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メッセージ;「結婚におけるみこころ」
小学生も高学年くらいになると、男の子が女の子を好きになり、女の子が男の子を好きになる、ということも、ちらほら現れてきます。私もそんなひとりでした。クラスの、隣の席の子。友達が気を利かせてくれて、私の誕生日パーティにその女の子を呼んでくれたときは、天にも昇る気持ちでした。残念ながら私は中学受験で東京の学校に行ってしまったため、彼女とは疎遠になりましたが、今でも、ああ、あの子が誕生日プレゼントにくれた鉛筆と消しゴムで、中学校の入試に臨んだっけなあ、なんて想い出します。
そんなふうに、その頃私の通いました小学校では、あいつはあの子が好き、あの子はあの男が好き、なんて、ゴシップで盛り上がることこの上なかったのですが、私は彼らのゴシップの輪の中で、割と浮いているほうでした。といいますのも、私はひとたびだれかのことを好きになったら、「結婚」ということを考えて、そんなことを友達に熱く話して聞かせたからでした。友達にしてみれば、「そんな年で結婚がどうのこうのなんて早すぎるよ!」といったところだったわけです。しかし私は、結婚のことを考えられない恋愛は遊びだ、そんなのはいけないことだ、という思いを、小学生なりに強く持っていました。
のちに私はクリスチャンになり、クリスチャンの若者の兄弟姉妹とつきあうにつれ、彼らは、「惚れた腫れた」の恋愛を賛美するこの世の流れから一線を引いたきよい人たちである、ということを知りました。また彼らが、いざ人を好きになるならば、その人との結婚を真剣に祈る人たちであることを知り、ああ、なんてすばらしい、と、しみじみしたものでした。
ともあれ、結婚というもののすばらしさを語りはじめるならば、私などは、三日三晩あってもまだ足りないくらい語りたいことがいっぱいですし、また、語るのが大好きです。今日はそんな思いをぐっとこらえて、イエスさまがお語りになった、みこころにかなう結婚のあり方というものについて、ともに学んでまいりたいと思います。
イエスさまはガリラヤを去り、南のユダヤへと赴かれました。もちろん、群衆はイエスさまのもとに集まってきて、神の子自らが解き明かしてくださる至上の聖書講解を聴くという、素晴らしい恵みにあずかっていました。
面白くないのは宗教指導者たちです。いや、イエスの説く教えは異端だぞ、とばかりに、正統の聖書学者をもって自任するパリサイ派の教師たちが、イエスさまのもとにやってきます。粗探しをして、あわよくば告訴して葬り去ってやろう、という、薄汚い意図が彼らにはありました。
パリサイ人はどんな質問を用意したのでしょうか? 2節です。……これは、どちらの答えをなさっても、イエスさまを葬り去ることができる、という計算が彼らにあったと見ることができます。同じような質問は、「姦淫の女を石打ちにするか否か」、また、「カエサルに税金を納めるべきか否か」というものがあり、どちらの答えをしてもイエスさまを失脚させられる、答えないなら答えないでイエスさまがその程度の人物だったという印象を民衆に与えられて失脚させられる……そんなことを彼らは考えたわけで、ほんとうに、悪知恵はここに極まっています。
この質問の場合は、どういう罠がその背後にあったのでしょうか? まず、「離婚することは許される」とイエスさまがおっしゃったらどうなるでしょうか? パリサイ人のことばをよく見ると、「夫が妻を離別する」と表現しています。つまり、この離婚の主導権は夫の側にあり、妻の側にはありません。
イエスさまは女性と子どもにやさしい、つまり、弱い立場の人にあわれみをお示しになるお方です。もしイエスさまが、夫が妻と離別してよいとおっしゃったならば、イエスさまの愛の教えと矛盾することになります。結局は男性中心の社会におもねる、愛のない人、ということになり、そういうイメージが拡散されて人気が失墜することをパリサイ人は狙っていました。
しかしそれなら、離婚してはならない、とおっしゃったとしたらどうでしょうか? 実はこの背後には、バプテスマのヨハネを処刑したガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスの存在がありました。ヘロデ・アンティパスは、腹違いの兄弟であるピリポからその妻ヘロディアを奪うために、それまでの妻を捨て、ヘロディアを自分の妻にしてしまいました。バプテスマのヨハネはそれに対し、あなたのその行いは律法にかなっていないと糾弾しました。ヘロデはヨハネを逮捕し、牢獄に入れ、ついには妻ヘロディアの策謀により、ヨハネは殺害されてしまいました。イエスさまが、離婚はいけない、とおっしゃったとするならば、それは権力者であるヘロデ・アンティパスを糾弾したことになると見なせることにもなり、うまくいけば、イエスさまもヨハネのように葬り去れる、という計算が、パリサイ人たちにありました。つまり、どちらに転んでも、イエスさまを失脚させられる、と彼らは踏んだわけです。
しかし、パリサイ人のこの挑発に、イエスさまは断固として立ち向かわれました。まずイエスさまは、なんとおっしゃったのでしょうか。3節です。
彼らパリサイ人は、判断を下す根拠として、聖書を用いていましたし、また用いるべき立場にありました。そこでイエスさまは、あなたがたがわたしのことを試すならば、まずはあなたがたの考えの根底にある聖書箇所を示しなさい、とおっしゃったわけです。
何度もこの講壇から語らせていただいていることですが、「韓国のクリスチャンは祈るクリスチャン、台湾のクリスチャンは賛美するクリスチャン、日本のクリスチャンは? 議論するクリスチャン。」しかし、議論がもし健全であるならば、日本の教会もあながち間違ってはいないと思います。実際、私が韓国の神学校で学んでいたとき、日本の神学校はレベルが高い、という話をよくお聞きしたものでした。ただし、その議論は、聖書の禁じる「ことばについての論争」というものではなく、どこまでも、聖書の穏健な解釈に根差したものである必要があり、そのためには、固定観念や先入観を排除して、聖書そのものを素直に読むことが必要になります。
そこでイエスさまは、パリサイ人に対しても、2つのことを自ら顧みるように仕向けられました。すなわち、あなたがたの考えの基礎になる聖書のみことばは何ですか、ということ、もうひとつは、あなたがたの聖書解釈は、みこころにかなったふさわしいものですか、ということです。
牧師や宣教師のような、神さまのために献身した働き人がほんとうにみこころにかなっているかどうかを判断する基準は、いろいろありますが、最優先の基準とすべきものは、なんといっても聖書です。聖書の教えに明らかに反している言動をしているならば、その働き人は一見するとどんなに立派な業績を上げているようでも、みこころにかなった働き人と見なすわけにはいきません。
しかし、聖書を基準にする場合、もうひとつ注意しなければならないことがあります。それは、「そもそも基準とする聖書の解釈がふさわしくない場合」です。聖書にはふさわしい読み方、解釈のしかたというものがあり、それは、長い教会の歴史の中で定まっているもので、だから私たちはたとえばアウグスティヌスですとか、カルヴァンですとか、スポルジョンですとか、歴史も国も民族もちがう人物の著書からも学ぶことができるわけです。
しかし、最近発生して猛威を振るっている異端、具体的には、教会に入り込んで信徒を奪い取っていくようなタイプの勢力は、かなり変わった聖書解釈をします。長い歴史の中で世界中で踏襲されてきたキリスト教会における聖書解釈の流れからは、まったく発生することなどありえない読み方で信徒を籠絡し、自分たちの陣営に引き入れるわけです。最後には唯一の救い主、イエスさまの十字架の贖いを否定するところまでマインドコントロールされてしまいます。
だからこそ私たちはふさわしい聖書解釈を身につけておく必要があるわけで、現在、礼拝の最後に祝祷のあとで「バプテスト教理問答書」から学んでいるのは、そのような伝統的かつ健全な聖書解釈を私たちが自分のものにする必要があるからです。毎週必ずこの時間を持ちますが、どうか面倒だとか退屈だとか思わないで、しっかり学んでいただければと思います。
さて、本文に戻りますが、彼らが根拠としたみことばは、申命記24章1節から4節のみことばです。しかし、この箇所は一読してみればわかりますが、離婚というもの一般について神さまは容認しておられる、と言い切るには、無理があるのがわかるはずです。モーセのことばはかなり限定的であり、夫が妻を離別することそのものを許している、ということではありません。
ここから、パリサイ人たちがイエスさまに対してかけた罠が外れていきます。このみことばを用いようと、ヘロデがヘロディアの美貌をわがものにしようと最初の妻を捨ててヘロディアをめとったことなど、一切弁護できません。さしものパリサイ人も、こういうことを言ってしまっては、これがヘロデを弁護するみことばになりえないことを、自ら認めたようなものです。イエスさまを葬り去るためならばヘロデ党とも組み、ヘロデの側に立つこともいとわないパリサイ人は、こうしてまず、策士策に溺れるような結果となりました。
それでも、パリサイ人たちは、聖書の律法は離婚を認めている、という、その一点によって、イエスさまを糾弾する方向にかけているかのように見えます。実際、妻を離縁することは許されているではないか、さあ、それなのに、あなたは「離婚は許されない」などと言うのか? 彼らはこんどは、イエスさまの教えは律法に反しているのではないか、という点で攻撃の機会を得ようとしました。
パリサイ人のこの答えに対して、イエスさまはしかし、そのみことばのふさわしい解釈をお示しになりました。まずは5節です。……つまり、人とは神さまの教えを守り行うべき存在なのに、守り行いたくない肉の思いを優先させることおびただしい、実に頑なな存在、それは結婚という領域にも波及し、妻は姦淫を犯し、夫はそれを許せず、結局は離婚することで丸く収める、そうして、イスラエルの共同体を、彼らが神の民でありながらも罪人であるという、その頑なさを容認しつつも、神の民としての聖さの中に保たせるわけです。
本来ならば、姦淫の罪など犯すべきではありません。はっきり律法に規定されているとおりです。しかし、人は弱いので、悲しいことですが、よろめくということもありえます。それくらい人は頑なな罪人です。それでも、そういう人をあえて妻として迎え入れた、預言者ホセアの実例が、彼らパリサイ人にとっても大事な存在である、旧約聖書に登場します。しかし、なかなかそうはなれないくらい、人は愛のない、頑なな存在です。そんな神の民の秩序を守らせるためには、離婚もやむなしとして、民をきよさの中にとどめるしかなかったのでした。
しかしここでイエスさまは、画期的なことをおっしゃいます。いえ、画期的というよりも、そもそも神さまは人をどのような存在としておつくりになったのか、ということをおっしゃいます。原点に返らせたわけです。6節から9節のみことばです。
まず、人という存在は、男と女に創造されている、ということ、そして、そのひとりの男とひとりの女は、父と母を離れ、愛し合うべく夫婦として一体となること、それはふたりではなく、ひとりになることである、ということ、そのように、ひとりの男とひとりの女を一体、ひとりに結び合わせるのは、神さまである、だからだれも、この存在を引き離してはならない、と教えてくださいます。
これが、イエスさまの教えてくださった、夫婦という存在に対するお答えです。結論として、離婚はいけない、それは、それが神さまのみこころだから、ということを、きちんと説明してくださいました。もしそれでパリサイ人がヘロデに言いつけるようでしたら、悪いのは聖書をちゃんと理解していないパリサイ人、ということになります。
さらに、パリサイ人たちが去ったのち、イエスさまはさらに高い次元の教えを弟子たちにお語りになりました。11節、12節です。
本来、結婚するということは、ここまでの純潔を互いに対して約束することである、二夫(二婦)にまみえる、ということは、姦淫である、ということを語ります。このメカニズムをまず11節から見ますと、男性の場合、妻を離別して別の妻と結婚した場合、それはその男性が姦淫を犯していることになるのだとイエスさまはおっしゃいますが、その姦淫の対象が、現在結婚している妻ではなく、かつて婚姻関係にあった女性であることに注意が必要です。つまり、いま仮に婚姻の状態にある女性、つまり奥さんともし別れたとしたら、その奥さんはなんと、姦淫の罪を犯した相手になりえる、もし別の女性と結婚してしまったら、ということです。もし旦那さんがちゃんとしていなかったら、いまの奥さんが自分にとって未来の姦淫の相手と、神の目に見なされるようになるしれない、なんと恐ろしい警告でしょうか。そう考えると、男性はやすやすと、浮気や不倫のたぐいなど考えることなどできないはずです。いまの奥さんが神さまの結び合わせてくださった人、そう信じ受け入れることが何よりも大事になります。これは信仰の問題、神さまと自分との関係の問題です。
イエスさまがこのようなことをおっしゃることができるのは、イエスさまこそが教会に対するまことの花婿だからです。イエスさまは花嫁なる教会を、ご自身の血潮によって買い取ってくださいました。もし人が、イエスさまの十字架によって罪赦され、神の怒りとさばきから救われると信じ受け入れるならば、人はキリストの花嫁として、教会というキリストのからだなる共同体に入れられる資格を得ます。そうして、バプテスマをもって教会の一員となり、主の晩さんにつねに与りながら教会の一員としてともに信仰告白し、やがて再びこの地に来られるイエスさまを花婿としてお迎えできるように、日々待ち望みます。
しかし、イエスさまはここで、女性の側の責任も問われます。妻は女性である以上、一般的に当時のユダヤにおいては社会的には弱い立場にありましたが、だからといってみこころにかなわない行動をしたならばそれが免責されるわけではありません。申命記の該当する箇所によれば、夫が妻を離別してその妻が別の男の人に嫁いだ場合、について扱っていますが、このケースは逆に、妻が夫から去る場合です。そして、さらに別の男性に嫁いだならば、ということで、その場合、それは姦淫である、とイエスさまはおっしゃっています。
「離婚」ということに対するイエスさまのお考えは、かくも厳しいものです。ただし、補足して説明しますと、イエスさまは無条件に、離婚は一切いけない、とおっしゃっているわけではありません。マタイの福音書の19章、1節からのみことばは、本日の箇所の内容が別の視点から語られていますが、その箇所においては、夫のことのみが語られています。夫たる者が妻を離別するならば姦淫を犯すのである、とイエスさまはお語りになり、そのあまりの厳しさに弟子たちは、「もし妻に対する夫の立場がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」と答えています。しかしイエスさまはそれを戒め、結婚しない男性は生まれつきそのようになっている人か、神さまに献身することを独身を貫くという形で実践するつもりの人にかぎられ、そうではない男性は結婚することがふさわしいとほのめかされました。
それともうひとつのこと、それは、離婚が許されるケースとして、「不貞」ということを挙げられました。逆に言えば「不貞」以外の理由で離婚することは姦淫につながるという厳しいメッセージですが、つまりそれだけ、「不貞」ということは特別に、厳しく取り扱われるべきものである、ということです。
不貞はなぜそれほど厳しくさばかれるべきことなのでしょうか? それは、その不貞という行為は、神さまの結び合わされた配偶者を裏切る罪深い行為であり、弁護の余地がないからです。キリスト教会においては、夫婦のどちらかが姦淫の罪を犯したという理由で離婚に至った場合、潔白な側は再婚することが許される習わしとなっていますが、それはイエスさまの、このみことばが根拠となっています。
さて、結論とするには極めて壮大な話なのですが、キリストが花婿であり、教会が花嫁であるという聖書のみことばに照らせば、男性とはキリストの象徴であり、女性とは教会の象徴です。男女が先に存在して、それによって聖書はキリストと教会の愛し合う関係を説明しているわけではありません。教会とキリストの愛し合う関係が存在することを前提に、男女の関係、夫婦の関係を見るべきです。
姦淫がなぜいけないのかは、ここから説明できます。キリストは決して教会をお見捨てにならない、絶対的な愛を注いでくださるお方です。教会はキリストのその絶対的な愛によって、完全にきよいものとしていただきました。その両者が愛し合う関係には、何の雑なものも入り込む余地がありません。
夫婦の相愛関係とは、キリストと教会とのその相愛関係を象徴するゆえ、そのように愛し合うように、神さまは旦那さんと奥さんを召されました。その相愛関係を壊すことが姦淫なのです。イエスさまは教会をお見捨てになりません。教会はイエスさま以外に主はいません。同じように、夫は妻を愛し、妻は夫に従うことによって、夫を愛します。その、お互い以外のだれかに肉欲をいだき、その感情の赴くままに別の人のもとにいくなら、それはキリストと教会の相愛関係の象徴であることを自ら捨てたことになります。
しかし、それだけに、私たちはイエスさまの愛を思う必要があります。先ほども申しました旧約の預言者、ホセアは、新約式に名乗るとイエスであり、イエスさまの象徴というべき人物です。その彼が、姦淫の妻を許して受け入れたということを見て、私たちは何をメッセージとして受け取るべきでしょうか。それは、たとえ自分がコキュになっても、相手を無条件に受け入れなさい、ということでしょうか。そうではありません。イエスさまさえ、姦淫は離婚の理由にしていいことをおっしゃっています。もちろん、不倫生活を清算した人をもとの配偶者が許して受け入れた、というケースを、私はいくつか知っていますし、それができる人は立派だとは思いますが、だれもが無条件にそうすべきかというと、それは簡単な問題ではありません。
私たちがホセアのエピソードから学ぶべきことは、キリストと教会の相愛関係から除かれるほどの罪をいまもなお犯しつづけるような私たちのことを、イエスさまはなおも赦し、受け入れてくださっているということ、だから私たちは罪を犯したことに気づかされたならば、迷わずイエスさまのもとに行くべきだということです。まさに、離縁して当然の妻を受け入れたホセアの姿は、イエスさまの御姿を映しています。
使徒パウロは、すべての罪はからだの外に対して犯すものであるが、姦淫にかぎっては、からだに対して犯すものであると語りました。それほど、姦淫というものは、神さまの結び合わされたひとつのからだなる夫婦、キリストと教会の相愛関係のまたとない象徴を破壊する罪です。だからこそ私たちは、すべからく姦淫の罪を避けるべきなのです。
しかしここで、ひとつフォローしますと、姦淫の罪とは、心の中で犯したものまで含む、とイエスさまはおっしゃっています。配偶者以外の人に肉欲をいだくことそのものが、たとえ実際の行為に及ばなくても、姦淫の罪であるわけです。そうなりますと、いったい私たちは無事で済むでしょうか。厳密に言うと、街ですれ違う人に目を奪われて、その後その人のことが頭から離れなくなってもアウトです。そのようなことまで神さまがおさばきになるのが本来のみこころです。まったく耐えられません。
しかし、そのような真っ赤な緋のような罪も、雪のように白くしてくださるのが、イエスさまの十字架の血潮です。今日は特に、教会の中に、まことの結婚に象徴される純潔、ウェディング・ドレスのごとききよさが保たれるように、日本の、世界の教会のために、お祈りいただけたらと存じます。