「天上の結婚式に向かって」

聖書朗読;マルコの福音書2:18~22/メッセージ題目;「天上の結婚式に向かって」 今日の本文は、先週学んだ「レビのパーティとそれに対するパリサイ人の反応、そしてそれに対するイエスさまのお答え」に続く本文である。この本文の続き方は、並行箇所であるマルコの福音書、マタイの福音書、ルカの福音書で共通していて、したがって、このパーティの席上におけるパリサイ人とイエスさまの問答と、ひとつづきになっている以上、それにつづく断食に関する問答は、レビ(マタイ)のパーティの席上で、続けて行われた可能性がある。 ここでイエスさまは3つのたとえを話されたが、そのお話が、レビのパーティの席上でなされたとすると、この中で最初に話された、「花婿に付き添う友人は断食できない」という話に包括されよう。服と継ぎきれのたとえ、ぶどう酒と皮袋のたとえが、花婿に友人が付き添う結婚式の話と関連を持っているわけである。 レビのお別れパーティは、結婚式というと唐突な印象を受けるだろうか。しかし、人はイエスさまを信じ受け入れたならば、教会のひと枝となり、教会は終わりの日に花嫁として、花婿なるイエスさまと永遠に結ばれる。レビは単にお別れパーティをしたのではない。自分はキリストのからだのひと枝として、イエスさまと永遠に結ばれることを、このパーティにおいて宣言したのである。よってこのパーティは、結婚披露宴の性質を帯びていた。 その上でイエスさまの一番目のたとえを見てみよう。まず、ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは断食をすることを常としていたが、断食もしないで飲み食いを楽しむイエスさまは、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と人々に陰口をたたかれるお方であった(マタイ11:19)。しかし、イエスさまは何と言われようとも、このような「罪人」たちを受け入れるという「行い」をもって、みことばの示す知恵、愛の正しさを証明された。 その愛という知恵の正しさを証明するのは、イエスさまにつき従った人々である。彼らはイエスさまが振る舞われるように、自分たちも振る舞う。この人たちのことを、イエスさまはここで「花婿に付き添う友人」と表現していらっしゃる。彼らは晴れ着を着て、新しいぶどう酒に酔うのである。 しかし、聖徒が断食をする場合があるならば、それはいつなのかということについても、イエスさまは語っていらっしゃる。それは「花婿が取り去られた時」であるというわけである。私たちは十字架を覚えるとき、イエスさまが私たちから取り去られる悲しみもまた思うものである。 だが、その悲しみは、私たちのためというより、むしろ、イエスさまが見えないで、依然として悲しみの中にある隣人を思ってのものであるべきだ。それが、「泣く者とともに泣く」ということ(ローマ12:15)。その人にとっては、イエスさまがともにおられることなどとても実感できず、悲しむしかない。まるで、復活のイエスさまがいま目の前におられるのに、悲しみのあまりイエスさまが見えなくなっていたマグダラのマリアのようである。 こういう人には、イエスさまがともにおられますよ、と言ったところで、何の慰めになるだろうか。ただ、一緒に泣くしかない。それは神さまのご命令である。妻は今、祖国韓国を覚えて、折に触れて断食する生活をしているが、それは近年いろいろ乱れている、韓国を思う主の悲しみにともにあずかることであろうと、そばで見ていて思う。 断食の祈りとは、そのような、人を思い、とても物を食べることもできないような悲しみ、苦しみを実感するところから生まれてくるものであるべきだ。間違っても、宗教的聖さを求め、何やら霊的ステージが上がったような気分になるために肉体をいじめ抜くことが断食だなどと思ってはならない。それは自己満足というものであり、パリサイ人の断食と同じである。 本文に戻ると、イエスさまは服のたとえを語っておられる。これは、結婚式の晴れ着をほうふつとさせる。この晴れ着は新しい。繕わなければとても着ていられないような、ぼろい服ではない。そんな服では結婚式にも出られなかろう。だが、旧来のやり方に固執するような人々は、そのやり方を脱ぎ捨てることはあくまでしないで、「これは新しい教えだ」と思うことの「いいとこどり」をするのである。十字架と復活、罪の赦し、これは新しい教えだが、それは受け入れておく一方で、自分がこれまで固執してきた宗教行為は決してやめることをしない。 このようなことをルカの福音書では、真新しい服から布切れを引き裂いて古い服に継ぎを当てる、と表現している。そんなことをすると、せっかくの真新しい服はだめになるし、継ぎを当てた古い服を洗濯したら、真新しい服から取った布切れは縮み、それでもって古い服は破れてしまう。そういうわけで、福音という「新しい教え」は、古い服を脱ぎ捨てることをしないまま、いいとこどりするようなことをしてはいけないのである。 結婚式の文脈でこのことをイエスさまが語っておられることに注目したい。あなたはぼろい服を「これは晴れ着だ」と言い張って、結婚式に着ていくだろうか? いや、晴れ着というものは、パーティを主催した側から渡されるものであり、その結婚式を主催したのが王さまならば、下賜品ということになる。それを着ないで宴席に連なろうとするのは、王に対する侮辱である(マタイ22:2,8~13)。 王がうるさいと思うなら、ならば、と、王の下賜品の晴れ着を引き裂き、自分の服に継ぎを当てるだろうか? 表面的に取り繕うことしかしない、形だけの信仰生活も、これと同じではないだろうか? 神との交わりのない、形だけの教会生活、それは、せっかくイエスさまが来たらせてくださった新しい時代には合わない。 もうひとつ、ぶどう酒についても見てみよう。花婿に付き添う友人が、結婚パーティで花婿の出したものを飲み食いしないならば、彼は友達ではない。ちゃんと飲み食いし、気持ちよくなることが、招いてくれた花婿に対する礼儀である。 イエスさまが最初に行われた奇蹟は、水をぶどう酒、それも最上のぶどう酒に変えられるというものだった。そのみわざを行われたのは、ほかならぬ、イエスさまの招かれた結婚式の場でだった。このことからわかることは、イエスさまは結婚というものを大切にされ、その席上でぶどう酒により楽しむことを大いに奨めていらっしゃる、ということである。しかし、私たちはこの、イエスさまが奨めてくださるぶどう酒というものに、みことばをとおして深い意味を見出すものである。 来週になると、私たちは主の晩さんのグラスを傾ける。それは、主ご自身が守り行えと命じたもので、私たちはこのぶどう汁を口に含むとき、イエスさまの十字架と復活を覚えるものである。これは十字架の悲しみに終わらず、復活と臨在の喜びに至るものである。これは言ってみれば、御国にて花婿なるキリストと花嫁なる教会が結ばれる結婚式の、いわば予行演習である。予行演習だからといって重要ではないわけではない。予行演習をしっかりするならしただけ、天の御国での実際の結婚式の感激は大きい。 毎回うたっているとおりである。「懐かしくも見失せし主は、まもなく再び来たりたまわん。そのときまで十字架を負わん、救いの恵みを喜びつつ。」 この、十字架と復活というまったく新しい教えは、力がある。発酵しつづけるぶどう酒のようである。これはよく伸びる新しい皮袋に入れないと、もたない。古くてぼろい皮袋に入れたらそのぶどう酒の発酵する力で、皮袋は破け、ぶどう酒もだめになる。十字架と復活という福音、イエスさまの教えというまったく新しいものを受け入れるには、心の一新によって自分を変えていただかなければならない(ローマ12:2)。これは一生ものの取り組みである。うかうかしていると私たちは、あっという間に古い皮袋になってしまう。毎週の礼拝と毎日の聖書通読でイエスさまの教えに絶えず触れることは、新しい皮袋をいただくことである。これをしていないと、イエスさまの福音を受け入れることに耐えられなくなる。 ところで、並行箇所のルカの福音書5章39節に、「古いぶどう酒」のたとえが出てくる。もともと慣れ親しんだものがいい、新しいものなんて必要ない、と言ったら、その人は何も、新しい皮袋になる必要はない。しかし、そういう人は成長しない。成長するうえでの痛みは伴わないかもしれないが、成長することに伴う、主に用いられる喜びは味わえなくなってしまう。 私たち教会はイエスさまの花嫁として、終わりの日にともに御前に立つ。それまでの私たちの人生は、ともに取り組む花嫁修業である。美しい花嫁となるために、日々みことばに従い、愛を実践しつつ、新しい服を着て、新しい皮袋にしていただこう。 ❤祈りましょう。「主よ、私にとって      は困難なことですが、それは同時に、この困難な取り組みをとおしてキリストの似姿に変えられる、花嫁修業です。このことに取り組む力を私にください。」

「罪に病む者は癒される」

聖書本文;マルコの福音書2:13~17/メッセージ題目;「罪に病む者は癒される」 今日の箇所には、パーティが出てくる。 私にとって忘れられないパーティ、それは、2008年9月15日の祝日に、当時働いていた東京の韓国人教会で行なった、「結婚記念パーティ」である。私はそれを、たんなる自分たちの結婚のお祝いにしたくなかった。未信者の親戚や友人が参加するからだった。そのため、パーティは第一部と第二部に分け、第二部を立食パーティにする一方で、第一部は礼拝形式のセレモニーのようにし、現在、愛知県で牧師をしている友人にメッセージをしてもらい、奥様に通訳をしていただいて、教会の韓国人信徒にもわかるようにした。そんなパーティの目的は、イエスさまを証しすることだった。 本日出てくるパーティも、イエスさまを証しするパーティだった。というより、主人公はイエスさまだったとさえ言える。このパーティの楽しい雰囲気に冷や水をぶっかけるような者がいたが、イエスさまはそれに対し、実に素晴らしいフォローをなさった。 先週学んだのは、中風の人の癒やしについてだった。イエスさまが罪を赦す救い主であることを、この中風の人を実際に癒やされることをとおして、主ははっきりと証しされた。その驚くべきことを目撃したガリラヤの人たちはどうしただろうか? 13節。イエスさまのおられるところについて行ったのである。イエスさまはそこで、みことばを教えられた。 ガリラヤ湖。そこはイエスさまがみことばを教えられただけにとどまらず、弟子に対して、ご自身が全能なる神さま、お従いすべきお方であることをお示しになった場所でもある。群衆はことばだけでイエスさまの語られる神の国を知ったのではない。湖の魚さえも支配される全知全能のお方、このお方が王である神の国を、圧倒的なしるしとともに彼らは体験したのだった。私たちにとって、みわざを体験する「場所」というものは大事である。そこに帰るたびに、神さまが実際に働かれたことを思い起こし、献身を新たにするからである。私たちはそこでみことばを新たに学ぶのである。 14節を見てみよう。このようにイエスさまの話題で持ちきりでも、レビは仕事をしなければならなかった。カペナウムという地はヘロデ・アンティパスの領土とピリポの領土の境目に当たる交通の要衝であり、それだけお金の行き来が盛んだった。取税人であった彼はそれだけ通行税を取り立てることができ、金持ちだった。もちろん、普段からも住民から税を取り立て、しかも好きなように増税して、ふところに入れていた。 しかし、金持ちという結果が伴おうとも、彼はユダヤ教の宗教共同体においては除け者となっていた。ユダヤ教の宗教共同体にいる者たちは、何が悲しくてローマに貢がなければならないだろうか。この取税人は同じ民族のくせをして、金を取り立てていい気になって。まさしく、ユダヤ教の宗教共同体から蛇蝎のごとく嫌われたのが、この取税人であった。 しかし、あえて彼らを「弁護」する試みをすれば、彼らはそうしないと生きていけなかった。あながち卑屈すぎたからとか、野心のかたまりだったからというものでもなかろう。あまりこういうことは言いたくないが、彼らの存在によりユダヤ教の支配する地域において行政上の秩序が保たれたのも事実ではある。実際彼らは、彼らの納めた税金により、ローマ帝国の庇護を受けていた。しかしそれは、ユダヤ教の価値観からすれば、我慢のならないことであり、やはり彼ら取税人は、必要悪とすら扱ってはもらえなかった。 そんな彼は、イエスさまのうわさを聞いてはいただろう。しかし、それだけでは接点のつくりようがない。うわさの主(ぬし)、ヒーローのことを私たちはみな知っていても、彼らにはとても近づきになれないもの、それと同じである。 だが驚いたことに、イエスさまはご自身のほうからレビにお近づきになった。「わたしについて来なさい。」この日から、彼は取税人であることをやめ、イエスさまの弟子となった。弟子とはどうやってなるものだろうか? 私の好きな落語の世界でいえば、この師匠のもとに弟子入りしたい! という強い動機づけがまず必要で、何度断られても弟子入りをお願いする。その結果、弟子入りを認められるわけだが、師匠は、自分から頼んで弟子になってもらったわけじゃない、というスタンスは崩さない。そういう意味で厳しいことを、弟子の側もよく理解している。 しかし、イエスさまの弟子になることというのは、イエスさまからお選びになってはじめて可能になることである(ヨハネ15:16)。イエスさまが弟子にしてくださるということは、あなたはわたしについていける、と、イエスさまが見込んでくださったということを意味している。私たちは恐れずについて行っていい。私たちはすばらしい弟子になれる。 15節。この食卓は単なる食卓ではない。取税人や罪人も大勢招かれた食卓である。罪人が具体的にどういう人を指すのかは書いていないが、はっきりしているのは、ユダヤ教の戒律を守っていない人、ということである。安息日を守らない、とか、きよめのしきたりを守らない、というのも、彼らの宗教的な教えに従えば、罪人という扱いになってしまう。しかし、たとえば羊飼いのように、安息日に羊を置いて礼拝に出かけることもできないような人は、どうしよう 人間的な宗教の戒律は、どこかではみ出す人をつくってしまうのである。しかし、この人たちは、自分が「はみ出している」ことを恥じていて、だからこそ、イエスさまをお招きした食卓にこうして受け入れていただいていることに、どれほど感謝していることだろうか。まさしく、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるのである。自分はだめだ、罪深い、と思うなら、行き先はただひとつ、イエスさまのところだ。「あたしは罪深いから、神さまに救われる資格なんかないよ」といってはいけない。むしろ逆だ。「あたしは罪深いから、神さまに救っていただくしかないよ」、こう言ってほしい。 しかし、このようなイエスさまの寛容さに、異議を唱えた者がいた。16節。それはパリサイ派の律法学者、宗教指導者であり、自他ともに認める聖書の専門家だった。弟子たちに言ったのが彼らの姑息なところで、イエスさまには正面切って言えなかった。弟子たちのようなイエスさまの共同体のコアメンバーにゆさぶりをかけ、イエスさまの信用を落とそうとしたわけである。 彼らとしては、こんな罪人どもと食卓をともにするのが救い主だなんて、許せなかった。しかし、彼らが「聖書」の基準と信じてきたものは、実を言うと、「聖書解釈」でしかなかった。その聖書解釈を金科玉条のように大事にしていたが、イエスさまの評価はどうだったか。 17節。イエスさまが用いられたこのことわざは当たり前のようだが、実に深いことばである。というのも、世界には自分が病気であることを謙遜に認めない者が多くいるからである。私のことを例に挙げると、私は6年ほど前からコンタクトレンズをやめ、眼鏡をかけている。信徒の方から、目がひどく充血していると聞き、眼科に行ってみたら、眼圧もとても高く、緑内障になりかかっているという。もうコンタクトレンズがつけられなくなった。しかし、コンタクトレンズのほうが眼鏡よりもカッコイイなどとうぬぼれて、眼科にも行かなかったらどうなるか。下手をすると失明する。事程左様に、自分が病んでいることを認め、それに見合った治療をしてもらうことは大事である。だがそのためには、うぬぼれを捨てなければならない。 そんなにもわたしを信じないで、わたしのすることにけちをつけるようなあなたは、律法を宗教的に守り行うことで神さまに認められようとしているね。しかし、わたしはそんなあなたのことなど招こうにも招けないよ。わたしが招くのは、自分が罪に病んでいると心底恥じながら認め、だからこそわたしに救ってほしいと心から願う者だ。 しかし、この願いは救われた時だけのものではない。一生続く願いであるべきだ。私の友人のゴスペルバンド「ジェニュイン・グレイス」に、こんな歌詞の曲がある。「あなたの力求めていたのに/いつの間にか小さな自分を誇っていた」そう、救われた感激はいつか薄れるほど、私たちは自己中心であり、自分の努力を誇りたがるものである。私たちはいとも簡単にパリサイ人になってしまう。聖書にあれだけパリサイ人の記述が多いのは、それが私たちのことを指しているからだと考えたことがあるだろうか? こんな罪人がイエスさまに招いていただいた、その感激を思い出そう。 私たちがもっとも思い出すべきものは何だろうか? ヨハネの黙示録2章、2節から5節の、エペソ教会への警告を読めばわかるとおり、思い出すべきは初めの愛、イエスさまの十字架の愛である。この愛に立ち帰りさえすれば、パリサイ人のように自分を誇り、人をさばくことはなくなる。逆に言えば自分を誇り、人をさばいているかぎり、その人はイエスさまの十字架がわかっていないのである。つねに十字架の愛、初めの愛に立ち帰り、このお方が私を弟子にしてくださったことに感謝しよう。

「罪赦される奇蹟」

聖書本文;マルコの福音書2:1~12/メッセージ題目;「罪赦される奇蹟」  1節と2節のみことば。カペナウムで大きなイエスさまのみわざを目撃し、イエスさまにすっかり夢中になってしまった人々……彼らはイエスさまに去られてしまって、さびしい思いをしていたかもしれない。それはもちろん、イエスさまには、カペナウムにかぎらず、ガリラヤ全域に神の国を宣べ伝えようというみこころがあったからで、彼らはそのようなイエスさまを引き止めておくことはできなかったからだが、なんとイエスさまがまた戻ってくるという。アンコール! 追加公演の知らせを聞いて喜ぶファンのようだったのではないだろうか。  彼らカペナウムの人たちの熱狂が、ほんものの知識に基づくものとなるためには、どうならなければならなかっただろうか? これは私たちにとっても無縁な問いかけではない。私たちは、何らかの奇蹟を見たことで得られる感情的な高まりを、神さまのご臨在そのものと勘違いしてしまうことがある。もしそう思ってしまうならば、私たちの感情的な高まりが冷めてしまうならば、もはや神さまに対する信仰さえも冷めてしまう、ということにならないだろうか?  カペナウムの人たちもそうなる危険を抱えていた。イエスさまが再びカペナウムに来られたのは、そのような彼らをフォローするためであったと言えよう。彼らは奇蹟を見ただけでとどまらず、みことばの教えをいただいて「学ぶ」必要があったのである。「学ぶ」、これが大事。 むかし神学生時代に奉仕していた教会の牧師先生がおっしゃっていたが、教会は「学校、それも、一生卒業のない学校」。当教会は伝統的に学校の教師が多かったから、学校で学ぶことの大切さを信徒はみな身にしみて知っている。教会に行かないでみことばを読むのは、学校に行かないで家庭学習で済ませるのと同じで、充分に学べない。やはりこの公の会堂にともに集まり、ともに学ぶことが大事である。  イエスさまは、人の家におられた。これは、かつて病気のいやしや悪霊追い出しのみわざを行われたシモン・ペテロの家の可能性が高い。イエスさまのおられるところには、人が群れなして集まってきた。ここでイエスさまはみことばを語られた。まさに「家の教会」。  そこへ、だれがやって来ただろうか? 3節のみことば。中風。全身がまひして寝たきりである。ただ死を待つしかない絶望的な状況。しかし彼は人々に愛されていた。彼の中風は、イエスさまにきっと治していただける! そう考えた人が彼の周りにいて、彼のことを何としてでもイエスさまのもとに連れて行きたいと思い、行動に移したことになる。 あるいはもしかすると、この中風の人は病の床で、カペナウムにて大きなみわざを行われたイエスさまのうわさを何らかの形で耳にし、「イエスさま……、イエスさま……」とうめいていたのかもしれない。それを聞いた周りの人たちが、「よし、わかった!」と、直ちに行動に移した。そういうことではないだろうか。並行箇所であるマタイの福音書によると、寝床のまま持ち上げて連れて行ったとある。よほどひどい病だったのだろう。  だが、彼らがいざその家に着いてみると、もう人がわんさか押し寄せていて、とても近づくことなどできない。どうしよう……彼らはあまりに奇抜な方法を思いついた。4節。  一応解説すると、この時代のこの地方の家は、壁や天井が土やわらでできたやわらかい材質だったので、屋根瓦をはがすような「工事」にはならなかった。それでも大変に骨が折れる作業にはちがいなく、寝床を吊り降ろせるだけの穴をあけたら、イエスさまも群衆も、壁土をたっぷり頭に浴びたことだろう。ここには書いていないが、群衆は絶対戸惑ったはずである。ただぽかんとしていただろうか。「俺たちはありがたい話を聞いていたんだ! 邪魔をするな!」という怒号が飛び交っただろうか。 だが、イエスさまは全能の神さまである。すぐに彼らの必要に即して、何とおっしゃったか。5節。なんと、イエスさまはお叱りにならなかったばかりか、彼らの、情熱、行動、協力の伴った信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃった。 先週のメッセージで、聖霊なる神さまは「厚かましいくらいに」執拗に求めるべきお方であると学んだ。この一週間、私たちはそのように、聖霊なる神さまを「厚かましく」求めただろうか?  本日の箇所は、まさに「厚かましく」イエスさまを求めた人々の記録である。考えてみてほしい。彼らはひとんちの屋根を破壊したのである。もし、これが仮に、イエスさまのお弟子さんであるシモン・ペテロの家だったとしても、住居を破壊したことに変わりはない。まさしく、目的のためなら手段を選ばない、それが彼ら。 だが、この箇所が教えているのは、ひとんちの屋根を壊して迷惑だ、というような話ではない。ひとりの人がイエスさまに救っていただく信仰を語っている。自分が動けなければ、人に動いてもらおうとする信仰の情熱と行動、それが協力を生むのである。  さて、イエスさまはまず、彼の病気をお癒しにならなかった。それは、彼にとって、というより、人にとって、いちばん解決しなければならない問題は、病気がいやされること以前に、罪が赦されることだからである。どんなに奇跡的に病気がいやされようと、そのたましいが罪赦され、救われなかったならば、その人には何の益になるだろうか。いっときの癒やしは体験できても、その行き先は永遠の滅びである。  イエスさまのもとに来る者は、何をいちばん必要としているか? イエスさまによって罪赦されることであるべきである。それ以外の単なるこの世での成功、お金持ちになること、健康になること、人から愛される人になること、そういうことも祝福と言わないわけではないが、イエスさまに第一に求めるべきはそういうことではない。救い、これこそがイエスさまに求めるべきことである。 この中風の男は、死を意識するような病の床で、どれほど「救い」ということを意識したことだろうか。このまま死んだら自分はどこに行くのか……もし天国に行けると信じていたら、彼はこんなしんどい思いをしてまで、イエスさまのところに連れて行ってほしがっただろうか。人は、死の向こうにある世界が天国であると信じていなかったならば、死というものはあまりにも怖い。だから、イエスさまに出会わなければならないのである。 考えてみてほしい。私たちはイエスさまに救っていただいて、天国に入れられている自分の姿しか想像がつかないだろうが、多くの人はそもそも、天国に入るとはどういうことか、天国にはどうしたら入れるのか、まったくわからないのである。そういう人がふとした拍子に「自分の死」というものを意識したら、その恐ろしさはどれほどのものだろうか。 だから私たちは、人々にイエスさまを伝えるのである。イエスさまだけがまことの救い主、罪を赦してくださる方であると。 しかし、宗教指導者たちには、イエスさまのこのおことばが受け入れられなかった。6節と7節。旧約聖書には、メシアの時代になると人々に癒やしの恵みが与えられることが語られているが、そもそも彼らには、この目の前におられるお方がメシアだとは信じられなかった。神を冒涜する食わせ物、こんな者はいなくなってしまえ、そう思ったことだろう。 しかし、イエスさまは彼らの心のうちを見抜かれた。8節と9節。これは、あっけにとられるお答えである。もし、「起きて歩け」と言って、そのとおりにならなかったら、それは詐欺師ということになる。しかし、この目にみえるわざは、イエスさまが癒し主であることを立証し、それゆえにイエスさまは神さま、すなわち、罪を赦し、人を救うお方だということを立証する。それが10節のみことばの意味である。 そして11節と12節。イエスさまはみことばどおりにみわざを成された。このことに彼ら群衆は「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と喝采したが、この「いまだかつて見たことがない」ことには、二重の意味がある。それは病の癒しと罪の赦しである。カペナウムの人々がもし、病のいやしだけを見て喝采したならば、彼らはほんとうの意味で神に栄光を帰していない。「罪が赦された」ことが現実のものとなった、目で見えた、このことに彼らが驚いたのなら、彼らの驚きは本物である。 私たちはこの「罪の赦し」のために一丸となって生きる共同体である。ひとりの人をイエスさまのもとに連れて行く。3節をもう一度見てほしい。一見すると、この中風の人を連れてきたのは4人だけのように見えるが、「人々」とあるので、実際はもっといたのかもしれない。倒れ伏している人がいればみんなで情熱をもって、協力して、救霊のために行動する、そのような共同体として成長しよう。 。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

「聖霊を求めよ」

聖書箇所;ルカの福音書11:5~13/メッセージ題目;「聖霊を求めよ」 本日は聖霊降臨節、聖霊なる神さまについてのメッセージをします。 この箇所でイエスさまは、ご自身の弟子と話していらっしゃる。弟子とはだれだろうか? イエスさまが友と呼んでくださった存在(ヨハネ15:13~15)。そんな「あなた」にとっての「友」は、イエスさま(三位一体の神さま)。 深夜の訪問客もあなたの友なら、その訪問客をもてなすために行く先もあなたの友のところである。三位一体の神さま(の象徴/友)をもてなすために、三位一体の神さま(の象徴/友)のもとに深夜訪れる、という図式が透けて見える。 イエスさまのこのお話は、神さまに求めるということを語っているのだから、パンの持ち主が神さまの象徴というのはおかしくない。では、その一方で、「神さまをもてなす」というのはどうだろうか? 一見するとおかしいような印象を受けるかもしれないが、創世記18章で、アブラハムが主なる神さまをもてなす場面が出てくるので、つじつまは合う。 その訪問客のことをどれほど思っているか、それが、ほとんど恥知らずのような厚かましい願いになる(原語:アナイデイア)。単なる友達ならばここまで願うだろうか? やはりこの訪問客は、「戸の外に立って叩く」イエスさまの象徴と考えてよかろう。イエスさまは客なのである(ルカ19:7、黙3:20)。 三つのパンをめぐって、「あなた」の存在は消えている。ただ「友」のために労しているだけ。三つのパンを食べるのはあなたではない。ただし、三つのパンをもって友を養えたという事実は残る。これが大事なのである。 あなたは、神さまに栄光を帰すために、神さまから力をいただく存在。その力をいただくためなら、深夜のしつこい願い、厚かましくも恥知らずの願いもいとわない。深夜だと思ったり、しつこいと思ったり、われながら恥ずかしいと思ったりするならば、やめるだろう。しかし、神に力をいただきたい思いはその申し訳なさにまさってこそである。 では、ここでイエスさまがおっしゃっている、パンにあたるものが「聖霊」なのはどういうことだろうか? そこで、父と子どものたとえを見てみよう。ここでたとえとして用いられているものは、すべて「食べ物」である。 父が子どもに与えるものは、パン、魚、卵。栄養たっぷりの食べ物である。間違っても、石や蛇やサソリのような、食べたらからだをおかしくする物は与えない。子どものからだを喜びとおいしさのうちに成長させる食べ物を父が与えるように、父なる神さまが私たちに与えてくださるのが、聖霊さまだというのである。 聖霊さまによって私たちはふさわしく成長する。聖霊とは「イエスは主」と告白させてくださる、救いに導く霊(ローマ10:9)。聖霊によらなければ「イエスは主」と言うことはできない。(Ⅰコリント12:3)「イエスは主」と言うのは、たんなることばだけの問題ではない。いかにことばで「イエスは主」と告白していても、行いがふさわしくなっていないならば、それは到底「告白している」とは言えない。 私たちは生活すべてをとおして、どんなときも、全身全霊で「イエスは主」と語れる境地にともに達したい。そうして神さまを喜ばせ、それによって永遠に神を喜びたい。それを可能にしてくださるのが、聖霊なる神さまである。聖霊は神から出て、私たちの救いの達成は聖霊なる神によってなり、救われた者は神に至り、神は永遠に栄光をお受けになる。 主にあって喜ぶこと、生きることは、主の願いであり、またご命令である。私たちが求めるべきは聖霊さまである。聖霊に満たされるならば御霊の実を結ぶ(ガラテヤ5:22~23)。しかし、御霊の実を結ぶ生き方が魅力的だから聖霊を求め、聖霊に満たされようとするのは本末転倒である。御霊に満たされるのは神のご命令である(エペソ5:18)。命令だから私たちは神さまに従順にお従いするため、聖霊を切に求めるのである。 真夜中に訪ねてくるお方がイエスさまで、このお方が求めておられることが、パンを召し上がること以上に、私たちが御霊に満たされることであるならば、私たちは必死に神さまに、御霊を求めるであろう。私たちが求めつづけ、捜しつづけ、門をたたきつづけるごとく、聖霊をくださるように神さまに求めるならば、神さまは必ず、私たちをみこころにかなう者へと変えてくださる。 求めよ、さらば与えられん、ということばは、なんでも努力すれば手に入れられるという意味では決してない。何を求めるかが大事である。聖霊、すなわち神さまご自身を求めることこそみこころだから、聞いていただけるのである。 ただし、聖霊に満たしてくださいというこのお祈りが聞いていただけない場合がある。それは、不信仰にも疑うから(ヤコブ1:6~8)、また、自分の肉を満足させようなどと言う、悪い動機で願うからである(ヤコブ4:3)。 さあ、私たちは御霊に満たしてくださいと祈ろう。まだまだ私たちは御霊に逆らう肉が生きていて、悲しいことに神さまのみこころを行いきれていない。「イエスは主」という告白も、所詮口ばかり。そのような私たちの罪を告白し、悔い改め、聖霊さまに導いていただくように祈ろう。生活のすべてで「イエスは主」と告白できる者になれるように、聖霊さまを求めよう。