聖書本文;マルコの福音書2:1~12/メッセージ題目;「罪赦される奇蹟」
1節と2節のみことば。カペナウムで大きなイエスさまのみわざを目撃し、イエスさまにすっかり夢中になってしまった人々……彼らはイエスさまに去られてしまって、さびしい思いをしていたかもしれない。それはもちろん、イエスさまには、カペナウムにかぎらず、ガリラヤ全域に神の国を宣べ伝えようというみこころがあったからで、彼らはそのようなイエスさまを引き止めておくことはできなかったからだが、なんとイエスさまがまた戻ってくるという。アンコール! 追加公演の知らせを聞いて喜ぶファンのようだったのではないだろうか。
彼らカペナウムの人たちの熱狂が、ほんものの知識に基づくものとなるためには、どうならなければならなかっただろうか? これは私たちにとっても無縁な問いかけではない。私たちは、何らかの奇蹟を見たことで得られる感情的な高まりを、神さまのご臨在そのものと勘違いしてしまうことがある。もしそう思ってしまうならば、私たちの感情的な高まりが冷めてしまうならば、もはや神さまに対する信仰さえも冷めてしまう、ということにならないだろうか?
カペナウムの人たちもそうなる危険を抱えていた。イエスさまが再びカペナウムに来られたのは、そのような彼らをフォローするためであったと言えよう。彼らは奇蹟を見ただけでとどまらず、みことばの教えをいただいて「学ぶ」必要があったのである。「学ぶ」、これが大事。
むかし神学生時代に奉仕していた教会の牧師先生がおっしゃっていたが、教会は「学校、それも、一生卒業のない学校」。当教会は伝統的に学校の教師が多かったから、学校で学ぶことの大切さを信徒はみな身にしみて知っている。教会に行かないでみことばを読むのは、学校に行かないで家庭学習で済ませるのと同じで、充分に学べない。やはりこの公の会堂にともに集まり、ともに学ぶことが大事である。
イエスさまは、人の家におられた。これは、かつて病気のいやしや悪霊追い出しのみわざを行われたシモン・ペテロの家の可能性が高い。イエスさまのおられるところには、人が群れなして集まってきた。ここでイエスさまはみことばを語られた。まさに「家の教会」。
そこへ、だれがやって来ただろうか? 3節のみことば。中風。全身がまひして寝たきりである。ただ死を待つしかない絶望的な状況。しかし彼は人々に愛されていた。彼の中風は、イエスさまにきっと治していただける! そう考えた人が彼の周りにいて、彼のことを何としてでもイエスさまのもとに連れて行きたいと思い、行動に移したことになる。
あるいはもしかすると、この中風の人は病の床で、カペナウムにて大きなみわざを行われたイエスさまのうわさを何らかの形で耳にし、「イエスさま……、イエスさま……」とうめいていたのかもしれない。それを聞いた周りの人たちが、「よし、わかった!」と、直ちに行動に移した。そういうことではないだろうか。並行箇所であるマタイの福音書によると、寝床のまま持ち上げて連れて行ったとある。よほどひどい病だったのだろう。
だが、彼らがいざその家に着いてみると、もう人がわんさか押し寄せていて、とても近づくことなどできない。どうしよう……彼らはあまりに奇抜な方法を思いついた。4節。
一応解説すると、この時代のこの地方の家は、壁や天井が土やわらでできたやわらかい材質だったので、屋根瓦をはがすような「工事」にはならなかった。それでも大変に骨が折れる作業にはちがいなく、寝床を吊り降ろせるだけの穴をあけたら、イエスさまも群衆も、壁土をたっぷり頭に浴びたことだろう。ここには書いていないが、群衆は絶対戸惑ったはずである。ただぽかんとしていただろうか。「俺たちはありがたい話を聞いていたんだ! 邪魔をするな!」という怒号が飛び交っただろうか。
だが、イエスさまは全能の神さまである。すぐに彼らの必要に即して、何とおっしゃったか。5節。なんと、イエスさまはお叱りにならなかったばかりか、彼らの、情熱、行動、協力の伴った信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃった。
先週のメッセージで、聖霊なる神さまは「厚かましいくらいに」執拗に求めるべきお方であると学んだ。この一週間、私たちはそのように、聖霊なる神さまを「厚かましく」求めただろうか?
本日の箇所は、まさに「厚かましく」イエスさまを求めた人々の記録である。考えてみてほしい。彼らはひとんちの屋根を破壊したのである。もし、これが仮に、イエスさまのお弟子さんであるシモン・ペテロの家だったとしても、住居を破壊したことに変わりはない。まさしく、目的のためなら手段を選ばない、それが彼ら。
だが、この箇所が教えているのは、ひとんちの屋根を壊して迷惑だ、というような話ではない。ひとりの人がイエスさまに救っていただく信仰を語っている。自分が動けなければ、人に動いてもらおうとする信仰の情熱と行動、それが協力を生むのである。
さて、イエスさまはまず、彼の病気をお癒しにならなかった。それは、彼にとって、というより、人にとって、いちばん解決しなければならない問題は、病気がいやされること以前に、罪が赦されることだからである。どんなに奇跡的に病気がいやされようと、そのたましいが罪赦され、救われなかったならば、その人には何の益になるだろうか。いっときの癒やしは体験できても、その行き先は永遠の滅びである。
イエスさまのもとに来る者は、何をいちばん必要としているか? イエスさまによって罪赦されることであるべきである。それ以外の単なるこの世での成功、お金持ちになること、健康になること、人から愛される人になること、そういうことも祝福と言わないわけではないが、イエスさまに第一に求めるべきはそういうことではない。救い、これこそがイエスさまに求めるべきことである。
この中風の男は、死を意識するような病の床で、どれほど「救い」ということを意識したことだろうか。このまま死んだら自分はどこに行くのか……もし天国に行けると信じていたら、彼はこんなしんどい思いをしてまで、イエスさまのところに連れて行ってほしがっただろうか。人は、死の向こうにある世界が天国であると信じていなかったならば、死というものはあまりにも怖い。だから、イエスさまに出会わなければならないのである。
考えてみてほしい。私たちはイエスさまに救っていただいて、天国に入れられている自分の姿しか想像がつかないだろうが、多くの人はそもそも、天国に入るとはどういうことか、天国にはどうしたら入れるのか、まったくわからないのである。そういう人がふとした拍子に「自分の死」というものを意識したら、その恐ろしさはどれほどのものだろうか。
だから私たちは、人々にイエスさまを伝えるのである。イエスさまだけがまことの救い主、罪を赦してくださる方であると。
しかし、宗教指導者たちには、イエスさまのこのおことばが受け入れられなかった。6節と7節。旧約聖書には、メシアの時代になると人々に癒やしの恵みが与えられることが語られているが、そもそも彼らには、この目の前におられるお方がメシアだとは信じられなかった。神を冒涜する食わせ物、こんな者はいなくなってしまえ、そう思ったことだろう。
しかし、イエスさまは彼らの心のうちを見抜かれた。8節と9節。これは、あっけにとられるお答えである。もし、「起きて歩け」と言って、そのとおりにならなかったら、それは詐欺師ということになる。しかし、この目にみえるわざは、イエスさまが癒し主であることを立証し、それゆえにイエスさまは神さま、すなわち、罪を赦し、人を救うお方だということを立証する。それが10節のみことばの意味である。
そして11節と12節。イエスさまはみことばどおりにみわざを成された。このことに彼ら群衆は「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と喝采したが、この「いまだかつて見たことがない」ことには、二重の意味がある。それは病の癒しと罪の赦しである。カペナウムの人々がもし、病のいやしだけを見て喝采したならば、彼らはほんとうの意味で神に栄光を帰していない。「罪が赦された」ことが現実のものとなった、目で見えた、このことに彼らが驚いたのなら、彼らの驚きは本物である。
私たちはこの「罪の赦し」のために一丸となって生きる共同体である。ひとりの人をイエスさまのもとに連れて行く。3節をもう一度見てほしい。一見すると、この中風の人を連れてきたのは4人だけのように見えるが、「人々」とあるので、実際はもっといたのかもしれない。倒れ伏している人がいればみんなで情熱をもって、協力して、救霊のために行動する、そのような共同体として成長しよう。
。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。