「外から入るもの、中から出るもの」

聖書朗読;マルコの福音書7:14~23/メッセージ/祈祷/讃美;聖歌273「きょうまでまもられ」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「外から入るもの、中から出るもの」  14節、15節を見よう。先週も学んだように、宗教指導者たちは、イエスさまの弟子たちがきよめの洗いをしないで食べ物を口にしたことに、相当な目くじらを立てた。しかし、イエスさまはここで、そのような洗わない手で食べ物を口にしようと、それが人を汚すわけではない、とおっしゃった。  それでは、口から出るものが人を汚すとは、どういうことだろうか? 宗教指導者たちが口から発したことばは、一見すると宗教的なきよめへと人を招いているようで、そのじつ、人をけがしているとイエスさまはおっしゃりたいのである。どういうことだろうか? 所詮は人間的な言い伝えにすぎないものを神さまと人の間に介在させ、きよい神さまとの交わりを人に持たせなくし、肉欲にまみれた宗教指導者のことばの奴隷にさせることで、人をけがす、というわけである。  ガラテヤ人への手紙5章1節を見てみよう。真にきよい神との交わりは自由をもたらすものである。何か人間的に縛られているならば、それは主のみこころにかなわない状態であり、そういう状態は、外見には宗教者として立派なように見えても、神さまの御目から見ればけがれていると見なされる。肉の夾雑物が入り込みすぎているからである。そういう、人間的な宗教により身に帯びたけがれを、私たちはイエスさまの十字架の血潮によって洗いきよめていただく必要がある。  しかし、17節、18節を見よう。弟子たちはこのイエスさまのおっしゃったことがわからなかった。それは、弟子たちもそれだけ、宗教界の強い影響からなお自由でなかったということを意味する。やはり、きよめの洗いをしないで食べ物を口にした、ということは、何かいけないことをしたのではないか、という思いから自由ではなかったのである。  宗教的慣習というもの、特に、私たちのからだと心を形づくる、食べ物にまつわる宗教的慣習は、かなり私たちのことを支配するものである。例えば私たちは、食膳のお祈りをして食べる。それはもちろん、食事を与えてくださった神さまとの交わりであり、これが宗教的に人を縛るものとして機能してはいけない。  イエスさまはすべての食べ物をきよいとされた。しかしそれなら、私たちは言わないだろうか? お酒はどうなる? タバコはどうなる? それを禁じている私たちは、宗教的な発想でしているのか? しかしこれは、宗教的なけがれとは別個のものと考えるべきだ。お酒の場合、いくつかの聖書箇所から、それを飲まないのがふさわしいという結論が導き出せる。間違った判断をしたり、放蕩に走ったりするのを防ぐという、案外実利的な理由である。タバコの場合は、私たちキリスト者のからだは神の神殿、聖霊の宮であるという信仰から、その健康を明らかに損なうものを口にしないのがふさわしい、と考えるからであって、宗教的にけがれるから、というのとは異なる。  ほかにも、飲み食いが制限されるケースがある。これはローマ人への手紙14章や、コリント人への手紙第一10章で戒められているケースで、何を飲み食いしても私たちには許されているというのが基本だが、その飲み食いによって人を不快な思いにさせたり、信仰が弱い人たちにとって彼らなりの偶像礼拝の文化を捨てきれない根拠にさせたりするなら、それはいけないことである。これもやはり、神の前にけがれる、からいけないのではなく、人につまずきを与える、すなわち、信仰から離れさせるからいけないのである。  20節から22節を見てみよう。イエスさまは、人から出てくる悪い考えが人をけがすとおっしゃった。それは21節から22節に列挙されたとおりであるが、なんと12種類も挙げられている。  ①淫らな行い、④姦淫、⑧好色……十戒の第七戒「姦淫してはならない」に違反。  ②盗み、⑤貪欲、⑨ねたみ……十戒の第十戒「隣人の家を欲してはならない」に違反。  ③殺人、⑩ののしり……十戒の第六戒「殺してはならない」に違反。  ⑥悪行、⑪高慢、⑫愚かさ……箴言のみことばほかみこころに対する違反。  ⑦欺き……十戒の第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」が適用できるみこころへの違反。  こういったことが自分をけがす。宗教指導者たちは、⑪高慢で、⑫みこころも悟らないで愚か、⑥民から搾取する悪行に手を染め、②神のものを盗み、⑤民から搾取することに飽くことなく、⑦民を欺いて民から搾取し、⑨まことの神の子なるイエスさまをねたみ、③イエスさまを殺そうとし(実際十字架にかけて殺した)、⑩イエスさまをののしり、①④⑧そんな彼らは霊的に姦淫した状態である。なんと、手を洗わなければけがれている、と主張した宗教指導者たちには、イエスさまがおっしゃったすべてが当てはまる。  しかし、こうして宗教指導者を糾弾するみことばが書かれているのは、それがほかならぬ、私たちへの警告であるからだ。私たちは心の中で姦淫を犯さなかっただろうか? 隣の芝生は青い、とばかりに、人のことをうらやんだりしなかっただろうか?「あんな奴にはいなくなってほしい」と心の中ででも思わなかっただろうか? 高慢ではなかっただろうか? 愚かではなかっただろうか? それなのに、「こんな自分のことも主は愛しておられる」とばかりに開き直り、なにもしないではいなかっただろうか? 嘘をついたりしなかっただろうか? そういったことを口にすることで、私たちはどれほど、自分をけがしてきたことだろうか?  そのけがれから自由になるには、イエスさまの十字架の前にひざまずくことである。私たちにはイエスさまの十字架が見えているだろうか?