「ヨナの悔い改め」

聖書箇所;ヨナ書2:1~10/メッセージ題目;「ヨナの悔い改め」  先週はヨナ書1章を学んだ。海を荒れさせた神の怒りを鎮めるため、ヨナは海に投げ込まれた。そのヨナのために神が大きな魚を備え、その魚にヨナを呑みこませた、というところで、ヨナ書1章は終わっている。本日お読みしたヨナ書2章のみことばは、そのほとんどが、大魚の腹の中でヨナが神におささげした告白に費やされている。1節ずつ見ていこう。  1節。ヨナは大魚の腹の中に導かれた。ひとすじの光も届かなくて真っ暗、消化中の大量の魚介類に埋もれてぬめぬめして生臭い場所、胃壁から分泌される胃酸に触れたら肌もただれる。不快極まる場所だが、それまで大海原のただ中にいて溺れ死にしかかっていたことを思えば、比べ物にならないほど安全な場所なのはたしかである。   少なくともここなら、いのちが脅かされることはない。なによりも、じっくりお祈りすることができる。ヨナは、環境がどうであろうと、神に祈りをささげることのできる恵みをしっかり噛みしめたのではないだろうか。  2節のみことば。私のことを海に投げ込んでください、と船乗りたちに言ったヨナだったが、実際にそういうことになってみて、いのちが脅かされるとはどういうことか、初めて思い知ったのだった。  しかし、私たちは祈りに応えていただける。人は時に、とんでもなくいのちが脅かされるような瞬間に出会うものだが、もともと全能なる神さまとの関係を持つ者はその危機をきっかけに神に立ち帰るという、大きな恵みを体験する。これは神さまが私たちに対して下される、わたしに立ち帰れ、という懲らしめ、俗っぽい言い方をすれば、愛のむちである。ヨナは苦しみの果てに、祈りが聞かれたことを知った。祈りが聞かれている確信。これは、私たち神の子どもたちに与えられている特別な恵みである。  3節。この告白によれば、あなた、つまり、神ご自身が私ヨナを海に投げ込まれたのだと告白している。そうだとすると、ヨナが船乗りたちに向かって、自分のことを荒海に投げ込んでほしいと言ったのは、やけを起こしてではなかったのである。ヨナは、神のみことばをゆだねられた預言者であったが、その彼が、神のみこころは自分を海に投げ込まれることだと受け取り、神に対してせいいっぱいの従順を実践したのであった。ヨナを海に投げ込まれたのは、人ではなく、神ご自身だった。これは神によるヨナに対する愛のお取り扱いだった。 ただ、そのお取り扱いは、とてもきびしいものだった。潮の流れにもまれ、大波小波が頭の上を越えたということは、息もすることもできないような海水の中にいたということであり、苦しいなんていうものではなかった。しかしここでヨナは「あなたの波、あなたの大波」と告白している。このきびしい波、波に次ぐ波は、ほかならぬ神から与えられた愛のお取り扱いであったことを、ヨナは心から認めて告白している。  4節。ヨナは、私は御目の前から追われました、と告白している。神さまがヨナを目の前から追い出された、ということである。 しかし、もともと主から逃げたのはヨナのほうである。主はヨナをお用いになろうと、ニネベに行って宣教せよとのご命令をくださった。それから逃げてまったく違うほうに行ったのはヨナのほうである。それを、主がその目の前から追われた、と告白するのはどういうことだろうか? それは、ヨナ、逃げようと思うならばやってみなさい、と、主があえてヨナを逃がされた、ということである。 その結果、ヨナはどんどん主の使命から遠ざかり、挙句の果てはいのちさえ危機に瀕した。だが、ここでヨナは気づかされた。自分の求めていたことは主の御顔を避けることではない、むしろその反対に、主の聖なる宮を仰ぎ見ること、つまり、主の臨在の前に進み出て、主を仰ぎ見ることだということを、自分は求めていたのだと。  ヨナは、人から教えられて主に立ち帰るべく促されたのではない。主ご自身からの悟りを与えられて、その顔を主に向けて方向転換したのだった。「悔い改め」ということばは、「悔い」ということばが入っているので、なにやらくよくよ後悔するようなイメージがついて回りそうだが、ほんとうの悔い改めとはそのようにくよくよすることではなく、もう完全に主に向かって、過去の罪深い自分とすっぱり手を切ることを意味する。 ヨナは悟りを与えられて、不信仰と反抗に満ちた過去の自分を捨て、主に向かおうとする強い意志と欲求が与えられたのだった。この悟りを与えてくださるお方は神ご自身である。悟りが与えられることは主の大きなあわれみ、また恵みである。主の御名をほめたたえよう。  だが、この悟りを与えてくださるために、主は時に激しい形でのお取り扱いを及ぼされる。5節、6節前半。ヨナは、地中海の海底のさらに奥深くまで、そしてその最も低い水底に生えた海藻に髪の毛が取られるほど、奥底に沈んだと告白している。そこでヨナの見たものは、山々の根元というべき海底の岩々であり、ヨナはその底に落ち込み、地のかんぬきが自分の後ろで下ろされた、もう、ヨナはここで人生が終わったのだった。だが、ヨナは生きた。  こんなことがあるだろうか? 人は、ほんの少し海に沈んだだけで、窒息して死んでしまう。それがヨナの場合、水責め、土責めの息苦しさがいつまでも続き、どこまでも深く深く、海の底に沈んでいく一方だった。ヨナは「いつまでも」死の苦しみが続く状態を体験したのだった。これをヨナは「よみの腹の中」と表現したのだろう。よみの闇の中では、人のたましいは消滅して苦しみも何もなくなるわけではない。よみに下ったたましいは、やがて来るさばきによって永遠に火の池に投げ込まれ、永遠に焼かれつづけて苦しむのである。  しかし、主はこのようなヨナをどのように導かれたか? 6節後半。  聖書にはしばしば「穴」というものが登場する。創世記には、ヨセフが兄たちに謀られて穴に落とされる場面が出てくる。ヨセフを待つものは、兄たちに殺されるという運命だった。だが、兄のひとりのユダの発案によって、ヨセフは殺されることなく、穴から引き上げられ、いのちが助かった。のちにこうしていのちの助けられたヨセフは数奇な運命をたどり、イスラエルを救う器として大きく用いられることになった。 また、ヨナよりもはるかあとの時代の預言者エレミヤも、穴に沈められて、そこから引き上げられるという体験をしている。そして、墓という「穴」からの生還を果たされたお方は、イエスさまだった。 ヨナがこのように告白するのは、ヨセフのように、もはや死ぬまでだった運命から救われて、いのちを救う働きに用いていただくようになったという、感謝に満ちた告白ではなかろうか。  7節。ヨナは悟りに至るまでに、主の御顔を避けつづけたばかりに、たましいが衰え果てていた。そうなったら、そのたましいが主に向かうことは、とても困難になる。しかし、そのような状態で主の御前に出ることができたとしたら、それはもはや、恵みとしか言いようのないことである。主は、たとえたましいが主に向かえないほど衰え果ててしまった者であったとしても、その人を愛しておられるかぎり、必ず立ち帰らせてくださる。 もし、私たちの周りにたましいが衰えてしまっている人がいて、そのために心を痛めていらっしゃるならば、どうか失望しないでお祈りしていただきたい。いや、もしかするとその衰えた人とは、自分自身のことかもしれない。失望しないでいただきたい。主は必ずお祈りを聴いてくださって、引き上げてくださり、主に心が向かうようにしてくださる。  8節。ヨナは、主の素晴らしいみことばをゆだねられた預言者である。それは光栄に満ちていることであり、とても恵まれている。一見するとこの告白は、偶像礼拝の国アッシリアにあらためて宣教に行くぞという決意表明のようにも見える。だが、偶像礼拝という問題は、まずヨナの中にあった。 ヨナは、アッシリアへの敵対心に裏打ちされた歪んだ愛国心、選民思想を自己中心とはき違えた歪んだ民族主義という、神さまご自身に取り替わる偶像を心に抱えていた。もちろん、ヨナは何も、時の為政者ヤロブアム王のように、金の子牛のような目に見える偶像を拝んでいたわけではない。しかし、心の中に神さまご自身以上に大切にする思想を抱え、その思想に殉じて神の御顔を避け、神のみこころを無視したという点で、ヨナはやはり、偶像礼拝者と変わるところはなかった。だがヨナはここに来て、それがどんなにむなしいことかということに気づかされ、今度こそ、主に立ち帰る決心をしたのだった。  9節はそんなヨナの祈りを締めくくることばである。偶像を捨てた者のすることは、いけにえをささげること、すなわち、主を礼拝することである。しかし、礼拝するといっても、形式的に礼拝をささげさえすれば、主はそれで良しとしてくださるわけではない。  いかに威儀を正して礼拝をささげようと、そこに主に対する従順がなければ、主はそれをご自身に対する礼拝と見なされないどころか、偶像礼拝であるとさえ見なされる。 私たちの礼拝をおささげする姿勢も激しく問われている。  しかし、私たちは、例えば今のこの時間のように、プログラムとして礼拝をおささげすることだけを礼拝を見なすべきなのか? 私たちの礼拝は、もっと広い範囲にわたるものであるべきである。ローマ人への手紙12章1節。  私たちのあらゆる行動は、からだを使ってすることである。ということは、からだが主にささげられた聖い供え物になっているならば、私たちの取るあらゆる行動は、礼拝になっていなければ、私たちのからだを正しく用いていないことになる。そう意識するならば、私たちは罪から身を引き、神のみこころにしたがった聖い行いを目指すようになるのではないだろうか? そしてその聖い行いこそ、霊的な礼拝であるというわけである。 だとすると、私たちの持つ信仰とは、頭だけのものとか、形だけのものとかではなく、きわめて実践的なものになる。自分自身を神にささげた者としてふさわしく、いつ、どこで、どんなときも、みこころにかなう行動とは何かということを祈り求め、それを具体的に実践する、この繰り返しこそ、私たちの本来歩むべき歩みである。  こうして、救いはほかならぬ神にあることを悟らされ、それを自分の口で告白したヨナは、10節にあるとおり、3日3晩にわたる真っ暗な大魚の腹の中から解放され、明るくて安全な陸地に戻ってきた。悔い改めによって再出発するチャンスが、ヨナに与えられたのであった。 私たちもヨナのように、悔い改めに導かれる悟りがつねに与えられ、キリストの似姿らしく変えられ、主のお働きをこの地上に現すことで主に大いに用いられるように、主の御名によってお祈りする。私たちは自分に与えられたどんな主のみこころに対して不従順だろうか? いま悔い改めることは何だろうか? 主の御前に出ていく力さえ出てこなくても、いま主の御前に置かれているこの恵みを覚え、主に祈ろう。