聖書箇所;マルコの福音書5:1~20/メッセージ題目;「神の国、異邦人の地に臨む」
妻とまだ結婚する前、交際中の頃のこと。妻は当時、関西地方で宣教師になるための訓練を受けていたが、ときどき私の携帯電話に電話をよこしてくれた。ある日、働いていた教会から駅に帰る道で、妻から電話がかかってきた。うれしいことだが、気持ちは複雑。なぜならば、そのとき通っていた駅への近道が、谷中霊園という墓地の中だったからである。15代将軍徳川慶喜のお墓、ステテコを流行らせた三遊亭圓遊のお墓、高橋お伝のお墓、その他もろもろの数えきれないお墓に囲まれて、電話でデートをする羽目になったわけである。それも、すっかり暗くなった夜。何とも言えない気分になった。
お墓という場所は、死者のお骨がたくさん埋まっている場所。好んで近寄りたいとは思えない場所である。しかし、このお墓を棲み処(すみか)とし、真っ裸で凶暴ななりをしているような男がいるとしたらどうだろうか? 怖いなんてものではない。さきほどお読みしたみことばは、そのような男がイエスさまによって変えられる場面である。
1節のみことば。イエスさまは群衆をあとにして、嵐吹くガリラヤ湖を渡って、向こう岸のデカポリス、異邦人の地に赴かれた。そのとき、ひとりの男の人をめぐって起きた一連のできごとは、神の国が異邦人の地にいかにして臨んだかを、雄弁に物語っている。特にこの男の人にスポットを当てながら、男の人に起きた変化を観察しつつ、神の国の臨む前(過去)、神の国の臨むとき(現在)、神の国の臨んだのち(未来)の、3つのポイントから語ってまいりたい。
まずは、神の国の臨む前。2節のみことば。……神の国の臨む前は、人は悪しき霊に支配された状態である。墓場とは死んだ者のいる場所である。墓場にいるということは、生きてはいてもほとんど死んだ者として振る舞っている、ということである。神の国の臨む前の人は、永遠のいのち、神さまにあるまことのいのちがとどまっていないかぎり、どんなに生きているように見えても、神さまの目には死んだ人である。
3節から5節。悪霊に取りつかれた人のこの恐ろしさを見よ。あまりに狂暴なので、人々は彼に足かせをはめ、鎖につないだ。しかし、いったいどんな力が働いているのか、彼はその鎖を引きちぎり、足かせを壊して暴れる。夜となく昼となく墓場で大声を上げて叫びつづける。
注目すべきは、彼が自分のからだを傷つけていた、ということである。自ら進んでからだに傷をつけることは、精神がむしばまれている証拠である。なんという苦しみの中に彼はおかれていたことであろう。
人間はこんなにも悲惨になるのである。デカポリスの人々は、彼のことをこうして隔離し、のけ者にし、鎖と足かせで縛りつけて、なんとかことを収めようとした。しかし、それも甲斐なく、どうしたってこの恐ろしさそのものの彼のことを見ないわけにはいかなかった。彼の存在は、デカポリスの大いなる悩みの種だった。
悪魔と悪霊どもは、まことの神さまを知らない者たちのことを翻弄する。偶像礼拝をもって共同体を霊的に混迷させたりもするが、この場合は、悪魔に魅入られたような者を用いて共同体に不幸をもたらしている。日本もそうだったが、明らかに悪霊の支配を受けている人間の存在によって共同体が混乱させられるということは、古今東西存在してきたことである。いずれにせよ、そこには主が統べ治める「神の国」は臨んでいるとは到底言えない、悲惨な状態になっている。
しかしここに、悪霊を追い出すことのおできになるお方が登場された。イエスさまである。それでは、神の国の臨んでいる状態、「現在」を見てみよう。
6節。悪霊に取りつかれたこの男の人はイエスさまを礼拝した。これは、悪霊がイエスさまのことを礼拝しているということである。駆け寄ってきて礼拝したということは、イエスさまこそが礼拝すべきお方だということを、悪霊どもは知りすぎるほど知っていたということである。
イエスさまは、ユダヤ人の地域でだけの神さまではない。ユダヤの外に出ても、異邦人の地域においても、神さまである。悪霊がユダヤでだけ悪霊ではないのと同じことである。ガリラヤをあとにされ、異邦人の地域においても、神さまとして存在された。
それを念頭に置いて7節、8節を見ていただきたい。何の関係がありますか、というのは、マタイの福音書8章29節の、ほぼ同じような内容の箇所から、なぜ悪霊がそのように言ったのかが類推できる(地名や悪霊につかれた人の人数など、若干のちがいはあるが、ほぼ同じ話である)。「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか」と言っているが、「その時」とは、イエスさまが十字架と復活を経て、天に昇られ、聖霊が注がれ、使徒たちが神の国の福音を携えて、ユダヤを越えて異邦人の地、世界にまで出ていくそのとき、ということを指している。
悪霊は、そのような神さまのご計画を知っていた。だから、まだまだ大丈夫だ、とばかりに、デカポリスを霊的に支配し、特にこの男の人のことを苦しめるだけ苦しめていた。ところがそこに、イエスさまがやってきたからさあ大変、である。
嘘だ! まだ使徒たちが異邦人の地に派遣されていないばかりか、イエスさまは十字架にすらかかっておられないではないか。やめてくれ! 話がちがうぞ! お願いだから滅ぼさないでくれ!
面白いのは、悪霊が「神によってお願いします」とイエスさまに懇願していることである。私たちが神さまのことをよく知らないで済ませているうちにも、悪霊はよっぽど神さまのことがわかっているし、神さまの権威を認めている。
ヤコブの手紙に、行いによって信仰のあることを示すことをしないようなクリスチャンに対して苦言を呈すメッセージの中に、こんなことばが挿入されています。「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(2章19節)神さまのこと、イエスさまのことを知識で知っている程度ならば、悪霊だって同じである。神さまに従順であるかどうかが問われている。
9節。イエスさまは悪霊に名前を問われた。レギオン、とは、ローマの6000人からなる部隊であり、それだけたくさんの悪霊がその人に取りついていた、ということである。名前をつかむ、ということは、とても大事なことである。聖書にはとても多くの人物が登場するが、名前が登場する場合と、名前が登場しない場合とでは、イメージを具体的に思い浮かべるうえで差が出てくる、ということは経験しているだろう。
だれかのために祈るとき、やはりせめて名前は知っておいた方がいい。その人がどんな人か、ということをまた聞きするとき、結構、その情報を提供してくれた人のバイアスがかかるものである。しかし、名前はバイアスのかかりようがない。名前を挙げて祈ろう。
10節。この地方から追い出さないように、という彼ら悪霊どもの祈りは、この地方はまだ俺たちの天下だ、余計なことをするな、という驕りが透けて見える。否が応でもイエスさまに支配させない姿勢である。イエスさまの神の国が宣べ伝えられるところには、その共同体における悪霊の支配が終焉を迎えるという、素晴らしいみわざが起こされてしかるべきである。
11節。ちょうどそこにはおびただしい豚が飼われていた。神の民ユダヤに与えられた律法では忌み嫌うべき動物であり、イエスさまご自身も、せっかく宣べ伝えられたみことばに対してきわめて否定的な態度を取り、せっかく伝えてくれた人を恩知らずにも攻撃するような剣呑な人間のことを、豚に例えていらっしゃる。
12節。そういう意味では、この男でだめだったら豚に取りつかせてほしい、という、彼ら悪霊どものことばも、一応は筋が通っていると言えた。13節。すると悪霊に取りつかれた2000匹の豚は、ガリラヤ湖目がけて突進し、そのまま溺れて死んだ。悪霊どもは生き永らえたのではない。滅ぼされたのである。こうして、この男の人は、無事に悪霊の支配から脱した。
14節。豚を飼っていた人たちは逃げ出した。そして、いったい何が起こったのか言い広めた。うわさを聞きつけた人々は、イエスさまのいるところまでやってきた。15節。これがあの男か! そして、このイエスという人は、この男をこのようにしたのか! 彼らは震え上がった。
16節と17節。彼らはイエスさまに、この地方から出ていってほしいと頼んだ。それは、この男の人から悪霊を追い出された霊的権威を前に震えおののいたということもあっただろうが、やはり、この地域の産業であった養豚業が少なからぬ打撃を受けたことも大きかったのではないだろうか。
私は最初、この箇所を読んだとき、イエスさまはもっとほかの方法で悪霊を追い出されることはなさらなかったのかな、と思ったものだった。彼らこの地方の人々がイエスさまに出ていってほしいと頼むのはある意味当然じゃないかな、と。しかしここで私たちが考えるべきは、「悪霊に取りつかれた人」のことであろう。
いったい彼は、ここまで悲惨な生き方をしたくてしていたのだろうか? 自分ではどうにもならない、ただ悪霊に支配されるしかなかった彼は、あまりに醜く、そしてこの地上で苦しむだけ苦しんだ末に、行きつく先は永遠の地獄である。この世に生まれたばかりに、地上で地獄を味わい、のちの世で地獄を味わう、そんな彼を救って、何が悪いのだろうか?
私が神学生のとき、「弟子訓練」を一緒に受けていた信徒さんの中に、シムさんという方がいた。お仕事は3000頭の豚を飼う養豚場のオーナーで、彼は教会の子どもたちから「テジアッパ(ブタさんのパパ)」と呼ばれていた。
彼はほかの訓練生同様、1年間の弟子訓練のコースを通じて、めきめき信仰が成長していかれたが、ひとりの人を大切にするというサラン教会の牧会哲学を身に着けられたこの方だったら、どうしただろうか? イエスさまがもし、この男の人を救うためにあなたの豚3000頭のうち2000頭を差し出しなさい、とおっしゃったならば、どうなさっただろうか? ひとりの人を救うために、自分の大切な財産である豚を差し出しかねなかったのではないか、そんなことを思う。
もっとも、彼らデカポリスの人々は、神の国の福音を受け入れられるだけの下地を持ち合わせてはいなかった。やはり異邦人としての限界の中に生きていたのである。イエスさまもそんな彼らの限界をよくご存じで、彼らが「出ていっていただきたい」と言えば、イエスさまも争わず、彼らのもとを去っていかれた。
しかし、これだけならば、イエスさまはなぜ、わざわざガリラヤをあとにして、嵐吹くガリラヤ湖を渡ってまで、デカポリスまで赴かれたのだろうか、そこで宣べ伝えられるべき神の国の宣教は失敗に終わったのか、ということになるだろう。この話は終わっていない。
そこで、「神の国が臨んで以降の『未来』」のお話である。18節。彼はイエスさまについていこうとした。彼はもちろん、これほどまでのことをしてくださったイエスさまに一生ついて行きたいと思ったことだろう。あるいはもしかしたら、自分のことを邪険に扱いつづけたデカポリスの人たちに見切りをつけたかったのかもしれない。
19節。イエスさまは彼を弟子に取らなかった。その代わり、彼を直ちにデカポリスの働き人として派遣された。なんと、使徒が立てられるはるか以前に、イエスさまは「異邦人宣教」の道をすでに開いておられたのである。そして20節。彼はイエスさまがなさった大いなるわざを宣べ伝えた。
彼らはイエスさまを拒絶したかもしれない。しかし、この男の人は曲がりなりにも同じ共同体の最大の問題人物であった人であり、それがこれほどまでに変わったという事実を見せられては、イエスさまを信じるしかない。やはり、レギオンの悪霊が追い出されたなりの霊的効果が現れていたのである。
彼の未来は、イエスさまの弟子として添い遂げることではなかったかもしれない。しかし、イエスさまの働き人としてイエスさまを宣べ伝える人となった。神の国はこうして、この男の人にも、デカポリスにも臨んだのだった。
ここは、やはりこの男の人に、そしてこの人に注がれたイエスさまの愛に注目しよう。
生きて地獄、死んで地獄のこの人を、天国の人にしてくださったイエスさまの愛。墓場の狂人、共同体に問題しか与えなかった人を、神の国の働き人としてくださったイエスさまの愛。その男の人を救い、素晴らしい使命を与えるためだけに、はるかガリラヤ湖を越えてデカポリスまでやってこられたイエスさまの愛。
私たちも考えよう。私はとても悲惨だった。そんな私ひとりを救ってくださるためにイエスさまはこられ、十字架によって救ってくださった。そして私はこれから、イエスさまによって神の国の働き人として用いられる。イエスさまは私に、どんな働きを望んでいらっしゃるだろうか? この男の人は最初の願いを聞いていただけなかったが、イエスさまのおっしゃったとおりの使命を帯びて、用いられた。私たちもイエスさまの望みどおりの人となり、用いられるように。