「マリアとはどんな人だったか」
聖書の教えに人々が触れるとき、理解できない、となる事柄として、「イエスさまの復活」とならぶものに、「マリアの処女懐胎」があるであろう。これは実際、あるミッション・スクール出身の人から聞いた話だが、その学校の「聖書」の授業では、「イエスさまの処女懐胎も、復活も、信じたければ信じてもいいが、事実というわけではない」というふうに教えているという。そういう聖書教育を受けた子どもたちはいったいどのように育つのだろう、と、暗澹となるが、ミッション・スクールにしてそうなのだから、いわんやこの世の一般的なとらえ方においてはどうだろうか。 今日の箇所は、マリアは処女にして身ごもったと、はっきり語っている。このみことばをきちんと受け入れるとき、私たちは聖書のことばをすべて、誤りなき神のみことばとして受け入れることができる。とても大事な箇所である。 それでは本文の学びにまいりたい。神さまは主イエスの母としてマリアをお選びになった。マリアがどんな特別さを備えていたから主がお選びになったかは詮索できなかろう。神のみぞ知る、といったところ。ただし、このように神さまに選ばれたマリアはどんな人だったか、私たち信仰者にとってどんかモデルかを知るのは必要なことである。 マリアとはどんな人だったかということは、今日の本文の、御使いとのやり取りから知ることができる。マリアは御使いの取り次ぐ神のことばに対し、3つの反応を見せている。順に見ていって、私たちにとっての模範となるマリアの態度から学びたい。 第一にマリアは、みことばに驚き、考えた。 26節。不妊の人だったエリサベツに子どもが与えられたという大きなできごとのその6か月後、神の御使いガブリエルがマリアのところに来た。マリアはダビデの子孫であるヨセフと婚約していたが、あくまで婚約で、男性経験はなかった。婚前交渉、婚外交渉が当たり前になっているこの世の価値観からかけ離れているだろうか? しかし、これが本来あるべき姿。私たちはこの原則を大事にし、子どもたちにも教えたい。 28節。そんなマリアのもとに御使いが現れた。それだけでも驚くべきことだが、ガブリエルはマリアに、なんと告げたのだろうか?「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29節を見よう。マリアが戸惑ったのは、御使いの告げたことばに対してだった。マリアは、御使いがいきなり現れたことに驚いたともいえようが、御使いの語ったことばの意味はなんだろう、と、驚き、考えたわけである。 それはそうである。何がおめでとうなのだろう? どうして私は恵まれているのだろう? 主がともにおられるとは、どういうことだろう? わかるだけでも、3つも疑問が湧き上がっている。みことばとは、私たちをして驚かせるものである。人間世界ではふつう体験できない奇跡の記述。それがほんとうにあったのか! と受け止めるとき、聖書の登場人物がおぼえた驚きに近づける。 しかし、みことばとは、驚かせるものにとどまらず、考えさせるものである。マリアの場合を見てみると、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ、とある。マリアを驚かせたものは、その神のことばが、ほかならぬ、自分に語られたものだった、ということ。 そこでマリアは考えるしかなかった。私が、こんなふうに、おめでとうなんて言われる理由などあるかしら。私は恵まれているのかしら。いと高きお方である主が、私などと一緒におられるものかしら。 私たちに、この「頭」というものが与えられているのは、自分で考えることが主のみこころだから。神さまがみことばで驚きを与えてくださったら、私たちの側のあるべき反応は「考える」こと。その反応を主は喜んでくださり、もっとよくみことばがわかるように、知恵をくださる。 私たちはみことばに「驚いて」いるだろうか? みことばを座右に置く素晴らしさがいつの間にか当たり前になって、その書かれていることに「驚く」ことを忘れてしまってはいないだろうか? そして、私たちは、みことばを読むたびに「考えて」いるだろうか? もちろん、究極的に言ってしまえば、みことばの意味を悟らせてくださるのは聖霊なる神さまで、私たちの知恵によるのではないのだが、しかし、悟りに至るまでに私たちが自分の頭でみことばを思い巡らすことを、神さまはよしとしていらっしゃる。それでこそ、私たちは、じぶんにあたえられたみことばをじぶんのものとしていただくことができる。願わくは、みことばに驚き、みことばを考える恵みがつねに与えられるように。 第二にマリアは、みことばの意味を問うた。 30節。御使いはマリアの戸惑いを見て取った。そこでまず御使いが語ったことは、「恐れることはありません」ということばである。マリアには、この世の何ものにも比較できないほど確実な神のみことばが与えられるのに、恐れていてはならないでしょう、と、御使いはマリアを励まし、力づけている。恐れるな、ということばは、神から離れているゆえに不安になることおびただしい私たち人間に対する、神さまからのプレゼントである。 そしてガブリエルは、あなたは神から恵みを受けている、と語った。特別な選びの恵みを受けたというわけである。神さまのみこころによって「私が」選んでいただいた、これが私たちの信仰の神髄である。 31節。ガブリエルは、マリアが処女にして身ごもることを告げた。空前絶後の奇跡が起こるというわけである。しかも生まれるのは男の子で、その名前まで、なんとつけるべきかが告げられた。イエス、神は救いである、という名前。 32節。このイエスという子は、いと高き方の子、すなわち、神の子としてこの世にお生まれになり、住まわれる方というわけである。しかし、人とは無関係な、ただ高きにいますだけの存在ではなく、神である主によってダビデの王位、すなわち、永遠に神の民を統べ治める王の王としての地位を備えていらっしゃる、というわけである。 33節。ヤコブの家とは、創造主なる神の民。血筋によるのではなく、神を信じる信仰によって神さまと契約を結んだ民を「ヤコブの家」と呼んでいる。このお方は永遠に支配される。 以上のことは、ユダヤ人、わけてもダビデの子孫としてダビデにつながる立場から、偉大なる先祖ダビデを思うかんきょうにつねにあった自分自身、そして、同じくダビデを父祖とするヨセフに嫁ぐ者として、よくわかっていたことだろう。しかし、よりにもよって、自分からそのようなメシアが生まれようとは……。 マリアはこのみ告げの内容にも戸惑っただろう。しかし、34節にあるとおり、マリアは、正規の結婚に至っておらず、したがって男性経験もないのに、なぜ自分が妊娠するのが、と、とまどったわけである。 みことばが臨むのは、人間の常識でありえない、全能なる主のみこころを、人間にお示しになるためである。しかしそれは往々にして、人間の理解を超えるものである。さて、そのようなみこころが示されたら、私たちはどう反応すべきなのだろうか? マリアを見よう。そんなことはありますまい、と反応したのではない。マリアはみことばを疑ったわけではない。 さきほど、知り合いの通っていたミッション・スクールの話をしたが、はじめに疑いありきで、神のみことばさえもそういう疑いの対象に含めて読む人がいるものであり、キリスト教会におけるその立場を「自由主義神学」というが、私たちは、その「自由主義神学」のような、神のみことばを疑いありきで読むことは、ふさわしくないという立場を堅持している。マリアは、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と言っているが、神のみことばは嘘だと、言下に否定しているわけではないことを確認しておきたい。 だからといってマリアは、何も考えずに、はい、そのとおりです、と反応したのでもない。つまり、マリアはみことばを鵜呑みにしていない。みことばに対して、アーメン、そのとおりです、と受け入れる信仰は必要だが、それと、何も考えないで鵜呑みにすることとはちがう。 あまりにも理解できないことは、そのままにしなくていい。マリアは御使いに、あまりに意外なみことばが、なぜ起こるのか、と問うた。私たちの見習うべき姿勢である。あまりに高きにおられる聖なる神のみことばは、いかにこの世界に下られて語られるみことばであろうとも、みな理解できるべくもない。その意味はなんですか、とお尋ねすることが大事である。ここに、みことばを研究する意義が出てくる。 十二弟子もイエスさまにお尋ねした。すると、イエスさまは教えてくださった。使徒の働きに登場するべレアの信徒たちも、パウロの教えを鵜呑みにしないで、果たしてそのとおりか、毎日聖書を調べた、とある。その姿勢は私たち、聖書を学ぶべく召された者たちにとっての模範である。世の中の動きを知るには新聞やニュース番組を見るだろう。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。また、私たちは読書をする。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。仕事で必要な資料を調べる。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。そのように、「学」べく召されている私たちは、この世界に変わらずに神として君臨されるそのお方のご存在とみこころとみわざを、毎日、みことばに問い、みことばに学ぶのである。 みことばがわからないことを仕方がないと思っていないだろうか?「問う」姿勢を大事にしよう。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。神さまは必ず、みことばの深い意味を積極的に尋ね求める私たちに、ふさわしい形で教えてくださる。 第三にマリアは、みことばに謙遜な姿勢で従った。 いまお話ししたとおり、マリアはみことばの意味を問うたが、それに対して御使いは答えている。35節。たとえ処女であろうと身ごもるのは、神さまの力によるものだということである。それゆえ、あなたは身ごもり、生まれる子どもは聖なる者、神の子である。 36節。これはマリアを具体的に説得する事実である。マリアはもちろん、親類であるエリサベツが子どもを宿せない悩みを抱えていたことを知っていた。しかし、そのエリサベツが無事に身ごもっているという事実を知らされた。そして畳みかけるように37節。 マリアは説得された。38節、マリアのことばを見よ。まず、自分のことを、主のはしためと告白している。いちばん低い立場にある女性である。これは別の訳の聖書では「仕え女」であり、神に仕える立場にある、神に仕えてこそあるべき立場にある、ということ。 なにかと人からほめられたい、尊敬されたい、仕えられたいと思うのが、私たちではないだろうか? そんな私たちは、マリアのこのへりくだった姿勢にならうべきだ。 そして、おことばどおりこの身になりますように……これは大変な告白である。何よりも、未婚の母で生きるのが神のみこころなら、そうします、という、大変な決意の表明である。この従順の結果、婚約者のヨセフは去るかもしれない。お腹が大きくなったら、人々は私のことを石打ちの目に合わせるかもしれない……そんな可能性もあったわけだ。 しかし、ここでマリアが信仰を働かせることができたのは、神さまは、これほどのお方を誕生させてくださる以上、ぜったい、自分のことを守ってくださる、ということを、みこころとして受け取っていたからである。イエス・キリストは、どんな人間的な逆境が予想されようと、誕生するのが神のみこころである以上、必ず生まれる。したがって、みごもって産む私も守られる……。 このような絶対の従順を生む信仰は、キリストについてのみことばを聞くことから始まる。その聞く姿勢は、さきほども触れたとおり、わからないことをわからないままにせず、しっかり尋ねるところにも現れている。蒔かぬ種は生えぬ、というが、聞かぬみことばは信仰にならぬ、といったところだ。イエスさまのお祈りにあるように、永遠のいのちとは、唯一まことの神である御父と、御父が遣わされたイエス・キリストを知ることだが、永遠のいのちを自分のものにさせていただくために、神を知るには、みことばを読むしかない。みことば読むこと以上に、神を知り、永遠のいのちに生きる道はない。 私たちは、従順という祝福を受けるまで、みことばに聴くことをやめないでいるだろうか? どうかみことばを聴く、みことばに聴く私たちでありたい。そして、みことばに従う力をつねに謙遜に求める私たちでありたい。