初めであり、終わりであり、生きているキリスト

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:9~20/メッセージ題目;初めであり、終わりであり、生きているキリスト 創造主なる神さまが私たち人間に書かれた聖書のみことばは、この世界には終わりがあることを語っています。私たちは今自分たちが生きている世界に対して、いつまでも続くものだとか、そもそも終わりがどうなるかわからないから考えたくもない、などと思ってはいないでしょうか? しかし聖書ははっきりと、この世界はいずれ終わることを語っています。 だから私たちは、この世界の終わりに向けて、自分にとって備えるべきことを備える必要があるわけです。ノアは神さまの警告を聞いて、大洪水に備えて箱舟をつくりました。同じように、私たちも備える必要があります。その備えをするために、私たちはみことばを聞くわけです。特にいま私たちは、世の終わりを語るヨハネの黙示録から学びつつあります。このみことばに、私たちはともにしっかり耳を傾けてまいりたいと思います。 それでは本日の箇所にまいります。本日もまた、3つのポイントでお話しいたします。 第一のポイントです。主は、復活のお方です。9節と10節のみことばをお読みします。 先週もお話ししましたが、ヨハネがパトモスという島にいたのは、神のことばとイエスの証しのゆえであると、この9節のみことばは語ります。ヨハネは迫害を受けて、流刑、島流しとなったのです。 これはイエスさまが予告されたことです。かつてヨハネとその兄弟ヤコブは、イエスさまが天に昇られたら、その左右の座に着きたいとイエスさまに直訴したことがありました。要するにほかの十人の弟子を出し抜こうとしたわけですが、そのときイエスさまはこの兄弟に、あなたがたは、わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか、と迫られました。兄弟は、できます、と答えました。そのときイエスさまは、ご自身の右と左に座れるかどうかはイエスさま次第ではなく、御父のみこころ次第であることをお断りになった上で、ヤコブとヨハネはイエスさまの杯を飲むことになると予告されました。 実際そのとおりに、ヤコブはヘロデ王により殺害されました。十二使徒の中の最初の殉教者です。そしてヨハネも今このようにして、島流しに遭っています。まさしく、イエスさまの受けられた十字架の苦難の杯を飲んだのです。 しかし、島流しが苦難なのは、少なくとも使徒たちにとっては、一般の人たちとはちがう理由であるはずです。島流しに遭ったならば、人々との交わりが絶たれます。それはつまり、教会を開拓することも、聖徒たちと顔と顔とを合わせて教会を牧会することもできないことを意味します。それは主のしもべとして、どれほどつらかったことでしょうか。 みこころに従順になるなら、私たちは時として理不尽な苦難、受け入れがたい苦難を身に帯びることがあります。従順ゆえの苦難、それはイエスさまが体験されたことでした。十字架とは、御父のみこころに従順になられた証しでしたが、そのために罪のないお方は、人間のあらゆる罪という罪を背負われ、父なる神さまに捨てられました。 ヨハネの苦難、聖徒たちのもとに直接行って教会を形成することのできない苦難は、まさに、イエスさまが御父に従順であられたように、神のことばとイエスの証しがほんとうであると、身をもって宣べ伝えるという、神のみこころに従順であったゆえの苦難でした。 しかし神さまは、ヨハネのことを見捨ててはいらっしゃいませんでした。主は御声をもって、この孤独の中にいたヨハネに語りかけてくださったのでした。 この声を聞いた日は、主の日であったとあります。ヨハネは孤独な島流しの生活にあって、主の日、つまり日曜日、クリスチャンとして神さまを礼拝する日を忘れずにいました。その日に主がこの励ましのことば、戦いに備えよとのことばを語られたことは、注目に値します。 主の日、日曜日、それは、イエスさまが復活された日です。主が日曜日にヨハネにお語りになったのは、ご自身が復活の主としてお語りになったということではないでしょうか。 復活の主は、どんな声でヨハネに語りかけてくださったのでしょうか?「ラッパのような大きな声」でです。 新約聖書を読むと、世に終わりが来て、死ぬべき者が死なない者に変えられる、つまり天国に導き入れられるときに下される合図は、ラッパの音であるということがいくつかの箇所に書かれています。神のラッパの音は、死んでいた人をよみがえらせるというみこころの顕れです。 ヨハネもこのとき、島流しに遭って宣教も教会形成もできず、もはや使徒としては死んだも同然でありましたが、聖書66巻を締めくくるみことばを書き記すという偉大な使命が与えられ、生き返らせていただきました。 復活の主はこのように、死んでいた者に復活のいのちをくださるお方だということが、このみことばからもはっきりわかります。 また、この御声がラッパのような大きな音だったということには、どんな意味がありますでしょうか? 第一コリント14章を読むと、ラッパがはっきりした音を出すのは戦闘の準備をするためだ、と語っています。 ヨハネの黙示録は終わりの日の戦いを細かく描写していますが、血肉に対してではない、サタンともろもろの悪霊どもと私たち聖徒との戦いにおいて、このみことばは神さまの吹き鳴らされる「起床ラッパ」であり「進軍ラッパ」なのです。このラッパの鳴る音を聞いたならば、私たちは霊的な眠りからさめ、神のすべての武具を身に着けて戦いに赴きます。 まことに、主のみことばは、私たち人間、罪に死んでいた人間を生き返らせる、神のラッパにもなぞらえられる、大きな御声です。主は私たちひとりひとりに御声をかけてくださり、元気を出しなさい、立ち上がって歩き出しなさい、戦いなさい、と、励ましてくださいます。 このところ、私たちはニュース番組や新聞やインターネットで、ますます新型コロナウイルス感染者が増えているとかいう、憂鬱な話を目にし、耳にしています。そのほかにもいろいろな、いやになるニュースが流れています。しかし考えてみましょう。私たちを救い、天国に入れてくださっている主は、この世の憂いなどでどうにかなるようなお方ではない、偉大なお方ではないでしょうか? イエスさまは十字架にかかられただけではありません。復活されたのです。すべての罪と死に打ち勝たれました。私たちもイエスさまを信じる信仰により、圧倒的な勝利者にしていただいているのです。 落ち込むこともあるでしょう。暗い気持ちが続くこともあるでしょう。しかし私たちはここで、復活のイエスさまに目を留め、明るく輝く者とならせていただきたいものです。主は大きな音色で響くラッパの音のようなはっきりした御声をかけて、私たちのことを励ましてくださっています。立ち上がり、歩き出す力をともにいただく私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二のポイントです。主は、恐るべきお方です。 11節のみことばです。……そのラッパのような声が命じたことは、アジアの7つの教会にみことばを書き送りなさい、ということでした。 ヨハネを励まし、立ち上がらせた進軍ラッパのみことばは、7つの教会……7が完全数であるということを考えると、あらゆる教会、かつ完全な教会にみことばを語りなさい、ということでした。まことに、教会の聖徒たちにみことばを伝えることこそ、まことの励ましをいただく道です。 その声はヨハネの背後から語りかけていました。これは何を意味するのでしょうか? もし、ヨハネの目の前に主が現れて、いきなり語りかけられたのならば、ヨハネの意思に関係なく、主が現れ、語られた、しかもラッパのような大きな声で語られたということになります。 しかし主は、ヨハネの背後から語られました。するとヨハネのすることは2つに1つです。振り返るか、無視するかです。しかしヨハネは声のする方(かた)へと振り返りました。これは、ヨハネが意志をもって御声を聞く選択をしたということです。 御声を聞く、ということは、神さまが一方的に語られることがひとりでに聞こえてくる、ということではなく、神さまが語られることを意志をもって聞く選択をする、という、神さまと人との共同作業です。神と人との交わりです。神さまはここで、ヨハネに背後から語られることで、ヨハネが振り向くという行動により、意志をもって御前に進み出るという選択をさせ、自発的な交わりへと招かれたわけです。 12節をよく見てください。「自分に語りかける声を見ようとして」、とあります。これは意訳ではありません。聖書の原文が「声を見る」と表現しているのです。創造主訳聖書では「声の主を見ようとして」、リビングバイブルでは「いったいだれだろう、と振り向くと」と意訳しています。もちろん、それも間違いではありませんが、ここはひとつ、「声を見ようとして」という表現に注目したいと思います。 神さまのしもべである私たちにとっては、神の御声は「聴く」ものであるのと同時に「見る」ものです。それは、こうして印刷され、製本された聖書を目で見て読むことを、「御声を聞く」と表現することからもたしかです。そのような表現をするのも、神のことばを「聞く」ことは、同時に神のことばなるイエスさまを「見る」ことでもあるわけです。 イエスさまの弟子のトマスは、肉眼でイエスさまを見たときようやく、イエスさまの復活を信じました。そんなトマスにイエスさまは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」とおっしゃいました。 その幸いな人とはどういう人かを、使徒ペテロはこのように表現しています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」 この喜びは、私たちならだれでもわかるでしょう。目に見えないイエスさまを「見る」とは、みことばを「聞く」、すなわち「見る」ということです。その喜びを、私たちはこの年もますますみことばをお読みし、みことばに耳を傾けることで体験してまいります。 さて、こうして、ヨハネはみことば、すなわち人の子、イエスさまを「見ました」。するとそこには7つの金の燭台がありました。この7つの金の燭台は7つの教会であると、20節のみことばは解き明かしています。 燭台は金、金は何よりも尊い存在です。教会は尊いものなのです。教会は燭台ですから灯をともします。灯をともすのは暗闇の世界を明るく照らすため、そして、やがて来られる花婿なるイエスさまのおいでを待つゆえです。イエスさまがいつ来られてもいいように、花嫁にふさわしく灯を絶やさないでおくのです。 この7つの燭台の真ん中に、人の子のような方がおられた、とあります。人の子とは、イエスさまがご自身のことを指して用いられた表現であり、救い主、さばき主としてのお方を意味します。しかしここでは、「人の子の『ような』方」とあります。ヨハネは、イエスさまの十二弟子のひとりとして、イエスさまのお顔、お姿を忘れようはずがありません。 しかしここに現れたお方は、明らかに、弟子としてずっと見つづけてきたお顔、お姿とちがっていました。でもこのお方は人の子、イエス・キリスト以外のどなたでもないことが、ヨハネにはたちどころに分かったのでした。 足まで垂れた長服、まことの祭司としての服装です。そこに金の帯を身に着けておられるということは、神のきよさ、神の威厳そのものの姿として現れたということです。頭と髪は羊毛のように、雪のように白いということは、このお方は、毛を刈られる羊のような従順な姿をもって十字架にかかられ、血潮を流されたことにより、その血潮で私たちの罪を雪のように白くしてくださるお方である、ということです。 また、その目は燃える炎です。この姿はダニエル書10章6節にすでに預言されていたとおりですが、ダニエル書では「燃えるたいまつ」と表現されています。たいまつは暗闇を明るく照らすものです。 つまり主は、暗闇を煌々と照らす炎のように、どんなに隠しておきたい私たちの罪、闇のわざをも、明らかにされ、その御目の炎をもって焼き尽くされるお方であるということです。 その足は光輝く真鍮とありますが、これもダニエル書10章6節のとおりです。新改訳でダニエル書を見ると「磨かれた青銅」と書かれていますが、ヨハネが見たお方はダニエルが見たお方と異なるのではありません。新約聖書においてしばしば引用される旧約聖書は『七十人訳(しちじゅうにんやく)』というギリシア語の聖書です。この七十人訳によると、ダニエル書は「青銅」ではなく「真鍮」と表現しています。また、「青銅」も「真鍮」も、どちらも銅の合金であること、また、主の御足はそもそも金属ではなく、これは象徴であることを考えると、黙示録の「真鍮」という表現はダニエル書と一致していることになります。まさに、ダニエルが見たとおりの方が現れた、ということです。 そして、御声は大水のとどろきのようです。主の御声はラッパのようであるとともに、大水のとどろきのようでもあります。大水のとどろきのような御声、これはイザヤ書43章2節に書かれた、イザヤが見た主の御姿です。やはり預言されたとおりのお方でした。大水に関しては、同じイザヤ書の59章19節を見ると、主は激しい流れのように来られると預言されています。そのように、激しい流れのように主が来られるゆえに、東でも西でも、世界のどこにおいても主の御名、主の栄光が恐れられるとあります。まさに、激しい主の来臨のゆえに全地は激しく恐れるのです。 右手には七つの星を持っておられます。この七つの星は、7つの教会の御使いたちであると20節のみことばは解き明かします。主は御使いを遣わして、すべての教会を助けられます。イエスさまは、すべての教会を、その義の右の手で握られ、あらゆる悪しき者の攻撃から守り、御恵みをもって導いてくださるお方です。 そして、口からは両刃の剣が出ています。もうお分かりだと思います。ヘブル人への手紙4章12節にあるとおり、みことばです。私たち、全身に罪が染みこんだ罪人をばらばらに切り刻み、罪を明らかにし、取り除く剣は、主の御口から出るひとつひとつのみことばです。しかしこの「殺すことば」は、同時に私たちにとっては「いのちのパン」であり、「生かすことば」でもあります。 そして、御顔は強く照り輝く太陽です。太陽を肉眼で見つめたら失明します。御顔はそれほどの栄光に輝いています。旧約にはしばしば、主の御顔を見た者は死んでしまう、と恐れる場面が出てきます。このときもヨハネは、御顔を見極めようとして、ついにその栄光の前に死んだ者のようになり、倒れ伏しました。 イエスさまのこのようなお姿は、無抵抗に十字架にかかられたお姿とは対極にあるお姿です。人々があざけり、見捨て、葬り去ったナザレのイエスは、実は聖書に預言されていたとおりの王の王、主の主であった……なんということでしょうか。 私たちはイエスさまが目に見えないのをいいことに、ともにおられるイエスさまとの関係、イエスさまとの交わりを粗末にして、平気でいてはいないでしょうか? そんな私たちは、実はイエスさまはこのようなお方だということをしっかり見つめ、恐れをいだき、それでもこのようなイエスさまが私たちのことを友としてくださっていることに、もったいない、と、感謝するしかないのではないでしょうか? ぜひ、今日おうちに帰られたら、もういちど、この黙示録1章12節から16節までをお読みになり、イエスさまのこの御姿を黙想していただきたいのです。このお方が私たちの主なのです。そして、私たちはこのお方の友にしていただいているのです。 では、第三のポイントにまいります。主は、永遠のお方です。 17節をご覧ください。イエスさまのあまりの威厳の前に、ヨハネは倒れて死んだ者のようになりました。かつてヨハネは、イエスさまと食事をともにするとき、その胸元に寄りかかるほど、イエスさまを慕っていた人でした。そんなヨハネは大胆にも、自分のことを、イエスさまが愛しておられた弟子、と表現していました。 だが、目の前に現れたイエスさまは、もはや近くに寄ってお慕いするようなお方ではありません。このご威光、威厳の前には、死んだも同然の人になるしかありませんでした。そんな人間が生きるには、イエスさまに助け起こしていただくしかありません。 イエスさまはヨハネに、右手を置かれました。つい今しがた、7つの星、すなわち7つの教会の御使いたちを握っておられた右手です。わたしのからだである教会が大事なように、わたしにとってあなたは大事だよ、わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している……。 このお方は、初めであり、終わりであり、生きているお方です。人間には見極めることもできない世のはじめから世の終わりまで、永遠に生きておられるお方です。十字架に死なれましたが、生きておられるお方です。この方は人に殺されたようでも、あらゆるいのちを司っておられるお方です。人を永遠にさばく、死とよみの鍵、すなわち、罪人を死にてさばかれ、よみにつなぐ権限を持っておられるお方です。…

再臨に向けて

聖書箇所;ヨハネの黙示録1:1~8/メッセージ題目;再臨に向けて  今年2021年の年間テーマは「イエスさまを迎える準備をしよう」とさせていただきました。  昨年は新型コロナウイルス流行に世界は揺れに揺れ、いやでも人々は終末というものを意識しました。しかし私たちクリスチャンは、この終末、世界の終末というものは、神さまがもたらされるものということを信じ受け入れています。  私たちがもし、イエスさまの再臨を待ち望んでいるならば、すなわち、イエスさまが再びこの地に来られて世界を終わらせられ、私たちが永遠の天国に迎えていただくことを待ち望んでいるならば、私たちはやはり、この世界の終わりについてみことばはなんと語っているかを、みことばから学ぶ必要があるはずです。  このことを最もよく語るみことばは、ヨハネの黙示録です。というわけで本日から、ヨハネの黙示録を学びます。難解な聖書箇所なので、慎重な解き明かしを必要とする一方で、読み進めていくうちに非現実的な描写に終始するようになりますので、メッセージをお聴きになるみなさまも、ぜひ祈っていただければと思います。その祈りをもって、お聴きになる心備えをしていただければとも思います。  それでは、早速、ヨハネの黙示録の学びを始めます。 では、本日の箇所を、3つのキーワードから解き明かしてまいりたいと思います。  最初のキーワードからまいります。1番目のキーワードは「証し」です。  まず、1節からまいります。この黙示、啓示は、イエス・キリストの啓示です。これは、すぐに起こるべきことであると語ります。これが、難解かつ怖ろしい描写に満ちているヨハネの黙示録を読み解くうえでの大前提です。 ヨハネの黙示録が啓示するお方はイエスさまです。ある大衆伝道者の先生は、人々の前でお祈りをされるとき、「やさしいイエスさま」ということばでよく始められます。先生のキャラクターも反映されていて、ほんわかしてきます。たしかにイエスさまは、この先生がおっしゃるとおりにやさしいお方でいらっしゃいます。 しかし、ヨハネの黙示録で啓示されるイエスさまは、やさしい、というイメージと大いに異なっているのではないでしょうか。凄まじい戦いの末に究極の勝利を得られる、雄々しくも恐ろしいお方です。私たちは、再臨のイエスさま、終末に臨まれるイエスさまが、このようなお姿で現れてくださることを見落としてはなりません。 そして、ヨハネの黙示録の語る内容は、「すぐに起こるべきこと」です。そう、この書に書かれていることは「必ず起こること」であり、「必ず起こらなければならないこと」です。起こることが神さまのみこころである、ゆえに神さまは必ず、みこころをもってこれらのできごとを起こされる、という前提で読むべき書です。 それも、すぐに起こるべきことという前提で読みなさい、というわけです。というわけで、このヨハネの黙示録が記録された紀元90年からずっと、クリスチャンは今に至るまで、終末を意識させられてきました。 終末は必ず来ます。おとといの元日礼拝で、ペテロの手紙第二の3章のみことばをお読みしましたが、まだ終末がこの世界にやってこないのは、この世界に住む人々のことを神さまが忍耐していらっしゃるからであって、終末は「ない」からではありません。その忍耐が2000年にもなろうとは、どれほど神さまは忍耐してこられたことか、と思いませんでしょうか? 2000年という歳月を計ってみたら、イエスさまからさかのぼると、ダビデやモーセを通り越して、なんと創世記11章のアブラハムにまで至ります。それほどの歳月を神さまはなお忍耐していらっしゃるのです。しかし、2000年でも、すぐ、です。一日は千年、千年は一日、この神さまの「時」を考えれば、2000年は決して長すぎる時間ではありません。 この、すぐに起こるべきことを父なる神さまは、ご自身のしもべたちである教会の兄弟姉妹にお示しになるため、この啓示をキリストに与えられ、イエスさまは御使いをとおしてヨハネに与えられました。 ヨハネとは、イエスさまの十二弟子、十二使徒で、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙を書いた使徒ヨハネです。ある解説書は、黙示録のヨハネは使徒ヨハネではないと語りますが、そのように主張する根拠も妥当性もありません。黙示録のヨハネは、あのヨハネです。 ともかく、イエスさまが黙示をヨハネに届けられたのは、最終的に神のしもべたち、教会に伝えるためです。そのためにヨハネがしたこと、それは2節にあるとおり、「証し」です。 神さまは、ご自身のみこころを、人々を用いて「証し」をさせるという形で伝えてくださいます。このときもヨハネを用いてくださいました。ヨハネは、この黙示録を諸教会に「証し」したのです。そして神さまが諸教会に求められたことは、この黙示録のみことばを「朗読する」こと、つまり、印刷技術がなく、会衆がともにみことばに耳を傾ける唯一の方法が「朗読」であった当時、そうすることで会衆全体がみことばを共有すること、そして、このヨハネの黙示録のみことばを「守り行う」ことです。 みことばは耳を傾けるものです。ヨハネの黙示録はとかく難解で、敬遠されがちなみことばでしょう。しかし神さまは、このみことばに「耳を傾けなさい」とおっしゃっています。それだけではありません。このみことばを「守り行う」のです。 こんな難しいみことばをどのように守り行うのか! そもそも、このみことばは何を語っているのか! 途方にくれたりはしないでしょうか? しかし、みことばがわかるように祈りつつ、励まし合って、しっかり取り組みましょう。私たちは必ず、このみことばの意味を悟り、具体的に実践できるように知恵が与えられると信じていただきたいのです。 具体的なみことばの実践。証しとは、その具体的なみことばの実践が教会全体でできるようになるために、耳を傾け、目にするべきものです。みことばは素晴らしいですが、実践されていなければ、絵に描いた餅です。 逆に言えば、みことばの素晴らしさは、私たちがそのみことばのとおりに生きる、証しの生活をすることを通して現されるものです。 次週学ぶみことばに書かれていますが、ヨハネはこのとき、パトモスという島にいました。それは、「神のことばとイエスの証しのゆえ」であると語られています。イエスさまを証しするみことばを語ったゆえにパトモス島にいたわけです。これは、流刑、島流しの刑です。まさに、生き方そのものが教えに殉じた人の生き方、いよいよこの生き方により、イエスさまが本物であることが証しされたわけです。その証しの集大成が、そのパトモス島でものされた「ヨハネの黙示録」であるわけです。 今年私たちは、イエスさまの再臨を待ち望む思いでみことばから学びます。この学びは、私たちの普段の生き方を変えるものとなるようにと、祈りつつ取り組んでいただきたいのです。自分の生き方を変え、人々の心を再臨のイエスさまへと向けるように……まさしく、証しになる生き方です。私たちを十字架によって罪から救ってくださったイエスさまと、再びこの世界に来てくださるイエスさまと、日々祈りとみことばによって交わっていくならば、私たちの生き方が変わります。証しの生き方へと変えられます。 そのようにして、私たちをとおして、イエスさまが周りに証しされて、この年、主を信じる人がひとりでも多く起こされて生きますように、主の御名によってお祈りいたします。  次のキーワードにまいります。2番目のキーワードは「神との交わり」です。 4節をご覧ください。このヨハネの黙示録は、アジアの7つの教会にあてて書かれた書簡であることがわかります。アジアと言っても、日本や韓国、中国の極東まで含むアジアではなく、今でいうトルコの地域を指し、小さいアジア、「小アジア」と言います。  教会の数は7つです。聖書で7という数字は「完全」を意味します。この7つの教会がいかなる教会で、主がそれらの教会ひとつひとつにどのようなみこころを持っておられたかについては、黙示録の2章と3章に詳しく出てきますが、この7つの教会は、「7つ」という数からもわかるとおり、これは完全な教会の姿、あるいは、現代に至るまで約2000年間存在しつづけたすべての教会のあらゆる様相を示しているとも言えます。  この7つの教会、完全な教会に向かわれるお三方が登場します。今おられ、昔おられ、やがて来られる方、つまり、永遠なる神さまです。このお方はヨハネの黙示録が記録されたそのときにも、そして2021年1月3日のこのときにも、おられるお方です。世界が創造された昔から存在してこられたお方です。 そしていずれの日、神さまが定められた日に、さばき主として、しかし神の民にとっては永遠の天国に召してくださるお方として、私たち人間の前に来てくださるお方です。 そして、御座の前におられる7つの御霊、これは、御霊の数を数えると7人おられた、ではありません。御霊はおひとりのお方です。しかしここでは、7つの御霊と表現しています。これは、完全な御霊という意味であり、全地に満ち満ちておられるほど完全なお方という意味です。 しかしこの全地に満ちておられる御霊なる神さまは、7つの教会それぞれを、つまりすべてのキリストのからだなる神の教会を、完全な存在としてくださるお方である、という意味に解釈すると妥当です。この7つの御霊と表現された御霊なる神さまが、7つの教会と表現されたあらゆる教会に向かわれ、語られるのです。 そして、イエスさまです。イエスさまは確かな証人、神さまを解き明かされた、父なる神さまのふところにおられるひとり子の神なるお方です。そして、死者の中から最初に生まれたお方、十字架の死からの復活をもって、ご自身神であることを証しされ、イエスさまを信じるすべての人を罪と死に打ち勝たせてくださったお方です。さらに、地の王たちの支配者、終わりの日にあらゆる権威、権力の上にまし、永遠の王となられるお方です。 この、三位一体なる神さまから、7つの教会、つまり、地にあるすべての、神さまの御目から見れば完全な教会に対し、何が臨むことを使徒ヨハネは祈っていますでしょうか?「恵みと平安」です。 「恵みと平安がありますように」という祈りは、新約聖書に収録されている使徒パウロが書いた13の手紙すべてで、パウロが手紙の読み手のために祈ったことばです。このことばはペテロの手紙第一と第二、ヨハネの手紙第二にも登場します。平安を祈る祈りも含めたら、もっと多くの書簡に登場します。それほど大事なことばです。 初代教会は、形成されて間もなく、たいへん迫害に晒されることになりました。恵みと平安、神さまご自身が御手を伸ばして守ってくださり、導いてくださるその恵みと、その守りの結果与えられる、世の何ものをもってしても奪い去ることのできない平安を、教会は必要としていました。ヨハネという指導者を失ったアジアの7教会もまた例外ではありませんでした。その諸教会に神さまの恵みのみ手が臨み、神さまが与えてくださる平安の中にいられるように……。 ヨハネのこの切なる祈りは、こんにち、すべての教会が必要としているものです。共産圏やイスラム圏のようなキリスト教会に対してむき出しの敵意を示す地域において、主にある私たちの兄弟姉妹が守られるように、私たちは祈る必要があります。これに対して私たち、彼らに比べるとあまりに危険のない地域にいるクリスチャンたちはどうでしょうか? やはり、恵みと平安を求める祈りを必要としています。 私たちがこれほど安全なのは、神さまが守ってくださっているから、それゆえに平安をいただいている……このことに私たちは無感覚になってはなりません。当たり前だと思ってはなりません。そうです。恵みと平安があるように、とは、「自分たちが無事であることは神さまの恵みと平安があるゆえであることを、信じ、神さまに感謝できるように」という意味でもあるのです。 では、三位一体の神さまが

「『その日』が近づく私たち」

聖書箇所;ヘブル人への手紙10章25節/メッセージ題目;「『その日』が近づく私たち」  昨年来の新型コロナウイルス流行は、戦後最大の危機を日本のキリスト教会にもたらしたと言えましょう。なにしろ、集まって礼拝をささげなくなっただけではありません。礼拝のために集まらないことが当たり前になり、さらには、集まらないことが、これほど正当化されたことがあったでしょうか。  新しい生活様式、などとよく言われましたが、新しい生活様式というものは、私たちキリスト教会にも否応なく押し寄せてきました。ただ、教会の場合、そのそれぞれの歴史、置かれた地域の特性によって、判断はさまざまであり、新しい生活様式なるものも教会によってちがいます。東京のような都会の教会は、集まらずにオンラインの礼拝中継に切り替える判断をした教会も少なからず存在したようです。 私たちの場合は感謝なことに、まだ大々的な感染拡大に至らず、1回も欠かさずに礼拝をささげつづけることができています。これは私たちが偉いのでもなんでもなく、恵みです。神さまにご栄光をお帰ししましょう。ハレルヤです。  ともに集まるかどうかという判断を下す場合もそうですが、私たちは何を基準に判断すべきでしょうか。やはりみことばです。もちろん、みことばどおりに行うことができなくて、苦しいところを通らされることも、教会としては充分にあることです。それでも、いざというときの判断の基準があるのとないのとでは、大きな違いがあります。  新聞やテレビの報道もたしかに大事でしょう。しかし私たちにとってそれらの報道は、絶対視するべきものでしょうか? 聖書とニュースと、どちらが大事でしょうか? 世相はいかようにも変わります。それらの揺れ動く報道を絶対視するならば、私たちも揺れ動くのであり、そうなったら、教会は果たして何のために存在するのか、教会を教会ならしめる聖書のみことばは何のために存在するのか、ということになりはしないでしょうか。  ただし私は、聖書とニュースは対立するものであると言いたいのではありません。言うまでもなく私たちの生きている現実は、ニュースという形で反映されていて、それを無視することはできません。要は、聖書のみことばから悟った真理を、いかにして、ニュースという形で映し出される現実の世界に反映させ、適用するか、ということです。  その原則から、今日のみことばをあらためてお読みしたいと思います。  まず、「ある人たちの習慣は、一緒に集まることをやめることであった」ということがわかります。  どうもこの時代のヘブル人クリスチャンの中には、一緒に集まって礼拝や交わりを持つことをやめて、単独で信仰生活を送ろうとしていた人が存在し、そういう存在が教会に少なからぬ影響を与えていた、ということが読み取れます。  一緒に集まることをやめる。理由はいろいろでしょう。この時代のクリスチャンは苛酷な迫害に晒されていたので、教会に集まるのは危険だと考えた、ですとか、あるいはもっと単純な理由、教会の中の人間関係につまずいて、もう教会には行きたくなくなった、ですとか。  そういう人たちの存在は、一緒に集まることをためらわせる大きな理由となったと思います。集まらない人はそれなりに正当な理由を持っている。右へならえ。いっそのこと、もうみんなで一緒に集まるのをやめてしまおう。  しかし、このみことばに示された原則は、一緒に集まることをやめてはならない、ということです。  一緒に集まることをやめてはならない。昨年の新型コロナウイルス流行で多くの教会は集会を中止しましたが、恐らくそれらの諸教会の聖徒たちの中にはこのみことばがあり、相当な苦渋の決断を強いられたことと思います。そんな諸教会のことを、うちのような集まりが持てた教会は決してさばくべきではありません。私たちはむしろ、このみことばを守り行う恵みを与えてくださった神さまに、心からの感謝と賛美をおささげするべきです。  しかし、もし集まることが許されているならば、私たちは決して、一緒に集まることをやめてはならないのです。それが、聖書のみことばが私たち聖徒たちに命じていることです。  では、なぜ私たち聖徒は、一緒に集まることをやめてはならないのでしょうか。それは「励まし合う」ためです。  信仰生活というものは、ひとりでするものではありません。ひとりで信仰生活ができるならば、教会というものはそもそもいりません。教会は共同体です。それは、神さまというお方が、おひとりであられるのと同時に、御父、御子、御霊の三位一体の共同体でいらっしゃるようにです。  お互いがもっと神さまにつながっていられるように。お互いがもっと神さまのみことばを守り行い、神さまのご栄光を顕せるように。そのために、お互いを覚えて祈る。この共同体の営みがあってこそ、私たちはともに信仰が増し加わっていくのです。教会という場で聖徒たちが励まし合うことで、私たちはそれぞれの信仰が成長するのです。  したがって、励まし合うためにともに集まるのでないならば、その集まりには意味がありません。励まし合いが集まりの目的となっていないならば、どうだ、よその教会とちがってうちは集まれたぞ! などという、的はずれな誇り、パリサイ人のような誇りにつながってしまいかねません。  そのように、聖徒たちが励まし合う理由……それは、その日が近づいている、ということです。その日とは何でしょうか? イエスさまが再び来られる日です。  このみことばからわかることは、イエスさまの再臨は、教会が始まったばかりのこの時代から、すでに切に待望されていたものであった、ということです。すぐにでもイエスさまは来られますよ、私たちキリストの花嫁なる教会はいっしょに、灯を掲げて、花婿なるキリストを待ち望みましょう……。  花婿なるキリストを待ち望むことは、ひとりですべきことではありません。いっしょになって、ともにみことばをお読みして、お祈りして、みことばを守り行いながら、教会全体で待ち望むものです。この水戸第一聖書バプテスト教会が待ち望みます。日本のすべての教会が待ち望みます。世界のすべての教会が待ち望みます。  この1年で、世界の教会はオンライン礼拝、リモート礼拝が花盛りとなりました。それは時代の趨勢、時代の要請と言えることでしょう。しかし、ここで憂慮されることがあります。それは、リモートで礼拝することによって、キリストのからだなる教会のひと枝とされている意識が希薄になってしまう信徒が多く現れてしまうのではないか、ということです。  ともに礼拝堂に集う場合と比較してみましょう。礼拝堂に集うならば、ちゃんと早起きして朝ご飯を食べ、女性の方ならばしっかりお化粧するでしょう。そして、威儀を正し、車に乗って数十分の時間をかけて礼拝堂に行きます。もうその時から祈り心をもって整えられているわけです。そして礼拝堂に到着し、礼拝室の中に入ったらお祈りします。これだけでも相当な心構えです。 しかし、リモート礼拝の場合、そこまでの準備をなさいますでしょうか。それができているならば素晴らしいことですが、何しろ家でパソコンに電源を入れ、インターネットに接続したら、すぐ礼拝です。ともに集うために祈り心を持って準備するという意識を持つか持たないかは、事程左様(ことほどさよう)に違ってしまうわけです。 だから、もしどうしてもリモートでなければ礼拝できない、という方は、それだけ充分な祈り心をもって礼拝に備えていただきたい、と、切に願います。特にその祈りを、神さまに向けてくださるのと同時に、所属していらっしゃる教会という共同体の兄弟姉妹を覚えての祈りとしていただきたいと思います。  要は、イエスさまの再臨にともに備えて、励まし合うために、共同体に召されたどうしを大切にすることです。いまこうして集っていられることは、集うこともままならないでいる教会から見ればとても贅沢なことです。この恵みをむだにしないでいただきたいのです。  今日、ここに集う兄弟姉妹のことを、再臨をともに備えるために励まし合う、大事な兄弟姉妹と考えていただきたいのです。そして……ここにともに集っていなくても……クリスチャンであるならば、同じイエスさまの十字架の血潮によって贖われ、神さまの子ども、天国の民にしていただいたどうし、ともに再臨を待ち望みつつ励まし合う、大事な存在です。  今年、うちの教会は、世の終わりがいかに訪れるかを語るみことば、ヨハネの黙示録から学びます。それは、単に聖書知識を増し加えるためではありません。みことばにともに耳を傾けることで、水戸第一聖書バプテスト教会というこの群れに主が持っておられるみこころをともに知り、励まし合うためです。  最後に、私たちはいかにして励まし合うものとなるべきか……やはりそれはみことばによってです。一箇所みことばを開(ひら)きたいと思います。ペテロの手紙第二、3章3節から9節です。  ある人は、私たちが終末ということを本気で信じていることを嘲るでしょう。もしかしたら私たちクリスチャンまで、そのような世の風潮に毒され、終末を語る主のみことばをまともに取り合わなくなってしまわないとも限りません。しかし、神さまは終末ということをはっきり語っています。  しかし、この終末のさばきは水のさばきではなく、火のさばきです。水のさばきも火のさばきも、どちらも恐ろしいですが、この最後の火のさばきは、不敬虔な者たち、すなわち、まことの神さまを神としない生き方を悔い改めない者たちに対して行われるものです。 私たちはこのさばきを免れ、救っていただく存在であることを覚え、感謝しましょう。でも、それだけではなく、さばき主なる主のさばきを覚え、ひとりでも多くの人がこの終わりの日のさばきから免れるように祈り、救い主イエスさまを今年も伝えてまいりたいものです。  そして主がこの世界に対し、忍耐しておられることも考えましょう。私たちの生きるこの世界は、イエスさまが天に昇られてからずっと、罪人の歴史、罪の歴史と言えるものでした。2000年間再臨がなかったからこれからもない、ではありません。2000年間、よくぞ忍耐してくださり、私のことを生かしてくださいました、感謝いたします、私たち教会はあなたさまを待ち望みます、こうでなければならないはずです。  私たちは去る2020年、再臨を待ち望んでいましたでしょうか? 再臨はないかもしれない、という、不信仰になってはいなかったでしょうか? あるいは、再臨のことなど考えもしないで、自分勝手に振る舞うことも多くはなかったでしょうか? はたまた、再臨なんてどうでもいい、と、無関心になってはいなかったでしょうか? もしそうだったならば悔い改め、今年こそ、必ず来られるとみことばにおいて約束しておられるイエスさまのその約束を心から信じ、イエスさまにのみ希望をおいて、ともに歩んでまいりましょう。  では、お互いのことを覚えて祈りましょう。