「赤ちゃんの主イエス」

招詞;ヨハネの福音書3:16/祈祷/主の祈り/讃美;讃美歌112「諸人こぞりて」/聖書朗読;ルカの福音書2:11~12/メッセージ「赤ちゃんの主イエス」/讃美;讃美歌109「きよしこの夜」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」  私ども水戸第一聖書バプテスト教会の今年最大のニュース、それは、新しいいのちが贈られたことだった。ご覧いただきたい、あのかわいいお顔!  今日、クリスマスは、主イエス・キリストのお生まれをお祝いする日。そう、神の御子、王の王、主の主なるイエスさまは、赤ちゃんだった! まさに、あの子と同じ赤ちゃん。今日はこのことを考えよう。  むかしも今も、子どもという存在は大人に比べると軽い存在、小さな存在として扱われている。聖書の時代、2000年前のユダヤもそうだったし、現代の日本もそうである。いま私ども夫婦は、児童養護施設で勉強を教えるボランティアをしているが、生んだ親さえ顧みてくれない子どもの存在があることに心痛む。  イエスさまは、いきなり堂々とした王さまとして、人々の前に現れたのではない。最初は、おしめを替えてもらう赤ちゃんとしてこの世にお生まれになった。このお姿に私たちは、威厳に満ちた神のありかたをお捨てになったへりくだりを見るものである。  イエスさまが赤ちゃんとしてお生まれになったということから、私たちは2つのことを考えよう。 ①赤ちゃんを見るとき、私たちは幼子として神に召されていることを思い起こそう  聖書は基本的に私たちに、大人であるように勧めている。ただしそれは、物事の考え方においてということであって、悪いことにおいては幼子でありなさい、という。幼子はそもそも、悪事などできない。ここで言うのもはばかられる、悪いことをする赤ちゃんはいない。私たちはあまりにけがれている。イエスさまは、罪を知らない、けがれなき存在としてこの世に来られた。  イエスさまは、神の国を受け入れるにあたって幼子のようでありなさいとおっしゃった。神の国を受け入れるとは、この世をほんとうに治めておられるお方は神さまである、そう受け入れ、神さまのご主権に押した害する、ということである。大人びた人たちはそれを幼いとか、愚かだとか笑うだろうが、神さまはそのように、素直に神の国、すなわち、神さまが王さまとしてこの世界を統べ治めておられることを信じ受け入れるように、私たちのことを招いていらっしゃる。  赤ちゃんのけがれない姿、純真無垢な姿から私たちが学ぶことは、そのように、神の国を受け入れ、神さまに素直にお従いする姿勢を持つべきである、ということである。子どものように神の国を受け入れなさい、という、イエスさまのこの招きに、はい、神さま、私はあなたの子どもです、私はあなたの民です、とお応えする祝福があるように。それは、イエスさまを人生の救い主、王の王、主の主として受け入れ、お従いするところから始まる。 ②赤ちゃんを見るとき、神さまが私たちに備えておられる未来を思おう  イエスさまの伝記である福音書は4つあるが、そのうちの2つが、イエスさまの赤ちゃんの時代から描写している。それは、イエスさまが全くの人としてこの世界に育たれたことを表しているが、それと同時に、福音書を読む人たちが、神の子なる救い主イエスさまはこれからどのように育っていかれるのだろうか、と、イエスさまの未来を思い浮かべながらお読みするように読者を導いている。  赤ちゃんを見てみよう。赤ちゃんがにっこり笑うのを見るならば、だれもが心洗われすがすがしくなり、ほのぼのする。このメッセージのあとにみんなで歌う「きよしこの夜」の3番は、「みこの笑みに 恵みのみ代の あしたのひかり 輝けり 朗らかに」と歌う。赤ちゃんの主イエスの笑顔は、神さまがもたらしてくださる未来を示す。その未来とは、神さまがイエスさまによって、この世界を救ってくださる、素晴らしい未来である。  しかし、イエスさまを待っておられるのは、実際には過酷な未来だった。私たち人間を罪と死から救うために、十字架におかかりになるさだめが待っていた。それでも、赤ちゃんのイエスさまがもし、普通の赤ちゃんのように笑っておられたのだとするならば、それは何も知らない純真無垢な笑いではなく、わたしの存在によって人々が救われるということに、喜びを抱いておられたからだと言えないだろうか?   イエスさまはやがて十字架におかかりになったが、イエスさまの十字架を信じる私たちのことを救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださった。私たちは相変わらず罪びとだが、イエスさまはこのような私たちのことをしのんでくださり、なお愛してくださっている。イエスさまを救い主と受け入れるならば、イエスさまはいつまでも、私たちの心の中に住まってくださり、やがて私たちを、永遠の御住まい、天国に入れてくださる。  そのような、神さまがもたらしてくださる素晴らしい未来、人々を罪から救ってくださる未来を、それは、イエスさまが赤ちゃんだったときに、すでに始まっていた。私たちは赤ちゃんに目を留めて、そのような素晴らしい未来を見るものとならせていただきたいものである。ぜひ、あとで「きよしこの夜」を歌うとき、神さまが私たちに与えてくださる未来に目を留めるものとなろう。

「男ヨセフここにあり」

聖書箇所;マタイの福音書1:18~25/メッセージ題目;「男ヨセフここにあり」/讃美;聖歌77「みつかいのたたえ歌う」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」  人生というものは、つねに順風満帆というわけにはいかない。ときには大変な試練に会うこともある。私たちの中にも、いまこのとき、試練に苦しんでいらっしゃる方がおられるだろう。  イエスさまがお生まれになるときにも、試練、また不条理に苦しんだ人がいた。ヨセフであった。ヨセフが問題に立ち向かっていったからこそ、イエスさまは無事お生まれになられた。このことを私たちはよく考えるべきだろう。このヨセフの姿勢から、私たちは何を学ぶ必要があるだろうか? 今日の本文からともに見てみたい。  第一にヨセフは、大いに悩んだ。そして、さばくよりも思いやることを選んだ。  18節。まだいっしょにならないうちにマリアが妊娠した。当然ヨセフにとっては、どう考えればよいかわからないことであった。  先週私たちは、ルカの福音書のマリアに関するみことばから学んだ。ヨセフのいいなずけマリアは、御使いガブリエルの訪問によって、自分が聖霊によって身ごもるということを知った。  マリアの場合は、妊娠するにあたって直接奇跡のように教えてもらい、そのことを知り、受け入れることができた。しかしヨセフはと言うと、マリアにそのような奇跡が起きたことなど、知る由もなかった。  マリアが、ガブリエルの訪れから間を置かないうちにそのままそのことをヨセフに告げたのか、それとも、おなかがふくらんだり、「つわり」のようなことが起こったりしたのをヨセフが見てわかったのか、聖書は沈黙している。確実なのは、マリアが妊娠したことをヨセフが知ったということである。ヨセフとしてはいったいこのことを、どう理解すればよかったのだろうか? マリアが何と言おうとも、マリアはだれかほかの男の人と関係して妊娠したとしか考えられなかった。  婚約者であるヨセフは、ひとつの決断を迫られていた。それは、神の民らしく、律法に従ってマリアを石打ちの刑に引き出すことであった。旧約聖書レビ記20章10節にあるとおりである。ヨセフの苦悩はここに極まった。妊娠して未婚の母になった、その相手が自分でなかったとは……それゆえに、律法にしたがって石打ちにしなければならないとは……。  ヨセフのこの悩みは、御父の悩みに通じるものがないだろうか? ほんらい人は、神さまと完全な愛の交わりが持てる存在として創造された。しかし人は、罪によって神さまとの交わりが断たれ、神さまはそのきよさゆえに、人間に対し、罪にしたがって死のさばきを下さなければならなくなった。そうでなければ神さまはきよいお方ではないことになる。  しかし、神さまは愛なるお方ゆえに、私たちを死のさばきから救い出さなければならない。この苦悩を、私たちはわかっているだろうか? 私たちが罪を犯すものだが、罪を犯すとき、神さまの苦悩が見えているだろうか? もし、見えていないとすれば、私たちはあまりにも、神さまのきよいみこころが見えていないことになる。  しかし、神さまはさばきと愛を両立させる決断を下された。それがイエスさまの十字架である。ヨセフはこのとき、マリアのみごもっている人が、御父がこの地に送って救い主であることは知る由もなかったが、マリアの胎の中にある人を救うことは、すべての人を救うことにつながった。そう考えると、ヨセフの決断が人類を救ったことになるわけである。 このお方、イエスさまは、のちに、姦淫の罪を犯したことによって石打ちの刑に遭う定めだった女性を救ってくださったとき、さばきか、愛かを激しく問い、イエスさまを罠にかけようとした律法学者やパリサイ人の前で、地面の上にかがんで指でなにやら書いておられた、と聖書は語る。これは、愛とさばきのはざまで苦悩されるお姿ではないだろうか? しかし、やがてイエスさまは地から立ち上がり、あなたがたの間で罪のない者が石を投げなさい、という、だれにも反論できない解答をくださり、彼らを退散させられた。 イエスさまの苦悩は、やがて十字架という形で極限にいたりますが、しかし、その十字架は、信じる人をあらゆる罪の悩みから解き放った。しかし、そこに至るまで、御父もイエスさまも、どれほど苦悩されたことだろうか? ヨセフは、愛と義の間で苦悩された、三位一体なる神さまの悩みを味わった人であり、そういうことからすれば、私たちの従うべき模範のような人物である。私たちもこの世に生きているかぎり、神の愛を前面に出すか、神の義を前面に出すかで悩むことがある。使徒の働き15章の最後のほうに出てくる、マルコを巡ったパウロとバルナバの決裂など、まさにそういう例である。パウロは義をとって彼を退け、バルナバは愛によって彼を受け入れた。 神さまではなく、限界だらけの私たちは、義か愛、どちらかに傾いてしまいがちである。そのような私たちの行く先は、イエスさまの十字架である。十字架こそは、神の義と神の愛がともに実現するところである。私たちはともに十字架を見上げることによって、一致していくことができると確信していこう。    第二のポイント、ヨセフは、マリアを生かす道を選んだ。 19節。……ひそかに離縁する、ということ。こうすれば婚約者であるマリアを、姦通罪で訴える必要はなくなる。もちろん、死なすこともなくなる。 そのかわりマリアは、もう二度とヨセフのもとに戻ってこない。ヨセフは、マリアを永遠に手放すという決断をしたわけである。それでもヨセフは、マリアを生かすようにした。  この箇所でみことばは、ヨセフのことを「正しい人」と評価している。「正しい」とは、みことばに厳格に従うゆえに、愛すべき人を石打ちの刑に引き出すことではない。神さまの創られ、愛しておられる大事ないのちを思いやり、守ること、それが「正しい」ということである。  私たちは「正しい」ということを、厳格なこと、四角四面なことと思ったりしてはいないだろうか? 確かに、「正しい」ということにはそのような側面もあるが、それでは、さばくことはできるかもしれなくても、人を救うことはできない。物事に対して正しいか否かということを判断するにあたって、みことばという判断基準を私たちは時に用いるが、そのような時こそ、なおさら私たちの態度が問われる。私たちはみことばを、人をさばくために用いるのか? それとも、人を救うために用いるのか?  ここで、みことばを適用する際の私たちの姿勢が問われてくる。私たちがもしみことばを、人をさばくために用いるとするならば、それは神さまの喜ばれることなのか、よく考える必要がある。聖書の中でも、箴言やパウロの書簡には、訓戒にあたるみことばがたくさん書かれている。しかしそれらの訓戒を、相手を愛する思いもなくただ闇雲に、聖書にそう書かれているからという理由で人に適用していくならば、それは人をさばくことになってしまう。  たとえば、聖書の中に、働きたくない者は食べるな、という表現が出てくる。しかし聖書にそ 私たちは罪人なのに、そのくせ人をさばきたがる。自分は罪人なのにもかかわらず、人のことを罪人扱いしてやまない。しかしイエスさまは私たちにおっしゃった。ヨハネの福音書13章34節。……イエスさまが愛するように……それは愛する相手のために、十字架にかかって傷ついて死ぬほど、という意味である。文字通り、死ぬほど相手を愛すること、これが、イエスさまが私たちに望んでいらっしゃる愛である。  ヨセフだって、マリアを離縁しようと決断するまで悩んだが、その悩みは「死ぬほど悩んだ」と形容するのがふさわしいだろう。死ぬほど。これが、愛を実践する者の姿勢である。そこからヨセフとしては、精いっぱいの決断をすることができたと言える。  神さまは、私たちが人を愛する者になるようにと求めておられる。それでも私たちは、そう簡単に人を愛する者にはなれないだろう。相変わらず、愛するよりさばくことを選びやすい。それでも私たちは、愛することを目指すものとなりたい。  私のために十字架にかかって死んでくださった、それほどまでに私を愛してくださったイエスさま、このイエスさまの十字架を、いつも思い巡らそう。そして兄弟姉妹を愛する愛を、増し加えていただくように祈ろう。  第三のポイント。ヨセフは、御声を聴いて従うことを選んだ。    20節のみことば。「彼がこのことを思い巡らしていたところ、」いったんはマリアを離縁する決心をしたヨセフだったが、どうしてもこのことを考えずにはいられなかった。ヨセフが御使いの声を聴いたのは、まさにそのような時だった。20節と21節。  ヨセフは悩みのどん底にあった。しかしそのようなときに、神さまのみことばをヨセフは聴いた。御声を聴く。これは、私たちの歩みにとって、基礎の基礎である。それでは、私たちは、御声というものをどのように聞くのだろうか? 礼拝でもいい、毎日のディボーションでもいい、信仰書籍を読む時でもいい、ほかの兄弟姉妹と分かち合いをするときでもいい、私たちはヨセフのような劇的な形ではないかもしれなくても、神さまがみことばを語ってくださる機会の中に、毎日私たちは置かれている。そういう機会の中で、私たちはみことばが聴けるのである。  私たちは悩んでもいい。悩むことは罪ではない。ただし大事なのは、そのような中にあっても絶えず神さまのみことばに耳を傾ける姿勢ではないだろうか? 悩むことにとどまるのではなくて、みことばを聴く。これが私たちのあるべき姿ではないだろうか?  そしてヨセフは、みことばを聴いてどうしたか? みことばで語られたとおりを実行に移した。つまり、マリアを妻として迎えた。どれほど難しいことをしたのだろうか? いや、考えることもできないことだったはずである。何しろ自分の子どもではない子を宿した人を、妻として迎えるのである。みことばに聴いて従うとは、そういう、常識をも超越した神さまのみこころに、人を導くものである。 神さまの御声に聴き従うと、世の中を縛っている常識というものの枠にとらわれなくなる。発想も行動も自由になる。ヨセフはたしかに、本来楽しむべき新婚時代も、マリアと関係を持たずに過ごすしかなかった。しかし、かえって、救い主をこの世に送り出す重大な働きに自分が関わっていることに使命感を持ち、そのような、普通に考えれば相当に不自由な新婚生活を忍んだにちがいない。神さまに聴き従ったヨセフは、実は神さまによって、自由だったといえる。  私たちはどうだろうか?みことばに聴き従う生活を、心のどこかで不自由なものと捉えてはいないだろうか? しかし、イエスさまも宣言されたとおり、真理、みことばの真理は私たちを自由にする。  ヤコブの手紙には、行いのない信仰は死んだものだと書かれている。私たちは聖書のみことばを聴いて、そのまま聴きっぱなしにしてはいないだろうか? あるいは、みことばに従って生きることを、どこかで恐れてはいないだろうか? 私たちはそこから解放され、みことばに従って、神さまのみこころに従って生きる、真の自由を体験していく必要がある。  毎日のディボーションで示されるみことばも、それゆえ、その示されたみことばをいかにして行動に適用していくか、常に求めていこう。みことばを聴く者になろう。そして聴くだけにとどまらないで、行動に移していくものになろう。  最後に、マリアをさらしものに、あるいは石打ちにしなかったヨセフの思いやり、そして語られたみことばに従ったヨセフの信仰ある行動によって、イエスさまが無事この世にお生まれになったことを今一度覚えておこう。このクリスマスの備えのとき、私たちもヨセフのように、あえて自分の損になるようでも人に愛を示し、みことばを聴いて実践するものとなれるように。

「マリアとはどんな人だったか」

聖書の教えに人々が触れるとき、理解できない、となる事柄として、「イエスさまの復活」とならぶものに、「マリアの処女懐胎」があるであろう。これは実際、あるミッション・スクール出身の人から聞いた話だが、その学校の「聖書」の授業では、「イエスさまの処女懐胎も、復活も、信じたければ信じてもいいが、事実というわけではない」というふうに教えているという。そういう聖書教育を受けた子どもたちはいったいどのように育つのだろう、と、暗澹となるが、ミッション・スクールにしてそうなのだから、いわんやこの世の一般的なとらえ方においてはどうだろうか。  今日の箇所は、マリアは処女にして身ごもったと、はっきり語っている。このみことばをきちんと受け入れるとき、私たちは聖書のことばをすべて、誤りなき神のみことばとして受け入れることができる。とても大事な箇所である。  それでは本文の学びにまいりたい。神さまは主イエスの母としてマリアをお選びになった。マリアがどんな特別さを備えていたから主がお選びになったかは詮索できなかろう。神のみぞ知る、といったところ。ただし、このように神さまに選ばれたマリアはどんな人だったか、私たち信仰者にとってどんかモデルかを知るのは必要なことである。  マリアとはどんな人だったかということは、今日の本文の、御使いとのやり取りから知ることができる。マリアは御使いの取り次ぐ神のことばに対し、3つの反応を見せている。順に見ていって、私たちにとっての模範となるマリアの態度から学びたい。  第一にマリアは、みことばに驚き、考えた。  26節。不妊の人だったエリサベツに子どもが与えられたという大きなできごとのその6か月後、神の御使いガブリエルがマリアのところに来た。マリアはダビデの子孫であるヨセフと婚約していたが、あくまで婚約で、男性経験はなかった。婚前交渉、婚外交渉が当たり前になっているこの世の価値観からかけ離れているだろうか? しかし、これが本来あるべき姿。私たちはこの原則を大事にし、子どもたちにも教えたい。  28節。そんなマリアのもとに御使いが現れた。それだけでも驚くべきことだが、ガブリエルはマリアに、なんと告げたのだろうか?「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29節を見よう。マリアが戸惑ったのは、御使いの告げたことばに対してだった。マリアは、御使いがいきなり現れたことに驚いたともいえようが、御使いの語ったことばの意味はなんだろう、と、驚き、考えたわけである。  それはそうである。何がおめでとうなのだろう? どうして私は恵まれているのだろう? 主がともにおられるとは、どういうことだろう? わかるだけでも、3つも疑問が湧き上がっている。みことばとは、私たちをして驚かせるものである。人間世界ではふつう体験できない奇跡の記述。それがほんとうにあったのか! と受け止めるとき、聖書の登場人物がおぼえた驚きに近づける。  しかし、みことばとは、驚かせるものにとどまらず、考えさせるものである。マリアの場合を見てみると、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ、とある。マリアを驚かせたものは、その神のことばが、ほかならぬ、自分に語られたものだった、ということ。  そこでマリアは考えるしかなかった。私が、こんなふうに、おめでとうなんて言われる理由などあるかしら。私は恵まれているのかしら。いと高きお方である主が、私などと一緒におられるものかしら。  私たちに、この「頭」というものが与えられているのは、自分で考えることが主のみこころだから。神さまがみことばで驚きを与えてくださったら、私たちの側のあるべき反応は「考える」こと。その反応を主は喜んでくださり、もっとよくみことばがわかるように、知恵をくださる。  私たちはみことばに「驚いて」いるだろうか? みことばを座右に置く素晴らしさがいつの間にか当たり前になって、その書かれていることに「驚く」ことを忘れてしまってはいないだろうか? そして、私たちは、みことばを読むたびに「考えて」いるだろうか? もちろん、究極的に言ってしまえば、みことばの意味を悟らせてくださるのは聖霊なる神さまで、私たちの知恵によるのではないのだが、しかし、悟りに至るまでに私たちが自分の頭でみことばを思い巡らすことを、神さまはよしとしていらっしゃる。それでこそ、私たちは、じぶんにあたえられたみことばをじぶんのものとしていただくことができる。願わくは、みことばに驚き、みことばを考える恵みがつねに与えられるように。  第二にマリアは、みことばの意味を問うた。  30節。御使いはマリアの戸惑いを見て取った。そこでまず御使いが語ったことは、「恐れることはありません」ということばである。マリアには、この世の何ものにも比較できないほど確実な神のみことばが与えられるのに、恐れていてはならないでしょう、と、御使いはマリアを励まし、力づけている。恐れるな、ということばは、神から離れているゆえに不安になることおびただしい私たち人間に対する、神さまからのプレゼントである。  そしてガブリエルは、あなたは神から恵みを受けている、と語った。特別な選びの恵みを受けたというわけである。神さまのみこころによって「私が」選んでいただいた、これが私たちの信仰の神髄である。  31節。ガブリエルは、マリアが処女にして身ごもることを告げた。空前絶後の奇跡が起こるというわけである。しかも生まれるのは男の子で、その名前まで、なんとつけるべきかが告げられた。イエス、神は救いである、という名前。  32節。このイエスという子は、いと高き方の子、すなわち、神の子としてこの世にお生まれになり、住まわれる方というわけである。しかし、人とは無関係な、ただ高きにいますだけの存在ではなく、神である主によってダビデの王位、すなわち、永遠に神の民を統べ治める王の王としての地位を備えていらっしゃる、というわけである。  33節。ヤコブの家とは、創造主なる神の民。血筋によるのではなく、神を信じる信仰によって神さまと契約を結んだ民を「ヤコブの家」と呼んでいる。このお方は永遠に支配される。  以上のことは、ユダヤ人、わけてもダビデの子孫としてダビデにつながる立場から、偉大なる先祖ダビデを思うかんきょうにつねにあった自分自身、そして、同じくダビデを父祖とするヨセフに嫁ぐ者として、よくわかっていたことだろう。しかし、よりにもよって、自分からそのようなメシアが生まれようとは……。  マリアはこのみ告げの内容にも戸惑っただろう。しかし、34節にあるとおり、マリアは、正規の結婚に至っておらず、したがって男性経験もないのに、なぜ自分が妊娠するのが、と、とまどったわけである。  みことばが臨むのは、人間の常識でありえない、全能なる主のみこころを、人間にお示しになるためである。しかしそれは往々にして、人間の理解を超えるものである。さて、そのようなみこころが示されたら、私たちはどう反応すべきなのだろうか?  マリアを見よう。そんなことはありますまい、と反応したのではない。マリアはみことばを疑ったわけではない。  さきほど、知り合いの通っていたミッション・スクールの話をしたが、はじめに疑いありきで、神のみことばさえもそういう疑いの対象に含めて読む人がいるものであり、キリスト教会におけるその立場を「自由主義神学」というが、私たちは、その「自由主義神学」のような、神のみことばを疑いありきで読むことは、ふさわしくないという立場を堅持している。マリアは、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と言っているが、神のみことばは嘘だと、言下に否定しているわけではないことを確認しておきたい。  だからといってマリアは、何も考えずに、はい、そのとおりです、と反応したのでもない。つまり、マリアはみことばを鵜呑みにしていない。みことばに対して、アーメン、そのとおりです、と受け入れる信仰は必要だが、それと、何も考えないで鵜呑みにすることとはちがう。  あまりにも理解できないことは、そのままにしなくていい。マリアは御使いに、あまりに意外なみことばが、なぜ起こるのか、と問うた。私たちの見習うべき姿勢である。あまりに高きにおられる聖なる神のみことばは、いかにこの世界に下られて語られるみことばであろうとも、みな理解できるべくもない。その意味はなんですか、とお尋ねすることが大事である。ここに、みことばを研究する意義が出てくる。  十二弟子もイエスさまにお尋ねした。すると、イエスさまは教えてくださった。使徒の働きに登場するべレアの信徒たちも、パウロの教えを鵜呑みにしないで、果たしてそのとおりか、毎日聖書を調べた、とある。その姿勢は私たち、聖書を学ぶべく召された者たちにとっての模範である。世の中の動きを知るには新聞やニュース番組を見るだろう。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。また、私たちは読書をする。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。仕事で必要な資料を調べる。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。そのように、「学」べく召されている私たちは、この世界に変わらずに神として君臨されるそのお方のご存在とみこころとみわざを、毎日、みことばに問い、みことばに学ぶのである。  みことばがわからないことを仕方がないと思っていないだろうか?「問う」姿勢を大事にしよう。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。神さまは必ず、みことばの深い意味を積極的に尋ね求める私たちに、ふさわしい形で教えてくださる。  第三にマリアは、みことばに謙遜な姿勢で従った。  いまお話ししたとおり、マリアはみことばの意味を問うたが、それに対して御使いは答えている。35節。たとえ処女であろうと身ごもるのは、神さまの力によるものだということである。それゆえ、あなたは身ごもり、生まれる子どもは聖なる者、神の子である。  36節。これはマリアを具体的に説得する事実である。マリアはもちろん、親類であるエリサベツが子どもを宿せない悩みを抱えていたことを知っていた。しかし、そのエリサベツが無事に身ごもっているという事実を知らされた。そして畳みかけるように37節。  マリアは説得された。38節、マリアのことばを見よ。まず、自分のことを、主のはしためと告白している。いちばん低い立場にある女性である。これは別の訳の聖書では「仕え女」であり、神に仕える立場にある、神に仕えてこそあるべき立場にある、ということ。  なにかと人からほめられたい、尊敬されたい、仕えられたいと思うのが、私たちではないだろうか? そんな私たちは、マリアのこのへりくだった姿勢にならうべきだ。  そして、おことばどおりこの身になりますように……これは大変な告白である。何よりも、未婚の母で生きるのが神のみこころなら、そうします、という、大変な決意の表明である。この従順の結果、婚約者のヨセフは去るかもしれない。お腹が大きくなったら、人々は私のことを石打ちの目に合わせるかもしれない……そんな可能性もあったわけだ。  しかし、ここでマリアが信仰を働かせることができたのは、神さまは、これほどのお方を誕生させてくださる以上、ぜったい、自分のことを守ってくださる、ということを、みこころとして受け取っていたからである。イエス・キリストは、どんな人間的な逆境が予想されようと、誕生するのが神のみこころである以上、必ず生まれる。したがって、みごもって産む私も守られる……。  このような絶対の従順を生む信仰は、キリストについてのみことばを聞くことから始まる。その聞く姿勢は、さきほども触れたとおり、わからないことをわからないままにせず、しっかり尋ねるところにも現れている。蒔かぬ種は生えぬ、というが、聞かぬみことばは信仰にならぬ、といったところだ。イエスさまのお祈りにあるように、永遠のいのちとは、唯一まことの神である御父と、御父が遣わされたイエス・キリストを知ることだが、永遠のいのちを自分のものにさせていただくために、神を知るには、みことばを読むしかない。みことば読むこと以上に、神を知り、永遠のいのちに生きる道はない。  私たちは、従順という祝福を受けるまで、みことばに聴くことをやめないでいるだろうか? どうかみことばを聴く、みことばに聴く私たちでありたい。そして、みことばに従う力をつねに謙遜に求める私たちでありたい。

「バプテスマへの導き」

聖書箇所;使徒の働き8:26~40/メッセージ題目;「バプテスマへの導き」/讃美;聖歌634「山ゆくも海ゆくも」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてととともにありますように。アーメン。」 私が初めて教会に行った日は、うちの兄がバプテスマを受けた日だったと記憶している。すでに兄は、私よりも1か月前から、母とともに教会に通っていた。教会に行ってすぐに信仰を持った兄に、牧師先生はすぐバプテスマを授けましょう、ということになった。バプテスマが執り行われたのは、ちょうど今日と同じくアドベントのときで、クリスマスの讃美を礼拝で歌ったのを強く記憶している。1987年の12月のことであるから、ちょうど35年前、もう35年も前になるが、そのとき、水の中に次々と決心者が沈められるのを見て、なんだかすごいことをするんだなあ、という、強烈な印象を持った。 今日は礼拝において、バプテスマが執り行われる。そこで今日は、バプテスマを執り行うことの意味を、聖書に記録されたバプテスマ執行の実例から学んでみたい。 まず、ピリポが荒野であるガザに宣教に赴いたのは、主の霊的な導きがあったからである。宣教とは、神さまを主と信じ告白する、キリストのからだのひと枝となる人を新たに立て上げることであり、ピリポはエルサレムにほど近いガザに居ながらにして、はるか遠くの国の民、エチオピアの高官に宣教するように導かれたわけであった。7章に記録されたステパノの殉教を機に教会はエルサレムから散らされたわけだが、次の8章でピリポはサマリアに宣教を展開し、さらにはエチオピアにまで至ったわけである。使徒の働き1章8節のみことばは早くも成就しかかったわけだが、これぞ全能なる聖霊さまのお働きである。 しかし、主のお導きというものは、人間の考えを超える。サマリアで宣教をして、それがある程度実を結んだところで、ピリポが導かれた先は荒野の道であった。そこに教会をつくるのであろうか。そうではなく、ピリポは、このエチオピアの宦官に会うためだけに、荒野の道に導かれたようだった。主の導きは、ひとりの人に注目させるということを、私たちは知る必要がある。私たちは今、この教会に集っているが、神さまは私たちのことを「群れ」とは見られない。ひとりひとりに注目してくださっている。ピリポをして、荒野の宦官に注目させてくださった主は、世界の果てのようなこの日本にいる私たち一人一人に注目してくださっている。 ピリポが御霊に導かれるままに宦官のいる馬車に走っていくと、果たして、宦官は聖書、それも、イザヤ書53章のみことばを読んでいた。宦官は礼拝者としてエルサレムに赴き、その帰りであった。すなわち、彼は異国の人でありながら、イスラエルの神である私たちの神さまを信じていたわけである。そしてその高い地位にある者らしく、極めて貴重な聖書の写本を所有し、それを朗読していた。 しかし、宦官は答えた。「導いてくれる人がなければ、どうしてわかるでしょうか。」宦官は確かに、神さまを恐れる人だった。それはエルサレムに巡礼に行くほどの行動となっていた。 しかし、宦官はみことばが理解できていなかった。とりわけ、イエスさまのことがわからなかった。いかに神さまを恐れているといっても、イエスさまの十字架が理解できていなければ充分ではない。 この宦官は謙遜だった。「導いてくれる人がいなければ、どうしてわかるでしょうか」というのは、自分はみことばの意味が分からない、ということを正直に認めた上に、自分は導きをしてくれる人を必要としている、と告白する、謙遜な姿勢の表れである。ここからわかることは、イエスさまに対する信仰は、はっきりそれと導いてくれる人が必要である、ということである。 宦官の読んでいたのはイザヤ書53章であった。ピリポは、このみことばが語る人物とは、イザヤ自身のことではなく、イエスさまのことだと解き明かし、そう彼に教えた。そうである。導いてくれる人がいなければ、私たちの救いを左右する大事なみことばも、わからなくなってしまうわけである。しかしこの宦官は幸いなことに、イザヤ書53章に始まり、聖書の啓示するイエスさまの福音を聞き、イエスさまに対する信仰を持つに至った。 このように、イエスさまに対する信仰を持つには、導いてくれる存在が必要なわけである。すなわち、教会の兄弟姉妹の存在が必要である。教会の中でもこの者が、特に牧師という立場でみなさまにみことばをお語りしているが、みことばを教える働きをするのは牧師や宣教師にかぎらない。だれもが毎日、みことばから教えられているわけで、そのみことばを互いに分かち合うとき、私たちは教え、教えられる、麗しい関係を体験するのである。 イエスさまは父なる神さまへのお祈りの中で、このようにおっしゃった。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」そう、聖書に教えられ、父なる神さまとイエスさまを知れば知るほど、私たちに与えられている永遠のいのちのすばらしさをさらに知るに至り、より一層、神さまに感謝するようになる。 この感謝にあふれた生活をするうえで、私たちはこの教会という共同体の中で、みことばが解き明かされ、その解き明かしが教えられるという体験が必須である。 かくして宦官は、みことばの解き明かしを受け、イエスさまの十字架をはっきり理解するように導かれた。すると宦官は、水のある場所を見つけ、バプテスマを受けさせていただきたい、と言った。宦官はこの教えを受けるプロセスで、イエスさまを主と信じ告白するように導かれた。そして、そのようにイエスさまを信じ告白した者は、バプテスマを受けるものであるということを受け入れていた。宦官は時を移さず、ピリポに頼んで、バプテスマを受けた。イエスさまの十字架がわかれば、バプテスマを受けよという主のみこころに従順になれる。逆に言えば、バプテスマというものは、みことばからしっかり、イエスさまの十字架に対する理解をしてこそ受けられるものである。 ピリポがこのように、宦官にバプテスマを授けると、聖霊さまはピリポを連れ去られた。それは、宦官の拠り頼むべき対象が、ピリポという人間ではなく、神さまご自身であるということを示している。 今日バプテスマを受けるのは、うちの娘でもあるが、今は親の監督下にあり、同時にここ水戸第一聖書バプテスト教会の牧師の監督下に置かれているわけだが、いつかは、進学なり就職なり結婚なりの理由で、ここから離れることにもなろう。そのとき私が主に問われることは、私が娘のことを、私との関係ではなく、主との関係の中で育ててきたか、ということである。主との関係の中で育っているならば、ここを離れても精神的に私に依存するという、ふさわしくない状態にはなく、とても好ましい。 それは私たちにとっても同じことで、私たちにとってこの教会は、それぞれが主との関係を深め、主の御前に徹底して生きる生き方を実践するうえで、必須の環境だが、私たちは牧師も含め、教会のだれかに依存するわけではない。私たちが主の弟子としてこの世において振る舞うにあたり、職場に牧師を連れて行くわけにはいかない。それぞれが神さまとの関係がしっかりできている必要がある。 教会とは、その生き方をするために、主の教えをいただく場である。私たちはこの共同体の中で、日々みことばから教えられる。それが、主にあって独立したクリスチャンとして私たちを成長させる原動力となり、私たちはそこから、共依存ではなく相互依存、主の栄光が成し遂げられるために、互いを必要とし、互いのために歩む麗しさを形づくる。 また、聖霊さまがピリポを宦官の前から別の場所に連れ去られたこの場面は、旧約聖書列王記第二の、神さまがエリヤのことをその弟子のエリシャの前から連れ去られたシーンをほうふつとさせるが、エリヤとエリシャの場合は、エリヤが去ったことを、エリシャが悲しんで着ていた服を引き裂いたりしているが、ピリポと宦官の場合は、宦官が喜んでいる。喜びに導けたということにおいて、この宣教は成功であった。 パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」とも、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」とも言っている。実に喜ぶこと、すなわち、主にあって喜ぶことは、私たちキリスト者の旗印である。バプテスマを受けて、身も心も主のものとなったことほど喜ばしいことはない。今日のバプテスマの恵みに、教会一同でともに感謝し、喜ぼう。 私たちがバプテスマを受けた時のことを想い出そう。それ以来いただきつづけてきた、数えきれない主の恵みに思いを巡らそう。

「イエスさまの『追っかけ』は報われる」

聖書朗読;マルコの福音書6:53~56/メッセージ題目;「イエスさまの『追っかけ』は報われる」/讃美;聖歌617「したいまつる主の」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 今は何というのか知らないが、歌手であれ俳優であれ、特定のスターのファンが昂じると「追っかけ」となる。谷村新司の歌に「スーパースター」という、「追っかけ」の若い女性の気持ちを歌った曲があるが、その出だしはこうである。「テレビからほほえみかける 貴方を追いかけて街から街へ 誰よりも近くにいたい そんな毎日だったわ」だれよりもそのスターの近くにいたい毎日、それが追っかけで、この歌は、雨の日も暗くなるまで事務所の外で立ちつくしてた、誰よりも早く知ったわ、貴方のスケジュール表……という歌詞につづく。 結局、この歌の主人公の女性は、母親を支えなければと決意して、会社に就職して「追っかけ」であることをやめる。なんとも切ない歌だが、それなら「イエスさまの追っかけ」ならどうだろうか? 悲しい結末を迎えるだろうか? 今日の本文にいこう。これは「イエスさまの追っかけ」の記録である。今日の箇所は1節ずつ、3つの面から「イエスさまの追っかけ」たる群衆の姿、信仰の表れを見ることができる。それではともに見ていこう。 ①イエスさまに気づく信仰 「彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。」(54節) 彼らがすぐに、そこに来た人がイエスさまだと気づいたのは、普段から彼らの関心がイエスさまに向かっていたから。ラッキーFMが聴きたい! となっていたら、なにがなんでも、チューニングをFMの94.6MHzに合わせておくだろう。チューニングが合っていたら、あとは受信すれば聴きたい番組が聴ける。そのように、関心がイエスさまにつねに向かっているからこそ、いざイエスさまが現れたら、それとわかるのである。 彼ら群衆には、イエスさまのみことば、イエスさまのみわざへの飢え渇きがあった。それ以上に、イエスさまのご存在に対する飢え渇きがあった。イエスさまでなければその飢え渇きを満たすことはできないことを、彼らのたましいはよく知っていた。彼らはパリサイ人のような宗教指導者のところに行かなかった。イエスさまのもとに行った。 私たちがこうして、礼拝をおささげするのも、毎日聖書を読んでお祈りするのも、私たちには、イエスさまでなければ満たせない飢え渇きがあるからである。しかし、この世は情報の洪水で、いろいろなものが私たちに、魅力的な姿をして近づいてくる。しかし、そのようなものによっては、私たちのほんとうの飢え渇きを満たすことはできない。それはどんなに素晴らしくても、この世に属するものでしかない。 もし私たちが、いつでもイエスさまのご存在とみことばに飢え渇いているならば、私たちはすぐにでも満たしていただける。私たちはみことばを読みたくてたまらなくなるし、そうして手を伸ばしたみことばによって、たましいが潤され、生きる、という体験をする。 私たちはイエスさまによって飢え渇きが満たされることに期待しているだろうか? そうでなければ私たちは世のもので満たそうとし、それではけっして飢え渇きは満たせない。渇いているならわたしのもとに来なさい、このイエスさまの呼びかけに、いまお応えしよう。 ②イエスさまへと走り回る信仰「そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。」(55節) 「追っかけ」たるゆえんである。しかし、これは単なる「追っかけ」ではない。彼ら群衆は、イエスさまでなければ自分たちのいのちを生かすことができないことを知っていた。霊がいのちを得るために、彼らは必死だった。 彼らは、イエスさまがそこにいるという情報に敏感だった。いや、そればかりではない。イエスさまが来られたと知るや、とにかくそこに駆けつけることを最優先にした。病人を床に載せたという難儀な状態でもかまわず、イエスさまのもとに駆けつけることに必死だった。 こんにち、キリスト教会に足りないのは、この、イエスさまの御顔を求める熱心さではないだろうか。礼拝堂がそこに建っていて、牧師がいつでもそこにいる、手許にはいつも聖書がある、YouTubeにつなげばいつでも好きなだけメッセージが聴ける……。 みなが飢えているなら、白いお米のご飯もごちそうになる。しかし、飽食の時代に、ご飯はありがたいものと思えなくなる。神さまの恵みが無視されている。やがて食糧難が訪れることが警告されていても、みな知らん顔である。 聖書は、食べ物の飢饉ならぬ、みことばに対する飢饉の時代が来ることを警告している(アモス8:11)。それは、聖書が禁書になるような時代が来ることを、私たちクリスチャンが許すからかもしれない(実際、韓国ではかつて、聖書を18歳未満に読ませないようにする運動が起こったことがある)。しかし、もっと根本的なことを言えば、私たちクリスチャンがこの世の快楽にうつつを抜かし、聖書なんていらない、となるからではないだろうか。そうなったら、神さまは、そんなにおまえたちがわたしのことばを必要ないというなら、やらない、とおっしゃらないだろうか。 自分が救われたい、愛する人に救われてほしい、と願うなら、千里の道も遠くなかった。私たちに求められているのは、この行動である。 神さまはもちろん、私たちとともにおられる。しかし、私たちの側から積極的に近づくということを、果たして私たちはしているだろうか? 今日こうして私たちが礼拝の場に集っているのは、霊の飢え渇きを主にあって満たす行動である。集えたことに感謝しよう。そして、自分も、ほかの人も、とても救いを必要としているという現実を、さらにしっかりと認識し、それに見合った行動をしよう。礼拝しよう。祈ろう。みことばを読もう。交わろう。伝道しよう。 ③イエスさまに触れる信仰「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。」(56節) 彼らはイエスさまに近づいただけではない。さわったのである。 本日は大相撲九州場所の千秋楽。いまはコロナ下だからしないが、大相撲で勝って取組を終えたお相撲さんの体を、観客が花道に向かって手を伸ばし、ペタペタ触るのをご覧になったことがあるだろう。あれは「勝利にあやかりたい」という、相撲ファンならではの信仰にも似たものだと思う。アイドル歌手の握手会の人気もそのたぐいのものだろう。 イエスさまにさわるのは、イエスさまにあやかる、ということ。さわったらその瞬間、相手と一体化する。イエスさまを前にして、平静を装うのは、一体化したいところまでイエスさまのことを求めていない、ということではないか? 思うに、日本のクリスチャンはみんな静かすぎる。イエスさまに触れることにガツガツしていない。 それが日本人の国民性だ、美徳だ、とおっしゃるかもしれないが、お酒を飲んだり、お祭りになったりしたら大はしゃぎするという面も、日本人は持ち合わせているではないか。放蕩に酔うことをするのに、なぜ御霊に満たされ、御霊に酔うことをしないのか? 御霊とは人を「酔わせる」お方である。 酔うと狂うが、狂うことを恐れてはならない。なぜなら、正しく狂えば、人に対しては正気になるからだ(Ⅱコリント5:13)。また、人が主に狂うことをむやみに批判するのもよくない。その人は主との関係で狂っているのである。ダビデを見よ。王さまであろうとも構わず狂ったが、その狂う姿ゆえに、へりくだった者はかえって尊敬した(Ⅱサムエル6:21〜22)。 私たちも狂ったようにイエスさまに近づき、恥も外聞もなくベタベタさわることを恐れてはならない。あの人、あんなにのめり込んでいる、という人もいようが、私たちは悪いことをしているわけではない。むしろ、それで笑われるならば名誉ではないか。 イエスさまの追っかけ、イエスさまに狂って触る人は、癒される、という、最高の報いをいただく。私たちはみな、罪に病んだ存在である。そんな私たちも、イエスさま、十字架にかかられて復活してくださったお方に触れるならば、いやしていただける。罪の病を深刻に受け止めるならば、癒されたいと死に物狂いになり、とにかくイエスさまにすがるはずではないか。そこまで一生懸命になれるのは、イエスさまに触れれば癒されるという信仰があるからである。 私たちはイエスさまに触れれば癒やされる、という信仰を持っているだろう。その信仰を働かせていこう。折あるごとに呼び掛け、応えていただく、そのみわざを体験しよう。 そして私たちは、イエスさまにはどのように触るのかを人々に示そう。キリスト教とはひとことで言って、神との交わりである。この交わりを自分も体験するだけでなく、ひとも体験できるようにお仕えしていこう。

「頑なな弟子、それは私たち」

聖書箇所;マルコの福音書6:45~52/メッセージ;「頑なな弟子、それは私たち」/讃美;聖歌433「なやめるひとびと」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 今回、主の弟子訓練コンベンションに参加して、気づかされたこと、悔い改めに導かれたことがいろいろあった。特に、弟子訓練の牧会をすることは、主のご命令ゆえに従順にお従いするもの、という信念が徹底していなかった自分自身の姿に気づかされた。今後、すべてにおいて、弟子訓練という土台の上に教会形成のわざを行うものとならせていただきたいと願う所存である。 今回のコンベンションの講義では導き方とか、教材の使い方とか、方法論としての訓練のノウハウを説いたわけではない。むしろ主題講義は、聖書を解き明かしたメッセージであり、その中ではもちろん、イエスさまの十二弟子のことも語られた。十二弟子は幸いな人たちである。何が幸いといって、主イエスさまに弟子入りできた人たちだった、ということである。いったい、イエスさまほど最高の師匠がおられるだろうか? しかし、そんな、史上最高の師匠についたならば、さぞかし彼ら十二弟子は素晴らしい「高弟」たちかと思いきや、彼らはその訓練のもとにいたとき、整えられていないこと甚だしかった。 彼らはもちろん、のちには素晴らしい働き人になったが、十二弟子の共同体としてイエスさまのもとに身を寄せていた時分には、ずいぶんしくじった。福音書に記録されているペテロなんて、のちの姿がとても想像できない。例えるなら、名人の落語家も前座修行のときはしくじりが多かったようなものである。人間国宝になった柳家小三治は、前座時代、師匠の柳家小さんの家で修行の一環として床を雑巾がけしていたとき、横着して、なんと足でやって、小さん夫人に見つかって怒られたそうだ。「こら! そんな真似をするのは小ゑんぐらいだ!」小ゑんは、のちの立川談志。小三治も談志も、そんなところから大名人になった。しくじってばかりのイエスさまの弟子たちも、いわば前座修行のような段階。 今日の箇所でも十二弟子のことが出てくる。先週の箇所では、イエスさまのみわざのお手伝いをする、いわば「脇役」のような立場だったが、今日の箇所で、十二弟子は主人公のようである。今日の箇所を読むと、イエスさまが十二弟子をどのように訓練されたかが見えてくる。それでは本文を見てまいりたい。 イエスさまはガリラヤ湖畔で群衆を教え、5つのパンと2匹の魚で彼らを満腹させられた働きをなさったら、すぐに、弟子たちを無理矢理船に乗せた。イエスさまがそうなさった理由は2つある。ひとつは、イエスさまご自身がお祈りに集中されるため。バプテスマのヨハネが殉教したというたいへんな知らせをお聞きになり、イエスさまは御父との真剣な交わりに御力を得ることを必要とされていた。そしてもうひとつの理由は、弟子たちどうしの共同体の中で、彼らを訓練されるためである。今日のメッセージでは、この2つ目の理由を中心に扱いたい。 弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に向かって、12人で協力して船を漕ぐわけだが、折りしも彼らは向かい風に悩まされた。主イエスさまは、この時間のガリラヤ湖に、船も漕ぎあぐねるような風が吹くことをご存じなかったか? いや、ご存じだった。そればかりか、イエスさまが万物を司られる全能の主である以上、この風はイエスさまが備えられたものだったといえる。風ばかりではない。湖には大波まで起こった。そのような厳しさ、いのちさえ危うくなるような中に、イエスさまはあえて弟子たちを送りこまれたのである。 弟子たちはつまり、風や波を鎮められる大きなみわざを行われるイエスさま、全能の神の子がともにおられない中、困難に直面するという訓練にほうりこまれたわけである。イエスさまはこのように、人をあえて冒険の中に突き放されることがある。人は困難に出会うとき、まず、ありったけの力で努力し、困難を解決しようとするもの。このときの弟子たちがそうだった。 それはどれほどの困難だったか? 弟子たちは湖の真ん中にいた、とある。これは、円の中心のようなまん真ん中という意味ではなく、岸辺から遠く離れ、見渡すかぎり海ばかり、ということ。じっさい、ヨハネの福音書の並行箇所によれば、彼らは岸辺から25ないし30スタディオン離れたところにいた、とあるが、これは4キロから5キロメートル、ということ。ただし、湖は強風で荒れ狂っていた。夕方に出発した彼らは、夜明け近くになっても、まだ岸から4,5キロしか漕ぎ出せていなかったのである。しかし、引き返すこともできない。それほど、風と波は厳しく、十二弟子は目の前の状況を解決するのに手一杯だった。 彼らは頑張った。しかし、努力ではどうにもならないときがある。そのようなとき、イエスさまは近づいてくださり、助けてくださる。 困難の中におられる方は信じていただきたい。困難の中にいるとき、イエスさまは私たち主の弟子を愛してくださっているから、私たちが苦しみ果てることのないように、近づいてきてくださる。 しかし、ここでイエスさまは、嵐に悩む彼らを助けるためにやってこられたのに、そこを通り過ぎようとされた、とある。これいかに? とお思いだろうか? これは、イエスさまは彼ら弟子たちの信仰を試され、訓練されたから、というべきだろう。彼らはイエスさまのことを、全能なるお方であると信じ告白すべき、イエスさまの弟子である。実際彼らは、ガリラヤ湖の波に船もろとも沈みそうになったとき、イエスさまがその波と嵐を鎮めてくださったのを体験している。しかもそのとき彼らは、イエスさまに、「信仰の薄い者よ」と一喝されている。十二弟子は信仰の訓練を、極限においてすでに味わっていたのである。 だから、そういう体験のある彼らは、そのとき「イエスさま、助けてください!」と祈るべきであった。そうすれば、イエスさまはたちどころに彼らのもとに駆け寄り、彼らのことを荒波の困難から救ってくださったはずである。イエスさまが彼らに近づかれてもそのまま通り過ぎようとされるのは、そんな彼らの信仰のあるなしを、お試しになっていらっしゃるようである。わが弟子たちよ、お前たちがもし、わたしに心が向かっていたら、そばを通るわたしに必ず気づくはずだ。さあ、ここにいるよ……。 だが彼らは、近づいてこられるイエスさまが、イエスさまだとわからなかった。失礼というべきか、幽霊とさえ思ったのであった。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ならぬ、幽霊の正体見たらイエスさま。しかしこれは笑いごとではない。いつもイエスさまの御顔を見ていたはずの彼らに、イエスさまがわからなかったわけである。このお方がイエスさまだとわからなくしたものは何か。彼らを覆っていた現実的な恐れである。 そのとき、彼らは強風と高波を目の当たりにしていた。彼らはイエスさまではなく、目の前に繰り広げられる現実、現象そのものに目が留まっていたわけである。彼らに死のシンボルである幽霊が見えたように思えたのは、強風と高波ゆえの死にそうな現実に引きずられて、イエスさまよりも死の世界が近しくなってしまったためではなかっただろうか。 私たちは何を優先して見るべきかが問われている。たとえばコロナ。これは大きな波にも似たものではなかったか。自分や家族がコロナにかかったらどうしよう。教会にクラスター感染が起きたらどうしよう。教会の駐車場にたくさん車がとまっているのを人が見たら、自分たちはどう思われるだろうか。しかしこのとき、コロナやそれに付随するそんなさまざまな現象に振り回されず、ただイエスさまだけを見ることができたならば、その信仰はほめられよう。 感謝なことに、牧師家庭にコロナ感染者が出た週、その一日の主日を除いて、コロナ下になって約3年、私たちは一週も欠かさずに礼拝をささげつづけた。恐れにとらえられず、ともに主のみこころに忠実であるようにと、うちの教会が信仰を働かせることができたのは感謝だった。 さて、この箇所は、弟子たちは頑なで悟らなかった、と総括している。しかし聖書は、だから悪い、とも、それは仕方ない、とも評価していない。ただ、彼らが非常に驚いたのは、頑なだったから、悟らなかったから、と、理由を述べている。 ここでわかることは、イエスさまは頑なな弟子たちに驚きを与えてでも、悟りを持てるように導いてくださるお方、ということである。人間は頑ななもの。頑なな人間は悟れない。神さまに教えられることよりも、自分の悟りに頼るからである。 神さまは悟らせてくださるお方。悟りというものは霊的な領域に属する。弟子たちはパンと魚の奇跡を見たばかりか、その奇跡が人々に行き渡るように、ほとんど重労働とさえいえる働きをした。つまり、弟子たちにとって、イエスさまが創造主であることを証しする奇跡は、体験そのものだった。その前には、風と波をみことばひとつで鎮められるのを体験しているし、墓場の男から悪霊を追い出される奇跡も見ている。そのほかにも数々の奇跡を見ている。 それでもわからないものはわからない。悟りは霊的なもの。人にとって体験はたしかに大事だが、体験がいかに大事であっても、聖霊さまが悟らせてくださらないかぎり、体験はほんとうの信仰に導けない。 人は御霊に逆らう肉がたえず生き、隙あらばその人を征服しつくそうとしてしまうような存在である。主の弟子になること、主の弟子でありつづけることも、肉に属する頑張りで取り組もうとしてしまうこともよくある。つまり、肉の思いゆえに御霊に逆らうわけだから、御霊が与えてくださる、神さま、イエスさまとの生きた交わりの中で、主の弟子として振る舞わないのである。 怖いことに、肉的な頑張りでも、人の目にはそれなりに立派なクリスチャン生活をしているように見えてしまうものである。しかし、その人に、果たしてほんとうの主との交わりはあるだろうか? 信仰は働いているだろうか? 私たちは、頑なで悟れない弟子たちを笑うことはできない。イエスさまを前にしても悟れなかったのが弟子たちならば、いわんやイエスさまと共同生活を送っているわけでもない私たちが悟れるものだろうか? 私たちこそ頑ななのではないだろうか? しかし、そんな私たちがもし悟れたとしたならば、もはやそれは人間業とは言えないのではないだろうか? それを恵みという。 そう、信仰は人間業ではない。神さま、聖霊さまの領域に属するものである。聖霊さまが私たちに信仰を与えてくださるのであって、私たちが頑張った結果、信仰を持つというものではない。しかし、イエスさまは、私たちの中にふさわしく信仰が育つまで、ときに「信仰の薄い者よ」と叱咤激励されながら、何度でも私たちのことを導いてくださる。 私たちはわかっているだろう。自分に信仰がないことに折りあるごとに気づかされる。それで落ち込まないだろうか? もっと信仰があればいいのに、などと思わないだろうか? しかし、それが私たちなのをご存じの上で、イエスさまは私たちのことを、信仰が弱いからとお見捨てになることはない。 私たちがこの人生の中で自分の不信仰に気づかせていただくことは数知れないが、主はけっして、私たちが不信仰だからという理由で私たちのことを見捨てず、ご自身の弟子とされた以上、私たちの生きるかぎり、私たちの信仰を増し加えてくださる。この恵み、信仰が与えられているゆえに、今日もイエスさまについていけることに感謝するお祈りをおささげしよう。

「みことばに生き、みことばに死ぬ」

聖書箇所;マルコの福音書6:14~29/メッセージ;「みことばに生き、みことばに死ぬ」 今日の箇所は先々週のマルコの福音書の箇所の続きだが、期せずして、というか、今日は主の晩さんを執り行う。今日の箇所は、主の晩さんの主題である、主イエスさまの死を告げ知らせることときわめて関係が深い。今日の箇所の扱う主題は、ひとことで言って「殉教」である。大きく2つに分けると、殉教に至る背景、そして、殉教の場面、となる。 まず、殉教に至る背景から見てみよう。14節から16節によると、バプテスマのヨハネのことは、ヘロデが死刑に処したことがわかる。しかし、いま人々の間では、ことばとわざに力あるお方、イエスさまが活動していて、このお方は、死んだヨハネがよみがえったのだとも、旧約の預言者エリヤが現れたのだとも、いにしえの預言者がよみがえったのだとも言われていた。この人々のうわさはヘロデの耳にも届いた。しかし、ヨハネの首をはねて死刑に処したのは当のヘロデであったので、どれほど当惑したことだろうか。 ここでわかることは、イエスさまというお方は、生きながらにしてすでによみがえりのいのちを生きておられたと見なされていた、ということである。イエスさまはのちに、友であるラザロが死んだ折、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きる」とおっしゃった。ラザロのきょうだいであるマルタがそれを聴いて、きょうだいを亡くした悲しみの中にありながらもすんなり受け入れることができたのは、イエスさまがよみがえりである、ということを、イエスさまに対する人々のうわさからも感覚的に知っていたからだろう。事実そのとおり、イエスさまはよみがえりであり、いのちであられた。 ともかく、イエスさまが働かれたことは、否が応でもヨハネのことを連想させずにはいられなかったわけだが、17節から20節までは、ヨハネとヘロデの関係を語っている。ヘロデは腹違いの兄弟ピリポの妻ヘロデヤを奪い、自分の妻にした。このことはもちろん、律法が禁止していることである。レビ記18章16節、同じくレビ記20章21節で戒められているとおりで、これらのみことばによれば、これは単なる不法行為ではなく、姦淫の罪に該当するものである。 このようなヘロデのことを、ヨハネは糾弾した。ヨハネの糾弾はまったく正当なものだったが、この糾弾は、ガリラヤという宗教的法治国家の長たるヘロデの名声を地に落とすには充分だった。ヘロデはヨハネを逮捕した。聖書の傍証資料として価値がある、ヨセフォスという歴史家の書いた『ユダヤ古代史』という書物によれば、ヨハネの罪名は「国家反逆罪」であった。 しかし、このヨセフという人物は、俗っぽい言い方をすれば「転んでもただでは起きない」人だった。獄中でもなお語りつづけ、ヘロデの面前でも語りつづけた。ヘロデは、喜んでその語ることばに耳を傾けたとみことばは語る。そしてヘロデは、非常に当惑したともある。そう、彼の名声を地に落とした人物は、これ以上ないほどのメッセージをもってヘロデに語りつづけ、それはヘロデの心を動かした。ヘロデは、このような正しい人を囚われの身にしたなんて、と、さぞ戸惑い、また、問われたことだろう。 私たちも、みことばにより問われるという経験をする。ときにはそのようなことばを、人の口をとおして聞くことがある。私たちはそんなとき、その人に対して激しい反発を覚えるかもしれない。しかし、その人がもし、さばくためではなく、愛する思いで語ってくれたのならば、私たちはそのように反発心を覚えたことを、あとで悔い改めるべきであろう。それが神の前に生きる人の態度である。 しかし、ヘロデがそうであっても、収まらない人がいた。妻のへロディアだった。ヨハネのヘロデに対する糾弾は、そっくりそのまま、ヘロデヤにも向かうものだった。ヘロデヤはヨハネのことを殺したいほど憎んだ。 人を悔い改めに導くみことばは、ありがたく受け取るべきものである。しかし、もし人が傲慢で、心がかたくなならば、そのみことばは受け取れず、そのみことばを伝えてくれるありがたい人への激しい反発を覚えるしかない。私たちは、みことばを語ってくれる人に対して柔和な心でいるか、よくよく自分自身を点検する必要があろう。 21節から、ヨハネの殉教の記録は後半に入る。まず、「良い機会が訪れた」とあるが、これは言うまでもなく、ヨハネを殺したいへロディアの願いを遂げる上での絶好の機会、という意味である。 イエスさまは十字架にかかられる前の晩、ゲツセマネの園にやってきた、ご自身を逮捕しようとする者たちに対し、「今はあなたがたの時、暗闇の力です」とおっしゃった。それは、十字架という、人が神に至る唯一の道を開かれるため、神さまがあえて悪魔とその群れに動く時を許された、ということであったが、この、ヨハネの殉教という「時」も、悪魔が主導権を取って動いた時というわけではなく、全知全能なる神さまの主権のもとに許されたできごとであった。 しかし、その瞬間は、鮮やかなほど皮肉なものだった。へロディアはおそらく、自分が前の夫との間に設けた娘サロメが宴席で舞を舞えば、ヘロデが上機嫌、太っ腹になることを見越していたのだろう。実際、ヘロデは上機嫌になり、求めるものは何でもやろう、などと言っている。 また、サロメはへロディアの罪の性質を受け継いで残忍だった。自分のほうびにバプテスマのヨハネの首を求めなさいと母親にそそのかされても、それを断ることをせず、ヘロデの戸惑い、心の痛みをよそに「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、いただきとうございます」と堂々と言ってのけた。ヘロデの誕生を祝う、すなわち、いのちの主のなる神によっていのちが与えられたことを祝う場を、「女より生まれた者の中で最もすぐれた人物」とイエスさまが最高の評価をなさったヨハネが、むごたらしく殺される場としたのであった。 ヨハネは、神のことばに生きた。そして、神のことばに死んだ。この姿は、預言者の生き方であり、イエスさまはその生き方を最もはっきりと実践されたお方だった。 イエスさまは肉体を取られた神のみことばとして、語ることばは神のことばであり、その語ることばによって聴く人にいのちを得させ、ご自身をさばく者には神のさばきを宣言された。まさにみことばによって生きられたお方である。 そしてイエスさまは、みことばに死なれた。宗教指導者たちがイエスさまを十字架につける決断をしたのは、イエスさまのみことばを聞いたからだった。大祭司カヤパが「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子神の子キリストなのか、答えよ」とイエスさまを詰問すると、イエスさまは「あなたが言ったとおりです」とお答えになり、さらに、ご自身が、預言の書に書かれているとおりのやがて来られるメシアであると語られた。しかし、それは彼らには冒瀆とみなされ、そのまったく正しいみことばゆえに、イエスさまは十字架につけられることになったのだった。まさにイエスさまは、みことばに死なれたのだった。 私たちはヨハネのようには、そしてイエスさまのようには、みことばに生きることも、ましてや死ぬこともできないような者ではないだろうか。ゲツセマネの園で眠りこけてしまったような弟子たち、鶏が鳴く前に3度イエスさまを知らないと言ってしまったようなペテロにシンパシーを覚えるのが当然の、弟子に召されていながら弟子になりきれない存在、それが私たちである。 そんな罪深い私たち、弱い私たちだからこそ、イエスさまは私たちが果たせなかった神への従順、律法の完成を成就するため、十字架にかかってくださった。私たちはイエスさまを信じる信仰によって、みことばに生き、そしてみことばに死ぬ栄光へと導かれる。これは一朝一夕にできることではない。日々の神との交わり、聖徒たちの神にある交わりを通し、つねに十字架と復活を体験してこそ、それは可能となる。 今日執り行われる主の晩さんは、みことばに生き、みことばに死なれたイエスさま、そして、みことばのとおりによみがえられたイエスさまの、そのみからだと血潮にあずかる時間である。私たちはみことばに生き、みことばに死ぬ力を、自分の努力で持ち合わせることはできない。ただ、イエスさまとの交わりによって、そのような神の栄光を顕す実を結ぶのである。その交わりを体験する時間として、主が今日の主の晩さんを祝福してくださるようにお祈りする。

「アテネ宣教から考える放送伝道」

聖書箇所;使徒の働き17:16~34/メッセージ題目;「アテネ宣教から考える放送伝道」 今日は「世の光のつどい水戸大会」が開催される。このつどいは本来、茨城放送、ラッキーFMで日曜日朝7時10分から25分まで放送される「世の光いきいきタイム」のリスナーのためのつどいであり、その主な対象は、まだ教会につながっていない人たちであった。つまり、このつどいは伝道集会であり、毎週日曜日のラジオによる放送伝道を、目で見て、体験できる形にしたものである。 放送伝道というものは、一般の放送局の電波に乗せて番組を流す分、制約も多い。聖書はある意味、しっかり説明しないと誤解を招くような表現がしばしば登場する書物であり、そのような、簡単には解き明かせない箇所、しかし、意味が分かると神さまの深い愛に感動するような箇所も、おいそれと公共の電波に乗せて流すことは難しい。また一方で、どことかだれとは言わないが、ほかの宗教団体の放送も流れ、きわめて個人的な趣向が凝らされたような番組も流れる中、そのいろいろな番組をかいくぐるようにして伝道目的の番組枠を毎週確保する。言ってみれば「ビジター」であり「アウェー」である。 そこで今日は、そのような困難な中で戦いを繰り広げる放送伝道というものを考える日として、パウロの時代の大伝道集会のことをひとつ取り上げてみたい。これはまさに「アウェー」の戦いであり、ここから私たちは学ぶことが多いはずである。なにせこの日本は神々の精神風土、われわれクリスチャンは、クリスチャンとして生きるだけで「アウェー」感満載で生きるしかないではないか。だが、「アウェー」でも勝利するときはするのである。あきらめてはいけない。 第一のポイント。パウロは信仰のゆえに、神々の存在に憤った。 アテネはギリシャ神話に由来する偶像の神々で満ちた町であり、それと同時に、快楽主義のエピクロス派、禁欲主義のストア派といった、精神世界を支配する哲学も盛んな土地柄だった。しかし、そのような風土は、宗教的にも、哲学的にも、神のみことばの教えからは遠く離れているものだった。 このような精神風土に対して、パウロは「憤った」のである。それゆえにパウロは、その怒りが一つの原動力となり、そのような偶像の神々や極端な哲学に捕らわれている人々を説得して回ろうと、一生懸命になった。 宣教というものを動かす力は、「パッション」、内的衝動であるべきである。パウロはかなりすごいことを言っている。 「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」(Ⅰコリント9:16)この心情は預言者エレミヤにも共通する。エレミヤ書20章7節から9節を見よ。みことばを語ることはやめたくてもやめられない。それは、神さまとの交わりがそれだけ深いからである。 この内的衝動がなければ、放送伝道のような働きは到底務まらない。あの、日曜日朝の15分の放送枠を奪取することは、大変な戦いである。この戦いは大変だが、やめることができないのは、なによりも、戦いに向かわせられる神さまからの内的衝動に満ちているからである。この世の放送に割って入る戦い、この世がほめたたえる偶像に打ち勝つ戦い。 偶像とは、宗教的な崇拝の対象とは限らない。むさぼりに類するものは、すべて偶像であり、人が何かをむさぼるならば、その人は偶像礼拝をしているのである(コロサイ3:5)。この世の人たちがこの世の快楽に耳を傾けて、むさぼりという名の偶像礼拝におぼれることに耐えられない、彼らにイエスさまの福音を聴かせたくてたまらない、それゆえの戦いを展開する。 私たちが福音を宣べ伝えるのは、まさに、イエスさまを伝えたくてたまらない内的衝動に由来するゆえであるべきである。私たちは燃えているだろうか? 地獄に落ちるべきだった私のことを救ってくださるために、いのちを投げ出してくださったイエスさまのことを思うとき、そのイエスさまと生ける交わりを毎日持ちつづけるとき、私たちは心が燃えずにいられるだろうか? 燃えない心、罪深い自分にばかり焦点を当ててしまう心は、キリストとともに十字架につけられた。もはや私が生きているのではない。キリストが私のうちに生きておられるのである。キリストの目をもってこの世を見るならば、私たちは憤りを禁じ得ないではないか。 ラジオは、この世の文化を発信するマスコミの重要なツールである。私たちがもし、この世の文化に憤りを覚えているならば、そのような文化に割って入り、福音を宣べ伝える放送伝道を、物心両面で支えようではないか。 第二のポイント。パウロは宣教のために、アテネの精神風土に合わせた福音提示をした。 パウロは、たしかにアテネの精神風土に憤りを覚えたが、22節を見よう、これはアテネの人が敬虔な人たちだと、その宗教的姿勢をほめていることばとも言える。 その点でパウロは下手(したて)に出ていて、上から目線の宣教をしていなかった。宣教で成功する秘訣は、啓蒙してあげようなどという上から目線で接することではない。相手は自分よりまさっているという前提で接する、へりくだった姿勢である。 23節を見てみよう。パウロは、アテネの霊的風土を象徴する偶像に注目し、それを例に挙げて宣教を展開する戦術を用いた。パウロはそれだけ、アテネの町を観察して回り、アテネの人々と語らいながら、彼らがどのような信仰的傾向を持っているかということを把握していたわけである。 また、28節を見よう。これはギリシャの詩人のことばであり、アテネの人々の人口に膾炙したことばであるが、パウロは、彼らの語ることばの中に聖書的な真理を見つけ、それを取っかかりに宣教を展開しようとした。ここから、宣教する相手の文化をよく理解することが大事なことがわかる。 「世の光」の番組のメッセージを聴いてみると、ラジオ牧師の先生方が受け入れられている理由がわかると思う。先生方は、この日本の一般の人たちが何に関心を持ち、そういう人たちはどんなことを聞いたら喜んでくれるか、よく研究しておられるのである。単に聖書の解き明かしだけで完結させしまっては、教会の内部の人は喜ぶかもしれないが、一般の人が喜んで視聴するのは難しかろう。 ただし、宣教の相手に対する取っかかりだけでメッセージが成り立つわけではない。パウロはしっかりと、彼らに創造主なる神を伝え、悔い改めを説いている。それまで後生大事に取っておいていた自分の宗教的な価値観から、まことの神さま、イエスさまの父なる神さま中心の信仰へと振り向けるために、そのメッセージを聴く人たちには悔い改めが必要だった。それはある意味、聴く者には耳の痛いことであり、語るほうも拒絶させる覚悟で語る必要のあることであるが、悔い改めを促さない伝道、宣教は、本物ではない。 私たちはラジオ牧師の先生方が、そのように日本人に合ったことを語りながらも、悔い改めに導くメッセージを的確に語れるように祈りたい。 第三のポイント。パウロは無関心の中で、確実な救霊の実が結ばれるのを見た。 まず、19節から21節にあるとおり、彼らは暇人だった。趣味人ともいえよう。知的好奇心を満たせればそれでいい、というタイプの人々で、日本にはそういうタイプの人が多いのではないだろうか。 そういう人を相手にしようとも、パウロは全身全霊で語った。しかし、反応ははかばかしくなかった。まず、18節からして、彼らはパウロの宣教に上から目線で接していた。そういう人たちにもパウロはへりくだって語っていたわけだが、そのようなおごった姿勢の人々は、パウロのことばに知的好奇心を刺激されることはあったかもしれないが、結果として、あざ笑うことをするか、また今度聴こう、今回はもういいや、と反応するかしかしなかった。 日本宣教というものも、このように、あざ笑われることと隣り合わせの厳しいものである。私たちは笑われても、無関心の反応を示されても、福音を隣人に語りつづけるのである。 しかし、34節を見ていただきたい。このみことばは、全体に失敗のトーンが強いような使徒の働き17章後半において、燦然と輝く箇所ではないだろうか。ディオヌシオ、ダマリス、そしてそのほかの複数の人々が、パウロの宣教のことばを聴いて救われたのである。大勢救われることも確かに素晴らしい御業である。しかし、ひとりでも救われるならば、それも素晴らしい御業ではないだろうか。人は本来、ひとり残らず滅ぼされても仕方のない罪人であった。そのような人間が、神さまのあわれみによって救われたのである。神さまの御名がほめたたえられることである。 ラッキーFMは、茨城を中心に多くの人に聴かれている。農作業をしながらラジオを鳴らす人もいる。長距離運転や朝の作業など、お仕事をしながら聴く方もおられるだろう。そんな方々は、この番組を聴いて何を思うだろうか?「また宗教かよ!」と馬鹿にするだろうか? 「今日はもういいや」と思うだろうか? しかし、放送伝道の素晴らしいことは、相手の反応を一切気にせずに、福音のメッセージを語りつづけることができることである。 33節のみことばは、新改訳2017と、従来の新改訳聖書の訳を比較すると、ややニュアンスが異なっている。従来の訳だったら、「今日はもういいから、聴かなくていいから!」という雰囲気があるが、新改訳2017のほうは、いずれまたしっかり聴いて、今度こそ福音を受け入れたい、という雰囲気がある。おそらく、どちらも正解だろう。 放送伝道はどうだろうか。毎週、同じ時間になったら番組が流れる。それはリスナーの「また福音に耳を傾けよう」という願いに応えている、ということである。 私たちはそのように、番組を聴く人が一人でも救われるように祈ろう。その前に、茨城の人がひとりでも日曜朝7時10分から、ラッキーFMに耳を傾けるように、私たちの周りの人々にこの番組の存在を伝えて回ろう。これは私たちのだいじな伝道のツールである。 <ともに祈りましょう> ・堕落したこの世の文化に割って入っている福音番組の放送が保たれるように。私たちも物心両面で支えられるように。 ・ラジオ牧師がリスナーに寄り添う豊富な例話を語りつつ、悔い改めをしっかり説けるように。 ・番組を聴く人が一人でも救われるように。その一人が救われるために、放送伝道の働きが継続するように。

主イエスの弟子のすること」

聖書箇所;マルコの福音書6:7~13/メッセージ;「主イエスの弟子のすること」  今日の箇所は、弟子たちの実地訓練の場面である。この時点ではまだ、弟子たちは聖霊の派遣によって満天下に福音を伝える段階にはない。あくまで訓練である。とはいっても、訓練をとおしてでも人が救われるときは救われるから、たかが訓練だと侮ってはならない。 私はキャンパス・クルセードという宣教団体のメンバーだったが、年に数回行われる「アウトリーチ」、これは早稲田大学のキャンパスなど、実際に人のいるところに出ていって、普段の生活の中で宣教をするその訓練をするわけだが、ときに訓練以上の収穫を得ることがある。度胸がつくだけではない。救霊に燃える心が備えられるだけではない。人が救われるのである。だからこの訓練に臨む学生たちは、訓練だからと軽く見ることをせず、救霊に用いられるように祈り求めて「アウトリーチ」に出ていく。 そういうわけでこのイエスさまに派遣されての「実地訓練」は、「訓練」でありながら「救霊の現場」であると理解すればいい。この箇所は3つのパートに分かれている。第一に、旅行への出発の準備をさせる場面、第二に、旅行中の心得を宣べられる場面、そして第三に、旅行そのものの場面である。この順番で、ひとつひとつ見ていき、「主イエスさまの弟子のすること」とは何かを見て、私たちも主イエスさまの弟子として何をすべきか、学んでまいりたい。 まず、第一に、イエスさまは「旅行への出発の準備」をさせることをとおして何をお教えになったか、それは、「イエスさまがなさるように宣教すること」であった。 7節、まずイエスさまは、2人ずつ遣わしていらっしゃる。12人弟子がいれば、ひとりずつ遣わせば12通りの場所に行けて効率的ではないか、というのは、素人の考えである。イエスさまはあえて、2人ずつ遣わされた。これは、宣教はひとりで取り組むものではなく、複数で取り組むものである、ということをお教えになったわけである。 福音書に記されたイエスさまの公生涯の記録を見てみると、イエスさまがみわざを行われたとき、多くは弟子たちの前で行なっていらっしゃる。それは、あえて弟子たちの前でみわざを行われることによって、イエスさまのように働くとはどういうことかを弟子たちに具体的にお示しになった、という意味もある。しかしそれだけではなく、イエスさまの働きはチームで行うものであることを示された、という意味もあった。 そのように、ペア、またはチームでの働きをするということは、「使徒の働き」(使徒行伝)の記録にも記録されているとおりで、パウロもバルナバとともに、また、バルナバとのチームを解消してからも、シラスとともに活動している。やはりこの働き方はイエスさまのみこころであり、聖書的、みこころにかなっていることである。私もたまに、この地域にトラクトを配りにいっているが、妻と二人で行くときと、ひとりで行くときでは、大胆さその他において、まったくちがうことを実感する。 そして、イエスさまは彼らにけがれた霊を制する権威をお授けになった。イエスさまの弟子には、けがれた霊を制する権威が与えられている。イエスさまとの関係が大事である。これなくして悪霊に立ち向かったら、人は悪霊に打ち倒される。反対に、イエスさまから権威が与えられている限り、私たちは悪霊に勝利できる。悪霊を制することによって、私たちは、宣教のわざを妨げる悪霊に勝ち、堂々とみことばを伝えることができる。 8節、9節を見よう。これは旅の心得である。杖一本のほかは何も持たない、マタイの福音書の並行箇所では、杖を持つな、とあるが、これは、もともと持っている杖を持ち歩くようにしなさい、新しく杖を手に入れるな、ということ、食べ物も、荷物を入れる袋も、お金も持っていかない。これに対して履物を履くのは、長距離の旅、荒れ地を歩くような旅にも耐えられるようにということ、下着を二枚着ないのは、それだけ簡素に、ということ。 ここからわかることは、第一に、宣教とは急を要するものである、ということ、もうひとつ、宣教とはどこまでも、神さまの恵みに拠り頼んで行うものである、ということである。私たちは、イエスさまが再び来られることを意識するならば、福音を宣べ伝えるにあたって、のんびりしてはいられないだろう。しかし、だからといって、人間的にあせることをしてはいけない。人間関係であれ、お金であれ、福音を宣べ伝えるために必要な環境はすべて神さまが備えてくださると信じて、一歩踏み出していく必要がある。 そこで第二、旅行中の心得だが、10節、11節を読もう。福音を宣べ伝えるために必要な環境は備えられることはいま述べたとおりだが、具体的には、それは家庭というものを通じて与えられる。福音を宣べ伝えるにあたって、その福音を宣べ伝える働き人を受け入れてくれる家庭というものは存在するのであると、イエスさまは約束してくださっている。 もっとも、それはやみくもに探しても見つかるという性質のものではない。並行箇所であるマタイの福音書10章11節から12節によれば、その家庭を探し出すためには、町や村に入ってよく調査する必要があることが教えられている。リサーチというものは必要なのである。 そのような家庭には、主からの平安が与えられるという祝福がある(マタイ10:13)。この家庭を宣教学の用語では「平安の子」という。こういう人が宣教地に備えられるということも祝福だが、注意しなければならないのは、そういう「平安の子」に満足をおぼえられなくて、もっと自分に仕えてくれる人、とか、もっと自分が祝福できそうな人、を求めて、別の家へと渡り歩くことはしてはいけない、ということである(ルカ10:7)。そういうことをするならば、せっかく、主のしもべと見込んでもてなしてくれていたその家庭との信頼関係を、いたく傷つけることになる。それは主のしもべとしてふさわしくない。 もっとも、そのように福音を受け入れることを一切しないという反応が返ってくる場合もあることを、私たちは心に留めなければならない。その場合にすることは、「足のちりを払い落としなさい」。この、福音を拒絶する土地を歩いて足にまとわりついたほこりを、払い落としてみせることで、私はもはやこの土地とは一切関係がない、と宣言するわけである。これはまた、福音を受け入れない彼らのたましいを神さまの御手にお委ねする、という意味もある。神さまが、いざこうして宣べ伝えた者に、これ以上のこの地のたましいに対する責任を負わせられることはない、ということである。 何度も言うことであるが、伝道における成功とは、伝道した相手がイエスさまを受け入れることではない。「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神にお委ねすることである。」イエスさまを伝えさえすれば成功である。逆に言えば、イエスさまをまだ伝えられていないならば、それは成功という段階に達していないことになる。しかし、いざ伝えたならば、そのあとのことは神さまが責任を負ってくださる。 さあ、こうして手ほどきを受けた彼らは、出ていくことになる。第三、旅行そのものの場面を見てみよう。12節、13節。彼らは3つのことを実践している。第一に、悔い改めを宣べ伝えている、第二に、悪霊を追い出している、そして第三に、病人をいやしている。 まず、語ることばは「悔い改め」である。罪に目を留めたままの状態の人を、神さまへと向ける、この方向転換が「悔い改め」である。私たちが語ることばは、そのように人を「悔い改め」へと導くことばであるべきで、けっして、聖書の豆知識にとどまるものだったり、ましてや教会のゴシップの類だったりしてはならない。そういうものを語ってお茶を濁すことならだれでもできる。そういうものを「伝道」とは呼ばない。 それに対して、ひとに「悔い改め」を迫ることばを語ることは並大抵のエネルギーや謙遜さでは務まらず、それだけ祈って備えている必要がある。彼ら十二弟子は普段からイエスさまのみことばを聴いてきたから務まっていたが、私たちはどうなのか? いざ遣わされたとき、それに耐えることができるように、普段から祈って備える必要がある。 それだけではない。彼らは悪霊を追い出し、病気の人に油を塗って癒やした。私たちはだまされてはならない、こういうことはイエスさまの弟子である以上、私たちにはできるのである。できるからこそ、こうして聖書に記録されて、私たちに命じられていることを、私たちはもっとおごそかに受け入れる必要がある。 これは、病気を治す働きをするお医者さんや薬剤師さんに頼るな、という意味ではない。かく言う私自身、目をわずらっていて眼科にかかっている身である。しかし、もしこの者の目のために祈ってくださるという方がいらっしゃるならば、私は喜んでその方のお祈りを受けるものである。同じように私は、病気の人がいるならば祈る。油を塗って、とあるが、これはヤコブの手紙5章14節でも命じられていることで、私も実際、牧師という立場で、何人かの方に油を塗ってお祈りしたことがある。みなさんも祈っていただきたい。 悪霊に関しては、たいていの場合ひるむかもしれない。しかしここはどうか、主が私たち主の弟子に悪霊を制する権威をお授けになったという、この聖書の語る事実に目を留めて、この働きに用いられるよう祈って備えていただきたい。もちろん、並の祈りでは悪魔と悪霊どもに太刀打ちできない。しかし、ここは祈って備えるものとならせていただこうではないか。 さて、以上述べてきた中で、特に私たちにとっての「平安の子」は何か、ということを考えよう。それは、私たちの所属するこの教会、水戸第一聖書バプテスト教会である。私たちは遠くに宣教旅行に行くものではないが、この水戸地域、茨城県央に生きている以上、この地域は私たちにとって宣教の場所である。そこにおいて私たちは単独ではなく、チームを組んで宣教するのである。また、急を要する働き、しかしその一方で、主の恵みに満たされた働きをするのである。 私たちはこの共同体に属しながら、悔い改めの福音を宣言し、悪霊を追い出し、病人をいやす働きに用いられるように祈って取り組む。そして、この地が福音を受け入れる下地がある以上、足のちりなど払い落とさないで、じっくり腰を据えて宣教する。それが主の弟子である私たちのすること。主はそのような私たちのことを、大いに祝福してくださる。

「信仰に堅く立とう」

聖書箇所;マルコの福音書6:1~6/メッセージ;「信仰に堅く立とう」 むかしのことをよく知っている人がそばにいると、やりづらいことこの上ない。お父さんが牧会していた教会の跡継ぎの牧師となった先生など、古株の婦人の信徒から、「あたしはね、○○先生のおむつを取り替えてあげてたのよ~」などと言われたりして、威厳も何もあったものではない。その婦人に悪気はないのだろうが、牧師先生としては閉口させられる話だろう。 しかし、事がイエスさまだとするとどうだろうか。教会の牧師先生のような人だって形無しのことを言われてはたまらないのに、イエスさまは神さまである。イエスさまのことを何か言って論評するのは、行ってみれば神さまを論評することであり、傲慢のそしりを免れないことである。 イエスさまの幼い頃を知っているから、イエスさまが大工をしていたことを知っているから、信じようにも信じられない。一見するともっともなようだが、彼らナザレの人は実際どんな人たちだったのか。6節を見よう。それは、イエスさまも驚くレベルの不信仰だったのだと総括されている。 ナザレの人たちは、イエスさまのことをよく知っていたと自分で思っていただろう。しかし、彼らは人としてのイエスさま、マリアの子としてのイエスさまのことは知っていたかもしれないが、神の子としてのイエスさまのことはまったく理解していなかった。そのような彼らに対して、イエスさまは、何人かの病人に手を置いていやされることはなさったものの、この5節のみことばの記述にしたがえば、「何も力あるわざを行うことができなかった」。 イエスさまは全能なるお方、神の子でいらっしゃるが、だからといってイエスさまは、ご自身が神の子であることを示すために、のべつ幕なしにみわざを行われたわけではなかった。特に、この故郷において、自分に対して思い込みで見る人たちに、評価を下す人たちに、それでも彼らを説得しようとして、みわざを行われはしなかった。 むしろイエスさまは、彼らに対してみわざを行うことをお控えになったのである。それでは、イエスさまはどのような人に対し、みわざを行われるのだろうか? 4節のみことばを見ればわかるが、「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」とあるように、幼い頃からあなたのことを知っているぞ、とばかりの上から目線の態度で接するような、尊敬のかけらもないような者には、みわざを行われない、つまり、逆に言えば、イエスさまのみわざを受け取るには、イエスさまを敬う心、イエスさまの前にへりくだる心が必要になってくる。 地域の人たち、親戚たちが、イエスさまのことを知りすぎるほど知っているのは、これはどうしようもない。神さまのみこころが、イエスさまを人としてこの地に生まれさせることであった以上、地上のどこかが、イエスさまが人として育たれるための環境を提供する必要があったわけで、それがたまたま、ナザレだったというわけである。しかし、幼い頃からイエスさまを知りすぎるほど知ってきた、ということは、イエスさまを神の子として受け入れないことの言い訳にはならない。 3節のみことばを見ると、彼らは確かにイエスさまに関する「情報」は持っていた。しかし、それはイエスさまのことを神の御子として信じるための「知識」とはならなかった。学者であれ一般の人たちであれ、イエスさまというお方に対する「情報」はいろいろ持っているだろう。中には、処女懐胎はほんとうだ、とか、復活はほんとうだ、と信じ受け入れている人もいるかもしれない。しかし、そういったことが「情報」にとどまり、私たちの人生をイエスさまへの献身へと導く「知識」になっていないならば、それは「不信仰」であり、イエスさまはそのような者たちに、ご自身のみわざをお見せになることはない。 それなら、なぜ、イエスさまは故郷の会堂でお教えになったのだろうか? 彼らが2節のごとく、不信仰の反応をお示しになることを、イエスさまはご存じなかったというのだろうか? そうではない。彼らがそのような不信仰の者であることは、イエスさまは見抜いていらっしゃった。しかし、あえてこの場にイエスさまは神の国を宣べ伝えに来られたのだった。 そればかりではない。1節のみことばを見ればわかるとおり、イエスさまはおひとりで故郷に赴かれたのではない。弟子たちまで引き連れていかれたのである。その結果弟子たちは、イエスさまがあえてみわざを行われなかったお姿まで見るに至った。弟子たちはここからも、不信仰の者たちに対してはあえてみわざを行われることのない、イエスさまのみこころを知るに至ったのであった。 しかし、こうしてイエスさまが故郷にいらっしゃったことは、無駄なことだったのだろうか? 決してそうではない。この、一見すると無駄に見えた訪問は、実はとても意味があることだった。 この種蒔きが無駄にならなかった証拠は、のちにこのイエスさまの弟たちが、初代教会の指導者として立てられたことからも明らかである。彼ら主の兄弟たちにとっては、大工としてのイエスさま、家族としてのイエスさまではなく、神の国を宣べ伝える預言者としてのイエスさま、すなわち、神の子としてのイエスさまの、そのお姿とおことばにふれる機会がどこかで必要だった。それがのちに、世界中のあらゆる人が読むことになる、聖書のみことばとして記録されることになったことを考えると、イエスさまのこの故郷での宣教は、どうしても必要だった。 そういったことから、今日のこの聖書箇所からは、以下の3つのキーワードが導き出される。 ①不信仰の人にはみわざが控えられる。 イエスさまのことをあれこれ論評しているうちは、イエスさまは働かれない。ときにその不信仰は驚くほどのものだが、情報でイエスさまを知ることに終始し、イエスさまを主と告白して結びつくことをしないうちは、信仰も存在しないし、したがってそこにイエスさまのみわざを期待することもできない。要するに信仰の問題である。 ②私はイエスさまをなんと告白するか。 私たちはイエスさまを、神の子として告白し、へりくだってそのみわざを受けようとしているか? イエスさまが郷里ナザレにおいて、それでもみわざを行われたのは、それでもイエスさまの前に出ていった人々には、イエスさまに対する信仰があったからではないか。これも信仰の問題である。 ③それでも種を蒔きつづけよう。 イエスさまを信じているならば、イエスさまは必ず、この不信仰の世界を信仰の世界に変えてくださる。「預言者を尊敬しない家族」から、神の国への献身者を出してくださったイエスさまは、私たちのこの町からも、必ず献身者を出してくださると信じよう。目の前の収穫がないからと、諦めてはいけない。はるか先の大収穫のビジョンを見る者となろう。これも信仰の問題である。 以上のキーワード、それは「信仰」。 世はこぞって、イエスさまを神さまと認めない不信仰に傾いている。それが世の中というものである。私たちはそれを見て、嘆きたくもなるだろう。私たちがもし嘆くならば、それはイエスさまの心が私たちのうちにあるということである。イエスさまの心をもって、この世のためにとりなしていこう。 そして、イエスさまを主と告白しているならば、その告白のとおりに、イエスさまは私のすべての領域で働いてくださると、信仰を働かせよう。私たちは、毎日みことばを読み、お祈りをするたびに、イエスさまが私の人生に働いてくださると、期待しているだろうか? 信じているだろうか? 信仰を働かせよう。 そして、私たちの周りの人々が、いま不信仰だからと、諦めてはいけない。私たちはこれからもこの地に住む。ということは、主が私たちをとおして彼らのことを救われる可能性が、まだ残されているということではないだろうか。私たちは信仰を働かせて、彼ら私たちの周りにいる人たちが救われるように、祈って取り組もう。