「論の権威、証拠の権威」
祈祷/使徒信条/交読;詩篇30:1~12/主の祈り/讃美;讃美歌461「主われを愛す」/聖書箇所;マルコの福音書1:21~28/メッセージ題目;「論の権威、証拠の権威」/讃美;聖歌200「うれしきこのひよ」/献金;讃美歌391「ナルドの壺」/栄光の讃美;讃美歌541「父、御子、御霊の」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 「バプテスト教理問答書」は、第23問答まで来ました。一緒に読みましょう。 問23 キリストは神の子でありながら、どのようにして人となったか。/答 神の子キリストは、真実の肉体と通常の霊魂とをとり、聖霊の力によって処女マリヤに宿り、しかも罪を持たずに生まれ、人となった。 イエスさまは、聖霊なる神さまの御力によって、完全な人としてこの世にお生まれになった神さまです。完全な神であり完全な人である、唯一のお方、それがイエスさまです。イエスさまは神として人々にみことばをお語りになり、神として人々にみわざを行われたのでした。 このお方、イエスさまは、神の権威に満ちあふれたお方です。今日のメッセージのキーワードは、「権威」です。イエスさまの権威を2つの側面から見てまいります。ひとつは「論の権威」、もうひとつは「証拠の権威」です。「論より証拠」ということわざがあります。「論」は説得力があるように思えても、ほんとうに説得力があるのは「証拠」のほうだ、という、とかく教えに走る人に対する皮肉を込めたことわざと言えますが、イエスさまにとっては「論」も「証拠」も、どちらも神の権威にあふれたものです。 今日の本文の内容ですが、イエスさまはペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子とされ、弟子たちを引き連れた群れで行動されました。その一行がカペナウムという町にやって来て、ユダヤ教の会堂に入りました。イエスさまは会堂で、人々に教えを語られました。するとそこに、悪霊にとりつかれた男がいました。イエスさまは彼から悪霊を追い出されました。 本文を読んでみますと、「権威」ということばが繰り返し登場します。イエスさまはまさしく、神の権威をもってこのカペナウムの会堂で振る舞われたのですが、神の権威は御教えと御業の両方で現れています。 まずは、御教えの権威のほうから見てみましょう。21節のみことばです。イエスさまは、安息日に会堂に入ってみことばを教えられました。 イエスさまは何を教えられたのでしょうか? 聖書を教えられました。ルカの福音書の中にもイエスさまが会堂で教えを語られる場面が出てきますが、それによると、まずみことばの書かれた巻物が渡され、それを朗読して、そのみことばに対する解説を述べられました。こんにち、私たちのような教会で説教者が、お読みしたみことばにメッセージという形で解説を加えるのに似ています。 しかし、イエスさまが教えられる場合と、牧師や伝道師のような説教者が教える場合とでは、決定的な違いがあります。牧師や伝道師はどこまでも人間であり、解説者にすぎません。むかし、ある牧師先生から、クイズを出されました。礼拝の中でいちばん大事なのはどの部分ですか? 私は、このちょっと意地悪な先生のことだから、「メッセージ」と答えたら、おそらくアウトだろう、と、先回りして、「使徒信条でしょうか?」とお答えしました。答えは、バツ。先生はおっしゃいました。「みんな、礼拝メッセージだと答えるんだよねー。でもそうじゃないんです。答えは、聖書を朗読する時間です。」 言われてみれば確かにそうです。礼拝は神さまにおささげするものですが、聖書のみことばをお聴きする時間は、神さまから御声を授けていただく時間であって、これほど重要な瞬間はありません。礼拝メッセージは、そのみことばに対する「解説」、身もふたもない言い方をすれば「添え物」にすぎません。 ところがイエスさまの場合はどうでしょうか? けっしてそれは、牧師や伝道師、当時でいえば律法学者のような宗教指導者のメッセージとは、根本から異なっていたのでした。22節のみことばです。 イエスさまは「権威ある者として」お教えになったのです。この権威の前に、聴衆はみな圧倒され、驚くばかりでした。ことばに権威があったのでした。ことばに権威があるということは、ことばを語るお方に権威が満ちあふれていた、ということです。聴衆はイエスさまのお語りになったみことばに、イエスさまの権威を認めるほかなかったのでした。 イエスさまの語られたおことばは、人間による聖書の解説とは次元を異にするものでした。それは神さまご自身による解説であり、すなわち、神さまご自身のみことばでした。権威があるのは当たり前です。 しかし、ここでひとつ、ガリラヤの人たちのみことばに対する態度にも注目したいと思います。彼らは普段、どのような教えをこの会堂で受けていたのでしょうか? ときの宗教指導者たちは、どんなことを教えていたのでしょうか? 彼ら宗教指導者がどのような人であったか、いみじくもイエスさまがおっしゃっているとおりです。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうとはしません。」 彼らは確かに、正しいことを語っています。神のみこころは何であるかを語っています。だからこそ、それを聴く聴衆も、それが神のみこころであることを分かっているので、聴かざるをえません。しかし、彼らはあまりにも、語ることと行なっていることがかけ離れています。彼らは律法の厳しいところを語りながら、そこから救ってくださるお方について一切語りません。だから、疲れた者、重荷を負っている者をみもとにて休ませてくださるイエスさまに、聴衆はいつまでたっても出会うことができず、ただ自分の至らなさに悲しむしかなかったのでした。 ところが、イエスさまがみことばを語られたらどうなりましたか? 彼らは神に出会いました。神のみことばを直接聞きしました。そこに彼らは、いやがうえにも神の権威を認めるばかりでした。 宗教指導者の語っていた聖書の解説は、薬の能書きのようなものでしかありませんでした。私たちはテレビで薬の宣伝を視ます。コンピューター・グラフィックなども使って、いかにも効きそうです。でも、あの画面を視ただけでは、病気は治りません。あるいは、その宣伝を見て薬が欲しくなって、薬局に行きます。薬を買います。薬には必ず、その成分や効き目を書いた文書がついてきますが、それを読んだら病気は治りますか? どうしなければなりませんか? そうです。飲むことが必要です。宗教指導者はどんなに立派なことを言っても、薬を飲ませることをしていなかったわけです。 イエスさまというお方はちがいます。私たちをいやす神のみことばを、ご自身で私たちに直接語ってくださるお方です。よく、韓国教会でジョーク半分に語られることば、クリスチャンには2つの薬が必要です、それは、「きゅうやく」と「しんやく」です……。まさに、「しんやく」そのものであるイエスさまが、「きゅうやく」を解き明かしてくださる、それを聴く聴衆はどれほど、普段から彼らを支配している罪責感の縄目から自由にされる、まことのいやしを体験したことでしょうか! 私たちはイエスさまのみことばを福音書をとおしてお読みするとき、その教えの権威の前に圧倒されます。 ただしそれは、イエスさまのみことばを、あたかも薬の宣伝や効能書きを眺めることで済ませるのではなく、「飲んで」からだの一部とするようにして耳を傾けるからではないでしょうか? ご覧ください。日本はこれしかクリスチャンがいないにもかかわらず、聖書のみことばに触れる機会はいくらでもあります。その気になったら聖書が読めるのです。 しかし、いざそのようにして聖書を読む機会があったとしても、それで人が変わらないのはなぜでしょうか? このカペナウムのガリラヤ人のような、イエスさまのみことばを聴いたら驚くだけの心の備えができていないからです。私たち日本に住む者たちは、あまりにもイエスさまに対する先入観が多すぎます。聖書に対する先入観が多すぎます。しかしもし、そのような先入観をすっかり捨ててみことばに耳を傾けるならば、人は必ず、その権威に圧倒され、そのみことばの教えによってつくり変えられます。 私たちはイエスさまのみことばを聴いたとき、そのような「驚き」を覚えているでしょうか? 権威を認めて、その前にひれ伏していますでしょうか? 私たちに必要なのは、その霊的感覚です。もし、みことばをお読みしても驚きも何も感じないようでは、自然とみことばをお読みしなくなるでしょう。 イエスさまのみことばを聴いても驚かない。何とも思わない。これではパリサイ人のような宗教指導者と同じです。神さまはいったい、世の中から尊敬されていても御前ではそのような宗教指導者と、無学でもイエスさまのみことばに権威を認めて驚いたガリラヤ人と、どちらを受け入れてくださったでしょうか? しかし私たちは、長年のクリスチャン生活の、いわば「慣れ」で、いつしかみことばを読むことにそれほどの驚きを覚えなくなってしまうようになるかもしれません。そんな私たちは、何に驚いていますでしょうか? みことばよりも肉的なもののほうに、より驚きを覚えているようなら、私たちの感覚はそれだけ肉的になっているということです。 みことばに対して驚きを回復してください、と、主に心からお祈りする必要があります。そして、聖書を開きましょう。主は必ず、みことばをお読みする私たちに、驚きを与えてくださり、みことばを愛する者へと私たちのことを成長させてくださいます。今日からこの祈りを始めましょう。 もうひとつの「権威」についても見てみましょう。23節から26節をお読みします。……汚れた霊につかれた人。そういう人もまた、みことばを聴く人々の群れの中にいた、というわけです。 彼はイエスさまの教え、神の権威に満ち満ちた教えに反応しました。ただしその反応は、ひれ伏す、ですとか、礼拝する、ですとか、いっしょうけんめい傾聴する、ではありません。まるでイエスさまの教えを妨害するかのように、大声で叫び出したのでした。 この人のことばを見ると、いろいろなことがわかります。まず、彼は「ナザレの人イエス」と呼びかけています。ナザレのイエスの名には力があります。悪霊をも震え上がらせる力です。そんな悪霊が、「私たちと何の関係があるのですか」と語ります。「私たち」と言っているので、この悪霊は集団でこの人にとりついていたことがわかります。悪霊どもはそろいもそろってイエスさまを恐れました。 その人は、というより、その人にとりついた悪霊どもは、「私たちと何の関係があるのですか」とイエスさまに向かって叫びます。それまでカペナウムは、イエスさまが来る前は、この悪霊どもは影響力を発揮していました。彼らの縄張りともいえましょう。しかし、そこに神の子なるイエスさまが来られたなら、もはや彼ら悪霊どもに働く余地はありません。 だが、悪霊どもはここで精一杯の抵抗をしました。「私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」悪魔と悪霊の軍団は、私たち人間よりもよほど、イエスさまがどなたなのか知っています。イエスさまが王の王、主の主であるゆえに、そのきよいご臨在の前に震え上がる存在、それが絶対的な悪の存在である、サタンと悪霊どもの軍団です。それでもこの悪しき存在は、イエスさまのかかとにかみつくかのように抵抗します。群衆がみことばに耳を傾けることができないように、大声を出すなどして妨害します。 しかし、イエスさまの権威を前にして、悪霊どもが勝てるはずもありません。「黙れ。この人から出て行け」、このひとことで悪霊どもは去りました。 このできごとに彼らカペナウムの聴衆は驚きました。彼らはイエスさまのこの、みことばによる御業に対して、こう言いました。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。」このことからわかるのは、神の権威に満ちたイエスさまの御業というものは、みことばと密接につながっている、ということです。 イエスさまの伝記物語は、子ども向きにいろいろなものが出ていますが、欠かせないのは、イエスさまがこのように多くの奇跡、しるしを行われた、ということでしょう。しかし、それらの奇跡やしるしは、本来何のために行われたのでしょうか? 父なる神さまと無関係にイエスさまがあがめられ、礼拝されるためではありません。しるしや奇跡が行われたのは、それをとおして、みことばの確かさが証しされるためでした。 実際に聖書をご覧になってください。イエスさまは実にいろいろな御業を行われましたが、みことばの教えと無関係に行われた御業など、ひとつも存在しません。すべての御業は、イエスさまの御口から出た御教えの正しいことを証ししています。 時に私たちは、奇跡のような体験をします。科学や常識では説明できないような体験をするものです。それは私たちにとってはもちろん、神さまの特別なあわれみによって与えられた恵みの御業です。その体験を通して私たちはますます神さまを信じるようになります。素晴らしいことです。 しかし、その奇跡的な体験をだれかに話すのはいいとして、それでもって神さま、イエスさまを信じてくださいと語ることにおいては、注意が必要です。私たちがもし、主のみことばと関係のないような、単なる超常現象だけを切り取って語ったとしても、そういうことはほかの宗教でも普通にありふれていることです。その現象を語ることそのもので、もしだれかがイエスさまを信じたとしても、その人がみことばによって養われることがないならば、その信仰はむなしいものです。 奇跡というものはありふれている、と語りましたが、特定の宗教を信じる人には、奇跡というものはよく起こるもののようです。そのような不思議な体験をしたことで、より一層その宗教を信じる根拠になったりします。私の友達にある宗教の信者がいましたが、その人はちょっと変わった体験をしたらしく、それが、その人の信仰をより一層強くしていたものでした。いわば「論より証拠」です。 しかし、私たちにとっては、「証拠」のない「論」など、信じるべきではありません。ヨハネの手紙第一4章1節から3節には、このようなみことばがあります。……超常現象、それは起こります。しかし、私たちが受け入れるべきは、その超常現象が主イエスさまを証しする、みことばに根差したものでなければなりません。超常現象とまで極端なことは言わなくても、ドラマチックな体験をしてイエスさまに出会う、主の御名をほめたたえる、それはもちろん「あり」なのですが、その個人的な体験がだれにでも同じような感動を呼び起こし、主の御名をほめたたえるようにさせるとはかぎりません。 私たちはだれかに伝道するにあたっては、最優先に語るべきは聖書に根差した真理です。自分の証しを語るのももちろん結構なのですが、それがみことばを関係がなかったり、関係が薄かったりするならば、それがどんなにドラマチックであったとしても、語るのは控えるべきでしょう。 私たち自身のことを考えてみましょう。私たちはさきほど、「イエスさまのみことばに驚く」ということを語りましたが、聖書のみことばをお読みすることは同時に「イエスさまの御業に驚く」ことでもあります。私たちの信仰生活は「驚き」の連続であるべきですが、さきほどの繰り返しのようになりますが、その「驚き」は何よりも、聖書をお読みするときに体験すべきです。イエスさまのみわざは、聖書をとおして体験するものです。実際の生活に奇跡が起こらないからと、私たちの信仰を働かせることをなおざりにしてはなりません。 しかし、こうも言えます。もし、聖書に書かれたイエスさまの御業に驚き、その御業がほんとうに行われたと信じるならば、私たちは今のこの生活のただ中にも、イエスさまがみわざを行なってくださると信じ、みわざを行なってくださいと祈り求めるべきではないでしょうか? これは、ご利益信仰ではありません。たとえば、家族や知り合いに病気の人がいるとして、その人の病気をいやしてくださいと祈ることは、イエスさまもそのお弟子たちをとおしても癒やしの御業が行われたことがこれでもかと聖書に登場する以上、祈っていいこと、いや、祈るべきことです。また、経済的に困っている人や団体のために、お金を与えてくださいと祈ることも、実際聖書を読むと、貧しいやもめの経済的な必要が満たされたという記録がある以上、みこころにかなっていることですから、祈るべきであり、祈らなければならないのです。 しかし、みことばの最大の成就は何でしょうか? 十字架と復活です。人はイエスさまの十字架によって罪と死から贖われ、復活によって永遠に罪と死に勝利します。この、復活して生きておられるイエスさまがともにおられることこそ、みことばの証しする最大の奇跡、証拠です。この、創造の初めから聖書において証しされてきた「論」がイエスさまの十字架と復活をもってそのとおりになったという「証拠」、それを信じ受け入れることで、人は救われ、永遠のいのちが与えられ、天の御国に入れられます。私たちが宣べ伝えるべき「証拠」があるとすれば、イエスさまのこの「十字架と復活」をおいてほかにありません。 今日のみことばを振り返りつつ、祈りましょう。 ①私は、イエスさまのみことばに驚いていただろうか? みことばに対してそれほど驚かなくなっているほど、霊的な感覚がこの世のものに覆われてしまってはいなかっただろうか? その程度の飢え渇きしか覚えていなかったから、みことばを読むこともいい加減になってはいなかっただろうか? 主よ! 悔い改めます。みことばに対する飢え渇きをください。そのように願いますか? ②私は、いつの間にか普段ドラマチックな体験をしていなかった分、聖書に書かれたイエスさまの御業が充分に信じられないでいなかっただろうか? それゆえ、みことばがそのとおりになると信じて、信仰をもって祈ることをしないで済ましていなかっただろうか? 主よ! 私が祈らなかったことを悔い改めます。悔い改めて、心に浮かぶこと、主の奇跡を必要としていることを覚えて、切に祈ります。特に、私の愛するあの人が、イエスさまの十字架と復活を信じ、イエスさまとともに歩む生き方をすることができますように。