「神の国の子どもになろう」
マルコの福音書10章13節~16節/メッセージ;「神の国の子どもになろう」 私は子どもが好きですが、小さいころ、子どもが嫌いでした。当時、伊武雅刀という俳優さんのヒット曲で、音楽に合わせて演説をするという変わったものがありましたが、その内容たるや、子どもというものがどんなに度し難い存在か、子どものことがいやだ、嫌いだ、というものです。もちろん、それはギャグなのですが、私はこの、歌とも演説ともつかぬ変わった曲を親戚のおじさんの前で披露しては喜んでいたもので、おじさんは呆れていました。 そんなふうに、私が子どものくせして、子どもが嫌いだった理由は、いま振り返ればわかる気がします。引っ込み思案で、体育や音楽や図工のような「わかりやすい」科目がからきしダメで、みんなからからかわれ、恥ばかりかいていました。そんな私は、早く子どもであることをやめたくてたまらなかったのでした。おかげでわざと難しい本を読んでみせたり、難しいことばづかいをしてみせたりして、ますます浮いた存在になっていました。 そんな私の意識が変わったのは、教会に行くようになってからでした。何度もお話ししていますが、ダウン症のあっこちゃん、彼女の純粋きわまる信仰に触れて、そうか、難しいことなんて知らないでいいんだ、ただ信じさえすればいい、喜びさえすればいい、子どものように……。そのように、私は彼女の姿を通して教えられ、それから私は、日曜学校の教師をするなど、子どもが大好きになりました。神さまが私を変えてくださったのでした。ハレルヤ! さて、そこで今日の箇所です。今日の箇所は、2週間前の16日の礼拝でも取り上げていて、くどい説明にならないようにと思います。特に、今日の箇所のキーワードになるのは、「子ども」、そして「神の国」です。そこで今日は、「神の国」と「子ども」を関連づけた3つのポイントから、みことばの教える主のみこころを学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神の国とは、子どものような者のものです。 イエスさまは力あるわざを行われました。それは、神の子としての御業でした。神の子であるゆえに、ほんとうの祝福を与えてくださるお方でいらっしゃいました。だから群衆は、イエスさまから本物の祝福をいただこうと、群れを成しました。 そこに、子どもを連れてきた人がいました。子どもを祝福してほしいと考えたのでしょうか? 子どもから手が離せないけれども、とにかくイエスさまのところに来るチャンスを逃したくなかったのでしょうか? いずれにせよ、この大人の人は、子どもを連れてやってきました。 しかし、みことばは何と語っていますでしょうか? そう、弟子たちが「彼らを」叱った、とあります。彼らとはだれでしょうか? 大人たちならば、子どもなんて連れてきてはいけない、という意味になるでしょう。子どもたちならば、だめだめ、ここはキミたちの来るところじゃない、ということでしょう。 しかし、イエスさまはどうでしょうか? 弟子たちのこの言動に、御怒りを発せられました。14節です。イエスさまは、子どもたちを来させなさい、止めてはならない、とおっしゃいました。そうです、イエスさまは子どもという存在を人として認めておられます。それ以上に、ご自身の祝福を受ける権利のある存在として認めておられます。 その権利は、たとえイエスさまの十二弟子であったとしても、とどめることは許されません。しかし、子どもという存在は、なんと、受けるべき権利や祝福をとどめられてしまうことの多いものでしょうか。冒頭でお話しした児童養護施設にいる子どもたちは、当然享受すべき安全かつ安定した環境を味わえなかった存在です。多くの大人たちは、子どものことをそのように扱っています。でもイエスさまは、そのような扱いを子どもに対して平気でしているような大人たちに対して、御怒りを発せられるお方です。たとえそれが十二弟子のような、イエスさまの特別の寵愛を受けているような者たちであっても容赦されません。いや、イエスさまの弟子だからこそ、子どもたちに対してそんな態度をするのは許さん、となられるのでしょう。 そのように、大人たちにメインで注がれている恵みから、子どもたちが隅に追いやられている現実というものも、残念ながらあるものです。しかし、だからといって子どもを、大人の集会にとにかく出席させ、静かにしているように躾けるにしても、子どもはじっとしているのが苦手です。それで、我慢できないでふざけたら思い切り叱ったりするようでは、子どもどころか、大人が恵みを受けるうえでもよくありません。子どもがむずがるのは、大人たちが礼拝を退屈なものにしてしまっているからです。私も自分に子どもがいるからなおさらですが、反省します。 これは言ってみれば、礼拝に臨んで主の恵みを受けているはずの大人たちに、子どもを受け入れる余裕がない、ということです。そんなとき、私たちは自分に問うてみましょう。果たして自分は、イエスさまの恵みをほんとうにいただいているだろうか? イエスさまの恵みを受けていれば、解放されているはずですし、子どもを受け入れる余裕もあります。何よりも、子どもを受け入れるお方であるイエスさまの願いが、大人たちの気持ちや態度、ことばや行いにおいて、実現することになります。 イエスさまが王として統べ治める神の国、そこに子どもたちが入れるようにするのは、つまり、子どもたちが神の国に入るというイエスさまのみこころを実現するようにするのは、大人たちの責任です。主は、私たち大人が、イエスさまの愛を顕すことにおいて、子どもたちに対してどんな態度をとっているかを、つねに見ておられることを心に留めてまいりましょう。 みなさまにも祈っていただきたいのです。以前に比べると下火になりましたが、もともと私どものミニストリーは、子ども伝道に力を入れていたものです。これはやはり、みなさまの祈りを込めたご協力のとても必要な領域です。まことに、子どもを愛することは、教会全体で取り組むことであると、私は声を大にして申し上げたいのです。 私たちはイエス・キリストが王である、神の国の民です。そしてイエスさまがおっしゃっているとおり、神の国にふさわしいのは、子どもです。子どもたちを積極的に、教会という、この地上に実現した神の国に招き入れるお手伝いをする、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二のポイントにまいります。第二に、神の国に入るには、子どものようになることです。 15節のみことばです。……子どものように神の国を受け入れる人が、神の国に入れる。そこで私たちは、このイエスさまのみことばからいくつか考えてみたいと思います。 まず、神の国、とは、単なる概念ではありません。それは、私たちが礼拝している礼拝堂が存在するのが、日本という国である、その日本という国の存在のように、確実なものです。しかし、「神の国」を規定するのは、何らかの法律ではありません。信仰告白の伴う信仰が必要になります。 では、何を信じるのでしょうか? 神の国は力の伴った実体であることを信じるのです。具体的には、イエスさまが病気をいやされ、悪霊を追い出され、みことばをもって死んでいたたましいを生き返らされ、十字架に死なれてよみがえられ、天に昇られ、やがて来られる……そのことを心から、そのとおりに信じ受け入れることです。 子どもは、聖書を読むならば、イエスさまが神の子であること、奇跡を行われたこと、悪霊を追い出されたこと、病気をいやされたこと、死人を生き返らされたこと、十字架に死なれて三日目によみがえられたこと、みんなそのとおりに信じます。それが大人になるとどうでしょうか。聖書を読んでも、そんなことはありえないと否定するか、嘲笑います。あれこれ理屈をつけて、聖書の奇跡の記述を合理的に説明して、自分なりに納得しようとします。そんなにまでして、聖書の記述そのものを受け入れないことが正しいとでもいうのでしょうか、といったところです。 聖書のとおりに神の力を信じ受け入れるならばどんな信仰が生まれるでしょうか? 神さまは祈りを聴いてくださり、イエスさまの十字架によって罪を赦してくださり、永遠のいのちを与えてくださる、いや、それだけではない、病気を実際にいやしてくださる、悪霊を実際に追い出してくださる、また、それだけではない、自己中心の人が愛の人に変わる、けがれた人がきよい人になる、傲慢な人がへりくだった人になる、仕えられることを好む人が仕えることを実践する人になる、それが、神の国の人になる、ということです。 コリント人への手紙第一4章20節でパウロが語っています。「神の国は、ことばではなく力にあるのです。」イエスさまが王として統べ治める神の国は、頭だけの聖書理解にとどまりません。生活が実際に変わっていきます。なぜならば、イエスさまがその人にみわざを行なってくださるからです。 ただし、みわざを行なっていただく条件は、子どものように神の国を受け入れること、です。神の国を受け入れているならば、イエスさまが全能なる神にして、王でいらっしゃることを受け入れることです。 子どものようになるならば、受け入れることができます。ただし、子どものように、ということを間違ってとらえてはなりません。日本語の「子どもらしい」と「子どもっぽい」がちがうのはお分かりだと思います。英語もちゃんと両者を区別していて、「子どもらしい」は「チャイルドライク」、「子どもっぽい」は「チャイルディッシュ」です。私たちがイエスさまを神の国の王としてお迎えするにあたって取るべき態度は、「チャイルドライク」であって、「チャイルディッシュ」ではありません。 「チャイルディッシュ」の態度はいわば、「どうせイエスさまが十字架ですべての罪を赦してくれたんだから、何をしても許される!」とばかりに、自分勝手な生き方、幼稚な生き方を悔い改めようとしないことです。それは、イエスさまを王としていない、自分が王様のようにふるまう、傲慢きわまる態度であり、神の国にふさわしくありません。 「チャイルドライク」はそうではなく、子どもとしての分をわきまえながらも、子どものように素直に、みことばがそのとおりだと受け入れる態度です。そういう人は素直に、しかし、おもちゃやお菓子をねだる子どものように一生懸命、神さまのみわざが起こされるように祈りますし、神さまはそういう人に、御力をもってみわざを行なってくださいます。こうして、神の国は力をもってその人に実現することになります。 そういう点で、神の国を受け入れるにあたり、子どもになりきれた人は、文字どおり最強です。なぜならば、その人にこそ、全知全能なる神さまが大いにお働きになる余地があるからです。私たちもそんな人になりたいでしょうか? もし、わけ知り顔の大人のように、はなからみこころなどありえないように決めつける人は、そもそも信仰をもってお祈りなどしないでしょうし、そういう方に主が大いにお働きになるでしょうか? ともかく私たちは、子どものような謙遜さ、素直な信仰、熱心に求める態度を与えていただきたいものです。 第三のポイントにまいります。第三に、神の国の王イエスさまは、子どもを祝福するお方です。 16節です。イエスさまは子どもたちを抱っこされました。そして、子どもたちの頭に手を置いて祝福されました。 こうしてみると、イエスさまはほんとうに、子どもが大好きなことが分かります。神さまご自身なのに、抱っこまでしてくださるんですよ! そしてイエスさまはお語りになります。「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 子どものように神の国を受け入れる人は、イエスさまに抱っこされていい、自分の頭に手を置いて、祝福していただいていい、と、イエスさまの前で子どもになりきれる人です。考えてみましょう。大人になると、私たちはなんと多くの罪を犯すことでしょうか。そして言うまでもなく、罪とはからだを使って犯すものです。そんな、罪を犯すからだ、罪だらけのからだを、イエスさまが抱っこしてくださろうというのです。私たちは果たして、自分のからだを差し出せるでしょうか? さらに言えば、イエスさまが手を置いて祝福してくださるからだの場所は「頭」です。私たちが罪を犯すとき、それは頭の中でまず、考えにおいて罪を犯すところから始まります。頭とはかくも罪に満ちた器官です。イエスさまはその頭に手を置いて祝福してくださろうというのです。私たちは果たして、自分の頭を差し出せるでしょうか? しかし、イエスさまは私たちが、子どもだからという理由で受け入れてくださいます。からだを抱っこしてもくださいますし、頭に手を置いて祝福してもくださいます。私たちがそんな罪深いものであることをすべてご存じの上で、なお受け入れてくださるのです。 だから私たちは、恥ずかしがってイエスさまから逃げ回るべきではありません。こんな罪深い者はあなたさまに近づけません、ということは、謙遜ではありません。それは、それにもかかわらず愛してくださるイエスさまの愛を拒む、傲慢な態度です。 イエスさまの愛に飛び込んでいいのです。ここでも私たちは、子どもになりきることが求められています。そうしてイエスさまに抱っこされ、御手を置かれて祝福していただいたならば、私たちは罪深い自分中心の生き方から、イエスさま中心のきよい生き方へと変えていただけます。私たちはみことばを読むたびに、こんな厳しい教え、高い基準は守り行えないと、落ち込んだり、諦めたり、そもそも自分とは関係のない世界だ、などと思ったりしてはいなかったでしょうか? そうではないのです。イエスさまは私たちを抱っこしてくださり、私たちの頭に手を置いて祝福してくださることで、みことばを理解する力、そして、みことばを守り行う力に、私たちのことを満たしてくださるのです。 イエスさまに抱かれている感覚、御手を置いていただいている感覚、それを私たちは、みことばを読んで学ぶときに、お祈りをおささげするときに、意識してまいりたいものです。それはやはり、頭だけの理解にとどめる、悪い意味で「大人ぶった」信仰によっては身に着けることはできません。この点でも私たちは子どもになる必要があります。イエスさまに抱っこされ、手を置いていただいてあらゆる力をいただいて、私たちは神の国の民として、この地上において雄々しく振る舞うことができ、やがて天の、神さまが待っておられる場所に迎え入れていただけます。 私たちを子どもにさせないでいるものは何でしょうか? そのまま受け入れてくださる神さまの愛と赦しを疑わせているものはなんでしょうか? そのような者がことごとく取り除かれ、私たちがほんとうに子どもとなって、イエスさまが王として統べ治める神の国を受け入れ、この地上の歩みにおいて神の国の力を体験し、また現していくことができますように、主の御名によってお祈りいたします。