聖書箇所;マルコの福音書4:35~41/メッセージ題目;「どうして怖がるのですか」
船乗りという仕事は、なんというか、ロマンを感じさせる。漁師、海上自衛官、クルーズ船の乗組員……今はあまり行かなくなったが、時間があるとき私はたまに大洗に行き、苫小牧行きのフェリーを眺め、ああ、北海道にこれで行ったら楽しいだろうなあ、フェリーの乗組員なんて、いつも旅行をしているようなもの、うらやましいなあ、などと思ったりした。
しかし、「板子(いたご)一枚下は地獄」という船乗りのことわざがあるとおり、海というものはただ船を悠々と浮かべてくれるやさしいものとはかぎらない。荒れたときにはその凶暴さをむき出しにする。下手したら波に呑まれて死んでしまう。その冒険心をくすぐるヒリヒリした感覚がいいのだと、もしかしたら船乗りの人たちは思うのかもしれないが、死んでしまってはおしまいである。
私たちの人生は、しばしば船が海を行くこと、「航路」に例えられる。多くは波のない海を行くがごとく、平穏無事に過ぎゆくものだが、時に私たちの人生には、荒波のような試練が襲いかかるときがある。
今日の箇所は、イエスさまの弟子たちが文字どおりの荒波に襲われる、という、ハラハラするような場面。しかし、イエスさまはこれを治められた。この湖の旅をとおして、イエスさまは弟子たちに何をお教えになったのだろうか?
特にイエスさまのおっしゃったみことば、「どうして怖がるのですか」に注目しよう。もちろんイエスさまは、そうか、キミたちは怖かったんだね、おお、よしよし、とおっしゃりたいわけではない。わたしの弟子ともあろうあなたたちは怖がってはいけないでしょう? それが怖がるとは、どうしたことですか、と、叱咤激励しておられるのである。
今日の箇所は短いので、ポイントに分けず、最初から見てまいりたい。35節。イエスさまは畑の種蒔きのたとえほか、いくつかのたとえを弟子たちに解き明かされたその日、夕方になってから、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと弟子たちを促された。弟子たちはもちろん、お従いした。
私たちクリスチャンの歩みとは、イエスさまが「行け」と命じられたら行き、「とどまれ」と命じられたらとどまる、その歩みの繰り返しである。私たちはクリスチャンとしてふさわしく歩むために、イエスさまの御声につねに耳を傾ける必要がある。イエスさま以外のもの、テレビとかインターネットとか、はたまたご近所や職場のうわさ話などを聞いて、それで心の中がいっぱいになっていては、イエスさまの御声を聞き分けることができず、したがってイエスさまに聴き従うことはできない。
弟子たちがお従いしたのは、絶対的な師であるイエスさまが目の前におられ、御声をもって促されたからである。私たちも弟子たちのように、イエスさまを目の前にするように生きているならば、御声は必ず聴けて、お従いできる。
しかし、形式的に礼拝をささげて、形式的にディボーションをささげさえしていれば大丈夫というものではない。こうして弟子たちに交じって御顔を見、御声を聴いていたイスカリオテのユダが、土壇場でどんな選択をしたか。イエスさまを十字架に引き渡すような、究極の罪を犯したではないか。私たちは形だけでみことばの語られる場に同席するのではなく、生ける交わりを体験することである。私たち自身をイエスさまの御前に、日々赤裸々に差し出そう。
36節。イエスさまのみことばとみわざを求める群衆はまだそこにいた。しかし、イエスさまはそこから新たなところに行かれるとおっしゃるので、弟子たちはついて行った。群衆に関わっていると、イエスさまは本来のお働きができない。もっと大事な、みこころにかなうお働きに赴かれ、それに弟子たちはお従いする必要があるのである。
イエスさまは群衆に対して意地悪だったのではない。よりご自身の存在とみわざが必要なところに赴かれたのである(それについて詳しくは来週学ぶ)。そこで、弟子たちはイエスさまを舟にお乗せして出発した。ほかの舟も一緒だった、とあるが、弟子たち以外にもついていく者がいた模様である。このような人は、群衆の段階から弟子の段階へと成長を遂げつつある人である。私たちもそうなりたい。
しかし、弟子として成長することはひとりでにできることではない。成長させられるために、ときに厳しいところを通らされる。折しも夕方、あたりは暗くなっていた。真っ暗な中、広くて深いガリラヤ湖を舟で渡るのが危険極まりないことは、少なくともその中の4人がガリラヤ湖の漁師出身だった十二弟子にはわかっていたはずである。しかし、これはイエスさまの促しである。「でも、おことばどおり」の信仰をもって、彼らは一歩を踏み出した。
37節。果たして、ヘルモン山から標高からの落差1200メートルのガリラヤ湖の湖面に、激しいおろし風が吹きつけて、湖は荒れだした。水は舟の中に入り込み、なお波に激しく揺られ、いまにも湖に呑み込まれ、沈みそうになっている。
激しく揺れている。風に吹かれている。波が呑み込もうとしている。湖に投げ出されそう。その恐怖はいかばかりか。それは動物的な本能のような恐怖と言えたろう。しかし、その舟の中にあって、イエスさまだけはちがっていた。38節。まるで死んだように、ぐっすり眠っておられたのである。もちろん疲れておられたわけだが、同時にこれは弟子たちへのテストともなった。
弟子たちはどうしたか? イエスさまを起こした。しかし、彼らは何と言ったか?「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか!」……。こんな深夜の荒れた湖に連れ出したのは、イエスさま、あなたじゃないですか、それが、私たちをよそに、われ関せずとばかりに眠っておられるなんて、何なんですか! どうしてくれるんですか! その悲鳴にはまるで非難がこもっているようだった。
しかし、もちろんイエスさまは弟子たちを放っておかれる方ではなかった。39節。イエスさまは風を叱りつけ、湖に「黙れ。静まれ」と命令された。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスさまは弟子たちを守られたのと同時に、ご自身がみことばひとつですべてを動かされる、全能なる神さまであることを示されたのであった。
しかし、イエスさまはただ単に風と波を鎮められたのではなかった。40節。イエスさまは弟子たちをお叱りになった。「どうして怖がるのですか。」そしてイエスさまは、彼らが怖がって取り乱したことは、彼らにまだ信仰がなかったからだと喝破された。イエスさまは単に全能なる神さまであることを示されただけではない。弟子たちの不信仰を取り扱われたのだった。
イエスさまがともにおられるならば、彼らは湖におぼれて死ぬことなどあり得なかった。それは、イエスさまが死なれるのは、十字架にかかられてであり、弟子たちもイエスさまの十字架と復活を経て、永遠のいのちをいただき、彼らはこのような場面でむざむざ死ぬのではなく、イエスさまのあとにしたがって自らの十字架を背負い、イエスさまについて死ぬように定まっているからであった。仕方がなかったとはいえ、弟子たちはそのことを悟ることができないでいた。
しかし、弟子たちにそこまでの信仰が育つまでには、なお一層のお取り扱いが必要だった。この、荒れ狂う湖の体験は、その意味で弟子たちにとって必要なものであった。
私たちにせよ、弟子たちのような恐ろしい体験をして、正気でいられるだろうか? だがイエスさまは、そのような中でも揺るがない信仰を与えてくださるお方である。弟子たちはその後もさまざまな体験をさせられて、信仰を育てていただき、主の働き人とならせていただくに至った。
私たちを取り巻く状況も、ときに厳しい。とても解決しないように思えて、恐れをいだいたり、むなしくなったりもするだろう。しかしイエスさまは、そのような状況のただ中でもともにいてくださるお方である。私たちの信仰が問われる。私たちはそのようなとき、眠っておられるようでも、変わらずに、眠らずに働いてくださっている、イエスさまに対する信仰を確かに持って祈るべきである(詩篇121:4)。
41節。弟子たちはイエスさまのご存在に、「恐れた」とある。この「恐れ」は、イエスさまが弟子たちを叱責された際に用いられたことば「怖がる」と、同じといえば同じ。実際、英語の聖書ではどちらも「アフレイド」と訳している。しかしギリシャ語では同じではない。40節で、イエスさまは弟子たちが「怖がった」ことを叱責されたが、この「怖がる」は、ギリシャ語では「臆病な」と同じことばである。
キリストの弟子は臆病だとなぜいけないのだろうか? それは、臆病な者は地獄に堕ちるとみことばに警告されているからである。嘘ではない。ヨハネの黙示録21章8節には、地獄に落とされる人の第一の条件として「臆病な者」と挙げられている。
臆病な者とは、神さまはどうせ自分のことを怠け者扱いして罰を与えるだろうからと、賜物を活かすこともせず、ただのんべんだらりと生きる者のことをいう。まさしく、1タラントを包みにしまって土に埋めておくような者である。そういう者は終わりの日にさばかれ、外の暗闇に放り出され、泣いて歯ぎしりしても中に入れてもらえない。
しかし、その地獄の警告をやたらと怖がり、主の働きをすることに尻込みするならば、それこそ臆病な態度である。こわがってはいけない。神さまは自分のことを地獄に落とすかもしれないと怖がるあまり、何もしないのではなく、神さまを「正しく」恐れることである。
天地万物を統べ治めるお方、それなのに私のことを瞳のように守り、愛してくださるお方……まさしく、風と荒波が鎮められたのを目の当たりにした弟子たち、死の危険から守っていただいた弟子たちのように、イエスさまを恐れるならば、その恐れは正しいものであり、その正しい恐れから、イエスさまに対するまことの従順は生まれてくる。要は、イエスさまとの正しい関係、愛の交わりを持つことに尽きる。
「どうして怖がるのですか。」怖がること、臆病なことは、信仰が確かでない証拠である。私たちは風や荒波のようなできごとを見て、それに翻弄され、「怖がって」いるうちは、まだ臆病な段階ではないだろうか。私たちはだからこそ、たとえ眠っているように見えても、実は生きて私のために働いてくださっている、ともにおられるイエスさまに対する信仰を日々増し加えてくださいと、祈る必要がある。「それでも」怖がる自分に気づかされるならば、なおのこと、その祈りに集中する必要がある。
私たちの「怖れ」「臆病」を、主の御手に取り扱っていただこう。間違った怖れを主に対する正しい恐れに変えていただくために、私たちから取り除いていただくべき「怖れ」は、何だろうか? 具体的に祈って示していただき、それを取り除いていただくべくお祈りしよう。「どうして怖がるのですか」と叱責されるような怖れではなく、主を正しく恐れる恐れに満たされ、そこから主の働きに用いられていこう。