礼拝は生活、生活は礼拝

聖書箇所;ローマ人への手紙12章1節/メッセージ題目;礼拝は生活、生活は礼拝 今年度、2022年度の標語は、「礼拝は生活、生活は礼拝」に決めさせていただきました。みなさま、今こうしておささげしている礼拝は、生活なんです。そして私たちの日々の生活は、礼拝なんです。この前提で私たちは、礼拝し、生活してまいりたいものです。 今お読みしましたみことばは「ですから」ということばで始まります。何が「ですから」なのでしょうか? そう、それは、ここまでの11章分の、ローマ人への手紙の内容を受け取っての、「ですから」ということです。 みなさま、ローマ人への手紙は毎日の通読とは別個にでも、何度でも繰り返しお読みいただきたいのですが、ローマ人の手紙が語っていることは、人間は全面的に堕落してしまっているということ、自分の力では一切、救われる道はないということ、しかし、私たち人間がまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神さまは私たち人間に愛を示してくださった、ということです。 私たちは行いによって救われるのではない、信仰によって救われた。そのように、救っていただいた者としてふさわしくあれ、ということで、「ですから」と語っているわけです。私たちはそれまで、罪と死と悪魔を主人としてそれらのおぞましい存在に奴隷として仕える存在でした。希望などありません。しかし私たちは今や、自由にしていただきました。今からはこのように自由を与えてくださったお方、神さま、イエスさまのしもべとして生きることが、私たちのすることです。 ということは、神さま、イエスさまが主人なわけですから、主人でいらっしゃる神さまが、私たちに何を求めていらっしゃるかを知ることが、私たちにとって何よりも大事になります。こうすれば神さまを喜ばせることができる! 私たちもいろいろ考えるでしょう。しかし私たちが、何かの行いをしたとしても、そのピントが外れていては、何にもなりません。 19世紀のアメリカの大衆伝道者、D・L・ムーディが、面白いたとえ話を語りました。ある男の子が、お父さんを喜ばせたいと思った。どうしたら喜んでもらえるかな? そうだ! お父さんは魚のマスが大好きだ! そこで男の子は、マスを釣りに行きました。……学校を休んで。……私たちクリスチャンもしばしば、こういう間違いを神さまに対して犯してしまう、というわけです。そこで私たちは、神さまが何を願っていらっしゃるかを、聖書から正確に知ることが必要になってきます。 このローマ12章1節によれば、そのみこころとは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げる」ことです。旧約聖書を読んでみますと、祭司が神さまにささげものをいかにささげるべきか、という規定が繰り返し出てきます。しかし何よりも、そのささげ物は「傷がないもの」でなければならない、ということです。 しかし現実の私たちを見てみましょう。傷だらけではないでしょうか。きたないではないでしょうか。こんなものが果たして、神さまに受け入れられるのでしょうか? 答えは「イエス!」。ただし、条件があります。そのままではいけません。よく「そのままでいいんだよ」ということが語られますが、私たちにはそれでも条件があります。それは「イエスさまの血潮によって洗いきよめられる」ということです。 そのために私たちは、信仰を用いるのです。「私のすべてはイエスさまの十字架の血潮によって洗いきよめられた!」こう宣言するのです。そうなるともはや私たちは、傷のある者ではありません。きたない者ではありません。 しかし、そうなったら、私たちのすることはなんでしょうか? イエスさまの血潮によって洗いきよめられた者として振る舞うことです。もう、罪の性質を発動させないことです。「そのままでいい」といっても、捨てるべき罪の性質、悪意、むさぼり、姦淫、深酒、そういったものを捨てないままの「そのままでいい」ということではありません。 私たちがもし、主との交わりをしっかり持っているならば、そのような罪の性質から私たちは遠ざかることになります。もし、そのような生活の変化が現れないで、ただの人のように生きているならば、その人は神さまとの交わりを充分に持っているとは言えません。 私たちは日曜日ごとの礼拝をとおして、神さまの御前に出ます。このとき、私たちは聖霊の交わりをいただいて、みことばと祈りと賛美によって、神さまの御前にきよめをいただきます。また、毎日のディボーションと聖書通読をとおして、私たちはきよめをいただきます。それが大前提となりますが、しかし、それ「だけ」では私たちは「聖なる生きたささげ物」になりきることは極めて難しいです。私たちは、礼拝のたびに、また、ディボーションのたびに、みことばが何を語っているか、すなわち、自分に対して神さまはどのようなみこころを持っていらっしゃるかを知ることが必要になります。 つまり、みことばを聞くことだけで満足してはならない、ということです。単にみことばを聞くだけで満足して、それで生活が何も変わらないようでは、「宗教」をやっているにすぎません。私たちは、生活が変わっていく必要があります。 しかし、生活が主のみこころに従うように変わることは、私たちの力で何とかなることではありません。なぜならば、私たちは主のみこころにかなう歩みをすることなど、愚かなこと、面倒くさいことと思うような、肉の性質が意地悪く自分の中に存在するからです。 聖霊なる神さまに働いていただく必要があります。瞬間瞬間、聖霊さまのお導きに明け渡すのです。それゆえ私たちは、普段どんな働きをしているとしても、お祈りが欠かせませんし、聖霊さまのお導きに敏感になる必要があります。 そのようにして聖霊に導かれた生活をするとどのようになるか、と申しますと、神さまの栄光を顕す生き方が実践できるようになります。そのように、神さまのご栄光を顕す生き方こそ、礼拝の生き方、自分自身を神さまにおささげしつつ生きる生き方です。その生き方によって神さまに喜んでいただけるならば、これほど素晴らしいことがあるでしょうか? いや、神さまは私たちの存在そのものを喜んでおられるのだ、そのようにおっしゃいますでしょうか? それは確かにそのとおりです。しかしそれは、こういうことではないでしょうか? だれも、自分の子どもの存在を喜ばない親はいません。子どもはいてくれるだけで、親はうれしいものです。しかし、その子どもが親の心をしっかり受け取り、親に従って生きるのと、親に無関心で、親のことなどどうでもいいという態度で生きるのとでは、どちらがよりうれしいでしょうか? 神さまとの関係にも同じことが言えます。神さまは、神さまに背を向けていた私たち人間を愛して、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださいました。私たちはこれほどの愛を受けているのですから、その神さまのみこころである、神さまを礼拝すること、日曜日の礼拝においても礼拝し、毎日時間を割いてでも礼拝し、そして、普段の生活のさまざまな取り組みをとおして、神さまのご栄光を顕すということをもって、神さまを礼拝する、そのような生き方をしてしかるべきではないでしょうか? この、礼拝の生活を、私たち水戸第一聖書バプテスト教会の兄弟姉妹で、ともにしてまいりたいのです。この生活は一人の取り組みでできるものではありません。その取り組みができるように、励まし合い、祈り合う共同体を築いてまいりたいと思います。 毎週日曜日の礼拝をともに充実させましょう。そして、毎日の礼拝の生活をともに充実させましょう。そのようにして、神さまに喜ばれる歩みをする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 お祈りしましょう。今年私たちは、「礼拝が生活、生活が礼拝」とますますなるために、ひとつ決心したいと思います。 毎日ディボーションします、と決心したならば、「毎日何時何分から何時何分まで」という目標をつくりましょう。毎日お祈りします、と決心したならば、「何時から何時まで」という目標をつくりましょう。また、週に1回は礼拝堂にお見えになり、お祈りされることを心からお勧めします。あるいは、礼拝にいらっしゃるのもコロナ下という状況で難しい、という方も、せめて、オンラインによる礼拝の同時中継に協力していただければと思います。パソコンを置くスペースは、きちんと片づけましょう。そこを祈りと礼拝の場として整えましょう。

「ダビデの武器 その4」

聖書;サムエル記第一18:17~30/メッセージ題目;「ダビデの武器 その4」  旧約聖書の創世記を読みますと、ヤコブがラケルに恋して、ラケルと結婚するために7年もの間、ラケルの父親であるラバンのもとで重労働に明け暮れるという場面が出てきます。なんとも、愛の力の偉大さを見る気がします。 今日のみことばの学びも今年のシリーズの続きで、「ダビデの武器」という内容でお話しますが、この箇所における「ダビデの武器」、それは「愛の力」です。 ダビデにとって愛の力は、ペリシテ軍との戦闘におけるやる気を高めるうえでまたとない力となりました。その愛の力は何であったかは、あとで詳しく見ることにしますが、サウルは、愛の力というものを利用して、ダビデを戦わせようとしました。 まず、サウルはダビデの前に娘のメラブを連れてきて、もし、主の戦いを勇敢に戦うなら、おまえとメラブを結婚させよう、と、ダビデに持ちかけます。一見すると、神の民であるイスラエルの王さまらしい発言、その戦いで功績をあげる者には自分の大事な姫もあげよう、という、サウルの献身的な態度のように見えます。しかしサウルの腹の中はといえば、この戦いによってダビデを滅ぼしてしまおう、という魂胆でした。 このようなサウルの命令、また、契約の持ちかけに対し、ダビデはこのように答えています。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」 しがない羊飼いの一族など、王家の一族になるのに最もふさわしくない、ここにダビデのへりくだりを見ますが、だからといってダビデは戦わなかったわけではありません。ダビデはそのようにへりくだってはいても、やはり戦いました。それは主君サウルのためであり、何よりも、神の民であるイスラエルという国と民族のためでした。すなわち、王を立てられたお方、この地にご自身の国と民族を置かれたお方、神さまのために戦いました。 そうです。ダビデの動機にはもちろん、メラブと結婚したいという愛の力も働いていたでしょう。また、戦いで勝利さえすれば、しがない羊飼いの地位から一族を王族に引き上げてもらえるという、一族の栄誉もかかっていました。神の栄光のために戦って勝利することには、このような恵みもついて回りました。 それが、イスラエルに勝利をもたらしていざ結婚となったら、サウルはメラブのことを、アデリエルという男に嫁にやってしまったのでした。メッセージの冒頭でも申しましたヤコブのこと、ヤコブはラケルと結婚する際にレアまで押しつけられましたが、そんなことをするラバンは実に食えない男でした。しかし、サウルはそれ以上にひどいことをしたと言えないでしょうか。何しろ、イスラエルが負ければダビデは死ぬか人望を失うか、イスラエルが勝てば勝ったでその手柄をダビデから奪い、よそ者にくれてやったわけです。 しかし、このような屈辱を体験したダビデのことを、神さまはお見捨てになりませんでした。やはりサウルの娘だったミカルが、ダビデを愛していたのでした。ダビデが歴戦の勇士、英雄であったからというのもありますが、王族であるミカル王女はそれ以上にダビデのことを知りうる立場にありました。 ダビデはかつてサウルの護衛でもありましたし、ミカルの兄であるヨナタン王子の一の親友でもありました。その分、ミカルはダビデの人柄をよく知っていました。ミカルはまた、ダビデのメラブへの愛を利用した父親のひどい仕打ちを、間近で見てもいたわけです。私こそがダビデと結婚してあげたい……そんな思いにもなったことでしょう。父サウルは、ミカルがダビデと結婚したい思いがあることを知りました。しかしこの事実は、サウルをますます恐れさせたのではないでしょうか。愛娘のほうからダビデを恋い慕っているとは! このわしの敵(かたき)を恋い慕うとは何事か! だが、ここでもサウルは一計を案じます。ミカルと結婚させてやろうと考えたのです。これで愛娘の思いは遂げられますし、ダビデのほうも、一族もろとも王族になるという恩恵を受けられます。しかし、このことにより、ペリシテ軍の攻撃を受けてダビデは今度こそ滅びる、しめしめ……。 サウルが食えない男なのは、こんなことを家来に命じてダビデに伝言させたことからも明らかです。「ご覧ください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。」家来たちはダビデのことを愛していたかもしれませんが、少なくともサウルは、ダビデのことを気に入ってなどいません。気に入っているとすれば、忠実なダビデは王に栄誉をもたらす鉄砲玉だから、ということ以上のものではないでしょう。 しかし、王の婿になることはどれほど難しいことでしょうか。家柄ももちろん問題です。王族と羊飼いなど、釣り合わないことこの上ありません。さらに大変なのは、花嫁料というものを用意して貢がなければならない、ということです。王家のお姫さまと結婚するには、たいへんな金額の花嫁料を用意しなければなりません。そんなものをしがない羊飼いが、どうやって用意するというのでしょう。 それ以上に、ダビデはすでに、メラブを別の男に嫁がせられてしまったという屈辱を経験していました。どんなに功績をあげても、王の差配を前にしてはどうしようもありません。ダビデはいやでも、自分の出自の貧しさ、卑小さを身に染みて悟らなければなりませんでした。どんなにいのちを懸けても、王の婿になるなど、夢のまた夢だ……。 私は王さまの婿になどなれません。ダビデはそう言うしかありませんでした。それで、この返事をもらったサウルは、また考えました。これでは結婚を餌にダビデを葬り去ることは難しい、ならばこうしよう。ペリシテに勝利した証しとして、ペリシテ人の「陽の皮」を百枚持ち帰れ。 陽の皮とは、男子が割礼をした際に余る、性器の包皮の皮です。ダビデはゴリヤテとの闘いにおいて、彼のことを、イスラエルの生ける神の陣をそしる無割礼のペリシテ人と言いました。神の民にとっては、割礼を受けていない異邦人の軍勢に敗北することは、すなわち神の栄光が汚されることであり、それゆえ、神の栄光のために必ず勝利しなければならなかったわけです。神の陣に敵対するペリシテの兵士の陽の皮を切り取ってイスラエルの王のもとに持ち帰るとは、神に敵対した勢力がさばかれた、ということを示す、何よりもの証しでした。 ダビデにとって、この申し出はよいことに思えました。それはまず、サウルがそう言ったことによって、ダビデはこの戦いが、神の栄光のための戦いであることを意識するようになったからでした。 そしてそれ以上に、この戦いは、自分のことを愛してくれるミカルのその愛にいのちを懸けて応える、愛の戦いとなりました。この戦いに勝利するならば、いよいよミカルの愛を自分のものにします。まさにメッセージの冒頭に申し上げました、愛の力、それがダビデにとっての武器となりました。 もちろん、戦いは大変な危険が伴います。剣を振るって倒すことまではできたとしても、それで倒れた兵士の「陽の皮」をいちいち切っているうちに、次の兵士が襲いかかってこないともかぎりません。弓矢を打ち込まれて命中したらおしまいです。単に「100人倒せ」ではなく、「100枚の陽の皮を持ち帰れ」は、ただごとでなく困難なミッションです。 だが、ダビデは100枚どころではなく、200枚持ち帰りました。なんと2倍です。それだけ、この結婚を何としてでも成し遂げたい、という思いがダビデにはあふれていました。このように、愛の力を用いて、神さまは人を用いてくださるということを私たちは見ることができます。ダビデにとっての武器であった愛……それは多方面に張り巡らされた愛でした。 もちろん、ミカルに対する愛のなせるわざでしたが、それだけではありませんでした。ダビデを愛しているサウルの家来たちに対する愛、しがない羊飼いの暮らしから王族に引き上げようという実家の家族に対する愛、ともに勝利を味わうことで喜びを分かち合おうというイスラエル軍の兵士に対する愛、勝利をもたらして喜ばせようというイスラエルの国民に対する愛、そして、サウルに対する愛、そしてすべては、神さまに対する愛でした。 私たちも日々、生活の中で戦いを展開します。それは言ってみれば、私たちが神さまの子どもとして、神さまのしもべとして生きるゆえに、神さまにあって展開する戦いです。 バプテスト教理問答書の第一問答、これはとても大事なので何度でも取り上げますが、こう語っています。「問1 人のおもな目的は何か。/答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわすことと、永遠に神を喜ぶことである。」私たちは仕事をとおして、家庭生活をとおして、神の栄光をあらわし、神を喜ぶように召されています。 しかし、サタンと悪霊どもの軍勢は、人がそのように神の栄光をあらわし、神を喜ぶことをさせないように、さまざまな妨害をしかけてきます。仕事にはしくじりがつきものですが、そのしくじりをいつまでも思い出させ、くよくよさせて、神さまを見させなくする。人から言われたことを真に受けさせ、感情的にならせたりする。怒りで支配したり、落ち込みで支配したりする。要するに、神さまのご栄光をあらわすことも、神さまを喜ぶこともさせなくするのです。 人には感情というものがあります。また、多かれ少なかれ、人は周りの状況に左右されるものです。それはクリスチャンであっても例外ではありません。しかし、私たちは落ち込んだままでいることはありません。怒りに支配されたままでいることはありません。 それはなぜなのでしょうか。神さまを愛する愛が私たちの中にあるからです。神さまを愛する愛の力は、神さまが私たちの周りに備えてくださったひとりひとりに対する愛へと実を結びます。むかし、「愛は勝つ」というタイトルのヒット曲がありましたが、私たちクリスチャンにとっては、「神の愛は勝つ」なのです。 しかし、神さまに対する愛というものは、私たちがまず神さまを愛することによって生まれるものではありません。ヨハネの手紙第一、4章の7節から12節をお読みすると、私たちが互いに愛し合うべきということが書かれていますが、その愛は「神のみこころだから愛さなければならない、愛し合わなければならない」という、律法的なものではないことがわかります。読んでみましょう。 どのようにして私たちは愛し合うのでしょうか? そう、神さまが私たちのことをまず愛してくださったゆえに、御子イエスさまを私たちの受けるべき罪の罰の身代わりに十字架につけてくださったということ、その神の愛を受けて、私たちは神を愛し、その愛する神さまのご命令だから、神さまへのあふれる愛を、人どうし互いに愛し合うという形で実践するのです。 ダビデは、イエスさまがこの地上にお生まれになる、1000年もむかしの人でした。しかしダビデは、御子キリストの存在をはっきり認め、キリストをほめたたえていました。 詩篇110篇でダビデが歌ったのは、まさにその御子キリストへの賛美であり、それはキリストへの賛美なのだと、イエスさまご本人が明らかにしていらっしゃいます。ゆえにダビデの神さまに対する愛は、主キリストへの愛であり、このお方の御力をもって敵サタンとその軍勢は滅ぼされることを知って、キリストをほめたたえました。もちろん、このお方キリストの存在をダビデが知っていたのは、ダビデには神さまからの霊感があって、神さまから教えていただいていたからでした。 ダビデは、神の民に敵対するペリシテとの戦いをもって、このお方キリストへの愛を実践しました。それはキリストというお方が、神に敵対するサタンの軍勢を滅ぼされるお方だということを理解していたゆえです。 しかし、私たちにとっての戦いは、人を相手に勝ち負けを競うものではありません。人はただ、愛する対象です。しかし、そのように愛する対象であるにもかかわらず、あたかもその人に勝つことが主の戦いに勝利することであるかのように、サタンは私たちをミスリードし、愛し合うべき愛の絆を断ち切り、敵対させます。 しかし、このような仲間割れ、同士討ちは、なんと非生産的なものでしょうか。このようにクリスチャンが同士討ちをするならば、サタンの軍勢は戦わずして勝ちます。そもそも同士討ちというものは、神さまが、ご自身の民が敵に勝つために用いられた手段です。それをサタンは真似をし、私たちがサタンの計略に引っ掛かって同士討ちをするようになるのです。どれほど愚かなことでしょうか。私たちはこのような愚かなふるまいをするのではなく、愛し合うものにしていただく必要があります。 そのためにも、まず神を愛する愛を増し加えていただく必要があります。讃美歌にあるとおりです。「わが主イエスよ ひたすら 祈り求む 愛をば 増させたまえ 主を愛する 愛をば 愛をば」しかし、神さまへの愛が増し加わるということは、神さまが変わらずに愛してくださっている、その愛をなお受け取ることによって可能になります。 間違えてはいけません。神さまはひとり子イエスさまをくださるほどの最高の愛を、すでに私たちに注いでくださっています。あとはその愛を私たちがどれだけたくさん受け取るかです。私たちにかかっています。そのように神の愛をより多く受け取った人が、人をより多く愛する人になることができます。 神さまの愛はどのようにしたら多く受け取ることができるのでしょうか? それには、私たちは本来、神さまの愛を受け取る資格のない罪人であることを、日々悟り、それにもかかわらず変わらずに私たちのことを愛してくださっている神さまの愛に感謝することです。 しかし、時に私たちは、聖書を読んでも、お祈りしても、ディボーションに打ち込んでも、神さまのそのような愛を実感できない、ということがないでしょうか。そんなときは、こうすればいいのです。これはむかしある牧師先生からお聞きしたことばですが、こうおっしゃっていました。「聖書は読みたくないときに読み、お祈りはしたくないときにする。」論より証拠、ぜひやってみてください。それまでわからなかった神さまの愛が、わかるように変えていただけます。 ダビデにしても、戦いでいつ自分のいのちが取られるかという大変な中に置かれ、それでもミカルへの愛、ひいては神さまへの愛をかなえるために、どれほど祈らされたことでしょうか。文字どおり、戦いの現場では、祈るしかありません。しかし祈るならば、聖霊の交わりによりダビデは御声を聴くことができました。その御声、みことばを握りしめて、ダビデは愛という武器を手にした愛の戦いに出ていき、そのようなダビデに神さまは勝利を得させてくださったのでした。 私たちもそうです。私たちもいま戦いを体験していて、たいへんな思いをしているかもしれません。コロナ下に置かれての経済的な戦い、仕事の責任を果たすための戦い、精神的、体力的に追い込まれての、自分の限界との闘い……しかしその戦いはとどのつまり、その戦いに負けさせて主のご栄光を損なおうとする、サタンと悪霊どもの軍勢との戦いです。その戦いをとおしてもしも私たちが人を愛することをやめたり、人をさばくようになったりしたとするなら、そのときこそ私たちは「負けた」ことになります。 私たちがその戦いに勝つには、神さまを愛する愛を増し加えていただくのみです。神さまを愛する者に、神さまは味方してくださいます。神さまを愛する表現をしましょう。神さまとの時間を取りましょう。テレビを視る時間、インターネットを見る時間を、少しでも神さまとの交わりに向けてはいかがでしょうか? そのぶん、みことばを読むのです。そのぶん、お祈りをするのです。神さまはそのような私たちに、ご自身の愛を注いでくださいます。その愛にあふれて、いよいよ隣人を愛する、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「ダビデの武器 その3」

聖書箇所;サムエル記第一18:6~16/メッセージ題目;「ダビデの武器 その3」 高校野球であれ、軍隊であれ、血気盛んな男たちの戦いに、若い女性が声援を送るならば、底知れぬやる気が出てくる……それは古今東西変わらないはずです。しかし、もし戦いに臨む者が、俺よりもあいつのことをみんな応援しているぞ、くやしい、なんて思いになったならば、盛り上がるべき士気もなにもあったものではありません。しかし、そんないじけた考えをするのが、一兵卒ではなくて、王さまだったらどうでしょうか? 今日の箇所に登場するサウルは、まさにそんな自己憐憫に陥っていじけていました。だれと比較したのでしょうか? 女の人たちは楽器を手に手に、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と喜び歌い、それにサウルは激怒しました。 でも、もし、サウルにもっと度量があったならば、サウルはこう言ってもよかったのではないでしょうか。「ほっほっほっ、わしは、わしの十倍仕事をするダビデを従える、強い王だ。神さまはこれほどまでの祝福を、わしに与えてくださった。神さま、万歳!」 しかし、サウルにはそんな器の大きさなどあるわけがなかったのでした。なぜならば、王に霊的権威を与えるお方、大いなるお方である聖霊が去られ、サウルはまるで王にふさわしくない、ちっちゃな男に成り下がってしまったからでした。 サウルから聖霊が去られたのは、サウル自身の責任でした。祭司がささげるべきいけにえを勝手にささげた、勝手な誓いを立ててあやうく息子ヨナタンを殺すところだった、聖別すべきいけにえを取っておく罪を犯した、その程度の霊的状態にしかない者からは、聖霊は去られるべくして去られたのでした。 ダビデは、ペリシテと戦う戦士でしたが、今度は、こんな愚かな王までが戦いを挑んできました。ダビデは、このようなサウルが相手になって挑んでくる闘いにおいて、やはり武器を用いました。ただしこの「武器」は、サウルを傷つけたり、屈服させたりするために振るう「武器」ではありません。むしろ、サウルの背後にうごめく悪魔と悪霊どもの策略に戦いを挑むための「武器」です。以下、今日の本文をもとに、その「武器」とは何か、3つ見てまいります。 第一にその「武器」は、「賛美」です。 サウルには悪霊が下っていました。10節をご覧ください。「その翌日」とあります。女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と喜び歌ったことに大いに怒ったその次の日です。怒りの感情をそのままにしていると悪霊にやられる、という、格好の例であるわけで、こんなことからも、私たちは怒りの感情を治める必要があることを学ぶわけですが、ともかく、その日サウルには凄まじいまでに悪霊が臨みました。 サウルにこのような「霊の障り」があったことは、前からサウルにとって問題となっていましたが、それは何よりも、聖霊がサウルから去られたことが最大の理由でした。その「霊の障り」は、サウルに代わって油注がれたダビデが竪琴を弾くことにより消えたわけで、そういうことからも、悪霊を治めるほどの霊的権威はサウルではなく、ダビデにあったことが証明されるわけです。 しかしこの日は様子がちがいました。サウルはダビデの竪琴に落ち着きません。むしろダビデを槍によって壁に串刺しにし、殺そうとしました。ダビデは身をかわしましたが、サウルはなんと、2度もダビデに槍を手に襲いかかりました。 ダビデが手にしていた竪琴という楽器は、単なる音楽セラピーの次元で奏でていたものではありません。一国の王、神の民イスラエルの王であるサウルを発狂させるほどの怖ろしい力を持った悪霊と戦いを交えるための武器です。 ダビデが竪琴で奏でたものは、賛美の歌です。新約聖書・エペソ人への手紙5章19節は、賛美とはなんであるか、ということを語っています。このみことばは前の節、18節の、「御霊に満たされなさい」というみことばを受けて語られています。すなわち、御霊に満たされるために賛美するのであり、賛美すると御霊に満たされるのです。 ダビデが竪琴をもって賛美の歌を奏でたとき、そこには聖霊と悪霊どもとの戦いが交えられました。サウルを操るサタンの軍勢は、聖霊を呼び起こすダビデを殺すことで、自分たちが勝利しようとしました。しかし、聖霊さまはダビデのことを守ってくださいました。 ダビデがゴリヤテと一戦を交えるまでは、サウルの前で竪琴さえ弾けば悪霊は去りました。しかし今度は、悪霊どもは去らなかったばかりか、サウルをより一層猛り狂わせ、この賛美を奏でる者、聖霊の人を殺そうとさえしました。 それでもダビデが死ななかったのはなぜでしょうか? それは、聖霊の油注ぎがあったからでした。神さまはサウルに悪い霊が下ることをお許しになりましたが、王として神の民を治めるべき人を殺すことまでは、お許しになりませんでした。 ここからわかることは、賛美のうちに戦いが起ころうとも、私たちは決して負けない、ということです。賛美というものは、聖霊の働きがなければ絶対にできないことです。賛美と一般の歌の間には、越えがたい断絶があります。極端な話、一般の歌はだれにでも歌えますが、賛美は御霊に満たされようというへりくだった心のある人でなければ、決して喜んで歌うことができない歌です。 私たちはときに、怖ろしい霊の戦いを体験します。悪霊は存在して働きます。しかし、こういうことを言うと、それはないと否定したがったり、触れようとしなかったり、はなはだしくは、こういうことを口にする者はおかしいなどとのたまったりする人がいます。でも、たしかにこういう霊的な世界は存在します。否定してみても始まりません。 しかし、一方で、そういう存在をいたずらに恐ろしがったりするのも正しくはありません。私たちには聖霊がおられるのです。聖霊が戦ってくださり、私たちに勝利をくださるのです。私たちがすることは、エペソ書6章に書かれているとおりの、神のすべての武具を取ることですが、その6つの武具のうち、攻撃に使うものは「みことばという剣」だけです。基本的に武具は、身を守るためにいただくものです。 武装は聖霊なる神さまとの交わりの中でしていただくものだということを、私たちは忘れないこと、これに尽きます。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え(という履物)、信仰の盾、救いのかぶと、以上の装備は、聖霊さまとの交わりの中でいただくものです。ダビデの友となってくれたヨナタンが武具をくれたように、私たちの友となられた主は、私たちに武具をくださり、守ってくださいます。 忘れないでください。私たちはもちろん戦うのですが、私たちが戦う前に、聖霊さまが戦い、勝利を与えてくださっているという事実……私たちはすでに勝利しています。イエスさまが十字架の上で死とサタンに勝利してくださったゆえに、イエスさまを主と信じ受け入れた私たちは、勝利しました。勝利は主にあってわがもの、この主をほめたたえる賛美をもって、それでも私たちを勝利者の座から引きずり降ろそうとするサタンの軍勢、私たちを敗北者のように錯覚させて落ち込ませようとするサタンの軍勢に、御霊の満たし、喜びをもって、圧倒的な勝利をするのです。 この2022年、私たちはますます、主を賛美しましょう。賛美をもって満ちあふれる喜びは、大いなる勝利をもたらします。ハレルヤ! 第二のその「武器」は、「主の臨在」です。 12節、14節で繰り返されていること、それは、「主がダビデとともにおられた」ということです。主がダビデとともにおられたゆえに、もはや神の人とは言えなくなったサウルはダビデを恐れました。 主がダビデとともにおられたゆえに、ダビデは行く先々で勝利を得ました。 サウルはダビデを遠ざけました。王の護衛をしていたダビデを、千人隊長に任命しました。サウルには思惑がありました。ペリシテの攻撃によって、ダビデを葬り去ろうという思惑です。そうでなかったとしても、もしダビデがペリシテに負けたら、その責任は敗軍の将のダビデにあるわけで、ダビデはイスラエルの信頼を大いに失うことになるわけです。 しかし、ダビデは死にもしなければ、失脚もしませんでした。かえって、サウルの思惑がどうであろうとも、ダビデは勝利に次ぐ勝利をイスラエルにもたらしました。それは、神さまがダビデとともにおられたからです。 神さまがともにおられる者に敵対できるものは何もありません。神さまご自身が味方なのです。そのような者には何者も敵対できません。打ち倒すことはできません。これに対していろいろ解説するのは野暮というものでしょう。みことばをごらんください。ローマ人への手紙8章31節から39節、これは、聖書全体の最高峰にも等しいみことばです。お読みしましょう。 私たちも時に、負けた! と思えてならないことはないでしょうか? 仕事や人間関係でしくじった、ですとか、健康を害した、ですとか……しかし、ほんとうのところ、私たちは負けてはいないのです。勝っているのです。私たちの主、イエスさまが勝っておられるからです。ヨハネの福音書、16章33節をご覧ください。 十字架の上で死と悪魔に勝利してくださったイエスさまが、私たちのためにすでに勝利してくださったのです。この、イエスさまの勝利こそが絶対であり、真実であるわけで、私たちが「負けた!」と思うことは、正しくありません。嘘です。サタンの嘘にだまされて、落ち込むようなことがないようにしてください。 ご覧ください。ダビデはサウルがどんなふうにダビデを操ろうと、神さまご自身がダビデに勝利を与えられました。私たちのことをだれが何と操ろうとも、神さまが私たちとともにおられる以上、私たちは勝利する以外にあり得ないのです。勝利は我がものです。勝利の主をほめたたえましょう。ハレルヤ! ダビデの武器、第三にその「武器」は、「神の民の愛」です。 ダビデは神の民イスラエルに愛されました。それはダビデが神の人であったからでした。ダビデは神の人として、サウル王のもとで身を低くし、千人隊長という自分に割り当てられた仕事に最善を尽くしました。イスラエルとユダ、神の民は、そのようなダビデを認め、愛しました。 民はダビデを愛しました。サウルのようなひどい王が治める中にあっても、それでもイスラエルがまとまることができたのは、民がダビデを愛することで、ダビデを中心にイスラエルの民の間に、愛という名の絆ができていたからだったと言えます。 私たち神の民をひとつにするものは、神さまが私たちを愛してくださっているゆえに、私たちが互いに愛し合う、その愛です。ヨハネの福音書13章34節と35節をご覧ください。 ……神の民が互いに愛し合うことこそ、世に対して主を証しする何よりもの証しです。愛の力によって結び合わされたイスラエルとその軍隊は、ペリシテに対して大勝利を得ました。同じように、私たちも神さまの愛をともに受け取り、そのそれぞれが受け取った愛によって互いに愛し合うとき、この世のいかなる勢力も対抗することのできない力を私たちはいただいて、サタンとその軍勢に勝利することができるのです。 私たちはもちろん、各自が家庭であれ、職場であれ、それぞれの持ち場で主のご栄光を顕す戦いを繰り広げます。仕事に取り組む力を神さまからいただきます。どうしようもない人間関係に苦しむとき、私たちとともにおられる神さまに祈りながら難しい局面を乗り越えます。 そういう戦いをそれぞれがするわけですが、私たちが覚えておくべきことは、その戦いはすべて、この「水戸第一聖書バプテスト教会」の共同体の一員として繰り広げるものである、ということです。つまり、戦いは各自のものを越えて、水戸第一聖書バプテスト教会のものです。水戸第一聖書バプテスト教会の戦いを、茨城県の各地において展開するわけです。茨城県の各地で、水戸第一聖書バプテスト教会が戦うのです。 その戦いに勝利することで主の素晴らしさが現れるわけで、もし私たちがヨハネの福音書13章のみことばのとおり、互いに愛し合おうという召命に生きるならば、私たちはその、各自が繰り広げている戦いをおぼえて、祈るようになってしかるべきです。私たちは、こうして同じ共同体で時間と空間をともにする兄弟姉妹のそれぞれの戦いに、無関心であってはなりません。何で戦っているか、何で苦しんでいるか、つねに心に留めて祈ることで、私たちもその戦いに参戦するのです。まさしく、愛の絆でダビデと結びついたイスラエルが、国のために戦ったようにです。 今日のみことばを振り返りましょう。私たちの武器である、賛美、神の臨在、愛の絆……どれも私たちが神の戦いを繰り広げ、勝利するために必要なものです。特に、今の自分に必要なものを覚えて、求める祈りをささげましょう。主よ、その武器を自分のものにしてくださり、その武器を用いて、サタンに勝利する者とならせてください! 祈りましょう。 ①神さまの御力で、賛美という武器を用いさせていただくように。 ②神さまの臨在により、どんなおびやかしにも勝利できるように、主がともにいてください。 ③私の戦いが教会全体の戦いであるという事実を受け止め、ともに戦って勝利すべく、教会の兄弟姉妹を愛の絆で結び、互いのために祈る者とならせてください。 聖歌284/献金/讃美歌541(頌栄)/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」

天地万物の主権者、所有者を礼拝せよ

聖書箇所;創世記1:1/メッセージ題目;「天地万物の主権者、所有者を礼拝せよ」 みなさま、今年もよろしくお願いします。 「一年の計は元旦にあり」と申しますが、今年私たちは、去年までの人生とひと味違った生き方をするために、どのような決断をしますでしょうか? 私も、この教会を牧会して、今年で丸8年を迎えることになります。やはりこれだけ長くなりますと、私も、これまで続けていたことを引きつづき行うことと、今年から新しく始めることとのバランスを考えるようになります。 しかし、やはり、この教会という共同体で何かできないだろうか……神と人を愛するために何をしよう? と、ともに考え、行動する群れになっていければ……そういうことをいつも考えています。 さて、今日の本文、創世記1章1節は、言うまでもなく、聖書の最初のみことばです。短いみことばです。しかしこのみことばを解き明かすと、神さまはどのようなお方か、そして、神さまは私たちに何を求めていらっしゃるかが見えてまいります。ともに見てまいりましょう。 今日の本文を、3つのポイントから学びます。第一のポイントです。神さまは、天地万物の主権者です。 神さまが主権者でいらっしゃるということは、被造物であり、そのご主権によって支配を受けているだけの私たち人間には、いくら想像をたくましくしても理解することがとても難しいことです。私たちは、私たちの生活をとおして、神さまが主権者であるということの、その一部をわずかながらでも知ることができる程度です。 私は趣味で、小説を書きます。いま私は、東京に住む男子中学生が主人公の話を書いていますが、小説を書いてみると、世界に対して主権を持つとはどういうことか、ほんとうに、ほんのちょっぴりですが、知ることができます。彼の通う学校の様子、彼の出席する教会の人間模様、彼が友達や先生と交わす会話、町の様子や食べに行くレストランの様子……そういったことを、人や学校といった固有名詞をいちいち考えて命名しながら書き綴っていく作業は、とても楽しいものです。 このように、人間もその気になれば、自分なりのワールドというものをつくることができますが、作者という存在はそのワールドに対する、言ってみれば主権者です。なんとでもその世界を変えることができますし、展開することができます。できるかぎり美しく、面白くしようとします。そしてそのように世界をつくってみると、何と申しますか、その世界や登場人物に対する「愛情」のようなものがわき上がってくるのが自分でもわかります。 しかし、人間が小説のような創作物に対して「主権者」であることと、神さまがこの天地万物において「主権者」でいらっしゃることとは、決定的な違いがあります。それは、人間はどんなに頑張っても、その小説の世界を「存在」させることはできません。一方で、神さまがお造りになった天地万物は、「存在」そのものです。 その「存在するもの」そのものに対して、神さまは主権を持っていらっしゃるのです。神さまは、この「存在」すべてを、そのみこころのままに動かされる。この事実を知るとき、私たちは謙遜にならざるをえません。 人間は権威の前にひざをかがめてこその存在です。子どもであるときは親に従い、学生であるときには先生に従い、新入社員であるときには管理職に従います。そのように、神さまは自分に対して権威あるお方だから、その権威の前にひざをかがめ、お従いするのです。 そのように神さまが、権威あるお方ということは、また、どのようなことを意味しているのでしょうか? 第二のポイントです。神さまは、天地万物の所有者です。 唯一の神さま、全能なる神さまがこの天地万物をお造りになったということは、また、神さまがこの天地万物の持ち主であるということも意味します。創造主がその壮大なみこころを実現する場、それが、私たちの置かれているこの大宇宙であり、地球であるわけです。 創世記第1章の記述を見てみますと、天体から地上のあらゆる環境、動植物が創造され、存在させられていく様子が描かれています。それらのものはみな、神さまのものである、ということです。 みなさまもご存じのお話かもしれませんが、木村清松(きむらせいまつ)という、むかしの牧師先生のお話をしましょう。 今から100年以上むかしの1908年、木村清松はアメリカで、現地の人にナイアガラの滝に案内され、「どうです、アメリカにはこんなすごいものがあるんですよ」と自慢されました。それに対して清松は、「このナイアガラの滝は、私のお父さんのものだ」と答えました。 案内したアメリカ人はびっくりしました! なに! 彼のお父さんは「アメリカ先住民の大首長」かなにかか! このことばは話題になり、清松がその地域を巡って行なった伝道集会には、こんなキャッチフレーズが掲げられました。「ナイアガラの滝の持ち主の息子、来たる!」 木村清松のお父さんは、私たちのお父さんです。私たちのお父さんは、ナイアガラの滝の持ち主です。筑波山や霞ケ浦の持ち主です。天地万物のあらゆるものの持ち主です。そして、私たちのこともこのお方、天地万物を創造されたお父さんが持ち主です。 ただの持ち主ではありません。私たちのことを、宝物にしてくださっています。私たちは宝物のようなものを手に入れたら、大事にするでしょう。 私には大学時代に親友になったクリスチャンがいます。彼はのちに音楽家になり、CDアルバムを出しました。それを知ったとき、私は彼に「ちょうだい」とか「安く譲って」とねだることはしませんでした。キリスト教書店でちゃんと定価でお金を出して買いました。そして、そのCDは大切にし、今も牧師室の本棚に置いてあります。 私たちは神さまにとって宝です。だから、たとえ自分に何かよくないことが起こったとしても、「神さまは私のことを見捨てている!」などとおっしゃってはいけません。神さまは私たちのことを見捨てたりなどしません。私たちは宝物だからです。 ただし、宝物だから、あえて厳しいところを通らされる、ということは、ありえるかもしれません。そのようにきびしい思いをさせられるのは、それだけ、神さまが私たちを愛しておられ、もっとご自身に拠り頼むようにされるためです。 小説家の石川達三がうまいことを言っていましたが、「磨くということは同時に無数の傷をつけることである」。私たちが宝石のような宝物なら、もっと輝きを増すために、神さまはあえて無数の傷をつけることをお許しになることもあると考えるべきです。 今年、私たちを待ち受けるできごとは、もしかすると私たちを傷つけるかもしれません。しかし、信じてください。その傷は、私たちがもっと多く実を結ぶために、神さまご自身が私たちのことを刈り込んでくださるゆえにできるものです。 だから、私たちは傷つくのではありません。実を結ぶのです。だから、ときに私たちが体験する厳しいできごとに、私たちが神さまの愛を見出すことができるならば、私たちは幸いです。私たちは神さまのものとして刈り込まれます。そのようにして私たちはもっと多くの愛の実、御霊の実を結ばせていただきます。感謝しましょう。 第三のポイントです。神さまは、天地万物の礼拝を受けるべきお方です。 神が天と地を創造された、ということは、神さまと被造物である天と地の間にどのような関係が成り立っている、ということを意味するのでしょうか? これは、天地創造に関するみことばとして、ネヘミヤ記9章6節のみことばをお開きいただきたいと思います。 ……そうです、天の万象は神さまを伏し拝んでいる、すなわち、天地万物のあらゆる被造物は、神さまの御手によって創造されたことにより、創造主なる神さまに大いにひれ伏し、礼拝している、ということです。 しかし、これは少し説明が必要です。人間を除く被造物は霊が吹き入れられているわけではなく、したがって神さまを礼拝することはありません。類人猿、なんていいますが、チンパンジーやゴリラはイエスさまの御名によってお祈りすることはしません。動物だからです。 そうはいいましても、被造物はその雄大さ、その美しさをもって、創造主なる神さまの雄大さや美しさ、秩序、奥深さを現しています。それは、自然の中に人間が出ていくとき、その自然の背後におられる創造主を認めざるを得なくなることからも明らかです。 そうです。天地万物が伏し拝む、というのは、その天地万物を目にし、体験する人間が伏し拝む、ということです。天地万物の長として創造された存在として、天地万物を代表して礼拝するのです。 当教会が支援している組織に「シオン錦秋湖」というキャンプ場があります。4年前には英語教室を中心にはるばる水戸から岩手の山奥まで行きました。コロナ下になる前には同盟総会を毎年そこで開催し、年に1回は必ず足を運びました。今年はコロナさえ収まってくれていれば、久しぶりに総会をシオン錦秋湖で開きます。 あの、シオン錦秋湖には、荒木さん一家、伊藤さん一家という、スタッフ家族が常駐していて、一年中キャンプ場を守ってくださっています。豪雪地帯なので、冬になるとしょっちゅう除雪作業を頑張ってくれたりします。 あそこに行くたびに楽しみにしているものは、山の幸です。木の芽ですとか、山菜ですとか、キノコですとか。それももちろんですが、あのシオン錦秋湖の発信するニュースレターなどを読むと、季節ごとの山の様子、四季折々のスポーツにいかに取り組んでいるか、まことに、スタッフのみなさんはあらゆる自然の姿にふれているのがわかります。スタッフのみなさんは、さぞかし、創造主なる神さまのご臨在に「生で」触れていらっしゃるんだろうなあ、うらやましいなあ、と思います。 シオン錦秋湖には負けるかもしれませんが、でも、茨城の自然もなかなかのものです。長年、首都圏やソウルのような都会に身を置いた者からすれば、茨城のこの自然はとても素晴らしいものに思えます。 私たちはこの自然の中で、創造主なる神さまに出会う機会を少しでもつくれればと思います。ほんの少しでも空を見上げて、木々や草花に目を留めて、神さまを礼拝できれば……神さまを賛美できれば……私たちがそうなれれば、と、心から思います。それは、この自然豊かな土地に暮らす私たちにとっての特権ではないでしょうか。 今年私は、この自然を心から堪能し、意識して創造主なる神さまを礼拝することに努めたいと願っています。いや、努める、なんていうと、義務みたいで大げさですが、要するに、堪能しよう、喜ぼう、というわけです。みなさまとともに喜びたい、私はそう願っています。 思えば、聖書の書かれた昔は、今の世の中みたいに、こんなに都市化が進んでいたわけではありませんし、もっときれいな空気の中、夜になれば真っ暗で、満天の星空、そんな中で暮らしていました。そんな中でイエスさまが、空の鳥を見なさい、野の草に目を留めなさい、とおっしゃったのです。 イエスさまのこのおことばを、単なる象徴とらえてはいけません。ほんとうに空飛ぶ鳥をこの目で見ましょう。ほんとうに道端の花をこの目で見ましょう。山を見ましょう。星を見ましょう。そうすることではじめて、私たちひとりひとりに御目を留めてくださり、私たちを礼拝者として成長させてくださる主のみこころがわかるようになるはずです。 私たちは礼拝者として創造されましたが、礼拝を堅苦しいもの、形式的なものと捉えないようにしたいものです。 もちろん、いまこうしてささげている礼拝のように、形式的であることが美しい、と言える側面もあるわけですが、それだけが礼拝ではありません。野に出て、自然の中に出て、その創造主である神さまを思い、神さまをほめたたえるならば、それこそ礼拝、私たちはこの2022年、そのようにさりげない礼拝、しかし心のこもった礼拝をささげてまいりたいと思います。 今年2022年、私たちは、私たちに対する主権者なる神さまのご存在とみこころ、みことばとみわざをますます認め、その御手のうちに整えられることを喜んでまいりましょう。そして、美しい被造物の中にあって、ますます麗しい礼拝をささげてまいりましょう。2022年、主が私たちにますます大いなる祝福を与えてくださいますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。