「信仰に堅く立とう」

聖書箇所;マルコの福音書6:1~6/メッセージ;「信仰に堅く立とう」 むかしのことをよく知っている人がそばにいると、やりづらいことこの上ない。お父さんが牧会していた教会の跡継ぎの牧師となった先生など、古株の婦人の信徒から、「あたしはね、○○先生のおむつを取り替えてあげてたのよ~」などと言われたりして、威厳も何もあったものではない。その婦人に悪気はないのだろうが、牧師先生としては閉口させられる話だろう。 しかし、事がイエスさまだとするとどうだろうか。教会の牧師先生のような人だって形無しのことを言われてはたまらないのに、イエスさまは神さまである。イエスさまのことを何か言って論評するのは、行ってみれば神さまを論評することであり、傲慢のそしりを免れないことである。 イエスさまの幼い頃を知っているから、イエスさまが大工をしていたことを知っているから、信じようにも信じられない。一見するともっともなようだが、彼らナザレの人は実際どんな人たちだったのか。6節を見よう。それは、イエスさまも驚くレベルの不信仰だったのだと総括されている。 ナザレの人たちは、イエスさまのことをよく知っていたと自分で思っていただろう。しかし、彼らは人としてのイエスさま、マリアの子としてのイエスさまのことは知っていたかもしれないが、神の子としてのイエスさまのことはまったく理解していなかった。そのような彼らに対して、イエスさまは、何人かの病人に手を置いていやされることはなさったものの、この5節のみことばの記述にしたがえば、「何も力あるわざを行うことができなかった」。 イエスさまは全能なるお方、神の子でいらっしゃるが、だからといってイエスさまは、ご自身が神の子であることを示すために、のべつ幕なしにみわざを行われたわけではなかった。特に、この故郷において、自分に対して思い込みで見る人たちに、評価を下す人たちに、それでも彼らを説得しようとして、みわざを行われはしなかった。 むしろイエスさまは、彼らに対してみわざを行うことをお控えになったのである。それでは、イエスさまはどのような人に対し、みわざを行われるのだろうか? 4節のみことばを見ればわかるが、「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」とあるように、幼い頃からあなたのことを知っているぞ、とばかりの上から目線の態度で接するような、尊敬のかけらもないような者には、みわざを行われない、つまり、逆に言えば、イエスさまのみわざを受け取るには、イエスさまを敬う心、イエスさまの前にへりくだる心が必要になってくる。 地域の人たち、親戚たちが、イエスさまのことを知りすぎるほど知っているのは、これはどうしようもない。神さまのみこころが、イエスさまを人としてこの地に生まれさせることであった以上、地上のどこかが、イエスさまが人として育たれるための環境を提供する必要があったわけで、それがたまたま、ナザレだったというわけである。しかし、幼い頃からイエスさまを知りすぎるほど知ってきた、ということは、イエスさまを神の子として受け入れないことの言い訳にはならない。 3節のみことばを見ると、彼らは確かにイエスさまに関する「情報」は持っていた。しかし、それはイエスさまのことを神の御子として信じるための「知識」とはならなかった。学者であれ一般の人たちであれ、イエスさまというお方に対する「情報」はいろいろ持っているだろう。中には、処女懐胎はほんとうだ、とか、復活はほんとうだ、と信じ受け入れている人もいるかもしれない。しかし、そういったことが「情報」にとどまり、私たちの人生をイエスさまへの献身へと導く「知識」になっていないならば、それは「不信仰」であり、イエスさまはそのような者たちに、ご自身のみわざをお見せになることはない。 それなら、なぜ、イエスさまは故郷の会堂でお教えになったのだろうか? 彼らが2節のごとく、不信仰の反応をお示しになることを、イエスさまはご存じなかったというのだろうか? そうではない。彼らがそのような不信仰の者であることは、イエスさまは見抜いていらっしゃった。しかし、あえてこの場にイエスさまは神の国を宣べ伝えに来られたのだった。 そればかりではない。1節のみことばを見ればわかるとおり、イエスさまはおひとりで故郷に赴かれたのではない。弟子たちまで引き連れていかれたのである。その結果弟子たちは、イエスさまがあえてみわざを行われなかったお姿まで見るに至った。弟子たちはここからも、不信仰の者たちに対してはあえてみわざを行われることのない、イエスさまのみこころを知るに至ったのであった。 しかし、こうしてイエスさまが故郷にいらっしゃったことは、無駄なことだったのだろうか? 決してそうではない。この、一見すると無駄に見えた訪問は、実はとても意味があることだった。 この種蒔きが無駄にならなかった証拠は、のちにこのイエスさまの弟たちが、初代教会の指導者として立てられたことからも明らかである。彼ら主の兄弟たちにとっては、大工としてのイエスさま、家族としてのイエスさまではなく、神の国を宣べ伝える預言者としてのイエスさま、すなわち、神の子としてのイエスさまの、そのお姿とおことばにふれる機会がどこかで必要だった。それがのちに、世界中のあらゆる人が読むことになる、聖書のみことばとして記録されることになったことを考えると、イエスさまのこの故郷での宣教は、どうしても必要だった。 そういったことから、今日のこの聖書箇所からは、以下の3つのキーワードが導き出される。 ①不信仰の人にはみわざが控えられる。 イエスさまのことをあれこれ論評しているうちは、イエスさまは働かれない。ときにその不信仰は驚くほどのものだが、情報でイエスさまを知ることに終始し、イエスさまを主と告白して結びつくことをしないうちは、信仰も存在しないし、したがってそこにイエスさまのみわざを期待することもできない。要するに信仰の問題である。 ②私はイエスさまをなんと告白するか。 私たちはイエスさまを、神の子として告白し、へりくだってそのみわざを受けようとしているか? イエスさまが郷里ナザレにおいて、それでもみわざを行われたのは、それでもイエスさまの前に出ていった人々には、イエスさまに対する信仰があったからではないか。これも信仰の問題である。 ③それでも種を蒔きつづけよう。 イエスさまを信じているならば、イエスさまは必ず、この不信仰の世界を信仰の世界に変えてくださる。「預言者を尊敬しない家族」から、神の国への献身者を出してくださったイエスさまは、私たちのこの町からも、必ず献身者を出してくださると信じよう。目の前の収穫がないからと、諦めてはいけない。はるか先の大収穫のビジョンを見る者となろう。これも信仰の問題である。 以上のキーワード、それは「信仰」。 世はこぞって、イエスさまを神さまと認めない不信仰に傾いている。それが世の中というものである。私たちはそれを見て、嘆きたくもなるだろう。私たちがもし嘆くならば、それはイエスさまの心が私たちのうちにあるということである。イエスさまの心をもって、この世のためにとりなしていこう。 そして、イエスさまを主と告白しているならば、その告白のとおりに、イエスさまは私のすべての領域で働いてくださると、信仰を働かせよう。私たちは、毎日みことばを読み、お祈りをするたびに、イエスさまが私の人生に働いてくださると、期待しているだろうか? 信じているだろうか? 信仰を働かせよう。 そして、私たちの周りの人々が、いま不信仰だからと、諦めてはいけない。私たちはこれからもこの地に住む。ということは、主が私たちをとおして彼らのことを救われる可能性が、まだ残されているということではないだろうか。私たちは信仰を働かせて、彼ら私たちの周りにいる人たちが救われるように、祈って取り組もう。