「ダビデの武器 その4」
聖書;サムエル記第一18:17~30/メッセージ題目;「ダビデの武器 その4」 旧約聖書の創世記を読みますと、ヤコブがラケルに恋して、ラケルと結婚するために7年もの間、ラケルの父親であるラバンのもとで重労働に明け暮れるという場面が出てきます。なんとも、愛の力の偉大さを見る気がします。 今日のみことばの学びも今年のシリーズの続きで、「ダビデの武器」という内容でお話しますが、この箇所における「ダビデの武器」、それは「愛の力」です。 ダビデにとって愛の力は、ペリシテ軍との戦闘におけるやる気を高めるうえでまたとない力となりました。その愛の力は何であったかは、あとで詳しく見ることにしますが、サウルは、愛の力というものを利用して、ダビデを戦わせようとしました。 まず、サウルはダビデの前に娘のメラブを連れてきて、もし、主の戦いを勇敢に戦うなら、おまえとメラブを結婚させよう、と、ダビデに持ちかけます。一見すると、神の民であるイスラエルの王さまらしい発言、その戦いで功績をあげる者には自分の大事な姫もあげよう、という、サウルの献身的な態度のように見えます。しかしサウルの腹の中はといえば、この戦いによってダビデを滅ぼしてしまおう、という魂胆でした。 このようなサウルの命令、また、契約の持ちかけに対し、ダビデはこのように答えています。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」 しがない羊飼いの一族など、王家の一族になるのに最もふさわしくない、ここにダビデのへりくだりを見ますが、だからといってダビデは戦わなかったわけではありません。ダビデはそのようにへりくだってはいても、やはり戦いました。それは主君サウルのためであり、何よりも、神の民であるイスラエルという国と民族のためでした。すなわち、王を立てられたお方、この地にご自身の国と民族を置かれたお方、神さまのために戦いました。 そうです。ダビデの動機にはもちろん、メラブと結婚したいという愛の力も働いていたでしょう。また、戦いで勝利さえすれば、しがない羊飼いの地位から一族を王族に引き上げてもらえるという、一族の栄誉もかかっていました。神の栄光のために戦って勝利することには、このような恵みもついて回りました。 それが、イスラエルに勝利をもたらしていざ結婚となったら、サウルはメラブのことを、アデリエルという男に嫁にやってしまったのでした。メッセージの冒頭でも申しましたヤコブのこと、ヤコブはラケルと結婚する際にレアまで押しつけられましたが、そんなことをするラバンは実に食えない男でした。しかし、サウルはそれ以上にひどいことをしたと言えないでしょうか。何しろ、イスラエルが負ければダビデは死ぬか人望を失うか、イスラエルが勝てば勝ったでその手柄をダビデから奪い、よそ者にくれてやったわけです。 しかし、このような屈辱を体験したダビデのことを、神さまはお見捨てになりませんでした。やはりサウルの娘だったミカルが、ダビデを愛していたのでした。ダビデが歴戦の勇士、英雄であったからというのもありますが、王族であるミカル王女はそれ以上にダビデのことを知りうる立場にありました。 ダビデはかつてサウルの護衛でもありましたし、ミカルの兄であるヨナタン王子の一の親友でもありました。その分、ミカルはダビデの人柄をよく知っていました。ミカルはまた、ダビデのメラブへの愛を利用した父親のひどい仕打ちを、間近で見てもいたわけです。私こそがダビデと結婚してあげたい……そんな思いにもなったことでしょう。父サウルは、ミカルがダビデと結婚したい思いがあることを知りました。しかしこの事実は、サウルをますます恐れさせたのではないでしょうか。愛娘のほうからダビデを恋い慕っているとは! このわしの敵(かたき)を恋い慕うとは何事か! だが、ここでもサウルは一計を案じます。ミカルと結婚させてやろうと考えたのです。これで愛娘の思いは遂げられますし、ダビデのほうも、一族もろとも王族になるという恩恵を受けられます。しかし、このことにより、ペリシテ軍の攻撃を受けてダビデは今度こそ滅びる、しめしめ……。 サウルが食えない男なのは、こんなことを家来に命じてダビデに伝言させたことからも明らかです。「ご覧ください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。」家来たちはダビデのことを愛していたかもしれませんが、少なくともサウルは、ダビデのことを気に入ってなどいません。気に入っているとすれば、忠実なダビデは王に栄誉をもたらす鉄砲玉だから、ということ以上のものではないでしょう。 しかし、王の婿になることはどれほど難しいことでしょうか。家柄ももちろん問題です。王族と羊飼いなど、釣り合わないことこの上ありません。さらに大変なのは、花嫁料というものを用意して貢がなければならない、ということです。王家のお姫さまと結婚するには、たいへんな金額の花嫁料を用意しなければなりません。そんなものをしがない羊飼いが、どうやって用意するというのでしょう。 それ以上に、ダビデはすでに、メラブを別の男に嫁がせられてしまったという屈辱を経験していました。どんなに功績をあげても、王の差配を前にしてはどうしようもありません。ダビデはいやでも、自分の出自の貧しさ、卑小さを身に染みて悟らなければなりませんでした。どんなにいのちを懸けても、王の婿になるなど、夢のまた夢だ……。 私は王さまの婿になどなれません。ダビデはそう言うしかありませんでした。それで、この返事をもらったサウルは、また考えました。これでは結婚を餌にダビデを葬り去ることは難しい、ならばこうしよう。ペリシテに勝利した証しとして、ペリシテ人の「陽の皮」を百枚持ち帰れ。 陽の皮とは、男子が割礼をした際に余る、性器の包皮の皮です。ダビデはゴリヤテとの闘いにおいて、彼のことを、イスラエルの生ける神の陣をそしる無割礼のペリシテ人と言いました。神の民にとっては、割礼を受けていない異邦人の軍勢に敗北することは、すなわち神の栄光が汚されることであり、それゆえ、神の栄光のために必ず勝利しなければならなかったわけです。神の陣に敵対するペリシテの兵士の陽の皮を切り取ってイスラエルの王のもとに持ち帰るとは、神に敵対した勢力がさばかれた、ということを示す、何よりもの証しでした。 ダビデにとって、この申し出はよいことに思えました。それはまず、サウルがそう言ったことによって、ダビデはこの戦いが、神の栄光のための戦いであることを意識するようになったからでした。 そしてそれ以上に、この戦いは、自分のことを愛してくれるミカルのその愛にいのちを懸けて応える、愛の戦いとなりました。この戦いに勝利するならば、いよいよミカルの愛を自分のものにします。まさにメッセージの冒頭に申し上げました、愛の力、それがダビデにとっての武器となりました。 もちろん、戦いは大変な危険が伴います。剣を振るって倒すことまではできたとしても、それで倒れた兵士の「陽の皮」をいちいち切っているうちに、次の兵士が襲いかかってこないともかぎりません。弓矢を打ち込まれて命中したらおしまいです。単に「100人倒せ」ではなく、「100枚の陽の皮を持ち帰れ」は、ただごとでなく困難なミッションです。 だが、ダビデは100枚どころではなく、200枚持ち帰りました。なんと2倍です。それだけ、この結婚を何としてでも成し遂げたい、という思いがダビデにはあふれていました。このように、愛の力を用いて、神さまは人を用いてくださるということを私たちは見ることができます。ダビデにとっての武器であった愛……それは多方面に張り巡らされた愛でした。 もちろん、ミカルに対する愛のなせるわざでしたが、それだけではありませんでした。ダビデを愛しているサウルの家来たちに対する愛、しがない羊飼いの暮らしから王族に引き上げようという実家の家族に対する愛、ともに勝利を味わうことで喜びを分かち合おうというイスラエル軍の兵士に対する愛、勝利をもたらして喜ばせようというイスラエルの国民に対する愛、そして、サウルに対する愛、そしてすべては、神さまに対する愛でした。 私たちも日々、生活の中で戦いを展開します。それは言ってみれば、私たちが神さまの子どもとして、神さまのしもべとして生きるゆえに、神さまにあって展開する戦いです。 バプテスト教理問答書の第一問答、これはとても大事なので何度でも取り上げますが、こう語っています。「問1 人のおもな目的は何か。/答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわすことと、永遠に神を喜ぶことである。」私たちは仕事をとおして、家庭生活をとおして、神の栄光をあらわし、神を喜ぶように召されています。 しかし、サタンと悪霊どもの軍勢は、人がそのように神の栄光をあらわし、神を喜ぶことをさせないように、さまざまな妨害をしかけてきます。仕事にはしくじりがつきものですが、そのしくじりをいつまでも思い出させ、くよくよさせて、神さまを見させなくする。人から言われたことを真に受けさせ、感情的にならせたりする。怒りで支配したり、落ち込みで支配したりする。要するに、神さまのご栄光をあらわすことも、神さまを喜ぶこともさせなくするのです。 人には感情というものがあります。また、多かれ少なかれ、人は周りの状況に左右されるものです。それはクリスチャンであっても例外ではありません。しかし、私たちは落ち込んだままでいることはありません。怒りに支配されたままでいることはありません。 それはなぜなのでしょうか。神さまを愛する愛が私たちの中にあるからです。神さまを愛する愛の力は、神さまが私たちの周りに備えてくださったひとりひとりに対する愛へと実を結びます。むかし、「愛は勝つ」というタイトルのヒット曲がありましたが、私たちクリスチャンにとっては、「神の愛は勝つ」なのです。 しかし、神さまに対する愛というものは、私たちがまず神さまを愛することによって生まれるものではありません。ヨハネの手紙第一、4章の7節から12節をお読みすると、私たちが互いに愛し合うべきということが書かれていますが、その愛は「神のみこころだから愛さなければならない、愛し合わなければならない」という、律法的なものではないことがわかります。読んでみましょう。 どのようにして私たちは愛し合うのでしょうか? そう、神さまが私たちのことをまず愛してくださったゆえに、御子イエスさまを私たちの受けるべき罪の罰の身代わりに十字架につけてくださったということ、その神の愛を受けて、私たちは神を愛し、その愛する神さまのご命令だから、神さまへのあふれる愛を、人どうし互いに愛し合うという形で実践するのです。 ダビデは、イエスさまがこの地上にお生まれになる、1000年もむかしの人でした。しかしダビデは、御子キリストの存在をはっきり認め、キリストをほめたたえていました。 詩篇110篇でダビデが歌ったのは、まさにその御子キリストへの賛美であり、それはキリストへの賛美なのだと、イエスさまご本人が明らかにしていらっしゃいます。ゆえにダビデの神さまに対する愛は、主キリストへの愛であり、このお方の御力をもって敵サタンとその軍勢は滅ぼされることを知って、キリストをほめたたえました。もちろん、このお方キリストの存在をダビデが知っていたのは、ダビデには神さまからの霊感があって、神さまから教えていただいていたからでした。 ダビデは、神の民に敵対するペリシテとの戦いをもって、このお方キリストへの愛を実践しました。それはキリストというお方が、神に敵対するサタンの軍勢を滅ぼされるお方だということを理解していたゆえです。 しかし、私たちにとっての戦いは、人を相手に勝ち負けを競うものではありません。人はただ、愛する対象です。しかし、そのように愛する対象であるにもかかわらず、あたかもその人に勝つことが主の戦いに勝利することであるかのように、サタンは私たちをミスリードし、愛し合うべき愛の絆を断ち切り、敵対させます。 しかし、このような仲間割れ、同士討ちは、なんと非生産的なものでしょうか。このようにクリスチャンが同士討ちをするならば、サタンの軍勢は戦わずして勝ちます。そもそも同士討ちというものは、神さまが、ご自身の民が敵に勝つために用いられた手段です。それをサタンは真似をし、私たちがサタンの計略に引っ掛かって同士討ちをするようになるのです。どれほど愚かなことでしょうか。私たちはこのような愚かなふるまいをするのではなく、愛し合うものにしていただく必要があります。 そのためにも、まず神を愛する愛を増し加えていただく必要があります。讃美歌にあるとおりです。「わが主イエスよ ひたすら 祈り求む 愛をば 増させたまえ 主を愛する 愛をば 愛をば」しかし、神さまへの愛が増し加わるということは、神さまが変わらずに愛してくださっている、その愛をなお受け取ることによって可能になります。 間違えてはいけません。神さまはひとり子イエスさまをくださるほどの最高の愛を、すでに私たちに注いでくださっています。あとはその愛を私たちがどれだけたくさん受け取るかです。私たちにかかっています。そのように神の愛をより多く受け取った人が、人をより多く愛する人になることができます。 神さまの愛はどのようにしたら多く受け取ることができるのでしょうか? それには、私たちは本来、神さまの愛を受け取る資格のない罪人であることを、日々悟り、それにもかかわらず変わらずに私たちのことを愛してくださっている神さまの愛に感謝することです。 しかし、時に私たちは、聖書を読んでも、お祈りしても、ディボーションに打ち込んでも、神さまのそのような愛を実感できない、ということがないでしょうか。そんなときは、こうすればいいのです。これはむかしある牧師先生からお聞きしたことばですが、こうおっしゃっていました。「聖書は読みたくないときに読み、お祈りはしたくないときにする。」論より証拠、ぜひやってみてください。それまでわからなかった神さまの愛が、わかるように変えていただけます。 ダビデにしても、戦いでいつ自分のいのちが取られるかという大変な中に置かれ、それでもミカルへの愛、ひいては神さまへの愛をかなえるために、どれほど祈らされたことでしょうか。文字どおり、戦いの現場では、祈るしかありません。しかし祈るならば、聖霊の交わりによりダビデは御声を聴くことができました。その御声、みことばを握りしめて、ダビデは愛という武器を手にした愛の戦いに出ていき、そのようなダビデに神さまは勝利を得させてくださったのでした。 私たちもそうです。私たちもいま戦いを体験していて、たいへんな思いをしているかもしれません。コロナ下に置かれての経済的な戦い、仕事の責任を果たすための戦い、精神的、体力的に追い込まれての、自分の限界との闘い……しかしその戦いはとどのつまり、その戦いに負けさせて主のご栄光を損なおうとする、サタンと悪霊どもの軍勢との戦いです。その戦いをとおしてもしも私たちが人を愛することをやめたり、人をさばくようになったりしたとするなら、そのときこそ私たちは「負けた」ことになります。 私たちがその戦いに勝つには、神さまを愛する愛を増し加えていただくのみです。神さまを愛する者に、神さまは味方してくださいます。神さまを愛する表現をしましょう。神さまとの時間を取りましょう。テレビを視る時間、インターネットを見る時間を、少しでも神さまとの交わりに向けてはいかがでしょうか? そのぶん、みことばを読むのです。そのぶん、お祈りをするのです。神さまはそのような私たちに、ご自身の愛を注いでくださいます。その愛にあふれて、いよいよ隣人を愛する、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。