはこの大いなる牧者を誇りとしています。そして……牧者なるイエスさまもまた、私たち羊のことを大いに誇りとしてくださっている、ゆえにどんなときでもケアしてくださり、守ってくださる……このことを忘れないでまいりたいものです。

「聖書が存在する理由」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:30~31/メッセージ題目;「聖書が存在する理由」  本という本には、みな存在する目的があります。ミステリ小説は、読者に対するお説教ではなく、トリックと種明かしによって読者を面白がらせることにその存在する目的があります。自己啓発本は、読むことでより目的意識を持って仕事ができるようになること。詩集や画集は、情緒的に豊かになること。辞典(事典)は調べもの。教科書や参考書は勉強のため。マンガ本は気分転換のため。  そこで……私たちの手にしている聖書、この本は何のために存在するかを、今日は聖書自身の証言から確かめてみたいと思います。  まず、30節から見てみましょう。このみことばによれば、イエスさまはヨハネの福音書に記録されている以外にも、多くのわざを行われたということが明らかにされています。しかしそれらのみわざを、ヨハネはあえて記録しなかったということでした。  たしかに、弟子たちの前でということにかぎっても、イエスさまが行われたみわざのうち、このヨハネの福音書に記録されていないみわざはいろいろ存在します。 しかし、イエスさまの行われたみわざは、ヨハネの福音書どころか、四福音書、いや、旧新約聖書全体にも収録しきれるものではなかったと考えるのが自然ではないでしょうか? といいますのも、このヨハネの福音書の締めくくりに当たるみことば、21章25節には、このようにあるからです。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」  イエスさまのみわざは膨大です。それをみことばという形で人が読んで理解するには、聖霊なる神さまが聖書の書き手に働いて、イエスさまのみことばとみわざを取捨選択させられるしかありません。そうでないと、一生かけてもイエスさまのみわざを理解できないことになります。  そういうわけで、聖書はイエスさまのみわざすべてを収録した書物ではありません。しかし、イエスさまのみわざの記録が適切に編集された書物ではあります。私たちにとってみことばは、必要最小限の分量であると同時に、十分な分量です。それ以上の分量は必要なく、それ以下の分量では足りません。  聖書の終わり、ヨハネの黙示録の22章18節、19節に、このようなことが書かれています。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」  なんともぞっとするみことばですが、要するに、みことばから足したり引いたりするような人は、天国の民、神の民としてふさわしくない、というわけです。言うまでもなくみことばは、私たちがこの地上を生きている間だけ必要なもので、この地上からいのちが取り去られたら、そもそもこうして聖書という本を手にする形でみことばを読むことなどないわけです。みことばを聞きたければ、神さまに直接お聞きすれば済む話ですし、地獄に落ちたら、みことばを聞いていのちを保つことなど一切かないません。 要は生きているかぎり、神さまが必要十分の分量で与えてくださった旧新約66巻のみことば全体を認め、読むことです。それでこそ私たちは神の民、神の子どもとして生きていくことができます。  では、このようにヨハネをはじめとした聖書の記者が、イエスさまのおことばとみわざを、聖書のみことばという形で編集するように聖霊なる神さまに促されたその目的は何でしょうか? それは31節に書いてあるとおりです。  31節をお読みします。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」  私たちはイエスさまのことを、キリストと告白しています。なぜならば、イエスさまは私たちにとって救い主、キリストであられるからです。しかし、聖書やキリスト教会がそのように呼んでいるからでしょうか、一般的にもイエスさまのことを、イエス・キリストと呼ぶのについてはどうでしょうか? もし、自分にとってイエスさまが救い主でもないのに、「イエス・キリスト」ですとか「キリスト」と呼んでいるならば、それは厳密に言えばおかしいことです。  ただし、この「イエス・キリスト」という呼び名、もしくは「キリスト」といえば「イエスさま」のことを当然指すものだという常識は、文明開化とともにキリスト教の文化が日本に入ってきて定着したものです。その背後には、長い時間をかけて培われてきた欧米のキリスト教会の歴史が存在し、欧米の文化ではふつうにイエスさまのことを「イエス・キリスト」ないしは「キリスト」とお呼びするので、日本もそれにならった、と言えましょう。  このように、イエスさまのことを「キリスト」であるという前提で受け取っているならば、クリスチャンでなくても、イエスさまは見るからに神々しい方と映るかもしれません。しかし、日本人にとっては神がかって見えれば何でも有難いと思えるように、イエスさまもあらゆるカミやホトケと同等の存在くらいにしか受け取られない、ということも有り得るわけです。  しかし聖書は、もちろん、そんなレベルでイエスさまのことを紹介しているわけではありません。そこで私たちは、聖書が書かれた目的、イエスはキリストであることを信じさせるために書かれた、ということについて、もう少しよく考える必要があります。  キリスト、救い主というお方はただひとりです。神のひとり子の神が、神を解き明かされ、このひとり子の神を通して、唯一の父なる神に至るのです。救い主の資格があるのは、神のひとり子イエスさまだけです。それが、イエスさまがキリストであるということです。  世の中の人たちは、慣習的にイエス・キリストと呼んでいます。それはもしかすると、イエスさまはのちのキリスト教の文化・文明のおおもとになった人物だからと、それ相応の敬意を込めて呼んでいるからかもしれません。しかし、イエスをキリストと「呼ぶかどうか」よりも、「信じるかどうか」が、私たち人間にとってはもっと大きな問題になります。  多くの日本人は「イエス・キリスト」と呼んでいても、実際に帰依している存在は、神社のカミだったり、ホトケとして祀られている先祖だったりします。そういう人が「キリスト」と呼んでも、実体はないことになります。しかし聖書を読み、「道であり、真理であり、いのちである」お方はただひとり、イエスさまだけだと知って、イエスさまを唯一の救い主と受け入れるなら、そのとき初めて人は、「イエスがキリストである」と信じることになるのです。  そうは言いましても、イエスさまをひとたびキリストと受け入れたら、それで終わりなのではありません。一生かけて信じつづける必要があります。イエスさまはひとたび受け入れれば、それで信仰が完成するわけではありません。少しでもうかうかしていると、この世の攻撃、あるいは懐柔にさらされ、私たちはいとも簡単に信仰を捨てる道を選んでしまいます。  イエスがキリストであると信じる。それは、つねにこの世のあらゆる罪のわなから救ってくださる救い主であることを信じつづけることを意味します。目に見えないお方とお交わりする上で必要なものは、信仰です。イエスさまが目に見えるお方だったら、信仰というものを働かせる必要などありません。 しかし、イエスさまは目に見えないゆえに、私たち人間の側で信仰を働かせるという行動が神さまから求められています。これは、行いによって救いを勝ち取る、ということではありません。私たちはみことばをお読みして、イエスさまが私たちのことを救ってくださったことを信じ受け入れました。しかし、そのように自分のことを救ってくださったイエスさまとの交わりを引きつづき持つには、こちらからイエスさまに近づく必要があります。 小さな子どもがお父さん、お母さんに守ってもらうために、駆け寄っていく、その厳しくも優しいことばを聞く、こういうことを「行い」と言ったらおかしいです。親としては、子どもに来てほしい。それだけ。信仰を働かせるとは、そのように親元に行くようなことです。自分のもとに来る子どもを親が守るように、神さまは、御許に来る神の子どもたちを守って、養ってくださいます。 さて、では、イエスさまを信じることはどのような意味があると、この31節のみことばは語っていますでしょうか?……そうです、「信じて、イエスの名によっていのちを得るため」とあります。聖書の存在する目的は、聖書を読む人が、イエスさまがキリスト、自分の救い主であると信じて、イエスさまの御名によっていのちを得るため、ということです。 イエスさまを信じるということは、一回こっきりで終わることではありません。信じつづける必要があるわけです。と申しますのも、人は何かの拍子に信仰をなくしてしまうことがあるからです。もちろん、主はおっしゃいました。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」だから、いちどイエスさまを心に受け入れたら、イエスさまが出ていかれるということはありません。イエスさまご自身が、あなたを決して離れないとおっしゃっている以上、そうなのです。 しかし、肝心の受け入れた側の人間は、つねに移ろいやすい、弱い存在です。イエスさまがそばにいてくださる、ともにいてくださる、そんなことも忘れてしまうほど、落ち込んでしまうことなどしょっちゅうの、弱い存在です。なぜ、そうなるのでしょうか? それは、イエスさま以外のものを見てしまうからです。 イエスさまは大波の湖の上を歩いて、十二弟子の乗った舟へと近づかれました。すごいことでしたが、ペテロはイエスさまに近づきたい一心で、私のことをみそばに近づかせてください、湖の上を歩かせてください、と、イエスさまに申し出て、聞き入れられました。そしてペテロが湖に足を踏み出すと、あら不思議、ペテロも湖の上を歩いてしまいました。しかし……ペテロは湖面の波を見て、われに返ったのでしょうか、助けて! おぼれかかってしまいました。イエスさまはペテロを助け起こされ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑うのか」とお叱りになりました。 湖面を問題なく歩いていたペテロは、なぜおぼれかかったのでしょうか? イエスさまではなく、波を見たからです。ペテロがイエスさまを一心に見つめて歩いたならば、何の問題もありませんでした。おぼれたのは、湖面の波を見たからです。しかし、よく考えると、ペテロは常識的なことをしたのではないでしょうか? いったいだれが、湖の上を歩くというのでしょうか? 大きく波打ったら、こわがるのは当然のことではないでしょうか? しかし、そのような常識は、イエスさまを見させなくするもので、その結果私たちは、イエスさまのみわざを体験することができなくなります。ペテロは、イエスさまを見つめたのと同時に、イエスさまのみことばに対して信仰を働かせました。イエスさまのおっしゃるとおりと信じて、湖の上へと一歩を踏み出しました。 私たちもまた、全能なる創造主、イエスさまのみことばだけを信じて踏み出すならば、何の問題もありません。その信仰を砕くものは、多くの場合は人間的な常識です。 私たちが信仰を働かせるとき、それはキリストにある永遠のいのちをいただきつづけるということを意味します。十字架による罪の赦しは、あるいは信じられるかもしれません。いちおう、キリスト教はそのことを教えているということは、常識となっているからです。しかし、復活と永遠のいのちがいただけるということに関しては、それ相応のふさわしい信仰がないと信じ受け入れることはできません。 聖書ははっきりと、キリストが復活されたように私たちも復活すること、信じる私たちに永遠のいのちが与えられることを語っています。聖書のみことばは、そのいのちをいただいて私たちが永遠に神さまとともに生きるようにと、私たちのために書かれたものです。だから、私たちがもし、生きたい、生きる喜びを体験したい、と思うなら、聖書のみことばをつねに読むしかありません。 クリスチャンを名乗る人の中には、まるで覇気のない人、目が輝いていない人がいます。ほんとうに残念なことです。そういう人たちも聖書を読んで、自分に与えられた永遠のいのちの素晴らしさに目が開かれ、生き生きした人になれるようにと願うものですが、これまたなんとも残念なことに、そういう人は得てして、聖書に手を伸ばしたくはないものです。かくして、ずっと覇気がないままに、クリスチャンとは名ばかりの生き方をするしかなくなります。 私たちはこの信仰共同体の中に、ひとりでも、いや、ひとりも、そんな人を生み出さないようにしたいものです。私たちがもし聖書を読んでいるならば、どんなに聖書から教えられていのちの喜びを得ているか、ぜひ、交わりの中で、積極的に分かち合っていただきたいのです。以前うちの教会でよく行われていました、礼拝の中でのお証しをしたいという方は歓迎いたします。 それとも、いつもみことばから教えられて喜びをいただいてはいるものの、なにぶんこのコロナ下で交わりを持つこともままならない、とおっしゃいますでしょうか? ならば、せめて牧師に証しのメールなりお手紙なり送っていただければと思います。コピーして、みなさまにメール配信して分かち合います。 そのような分かち合いをとおして、みことばを読もうにも読む気が起こらないで苦しんでいる兄弟姉妹も、みことばの恵みに触れることができます。あるいは、すでにみことばを読む習慣が身に着きながらも、みことばを読む喜びがいまひとつ湧き上がってこない兄弟姉妹にも、新しい恵みが与えられて、ともに喜びます。普段からみことばをお読みして喜んでいる兄弟姉妹は、よりいっそう喜ぶことになります。 私たちが、救い主イエスさまにつながっていのちを得るために与えられた必要十分なみことば……私たちが手にしている聖書は、実に素晴らしいものです。今日も聖書のみことばからともに学び、いのちの喜びが得られたことに感謝しましょう。そして、これからも聖書を学びましょう。この1週間も、毎日聖書を開き、聖書に教えられたとおりの生き方を実践し、神さまのご栄光を顕しましょう。私たち、迷う者、弱い者を導き、励まし、力づける聖書のみことばを与えてくださっている神さま、イエスさまの御名を、心からほめたたえます。ハレルヤ!

「不信仰から信仰へ」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:24~29/メッセージ題目;「不信仰から信仰へ」 うちの教会は長年、創造論という主義のもと、教会形成がなされてきました。私もそれに共感して、この教会に導かれてきたわけですが、創造のみわざを事実という前提で福音提示する創造論は、疑い深い部類の人に対しては、かなりのインパクトを及ぼすものだと思います。 しかしそれはあくまで、どこかで信じる心の準備ができている人の場合です。私は高校2年生のとき、創造論について書かれた本に夢中になり、修学旅行で、部屋で一緒になった友人たちに、その本から教えられたことを説いて聞かせたものaでした。すると、どうなったでしょうか。彼らに鼻で笑われました。「鰯の頭も信心だねえ」などと言ってのける友人までいました。そのとき私が悟ったことは、初めから疑いを捨てようとしない人には何を言っても無駄だ、ということです。 今日の箇所に登場するトマスの場合はどうでしょうか? ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』という小説の中で、このトマスの疑いを巡って、登場人物に、「トマスは信じたかったのだ」という意味のセリフを語らせ、トマスの疑いを語るこのみことばに対する深い含蓄を示していますが、それでも、トマスがイエスさまの復活を疑っていたという事実に変わりはありません。 しかしトマスは、それで終わりではありませんでした。イエスさまはそんな疑り深いトマスに顔と顔を合わせて会ってくださり、正しい信仰に導いてくださいました。私たちは、トマスを正しい信仰に導いてくださったイエスさまの愛とみこころから、何を学ぶことができるでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 第一に、復活のイエスさまに出会わないなら、人は疑いから抜けられません。 24節、25節をお読みしましょう。……トマスは何を言いたかったのでしょうか? あなたたちはイエスさまを見たと言っている、しかし私は、実際に触れてみるまでは信じない、と言っているわけです。 このトマスのことばからは、いろいろなことが見えてきます。まず見えてくるのは、トマスが信仰を働かせるよりも現実を優先させるタイプの人だった、ということです。よく、疑いを抱きたがる人をトマスになぞらえることが多いのも、まさにこのみことばが根拠になっています。 しかし、私たちならばどうでしょうか? 私たちは果たして、トマスのことを不信仰だなどと言えるでしょうか? 科学の発達は世の中を便利にした一方で、実証されないものは真実ではないと決めつけ、私たちの聖書信仰をきわめて空疎なものにしてしまいました。その風潮に多くのクリスチャンが毒されてしまっています。天地創造ばかりか、イエスさまのことさえもリアルにとらえられなくなっています。あの数々の奇蹟は事実ではないとか何とか。私たちがトマスを見るとき、それは私たちクリスチャン自身の姿を見ていることなのです。 また、先週学びましたとおり、復活のイエスさまは、教会という信徒の群れ、主の弟子の群れのただ中に現れてくださいます。トマスが復活のイエスさまに会えなかったのは、その弟子たちの群れの中に一緒にいなかったことも理由として挙げられます。 私たちが礼拝をおささげする日曜日のことを、主の日、主日(しゅじつ)とも申します。その日に礼拝をおささげするのは、なんといっても、イエスさまの復活された日であり、イエスさまのご復活を覚えるという意味があるからです。実に日曜日の礼拝は、復活のイエスさまに出会い、礼拝する日です。 トマスは、その最初の日曜日に復活のイエスさまに出会うことができませんでした。それもこれも、弟子たちの群れに一緒にとどまらなかったからです。私たちにとって日曜日の礼拝にしっかり出席することがなぜ大事かというと、そのことでともに復活のイエスさまにお会いし、イエスさまを礼拝できるからです。したがって日曜日に礼拝に集わないならば、イエスさまに出会う機会がそれだけ失われることになってしまうわけで、これは重大です。 とは言いましても、いま世の中はコロナ下で、礼拝堂のような同じ建物にともに集うことが物理的に無理な人のとても多い状況です。うちの教会の場合はメール配信という形で、ご家庭で礼拝できるように工夫しているわけですが、もし礼拝堂に来られなくてメールで礼拝、という形になった場合でも、忘れないでいただきたいことは、私たちは主の子どもどうし、たとえ場所は離れていても、ともに礼拝に集っている、ということです。日曜日にメールに向き合うことは、水戸第一聖書バプテスト教会の信徒たちとともに復活のイエスさまに出会っていることだと考えていただきたいのです。 ほかにも、トマスのことばからわかること……トマスはなんと言っているかというと、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れなければ……」と言っています。 言うまでもなくその釘の跡、槍の跡は、イエスさまが十字架にかかられたゆえにできたものです。ここからトマスは、イエスさまが十字架にかかって死なれたという事実に、非常に固執していることが見て取れます。 先生とも主ともお慕いしてきたイエスさまが十字架に手足が釘づけられ、脇腹に槍でとどめが刺されたなど、弟子たちとしては耐え難い事実でした。しかし彼ら弟子たちは、いつまでもイエスさまの十字架にこだわっていてはなりませんでした。なぜならば、イエスさまは復活されたからでした。 イエスさまの復活が心になかったならば、私たちはいつまでも、イエスさまの十字架の残酷さから目を離すことができません。イエスさまの十字架を心に留めることは大事なことにはちがいありません。イエスさまの十字架がなければ、私たちは罪を赦されることも、神さまの子どもになることもなかったからです。私たちを愛してくださるゆえに、イエスさまがどれほど十字架の上で傷つかれ、血潮を流されたか……それを心に留めるのは大事なことです。 しかし、それにとどまっているだけなら、私たちに何の希望があるでしょうか。イエスさまは復活されたのです。イエスさまが復活されたからこそ、イエスさまの十字架には意味があったとさえ言えます。私たちは十字架を信じるだけではありません、復活も信じ受け入れているゆえに、罪が死に、永遠のいのちに生かされているのです。 世の中は、イエスさまの十字架を知っています。十字架のアクセサリーをする人は多くいますが、十字架とはイエスさまがおかかりになったものだということは、みんな知っています。 しかし、イエスさまの復活となるとどうでしょうか? イエスさまが復活されたという最も大事なことを、単なる信仰上の問題と片づける記述に、私はしょっちゅう出会ってきました。『キリスト』なんていう子ども向きの伝記の本があるので気になって読んでみたら、十字架のことは書いていても、復活に関しては、弟子たちの間で復活の信仰が生まれたことがキリスト教のはじまりとなった、とか何とか、復活がまるで事実ではないように書いています。しかし、そんな信仰など意味があるのでしょうか? トマスは、疑り深い人であり、弟子たちの群れとともにいなかったために復活を目撃できなかった人であり、なおも十字架にこだわっていた人でした。そのいずれも、イエスさまの復活を見させなくする理由としては充分であり、その3つの要素がすべてそろったトマスは、もはやイエスさまの復活を信じるなど、とても不可能でした。 私たちもまた、不信仰に走らせるもの、復活を見させなくするものに生活が取り囲まれています。疑り深くあるようにというこの世の風潮に毒されること、復活をともに祝う教会の群れに距離を置いてしまうこと、聖書を読んでもイエスさまの十字架ばかりに目を向けて復活は二の次となってしまうこと……しかし、そもそも復活というものを目撃したことのない私たちは、いとも簡単にそのような不信仰に陥ってしまうものです。このような私たちを主が救ってくださるとしたら、それはどのようにしてでしょうか? 第二のポイントです。復活のイエスさまに出会えば、人は無条件に信じ受け入れます。 26節から28節をお読みしましょう。……イエスさまの復活を信じるということは、それこそ無条件になのです。 トマスは、鍵を閉めて閉じこもっていたはずのその家にイエスさまが現れてくださったという、その事実に圧倒されました。それだけではありません。イエスさまはトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」とお語りになりました。 イエスさまはなんと、あらかじめトマスと会ってお話しされたわけでもないのに、トマスがいちばんこだわっていたことに触れられ、言い当てられました。イエスさまにはすべてお見通しでした。そしてイエスさまはおっしゃいました。 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 なぜ、イエスさまの復活を信じない者ではなく、信じる者になりなさいとイエスさまはおっしゃったのでしょうか? それは、イエスさまの復活を信じない人は不幸だからです。喜びも楽しみも、うれしさもありません。そんな人になりたいとだれが思うでしょうか? しかしイエスさまは、ご自身についてくる弟子たちに、この世の何をもってしても奪い去ることのできない喜び、この世の何ものも与えることのできない喜びを与えてくださいます。どのようにしてでしょうか? ご自身の復活によってです。 復活を受け入れていないクリスチャンは、この世の中で最も哀れな存在です。この世で苦しむだけ苦しんで、イエスさまの復活にあずかることもわからないなんて、こんな不幸なことはありません。 あえてこの世の人たちが避けるような苦しい道をクリスチャンたちがあえて歩もうとするのは、その苦しみなど比較にならないほどの喜びを、イエスさまの復活にあずかることによって手に入れているからです。イエスさまの復活にあずかるならかぎりなく喜ぶだけではありません。この世において神の栄光を現すために、積極的に用いられていこう、一粒の種となろう、と、大いなる人生に踏み出す力が与えられます。 そうです。イエスさまに用いられるためには、イエスさまの復活を信じる信仰というものがどうしてもなくてはなりません。しかし、そのように用いられたいと願う原動力は、信仰を持っていることそのものという「事実」にあるというよりも、その信仰から出た「喜び」から来るものと言えます。 トマスはイエスさまを前にして、もはやイエスさまの傷跡に触れる必要を感じなくなっていました。十字架へのこだわりは、復活という事実の前に消し飛びました。気がつくとトマスは、「私の主、私の神よ」と告白していました。 さて、お気づきでしょうか。このときトマスは、単独でイエスさまに出会ったのではありませんでした。弟子たちの群れの中、交わりの中で、イエスさまに出会ったのでした。ここでも、イエスさまに出会うことは、神の子どもたちの群れ、弟子たちの群れ、教会の交わりの中で起こることだということがわかります。 私たちはときに、仕事ですとか病気ですとか、のっぴきならない事情で教会の礼拝を休むことがあります。そんなとき私たちは、心のどこかに責められるような思いをすることはないでしょうか? しかし、安心していただきたいのです。私たちはまた次の機会に、信徒の交わりの中に出ていって、復活のイエスさまに出会う体験をすることが許されています。それはまさに、復活の日にイエスさまにお会いできなかったトマスに、今度こそイエスさまにお会いできる機会を、イエスさまご自身がくださったようにです。 この箇所を読むと、イエスさまはまさに、トマスの不信仰を取り扱われるためということが最大の目的のようにして、弟子たちのただなかに現れてくださったように読み取れます。トマスのため。しかしこのトマスの信仰告白は、今なお怖れに震えて扉に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち全体を喜ばせ、励ますことにもなったのでした。 ひとりの人がふさわしい復活信仰に導かれ、生きた人となることをみんなで目撃する、このことは弟子たちの群れに、計り知れない喜びを与えたのではないでしょうか? イエスさまが弟子たちの群れのただなかでこの立ち帰りの御業を行われたのは、トマスひとりのためではありません。トマスを説得できかねて困っていた弟子たち、だんだんとイエスさまの復活の事実が薄らいでまたもや怖れにとりつかれかかっていた弟子たちのことも、同時に励ましてくださるためでした。 礼拝という時間は、自分ひとりだけが復活のイエスさまに出会って喜んでそれで終わり、の時間ではありません。ほかの兄弟姉妹が復活のイエスさまに出会って喜ぶその姿を見て、自分もまた喜ぶ時間です。そういうわけで日曜日の礼拝は、ひとりでささげてそれで終わりなのではありません。ともに復活にあずかり、ともに喜ぶ時間です。ともに喜んではじめて、私たちにとっての復活の喜びはわがものになります。 とにかく、イエスさまが復活されたという事実を前にして、人にはどんな理屈も必要なくなります。信じない人に対しては、ことばで説得しようとしてもむなしいです。その人が実際に復活のイエスさまに出会って、「私の主、私の神よ」と信仰告白できるように、祈る必要があります。教会の集まりとは、そのまことの復活信仰の告白へと人を導く場です。ぜひ、復活のイエスさまを知ってほしい人のことを、教会に連れてきていただきたいのです。 もちろん、コロナ下という現実を考えると、それはかなりハードルが高いことのように思えるでしょう。しかし、このような中でも、救いを求める人は起こされるものです。コロナ下という逆風のような状況の中でも救いを求めて教会に行こうという人が周りから起こされるように、祈ってみてはいかがでしょうか? お勧めします。 第三のポイントにまいります。復活のイエスさまに出会うことは、だれにでも門戸の開かれた幸いなことです。 イエスさまはおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人は幸いです。」 もし、イエスさまを実際に見なければ救われもせず、ましてや働き人の資格もないのだとするならば、イエスさまの十二弟子以外、だれがふさわしいというのでしょうか。しかし初代教会以降2000年にわたり、キリスト教会を形づくってきたのは、イエスさまに出会ったことのない人たちでした。みことばをお読みして、みことばに啓示されたイエスさまに出会ってイエスさまにお従いしたのであって、決して、イエスさまを肉眼で見たわけではありませんでした。 イエスさまはようやく信仰を持ち直したトマスに向かい「見ずに信じる人たちは幸いです」とおっしゃいました。このみことばがヨハネの福音書に記録された意味を考えましょう。ヨハネの福音書が教会で読まれるようになった時代、イエスさまはすでに昇天されて久しく、イエスさまのみことばや御業が正しく伝えられることが必要になっていました。 その中でイエスさまがおっしゃったみことば「見ずに信じる人たちは幸いです」というみことばを信徒たちが読む必要があったのはなぜでしょうか? それは、実際にイエスさまにあったことがないことで、ヨハネのような使徒たちに対して劣等感をいだくことがないようにという、主のご配慮があったからではないでしょうか? 考えてみましょう。私たち凡人は使徒というと、何やらすごい人のように思えるかもしれませんが、彼らは復活のイエスさまを肉眼で目撃することがなければ、イエスさまの復活を信じることなどできなかった人たちでした。しかし私たちは、肉眼で目にしなくてもイエスさまの復活を信じています。 復活が事実であると受け入れ、復活が生きる原動力となっています。まさに、見ずに信じる者は幸いなのです。そしてそれはどれほど幸いかと言えば、使徒を上回る幸いとすら言えます。使徒ですらできなかった「見ずに信じる」ことを、私たちはさせていただいているからです。 私たちをこのように復活信仰の中で選んでくださり、力づけてくださるイエスさまに、心から感謝しましょう。復活は、大いなる力を及ぼします。 このときイエスさまから大いなるお取り扱いを受けたトマスは、のちに遠くインドにまで宣教し、殉教したと伝えられます。 しかし、そのような素晴らしい働きをしたトマスにも、できなかったことがあります。それは、21世紀の日本の、茨城県の人たちに宣教することです。これは私たちにこそできることです。 イエスさまは私たちにこの貴い使命、やりがいに満ちた使命を与えるために、私たちをこの地に生まれさせ、育ててくださり、イエスさまの十字架のみならず復活を信じる信仰を与えてくださいました。使徒にさえできなかった働きを、私たちはイエスさまの十二使徒に始まる世々の聖徒の働きを受け継ぎつつ、今ここにともに展開しているのです。 私たちも本来は疑いに満ちた人でした。しかし復活のイエスさまは、そんな私たちに出会ってくださり、教会の交わりの中で、信仰の人、復活のイエスさまを証しする人へとつくり変えてくださいました。 私たちはイエスさまの復活の証人です。死ぬべきいのちから、絶望から救い出してくださった復活のイエスさまを、一人でも多くの人に宣べ伝えるのです。イエスさまは私たちのことを愛してくださっているので、その貴い使命を私たちにくださいました。今日もイエスさまの復活に感謝し、主に拠り頼みつつ、用いていただけるように身をささげてまいりましょう。

「マグダラのマリアに学ぶ愛の行い」

聖書箇所;ヨハネの福音書20:1~18/メッセージ題目;「マグダラのマリアに学ぶ愛の行い」 聖書の記述の中には、並行して同じできごとを別々の角度から描いているものが時折出てまいりますが、その中でも最も頭を悩ますのは、「イエスさまの復活、からっぽの墓」の記事ではないかと思います。四つの福音書を読み比べてみると、あちこちが合わないように見えることに気づきます。 私は今回のメッセージの原稿を書くに先立って、あらためて、4つの福音書を読み合わせ、どう解釈するといちばん無理がないだろうかと考えぬきました。難しい作業でしたが、推理小説を読んで結論を導き出そうとする作業に似ていると考えると、やりがいも生まれてまいりました。しかし、結果はと言いますと……神さまは簡単には、この謎を解かせてくださいませんでした。 しかし、講談社現代新書から『聖書の名句・名言』という本を出していらっしゃる、千代崎秀雄先生という牧師先生は、このからっぽの墓の記述が一致しないことについて、こんなことを語っていらっしゃいます。もし証言がぴたりと一致していたら、そのほうが口裏を合わせたみたいで、かえって信頼できないではないか……一致していないからこそかえって信頼できるとも言える……それを思い出し、私は、千代崎先生にしてそうおっしゃるなら、安心していいのか、と思ったものでした。 それでも、ひとつだけ発見したことをお話ししたいと思います。それは……このからっぽのお墓を聖書が語るにあたって、どの福音書も、そこにマグダラのマリアという女性が訪ねて行った、ということをはっきり語っています。事件の鍵を握るヒロインならぬ、からっぽの墓の記述の鍵を握るヒロイン、それはマグダラのマリアです。 マグダラのマリアがイエスさまの復活の朝、日曜日の朝に、イエスさまのお墓に行ったということは、すべての福音書に書かれています。それほど、マグダラのマリアは聖書において、大事な存在だということです。 このヨハネの福音書に描かれたマグダラのマリアの姿からわかることは、彼女がイエスさまを求めて、ひたすら行動したということです。 ほかの福音書によれば、マリアは十二弟子とともにイエスさまについて行っていた人でした。そして、イエスさまが十字架にかけられ、死んでいかれたのをじっと見つめていました。それからも、アリマタヤのヨセフがご遺体を引き取ってお墓に運んだとき、マリアは、アリマタヤのヨセフについて行き、お墓にご遺体が納められたのをじっと見届けました。安息日が明けた日曜日の早朝、マリアは香料と香油を持ってお墓に来ました。 ほかの福音書を読めばわかりますが、マリアはひとりで来たわけではなく、ほかにもヤコブの母マリアやサロメのような女性たちもいっしょでしたが、ともかくマリアは来ました。このヨハネの福音書を読んでも、「私たちには」という言い方をしていて、マリアがひとりで行ったわけではないことがほのめかされています。しかし、ヨハネの福音書はあくまで、マグダラのマリアの名前だけを挙げています。それだけ、ヨハネの福音書は、マリアという人物にスポットが当てているわけです。 イエスさまが葬られた横穴式のお墓の入口には、巨大な石が転がしかけてあります。しかもその石には、ピラトの封印が施されています。勝手に開けるなら重罰を免れません。いえ、それ以前に、その墓の前には屈強な番兵たちが、だれも墓を開けることができないように番をしていました。イエスさまのご遺体に対面するなど、とんでもないことでした。 それでもマリアは、行かなくちゃ、何が何でも行かなくちゃ、と、明るくなるころを見計らってただちに行動に移しました。マリアは、あきらめなかったのでした。それはそれほど、イエスさまを愛していたからでした。ご遺体であっても、イエスさまと対面したくてたまらなかったのでした。マリアのこの態度は、ともにおられるイエスさま、インマヌエルの主を求める態度です。主がともにいてくださることに飢え渇く姿です。 果たして、お墓の石は転がしてあり、中はからっぽでした。マリアは、墓がからっぽであることを見て動揺し、弟子たちに知らせに行きました。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」しかしこの態度は、ヨハネの福音書を読むかぎり、マリアにはまだこの時点で、復活信仰がしっかり根づいていなかったことを明らかにしています。それでも、マリアは信仰が不完全ななりに行動しました。このことは賞賛されるべきことではないでしょうか? 正統の信仰告白は私たちにとって宝物より大事なもの、いのちにも等しいもので、聖書的な信仰告白をしていることは私たちを正統な教会に所属させる点でとても大事です。しかし、その信仰を持っていることに安心して、何も行動しないというのでいいのでしょうか? 私たちは、正統の信仰を持っているでしょう。常識的な判断も下せるでしょう。しかしそんな私たちは、復活に関するイエスさまのみことばも思い出さず、ひたすら行動したマリアがおっちょこちょいだとか、愚かだとか笑えるでしょうか? お墓に行っても無駄だから行くべきではない、とマリアが思ったならば、弟子たちに至るまで復活のイエスさまに出会う道は閉ざされたままでした。十字架から三日目によみがえられるという預言は、成就したかどうかわからなくなりさえしたかもしれません。 ともかく、マリアに充分な復活信仰がなかったことが、かえってペテロやヨハネといった弟子たちをお墓へと動員するきっかけをつくったわけです。しかし、むしろこう言うべきかもしれません。主がすべてを働かせて益としてくださるにあたり、マリアのこの愛の行動力を用いてくださった、と。マリアがほめられるべきなのは、からっぽのお墓という事実、すなわち、イエスさまの復活という事実を告げ知らせるのに主がお用いになるほどの、純粋にイエスさまを愛する思い、イエスさまを慕う思いがあったからです。 マリアは、イエスさまを愛していました。これほどまでにイエスさまを愛するのは、イエスさまに愛されたからです。鍵となるのはマルコの福音書とルカの福音書におけるマリアの紹介の記述、「イエスさまに七つの悪霊を追い出してもらった」という事実です。十二弟子と一緒にイエスさまにお従いしたのは、まさに、イエスさまに七つの悪霊を追い出していただいたことと深い関係があったことが、ルカの福音書の記述にほのめかされています。 「七つの悪霊」といえば、イエスさまはかつて、「七つの悪霊」という存在について語られたことがありました。けがれた霊が人から出ていったときに、その人の心が掃除してきちんと片づいていたようになっていると、自分より悪い七つの霊を引き連れて住みつき、その人の状態はさらに悪くなる……。このみことばから察するに、マグダラのマリアはただでさえ悪霊に取りつかれていたのが、さらに悪い悪霊どもが取りつき、もはや人間には手の施しようもないほど悪くなっていた、ということだったことが窺い知れます。 人間にたくさんの悪霊が取りつくとどうなるでしょうか。福音書には墓場に住む男の話が出てきますが、裸で、つないだ鎖を引きちぎるほどの怪力を発する凶暴さで、もはやその姿は人間ではありません。あるいは、泡を吹いて転げまわり、水の中だろうと火の中だろうとあたりかまわず飛び込みます。あるいは、倫理的にひどい状態になります。深酒に陥ったり、性的に底知れず乱れたりするのは、明らかに悪霊の影響です。 しかし、人は、そんな悪霊の支配を受けている自分は間違っている、そこから救われたい、という思いを、心のどこかで持っているものです。そんな人がイエスさまに出会い、いやしをいただいたならば、イエスさまを愛さずにはいられなくなるのではないでしょうか。 マグダラのマリアはイエスさまに出会って真人間になりました。もう、以前のような、それこそ悪魔に魅入られたような行動を人前で取ることはなくなりました。それでも人は相変わらず、彼女のことを札付き扱いしたかもしれません。暗い過去を引きずる人を、人は簡単には許さず、受け入れないでしょう。 しかしイエスさまはちがいました。マリアのことを愛してくださいました。人が忌み嫌うような、特に、ユダヤの宗教社会ではことさらに忌み嫌われるような、悪霊にたっぷり取りつかれてすっかりおかしくなったこの女に触れてくださり、悪霊を追い出して真人間にしてくださいました。 イエスさまはおっしゃいました。多く赦された者が多く愛するのだと。私たちはもちろんのこと、イエスさまを愛したい思いを持っていると思います。しかし多くの場合、私たちのイエスさまに向けた愛は貧弱です。それはなぜでしょうか。それは、イエスさまがかぎりなく愛してくださっているその愛を、私たちは充分に受け止めていないからです。つまり、その愛に感謝していないからです。 みなさまもご存じだと思いますが、「ありがとう」の反対のことばは「あたりまえ」です。私たちがこうして生きているのはあたりまえ。ご飯を食べて空気を吸って生きているのはあたりまえ。仕事をしてお金を稼ぎ、生活をするのはあたりまえ。 万事につけ「あたりまえ」と思うならば、どこに感謝する心が生まれるでしょうか。そんな人にとっての感謝なんて、所詮人前で自分をよく見せるためのポーズでしかありません。しかし、私たちがもし自分の罪を悟り、その罪ゆえに本来滅びなければならなかった者が、イエスさまの十字架を信じる信仰を与えられ、永遠のいのちを与えられたと知ったならば私たちにとっての「あたりまえ」は「ありがとう」に変わります。最大の「ありがとう」は、私を罪から救ってくださったイエスさまが、こんな罪深い私といつも一緒にいてくださることです。 私たちにとって悔い改めが必須なのは、自分自身がなんて罪深いのかと絶望に浸って自分をいじめる「マゾヒズム」のゆえではありません。その罪を完全に赦してくださったイエスさまと、さらに深い交わりを持ち、さらにイエスさまを愛するためです。もし、悔い改めがマゾヒズムのような自分いじめにとどまっているならば、イエスさまは見えているようで絶対に見えてきません。その罪をすべて赦してくださったイエスさまに完全に視点が移るとき、イエスさまを愛する思いが生まれ、それがイエスさまを愛するゆえの行いを生みます。 ヤコブの手紙を読んでみますと、自分には信仰があると口だけでいうことがどんなにむなしいか、行いで信仰を示しなさい、と語られています。これを表面的に読むならば、行いで認められようとするのはパウロが聖書で語ったメッセージである信仰義認と矛盾する、という結論になってしまいますが、その解釈は正しくありません。そうではなくて、イエスさまに愛されているからイエスさまを愛する行いをする、ただそれだけのことです。 信仰が深いということは、聖書の知識の量や教会生活の長さ、献金の額などで測られるものではありません。どれだけイエスさまに愛されているその愛を受けて、イエスさまを愛しているか、そこにかかっています。 イエスさまを愛するならば、イエスさまのご命令を守ります。そのご命令は、神を愛し、人を愛しなさいというご命令です。イエスさまがどれほど御父を愛しておられるか、そして、イエスさまはどれほど私たちを愛しておられるか、それを私たちは、日々みことばをお読みして、お祈りして、教えていただき、悟らせていただき、しみじみ感動させていただくのです。 そして、そんなマリアに、イエスさまは真っ先に出会ってくださいました。弟子たちにではなかったのです。弟子たちはイエスさまの墓の中に入っても、このみことばにあったように、マリアのことばを信じることまではしても、イエスさまの復活を理解しないままその場を去りました。マリアはそこを離れられず、さめざめと泣きました。イエスさまはそんなマリアに、泣かなくてよい、と現れてくださり、わたしの復活を告げ知らせなさい、と、新しい使命を与えてくださいました。 イエスさまに愛される分、私たちはイエスさまを愛します。そんな私たちに、イエスさまは復活のいのちをもって現れてくださり、私たちを生活の現場に遣わし、わたしの復活という福音を宣べ伝えなさいと、使命を与えてくださいます。この栄光に満ちた主の働きができるのも、私たちが日々、マリアのように、イエスさまに出会って涙をぬぐっていただくゆえです。 いくつか、思い巡らしましょう。私たちは愛が行動に結びつくほど、イエスさまを愛していますでしょうか? 十分な愛になっていないなら、何が問題でしょうか? 私たちはまた、イエスさまを見失って悲しんではいないでしょうか? イエスさまはそんな私たちに出会ってくださり、悲しみをぬぐい去ってくださると、信じてまいりましょう。8

「イエスの母、十字架の前に立つ」

聖書箇所;ヨハネの福音書19:25~27/メッセージ題目;「イエスの母、十字架の前に立つ」 今日お配りした月報のほうに詳しく書きましたが、むかし同じ教会でともに働いた韓国人の婦人宣教師の先生が、おととい、天に召されました。私よりも20歳ほど年上の独身の方で、まだ働き人としての経験に乏しかった私のことを、いつも励ましてくださった方でした。しかし、何がいちばんお世話になったかといえば、妻を紹介してくださったことでした。 ともに働いていた頃のことで、忘れられないエピソードをお話しします。当時その韓国人教会には、日本人の大学生の男の子が来ていました。心痛むことですが、彼は幼いころ、お母さまを亡くしていました。ある日教会で、私が彼とその宣教師先生と3人で一緒に立ち話をしていたところ、別の韓国人の婦人がその話の輪に近づいてきて、彼に話しかけて言いました。「お母さんですか?」なるほど、年齢的にはちょうどそんな感じです。宣教師先生も男の子も、ちがいます、といいながら、まんざらでもない表情を浮かべていたのを、私は今でも覚えています。 あのとき私は、その韓国人の姉妹のことばに、勘違い以上の深い意味を見出したものでした。まことに教会という共同体は、新しいお母さんができる場所です。また、新しくお母さんと呼んでもらえる場所です。 今日はこの「母」ということを考えてみたいと思います。今日のみことばに登場するおもな人物は、イエスさまのほかに、マリアと、イエスさまの弟子です。イエスさまの弟子は、このヨハネの福音書の最後で明かされますが、福音書を記したヨハネのことです。 イエスさまの母となった人物は、歴史上ただ一人、マリアだけです。そういうこともあって、歴史的にキリスト教会はマリアという人物を特別視してきました。しかし、宗教改革の伝統を引き継ぐ私たちは、マリアを特別視することから脱し、マリアもまた、神の前にひとりの人であると見なしています。 それでもマリアは、私たちにとって学ぶべき模範であることに変わりはありません。最大の学ぶべきこと、それを知る鍵は、マルコの福音書3章31節から35節をお読みすれば見えてきます。おひらきいただきたいと思います。 みなさん、この箇所を読んで、どうしても引っかからないでしょうか? このみことばの締めくくりにイエスさまがおっしゃった、だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母、とおっしゃっています。 要するにイエスさまは、霊の家族は肉の家族に優先することを説いていらっしゃるわけですが、それにしても「だれでもイエスさまの母」という表現は、何のことだろうと思わないでしょうか? イエスさまの兄弟、ですとか、姉妹、ならまだわかるでしょう。 しかし、母、となるとどうでしょうか? 私たちがイエスさまの親になるとでもいうのでしょうか? 特に女性の方は、イエスさまを産むのだろうか、なんと畏れ多い! とお思いになりませんでしょうか? とんでもないことです。しかしイエスさまは、はっきりそうおっしゃったのでした。 もちろんこれは、イエスさまの霊的なお働きを肉の家族の論理でやめさせようとするマリアの間違いを正そうとされたという意図も含まれています。わたしの母ならば、神さまのみこころを行なってください、つまり、神の国を宣べ伝えるわたしの働きをやめさせようとしないでください、ということです。しかし、それ以上に私たちは「『だれでも』わたしの母です」とおっしゃっているこのみことばに注目する必要があります。 神のみこころを行う以上、「私たちが」イエスさまの母と見なしていただける、ということです。とは言いましても、いかにイエスさまにそう言っていただけるからと、「はい、私は神さまのみこころを行なっているから、イエスさまの母です」などと堂々と言える人など、まともな神経のクリスチャンならば恐らくひとりもいないと思います。 この難しいみことばを知るには、唯一、イエスさまの母であったマリアがどういう人であったかを、みことばから知る必要があります。イエスさまを産んだマリアのような特別な人からは何も学べない、ではないのです。神のみこころを行う者をイエスさまはご自身の母と呼んでくださるからには、私たちは母マリアから学ぶべきである、のです。 今日のメッセージは、十字架の前に立つマリアの姿と、いくつかのみことばを関連させながら語ってまいりたいと思います。 第一に、マリアは十字架の前に立つすべての人の代表選手です。 イエスさまにつき従っていた人たちの中で、十字架の前に立っていたことがはっきりみことばに記されている人は、多くはありません。弟子たちは逃げ去り、どうにか、ヨハネは十字架のそばにいた模様でした。しかし、この十字架の前にいた人たちの中で、女性たちのことがみことばに特記されています。イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリア。 ある牧師先生がこの場面のことを語られたとき、こんなことをおっしゃっていました。男は弱い! みんな逃げた! それに引き換え女性は強い! ほんとうにそうだと思います。教会の多くの部分を姉妹方に支えていただいているという事実を見るにつけ、しみじみそう思います。 婦人たちはイエスさまの十字架を見届けました。しかしその中でも、マリアはどうでしょうか? 彼女はイエスさまをみごもり、お腹を痛めて産んだ人です。それも、人口調査の旅の果てに、どこにも宿屋がなくて、馬小屋で産むという大きな苦しみを伴ってです。それから30年近く、育て、そしておそらくはヨセフが亡くなってからは、大工の家庭の大黒柱としてイエスさまに頼って生活しました。単なる関係ではないのです。親子です。 そんなマリアが、息子の傷つき果て、のろいを受けて死んでいく姿を、じっと見つめつづけたのです。私たちにそんなことが起こったならば、果たして耐えられるでしょうか? ルカの福音書2章34節と35節をご覧ください。マリアはこの預言を受けたとき、まちがいなく、まるで剣が心を刺し貫かれるようなショックを受けたはずです。この男の子によってあなたの家族は祝福されます、と言われたのではなく、人々の反対にあうしるしとして定められています、あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります……何ということを言われたのでしょうか。 シメオンのことばは続きました。「それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」人々は十字架を前にして、まるで心が剣で切り刻まれるようになって、自分の罪が明らかにされ、痛みとともに悔い改めに導かれます。 マリアは、息子を十字架に送り出すことで、果てしない痛みを心に負いました。しかしそのことによって、人々はまことの悔い改めを体験し、神さまの民として回復されるという、みこころが成就したのでした。 マリアは、十字架を前にして、心は千々に切り裂かれていました。しかしそれは、母親として死にゆく息子の前に立つということ以上の意味がありました。自分もまた、神の前に立つ罪人として、心が切り刻まれ、罪が悔い改めに導かれるという、何にもまして貴い体験をしていたのでした。 映画『ジーザス』や『パッション』などを見ると、イエスさまの十字架の残酷さに、思わず私たちは目をそむけたくなります。しかし、私たちはイエスさまの十字架の残酷さそのものに関心を持つのではありません。イエスさまがかわいそうだから心が動かされるのではありません。 そのように十字架でイエスさまをずたずたにするほど私たちの罪はひどいもの、しかし、その罪をすべて赦してくださったことを、私たちはイエスさまの十字架を思い、感謝するのです。 私たちはマリアのごとく、イエスさまの十字架の前に立ちつづけることができますでしょうか? 今週の受難週、私たちはいつにもまして、イエスさまの十字架を思うものとなりたいものです。 第二のポイントです。マリアは、十字架によって新しい家族をつくっていただくクリスチャンの象徴です。 26節、27節をお読みしましょう。……イエスさまは、十字架に死なれるという御父のみこころを成し遂げられるという大きな使命がありました。しかし、家族を残していかなければなりませんでした。特に、寡婦のマリアをどうしなければならないか、という、大きな問題がありました。 イエスさまはこのマリアを、愛する弟子のヨハネに託されました。しかし私たちは思わないでしょうか? たしかイエスさまには、弟たちがいるはずではないか? その中でもヤコブとユダは、初代教会の指導者にもなったし、聖書のみことばも書いているではないか? 彼らがマリアのケアをすればよかったのではないか? しかし、ヨハネがマリアのケアをするということは、2つの理由から必要なことでした。 まず、主の兄弟たちは、イエスさまを信じていない人たちでした。彼らがイエスさまを信じていなかったことは、ヨハネの福音書の7章にはっきり書いてあります。 また、イエスさまから「わたしの兄弟姉妹、わたしの母」というおことばを引き出すきっかけになったのは、マリアと彼ら兄弟たちがともにイエスさまを連れ戻しに来たことからでしたが、ある牧師先生によれば、主の兄弟たちがマリアをそそのかして連れ戻しにやって来たと解釈できる、いけなかったのは兄弟たちだった、ということでした。 一方でマリアは、こうしてイエスさまの十字架の前に立つほどの信仰を持っていました。十字架の前にいたということは、私はイエスの母です、と言っていることであり、それは、私はイエスを信じています、と表明しているのと同じことです。 ここでマリアは、ほんとうの意味でイエスさまがおっしゃるところの「わたしの母」となることができたのでした。イエスさまはここでマリアに向かって「女の方」と言っていますが、この呼びかけのことばは、カナの婚礼の時にぶどう酒が切れて困ったことになったとき、イエスさまに助けてもらおうとしたマリアに向かい、イエスさまが呼びかけたおことばでもありました。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」 特に日本語の聖書でこの箇所をお読みすると、イエスさま、実(じつ)のお母さんに向かってなんてつれない言い方をなさるのか、という印象を受けるかもしれません。しかし、この「女の方」というおことばは聖書によっては「お母さん」と訳してもいて、まったく突き放した言い方をなさっているとはかぎらないとも言えます。 それでも、女性に対する尊称のようなこの呼びかけを用いておられても「お母さん」とはっきり呼びかけておられないのはたしかなことで、ここにマリアは、イエスさまとは肉親としてではなく、霊の家族として結びつけられる必要があったことが垣間見えます。 そして、イエスさまは十字架にかかられ、あのときマリアに語った「わたしの時」が、ついに実現しました。あのときの呼びかけと同じ呼びかけで、イエスさまはマリアに「女の方」と呼びかけました。イエスさまの時が実現した今、あなたは霊の家族に迎え入れられるのです……。 そうです。マリアはそういうわけで、イエスさまを信じない肉の家族ではなく、霊の家族に属して生活する必要があったのでした。その、迎え入れる家族に、イエスさまはヨハネを指名されました。自分自身が告白するとおり、ヨハネはイエスさまに愛された弟子です。イエスさまの愛を受けて、イエスさまの母親をケアするのに、ヨハネほど適切な人はいませんでした。肉の家族であるイエスさまの弟たちではなく、ヨハネがケアすることで、マリアは名実ともに神の家族、キリストのからだの一員となったのでした。 そして、ヨハネがマリアのケアをした、もっと大きな理由……それは、神さまご自身がそう願われた、ということです。 のちに主の兄弟たちは、イエスさまを信じて神の家族に加わり、長じて初代教会の指導者にまでなりました。しかし、そんな彼らが、だからということでマリアを改めて家族として受け入れたという記述は、聖書にありません。あるのは、ヨハネがマリアを母親のように受け入れて生活した、という記述だけです。 この記述はヨハネの福音書に書かれているわけですが、記述がほかならぬヨハネによる福音書に残されていることは、初代教会の人間関係を知る手掛かりとなります。それは、マリアをケアする責任をイエスさまから託されたヨハネ自身の偽らざる告白が、そこになされているということ、そして、福音書というものが初代教会の産物である以上、マリアをケアすることが、主の兄弟たちを含む初代教会の指導者たちに広く認められていたということ……というより、彼ら指導者たちも、ヨハネがマリアのケアをすることはイエスさまのみこころだと認めていたこと……そういうことがこの26節、27節のみことばから見えてきます。 十字架は私たちを、愛し合う家族にします。それが天のお父さまの願っていらっしゃることです。十字架によって私たちは天のお父さまを、お父さんと呼ばせていただく、同じ家族になります。マリアが肉の家族を超えて、霊の家族に入れられたように、私たちも霊の家族に入れられ、ともに成長するのです。 うちの教会も親子でクリスチャンという方が何家族かいらっしゃいますが、肉の家族であることで終わるのではなく、霊の家族が肉の家族にしていただいた存在として、ともに生活するものとなりたいものです。私たちクリスチャンの大前提は、霊の家族です。 イエスさまは、だれでも神のみこころを行うならその人はわたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母とおっしゃいました。唯一イエスさまの母であったマリアは、イエスさまの十字架の前にひとりの人として立ち、心が剣で刺し貫かれました。私たちもイエスさまの十字架の前に立つならば、心が刺し貫かれます。この受難週、特にイエスさまの十字架を思い、心からの悔い改めに導かれますようにお祈りします。 また、この悔い改めは一人で完結するものではありません。ともに神の家族とされている私たちが、ともに行うことです。私たちは、同じ神さまを父としてともに悔い改め、ともに罪赦されます。 そのようにして罪赦されたどうしが、愛し合い、仕え合い、神の国をこの地に宣べ伝えるのです。それがイエスさまの願っていらっしゃる、神のみこころを行うことであり、イエスさまはそのような私たちのことを喜んで、ご自身の家族と呼んでくださいます。 この受難週、十字架の前にともに進み出て、ともに主の家族とされていることを感謝してまいりたいと思います。では、お祈りします。