祈祷/使徒信条/交読;詩篇130篇/主の祈り/讃美;讃美歌75「ものみなこぞりて」/聖書朗読;詩篇119:105/メッセージ/讃美;聖歌541「とうだいははるか」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/栄光の讃美;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」
メッセージ;「みことばという光で輝く」
伝道用の小冊子として世界中で用いられている「四つの法則」。この巻末に、イエスさまを信じ受け入れた人は教会に行くべきであることが書かれている。その理由について、このように説明している。「薪は何本も一緒に燃やすといつまでも燃えるが、1本だけだとすぐに火が消えてしまう。クリスチャン生活もそれと同じである。」
クリスチャン生活はこのように、燃える炎に例えられる。私たちは熱くありたい。輝いていたい。そのためにも、この教会という共同体で、ともに燃やされ、輝くことが私たちに求められている。
そこで今日のみことば。有名な聖句だが、このみことばから、私たちクリスチャンにとって神のみことばとはどのようなものかを学んでみたい。
私の足、とある。私の足、というからには、その足は「自分自身」についている部分である。私の足は娘にはついていない。「私」の足、ということが大事である。「私が」暗闇の中で迷わないように、自分のために照らすものが「あなたのみことば」という「ともしび」である。ディボーション、聖書通読というものは、個人的にみことばに向き合う作業だが、これは、「私が」歩けるように、神さまのみことばによって暗闇を照らしていただくことである。
これに対して「道の光」だが、道というものはひとりで通るものではなく、みなで一緒に通るものである。このように、道が暗闇に閉ざされてみなが一斉に迷ってしまうことのないように、道は光に照らされている必要がある。その道を照らす光もまた「みことば」である。
道というものは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃった、イエスさまという道、十字架を通って父なる神さまのもとに行く道である。クリスチャンはみことばの光に照らされて、この同じ道、唯一の道なるイエスさまという道をともに行く。その意味で、みことばの光に照らされることは、個人的なことであるのとともに、教会という共同体のわざでもある。
そして、このイエスさまという道は人々の目にはふさがれている。それは、自己中心という罪、神を神と認めない罪の中にいて、目がふさがっているからである。それは暗闇の中にいることである。その暗闇を払うものが、神さまのみことばである。そして私たちは、この神さまのみことばに照らされて、自分の足で、一歩一歩前に進むのである。
このように、実は私たちの行く道がみことばという光に照らされていることを人々に知らせるには、言うまでもなく、私たちがまず、みことばという光に照らされている必要がある。その光に照らされて輝く生き方がどんなに素晴らしいか、人々に証しするのである。言ってみれば、光に照らされていないで迷う人、つまずく人を、光に照らすのである。
私たちはみことばの光に照らされる生活を、人に隠すものではないだろう。それは私たちのことを血潮をもってあがなってくださったイエスさまのことを恥じる生き方である。そういう人のことをイエスさまは、終わりの日に恥じるとおっしゃった。そうではなく、このみことばの光を輝かせる生活をすることが、私たちに求められている。
そして、足がみことばのともしびでともされているならば、私の足をともすともしびなるみことばの恵みを、クリスチャンがみなで持ち寄ることによって、みなは同じ道、キリストという道を行くことができる。みことばの恵みの分かち合いはそのために必要なものである。
そして、そのディボーションと分かち合いにとどまらず、この、みことばの光で照らされた道を、人に伝えるのである。すなわち、伝道である。具体的に言えば、毎日みことばから受ける恵みを人々の前であらわす、すなわち、その日に与えられたみことばを生活の中で、具体的に、現実的に、実践可能な範囲で、その日のうちに(あるいは近いうちに実践できるように計画を立てて)実践することで、イエスさまというこの上なく魅力的なお方にお従いする魅力ある生き方を人々の前であらわす生き方をすることで、人々が、私たちの生きる源であるイエスさまとそのみことばに心惹かれるようになるならば素晴らしい。主がそう導いてくださるように祈ろう。
自分はみことばの光に照らされているか? この教会の兄弟姉妹とともにみことばの光に照らされてに歩まないか? この世の迷っている人、みことばの光に照らされる必要のある人はだれか? ともにみことばの光に照らされ、輝こう。