「過去と未来を贖う『現在』」
聖書箇所;マルコの福音書1:40~45(p67)/メッセージ題目;「過去と未来を贖う『現在』」 3週連続となりますが、バプテスト教理問答書の第24問答を今週もお読みします。 問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。 答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。 本日のみことばは、ひとりの人がイエスさまに出会い、そのツァラアトをいやしていただくという場面を描いています。ツァラアト……それは重い皮膚病で、これにかかっている人は極めて重い苦しみをその身に受けなければなりませんでした。 まず、皮膚病そのものの苦しみです。肌が痛かったり痒かったりする、ただれていく、その苦しみはどれほどのものでしょうか。 社会的にも苦しめられます。隔離されるので、ただ人々の慈善にすがって生きるしかありません。 宗教的にも苦しめられます。旧約聖書のミリアムの箇所や、預言者エリシャの付き人で、ナアマン将軍に嘘をついて財物をせしめたゲハジの箇所などを読むと、ツァラアトは神のさばきの表れであり、そのような聖書的背景を知るユダヤの宗教共同体からは、ツァラアトの患者は神の呪いとさばきの表れと見なされ、忌み嫌われました。そうなるとやはり、人々の侮蔑の対象となります。また、人々にさわってももらえません。伝染するからです。共同体から外されながら生きることになります。 しかし、このツァラアトの患者もガリラヤに生まれ育っている以上、イスラエルの民、神の民として生きてきたわけです。神の民として生きる、それが本来の姿なはずなのに、ツァラアトという病を身に帯びているばかりに、神の民として生きることさえ許されない。彼の中にはどれほどの悲しみと飢え渇きがあったことでしょうか。 人が病を持ったり、障がいをもって生まれたりすることは、本来完全な神のかたちとしてつくられた人間が、アダムの罪によって堕落し、神との交わりが断絶した結果、人間の世界に罪がもたらされた結果といえます。このように体に不具合が生じるということは、それが顕著であればあるほど、人はそのように体の不自由な人を、ことさらに罪人扱いします。 しかし、ほんとうのところはどうでしょうか。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできない、と、みことばは語ります。神からの栄誉が受けられないほど罪に堕落し、罪に病んだ存在、それが人というものです。ツァラアトに冒された人だけがことさらに罪人なのではありません。 それでも、ツァラアトに冒されているということは、神さまの御目から見れば、神のかたちとして人間がきわめてふさわしくない状態に陥っていることなのは確かです。だからこそ、律法の書の中で、レビ記13章から14章にわたって、ツァラアトについて詳細に、多くの紙面を割いて、取り扱われているわけです。 この、皮膚病だけに目に見えやすい病であるツァラアトは、罪に堕落した人間の姿をわかりやすくあらわしたものと言えます。しかし、これは間違えてはいけませんが、人はだれでも、心とたましいがツァラアトに冒されているようなものです。その語ることば、取る態度は、どれほど神の栄光から遠い、罪人らしいことばづかいであり、また態度でしょうか。私たちはみな言わばツァラアトなのです。そんな罪人が、目に見える皮膚病患者だからと、ツァラアトに冒された人を差別するなど、もってのほかです。 私たちは罪に病んでいることを、どれほど自覚しているでしょうか? そこから救われたいと願っているでしょうか? もちろん私たちは、イエスさまの十字架を信じる信仰によって、これまで犯してきたすべての罪を赦していただいています。 しかし、それでも、私たちは罪に病んでいないでしょうか? 過去、ことばや行いで犯してしまった罪、今なおだれかのことを赦せない罪、だれかのことをさばいてしまっている罪が、今もなお、私たちの中にあって、その罪が雑草の根のように私たちの心の中にはびこって、私たちのことを苦しめ、病ませてはいないでしょうか? そんな私たちは、自分がまことの神のかたちに回復され、神の国を生きるにふさわしい者となるために、何をすべきでしょうか。そこで、現在です。ツァラアトの人は、イエスさまに出会って、きよくしていただきました。 イエスさまがガリラヤをめぐっておられるという知らせを、彼は知りました。彼は居ても立ってもいられなくなり、直ちにイエスさまのもとに馳せ参じました。そして、彼は何と言ったのでしょうか?「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」 このことばには、いろいろな意味が込められています。まず、イエスさまはみこころにしたがって、全能者としてのわざを行われる神の子であるという告白です。そして、イエスさまは、ツァラアトという、神のかたちとしてふさわしくない姿からいやし、きよめてくださるお方だという告白です。さらに、そのようなみわざを行われるのは、イエスさまのみこころひとつであるという、主のご主権もともに告白し、本来自分は当然のようにその癒やしのみわざを受ける資格がないことも告白しています。彼の信仰告白は完璧でした。 イエスさまはそれに対し、何をなさったのでしょうか? まず、深いあわれみの心をお示しになりました。重い皮膚病で苦しんできたことに対するあわれみであったでしょう。社会的にも宗教的にも共同体から仲間外れにされてしまっていたことに対するあわれみでもあったでしょう。そして、神の民の共同体に加われず、民とともに受け取るべき主の恵みを受けられないで今まで過ごしてきたことに対するあわれみでもあったでしょう。実にイエスさまは、あわれんでくださるお方です。 それだけではありません。イエスさまはツァラアトの彼に手を伸ばし、さわってくださいました。ツァラアトの人にさわることは、律法で戒められています。だれもさわることはできませんし、さわらないのがあたりまえです。しかし、そのようにだれにもさわってもらえないとは、どれほどの悲しみの中にいたことでしょうか。それなのにイエスさまは、彼にさわってくださったのでした。 イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか。「わたしの心だ。きよくなれ。」そのように完全な信仰告白をもってやってきた彼のことを癒し、回復させることは、「わたしの心」、イエスさまのみこころだったのでした。そして、彼のツァラアトは消えて、彼は癒されました。 あわれみ深いお方、人を癒されることがそのみこころでいらっしゃるお方、イエスさまと、きよめられたい、赦されたい、その切なる思いを持つ者との出会い……救いといやしとは、その出会いによって成り立ちます。イエスさまのもとに行くならば、そのあわれみのみこころによって、人は救っていただき、いやしていただけます。 そのような中で、イエスさまは癒された彼に対し、43節のように接していらっしゃいます。……イエスさまは厳しい、という印象をお持ちでしょうか? しかし、これには理由がありました。44節です。 イエスさまは癒し主でいらっしゃいますが、イエスさまのいちばんの本質は、人を罪から救ってくださる救い主であり、神の国の王です。そのように、神の国を宣べ伝えるにあたって、人々がわれもわれもと押し寄せて、いやしてもらおうとするならば、イエスさまは本来のお働き、神の国を宣べ伝えるお働きができなくなります。 しかし、イエスさまはまた同時に、彼が神の民として回復されることを願われました。イエスさまはモーセの律法に従って彼が振る舞うことを命じられました。イエスさまは、彼がどこまでもイスラエルの信仰共同体の一員として振る舞うことにより、神の民として公式的に回復されるように導かれたのでした。イエスさまはもちろん、いやしてもらってうれしい、という彼の気持ちがお分かりでしたが、それだからこそ、あえて厳しく、彼のほんとうにすべきことを命じられたのでした。 私たちも時に、喜びであれ悲しみであれ怒りであれ、感情的な高まりを体験することもあるでしょう。しかし、それはすべてとは言いませんが、往々にして、聖霊なる神さまが与えてくださる主のみこころに従った感情とイコールではない場合があります。聖霊なる神さまは教会を立て上げられるお方です。しかし、クリスチャンの中には「示された!」などと言って、教会と足並みをそろえないで勝手なことをして、教会を混乱に陥らせる人というのがいるものです。 これではいけません。私たちは、劇的な主の御業を体験して、興奮状態になるようなときであればあるほど、主は実際にどんなみこころを持っていらっしゃるか、落ち着いてみことばから受け取ることをしてまいりたいものです。 しかし、彼は結局どうしたでしょうか? イエスさまがあれほど厳しく戒められたにもかかわらず、言いふらして回ったのです。みことばに従順に従う行動をする前に、感情的になって、人々に伝えて回ったのです。 いくつかの注解書を読みましたが、このことに関しては意見が真っ二つに分かれています。ひとつは、それほどまでに喜びをもたらしたイエスさまの救いのみわざが素晴らしかった、彼は当然のことをした、という意見、もうひとつは、彼のしたことは神の国の拡大を妨げることだったから、やはりよくなかった、彼は間違ったことをした、という意見です。 それは、どちらも正しいでしょう。しかし、ここで私たちが考えなければならないことがあります。それは、彼のしたことは、イエスさまの厳しいみことばに対する「不従順」の罪を犯したことである、ということです。そんな、そう言うなんてかわいそう、と思いますでしょうか? しかし、不従順であることに変わりはなく、その結果、イエスさまは表立って神の国を宣べ伝えることができなくなっているわけですから、神の国の拡大という御業を妨げることにもつながったわけです。 もちろん、イエスさまのみわざが、彼をしてイエスさまの戒めを忘れさせ、みんなにふれて回らせてしまうほどにすばらしいものなのは疑いのないことで、イエスさまが彼に対してみわざを行われたことそのものには何の問題もありませんでした。彼がイエスさまの救いのみわざを、感情的にしか受け取ることをせず、それに対する不従順の反応をしてしまったことが問題だったのでした。 しかし、それなら、イエスさまは彼が、そのような不従順の行動に出てしまうことをご存知の上で、あえて彼のツァラアトをお癒しになり、しかもその上で、彼に厳しい戒めのおことばをお語りになったのでしょうか? そのとおりです。イエスさまは、彼がこれまでの生活でどれほど苦しんできたか、よくご存じだったからこそ、彼をあわれまれたのでした。そして、彼をお癒しになろうというおこころをお示しになったのでした。その結果、彼がうれしさのあまり、イエスさまによる神の国の宣教を妨害することになろうとも、お赦しになっての上で、「わたしの心」を示されたのでした。 救われたばかりの彼は、いきなり主の弟子として振る舞うには、あまりにも整えられていませんでした。それゆえに感情が先走って、不従順の罪、みことばを守り行わない罪を犯してしまうものでした。しかし、そういう人とわかっていたら、イエスさまは彼のことをその信仰告白にしたがって、お癒しにならなかったのでしょうか? 彼の神となられることを拒否されたのでしょうか? そうではありません。彼が未来にそのような不従順の歩み、神の国の拡大を妨げる歩みをするとお分かりになってもなお、イエスさまは彼にさわられたのでした。彼が未来に罪を犯そうと、彼の神となってくださったのでした。 イエスさまのとの出会いは、病んで神のかたちを失った過去をきよめるだけではありません。未来の罪をもきよめてくださいます。私たちは、自分の過去の病がいやされているように、自分の過去の罪もまた赦していただいている者です。同じように、私たちは未来の罪をも、すでに赦していただいています。 このことは、主の晩さんの席上で、ペテロが体験していることです。イエスさまは、ペテロがご自身を裏切ることを予告されたうえで、なお、ペテロがのちにはイエスさまについて行くこともまた予告されました。これは、ペテロが未来に犯す罪、人々の前でイエスさまを知らないと言ってしまう罪をお赦しになった、ということです。 本来、人々の前でイエスさまを知らないという者は、イエスさまもまた、御父の前でその者を知らないとおっしゃるほどの大きな罪です。赦されざる罪です。だからこそペテロは、そんな罪は決して犯しませんと言い張ったのですが、結局はその罪を犯してしまいました。それなのに、イエスさまはその罪をすでに赦してくださっていたのでした。 全ての罪は、赦されないほどの罪です。その罪のゆえに、私たちは父なる神さまと断絶させられても、一切文句は言えません。私たちはそのような罪を未来に犯す可能性が、ゼロではありません。いえ、ゼロではないどころか、私たちはこの地上を生きる間、どうしても罪を犯す存在です。しかしイエスさまは、その未来の罪に至るまでも、私たちのことをすでに、ご自身の十字架によってすでに赦してくださっているのです。 とはいっても、私たちは感情が先走って、主への不従順の罪を犯すようでいてはなりません。このツァラアトがいやされた彼のことを弁護することばはいくらでも出てくるでしょう。うれしかったんだから! みわざが素晴らしかったんだから! 人々にイエスさまを証ししたかったんだから! しかしそれでも、彼はまず、イエスさまのお語りになった戒めとご命令に聞き従うべきでした。 同じことは私たちにも言えます。私たちが感情に流されて、主のみこころと関係のないことを行うことで、主への不従順の罪を犯してしまうことのないように、私たちはまず、何かの行動を起こす前に、みことばが何と言っているかをつねに聴く必要があります。毎朝ディボーションを行うのは、そのように、みこころに聴き従うことにより、少しでも感情に流されての不従順の罪を犯さないようにするためです。 それでも私たちが罪を犯してしまったとしても……それであきらめたりしないでください。イエスさまがその罪に至るまで、私たちがイエスさまを救い主と受け入れた瞬間から、すでに赦してくださっていることを、信じ受け入れてください。 本日のメッセージのタイトルを「過去と未来を贖う『現在』」と名づけたその意味をおわかりでしょうか?「現在」とはいつでも、イエスさまの十字架によってイエスさまとの関係を結んでいる「現在」です。イエスさまは過去の病んだ私たちを十字架によって贖われました。イエスさまは未来の罪に病むであろう私たちを十字架によって贖われました。しかし、十字架は過去のもの、未来のものである以上に、今ここに実現している現実、現在のものです。 お祈りしましょう。むかしから引きずってきて、今の自分を病ませている「過去」はありませんか? 私たちを不安にさせて、今の自分を病ませている「未来」はありませんか? 聖霊さまに心を探っていただきましょう。示される罪を告白しましょう。 しかし、この、イエスさまが罪深い「私」、ツァラアトに冒されているような「私」にさわってくださっている、その御手を今ここに感じ、過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦され、きよめられ、いやされているということを、今ここに実感しましょう。