招詞;ヨハネの福音書3:16/祈祷/主の祈り/讃美;讃美歌112「諸人こぞりて」/聖書朗読;ルカの福音書2:11~12/メッセージ「赤ちゃんの主イエス」/讃美;讃美歌109「きよしこの夜」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」
私ども水戸第一聖書バプテスト教会の今年最大のニュース、それは、新しいいのちが贈られたことだった。ご覧いただきたい、あのかわいいお顔!
今日、クリスマスは、主イエス・キリストのお生まれをお祝いする日。そう、神の御子、王の王、主の主なるイエスさまは、赤ちゃんだった! まさに、あの子と同じ赤ちゃん。今日はこのことを考えよう。
むかしも今も、子どもという存在は大人に比べると軽い存在、小さな存在として扱われている。聖書の時代、2000年前のユダヤもそうだったし、現代の日本もそうである。いま私ども夫婦は、児童養護施設で勉強を教えるボランティアをしているが、生んだ親さえ顧みてくれない子どもの存在があることに心痛む。
イエスさまは、いきなり堂々とした王さまとして、人々の前に現れたのではない。最初は、おしめを替えてもらう赤ちゃんとしてこの世にお生まれになった。このお姿に私たちは、威厳に満ちた神のありかたをお捨てになったへりくだりを見るものである。
イエスさまが赤ちゃんとしてお生まれになったということから、私たちは2つのことを考えよう。
①赤ちゃんを見るとき、私たちは幼子として神に召されていることを思い起こそう
聖書は基本的に私たちに、大人であるように勧めている。ただしそれは、物事の考え方においてということであって、悪いことにおいては幼子でありなさい、という。幼子はそもそも、悪事などできない。ここで言うのもはばかられる、悪いことをする赤ちゃんはいない。私たちはあまりにけがれている。イエスさまは、罪を知らない、けがれなき存在としてこの世に来られた。
イエスさまは、神の国を受け入れるにあたって幼子のようでありなさいとおっしゃった。神の国を受け入れるとは、この世をほんとうに治めておられるお方は神さまである、そう受け入れ、神さまのご主権に押した害する、ということである。大人びた人たちはそれを幼いとか、愚かだとか笑うだろうが、神さまはそのように、素直に神の国、すなわち、神さまが王さまとしてこの世界を統べ治めておられることを信じ受け入れるように、私たちのことを招いていらっしゃる。
赤ちゃんのけがれない姿、純真無垢な姿から私たちが学ぶことは、そのように、神の国を受け入れ、神さまに素直にお従いする姿勢を持つべきである、ということである。子どものように神の国を受け入れなさい、という、イエスさまのこの招きに、はい、神さま、私はあなたの子どもです、私はあなたの民です、とお応えする祝福があるように。それは、イエスさまを人生の救い主、王の王、主の主として受け入れ、お従いするところから始まる。
②赤ちゃんを見るとき、神さまが私たちに備えておられる未来を思おう
イエスさまの伝記である福音書は4つあるが、そのうちの2つが、イエスさまの赤ちゃんの時代から描写している。それは、イエスさまが全くの人としてこの世界に育たれたことを表しているが、それと同時に、福音書を読む人たちが、神の子なる救い主イエスさまはこれからどのように育っていかれるのだろうか、と、イエスさまの未来を思い浮かべながらお読みするように読者を導いている。
赤ちゃんを見てみよう。赤ちゃんがにっこり笑うのを見るならば、だれもが心洗われすがすがしくなり、ほのぼのする。このメッセージのあとにみんなで歌う「きよしこの夜」の3番は、「みこの笑みに 恵みのみ代の あしたのひかり 輝けり 朗らかに」と歌う。赤ちゃんの主イエスの笑顔は、神さまがもたらしてくださる未来を示す。その未来とは、神さまがイエスさまによって、この世界を救ってくださる、素晴らしい未来である。
しかし、イエスさまを待っておられるのは、実際には過酷な未来だった。私たち人間を罪と死から救うために、十字架におかかりになるさだめが待っていた。それでも、赤ちゃんのイエスさまがもし、普通の赤ちゃんのように笑っておられたのだとするならば、それは何も知らない純真無垢な笑いではなく、わたしの存在によって人々が救われるということに、喜びを抱いておられたからだと言えないだろうか?
イエスさまはやがて十字架におかかりになったが、イエスさまの十字架を信じる私たちのことを救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださった。私たちは相変わらず罪びとだが、イエスさまはこのような私たちのことをしのんでくださり、なお愛してくださっている。イエスさまを救い主と受け入れるならば、イエスさまはいつまでも、私たちの心の中に住まってくださり、やがて私たちを、永遠の御住まい、天国に入れてくださる。
そのような、神さまがもたらしてくださる素晴らしい未来、人々を罪から救ってくださる未来を、それは、イエスさまが赤ちゃんだったときに、すでに始まっていた。私たちは赤ちゃんに目を留めて、そのような素晴らしい未来を見るものとならせていただきたいものである。ぜひ、あとで「きよしこの夜」を歌うとき、神さまが私たちに与えてくださる未来に目を留めるものとなろう。