「真の不従順とは何か」

聖書箇所;マルコの福音書7:1~13/メッセージ/讃美;聖歌151「たえなるいのちの」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「真の不従順とは何か」  今の小学生は知らないが、むかしから小学生といえば、例えば教室の花瓶を落として割った子がいたとき、みんなで歌を歌ってはやし立てたものだった。「あーららこららー いーけないんだーいけないんだー せーんせいにいってやろー」でも、花瓶を割った子はショックで青ざめているのである。そんなに、はやし立てて人を責めるのが愉快なのだろうか? まことに幼稚なことだが、イエスさまのあら捜しをするユダヤの宗教指導者たちも、似たような幼稚さを抱えていたと見るべきだろう。今日の箇所も、そういうくだりから始まっている。  1節のみことば。ユダヤの宗教指導者がエルサレムからはるばる、ガリラヤまでやってきた。ガリラヤ領主のヘロデでさえイエスさまのうわさを聞いて、イエスさまに会ってみたいと思っていたほどである。それほどの影響力をこの地域の社会に及ぼしていたイエスさまはどういう人物なのか、ユダヤの宗教界は調査する必要を覚えていた。自分たちの立場が危ないからである。しかし、彼らはどのようにしてイエスさまに問題人物の烙印を押そうとしたのか? もちろん、イエスさまやその弟子たちの言動をチェックするわけだが、問題はそのチェックする基準を、彼らがどこに置いていたかである。彼らは彼らなりの基準で、イエスさまの弟子が神に不従順であるかのように責めるわけだが、果たして弟子たちは不従順だったのだろうか?  2節。イエスさまの弟子たちが食事の前にきよめの洗いをしなかった。しないのを見とがめて、宗教指導者たちはその師であるイエスさまのことを責めている。まさしく彼らなりの「いーけないんだーいけないんだー」である。衛生観念がとても発達した民族である日本人がこの箇所を読むと、つい、弟子たちが悪い、と思ってしまわないだろうか? 私など最初、この箇所をよんだとき、弟子たちは手も洗わないで食べて「ばっちい」と思ったものだった。  しかし、そういうことではない。手を洗うのは「衛生」のためというよりも「宗教的儀式」としてだった。浅草の浅草寺では、一定の儀式にのっとった作法によって水で口をすすいで参拝するのだそうだが、そういったたぐいの宗教的なきよめのしきたりが、ユダヤの宗教社会においても金科玉条のように守られていたわけである。当時は水道から蛇口をひねって水を出していたわけではないから、汲んでためた水からすくって、腕からひじにかけて水を注いだということである。  ところが弟子たちは、そういうことをしなかった。なぜだろうか? それは、する必要がなかったからである。一見すると、聖書をベースにしているユダヤの宗教社会の伝統の中で培われてきた儀式を守っていないことは、神に対する不従順であるように見える。しかし、もしそれが神に対する不従順ならば、イエスさまご自身がそれをお咎めになり、弟子たちに水洗いの儀式を守らせられたはずである。ところが、イエスさまがそうなさった形跡はない。つまり、弟子たちが手を洗わなかったのは、神への不従順でもなんでもなく、守る必要がなかったからである。  しかし、イエスさまの時代の宗教社会においては、儀式を守ることが即、神への従順と見なされた。律法学者たちによる長年の聖書解釈の繰り返し、積み重ねは、やがて3節、4節にあるような、「宗教行為至上主義」ともいうような、神のみことばを守り行うこととは無関係な形へと変質した。そこから、5節にあるような宗教指導者の発言が出てくるわけである。  それでは、果たして彼ら宗教指導者たちの批判は正しかったのか? 6節と7節をご覧いただきたい。イエスさまは、「いいんです」と弁明されているわけではない。しかし、そのような宗教的言い伝えに固執させることこそ、神への不従順の罪を犯させること、すなわちそれ自体が、罪を犯していることそのものだと喝破された。それも、彼ら宗教指導者にとってよりどころであるべき聖書のみことば、絶対の基準である聖書のみことばを用いられたのだから、完璧な反論、批判である。  このイザヤ書のみことばのように、彼ら宗教指導者たちとその指導の下にあった民たちは、神を礼拝するにはしていた。しかし、それはむなしい礼拝だった。礼拝は神のことばをもってささげられるべきである。だが彼らは、神のみことばを人の命令にすり替えた。いったい、食事の前には手を洗わなければ神の御前にけがれている、と、聖書のどこに書いてあるだろうか? 嘘だと思うなら探してみてほしい。ないから。  その、一見すると神のみことばに由来するようでいて、そのじつ「人間」に由来する命令を守り行うならば、人は神に近づいて自由になることなどできないばかりか、宗教指導者という「人間」に縛られてその奴隷となり、霊的、精神的に不自由な存在となるしかなくなる。神さまはもちろん、人間がそうなることなど望んでいらっしゃらない。  イエスさまはこのような宗教指導者たちのことを激しく糾弾していらっしゃる。8節。彼らは宗教的なほどに宗教的だが、神の戒めに固執しているのとはちがう。むしろそうではなく、イエスさまに言わせれば、神の戒めを捨てた、というのである。だれよりももっとも宗教的、神に献身的に見える彼らは、皮肉なことに、神の戒めを捨てた者、すなわち、神を捨てた者であった。  それでは彼らはどのようにして、神の戒めを捨てたのだろうか? 9節。彼ら宗教指導者は、自分たちの言い伝えを保つために神の戒めを捨てた、とイエスさまは喝破された。つまり、彼らにとって大事だったのは、神の戒め、すなわち神のみことばではなく、自分たちなりの聖書解釈だったわけである。その聖書解釈も、あまりに人間的な解釈が入り込み、もはや原形をとどめていないものだった。  では、その聖書の語る「原形」とはどういうもので、それを彼ら宗教指導者たちはどのように、解釈を加えてないがしろにしたのだろうか? その例として、イエスさまは10節から12節のようにお語りになった。  ここで問題にされているのは、父または母、すなわち親に対して果たすべき義務、すなわち扶養する義務が人にあるようなときでも、その人が本来ならば親のために使うべき財産は、神にささげると約束したものゆえに使うことができない、とする場合である。  ささげ物ということばは、ギリシャ語で書かれたこの福音書において、わざわざヘブル語の「コルバン」と表記されている。特に、一般的な宗教でも行われているささげ物と区別して、特にイスラエルの神であるお方におささげするもの、という意味で、コルバンというヘブル語を使っているわけである。だから、「コルバン」をささげるというならば、まことの神さまがお受けになるべきささげ物としてささげるものである以上、ささげる人は、ささげるお相手である神さまのみこころがどこにあるのかを理解している必要がある。  宗教指導者たちは、神のそのみこころとは、親に対する扶養義務をないがしろにしてでもささげるべきものだ、と、民を教え導いている。しかし、神の子なるイエスさまは、それは全く神さまのみこころではない、とお語りになる。その根拠としてイエスさまは、モーセの十戒の第5戒、「あなたの父と母を敬え」を挙げられ、そしてもうひとつ、「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」という、出エジプト記21章17節、そしてレビ記20章9節と、律法の書に繰り返し語られた、極めて厳しい戒めを挙げられた。つまり、親をないがしろにすることをまかり通らせる宗教指導者たちが、どんなにみことばから外れているか、ということをイエスさまはおっしゃったわけである。  さて、宗教指導者たちがあまりに人間的な聖書解釈をすることに対して、イエスさまが、父母との関係に関する律法のことばを引用された意味も考えてみたい。モーセの十戒というものがみことば全体の基礎であることに異論を唱える人はいなかろう。十戒は、前半の4つの戒めが神との関係を説き、後半の6つの戒めが人との関係を説く。神と人との垂直な関係、人と人との水平の関係、その戒めが十戒である。この形は十字架ではないか。  そして、ここでイエスさまが挙げられた第5戒、これはある意味特別な戒めである。第5戒以降で扱われる対人関係の戒めのもっとも基礎になるものが、親との関係だからである。聖書は一貫して、親というものを、われら神の民の父であられる神さまの代理として教えている。親は愛なる神の代理として、子どもを愛によって保護し、育て、戒める。そういう意味では、この第5戒は神との関係を示す十戒の前半の4つの戒めにも含まれるともいえる。まさに、対神関係と対人関係を同時に取り扱うみことば、十字架の交わるところのようなみことば、それがこの第5戒である。  だから、親子関係をイエスさまが例に挙げられ、それを十戒の第5戒で取り扱われたということは、もっともらしく神のみこころを説いているつもりの宗教指導者たちは、神さまとの関係においても、人との関係においても、まったくなっていない、と語っておられるわけである。  それに加えて、イエスさまがお語りになった「父や母をののしる者は必ず殺されなければならない」という戒めまでもイエスさまはお語りになったが、これは、神さまとの関係を隠れ蓑にして父母に何もしないことは、父母をののしることと同じ罪、殺されるに値する罪であるというわけである。どういうことだろうか? 父母をののしるということは、父なる神さまとその子なる人々、という秩序の中で、神の権威の代理として親という存在をお立てになった神さまを冒瀆することである。  そのように、神さまの秩序を壊すという点では、親を扶養することが神のみこころなのにそのみこころに不従順になり、神にささげたから親には何もできない、と言ってのけることも同じである。たとえ、大声を出して悪口を親に投げつけなくても、そのように妙な宗教行為に走って親を扶養しないならば、やっていることは同じ、死に値する、というのが、イエスさまのおっしゃりたいことである。  昨年7月の安倍元首相の暗殺以来、連日マスコミをにぎわしている某宗教団体は、家族を顧みないで自分たちの信じる神に献身するように信者たちを導いている。もちろん、私たちキリスト教会も、異端ではなく、正統な信仰を持っていれば安全圏にいると安心していてはならない。親を大切にしないように教える教会はろくなものではない。それは、イエスさまが語っておられるとおりである。私たち水戸第一聖書バプテスト教会は、子どもや若者に対し、親を大切にすることをしっかり教える群れでありたい。  イエスさまのみことばの結論部分に当たる13節。このような、対神関係と対人関係において最も大事なみことばに反することを教えているあなたがた宗教指導者たちは、一事が万事、あらゆる面でみこころにかなわないことを人々に強いている、というわけである。  ここまでみことばを読んできて、私たちは自分の信仰態度において、何を振り返る必要があるだろうか? 私たちが神さまに対して「従順」の実践と固く信じてきたものが、案外そうではなかったり、また逆に、もっとお従いすべきことをないがしろにしてきてはいなかったか……そういうことを考え直す必要がないだろうか? もちろん、そのように私たちを悔い改めに導くみことばはたくさん、聖書に記録されている。しかし、その根底にあるものは、「神の愛」である。神が愛であるゆえに、私たちは神を愛し、神のおつくりになり、そばに置かれた人を愛する。その愛が単に表面的なだけのものになり、規則さえ守っていればそれで充分と考えたり、規則を守れない人をさばいたりしていなかっただろうか?  私たちの教会にも、いろいろなしきたりがあろう。よその教会はもっと自由になやっているからと、それらのしきたりを無条件になくすべきだ、というのは乱暴な話である。そのしきたりをある程度大事にすることで保たれる秩序があることも確かである。  しかし、意味も考えずしきたりを機械的に守ることを大事にして、それを守れない人をさばくというのは、明らかにちがう。礼拝というものは来さえすればいいのではない。献金というものはお金をかごに入れさえすればいいというものではない。毎日の聖書通読やお祈りも、心を込めないお勤めのようにして持ちさえすればいいわけではない。  今日は、私たちの形式的になってしまっている歩みを振り返り、悔い改めるひとときを持とう。形を守るよりもみことばを学ぶことを大事にしよう。行うこと一つ一つが、神との交わりをもって行うものへと変えられるよう、祈ろう。