「主の弟子に召される意味」
聖書箇所;マルコの福音書3:13~19/メッセージ題目;「主の弟子に召される意味」 私が初めて出会ったクリスチャンの方、それは、母が英会話を習いに通っていた、埼玉の浦和の宣教師館に住んでいた、若い方々だった。世界のいろいろなところから集まっていた彼らのことを見て、私は中学生なりに、神さまにお従いするということは、このように、海を越えてでも引っ越すことさえする、という強烈な印象を持った。 主の弟子になるということは、そのように、主が命じられるところどこへでも行くことである。私もそのみこころにお従いして、ここまで来て、この7月で茨城に来て9年目になった。しかし、主の弟子になるということは、牧師や宣教師のような特定の献身者にかぎったことではない。だれにでも開かれている道である。私たちが手にしている聖書、これは、群衆のレベルでは理解できなかったイエスさまのたとえ話の解き明かしが、そのまま収録されていて、読めばちゃんとみこころを理解できるようになっていて、それはすなわち、みことばを読む者を神さまが主の弟子としてくださっているということである。 今日のメッセージは、特に14節と15節のみことばに集中したい。これは、イエスさまが弟子を、使徒として召された3つの理由を語るみことばである。順に見ていって、私たちが主の弟子として召されたことにはどのような意味があるか、学ぼう。 イエスさまが弟子を召されたのは、彼らをご自身のそばに置かれるためだった。イエスさまの弟子とはひとことで言って、イエスさまのそばに置いていただいている存在である。さて、この箇所は「彼らをご自分のそばに置くため」とあり、メジャーな日本語訳聖書はだいたい、このように、イエスさまが彼ら弟子たちをみそばに置かれた、と訳している。韓国語聖書もそうである。ところが英語の聖書になると、「they might be with Him」、「they should be with Him」と、主語が彼ら弟子たちになっている。「弟子たちがイエスさまとともにいるため」とも、「弟子たちがイエスさまのそばに置かれるため」とも読める。いずれにせよ、主語は弟子たちである。 これは何を意味するだろうか? これは、イエスさまが強制的に12人をご自身の弟子としてみそばに置かれたということではない。彼らが自主的にイエスさまのそばにいるように導かれた、ということである。自由な決断をもってついて行く人たち、それが十二弟子、十二使徒だったということである。それはヨハネの福音書6章の最後の部分を見てもわかることで、多くの弟子たちがイエスさまのみことばの難解さについていけず、もはやイエスさまにお従いすることをやめた一方で、十二弟子はイエスさまのそばにいるという選択をしたことからも明らかである。 ただし、もっと大きく考えると、一見すると彼らの判断と選択と決断でイエスさまについていったようであっても、彼らをお選びになったのはイエスさまである(ヨハネ15:16)。彼らの選択と決断さえも、全能なる神さま、イエスさま、聖霊さまのお導きの中にあった。だから、彼らはイエスさまについていったことを自分の責任で下した判断として自信を持っていいのと同時に、神さまが選んでくださったのだからその従順に確信を持っていい、ということである。 イエスさまのそばにいるということは、イエスさまから何もかも学ぶ、ということである。イエスさまの振る舞い、語られるおことば、それに四六時中触れているならば、弥が上にもイエスさまに似てきてしまう。イエスさまがみそばに彼らを置かれるということは、わたしを見なさい、わたしに似なさい、わたしの真似をしなさい、そうすればあなたがたは、キリストの似姿として御父に用いていただける、という、親心にも似たみこころが込められているゆえのお導きである。 イエスさまのそばにいる群れが12人、というのは、十二使徒に始まる新約の教会は旧約のイスラエルの十二部族に象徴される神の民である、という意味があり、また、12人という小さな共同体は、イエスさまが行き届いた訓練を行う上で理想的な人数である、ということであるともいえる。私がサラン教会で1999年に体験した弟子訓練の班は、牧師1人、社会人10人、神学生だった私1人と、合計12人だったが、彼らが主の弟子として大いに成長していく姿を、私は今も覚えている。12人が理想の人数と確信したものだった。 弟子たちはイエスさまからともに学び、ともに似ていくのと同時に、弟子どうしお互いから学ぶ。それは模範になったり、反面教師になったりの繰り返しだろう。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネはそれぞれ兄弟だが、共同体に入ってともに訓練されることによって、それまでに分からなかった彼らのよさ、また、弱点を知ることになり、よりいっそう、お互いのために祈るようになったことだろう。さらにこの4人はガリラヤ湖の仕事仲間でもあり、もともとあった絆がイエスさまとの関係をとおしてより強固になったり、人間的な怒りがからんで弱くなったり、といったことを繰り返したことだろう。 もっと極端なのが取税人出身のマタイと熱心党のシモン。熱心党とは実際に存在したユダヤの民族運動の一派であり、彼らはユダヤ教の中でも特に排他的で国粋主義的な性格を持っていた。彼らは神の力によるユダヤの政治的独立の名目で戦い、歴史家のヨセフォスによれば、紀元6年にローマによるユダヤの人口調査に反対して起こされた、ガリラヤ人ユダによる闘争がその運動の歴史的始まりであるが、人口調査はユダヤ人たちが宗主国ローマのカエサルに納税するために行われたものであることを考えると、熱心党の人間からしたら、取税人ほど受け入れられない存在はなかろう。 あまり政治の話を主日礼拝の場でしたくはないが、保守派と社会派、右派と左派の対立は、たいへんなものである。このような政治的見解の違い、というより対立が、教会の中に持ち込まれたら、キリストにあってひとつになるべき教会は瓦解してしまう。私たちが大事にすべきは、政治的信条や自らの神学的な立場以上に、イエスさまにあって一つとしていただいているどうしが、ともにイエスさまに導いていただくことである。熱心党にせよ取税人にせよ、一方は排他的、一方は裏切り者と、みこころにかなっていないが、イエスさまはそのような彼らの罪を取り扱われる。一方で、熱心党員の持つ熱心さや取税人の持つ抜け目のなさを、主は御国の拡大のために用いられる。立場のちがいではなく、イエスさまの弟子という同じ立場にしていただいていることこそ、弟子たちにとって大事なことである。 彼らはイエスさまのそばに置かれ、整えられたら何をするのだろうか? 宣教をする。イエスさまに遣わされてみことばを宣べ伝える。イエスさまの弟子たち、イエスさまによってこの世に遣わされた者たちがすべきことは、みことばを宣べ伝えることである。 みことばを宣べ伝えることは、イエスさまの弟子に召されている人ならば、だれもがするように召されている。牧師や宣教師だけではない。ただ、極めて宗教アレルギーの強い日本において、ことばをもちいてみことばを人々に伝えることは、簡単なことではない。それなら私たちは、みことばを宣べ伝えることをあきらめるのだろうか? 時が良くても悪くても、と語られていることが、福音宣教である。ただし、人や場所にこだわりつづけることも、ときにはやめる決断も必要になることがある。イエスさまは十二弟子におっしゃっている。「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。」「だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。」 どこかに必ず、私たちの語ることばに耳を傾けてくれる人がいると信じて、私たちは行くべき人のところに行き、その人にみことばが語れるように祈ることである。わが家は今月で茨城町に住んで9年目になったが、ここまで続けてこられたのは、みことばに耳を傾けてくださる人が今もなおおられるからである。 もちろん、みことばを語るということは、みことばを生きるということが大前提になる。人々が私たちの良い行いを見るならば、天におられる私たちの父なる神さまをほめたたえるようになる。神の栄光を顕す生き方、罪から自由にされている生き方、世の光地の塩として生きる生き方、その素晴らしい証しの生き方を可能にするものは、聖書が神のみことばであると告白する信仰である。イエスさまを主と証しするみことばに対する信仰、それは行いを生む。 行いのない信仰は宣べ伝えられない。だからこそ私たちこそ、まず自分自身がみことばに教えられる必要がある(ローマ2:21)。その生き方はわずかずつでも世の中を主のみこころにかなうようにつくり変え、人々はその中で、主イエスさまを信じるように導かれる。 では、具体的に、みことばを宣べ伝えると、どのようなことが起こるだろうか? 悪霊が追い出される。なぜかといえば、みことばを宣べ伝えるべくイエスさまが召された主の弟子は、悪霊を追い出す権威が授けられたからである。実際弟子たちは、悪霊を追い出した。そのことによって神の国はイエスさまによってこの地に来たらされたことが明らかになった。それほどの御国の権威が与えられている者、それがイエスさまの弟子である。 悪霊というものは迷信でも、空想の産物でもない。このところ東京の新宿に「トー横」と呼ばれるエリアがあり、そこで10代の若者がたむろして非行に走る者も跡を絶たない、しかもそのような子どもたちを食い物にする悪い大人もいることが報道されているが、ああいう闇の世界を見て、その背後に悪霊が存在することが私たちにはわかるのではないだろうか? そういう闇の世界、サタンと悪霊の支配する世界は、都会の繁華街にかぎらない。テレビやレンタルDVD、スマートフォンをとおしてでも容赦なく、われわれのお茶の間に侵入してくる。 みことばが宣べ伝えられると悪霊が追い出されるのは、第一に、みことばを聴いた人は悪霊の支配する領域よりも主の支配される神の国に関心が行くため(聖化)、第二に、みことばを聴いた人は霊的に武装することで悪魔と悪霊が逃げ去るため(霊的武装)、みことばを聴いた人はほかの人のことを悪霊の支配する領域から主の支配される神の国に移そうと努めるため(伝道)である。だからまず私たちがその宣教者なる弟子としてのアイデンティティを確かに持ち、悪霊に親しむことをやめ、みことばに親しみ、みことばをいかにしたら自分のことばとして語れるか、よく学ぶことである。