主イエスの弟子のすること」
聖書箇所;マルコの福音書6:7~13/メッセージ;「主イエスの弟子のすること」 今日の箇所は、弟子たちの実地訓練の場面である。この時点ではまだ、弟子たちは聖霊の派遣によって満天下に福音を伝える段階にはない。あくまで訓練である。とはいっても、訓練をとおしてでも人が救われるときは救われるから、たかが訓練だと侮ってはならない。 私はキャンパス・クルセードという宣教団体のメンバーだったが、年に数回行われる「アウトリーチ」、これは早稲田大学のキャンパスなど、実際に人のいるところに出ていって、普段の生活の中で宣教をするその訓練をするわけだが、ときに訓練以上の収穫を得ることがある。度胸がつくだけではない。救霊に燃える心が備えられるだけではない。人が救われるのである。だからこの訓練に臨む学生たちは、訓練だからと軽く見ることをせず、救霊に用いられるように祈り求めて「アウトリーチ」に出ていく。 そういうわけでこのイエスさまに派遣されての「実地訓練」は、「訓練」でありながら「救霊の現場」であると理解すればいい。この箇所は3つのパートに分かれている。第一に、旅行への出発の準備をさせる場面、第二に、旅行中の心得を宣べられる場面、そして第三に、旅行そのものの場面である。この順番で、ひとつひとつ見ていき、「主イエスさまの弟子のすること」とは何かを見て、私たちも主イエスさまの弟子として何をすべきか、学んでまいりたい。 まず、第一に、イエスさまは「旅行への出発の準備」をさせることをとおして何をお教えになったか、それは、「イエスさまがなさるように宣教すること」であった。 7節、まずイエスさまは、2人ずつ遣わしていらっしゃる。12人弟子がいれば、ひとりずつ遣わせば12通りの場所に行けて効率的ではないか、というのは、素人の考えである。イエスさまはあえて、2人ずつ遣わされた。これは、宣教はひとりで取り組むものではなく、複数で取り組むものである、ということをお教えになったわけである。 福音書に記されたイエスさまの公生涯の記録を見てみると、イエスさまがみわざを行われたとき、多くは弟子たちの前で行なっていらっしゃる。それは、あえて弟子たちの前でみわざを行われることによって、イエスさまのように働くとはどういうことかを弟子たちに具体的にお示しになった、という意味もある。しかしそれだけではなく、イエスさまの働きはチームで行うものであることを示された、という意味もあった。 そのように、ペア、またはチームでの働きをするということは、「使徒の働き」(使徒行伝)の記録にも記録されているとおりで、パウロもバルナバとともに、また、バルナバとのチームを解消してからも、シラスとともに活動している。やはりこの働き方はイエスさまのみこころであり、聖書的、みこころにかなっていることである。私もたまに、この地域にトラクトを配りにいっているが、妻と二人で行くときと、ひとりで行くときでは、大胆さその他において、まったくちがうことを実感する。 そして、イエスさまは彼らにけがれた霊を制する権威をお授けになった。イエスさまの弟子には、けがれた霊を制する権威が与えられている。イエスさまとの関係が大事である。これなくして悪霊に立ち向かったら、人は悪霊に打ち倒される。反対に、イエスさまから権威が与えられている限り、私たちは悪霊に勝利できる。悪霊を制することによって、私たちは、宣教のわざを妨げる悪霊に勝ち、堂々とみことばを伝えることができる。 8節、9節を見よう。これは旅の心得である。杖一本のほかは何も持たない、マタイの福音書の並行箇所では、杖を持つな、とあるが、これは、もともと持っている杖を持ち歩くようにしなさい、新しく杖を手に入れるな、ということ、食べ物も、荷物を入れる袋も、お金も持っていかない。これに対して履物を履くのは、長距離の旅、荒れ地を歩くような旅にも耐えられるようにということ、下着を二枚着ないのは、それだけ簡素に、ということ。 ここからわかることは、第一に、宣教とは急を要するものである、ということ、もうひとつ、宣教とはどこまでも、神さまの恵みに拠り頼んで行うものである、ということである。私たちは、イエスさまが再び来られることを意識するならば、福音を宣べ伝えるにあたって、のんびりしてはいられないだろう。しかし、だからといって、人間的にあせることをしてはいけない。人間関係であれ、お金であれ、福音を宣べ伝えるために必要な環境はすべて神さまが備えてくださると信じて、一歩踏み出していく必要がある。 そこで第二、旅行中の心得だが、10節、11節を読もう。福音を宣べ伝えるために必要な環境は備えられることはいま述べたとおりだが、具体的には、それは家庭というものを通じて与えられる。福音を宣べ伝えるにあたって、その福音を宣べ伝える働き人を受け入れてくれる家庭というものは存在するのであると、イエスさまは約束してくださっている。 もっとも、それはやみくもに探しても見つかるという性質のものではない。並行箇所であるマタイの福音書10章11節から12節によれば、その家庭を探し出すためには、町や村に入ってよく調査する必要があることが教えられている。リサーチというものは必要なのである。 そのような家庭には、主からの平安が与えられるという祝福がある(マタイ10:13)。この家庭を宣教学の用語では「平安の子」という。こういう人が宣教地に備えられるということも祝福だが、注意しなければならないのは、そういう「平安の子」に満足をおぼえられなくて、もっと自分に仕えてくれる人、とか、もっと自分が祝福できそうな人、を求めて、別の家へと渡り歩くことはしてはいけない、ということである(ルカ10:7)。そういうことをするならば、せっかく、主のしもべと見込んでもてなしてくれていたその家庭との信頼関係を、いたく傷つけることになる。それは主のしもべとしてふさわしくない。 もっとも、そのように福音を受け入れることを一切しないという反応が返ってくる場合もあることを、私たちは心に留めなければならない。その場合にすることは、「足のちりを払い落としなさい」。この、福音を拒絶する土地を歩いて足にまとわりついたほこりを、払い落としてみせることで、私はもはやこの土地とは一切関係がない、と宣言するわけである。これはまた、福音を受け入れない彼らのたましいを神さまの御手にお委ねする、という意味もある。神さまが、いざこうして宣べ伝えた者に、これ以上のこの地のたましいに対する責任を負わせられることはない、ということである。 何度も言うことであるが、伝道における成功とは、伝道した相手がイエスさまを受け入れることではない。「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神にお委ねすることである。」イエスさまを伝えさえすれば成功である。逆に言えば、イエスさまをまだ伝えられていないならば、それは成功という段階に達していないことになる。しかし、いざ伝えたならば、そのあとのことは神さまが責任を負ってくださる。 さあ、こうして手ほどきを受けた彼らは、出ていくことになる。第三、旅行そのものの場面を見てみよう。12節、13節。彼らは3つのことを実践している。第一に、悔い改めを宣べ伝えている、第二に、悪霊を追い出している、そして第三に、病人をいやしている。 まず、語ることばは「悔い改め」である。罪に目を留めたままの状態の人を、神さまへと向ける、この方向転換が「悔い改め」である。私たちが語ることばは、そのように人を「悔い改め」へと導くことばであるべきで、けっして、聖書の豆知識にとどまるものだったり、ましてや教会のゴシップの類だったりしてはならない。そういうものを語ってお茶を濁すことならだれでもできる。そういうものを「伝道」とは呼ばない。 それに対して、ひとに「悔い改め」を迫ることばを語ることは並大抵のエネルギーや謙遜さでは務まらず、それだけ祈って備えている必要がある。彼ら十二弟子は普段からイエスさまのみことばを聴いてきたから務まっていたが、私たちはどうなのか? いざ遣わされたとき、それに耐えることができるように、普段から祈って備える必要がある。 それだけではない。彼らは悪霊を追い出し、病気の人に油を塗って癒やした。私たちはだまされてはならない、こういうことはイエスさまの弟子である以上、私たちにはできるのである。できるからこそ、こうして聖書に記録されて、私たちに命じられていることを、私たちはもっとおごそかに受け入れる必要がある。 これは、病気を治す働きをするお医者さんや薬剤師さんに頼るな、という意味ではない。かく言う私自身、目をわずらっていて眼科にかかっている身である。しかし、もしこの者の目のために祈ってくださるという方がいらっしゃるならば、私は喜んでその方のお祈りを受けるものである。同じように私は、病気の人がいるならば祈る。油を塗って、とあるが、これはヤコブの手紙5章14節でも命じられていることで、私も実際、牧師という立場で、何人かの方に油を塗ってお祈りしたことがある。みなさんも祈っていただきたい。 悪霊に関しては、たいていの場合ひるむかもしれない。しかしここはどうか、主が私たち主の弟子に悪霊を制する権威をお授けになったという、この聖書の語る事実に目を留めて、この働きに用いられるよう祈って備えていただきたい。もちろん、並の祈りでは悪魔と悪霊どもに太刀打ちできない。しかし、ここは祈って備えるものとならせていただこうではないか。 さて、以上述べてきた中で、特に私たちにとっての「平安の子」は何か、ということを考えよう。それは、私たちの所属するこの教会、水戸第一聖書バプテスト教会である。私たちは遠くに宣教旅行に行くものではないが、この水戸地域、茨城県央に生きている以上、この地域は私たちにとって宣教の場所である。そこにおいて私たちは単独ではなく、チームを組んで宣教するのである。また、急を要する働き、しかしその一方で、主の恵みに満たされた働きをするのである。 私たちはこの共同体に属しながら、悔い改めの福音を宣言し、悪霊を追い出し、病人をいやす働きに用いられるように祈って取り組む。そして、この地が福音を受け入れる下地がある以上、足のちりなど払い落とさないで、じっくり腰を据えて宣教する。それが主の弟子である私たちのすること。主はそのような私たちのことを、大いに祝福してくださる。