「十字架を負うべき私たち」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇138:1~8/主の祈り/讃美歌494「わが行くみち」/マルコの福音書8:27~38/メッセージ/聖歌617「したいまつる主の」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/栄光の讃美;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「十字架を負うべき私たち」 先週学びました聖書箇所は、イエスさまが目の見えなかった人のことをお癒しになったという箇所です。そのとき、イエスさまはその人の目に手を触れられましたが、最初その人は、見えるようにはなったが、歩いている人々は木のように見える、と言いました。たしかに見えるようになっているから、それだけでも奇跡といってもいいのでしょうが、イエスさまはそれでいやしの御業を完了されませんでした。イエスさまはもう一度その人の目に触れられました。すると、はっきり見えるようになりました。そのように、はっきり見えるようになるまで、イエスさまは何度も、お取り扱いの御手を触れてくださるお方だということを、先週私たちは学びました。 私たちクリスチャンにとってはっきり見えるようになるということは、霊の目が開かれ、イエスさまご自身とそのみことばがはっきりわかるようになる、ということです。この目の見えない人は、最初人が木のようにしか見えなかったわけですが、目の前におられるイエスさまが、木にしか見えなかったら困ります。私たちは十字架というシンボルを大切に思います。しかしそれは、イエスさまがかけられた木だから大事なのであって、十字架という木そのものが大事なのではありません。しかし、十字架にかかられたイエスさまを知れば知るほど、私たちは十字架の贖いのあまりのありがたさに感動し、ますますイエスさまについていくようになります。単に十字架を機械的にしか見ていないようでは、この、イエスさまに目を開けていただいた人の最初の段階のように、まだまだ目が開かれていないということであり、イエスさまに心の目、霊の目に触れていただいて、見えるようにしていただく必要があります。 さて、そこで今日の本文です。イエスさまは弟子たちにお尋ねになりました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」もちろん、何でもご存じのイエスさまは、ご自身の評判をご存じないわけがありません。こうお尋ねになることで、すでに世間で評判になっていたイエスさまのことを世間がどうとらえているかを、弟子たちがちゃんと把握しているか、弟子たち自身に確かめさせられたわけです。私たちの主イエスさまは、私たちがイエスさまを宣べ伝えるべきこの世の人たち、より正確に言えば、私たちの周りの人たちにどのように思われているか、そのことを把握するのは、私たちクリスチャンにとって大事なことです。イエスという人物は単なる人間だろうか、道徳の先生だろうか、あまたいる宗教家のひとりだろうか、はたまた、神の子だろうか……。そういうわけで、弟子たちも、自分たちが信じ従っているイエスさまのことを世間がどうとらえているかを知ることは、世間を知ること、また、自分たちの信仰を客観的に見ることにおいて役立ったわけです。 弟子たちは答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだという人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」大人気だったヨハネ、神の人と認められて尊敬を一身に集めていたヨハネ、しかし彼はヘロデの罪を告発して囚われの身となり、ヘロデの妻ヘロディアの陰謀によって首をはねられます。だが、その彼が生き返って、こうして数多くの奇跡を行いながら教えを宣べ伝えていたというのです。民衆の間でヨハネがどれほどの尊敬を集めていたか推し量ることができます。まさに、イエスさまが「女から生まれた者の中でヨハネよりも優れた者はいない」とおっしゃっただけのことはあったわけです。 エリヤは、はるかむかしの偉大な預言者です。そのエリヤは、旧約聖書の列王記第二2章を読めばわかるとおり、生きたまま竜巻によって天に挙げられます。そのエリヤが時を経て降臨したとも考えられたわけです。あるいは、ヨハネやエリヤではなくても、旧約聖書の時代に神の啓示を受けて働いた預言者たちに肩を並べる偉大な人、ともとらえる人もいたわけです。 こうして、弟子たちはイエスさまが世間でどうとらえられているかをイエスさまに申しあげました。そこでイエスさまはお聞きになりました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」大事なのは、「私たちが」イエスさまのことをどんなお方であるかと告白することです。人がああいうから、とか、世間ではこう思われているから、とか、学校ではこう習ったから、で、私たちにとってイエスさまがどんなお方かが決まるのではありません。「私が」、みことばをお読みしてお祈りし、イエスさまとの個人的な交わりを持つ中で、イエスさまとはどういうお方かを告白するのです。その点、弟子たちは普段からこうしてイエスさまとともにいて、お交わりをしていたので、だれよりもイエスさまが自分にとってどんな存在か、言うことができました。言う資格があった、という言い方もできるでしょう。 ペテロが答えました。「あなたはキリストです。」この告白の重さがわかりますでしょうか。私たちは当たり前のように、イエスさまのことを「イエス・キリスト」とお呼びしているから、イエスさまを「キリスト」と呼ぶのは当然ではないか、と思うかもしれません。しかし、一般的にこのお方を「イエス・キリスト」とお呼びするのは、キリスト教が世間一般に普及しているからにすぎません。この厳格な一神教であるユダヤの、当時の宗教社会において、だれかひとりの人物を「キリスト」、すなわち神と同等の存在と呼ぶことは、それだけで神への冒瀆と見なされることです。おいそれと口にできることではありません。だがペテロは、キリストは、目の前におられるこのイエスさまをおいてほかにない、と確信したゆえ、ためらうことなく「あなたはキリストです」と告白したのでした。 マタイの福音書の並行箇所を読みますと、イエスさまはペテロに向かって、あなたは幸いだ、その告白は天におられる父なる神さまがさせてくださった、その信仰告白をした彼の、ペテロという名前の意味が、岩という意味であることにちなみ、この岩の上にわたしの教会を立てるとおっしゃっています。まことに、イエスさまのことをキリストと告白するその岩のごとく強固な基礎の上に、私たち、主のからだなる教会は立てられているわけです。 だが、このマルコの福音書の記述を見ると、そのようにイエスさまがおっしゃったくだりは、まるまる省かれています。書かれているのは、イエスさまが、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた、ということだけです。つまりここでは、その戒めこそが強調すべき大事なことだったわけです。 もちろん、ペテロをはじめ弟子たちは、のちの日には大々的にイエスさまがキリスト、救い主であると宣べ伝えるようになっています。だがこの時点では、イエスさまは、ご自身がキリストであることをだれにも言ってはならないと、むしろ弟子たちのことを戒めています。その理由としてはいろいろ考えることができますが、ここはやはり、聖書本文の流れから、イエスさまがなぜそのようにおっしゃったかを考えたいと思います。 そのように戒められてすぐに、イエスさまは、ご自身の受難についてお話しになりました。多くの苦しみを受ける、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられる、殺される、しかし三日後によみがえる、そうならなければならない……そのことをはっきり、イエスさまは弟子たちにお教えになりました。あなたがたは今、わたしのことをキリストと告白した。しかし、キリストとはこのような歩みをする存在だ。彼らの目を、さらに新しい段階へと開こうとなさったのでした。 だが、これを聞いたペテロは、イエスさまをわきにお連れして、いさめました。マタイの福音書では、ペテロが具体的に何と言ったかが書かれています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 ペテロとしては精いっぱいの思いやりのつもりで、こう言ったのかもしれません。しかし、ペテロのことをどうフォローしようとも、イエスさまがおっしゃっている、キリストのあり方を、ペテロが真っ向から否定したという事実には変わりがありません。つまり、ペテロは確かに、ユダヤの宗教社会から抹殺される危険を顧みずにイエスさまのことをキリストと告白する恵みを受けましたが、この時点では「キリスト」というものを根本的に勘違いしていました。多くのユダヤ人が思い描いていたような、わかりやすい王の王としての姿を思い描いていたならば、ユダヤをローマから解放するのだから、むしろ宗教指導者たちからは最終的に尊敬と感謝と歓迎を受けてしかるべき、それが捨てられ、殺されるとはどういうことか……。ペテロの戸惑いが見えるようです。 イエスさまはそんなペテロに向かい、一喝されました。「下がれ、サタン。」このおことばのあと、ペテロに対するおことばが続きますが、イエスさまはペテロのことを「サタン」と呼ばれたわけではありません。イエスさまの第一の弟子であるペテロの信仰さえも惑わすサタンに対して一喝されたわけです。 サタンの惑わしは、イエスさまの十字架ということにおいて特別に現れます。この世には「クリスチャン」を名乗る人がたくさんいますが、その中でも多くの人が、「十字架」抜きの信仰、より正確に言えば「十字架にかかってくださったイエスさま」抜きの信仰になっていないかということを憂えます。サタンは、イエスさまの十字架を無視させるためならば、どんな惑わしをも用意します。教会の中で交わされたささいなことばを気にさせたり、現実に次から次へと問題を引き起こして圧倒させ、イエスさまと交わる時間を与えないようにさせたり……。こうして人が、イエスさまの十字架抜きの、かたちだけの「キリスト教という宗教の信者」になっていくならば、それはとても危険なことです。 ペテロも今こうして、キリストとは「捨てられる」お方であることまで悟っていなかったために、あろうことか、この人類の贖いのご計画を邪魔させようとするサタンの計略に、人間的な思いやりで、まんまと乗ってしまいました。イエスさまはそんなペテロのことを、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている、と叱責されました。 このように浅い理解でしか「キリスト」という存在をとらえられなかったペテロたち十二弟子は、まだこの段階では、同様に浅いキリスト理解しか持ちえないユダヤ人たちに、イエスさまがキリストであることを宣べ伝えるわけにはいかなかったのでした。最初人が木のようにしか見えなかった人が、さらにイエスさまに目を触れていただいて見えるようになったように、一度百点満点の告白ができたからと、すぐさま今後百点満点の働き人になれるわけではなく、働き人となるために、段階を経てのイエスさまのお取り扱いをペテロは必要としたわけです。私たちも同じです。はっきりイエスさまが見えて、イエスさまが語れるようになるまで、私たちは何度でも、イエスさまに触れていただく必要があります。 こうしてペテロのことを、弟子たちの面前で叱責されるというショッキングなお取り扱いをなさってから、イエスさまはお話しになります。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」だれでも、とおっしゃいました。ですから、このみことばは、ここにいる弟子たちはもちろんのこと、こうして今みことばをお読みしている私たちひとりひとりにも語られています。 私たちもイエスさまにお従いしたいと願っていることでしょう。しかしそれには条件があります。まず、自分を捨てることです。どのようにして自分を捨てるのでしょうか? 十字架を背負ってイエスさまに従うことです。 イエスさまは、宗教指導者たちの手によってご自身が文字どおり抹殺されることをお告げになりましたが、具体的に「十字架におかかりになる」とは書いてありません。マタイとルカの並行箇所を見てもそうは書いてないので、イエスさまはご自身が「十字架に」おかかりになると、はっきりお語りにならなかった可能性があります。しかしここでは、彼らにはっきりと、自分の十字架を背負いなさい、とお語りになっているわけです。十字架とは本来、私たちこそが背負うべきものであるわけです。 十字架を背負うことは自分を捨てることです。十字架にかかる人間は、十字架にかかるだけの罪人ゆえに、神に呪われ、神に捨てられます。聖書は語ります。義人はいない。ひとりもいない。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。ならば、すべての人は神さまによって、究極の処刑である十字架の刑罰に処せられる罪人であるわけです。 人々は十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かわれたイエスさまを嘲りました。しかし、その嘲りのかぎりを尽くした群衆こそ全員、十字架を負うべき罪人です。十字架を負わなくていいお方はイエスさまだけです。そのお方に十字架を負わせたのは私たちです。私たちは、どれほど十字架を背負うにふさわしい罪人、神を捨てた究極の極悪人でしょうか。もし私たちが、自分はそういう罪人であるという自覚を持つならば、自分にはひとつとして神さまに認めていただけるよいところなどないことを悟ります。そして、神さまに認めていただけないと知った以上、人に認めてもらいたい、自分さえよければいいという、自我を捨てるしかなくなります。 だが、そうして十字架を背負うばかりの絶望的な究極の罪人は、イエスさまについていくことを許されています。イエスさまを通ってその一切の罪が赦され、父なる神さまにまったくのきよい人として喜んで受け入れていただける人になる、そうして、イエスさまの弟子としてこの世を歩む資格を与えていただける……だから、私たちは、イエスさまの十字架を見るたびに、自分こそが十字架につくべき罪人である、その十字架にイエスさまが身代わりについてくださった、イエスさま、ありがとうございます、私もあなたさまのために、一生、生きていきます。一生、ついていきます。そうなるのです。 世の人は、自分こそが十字架を負って神さまの怒りとのろいを受けるべき罪人であることも、その絶望から救ってくださるイエスさまのことも知らないばかりに、イエスさまのために生きるより、自分のために生きようとします。自分を捨てることを知らないのです。テレビや新聞を見ても、健康グッズの広告であふれていて、人々はいかに生きることに執着しているかを見る思いがします。だが、イエスさまが身代わりに死んでくださっていることを信じ受け入れない人は、十字架にかかるべき究極の罪人であるゆえに、それにふさわしい神の怒りのさばきを受けるしかありません。人は罪人であるかぎり、自分のいのちを救おうとする人は、そのいのちを失うさだめなのです。 中には、才覚があって、政治力や経営力を駆使したりして、天下を取る人もいるでしょう。有名になったり、長者番付に名前が載ったりします。しかし、そういう人も、自分が十字架を負うべき罪人であることを自覚し、それゆえに、唯一その十字架にかかるほどの罪を許してくださったお方であるイエスさまを信じ、お従いすることがなければ、いのちを失う、滅びるということを知る必要があります。そんな自分のいのちを地獄から買い戻すには、どんな財産も、どんな人間的なコネクションも通用しません。イエスさまを信じ従うこと以外には、自分のいのちを買い戻していただく道は一切ありません。 38節のみことばを読みましょう。「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」イエスさまがこの世に生きられた2000年前もとても罪深かった時代でした。現代日本の罪深さたるやどうでしょうか。いま、日本は全国的に梅毒が流行して秘かな社会問題になっていますが、その原因となる放埓な性関係のあり方について議論しようとする人はいません。姦淫が当たり前のことになっています。姦淫という快楽は、当然人間として享受するものという前提ありきです。罪も、世間を震撼させたルフィなる男から、レストランの食べ物にいたずらする若者まで、大小さまざまな罪が報道されていますが、人のことを罪人扱いするニュースの視聴者こそ、たいていは自分の罪に気がついていません。目には丸太のような罪がさえぎっています。 そんな世の中の影響を受けて、世の中に妥協して合わせ、人に気に入ってもらえることが、善良な市民としてのふるまいであり、それがひいてはキリストを証しすることにつながる、などと思っていたら大間違いです。私がこの教会に赴任して素晴らしいと思ったことは、赴任して間もないころ、信徒さんの亡くなったご家族の、キリスト教式ではないご葬儀、神式や仏式のご葬儀に出る機会があったのですが、そのたびに参席された教会員のみなさんが、お焼香をしなかったり、榊をささげなかったりと、宗教行為をなさらなかったことです。宇佐神先生がそのように教育を徹底しておられる教会に来させていただいたことをほんとうに感謝したものです。宇佐神先生もうちの信徒さんたちも、終わりの日には素晴らしい報いを受けられます。 でもご存じでしょうか、この日本にはクリスチャンでありながら、堂々とお焼香をすることで体面を保つ人がいます。こういうことは小さなことのようですが、小さなことに忠実な人が大きなことに忠実なのであると、そういう人に御国が任される、と、イエスさまはおっしゃいました。私たちの従順の積み重ね、この世に合わせるべきでないことはどんなことでも妥協しない、その実践の積み重ねは、やがてイエスさまが再臨されたときに、必ずイエスさまが評価してくださる対象となります。 私たちは十字架を負うべき罪人だと心底自覚しているでしょうか? もしそうならば、その十字架を進んで身代わりに背負ってくださったイエスさまを誇るはずです。イエスさまとそのみことばを恥ずかしいと思うのは、自分の十字架を背負ってもいないし、イエスさまのあとを従ってもいないからです。私たちはどうでしょうか? 自分の十字架を背負うほどに自分を捨てているでしょうか? しかし、その生き方は、イエスさまに一生お従いする、世界で一番幸せな人生です。 私たちは時に、自分の十字架を担いきれないことを知って、つまり、自分のあまりの罪深さに絶望して、落ち込むこともあるでしょう。しかし、イエスさまはそんな私たちのかかるべき十字架に身代わりについてくださるほどに、いのちを捨てて私たちを愛してくださったお方です。イエスさまのこの愛をいただいて、今日も、そしてこれからも、ともに歩んでまいりましょう。