聖書箇所;マルコの福音書8:22~26/メッセージ;「はっきり見えるようになるまで」
子どもを育ててみてつくづく思うことは、一度言って聞かせたからといってわかってくれるわけではない、ということ。それは、イエスさまにとっての私たちも同じなのだろう。私たちは一度神さまのみことば、イエスさまのみことばを聞けば、それで充分悟ってみこころを守り行えるようになるわけではない。目が充分に開かれるまで、主は引きつづき、これでもか、これでもか、と教えてくださる。
先週のみことばを振り返ろう。イエスさまが「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には気をつけなさい」とおっしゃったとき、弟子たちは、自分たちがたった1個しかパンを持ってきていなかったことを、イエスさまが問題にされたのだと思い、議論を始めた。イエスさまはその姿を見て、弟子たちを叱責された。
先週のみことばは、弟子たちに対する叱責のことばで終わっているが、ここに至るまでのプロセスは、霊的に目の見えない弟子たちがイエスさまによって目を開けていただく、ということを示している。イエスさまの弟子として訓練していただくということは、もともとがイエスさまとその真理に目が開かれていない者が、目を開いていただく、ということである。
その前提で今日の箇所を見てみよう。イエスさまの一行がガリラヤ湖からベツサイダの地に上陸すると、人々が、目の見えない人をイエスさまのもとに連れてきた。彼にさわってくださいというのである。彼らは、イエスさまがしるしと奇跡を行われるお方であることを知っていた。イエスさまが触れてくださるならば、この人の目も開けていただけるという信仰があった。
当時の人々は、イエスさまの御業というものを、リアルタイムに見聞きし、また、体験していた。言い換えれば、イエスさまのしるしと奇跡は彼らにとって現実だったのである。時はそれから2000年下ったが、私たちはこの聖書のことばを、誤りなき神のことばと信じ告白している。ということは、この数々のみわざが行われたことは、事実だと信じ受け入れているわけである。この信仰は、私たちにとってすべての基礎である。
イエスさまは、この目の見えない人をお癒しになることを決められた。まずイエスさまがなさったことは、連れてきた人々のところから彼の手を取って離され、村の外に連れていく、ということだった。人前を離れて、秘かなところでみわざを行われたのである。これは、いやしのわざはどこまでもこの本人のため、さらに言えば、この人が創造主なる神さまに個人的に出会うために行うことであり、人々に見せるパフォーマンス、ショーとして行うべきものではないことを示している。
私たちがほんとうの意味でイエスさまに触れていただく場所、みわざを体験する場所は、大々的な場所、衆人環視の場所である必要はない。イエスさまと一対一になれる場所である。私がディボーションや聖書通読をこれでもかと奨励するのは、そうなることでみなさんが「偉くなる」ためではない。
そうではなく、ただでさえこの世において病まされて傷つけられることの多い私たちは、イエスさまでなければいやせないそれらの痛みを主の御前に差し出し、健やかになる必要があるからである。健康になること、それが主のみこころである。
イエスさまはどのようにしてこの人をいやされたのだろうか? まず、彼の両目につばをつけられた。前にも言ったとおり、つばというものを現代日本の考えでとらえてはいけない。これがイエスさまのいやしの方法である。考えてほしい。その「つば」は神の子イエスさまのものである。それだけでもたいへんな薬のように思えてこないだろうか? イエスさまはそれを、目に塗られたとある。
イエスさまはヨハネの黙示録において、霊的に一向に目が開かれようとしないラオディキア教会の信徒たちに、「目に塗る目薬を買いなさい」とおっしゃり、薬の生産地として栄えたラオディキアにふさわしい表現を用いていらっしゃるわけだが、今日お読みしたみことばにおいては、見えるようになるために目に塗るべきは、「つば」、イエスさまのみからだの一部であったものであるわけである。
当たり前のことだが、こんにちにおいてはもちろん、イエスさまの代わりにだれかの唾液を塗るわけにはいかない。しかし、神のみことばであるイエスさまの御口から出たひとつひとつのみことばが、
人を生かし、人をいやし、人の目を開く。そういう意味では私たちも、イエスさまのみことばの薬を目に塗っていただくべき存在である。そうするためには、いつもみことばを読むことが大事になる。
さて、イエスさまはそのようにして、この目の見えない人の目に触れられた。イエスさまはその人に、「何か見えますか」とお尋ねになった。イエスさまは一方的にみわざを行われるだけのお方ではない。対話をとおしてみわざを成し遂げられるお方である。あなたは何が見えますか。あなたは見えていますか。イエスさまと対話をいつも交わす祝福が私たちにあるように。
この人は答えた。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」この人はいやされた。これだけでも奇跡である。まったく見えなかった人が、わずかながらの視力、人と木の区別がつかない程度であっても、見えるようになったからである。
しかし、創造主の視点に立つとどうだろうか。神さまは人を完全に見えるように創造されたわけであって、人と木の区別もつかないような視力は、人の標準ではない。私は幼いときから人並外れて視力が悪く、そのためにたいへんな苦労をしてきた。つねに、普通に目が見える人と自分を比較しながら生きてきた。それゆえ、普通に目が見えることがどれほど祝福されているか、ということを思うのと同時に、視力がよいことが創造の御業の標準であることを喜んで認めるものである。
そういうわけでイエスさまは、もう一度この人の目に触れられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。イエスさまは、この人がはっきり見えるようになるために、あらためてみわざを行われたのであった。これは、みことばの真理に目が開かれるプロセスと同じである。弟子たちもみことばをたちどころに悟れなかった。そんな彼らに対しイエスさまは諄々と説かれ、悟れるように導いてくださった。一度で聞いてすぐに悟ったつもりになってはいけない。まだ自分はわかっていないことばかりだということを認め、繰り返し繰り返し、イエスさまに教えていただくことが必要である。
さて、イエスさまはこの人のことを家に帰らせ、もといた場所に戻された。ただしその一方で、村に入っていかないように、すなわち、人々の前でやたらと自分の姿を見せびらかさないようにと戒められた。たしかにこの人は、イエスさまが触れてくださることによってはっきり見えるようにはなったものの、イエスさまが宣べ伝えられる神の国の何たるかまで、この瞬間たちどころにして理解したわけではなかった。ただ単に、目を見えるようにしてくださった、奇跡を行われる人、程度にしか人々に伝えることはできなかった。逆に言えば、かえってそう伝えることによって、それだけでも大変なインパクトを与えることになる。それはパリサイ人を刺激し、イエスさまの本来行われるべき宣教の働きが妨げられることにもつながることだった。
私たちはしかし、最初のうちは、イエスさまの奇跡やしるしのすごさに驚くところから、信仰生活が始まったのではないだろうか? このような奇跡を行うお方が私の神さまとは! しかし私たちの目を主は絶えず開いてくださり、たとえ奇跡をおこなっておられないようなときでも、変わらずにこのお方は主、神さまであると告白し、お従いする恵みが私たちに与えられている。そのようにして私たちは霊的に成長させられてきたのである。
私たちは、もう自分は充分に悟ったと思ったら、もはや成長する余地がなくなってしまう。私はまだ見えません、わかりません、そのように謙遜に認めるところから、私たちはイエスさまによって目を開いていただくことができる。何か見えますか、この御声が聞こえるだろうか? 今見えている真理を告げてみることである。それで充分ではないならば、イエスさまがもっと私たちの霊の目に触れてくださり、はっきり見えるようになるまで、みことばを悟る恵みを与えてくださる。この恵みに感謝しよう。