「有終の美に向かって」
聖書箇所;テモテへの手紙第二4:6~8/メッセージ題目;「有終の美に向かって」/ 目標を定めた競走、目標の定まった拳闘……先週私たちは、「ぶれない生き方」というものについてともに考えました。私たちが神さまにあって「ぶれない生き方」をするために、神さまが私たちに与えてくださっている「召命」は何だろうか、「賜物」は何だろうか、「志」は何だろうか……私たちは祈りのうちに考えました。そしてその3つ、召命・賜物・志が重なるところ、それに集中することで、ぶれない生き方ができるということをともに学びました。 さて、それではですが、その「ぶれない生き方」をしていくということを、私たちはどのようにイメージしていますでしょうか? 元気な精神と強い肉体で、いっしょうけんめいこなしているというイメージでしょうか? しかし、私たちはそのように生きていながらも、いずれは終わりというものを迎えます。その「終わり」をこそ、私たちはしくじらずに迎えたいものです。 アメリカのある神学校の先生がおっしゃっていたことだそうですが、主の働き人の中でよい終わりを迎える人というのは、3人に1人だそうです。これは、その講義を聴いていらっしゃった方が教えてくださったことです。その教授は、講壇から降りて学生たちの間を回りながら、順番に学生たちの頭に手を置いて、そのたびにこうおっしゃったそうです。「ダメ、ダメ、よし。ダメ、ダメ、よし。」なお、この話をしてくださった先生は、「ダメ」のほうだったそうです。 多くの働き人が、主のもとに召されるまでに牧会の働きを全うできないのだそうです。挫折してしまう。しかしこれは、主の召命に生きること、主の賜物を活かして生きること、主から与えられたやる気に満ちて生きることに挫折したともいえるわけで、そういう方は敗北感たっぷりに生きていないか、心配になります。事程左様に、召命・賜物・志をはっきりさせて生きることは必須なわけです。 ただし、これがそれこそ「空を打つ拳闘」「目標の定まらない走り方」にならないために、私たちはどこに向かって、走っていくようにして生きるものなのでしょうか? 以下、3つのみことばから学びます。 まず、ヘブル人への手紙12章1節から3節、「イエスさまから目を離さないで生きる」ことです。お読みします。 クリスチャンとはどのような人でしょうか? 雲のように多くの証人に取り囲まれている人です。旧新約聖書を読むと、信仰の先達がいかに神とともにあゆんだか、その記録に満ちていて、私たちはこれをお読みすることによって、自分と同じような平凡な人がこうして神とともに歩む祝福を受けたという事実に、励ましを受けます。 しかし、そのように雲のごとく自分を取り巻く証人の証しにふれるには、聖書のみことばをお読みすることが必要になります。ただ、このヘブル人への手紙の時代には、信徒各自が聖書を持っていたわけではありません。信徒の群れという共同体の中で分かち合われるみことばによって、信仰の先達のその歩みにふれていたわけです。 現代はその時代を考えると、各自に聖書が行きわたっていて、その点ではとても素晴らしい時代です。好きな時にいつでもみことばを読むことができます。スマートフォンを使ってでさえ、みことばが読めます。究極の携帯です。 これだけみことば全体がそばにいつもあると、それこそ、各自を雲のように主の証人が取り囲むような時代……もしかしたら、ヘブル人への手紙の筆者は予見していたのかもしれませんが、少なくともヘブル人への手紙が書かれた時代には、想像もつかなかった事態が、いま私たちの目の前に展開しています。私たちは主の証人たちの、すぐそばにいさせてもらっています。 さて、その証人は、どのようにして主とともに歩んだのでしょうか? 忍耐をもって歩みました。私たちがみことばから学ぶことは、彼らをとおして主が奇跡のわざを行われたことを、まるで彼らのすごさのように勘違いして、彼らは特別で自分とは関係ない、と思うことでは決してありません。私たちはむしろ、そんな彼らも大変な忍耐の中にいたこと、それは自分もまた体験させられていることであると受け取り、今日体験している苦しいことを、主からの訓練として耐え忍ぶ信仰を育てていただくことが必要です。 しかし、彼らはなぜ耐え忍ぶことができたのでしょうか? 2節のみことばです。……そう、それは、信仰というものの源であり、信仰というもののゴールである、イエスさまから目を離さなかったからです。私たちはイエスさまの十字架から目を離さないことによって、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、人生の競走を走りおおせることができます。 3節のみことばです。まず、イエスさまが忍耐されたのでした。イエスさまが忍耐されたゆえに、代々の聖徒たちは忍耐をすることができ、それゆえに私たちも忍耐するのです。私たちの心は元気を失っていないでしょうか? 疲れ果てていないでしょうか? イエスさまを見上げることです。 私たちが疲れてしまうのはなぜでしょうか? イエスさまが見えなくなっているからです。私たちはイエスさまのことを見上げるには、あまりにも忙しい環境に置かれています。次から次へと仕事が入ってきて、息をつく暇さえありません。でも、そんなときに、心のどこかに留めておいていただければ感謝なのですが、初代教会の使徒たちが祈りとみことばに専念することでその職務を全うしたように、私もみなさまに必要なみことばを備え、みなさまのためにお祈りしています。 特にお祈りすることは、みなさまがとてもお忙しい中にあったり、その忙しさから解放されてご自宅でしばし憩いのひとときをお持ちになったりしているとき、イエスさまから目を離さないでゆかれるように、ということです。私たちはあまりにも、この世のことに忙殺されて、結果的にイエスさまから目を離してしまうようなことの多いものです。 しかし、イエスさまはそのような私たちのことを、特別に憐れんでくださっています。世に対してよそ見してしまうような私たちのことを、イエスさまにその目を釘づけにするようにしてくださいます。 とはいいましても、私たちにもし、食べて生きていく上での時間以上に時間が残されているならば、その時間は何としてでも、イエスさまに目を留める時間に最優先で用いていただきたいのです。もちろん、じっくり時間を取るのがベストですが、たとえじっくり時間を取れなくても、一日の初穂の時間である、朝の時間を聖別して、イエスさまとの交わりの時間に充てることはできませんでしょうか? アーサー・ホーランド先生の本のタイトルではありませんが、「1ミリだけ難しく生きよう!」。ちょっとの努力で、イエスさまに少しでも目を留めてみましょう。いえ、イエスさまとの時間にこそ私たちが生き返る道があるならば、少しでもイエスさまのもとに行けるよう、私たちは積極的に取り組むことができないでしょうか? ともあれ、イエスさまから目を離さない生き方を、聖書のあらゆる聖徒から学び、私たちも実践する者となりますように、主の御名によってお祈りいたします。 2番目のみことば、それは、ピリピ人への手紙3章12節から14節です。 もちろん私たちは、イエスさまを信じる信仰によって、すでに神さまに救っていただきました。そこには何の努力もいりません。しかしだからといって、私たちはこのような救いを与えてくださった主と、無関係に生きるわけにはまいりません。このような素晴らしい救いを与えてくださる主と、私たちは全身全霊でお交わりし、このお方を人々に伝えるのです。 パウロは言っています。「私はすでに得たのではない」、「私はすでに完全にされているのでもない」、「私はすでに捕らえたなどと考えてはいない」。 考えてみればパウロは、ダマスコ途上でイエスさまに出会ったその瞬間から、イエスさまの福音を異邦人に宣べ伝えるという召命をすでにいただいていました。ただ、ダマスコ途上で救っていただいたから、その救いで充分、となっていたわけではなかったのです。パウロは、使命を全うしてこそ、この世で生きる意味がありました。でも、間違えてはいけません。パウロは「救っていただくために」使徒として働いたのではありません。「救っていただいたから」使徒として働いたのです。 この箇所をよく読みましょう。パウロは確かに、この救いを完全に自分のものとするように「捕らえる」ことに専念していると告白しています。 しかし「捕らえる」ようにしているのは、なぜであるか、それは、イエスさまが自分のことを「捕らえる」ように「捕らえて」くださっているからだ、というのです。 つまり、救いを「捕らえる」ということは、実は「捕らえるようにしてくださっている」、「捕らえさせてくださっている」ということです。救いの主体はパウロにはありません。イエスさまにあります。同じことで、私たちは救いの完成を目指して努力しますが、実際は、そう努力できるように、イエスさまが私たちのことをがっちりと捕らえていてくださるのです。 目標はわたしだよ、わたしがそばにいるから、あなたはわたしの備えたこの道を、力いっぱい走りなさい……イエスさまはいつもそばにいてくださり、私たちのことを励ましてくださっています。 14節をご覧ください。ここにも「賞」が出てきます。その「賞」とは何でしょうか?「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださる」、これこそが「賞」です。私たちはイエスさまを信じれば天国に行けます。何かを差し出したから天国に行ける、というものではないことは、忘れずに押さえておく必要があります。しかし、日々主と交わり、天国に行くための備えを日々していくならば、いざ天国に行ける日のその喜びは計り知れぬほど大きくなります。私たちの人生は、天国に行くその日に完成するのです。そこから脱落しないためにも、いえ、消極的なことを言ってはいけません、天国に行ける喜びが日々増し加わるためにも、私たちは日々、主とともに歩む必要があります。 私たちは、救われているからもう充分、と考えはしないでしょう。この救いを完成させていただくために、召命に生き、召命に生きるうえでの賜物を見出し、賜物を活用するうえでの志を新たにしたいと思いませんでしょうか? 先週取り組んだ、ぶれない生き方をするための人生の3つの要素は、これからもはっきりさせてまいりたいものです。人生を神のみこころを顕すということにおいてぶれずに生きるということは、人生の完成に向けて歩みつづけるということです。 私たちはやがて、天の御国で再会します。それは、完成したお互いの人生の姿をお互いが見て、ともに神さまをほめたたえるということを意味します。その日に向けて、主の御前で恥ずかしくなく生きる私たちになりますように、主の御名によってお祈りいたします。 最後に、テモテへの手紙第二4章6節から8節のみことばをお読みします。 これは、パウロの書いた手紙類の中で、聖書に採録されている最後の手紙の、締めくくりの部分のことばです。そう考えると、これはパウロの遺言ともいえ、また、使徒として生き抜いた人生の総括のことばともいえます。こうなると、あまり解説を加えたりするのは、野暮というものかもしれません。 私たちは言えるでしょうか?「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」カッコイイ、とか言っている場合ではありません。このことばはクリスチャンとして生きる以上、人生の終わりを迎えるときには、すべからく口にすべきことばです。 とはいっても、パウロは人生をこれで終わりにしたわけではありません。13節をご覧ください。外套は、寒さをしのぐために必要なものでしょう。しかし、それにつづく「羊皮紙のもの」は何でしょうか。テモテにはそれが何であるか、たちどころに分かったはずです。いずれにせよパウロは、牢獄の中にいて外に出られないような人生、しかもいよいよ終わりを意識するような状況の中にあって、それでもなお、勉強を続けています。成長することを心がけていたのです。 この姿から私たちは何を学べるでしょうか。私たちの人生は、主が召されるその瞬間まで、終わりというものはない、ということです。パウロはこの、臨終の告白をしてもなお、成長するために勉強する意欲にあふれていました。私たちも成長するのです。よく、哺乳類の成長曲線、それはこのように伸びて、最後は緩やかに下っていく、それは人間も同じと思いますでしょうか? いえ、そんなの嘘っぱちです。 もちろん私たちは、時に落ち込みます。しかし、それで終わりなのではありません。私たちはときに落ち込んでも、また盛り返し、さらに成長します。成長しつづけて、完成する、これが私たちの人生なのです。 想像しましょう、イエスさまが義の冠を授けてくださるその瞬間を。その日に向けて、私たちが恥じることなく歩むために、今日、何ができるでしょうか? 今年……早くも5か月が経とうとしていますが……今年、何ができるでしょうか? ヤコブの手紙にあるとおり、主のみこころなら私たちは生きていて、このことを、またはあのことをしよう、それが私たちの生き方です。神さまに許されている中、完成に向けて、有終の美に向けて歩みます。その日を思い描き、今日の働きに種を蒔く私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りします。