招詞;ヨハネの福音書1:1~5/祈祷/使徒信条/交読;詩篇121:1~8/主の祈り/讃美;讃美歌66「聖なる聖なる聖なるかな」/聖書箇所;詩篇34:5/メッセージ/讃美;聖歌418「あなたの罪あやまちは」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父・御子・御霊の」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」
人は危険を感じたら、身を守る行動に出る。よく言われているのは、熊に出会ったら死んだふりをする……もっとも、あれは嘘らしい。そんなことをしたらいのちが危ないから、よい子のみなさんは真似をしないように。
そういうわけで人はいのちの危機に瀕したら、死に物狂いでいのちを守る。いのちを守るのに死に物狂いとはこれいかに? といった感じだが、とにかく人は死に物狂いで自分のいのちを守る。今日のみことばは、ダビデがとっさに取った行動、「死に物狂いでいのちを守った行動」がその背景にある。
今日のみことばは詩篇34篇5節である。週報のコラムにも少し書いたが、このみことばは私がバプテスマを受けた、埼玉県にある北本福音キリスト教会で使っていた「口語訳聖書」によれば「主を仰ぎ見て光を得よ」と訳されている。当時の主任牧師だった小田彰先生は書道をたしなむ方で、先生が「主を仰ぎ見て光を得よ 詩篇34篇5節」と揮毫された色紙が、わが家にあった。そのころ母は何かにつけて私のことを「みことばを用いて」叱り飛ばしたもので、そのときよく「主を仰ぎ見て光を得よ、でしょ!」などと言っていたので、正直、このみことばにいい想い出がなかった。
それが変わったのは、高校2年生になって松原湖バイブルキャンプに行き、「主を仰ぎ見ると……輝いた」と、新改訳聖書で訳されているのを知ってからだった。そうか、新改訳聖書ではこう訳すのか、説教がましくなくていいじゃん……。別に口語訳聖書を批判しているわけではなく、高校生だった当時の私が素直に感じたままを表現したまで。そのキャンプは歌って踊って、とにかくみんな輝いた。テーマソングからして「主を仰ぎ見ると 仰ぎ見ると 輝いた」なんて、手話つきで歌ったりして盛り上がったものである。
このみことば、詩篇34篇の書かれた背景は、表題を見ればわかる。まだ王位に就く前のダビデが、自分のいのちを守るためにとんでもない行動に出た、ということがあった。表題にアビメレク、とあるが、これは創世記にも登場する、異民族の王の称号。アブラハムやイサクはそのアビメレクを前にして、アビメレクは自分を殺すにちがいないと思って、妻を妹だと偽る言動に出るというしくじりをした。サムエル記第一では、その「アビメレク」とは「ガテの王アキシュ」であると書かれている。
サムエル記第一21章10節から15節を見よう。ダビデは、主君サウルにいのちをねらわれ、ガテの王アキシュのもとに落ち延びたと思ったら、アキシュの家来たちが、こいつはイスラエルのダビデです、とアキシュに告げ口し、ダビデは動揺してとんでもない行動に出た。ダビデのこの姿を見よ。そこらじゅう傷をつけまくったり、よだれを垂らしたり。ゴリアテに立ち向かった凛々しい紅顔の美少年が、よだれを垂らす醜態……はっきりいって想像したくない。だれが好きこのんで、こんな奇行に走るものだろうか?
もちろん、ダビデのこの行為は演技である。熊を前にしての「死んだふり」のようなものだ。しかし、こんな狂気の行動に及ぶ以上、ダビデはどう弁解しようとも、狂っていた。だいいち、恥ずかしい。恥ずかしかろうが恥も外聞もなく、ダビデは死にものぐるいで恥ずかしい振る舞いをした。
それなら、ダビデは仕方がなく、このような狂気じみた行動に出たのだろうか? いや、そうではない。彼は本来、いるべきではないところにいたのである。のちにダビデは、サウルの手から落ち延びる日々が長引いて、再びアキシュのもとに身を寄せたが、ダビデがそこでしたことは、イスラエルを攻撃したふりをして身を守った、ということである。そうすることでアキシュは、ダビデがいつまでも自分の部下でありつづけるだろうと考えたわけだが、これはいかにも、未来のイスラエルの王としてふさわしくない行動をしたことになる。
ダビデをこのような行動に出させたのも、アキシュがイスラエルに敵対する存在であったからである。そのような、神の民に敵対する者のもとに身を寄せたことは、ダビデにとって間違いであり、それがひいては、ダビデを狂気に駆り立てたといえる。
ダビデがアキシュのところで見出したものは、サウルから逃れられたひとすじの光ではなく、暗闇だった。ダビデは狂気の沙汰という暗闇のなかから、ふたたびサウルのお尋ね者としてさまよう荒野へと追放された。
そんなダビデだったが、この詩篇の告白において、3節、さあ、一緒に主の御名をほめよう、一つになって御名をあがめよう、と呼びかけている。ダビデのお供の者たちは、ダビデのおかげで自分たちも恥を被るという、大変な目にあったわけだが、それでも彼らはダビデと運命をともにしていた。そんな彼らだったが、ダビデは彼らに対し、主をほめたたえようと呼びかけている。そのようにともに主をほめたたえる彼らは、主を仰ぎ見ると、輝いた、と語る。輝くだろう、ではない。もう輝いているのである。論より証拠だ、輝くわれらの姿を見よ。
ダビデもその一行も、アキシュの前で大恥をかいた。暗く落ち込むべきところである。だが、その暗く落ち込むとき、彼らは主を仰ぎ見て輝いた。神さまが味方である。そんな彼らを恥入らせるものは何もない。
私たちも恥をかく。恥を自分からかきたい、という人はあまりいないだろう。どうしたら恥をかかなくてすむようになるかが、私たちにとっての大きな関心事ではないだろうか。
恥ずかしいとはどういうことだろうか? 主の御顔が見えなくなり、落ち込んで暗くなる状態、つまり、主の光を受けて輝かせるべき顔が覆われているということである。主のご栄光を輝かせないで、暗い自分の顔を見せびらかすならば、やはりそれは「罪」のひとつのかたちと言えよう。恥もまた罪のあらわれ。
しかし、私たちが御顔を仰ぐならば、私たちの恥に暗くなった顔は、主の栄光に輝くのである。私たちも恥に巻き込まれることがあろう。それは人であるかぎり避けられない。私たちは罪人、不完全な存在、したがって恥ずかしい罪を犯してしまう。しかし私たちは、身を避けるべき存在、神さまによってその恥ずかしい顔が照らされ、輝く。私たちに恥をもたらす罪は、もはやイエスさまの十字架の上に、釘づけになっているではないか!
十字架におかかりになったイエスさまを見上げよう。裸でのろいを受ける死刑囚。こんな恥ずかしいお姿があるだろうか? しかし、ダビデがやむを得ず自分の身を守るために恥ずかしい行動に出たことと、イエスさまの十字架の恥はあまりに違う。イエスさまは私たちを罪の恥から救うために、ご自身が進んで十字架の恥を負われたのであった。十字架を仰ぎ見よ。もはや私たちが恥に悩む必要はない。十字架を見るとき、私たちは神の栄光に照らされて輝く。
しかし、私たちが輝くことを目指す一方で、私たちの生きる世界は恥と暗闇と混迷の中にある。ヒョンス・リムという牧師を覚えていらっしゃるだろうか? 長年北朝鮮を支援してきたが、金日成を批判したという罪名を着せられて、約3年にわたって北朝鮮の辺境の地にある刑務所で過ごされた韓国系カナダ人の牧師であり、数年前に釈放されたときには、日本でも大きなニュースになった。私は先日、この先生の著書を手に入れた。この本を読めば、暗闇とはどういうことなのかがたちどころにわかる。完全な情報統制、一切の政権批判、一切の独創的な活動が許されない社会、その中で飢えて死んでいこうと、政府は知らん顔。ぜひお読みいただきたいが、ひるがえって私たちはどうだろうか? 私たちは彼らよりもましな社会に生きていると、のうのうとしていられるだろうか? イエスさまはおっしゃった。あなたがたも悔い改めないならば、みな同じように滅びます。
私たちは、この世界が暗闇であることを認めるために、世相に無関心であってはならない。しかし、神さまの御顔よりもこの世の動き、うわさにばかり目を留めていては、私たちは暗くなるしかなかろう。
だからこそ私たちは、主を仰ぎ見て輝く必要がある。では、どうすれば私たちは主を仰ぎ見たことになるだろうか? それは、詩篇119篇105節にあるとおり、ともしび、光なるみことばを見ることである。私たちの世界が暗いのは、みな、光なるみことばを知らないからである。
今日みなさまに、みことばを通読するためのノートをお配りした。かくじのしゅうほうだなをごらんいただきたい。それは、ディボーションと聖書通読が掛け声だけに終わらないで、実際に取り組んでいただくためである。
また、とかく新聞やスマホやテレビに手を伸ばしがちな私たちが、世相を知ることにもましてみことばから学ぶためである。毎日、みことばという宝物の光に照らされることこそ、御顔を仰いで輝くことである。そうして輝きつつ、周りを輝かせる歩みに励んでいく、そのような私たちとなるように。
一年の初めに決心しよう。今年私たちはみことばの光に照らされるために、また、みことばの光によってこの世を照らすために、みことばを読もう。聖書を毎日読んで、みことばの光り輝く宝を見つけよう。