聖書箇所;マルコの福音書1:16~20/メッセージ題目;「イエスさまの弟子とは」
今日の箇所にまいりたいと思います。イエスさまは何をしていらっしゃいましたでしょうか? 人をご自身の弟子とされました。イエスさまの弟子。今日の箇所は、これがキーワードです。イエスさまの弟子とはどのような存在なのか、ひとつひとつ説き起こしたいと思います。
第一に、イエスさまの弟子とは、イエスさまがお選びになった存在です。
イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いていらっしゃいました。するとその湖上で、シモンとその兄弟のアンデレが、網を投げて漁をしていました。イエスさまは彼らに声をかけられました。「わたしについて来なさい。」
これだけをお読みしますと、イエスさまの呼びかけは唐突な印象を受けるかもしれません。しかし、ほかの福音書と合わせて読んでみますと、どうも、シモン、アンデレの兄弟とイエスさまは、これが初対面ではなかったようです。特に、ヨハネの福音書1章35節から42節に記録されているできごとを見ると、それがはっきりします。
アンデレはもともと、バプテスマのヨハネの弟子でした。しかし、彼らのところをイエスさまが歩いて行かれるのを見たヨハネが、アンデレたちに「見よ、神の子羊」と、イエスさまを指し示したところ、アンデレともうひとりの弟子は、イエスさまについていき、イエスさまの泊まっておられるところに行って、イエスさまと一緒にとどまりました。いろいろおことばも聴かせていただいたことでしょう。
そのアンデレは、自分はメシア、キリストに出会ったと、兄弟のシモンをイエスさまのもとに連れて行きました。そのときイエスさまはシモンを見つめておっしゃいました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」
このことから、これがアンデレとペテロにとって、イエスさまのとの初対面がこのときだったことがわかるのですが、ともかく、アンデレは漁師でありながら、もともと、バプテスマのヨハネについていくだけの、弟子になる心構えのできていた人でした。イエスさまがお選びになったのは、そのような弟子の心を持つアンデレだったのです。
シモン・ペテロはどうでしょうか? あれほど熱心にバプテスマのヨハネについて行っていたアンデレと、何せ同じ舟の中でいつも夜通し漁をするような兄弟であり、仕事仲間です。アンデレとペテロの乗ったその舟は、有名な演歌のフレーズを借りれば「俺と兄貴の夢の揺り籠」といったところでしょう。まさしく「兄弟船」。
そのアンデレは、大好きな兄弟シモン・ペテロに、ふだんからバプテスマのヨハネのことを説いて聴かせていたはずです。いや、それだけでしょうか? そのヨハネの預言したとおりのお方、メシアがついに現れた! 聞いてよ、俺はメシアとご一緒して、いろいろお話ししたんだぜ! なあ、一緒に来いよ!
アンデレは、シモンならば直接イエスさまに出会ったらきっと信じるはずだと、確信があったはずです。いや、それ以上に、何としても会わせたい! 大好きな兄弟だから! そんな思いがあったはずです。
聖書を読むと、アンデレはシモン・ペテロに比べると、ちょっと影が薄いという印象を受けないでしょうか? しかし、これはことばを換えれば、アンデレの存在がシモン・ペテロという偉大な使徒を生んだ、ということでもあります。アンデレがイエスさまの恵みを独り占めして、シモンをイエスさまに出会わせなかったら、あの偉大な使徒ペテロは生まれなかったわけです。
私の母教会、北本福音キリスト教会の日曜学校中高生科は、「アンデレ会」という名前がつけられていました。これは、連れてきた友達がペテロのようになる、という祈りが込められたネーミングです。私は中学2年から教会に集い、アンデレ会のメンバーになりました。最初はお祈りもできなかった私でしたが、今は、その世代で唯一の牧師になりました。私はペテロと比べるべくもない存在ですが、アンデレ会の存在が私を牧会者の道へと導いたのは確かなことです。そういう意味でもアンデレの役割をする人は必要です。
ペテロとアンデレの召命に関しては、ルカの福音書5章にきわめてドラマチックな描写が出てまいります。イエスさまはシモン・ペテロの舟に乗って、湖上から湖畔に群れなす群衆にメッセージを語られました。しかし、このとき、ペテロは夜通し漁をしても全く何も獲れなかったという、一晩の重労働が徒労に終わるという体験をしていました。
そんなペテロにイエスさまは、「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃいました。ふつうならば、とんでもない! となるでしょう。疲れています。魚が獲れないのはわかっています。しかしペテロはこのとき、「おことばですので、網を下ろしてみましょう」とお答えし、イエスさまのみことばに対する従順を、一晩中の重労働に優先させたのでした。そうして網を下ろすと……大漁、大漁、また大漁!
イエスさまは、ヨハネに弟子入りするほどのアンデレの探求心、向学心、また兄弟愛を見抜いておられたことでしょう。そして、重労働による疲れよりもイエスさまへの従順の行動を優先させるようなペテロの純粋さ、行動力を見抜いておられたことでしょう。まさに、彼らは、弟子になるにふさわしい人だったわけです。
イエスさまは続いて、ヤコブとヨハネにも声をかけていらっしゃいます。やはりイエスさまは、彼らが弟子としてついていけるだけの素質があることを見抜いていらっしゃったわけでした。
さて、ここまで見てみますと、私たちはどう思いますでしょうか? いや、彼らはイエスさまに見いだされるだけの、弟子としての素質があった。私なんかはそんな人間じゃないです。そう思いますでしょうか?
しかし、それはちがいます。私たちは聖書を開くと、「わたしについて来なさい」というイエスさまのみことばを目にします。これは、私たちひとりひとりに語っていらっしゃるおことばです。私たちからイエスさまに弟子入りを志願する前に、イエスさまの側から、私たちをのことを弟子に招いてくださるのです。
神の御子が私たちを弟子にしてくださるのです。なんと光栄なことでしょうか! このように、礼拝に集っている私たちはすでに、招いていただくにふさわしいと見込んでいただいています。私たちは自分の意志でこの礼拝に集っていると思ってはなりません。その意志を与え、礼拝させてくださっているのは、神さまです。そのようにして神さまは、イエスさまの弟子になるように、私たちのことを招いていてくださいます。
さきほど、素質のことを申しましたが、私たちはだれもが、イエスさまの弟子になれるだけの素質を持っています。なぜでしょうか? 私たちは神さまの似姿に造られているからです。神さまの似姿に造られているということは、私たちの創造主である神さまにますます似ていこう、そのためには神の御子イエスさまからしっかり訓練を受けよう、という意志が、私たちの中にある、ということです。もし、私たちが素直に、神さま、イエスさまの御前に出ていくならば、主は私たちのそのような、弟子としての素質を見抜き、ご自身の弟子に取ってくださいます。
ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネは、私たちと次元の違う人ではありません。平凡な漁師でしたが、イエスさまがご自身の弟子になれると見込んでくださった人です。私たちもイエスさまに、ご自身の弟子になれると見込んでいただいていると、信じていただきたいのです。イエスさまは私たちに声をかけてくださっています。「わたしについて来なさい。」
第二に、イエスさまの弟子とは、イエスさまに召されたとおりの働きをする存在です。
イエスさまはシモン・ペテロとアンデレをお招きになったとき、何とおっしゃいましたか?そうです、「人間をとる漁師にしてあげよう。」
ペテロはすでに、イエスさまからそれまでにも「あなたは人間をとる漁師になる」と言われていました。ペテロにはその意味が最初わからなかったかもしれません。しかし、イエスさまの教えを聴きに多くの人がついていっていた様子を見るに至り、そうか、このように、イエスさまと同じように働くことが、人間をとることなのか、と、わかっていったことでしょう。
先ほど挙げましたルカの福音書5章のみことばは、腕利きの漁師が創造主に完全に降伏したという内容でもあります。イエスさまに言われたとおりにすると、一匹も獲れなかったはずの魚が、網が破れそうになるほどに獲れた。まさしく、イエスさまが創造主であられたということですが、イエスさまはこの奇蹟をとおして、ペテロのことを、漁師からご自身の弟子、ひいては使徒へとお導きになったのでした。創造主であるわたしの言うとおりにしなさい。ペテロはその、イエスさまのお導きをいただいたのでした。
イエスさまは、魚を捕ることにいのちを懸けてきたペテロの生活にもっとも寄り添う形で、「あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。ペテロにとってもっともふさわしい「天職」は、魚を捕る漁師ではなかったのでした。魚を獲れるようにも、獲れないようにもなさる神の御子、イエスさまにしたがって、人々を救いに導く働きをすること、これがペテロにとっての「天職」であったわけです。
それにしてもみなさん、「人間をとる漁師」という表現、味わい深いみことばだと思いませんか? イエスさまはシモン・ペテロとアンデレが、「漁師」という働きにいのちを懸けてきたことを否定していらっしゃいません。「あなたは漁師ではありません」ですとか、「あなたは漁師をしていてはいけません」とおっしゃったのではないのです。あなたは漁師です、ただし、あなたがこれから捕らえるのは、魚ではありません、人間です。これがイエスさまのみこころでした。
ペテロにとっては、漁師という仕事は、いのちを懸けて取り組んできた働きでした。イエスさまはそれを否定されていません。それは同時に、ペテロという人の刻んできた人生を否定せず、受け入れていらっしゃるということです。イエスさまはそれでも、魚を捕るために執拗に夜の湖に網を放つようなペテロの粘り強さが、人をとらえるためにいのちを懸ける献身につながると見込まれました。
イエスさまの弟子に招かれた人であるならば、イエスさまの望んでいらっしゃる働きを行うことで、神さまのご栄光をあらわすことが、最高の祝福につながります。私たちは何をすることが、イエスさまの願っている働きだと捉えていますでしょうか?
さて、このように、イエスさまはご自分の弟子としてペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネを招かれました。彼らはどうしましたか? そこで第三のポイントです。第三に、イエスさまの弟子とは、イエスさまの招きに応える存在です。
ペテロとアンデレは網を打って漁をしていました。しかしイエスさまの「わたしについて来なさい」というおことばを聞くや否や、網を捨ててイエスさまについていきました。網はもちろん、漁師にとってはいのちの次に大事なもの、戦士にとっての刀のようなものです。仕事中にもかかわらず、彼らはいのちのような網を捨ててイエスさまについていったのです。
ヤコブとヨハネはどうでしょうか? 彼らは、舟の中で網を繕っていました。それは、これから漁に行くための準備をしていた、ということです。さあ、これから仕事だ、というタイミングで、イエスさまは彼らに声をおかけになったのでした。すると彼らは、父親のゼベダイと雇い人たちを舟に残して、イエスさまについて行きました。
あっという間の献身です。この聖書本文に「すぐに」ということばが繰り返し登場することにもご注目ください。ほんとうに「すぐに」だったのです。イエスさまというお方は、「すぐに」ついていくべきお方、それほどのお方なのです。ただ、この「すぐに」には、伏線がありました。
ルカの福音書5章をお読みになればわかりますが、ペテロとアンデレの大漁の奇蹟は、ヤコブとヨハネもすぐそばで目撃していました。そんな彼らが、イエスさまのそばに、あのペテロとアンデレが一緒にいるのを見て、あっ、ついに彼らはついていくことを決断したのか! そう思ったにちがいありません。するとイエスさまは自分たちにもおっしゃった。「わたしについて来なさい。」
イエスさまについて行くには、それにふさわしい「時」があります。このときが、彼ら4人にとってのそのふさわしい「時」であったのです。先週学んだみことばの中に「時は満ち」というイエスさまのおことばがありましたが、私たちもイエスさまの定められた「時」に従って生きていくとき、そこには最高の祝福があります。
イエスさまは、強制的に人を弟子とされるわけではありません。ついて行く側の決断が必要になります。その決断が可能になるのは、決断の向こうにある御国の祝福を確信できているからです。
ただし、その祝福をいただくためには、私たちはときに、後生大事にしているものを捨てる決断をする必要に迫られることもあります。彼らは仕事道具を捨てました。それは仕事を捨てたということであり、また、親を残していきました。
私たちはしかし、弟子になるにはこれほどまでに徹底したことをしなければならないのか、と、ひるみませんでしょうか? そんなことなど自分にはできない! 弟子じゃなくて結構! と、諦めたりしないでしょうか?
しかし、間違えてはなりませんが、イエスさまはすべてのクリスチャンに、フルタイムの献身者、教職者になることがみこころだとおっしゃっているわけではありません。ただ言えることは、弟子になるには、それ相応の献身が必要である、ということです。
ただ、聖書をよく読めばわかりますが、ペテロはイエスさまの弟子になっていたときにはすでに結婚していた模様で、その妻の母親のところにイエスさまは行って、病気を癒していらっしゃいます。ヤコブとヨハネも、親子の縁を切った、というほどのものではなかったようで、母親がイエスさまに口出しする場面が出てきます。私たちはイエスさまに従う弟子になることを、この世の係累を断ち切ることのように、極端に捉えてはなりません。
それでも、私たちはイエスさまに従うために、自分が大事にしているものを「捨てる」ように、主から決断を迫られるときがあり、そのときどう決断するかによって弟子としての真価が問われるものです。
韓国にはオンヌリ教会という有名な教会があります。私の韓国留学時代、オンヌリ教会は、今もそうですが「ワーシップ&プレイズ」の働きが盛んでした。そのバンドのドラム担当の兄弟は日本人で、私はその方と同じ語学学校に通っていましたので、交わりのためにときどきお会いして食事をしたりしていました。この方のドラムは一級品で、私も聴いたことがありますが、とにかくすごい技術でした。
ところがある日、私がドラムのことを話題に出すと、彼は、今はドラムを叩いていない、とおっしゃるのでした。どうしてなのか聞いてみると、ドラムが自分にとっての偶像になってしまっていたから、とおっしゃるのです。
私はびっくりしました。その素敵なドラムで、神さまの栄光をあらわす賛美をするのではいけないのですか……それでも彼は、自分にとって偶像だからドラムは叩いていない、とおっしゃるのです。
しかし、あれから25年以上過ぎた今となっては、彼が自分のドラムを偶像と見なしたその気持ちがわかるようになりました。自分の肉的な技術に頼って、霊的でなくなったならば、ドラムを叩くたびに問われる思いになり、とても平安と言えなくなっていたことでしょう。
私たちはいろいろなものに囲まれて暮らしています。テレビやインターネット、噂話、趣味、食べ物や飲み物……そういったものが、純粋にイエスさまの弟子として歩んでいこうとする意志を阻むことは大いにあるものです。そんなとき、私たちは問われる思いになり、心の中から平安が失われることになりはしないでしょうか。
私たちは、イエスさまに従うための大きな決断はできないかもしれません。しかし、ほんの小さなことでも、イエスさまの弟子としてまっすぐな歩みをするために捨てて、その積み重ねでやがて、すべてを捨ててイエスさまに従う者となるようにしていただく、というお導きは、必ずいただくことができます。決断の積み重ねです。
ペテロたちにしても、復活のイエスさまに出会った後でも、あの捨てたはずの舟に戻り、漁をしにいくようなことをしています。捨てきれなかったのです。しかし、イエスさまはそのときにも現れてくださり、彼らに対して、イエスさまの弟子としての総仕上げをしてくださいました。
私たちも時に、すべてを捨てられない自分の姿を見てしまうかもしれません。しかし、信じていただきたいのです。主がひとたび私たちのことをご自身の弟子として召されたなら、私たちは必ず、すべてを捨てて主にお従いできるようになります。諦めないで、お導きに従ってまいりましょう。主が私たちの弟子の歩みを完成してくださるのです。私たちを弟子としてくださる、主のこのご主権に信頼し、主にお従いする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。