「安息日の意味」

聖書朗読;マルコの福音書2:23~28/メッセージ題目;「安息日の意味」  23節。これは泥棒ではない。やってよかったことである。それをしてもよいという根拠は、申命記23章25節にある。つまり、彼らのしていることは、時間的にせよ経済的にせよ、余裕がなくて、お弁当を腰に下げる備えもない者に対する救済のみこころを示される主のあわれみに、すがることであった。  主が定められたということは、おなかがすいたら遠慮なく取って食べなさい、ということであり、それをもし、畑の持ち主が拒むならば、その持ち主こそとがめられることになる。おなかがすいた神の民は、そうやっていのちをつなぎなさい、と解釈するならば、これは神の民としてこの地に生きることを命じられた私たちに対する、命令でさえある。  では、何がよくなかったのだろうか。「それを安息日にした!」ということ。確かに安息日には、仕事をしてはいけない。しかし、その「仕事」というものは拡大解釈されて、律法学者が「仕事」と決めたことなら、それはしてはいけないことになっていた。要するに、聖書そのものが大事なのではなく、聖書解釈が大事になっていたのである。  そのような律法解釈と運用は、本来ならば神の民を幸せにするためのものであったはずである。だがいつのまにか、律法(というよりその解釈)を守り行わないことを、ことさらに悪いこととみなし、人を縛るようになった。  その規則の中に人が生きるならば安全、というよりも安心である。先週学んだ「古いぶどう酒がよい」と言うような人は、まさにこの古い規則に安住する人であるが、そのような人が幅を利かせているかぎり、人は自由にはなれない。カナンに向かうために苦しい思いをするくらいならば、いっそエジプトの不自由ながらもまあ生活が保障されているほうがいい、となってしまう。しかしそれは、ほんとうの自由を知らない人の発言である。私たちも伝道をするとき、現状に安住したがる人を相手にするときがいちばん厄介である。  しかしイエスさまは、私たちのことを自由にしてくださる真理なるお方である。人を不自由にする言説に対しては、聖書の故事を引いて、神さまはいのちを保つために非常の措置を講じることをよしとしてくださった、と説いてくださる。  私たちはつい、「宗教」をしてしまう。韓国の教会ではよく言われていることで、日本ではあまり言われていなことかもしれないが、そういう場合は共同体の中に「宗教の霊」というものが働いている、と判断される。安息日には「仕事」をしない、というのは、「宗教」であって、主との生きた交わりはそこにはない。もし、その交わりがあるならば、そのようなことを言って人を不自由にさせる、ひもじい思いをさせてまともに動けなくしてしまう、ということは、けっしてあり得ない。  付け加えれば、イエスさまは、主の宮よりも大いなるわたしが、責任を取る、という態度でいらっしゃる。マタイ12:5~6を見ると、「宮よりも大いなるもの」とあるが、それはイエスさまのことである。イエスさまとともにいる弟子たちは、宮で働く祭司に等しい者、いや、それ以上の光栄を受けた者であるということである。民数記28:9~10を見ると、祭司は安息日に自分の仕事を堂々と果たしている。そのように、安息日に祭司がするべきことをしていないと、イスラエルの民は安息日を守れない。つまり、霊的命脈を保てないのである。  同じことで、イエスさまにつき従う弟子たちが、自分のいのちを保つ行動をしていないと、弟子の共同体は保てず、それはひいては、世界を祝福する宣教の働きは展開していかない、ということになる。彼らはいやしいから食べたのではなく、いのちをつなぐために食べた。ここで倒れるわけにはいかない。主に従順であるゆえに彼らは食べた。それをイエスさまはよく理解していらっしゃった。  27節。私たちも何かの行いをするとき、動機が問われる。自分の宗教的満足のゆえか、主の栄光を顕すべく用いられるためか。安息日というものは「守らなければならないから守る」のではない。それは「宗教」である。そうではなく、「守ると幸せだから守る」となると素晴らしい。そのようにして私たちは、主の喜びを実現するものとなる。  28節。イエスさまは、なぜご自身が安息日に働かれるかという理由を語っていらっしゃる。ヨハネの福音書5章17節。「わたしの父は今に至るまでも働いておられます。それでわたしも働いているのです。」ここにイエスさまは、安息日の主として働いていらっしゃる。安息日であろうとも、イエスさまは働きをやめられない。このお方とともに働くことは、安息日をけがさないという消極的な言い方をするのではなく、主の御業のお手伝いをするという、積極的な言い方をするべきではないだろうか?  私たちは「働かない」ということを金科玉条のように守ることで安息を得られるのではない。それはかえって窮屈であり、安息とは程遠い。イエスさまの与えられた安息とは、そのようなものではない。たとえ、律法学者の目には、安息日を犯す行動のように見えることでも、「働く」ことによって、キリスト者はほんとうの安息を得て、また、人を安息に導くのである。  私たちは安息日を守れないことをもし気に病んでいるとしたら、それは「宗教的な理由」であってはならない。「神が心配してくださる」そのみこころが、私たちが安息を守ることによって実現するため、つまり、神さまとのより深いつながりを持つためであることを心に留めよう。この主の日、安息の日に、主の宮よりも大いなるイエスさまがともにいてくださり、疲れた者、重荷を負った者である私たちを休ませてくださることに、感謝しよう(マタイ11:28)。