「信仰は祈りによって示される」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇142篇/主の祈り/讃美;讃美歌87B「めぐみのひかりは」/聖書本文;マルコの福音書9:9~13/メッセージ/讃美;讃美歌332「主はいのちを」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/頌栄;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」   先週のメッセージでは、イエスさまの御姿が神々しく変わられた、変貌山のできごとから学びました。それはとてもすごい光景だったわけですが、そのような素晴らしいものを見てしまうと、私たちならどうするでしょうか? 旅行の想い出ですとか、映画の感想ですとか……そういうものはつい、口にしたくならないでしょうか? 私の友達の奥さんにもそういうタイプの方がいました。友達に招かれて遊びに行ったとき、一緒に、その友達がテレビから録画したドラマのビデオを見ていたときですが、奥さんはいろいろしゃべるわけです。登場人物の情報を話すのはまだいいほうで、その後の展開がどうなるか、とか。よほどその内容に感動したり、面白いと思ったりしたわけでしょう。私ははじめてそのドラマを見るわけだから、あんまりネタばらしはしないでほしいと思うわけですが、奥さんは性格も明るく憎めない人なので、まあ許しちゃったりしていました。でもやっぱり、せめてドラマの先の展開くらいは言わないでいてほしいものでした。  つい話したくなる気持ち。しかし、それを話さないように戒められたならば、私たちのすることは、沈黙を守ることです。今日の本文では冒頭において、弟子たちが見た変貌山の光景に関して、イエスさまは秘密を守るように戒めを与えられた、とあります。もっとも、別の福音書を読むと、彼ら弟子たちは恐ろしくて、とてもこのことは口に出せずに沈黙を守っていた、とあります。彼らが沈黙を守ったのは、イエスさまがそう命じられたから、そして、自分自身が恐ろしかったから、そのどちらもであったわけです。  しかし、その沈黙を守るべき時というものは、「人の子が死人の中からよみがえる時まで」という、限定つきのものでした。このとき3人の弟子が見た光景は、やがてイエスさまの受難と復活ののちに、広く語られるべきものとなったわけです。しかし、それでもやはり、このできごとが語られるには条件があるわけで、それは、「イエスさまの受難と復活を経てから」というものです。  およそみことばというものは、イエスさまの十字架と復活という鍵がなければ解けない仕組みになっています。かつて日本で、ウォルター・ワンゲリンの『小説聖書』という本がベストセラーになったことがありますが、その本の腰巻に、小説家の浅田次郎が寄せたコメントは、ちょっと考えてしまいました。いわく、「本書は、難解な聖書を小説として通読せしめる快挙を成し遂げた」。私に言わせれば、聖書は難解でもなんでもありません。しかし、『鉄道員(ぽっぽや)』を書いたほどの小説家である浅田氏をして、聖書が「難解」であると言わせるのは、それは浅田氏が、聖書はイエスさまの十字架と復活という視点で読めばちゃんと理解できる、ということを知らないか、知っていても本の宣伝という仕事のために言わないからです。  ともかく、あらゆるみことばを解く鍵はイエスさまの十字架と復活であり、それが実現していない段階では、変貌山の光景というこの奥義を明らかにすることは、いかにイエスさまのそばにいる弟子たちであってもできませんでした。十字架と復活を抜きにして聖書を読んでは間違った聖書解釈しかできないように、この光景においても、イエスさまの復活を目撃する前にそれを話してしまったら、人々は誤解するでしょう。いや、彼ら自身でさえ、まだ確信を持って語れるほどの理解に達していませんでした。目の見えない人はイエスさまに目を開けてもらったとき、最初は人が木のように見えているだけだった、しかしさらにイエスさまに触れていただいて、今度はちゃんと見えるようにしていただいた、そのように、イエスさまによって目が開かれるためには、何度でも御手に触れていただく必要があるわけです。  この時点で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが、まだ充分にイエスさまの復活に対する理解に達していなかったことは、10節のみことばからも明らかです。その6日前に、彼ら弟子たちは確かに、イエスさまから直接、イエスさまの受難と復活についてお聴きしています。しかし、まだ彼らははっきりそれを見届けているわけではないので、それ以上のことはわからずにいました。  復活というものは見届けてこそ、初めて信じられるものです。こんにちにおいては、私たちはイエスさまがよみがえられたという聖書のみことばをお読みし、そのみことばがまことであると信じ受け入れることによって、イエスさまの復活そのものを見届け、受け入れることになります。かつて、ある小学生に、イエスさまの伝記をプレゼントしようとして、本屋さんで見繕ったことがありますが、その本は、イエスさまの復活は弟子たちの間でそう信じられた、という書き方をしていて、それが事実だとはまったく書いてありませんでした。これはだめだ、と買いませんでしたが、イエスさまの復活を信じ受け入れるには、聖書に書かれた通りをまるまるそのまま信じ受け入れるしかありません。  この時点での弟子たちをたとえるならば、イエスさまとその教えを知ってはいても、まだ聖書に示された復活という事実に出会っていない人、にたとえられるでしょう。イエスさまの復活についてはうんぬんする向きもあるでしょうが、百聞は一見に如かず、実際にその復活を目撃したならば、それ以上説得力のある根拠、みことばを宣べ伝えるうえでの根拠はありません。イエスさまの復活は議論の対象ではありません。信じ受け入れる対象です。  そのように、弟子たちがまだ復活に対して目が開かれていない段階で、彼らにはもうひとつ、聞いておくべきことがありました。11節です。彼らは、宗教指導者たちはまずエリヤが来るはずだと語っているではありませんか、と、イエスさまに問うています。彼らは、正真正銘のエリヤを目撃したわけですが、そのエリヤ当人が先駆けとして地上に現れてからイエスさまが来られたわけではなく、そうだとすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが語っていることはどうなるのか、ということです。  さて、ここからが今日のハイライトですが、イエスさまは続く12節と13節で、3人の人物の受難について語ります。それがだれなのかは徐々に明らかにしてまいりますが、まず12節のみことばをお読みしますと、イエスさまは「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです」と語っておられます。すなわち、律法学者たちが語っていることは正しい、とおっしゃっているわけです。それは、旧約聖書のいちばん最後の部分、マラキ書の4章5節、6節のみことばをお読みすれば明らかです。  そのように、エリヤがイスラエルを立て直し、人の子、すなわち、人としてこの世にお生まれになる神の御子キリストの道備えをすることはほんとうだとおっしゃっているわけですが、そのように、キリストを迎える道が備えられているはずの神の民のうちに来られるお方は、多くの苦しみを受け、蔑まれる、それはみことばに書いてあるとおりである、とおっしゃっています。  たしかに、キリストの受難は、イザヤ書の53章に書かれています。あまりにはっきり書いてあるので、現代においてユダヤ教では、このイザヤ53章は語られない、なぜならばこれが語られると、人々がキリスト信仰に目覚めてしまい、ユダヤ教の指導者はそれを警戒しているからだと、先週妻がみなさまに語ったとおりですが、ともかく、イザヤ書の53章のみことばは、キリストの受難を語ります。エリヤによってキリストを迎える道が神の民の間に備えられたはずなのに、民はキリストを苦しめ、蔑み、捨てるというのです。  それならば、神の民が救い主キリストを受け入れられるほどには整えられていなかった以上、備えをなす存在、エリヤは来なかったのでしょうか? そうではありません。13節をご覧ください。イエスさまははっきりおっしゃっています。「エリヤはもう来ています。」それは、ペテロたちが目の当たりにした歴史上の人物のエリヤ、バアルやアシェラと対決して雨を呼び起こした預言者のエリヤではないにしても、キリストの道を備えるエリヤはすでに来た、と、イエスさまご自身が宣言された、ということです。  イエスさまのみことばは続きます。「そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」イエスさまのこのみことばは、キリストの備えをなすエリヤは人々に迫害されるであろう、と預言者がみことばに記している、というよりも、むしろ、エリヤに対してイスラエルが好き勝手なことをしたことをみことばは記録しているが、そのように、キリストの道を備える現代の「エリヤ」にも、人々は好き勝手なことをした、ということです。  エリヤは、まことの創造主なる神さまにお仕えすべきイスラエルを神から離れさせ、バアルとアシェラを拝む偶像礼拝の民にしてしまったアハブ王を悔い改めに導き、イスラエルを神に立ち帰らせる器として、神さまに用いられました。なんといっても、エリヤが祈ると、3年6か月にわたってイスラエルにはまったく雨が降らず、エリヤのお仕えする神さまが、天地を司る全能のお方であることが示されました。そして、バアルとアシェラの預言者総勢850人対1人の雨乞合戦に勝利し、並みいるイスラエルの民は、「主こそ神です。主こそ神です」と叫びました。だが、そのようにして神さまの臨在と権威を全イスラエルに示したエリヤは、熱心な偶像礼拝者だったアハブの妻イゼベルや、アハブの息子アハズヤにいのちを狙われるなど、安定した生活とは程遠い厳しさを味わいました。そのように、神の民イスラエルの権力者がエリヤを迫害したように、キリストの備えをなす「エリヤ」は、みことばに書いてあるがごとくに迫害された、とイエスさまはおっしゃったわけです。  みなさまは、このイエスさまの備えをなしたエリヤはだれなのか、もうご存じでしょう。そう、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは来たるべきエリヤである、これは、ほかならぬイエスさまご自身がお語りになったことです。イエスさまがそうおっしゃったとき、ヨハネはヘロデに迫害されて囚われの身となっていました。ヨハネは確かに、イエスさまが特別なお方であることを知ったうえで、イエスさまに人々を導こうと努めていました。そして、イエスさまの名声が高まるにつれ、もともと人気のあった自分は衰えなければならない存在であると、自分の弟子たちに告げました。だが、そのようにしてイエスさまが現れ、神の国は近づいたはずなのに、ヘロデは悪辣な権勢をふるい、世の中はよくなってはいません。ヨハネが思いあまって、イエスさまに、あなたこそがおいでになるお方なのですか、と人を遣わして尋ねさせたのは、そのような背景もあったからでしょう。イエスさまがキリストであることがわからなくなるほどの迫害、それをまさに、ヨハネは体験していたわけです。  実は、おおもとの預言者である旧約のエリヤにしても、あまりにひどい迫害の中で自分を見失う体験をしています。雨乞合戦に勝利したエリヤでしたが、その直後、イゼベル王妃のお尋ね者になった途端、逃げ出し、さらには、もう死にたいと願うことさえしました。そのときエリヤは神さまに対して、「私は先祖たちにまさっていないです」とつぶやいています。3年6か月にわたって雨をとどめたエリヤ、一瞬にして祭壇を跡形もなく焼き尽くす火を呼び起こしたエリヤ、そしてのちには、モーセ、そしてイエスさまと肩を並べて語り合うほどの存在だったエリヤが、自分は先祖たちにまさっていない、だからもうこの地上に生きていたくない、と言ったのです。もはやここには、神さまから与えられた使命に立つ姿勢など、これっぽっちもありませんでした。  迫害がみことばにおいて語られた3人の人物、エリヤ、ヨハネ、イエスさま……それなら、イエスさまは神の御子だから、この迫害に動じないで立ち向かわれたのでしょうか。イエスさまをご覧ください。時にイエスさまは、御父から定められている受難を避けさせていただきたいと願っていらっしゃいます。十字架、それは究極の迫害です。イエスさまは十字架を前にしてどれほど、神への従順とご自身の願いに葛藤されたことでしょうか。  しかし主は、エリヤを直接力づけて次の働きに送り出され、ヨハネにしても、イエスさまはご自身がなさっているみわざが、イエスさまによって神の国が実現していることを雄弁に物語っていることをお教えになり、イエスさまを指し示した彼の働きは間違っていなかったことを確かめられました。そしてイエスさまは……ゲツセマネの園において血の汗を流して祈られたとき、弟子たちさえも祈って助けてくれなかった中、父なる神さまご自身が御使いを遣わしてイエスさまを力づけさせ、十字架を前にした闘いに勝利するようにしてくださいました。究極の迫害に対する、究極の勝利です。  こうしてみると、エリヤも、バプテスマのヨハネも、そしてイエスさまさえも、神の国が実現するために迫害を体験し、その中で神のみこころに完全にお従いする上での葛藤を経験しています。しかし、父なる神さまは、そのような中にあっても、励ましを与えてくださり、葛藤に勝利させてくださり、迫害を超えたいのちの恵み、永遠のいのちの恵みにあずからせてくださいます。  私たちはもちろん、平和であること、平安があることを祈るべきです。しかし、みことばをお読みしてみますと、神の国というものは、必ずしも人間的に感じる気持ちよさの中で実現するものとはかぎりません。むしろ、厳しい生活、時には迫害さえ伴う生活の中で、それでもともにおられる主に拠り頼み、主とお交わりすることによって、はじめて得ることのできる喜び、この世の何者も与えることのできない平安に満ちて、私たちのうちに実現していただけるものです。  私たちはこの日本という社会をキリスト者として生活すると、どこかで、自分はこの日本においては異質な存在だと思うから、どんな迫害を受けるかわからないからおとなしくしていよう、というような、消極的な発想に支配されるようになったりはしないでしょうか。しかし、私たちは、イエスさまとの関係で、自分は何者とされているかをつねに把握し、主が願っていらっしゃる生き方、主が私たちに与えられた使命に立つ生き方をしたいものです。エリヤは、神の人として振る舞ってこそのエリヤです。バプテスマのヨハネは、ほかならぬイエスさまをキリストと指し示してこその存在です。神さま、イエスさまは、彼らが迫害の中にあってもその存在意義を見失わないようにするために、励ましを与えてくださいました。  私たちの生きているこの日本という社会は残念ながら、私たちキリスト者、キリスト教会に対してやさしくありません。時に私たちは迫害を受けます。それで、私たちはキリスト者として生きるその意義を、見失いかけてしまうときもあろうかと思います。しかし、私たちは神さまに信頼しましょう。神さまは試練とともに、脱出の道もまた同時に備えてくださいます。その道は不思議なようにして状況が変えられることで与えられることもあるでしょう。しかし多くの場合、主は私たちにみことばを聞かせてくださることで、私たちを力づけ、私たちが何者であるかに気づかせてくださりながら、試練に立ち向かう力を与えてくださいます。  だから、ともにみことばを読みましょう。みことばを分かち合うことで、お互いの耳にみことばを聞かせ合いましょう。主はそのようにして、私たちを使命に生きる存在としてくださいます。主に信頼して、みことばに励まされつつ、使命を果たす働きに用いられる私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「迫害されても使命に生きるには」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇142篇/主の祈り/讃美;讃美歌87B「めぐみのひかりは」/聖書本文;マルコの福音書9:9~13/メッセージ/讃美;讃美歌332「主はいのちを」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/頌栄;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」   先週のメッセージでは、イエスさまの御姿が神々しく変わられた、変貌山のできごとから学びました。それはとてもすごい光景だったわけですが、そのような素晴らしいものを見てしまうと、私たちならどうするでしょうか? 旅行の想い出ですとか、映画の感想ですとか……そういうものはつい、口にしたくならないでしょうか? 私の友達の奥さんにもそういうタイプの方がいました。友達に招かれて遊びに行ったとき、一緒に、その友達がテレビから録画したドラマのビデオを見ていたときですが、奥さんはいろいろしゃべるわけです。登場人物の情報を話すのはまだいいほうで、その後の展開がどうなるか、とか。よほどその内容に感動したり、面白いと思ったりしたわけでしょう。私ははじめてそのドラマを見るわけだから、あんまりネタばらしはしないでほしいと思うわけですが、奥さんは性格も明るく憎めない人なので、まあ許しちゃったりしていました。でもやっぱり、せめてドラマの先の展開くらいは言わないでいてほしいものでした。  つい話したくなる気持ち。しかし、それを話さないように戒められたならば、私たちのすることは、沈黙を守ることです。今日の本文では冒頭において、弟子たちが見た変貌山の光景に関して、イエスさまは秘密を守るように戒めを与えられた、とあります。もっとも、別の福音書を読むと、彼ら弟子たちは恐ろしくて、とてもこのことは口に出せずに沈黙を守っていた、とあります。彼らが沈黙を守ったのは、イエスさまがそう命じられたから、そして、自分自身が恐ろしかったから、そのどちらもであったわけです。  しかし、その沈黙を守るべき時というものは、「人の子が死人の中からよみがえる時まで」という、限定つきのものでした。このとき3人の弟子が見た光景は、やがてイエスさまの受難と復活ののちに、広く語られるべきものとなったわけです。しかし、それでもやはり、このできごとが語られるには条件があるわけで、それは、「イエスさまの受難と復活を経てから」というものです。  およそみことばというものは、イエスさまの十字架と復活という鍵がなければ解けない仕組みになっています。かつて日本で、ウォルター・ワンゲリンの『小説聖書』という本がベストセラーになったことがありますが、その本の腰巻に、小説家の浅田次郎が寄せたコメントは、ちょっと考えてしまいました。いわく、「本書は、難解な聖書を小説として通読せしめる快挙を成し遂げた」。私に言わせれば、聖書は難解でもなんでもありません。しかし、『鉄道員(ぽっぽや)』を書いたほどの小説家である浅田氏をして、聖書が「難解」であると言わせるのは、それは浅田氏が、聖書はイエスさまの十字架と復活という視点で読めばちゃんと理解できる、ということを知らないか、知っていても本の宣伝という仕事のために言わないからです。  ともかく、あらゆるみことばを解く鍵はイエスさまの十字架と復活であり、それが実現していない段階では、変貌山の光景というこの奥義を明らかにすることは、いかにイエスさまのそばにいる弟子たちであってもできませんでした。十字架と復活を抜きにして聖書を読んでは間違った聖書解釈しかできないように、この光景においても、イエスさまの復活を目撃する前にそれを話してしまったら、人々は誤解するでしょう。いや、彼ら自身でさえ、まだ確信を持って語れるほどの理解に達していませんでした。目の見えない人はイエスさまに目を開けてもらったとき、最初は人が木のように見えているだけだった、しかしさらにイエスさまに触れていただいて、今度はちゃんと見えるようにしていただいた、そのように、イエスさまによって目が開かれるためには、何度でも御手に触れていただく必要があるわけです。  この時点で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが、まだ充分にイエスさまの復活に対する理解に達していなかったことは、10節のみことばからも明らかです。その6日前に、彼ら弟子たちは確かに、イエスさまから直接、イエスさまの受難と復活についてお聴きしています。しかし、まだ彼らははっきりそれを見届けているわけではないので、それ以上のことはわからずにいました。  復活というものは見届けてこそ、初めて信じられるものです。こんにちにおいては、私たちはイエスさまがよみがえられたという聖書のみことばをお読みし、そのみことばがまことであると信じ受け入れることによって、イエスさまの復活そのものを見届け、受け入れることになります。かつて、ある小学生に、イエスさまの伝記をプレゼントしようとして、本屋さんで見繕ったことがありますが、その本は、イエスさまの復活は弟子たちの間でそう信じられた、という書き方をしていて、それが事実だとはまったく書いてありませんでした。これはだめだ、と買いませんでしたが、イエスさまの復活を信じ受け入れるには、聖書に書かれた通りをまるまるそのまま信じ受け入れるしかありません。  この時点での弟子たちをたとえるならば、イエスさまとその教えを知ってはいても、まだ聖書に示された復活という事実に出会っていない人、にたとえられるでしょう。イエスさまの復活についてはうんぬんする向きもあるでしょうが、百聞は一見に如かず、実際にその復活を目撃したならば、それ以上説得力のある根拠、みことばを宣べ伝えるうえでの根拠はありません。イエスさまの復活は議論の対象ではありません。信じ受け入れる対象です。  そのように、弟子たちがまだ復活に対して目が開かれていない段階で、彼らにはもうひとつ、聞いておくべきことがありました。11節です。彼らは、宗教指導者たちはまずエリヤが来るはずだと語っているではありませんか、と、イエスさまに問うています。彼らは、正真正銘のエリヤを目撃したわけですが、そのエリヤ当人が先駆けとして地上に現れてからイエスさまが来られたわけではなく、そうだとすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが語っていることはどうなるのか、ということです。  さて、ここからが今日のハイライトですが、イエスさまは続く12節と13節で、3人の人物の受難について語ります。それがだれなのかは徐々に明らかにしてまいりますが、まず12節のみことばをお読みしますと、イエスさまは「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです」と語っておられます。すなわち、律法学者たちが語っていることは正しい、とおっしゃっているわけです。それは、旧約聖書のいちばん最後の部分、マラキ書の4章5節、6節のみことばをお読みすれば明らかです。  そのように、エリヤがイスラエルを立て直し、人の子、すなわち、人としてこの世にお生まれになる神の御子キリストの道備えをすることはほんとうだとおっしゃっているわけですが、そのように、キリストを迎える道が備えられているはずの神の民のうちに来られるお方は、多くの苦しみを受け、蔑まれる、それはみことばに書いてあるとおりである、とおっしゃっています。  たしかに、キリストの受難は、イザヤ書の53章に書かれています。あまりにはっきり書いてあるので、現代においてユダヤ教では、このイザヤ53章は語られない、なぜならばこれが語られると、人々がキリスト信仰に目覚めてしまい、ユダヤ教の指導者はそれを警戒しているからだと、先週妻がみなさまに語ったとおりですが、ともかく、イザヤ書の53章のみことばは、キリストの受難を語ります。エリヤによってキリストを迎える道が神の民の間に備えられたはずなのに、民はキリストを苦しめ、蔑み、捨てるというのです。  それならば、神の民が救い主キリストを受け入れられるほどには整えられていなかった以上、備えをなす存在、エリヤは来なかったのでしょうか? そうではありません。13節をご覧ください。イエスさまははっきりおっしゃっています。「エリヤはもう来ています。」それは、ペテロたちが目の当たりにした歴史上の人物のエリヤ、バアルやアシェラと対決して雨を呼び起こした預言者のエリヤではないにしても、キリストの道を備えるエリヤはすでに来た、と、イエスさまご自身が宣言された、ということです。  イエスさまのみことばは続きます。「そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」イエスさまのこのみことばは、キリストの備えをなすエリヤは人々に迫害されるであろう、と預言者がみことばに記している、というよりも、むしろ、エリヤに対してイスラエルが好き勝手なことをしたことをみことばは記録しているが、そのように、キリストの道を備える現代の「エリヤ」にも、人々は好き勝手なことをした、ということです。  エリヤは、まことの創造主なる神さまにお仕えすべきイスラエルを神から離れさせ、バアルとアシェラを拝む偶像礼拝の民にしてしまったアハブ王を悔い改めに導き、イスラエルを神に立ち帰らせる器として、神さまに用いられました。なんといっても、エリヤが祈ると、3年6か月にわたってイスラエルにはまったく雨が降らず、エリヤのお仕えする神さまが、天地を司る全能のお方であることが示されました。そして、バアルとアシェラの預言者総勢850人対1人の雨乞合戦に勝利し、並みいるイスラエルの民は、「主こそ神です。主こそ神です」と叫びました。だが、そのようにして神さまの臨在と権威を全イスラエルに示したエリヤは、熱心な偶像礼拝者だったアハブの妻イゼベルや、アハブの息子アハズヤにいのちを狙われるなど、安定した生活とは程遠い厳しさを味わいました。そのように、神の民イスラエルの権力者がエリヤを迫害したように、キリストの備えをなす「エリヤ」は、みことばに書いてあるがごとくに迫害された、とイエスさまはおっしゃったわけです。  みなさまは、このイエスさまの備えをなしたエリヤはだれなのか、もうご存じでしょう。そう、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは来たるべきエリヤである、これは、ほかならぬイエスさまご自身がお語りになったことです。イエスさまがそうおっしゃったとき、ヨハネはヘロデに迫害されて囚われの身となっていました。ヨハネは確かに、イエスさまが特別なお方であることを知ったうえで、イエスさまに人々を導こうと努めていました。そして、イエスさまの名声が高まるにつれ、もともと人気のあった自分は衰えなければならない存在であると、自分の弟子たちに告げました。だが、そのようにしてイエスさまが現れ、神の国は近づいたはずなのに、ヘロデは悪辣な権勢をふるい、世の中はよくなってはいません。ヨハネが思いあまって、イエスさまに、あなたこそがおいでになるお方なのですか、と人を遣わして尋ねさせたのは、そのような背景もあったからでしょう。イエスさまがキリストであることがわからなくなるほどの迫害、それをまさに、ヨハネは体験していたわけです。  実は、おおもとの預言者である旧約のエリヤにしても、あまりにひどい迫害の中で自分を見失う体験をしています。雨乞合戦に勝利したエリヤでしたが、その直後、イゼベル王妃のお尋ね者になった途端、逃げ出し、さらには、もう死にたいと願うことさえしました。そのときエリヤは神さまに対して、「私は先祖たちにまさっていないです」とつぶやいています。3年6か月にわたって雨をとどめたエリヤ、一瞬にして祭壇を跡形もなく焼き尽くす火を呼び起こしたエリヤ、そしてのちには、モーセ、そしてイエスさまと肩を並べて語り合うほどの存在だったエリヤが、自分は先祖たちにまさっていない、だからもうこの地上に生きていたくない、と言ったのです。もはやここには、神さまから与えられた使命に立つ姿勢など、これっぽっちもありませんでした。  迫害がみことばにおいて語られた3人の人物、エリヤ、ヨハネ、イエスさま……それなら、イエスさまは神の御子だから、この迫害に動じないで立ち向かわれたのでしょうか。イエスさまをご覧ください。時にイエスさまは、御父から定められている受難を避けさせていただきたいと願っていらっしゃいます。十字架、それは究極の迫害です。イエスさまは十字架を前にしてどれほど、神への従順とご自身の願いに葛藤されたことでしょうか。  しかし主は、エリヤを直接力づけて次の働きに送り出され、ヨハネにしても、イエスさまはご自身がなさっているみわざが、イエスさまによって神の国が実現していることを雄弁に物語っていることをお教えになり、イエスさまを指し示した彼の働きは間違っていなかったことを確かめられました。そしてイエスさまは……ゲツセマネの園において血の汗を流して祈られたとき、弟子たちさえも祈って助けてくれなかった中、父なる神さまご自身が御使いを遣わしてイエスさまを力づけさせ、十字架を前にした闘いに勝利するようにしてくださいました。究極の迫害に対する、究極の勝利です。  こうしてみると、エリヤも、バプテスマのヨハネも、そしてイエスさまさえも、神の国が実現するために迫害を体験し、その中で神のみこころに完全にお従いする上での葛藤を経験しています。しかし、父なる神さまは、そのような中にあっても、励ましを与えてくださり、葛藤に勝利させてくださり、迫害を超えたいのちの恵み、永遠のいのちの恵みにあずからせてくださいます。  私たちはもちろん、平和であること、平安があることを祈るべきです。しかし、みことばをお読みしてみますと、神の国というものは、必ずしも人間的に感じる気持ちよさの中で実現するものとはかぎりません。むしろ、厳しい生活、時には迫害さえ伴う生活の中で、それでもともにおられる主に拠り頼み、主とお交わりすることによって、はじめて得ることのできる喜び、この世の何者も与えることのできない平安に満ちて、私たちのうちに実現していただけるものです。  私たちはこの日本という社会をキリスト者として生活すると、どこかで、自分はこの日本においては異質な存在だと思うから、どんな迫害を受けるかわからないからおとなしくしていよう、というような、消極的な発想に支配されるようになったりはしないでしょうか。しかし、私たちは、イエスさまとの関係で、自分は何者とされているかをつねに把握し、主が願っていらっしゃる生き方、主が私たちに与えられた使命に立つ生き方をしたいものです。エリヤは、神の人として振る舞ってこそのエリヤです。バプテスマのヨハネは、ほかならぬイエスさまをキリストと指し示してこその存在です。神さま、イエスさまは、彼らが迫害の中にあってもその存在意義を見失わないようにするために、励ましを与えてくださいました。  私たちの生きているこの日本という社会は残念ながら、私たちキリスト者、キリスト教会に対してやさしくありません。時に私たちは迫害を受けます。それで、私たちはキリスト者として生きるその意義を、見失いかけてしまうときもあろうかと思います。しかし、私たちは神さまに信頼しましょう。神さまは試練とともに、脱出の道もまた同時に備えてくださいます。その道は不思議なようにして状況が変えられることで与えられることもあるでしょう。しかし多くの場合、主は私たちにみことばを聞かせてくださることで、私たちを力づけ、私たちが何者であるかに気づかせてくださりながら、試練に立ち向かう力を与えてくださいます。  だから、ともにみことばを読みましょう。みことばを分かち合うことで、お互いの耳にみことばを聞かせ合いましょう。主はそのようにして、私たちを使命に生きる存在としてくださいます。主に信頼して、みことばに励まされつつ、使命を果たす働きに用いられる私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「輝くイエスさま」

 何度かお話ししたことがありますが、私が本格的に信仰を持つようになったのは高校2年生のときで、折しもその頃のキリスト教会は、リバイバル、ということを旗印に、集会が派手になったり、大型化したりしていたものでした。私が献身に導かれたのはその高校2年生の夏に参加した松原湖バイブルキャンプのことでしたが、その講師だったアーサー・ホーランド、小坂忠、岩渕まことといえば、当時の大型化する集会のメインで活躍する、言ってみれば、スターのような働き人でした。  松原湖バイブルキャンプは、賛美もメッセージもあまりに恵まれるもので、私はその後も夢中になって、大型の集会、派手な集会に好んで出席するようになりました。それは、そのキャンプから5年後に、もっと本格的に教会が社会に根を下ろしている韓国に留学するまで続きました。  今思えば、松原湖で体験した大きな恵みを、その後も引きつづき体験したかった思いが強かったのだと思います。そのような体験が集中的にできた90年代前半という時代は、いい時代だったと言えるのかもしれませんが、振り返ってみると、現実の自分は、どこまで霊的に成熟しようと取り組んでいただろうか。主に従順にお従いしようとしていただろうか、そういうことを思います。  とは申しましても、やはりあのような恵みに満ちた体験をさせていただいたことは、主に感謝すべきでしょう。当時のキリスト教会の指導者の先生方も、そのような集会が必要と信じて企画していらっしゃったわけで、その取り組みは素晴らしかったと思います。問題は、そのような恵みを体験した者たちが、いかにしてその時与えられた恵みにお応えするかではないかということではないでしょうか。  今日の箇所を見てみますと、ペテロとヤコブとヨハネはすごい体験をしています。山の上で、イエスさまがそれこそ「神々しく」変わられるお姿を目撃する、しかもそこに、あのモーセとエリヤまでもが登場する、という、信じられないような光景が目の前に展開したわけです。私もいろいろな素晴らしい集会に出席しましたが、さすがにここまでのことは起こりませんでした。ペテロとヤコブとヨハネは、実に素晴らしい光景を見る恵みにあずかったわけです。  この光景を描いたこのみことばは、何を私たちに語っているのでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。  まず、1節のみことばを見てみましょう。……またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」  わかりにくいことばに思えるかもしれません。特にこのみことばが、9章という区切りのいちばん最初に現れていると、特にそう感じられるかもしれません。しかし、これは先週学びましたみことば、8章の終わりの部分からの続きにあたる箇所です。イエスさまがこのみことばをお語りになった対象は、弟子たち、そして群衆です。イエスさまのみことばに聴き従うことを志して集まってきた人たちです。  そんな彼らに、イエスさまは「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」とおっしゃっています。十字架を負え、と言われて、彼らはぎょっとしたのではないでしょうか。単なる自己否定のレベルではありません。十字架にかからなければならないほどの極悪人、本来ならば神ののろいを受けるべき罪人である、という自覚をもって、イエスさまに従う、ということです。しかし、そのように、このような罪人でもイエスさまにお従いし、イエスさまとイエスさまのことばのために生きるならば、十字架のような悲惨な死を遂げるのではなく、いのちを得るのだと、イエスさまはお語りになりました。  そのように、もしあなたがたのうちに、わたしとわたしのことばのためにいのちを捨てる歩みをする者がいるならば、わたしがこの力をもって神の国を来たらせる以上、あなたがたに死を味わわせることはない、あなたがたは、わたしを信じ従う信仰によって生きるのである、と、イエスさまは約束してくださっているのです。  私たちクリスチャン、主の弟子たちは、十字架を背負ってイエスさまのみあとをお従いすべき存在です。しかし、究極的に十字架を背負ってくださるのはイエスさまです。私たちのためにイエスさまが命を投げ出してくださるからこそ、そして、復活してくださるからこそ、私たちも終わりの日の復活、永遠のいのちの信仰をもって、イエスさまのためにいのちを投げ出すことができるのです。  その前提で2節以下のみことばをお読みしましょう。イエスさまはペテロとヤコブとヨハネの3人を選抜して、高い山に登られました。この山は、ピリポ・カイサリアの北東20キロメートルの地点にあるヘルモン山であると推定されています。もしそうだとすると、現在のシリアとレバノンの国境にある、標高2800メートルを超える、一年中雪をいただく、とても景色のよい山に、イエスさまとその一行は登ったことになります。  そこで何が起こったのでしょうか? イエスさまの御姿が変わられました。御衣が、人間業ではだれにもその白さを出せないほど、白く輝きました。これは、イエスさまの栄光が、人に由来するものではない、神さまゆえのものである、ということを示していました。  折しもペテロは、そのわずか6日前に、イエスさまはキリストであると告白したばかりでした。しかし、彼のキリスト観は、キリストとは死と復活を遂げられることにより人を救うお方であるということが完全に欠落していたため、それをイエスさまによって正していただく必要がありました。彼はなお、キリストとはどのようなお方かということに目が開かれなければならなかったのですが、イエスさまはそのようなペテロたち、十二弟子の中心メンバーに、ご自身が神の子キリストであることを、こんどは目に見える形でお見せになったのでした。  私たちもキリストというお方を正しく知り、永遠のいのちの恵みにあずかるため、栄光に満ちたイエスさまを仰がせていただく必要があります。それでは私たちは、この神の子イエスさまのご栄光をどのようにしたら見ることができるのでしょうか? それは、この礼拝をとおしてです。イエスさまは、今ここに、私たちのただ中におられ、その栄光をもって私たちを照らしてくださっています。以前、ある韓国人宣教師の礼拝メッセージを横に立って通訳したとき、そのメッセージの冒頭で、先生はこうおっしゃいました。「私たちは今、イエスさまが御姿が変わられたその山の上にいます!」通訳していて、とても印象に残りました。そうです。今ここが私たちにとってのヘルモン山、変貌山であると、私たちは信じ受け入れて、主を礼拝するものです。  このお方がキリストであることを弟子たちが悟るうえで、重大な2人の人物が現れました。ひとりはモーセで、ひとりはエリヤでした。イエスさまはしばしば、神さまのみことばのことを「律法と預言者」という呼び方をなさっていますが、モーセは律法を授けた人物であり、エリヤは預言者を代表する人です。そんな彼らははるかむかしの人物ではないか、ここに現れているのは幻ではないか、と見る向きもあるかもしれませんが、あながちそうとばかりも言えません。申命記の締めくくりの部分を見てみると、モーセは死にましたが、モーセのことを葬ったのは全イスラエルではなく「主」であり、しかも、彼の墓を知る者はだれもいない、とあります。モーセは肉体ごと主のみもとに移された可能性があります。また、エリヤはというと、列王記第二によると、生きたまま竜巻に乗せられて天に引き上げられました。死んで墓に葬られたのではありません。すなわち、モーセもエリヤも、どちらも肉体をもって生きたままイエスさまのみもとに現れたとしても、不思議はなかった、と考えられます。  それを目撃するペテロたちは、登山の疲れでしょうか、別の福音書を読むととても眠かったとありますが、眠気が覚め、気がつくと、イエスさまがモーセとエリヤと話し合っておられました。ペテロは取り乱し、こんなことを口走りました。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」  ペテロは、模範解答を言ったかと思ったら、イエスさまに対して人間的な忠告をしてしまうような人で、福音書を読むと、ペテロはその語ることばに特徴があることに気がつくのですが、ここでもペテロはそんなことを言っています。それは6節によれば、「恐怖に打たれていて、何を言ったらよいのかわからなかったから」だと説明されています。  幕屋とは本来、どこにでも遍在される神さまのご臨在の現れる場であり、そのご臨在をとどめておく機能を持ちます。ここでイエスさま、モーセ、エリヤのために幕屋を設けたら、その存在を山の上にとどめることになります。それはいかにも恵みに満ちた光景に見え、たしかに素晴らしいものに思えるかもしれません。  メッセージの冒頭で松原湖バイブルキャンプのことをお話ししましたが、教会から一緒に参加したダウン症のあっこちゃんは、キャンプファイアーが終わって、帰りたくない! と大泣きしました。数日間で終わってしまうキャンプがそうであるように、特別な恵みというものは、いつまでもとどめておけるものではありません。主のみこころはどこにあったのでしょうか? 7節のみことばです。  ペテロたちは、はっきりと御父の御声を聴きました。御父ご自身が、イエスさまのことを、愛する御子であるとおっしゃいました。イエスさまが神の御子キリストであることは、御父ご自身が明らかにしてくださったのでした。  御父の御声は続きます。「彼の言うことを聞け。」イエスさまのおっしゃることを聴くこと、これが神さまのみこころです。ペテロは、感激と恐怖が入り混じり、つい人間的な宗教的感情に任せ、言わずもがなのことを口走りましたが、彼が3つの幕屋を立てないで済んだのは、そうすることはイエスさまのおっしゃることに聴き従うことではないと分かったからでした。  信仰生活のすべての問題は、イエスさまのおっしゃることを聞かないことに始まります。イエスさまのおっしゃることを聞かない人は、イエスさま以外の存在の言うことを聴くことになります。それは人であるかもしれませんし、はたまた、サタンであるかもしれません。実際、またまたこうして失言してしまい、いわば父なる神さまからお叱りを受けた形になってしまったペテロは、そのほんの6日前にも、イエスさまに申しあげるべきではないことを言って、「下がれ、サタン」と一喝されています。イエスさまと寝食をともにした一番弟子のペテロでさえ、そのように、いざというときにイエスさまのおっしゃることよりも、サタンの言うことを聞いてしまったわけでした。いわんや私たちは、どれほど意識してイエスさまのおっしゃることに耳を傾けなければならないことでしょうか。  御父の臨在は雲となってみなを覆いました。雲が晴れると、そこにはモーセもエリヤもなく、イエスさまのお姿しか見えませんでした。偉大なモーセの授けた律法、偉大なエリヤに代表されるあらゆる預言者はイエスさまを証ししましたが、彼らはみことばをとおしてキリストを語る「声」にすぎませんでした。イエスさまという実態が明らかにされている以上、彼らはもう表舞台から去り、あとは、人はイエスさまおひとりを見さえすれば充分です。  今年の教会の年間テーマは、「主を仰ぎ見て輝く」です。私たちは輝きそのものであられるイエスさまのそのご栄光のお姿を仰ぎ見、その栄光を映しながら、この世界を輝かせるのです。その生き方は、イエスさまのおっしゃることをお聴きすることによって可能になります。また、ほかの何ものにも目を留めず、ただイエスさまだけしか見えない、そのような、イエスさまだけを見つめて生きる生き方によって可能になります。  私たちを振り返りましょう。私たちはこの時点のペテロのような、ことばにおいても、行動する動機においても、まだまだ未熟なものであるかもしれません。しかし、そのような者も、イエスさまの御声だけを聴き、イエスさまの御姿だけを見て歩むことが許されています。そのように生きることを主は望んでくださっています。主にお聴き従いするかぎり、主の御姿を仰いで生きるかぎり、そのように私たちが成長させていただけることを信じ、主に信頼しながら、今日も、そしてこれからも歩んでまいりましょう。