子ども時代、いろいろな童謡を聴いて育ってきたが、こんな歌もあった。「ポケットの中にはビスケットがひとつ ポケットをたたくとビスケットはふたつ もひとつたたくとビスケットはみっつ たたいてみるたびビスケットはふえる そんなふしぎなポケットがほしい そんなふしぎなポケットがほしい」私はビスケットが好きだったので、ほんとうにこういうおとぎの世界にあこがれたものだったが、おとぎばなしではなく、実際にそれをなさったお方がいた。ただし、ビスケットではなく、パンと魚で。そのみわざをなさったのはイエスさま。
今日の箇所を見てみると、マルコの福音書6章に出てくる、五千人給食の繰り返しのように思えるかもしれない。しかし、今日の箇所で特に、異邦人の地にてこの御業が行われたということに注目しよう。イエスさまがパンを分け与えられたのは、豊かな天の御国の宴会をこの地にて行われたということだが、それをイエスさまは、異邦人の地で行われた。これは、異邦人にも救いの道が開かれ、主のみからだに与る恵みが与えられた、ということである。
ヨハネの福音書を見てみると、イエスさまがこのように、奇跡のようにしてパンを分け与えられてから、ご自身こそがいのちのパンであると人々におっしゃった。ほんとうに分け与えられるもの、そして、人々にまことのいのちを与えるものは、イエスさまのみからだであることをお示しになった。しかし、このことばに、十二弟子を除く弟子たちは去って行ってしまった。イエスさまのみことばがわからなかったのである。
それなら、イエスさまはもう、どうせこのような奇跡を行なっても人々がご自身についてこないなら、行なっても無駄だとばかりに、もう行うのをやめてしまわれたのだろうか? そうではない。この箇所を見てみると、イエスさまのみことばを求めて、食べることも忘れて耳を傾けていた何千人もの人々のことを、イエスさまは「かわいそうに」と憐れまれた。そして、この人たちを食べさせよう、と、イエスさまは思われた。
4節を見てみると、弟子たちはまだ、イエスさまがそれ以前にみわざを行なわれ、わずか5つのパンと2匹の魚で5000人もの人々を養われたお方だということが抜け落ちていた。そのような弟子たちの不信仰をよそに、イエスさまはわずか7つのパンと少しの魚で、4000人もの人々を満腹させられた。
ここでも、弟子たちの信仰が問われたのであった。イエスさまがこのようにみわざを行われたのは、もちろん、そこにともにいる群衆のためであったが、同時に、そばにおいて訓練している弟子たちがまず、全能の神さまであるイエスさまに対して信仰を持つようにするためであった。信仰の訓練を、これほどまでにダイナミックな方法で、イエスさまは行われたのであった。
さて、それでは、イエスさまはこのようなしるしと奇跡を行うことが、この世に来られた目的なのだろうか? そうではない。ガリラヤ湖を渡ってダルマヌタ地方に行かれたとき、そこにはパリサイ人が待ち構えていた。彼らは天からのしるしを見せよとイエスさまに迫った。しかし、イエスさまは彼らの誘いには乗らず、「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とおっしゃった。
イエスさまがしるしを行われたのは、みことばに飢え渇いたうえに食べ物にも飢え渇いた、群衆のためであった。その動機は「あわれみ」であった。しかし、そもそも満ち足りていて、神の子であるイエスさまのことを一切認めないような傲慢なパリサイ人を前にしては、そもそもしるしをお見せになる必要がなかった。イエスさまは、「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とおっしゃったが、これは、イエスさまというお方が、しるしを見せることによって人々を説得し、王の座にお着きになるお方ではないことを示している。
ほんとうのしるしは、イエスさまの十字架と復活である。いみじくもイエスさまは、このように挑発するパリサイ人に対して、「ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられない」とおっしゃったが、ヨナは神の怒りに触れて荒海に投げ込まれ、それによって神の怒りはなだめられたが、ほとんど死んだような状態になった。そんなヨナは大魚に吞み込まれ、3日3晩大魚の腹の中で過ごし、ついには陸地に生きて吐き出された。そのように、イエスさまが人々の身代わりに神の怒りを受けて十字架に死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえって墓の外にお出になるというしるしこそがほんとうのしるしであるとおっしゃったわけだが、パリサイ人の目にはそのことが隠されていた。
13節にあるとおり、イエスさまはパリサイ人から離れられた。パリサイ人は、自分たちこそみことばをよく理解していると自負していただろうが、そのような者が、神の子なるイエスさまのことがわからなかったとは皮肉である。彼らは傲慢な態度で、目の前におられるこのお方が神の子であることを否定し、もちろん自らも信じようとしなかったが、イエスさまはそのような者からは離れられる。
ある牧師先生のメッセージを聴いて愕然としたことだが、こうおっしゃっていた。「韓国の教会は祈る教会、台湾の教会は賛美する教会、日本の教会は? 議論する教会」。別の先生はこんなこともおっしゃった。「クリスチャンが部屋の中に集まって、みんなで、ああでもない、講でもない、と話し合っています。そんなとき、部屋の外ではイエスさまがドアをノックしていて、『もしもし、わたしはここですよ』とおっしゃっています。」
韓国にいたとき、日本の教会は神学が深いということをよくお聞きしたが、私にはそれがほめことばには聞こえなかった。ほんとうに神学が深まって成熟しているならば、もっと教会が成長してもよさそうなものである。議論ばかりで肝心のイエスさまに向かい、お交わりを持とうとしない教会からは、イエスさまは離れられるのではないだろうか。パリサイ人のことは私たち日本の教会にとって、ひとごとではない。
さて、パリサイ人から離れたイエスさまの一行は、船に乗ったが、パンが1個しかなかった。そのとき、イエスさまは15節のようにおっしゃった。しかし弟子たちは、この「パン種」というものが、食べるパンと関係のあるものだという、浅はかな解釈しかできず、議論を始めてしまった。
イエスさまはそれをご覧になり、お叱りになった。17節から18節。7つもお叱りのおことばを語っておられる。七は完全数。肉的なことしか考えられなかった弟子たちを、完全にお叱りになった、ということである。
イエスさまがその時思い起こさせられたことは、パンを豊かに増やされ、人々を食べさせたのちに、残りを取り集めてもそのかごはたくさん、いっぱいになった、ということだった。12も7も、聖書の世界では完全数である。人々を食べさせた残りの、かごに入った食べ物は、弟子たちのためのものである。弟子たちのことをこれほどまでに、完全に食べさせることができるイエスさまのことを、なぜ信じない、と、イエスさまはお嘆きになり、その7つの完全なお叱りのことばをもって、弟子たちの不信仰を徹底的に取り扱われたのである。
それでは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」とは何であろうか? それは、この世に属する俗的な神解釈である。パリサイ人は、人々に宗教的な生活を強いることで、自分たちの既得権にこだわった。それはヘロデも同じことで、ヘロデは宗教社会の統治者として君臨してはいたものの、実際はへロディアを妻とし、バプテスマのヨハネを処刑するような俗物だった。そしてこれはどちらも、イエスさまをまことの神さまと信じてお交わりし、お従いすることとは異なることである。
面白いことに、パリサイ人もヘロデも、イエスさまに何らかの奇跡を行うことを要求した。この箇所を読むとパリサイ人はイエスさまにしるしを要求しているし、ヘロデは十字架にかかられる直前のイエスさまを尋問したとき、イエスさまに何らかのみわざを行うことを要求している。
しかし、このようにまことの神なるイエスさまに要求することは、所詮、イエスさまに対する不信仰の裏返しである。この場合の不信仰は、「イエスさまを信じないこと」というよりも、「イエスさまよりも自分の考えを正しいとすること」と言えよう。自分の考えを最優先で信じて、イエスさまへの信仰は二の次、なのだから、これも不信仰ということができる。
ほんとうにイエスさまを信じているならば、イエスさまのおっしゃることはすべて、アーメン、そのとおりです、と信じ受け入れてしかるべきである。そこに人間的な考えが入り込むからおかしくなり、ややこしくなる。そのような不信仰が悪いパン種である。パン種は本来、パン生地に入ってパンを大きく膨らませて、食べられるようにもする。神の国の福音というものもそのように、人々を限りなく成長させる。イエスさまのみ教えはそれほどの力を持つ。しかし、悪いパン種が入ると、パンが腐るように、教会という共同体の中に悪いパン種のごとき不信仰が入り込むならば、教会はイエスさまとまともにお交わりすることができなくなり、不信仰の共同体になってしまう。
イエスさまがあれほど、口を極めて弟子たちをお叱りになったのは、不信仰という次元においては、パリサイ人やヘロデと五十歩百歩のみっともないさまを、弟子たちが見せてしまったからと言える。つまり、十二弟子の共同体の中にさえも、悪いパン種は入り込む余地があった。そのたびにイエスさまは、お叱りのことばを語って彼らを悔い改めに導かれた。子どもはイエスさまのもとに来てはいけないというのはパリサイ人のごとき律法主義である。イエスさまはそのようなことを言う弟子たちを激しくお叱りになって、子どもたちを受け入れられた。だれがいちばん偉いかと議論する弟子たちの姿は、ヘロデのように宗教社会において世俗的権力をもって君臨しようとする醜い姿であり、イエスさまは、神の国とはそのようなものではないことをお示しになるために、みなに仕える者になりなさいとおっしゃった。
教会はいつでも、パリサイ人のパン種のような律法主義にやられる可能性がある。あるいは、ヘロデのパン種のような世俗的な権力主義にやられる可能性がある。私たちとて例外ではない。教会がそのどちらからも守られるために、私たちは時にイエスさまのお叱りをいただきつつ、イエスさまのみことばにお従いする必要がある。主は、頑なで悟れない私たちのことを諦めることはなさらず、これでもか、これでもか、とみわざを示してくださりながら、なおも私たちのことを導いてくださる。