「頑なな弟子、それは私たち」

聖書箇所;マルコの福音書6:45~52/メッセージ;「頑なな弟子、それは私たち」/讃美;聖歌433「なやめるひとびと」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 今回、主の弟子訓練コンベンションに参加して、気づかされたこと、悔い改めに導かれたことがいろいろあった。特に、弟子訓練の牧会をすることは、主のご命令ゆえに従順にお従いするもの、という信念が徹底していなかった自分自身の姿に気づかされた。今後、すべてにおいて、弟子訓練という土台の上に教会形成のわざを行うものとならせていただきたいと願う所存である。 今回のコンベンションの講義では導き方とか、教材の使い方とか、方法論としての訓練のノウハウを説いたわけではない。むしろ主題講義は、聖書を解き明かしたメッセージであり、その中ではもちろん、イエスさまの十二弟子のことも語られた。十二弟子は幸いな人たちである。何が幸いといって、主イエスさまに弟子入りできた人たちだった、ということである。いったい、イエスさまほど最高の師匠がおられるだろうか? しかし、そんな、史上最高の師匠についたならば、さぞかし彼ら十二弟子は素晴らしい「高弟」たちかと思いきや、彼らはその訓練のもとにいたとき、整えられていないこと甚だしかった。 彼らはもちろん、のちには素晴らしい働き人になったが、十二弟子の共同体としてイエスさまのもとに身を寄せていた時分には、ずいぶんしくじった。福音書に記録されているペテロなんて、のちの姿がとても想像できない。例えるなら、名人の落語家も前座修行のときはしくじりが多かったようなものである。人間国宝になった柳家小三治は、前座時代、師匠の柳家小さんの家で修行の一環として床を雑巾がけしていたとき、横着して、なんと足でやって、小さん夫人に見つかって怒られたそうだ。「こら! そんな真似をするのは小ゑんぐらいだ!」小ゑんは、のちの立川談志。小三治も談志も、そんなところから大名人になった。しくじってばかりのイエスさまの弟子たちも、いわば前座修行のような段階。 今日の箇所でも十二弟子のことが出てくる。先週の箇所では、イエスさまのみわざのお手伝いをする、いわば「脇役」のような立場だったが、今日の箇所で、十二弟子は主人公のようである。今日の箇所を読むと、イエスさまが十二弟子をどのように訓練されたかが見えてくる。それでは本文を見てまいりたい。 イエスさまはガリラヤ湖畔で群衆を教え、5つのパンと2匹の魚で彼らを満腹させられた働きをなさったら、すぐに、弟子たちを無理矢理船に乗せた。イエスさまがそうなさった理由は2つある。ひとつは、イエスさまご自身がお祈りに集中されるため。バプテスマのヨハネが殉教したというたいへんな知らせをお聞きになり、イエスさまは御父との真剣な交わりに御力を得ることを必要とされていた。そしてもうひとつの理由は、弟子たちどうしの共同体の中で、彼らを訓練されるためである。今日のメッセージでは、この2つ目の理由を中心に扱いたい。 弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸に向かって、12人で協力して船を漕ぐわけだが、折りしも彼らは向かい風に悩まされた。主イエスさまは、この時間のガリラヤ湖に、船も漕ぎあぐねるような風が吹くことをご存じなかったか? いや、ご存じだった。そればかりか、イエスさまが万物を司られる全能の主である以上、この風はイエスさまが備えられたものだったといえる。風ばかりではない。湖には大波まで起こった。そのような厳しさ、いのちさえ危うくなるような中に、イエスさまはあえて弟子たちを送りこまれたのである。 弟子たちはつまり、風や波を鎮められる大きなみわざを行われるイエスさま、全能の神の子がともにおられない中、困難に直面するという訓練にほうりこまれたわけである。イエスさまはこのように、人をあえて冒険の中に突き放されることがある。人は困難に出会うとき、まず、ありったけの力で努力し、困難を解決しようとするもの。このときの弟子たちがそうだった。 それはどれほどの困難だったか? 弟子たちは湖の真ん中にいた、とある。これは、円の中心のようなまん真ん中という意味ではなく、岸辺から遠く離れ、見渡すかぎり海ばかり、ということ。じっさい、ヨハネの福音書の並行箇所によれば、彼らは岸辺から25ないし30スタディオン離れたところにいた、とあるが、これは4キロから5キロメートル、ということ。ただし、湖は強風で荒れ狂っていた。夕方に出発した彼らは、夜明け近くになっても、まだ岸から4,5キロしか漕ぎ出せていなかったのである。しかし、引き返すこともできない。それほど、風と波は厳しく、十二弟子は目の前の状況を解決するのに手一杯だった。 彼らは頑張った。しかし、努力ではどうにもならないときがある。そのようなとき、イエスさまは近づいてくださり、助けてくださる。 困難の中におられる方は信じていただきたい。困難の中にいるとき、イエスさまは私たち主の弟子を愛してくださっているから、私たちが苦しみ果てることのないように、近づいてきてくださる。 しかし、ここでイエスさまは、嵐に悩む彼らを助けるためにやってこられたのに、そこを通り過ぎようとされた、とある。これいかに? とお思いだろうか? これは、イエスさまは彼ら弟子たちの信仰を試され、訓練されたから、というべきだろう。彼らはイエスさまのことを、全能なるお方であると信じ告白すべき、イエスさまの弟子である。実際彼らは、ガリラヤ湖の波に船もろとも沈みそうになったとき、イエスさまがその波と嵐を鎮めてくださったのを体験している。しかもそのとき彼らは、イエスさまに、「信仰の薄い者よ」と一喝されている。十二弟子は信仰の訓練を、極限においてすでに味わっていたのである。 だから、そういう体験のある彼らは、そのとき「イエスさま、助けてください!」と祈るべきであった。そうすれば、イエスさまはたちどころに彼らのもとに駆け寄り、彼らのことを荒波の困難から救ってくださったはずである。イエスさまが彼らに近づかれてもそのまま通り過ぎようとされるのは、そんな彼らの信仰のあるなしを、お試しになっていらっしゃるようである。わが弟子たちよ、お前たちがもし、わたしに心が向かっていたら、そばを通るわたしに必ず気づくはずだ。さあ、ここにいるよ……。 だが彼らは、近づいてこられるイエスさまが、イエスさまだとわからなかった。失礼というべきか、幽霊とさえ思ったのであった。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ならぬ、幽霊の正体見たらイエスさま。しかしこれは笑いごとではない。いつもイエスさまの御顔を見ていたはずの彼らに、イエスさまがわからなかったわけである。このお方がイエスさまだとわからなくしたものは何か。彼らを覆っていた現実的な恐れである。 そのとき、彼らは強風と高波を目の当たりにしていた。彼らはイエスさまではなく、目の前に繰り広げられる現実、現象そのものに目が留まっていたわけである。彼らに死のシンボルである幽霊が見えたように思えたのは、強風と高波ゆえの死にそうな現実に引きずられて、イエスさまよりも死の世界が近しくなってしまったためではなかっただろうか。 私たちは何を優先して見るべきかが問われている。たとえばコロナ。これは大きな波にも似たものではなかったか。自分や家族がコロナにかかったらどうしよう。教会にクラスター感染が起きたらどうしよう。教会の駐車場にたくさん車がとまっているのを人が見たら、自分たちはどう思われるだろうか。しかしこのとき、コロナやそれに付随するそんなさまざまな現象に振り回されず、ただイエスさまだけを見ることができたならば、その信仰はほめられよう。 感謝なことに、牧師家庭にコロナ感染者が出た週、その一日の主日を除いて、コロナ下になって約3年、私たちは一週も欠かさずに礼拝をささげつづけた。恐れにとらえられず、ともに主のみこころに忠実であるようにと、うちの教会が信仰を働かせることができたのは感謝だった。 さて、この箇所は、弟子たちは頑なで悟らなかった、と総括している。しかし聖書は、だから悪い、とも、それは仕方ない、とも評価していない。ただ、彼らが非常に驚いたのは、頑なだったから、悟らなかったから、と、理由を述べている。 ここでわかることは、イエスさまは頑なな弟子たちに驚きを与えてでも、悟りを持てるように導いてくださるお方、ということである。人間は頑ななもの。頑なな人間は悟れない。神さまに教えられることよりも、自分の悟りに頼るからである。 神さまは悟らせてくださるお方。悟りというものは霊的な領域に属する。弟子たちはパンと魚の奇跡を見たばかりか、その奇跡が人々に行き渡るように、ほとんど重労働とさえいえる働きをした。つまり、弟子たちにとって、イエスさまが創造主であることを証しする奇跡は、体験そのものだった。その前には、風と波をみことばひとつで鎮められるのを体験しているし、墓場の男から悪霊を追い出される奇跡も見ている。そのほかにも数々の奇跡を見ている。 それでもわからないものはわからない。悟りは霊的なもの。人にとって体験はたしかに大事だが、体験がいかに大事であっても、聖霊さまが悟らせてくださらないかぎり、体験はほんとうの信仰に導けない。 人は御霊に逆らう肉がたえず生き、隙あらばその人を征服しつくそうとしてしまうような存在である。主の弟子になること、主の弟子でありつづけることも、肉に属する頑張りで取り組もうとしてしまうこともよくある。つまり、肉の思いゆえに御霊に逆らうわけだから、御霊が与えてくださる、神さま、イエスさまとの生きた交わりの中で、主の弟子として振る舞わないのである。 怖いことに、肉的な頑張りでも、人の目にはそれなりに立派なクリスチャン生活をしているように見えてしまうものである。しかし、その人に、果たしてほんとうの主との交わりはあるだろうか? 信仰は働いているだろうか? 私たちは、頑なで悟れない弟子たちを笑うことはできない。イエスさまを前にしても悟れなかったのが弟子たちならば、いわんやイエスさまと共同生活を送っているわけでもない私たちが悟れるものだろうか? 私たちこそ頑ななのではないだろうか? しかし、そんな私たちがもし悟れたとしたならば、もはやそれは人間業とは言えないのではないだろうか? それを恵みという。 そう、信仰は人間業ではない。神さま、聖霊さまの領域に属するものである。聖霊さまが私たちに信仰を与えてくださるのであって、私たちが頑張った結果、信仰を持つというものではない。しかし、イエスさまは、私たちの中にふさわしく信仰が育つまで、ときに「信仰の薄い者よ」と叱咤激励されながら、何度でも私たちのことを導いてくださる。 私たちはわかっているだろう。自分に信仰がないことに折りあるごとに気づかされる。それで落ち込まないだろうか? もっと信仰があればいいのに、などと思わないだろうか? しかし、それが私たちなのをご存じの上で、イエスさまは私たちのことを、信仰が弱いからとお見捨てになることはない。 私たちがこの人生の中で自分の不信仰に気づかせていただくことは数知れないが、主はけっして、私たちが不信仰だからという理由で私たちのことを見捨てず、ご自身の弟子とされた以上、私たちの生きるかぎり、私たちの信仰を増し加えてくださる。この恵み、信仰が与えられているゆえに、今日もイエスさまについていけることに感謝するお祈りをおささげしよう。